ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

アヒル君

2006-04-30 07:45:26 | Weblog
昨日、4歳の孫のところに行った。
午後、その孫がアヒルのいる池に行きたいというので、家内と3人で出かけた。
孫の母(娘)が出かけにアヒルの餌としてパンの切れ端を2枚もたせた。
池は野球のグランドほどの大きさで葦が生えていたり、散策用の橋があったりして、観光化されていない素朴なもので、そこにアヒルが二匹と鴨が一羽泳いでいた。よく見ると亀も鯉もフナもいたようだ。
孫が餌を投げるとそれらが回りに集まってきて孫は大喜びしていた。
手持ちのパンを投げ終わったころ近所のおじいさんであろう、その人が又パンを持って表れた。
それを見た孫は『おじいさん、アヒル君にパンをもて来てくれて有難う』といった。
そのおじいさんは此処でアヒルの餌付けをしていたに違いない。
彼もきっと対応に困ったと思う。
孫はアヒルと仲良しなことを自負しているので、此処のアヒルも自分のことのように考えていたに違いない。

「アメリカの鏡・日本」

2006-04-25 11:59:35 | Weblog
ブログ「反日ワクチン」に触発されてヘレン・ミアーズ女史の「アメリカの鏡・日本」という本を読んだ。実に良い本だった。
彼女は対日占領軍GHQの労働局諮問委員会の一人として来日し、終戦直後の日本の現状から、日本がなぜあの戦争にはまり込んでいったのかを考えたに違いない。
そしてよくよく日本の置かれた立場を見てみると、遅れた日本が近代化する過程で、西洋列強が日本に対して教え込んだことを素直にトレースした結果であったことに気がついたわけである。
日本の近代化を促進するに付いては、アメリカも大きくかかわっていたわけで、その結果としてパールハーバーに行き着いたという結論を導き出したのである。
すなわちヘレン・ミアーズ女史は、対日戦に勝って日本を占領支配しているそのアメリカを正面から批判しているわけで、占領中は日本で日の目を見ることはないだろうといわれるのも無理からぬことである。
まさしくここに述べられていることは日本の近代の正史、正しくて、素直な、偏りのない日本の近代の歴史である。
勝った側の驕りというものが全くない公平な視点だと思う。
あの戦争で我々は完璧なまでに敗北を喫したので、結果的には勝った側が勝者の論理で戦争を仕掛けた側を犯罪者として裁いたが、このことの不合理、不条理、裁判の不整合性というものは当初から問題にされていた。
ところがその問題は、我々の側からは占領下という状況のもとで問題提起できなかったわけで、占領が終わるまで口を閉ざさざるを得なかった。
その間に、我々の側では例の自虐史観というものが広範に行きわたってしまって、我々は戦争に負けたのだから弁解がましいことはいうべきでなく、勝者の言う論旨を真摯に反省すべきだという感情が国民の中に蔓延してしまった。
そういう人たちが今この本を読んだらいかなる感想を持つのであろう。
この本が縷々述べていることを勘案してみると、太平洋戦争、大東亜戦争というのは、突き詰めると中国問題ではなかったかと思われる。
明治維新で文明開化を目指した我々は、西洋列強を師と仰ぎ、その師を見習い、その教えを忠実に吸収し、自分のものにしたので、それを実践に移した途端に、師と思っていた西洋列強から袋叩きにあった。
この事実は、人間の自然のあり方として当然共鳴しあう部分があるし、普遍的な人間性の表れでもあるように思う。
師として、何でも素直に教えを請うている間は「憂い奴じゃ!!」と寛容に構えておれるが、弟子が師を乗り越えそうになると、先生としても心中穏やかではなくなるのも当然だと思う。
それと合わせて、西洋先進国の首脳の中には人種差別意識が歴然と表れていると思う。
白色人種優越主義とでもういうようなものの考え方が見え隠れしていると思う。
西洋列強、つまりヨーロッパの人々から見れば、アジアの黄色人種というのはどこからどう見ても野蛮人にしか見えなかったに違いない。
その野蛮人の中でも、日本人だけが白人たちを凌駕する知識と才能と技量をもっていたので、彼らは「日本人だけは芽のうちに叩いておかなければならない」と思っていたに違いない。
それが現実の政治、外交として具体的に表面化したのがパワーポリテックという帝国主義そのもので、いわゆる強いもの勝ちの世界の現出であったわけである。
帝国主義というのは、このパワーポリテックでもって維持されていたわけで、その富の草刈場が当時、昭和初期の時代には中国であった。
日本があの戦争に嵌りこまざるを得ない状況に陥ったのも、中国での日本のパワーポリテックと、中国に利権、植民地、租界を持っていた西洋列強のパワーポリテックとの衝突であった。
西洋列強から中国を見れば、その地の住民は野蛮人で、それは同時に国益と称する利権や富の草刈場であったわけだが、日本の立場はそれ程露骨なものではなかったにもかかわらず、その理念は誰からも信用されていなかったことも事実だと思う。
中国人からすれば、紅毛碧眼の西洋人に支配されるのは天命として諦めが付くかもしれないが、夷狄の日本人が自分たちの上にくることは我慢ならないという感情があったに違いない。
韓国などは西洋列強からすれば植民地としての値打ちもなかったわけで、だからこそ日本の韓国併合もあっさり承認されたわけである。
ところが日本は中国領の遼東半島を統治しようとすると此処は西洋列強の利権の草刈場であったものだから3国干渉で日本の統治が許されなかったのである。
西洋列強もお互いに帝国主義でありながら、こと日本に対応するときになると彼らも一致団結したわけである。
ここにミアーズ女史の言う、アメリカが勝者として日本に君臨することは、日本が中国でしたことと同じではないのかという問いに行き着くのである。
これは同時に人種差別主義と捉えなければならないと思う。
ミアーズ女史はそのところに鋭い視点を差し込んでいるので、マッカアサーが一番人に読ませたくないと思っていた文書ということもうなずける。
日本の近代の正史を旧敵国の女性が出版するということは、日本のインテリたちは一体何をしていたのであろう。
知識人としての面目丸つぶれではないか。

映画「トップガン」

2006-04-24 23:40:12 | Weblog
24日NHK BSで「トップガン」を放映していた。既にビデオで録画もしてあり、アメリカ版の言語によるテープももっており、私の「シネマサロン」にもアップしているが、何時見ても、何度見てもいい映画だ。
まさしく血湧き、肉踊る雰囲気に浸ってしまう。
これは私が好戦的な人間だからというわけではない。
私は基本的には平和愛好者であり、愛国者ペトリオットであるからして、現実を直視しているからこそ、こういうものに心惹かれるのである。
平和を維持するということは不断のこういう努力の上に成り立っているわけで、平和、平和と念仏を唱えるだけでは決して平和は維持されないからである。
平和を維持するということは、ただではありえないわけで、国力にあった投資をして作り上げなければならないのである。
その過程において現代ならば最先端の科学的な機器を縦横無尽に酷使する能力と技量を常に磨き上げなければならない。
そのことは同時に、どの国でも、どんな社会体制でも、どんな軍隊でも、若者の世界であり、若者の使命である。
50、60のオッサンや年寄りの出る幕ではない。
若者に技量を磨かせるにはお互いに競争させるほかないわけで、仲間がお互いの技量を競うことで錬度が増し、それが間接的に国益につながるのである。
飛行機の世界というのは誕生して100年足らずの間に素晴らしい進化を遂げ、それは戦争の手段としても有効に機能してきたので、それがため我々の国はその被害も甚大なものがあったことは承知しているが、それは過去のことであって、その恨みを50年後にアメリカにお返ししなければならないのではないかと思っている。
空の戦いというのはパイロット一人では出来ないわけで、パイロットを支える大勢の人の支援、システマチックな支援体制があって始めて可能なわけで、私はこの映画のヒーローではなく、空母の上でこの支援活動をしている人々に限りない同情を寄せたい。
先の戦争では我々の同胞も実によく戦ったと思っている。
現場は実によく戦ったが、問題は組織のトップの資質に帰着する。
現場がいくら一生懸命でもトップの施策、作戦がだめならば現場の努力も水の泡であった。
この映画の中の台詞でも出ていたが、「現場は言われたことをするだけだが、それを決めるのは政府のお偉方だ」という文句は実にリアリズムに富んでいると思う。
結局のところ「戦争は政治の一形態である」ということは至言であって、全くその通りだと思う。
若者がこういう組織の中で規則に拘束され、わがままを押さえつけられるということは、その人の人間形成には大きく貢献するものと考える。
我々は、戦後の民主主義でルールに縛られ、規則や因習、習慣に拘束されることは悪いことだと教え込まれてきたが、民主主義というのは積極的にそれに従うことが前提で成り立っていると思う。ところが、問題はその規則の中身だと思う。この中身が日本とアメリカでは相当違うようだ。
しかし、この映画で不思議でならないのはF-14で本当にドッグファイトなどが必要なのだろうかということである。
ドッグファイトが空中戦の基本だとは思うが、150マイルも先の見えるレーダーを持ちながらなおかつドッグファイトを訓練するというのは私にとっては考えられないことだ。
現代の戦闘機はガン、ミサイル、ロケットと装備していながら、なおドッグファイトをするというのはどうも解せない。
ドッグファイトというのは戦闘機の兵装がガンだけのときの戦法ではないのだろうか。私の認識不足なのであろうか。
又女性教官チャーリーとのラブロマンスというのも蛇足のように思えるが、これも映画興行の一環なのだろうか。

しだれ桜

2006-04-20 06:50:27 | Weblog
今年の花見は特に行楽に出かけたわけではないが、車で出かけた折に桜の並木を遠望することで済ませてしまった。
それで昨日、中途半端な時間が出来たので、近くの東谷山(高蔵寺)の名古屋市フルーツパークなる植物園に行ってみた。
此処はしだれ桜で有名であった。
で、このしだれ桜が満開であった。
平日なので来ている人は大方定年を迎えた人か、主婦の集団であったが、それぞれに満開のしだれ桜を堪能していたようだ。

草刈

2006-04-19 10:12:59 | Weblog
我が家の椿

昨日、家の周りの草を刈った。
またまた気候がよくなると同時に雑草との戦いが始まる。
今時の草刈りというのは昔のように鎌一丁あれば事足りるというわけではないので、それなりに大変である。
まず草刈り機の燃料のことから考えねばならず、以前ならポリタンクを持っていけば、安易に売ってくれたが、近頃では鋼鉄製のタンクでなければだめだと難しいことを言う。
燃料の心配の次は替え刃のことを考えなければならない。
刈り終ったら散らかった後始末もせねばならず結構面倒なものである。
世の中だんだんと窮屈になったものだ。
ごみの分別だとか環境だとか、奇麗事を並べては、だんだん自分の首を絞めているようなものだ。

回転すし

2006-04-16 10:21:24 | Weblog
無題

昨日、孫のところに行って来た。
4歳の孫がスイミングスクールに通うようになったので、見に来てくれと娘から要望があったので出かけてみたが、夕刻、孫の要望で「元気寿司」という回転すし屋に行った。
孫がしきりにこのすし屋のことを言うものだから連れて行ってみたが、ごくありふれた回転すしであった。
ところが孫がなぜこのすし屋にこだわったのか不思議でならない。
推察するに、幼稚園の送り迎えのバスの中で、きっと仲間内でその話題が出たのではないかと考えた。
きっと、仲間の話しのなかで興味を引かれ、自分も一度は体験したいとおもっていたに違いない。実に喜んでいた。
帰り際に、「今日は楽しかったね」と誰に言うともなくいっていたので可愛いもんだ。
じじばば冥利に尽きる。

博士の愛した数式

2006-04-13 06:54:15 | Weblog
家内が誰かからもらってきた本がリビングの中に落ちていた。
「博士の愛した数式」という本であった。
2、3日前に体調を崩してベットの中で寝ていた、それで眠くもないのに横になっているのももったいないと思って、寝ながらこの本を読んでみた。
実に不思議な小説であった。
いったい何が書いてあるのだろう、と思って読み進んでいくとこれが結構面白い。
数学の数式をこういう形で小説の中に取り込むという発想は、どこから来ているのであろう。
読み進んでいくうちに回りの人間の輪郭がほのぼのと浮き上がってくるという手法も立派なもんだと思う。
この本は「本屋さん大賞」ということであるが、だとしたら日本の権威ある文学賞の存在意義が全く問われるのではなかろうか。
大衆の喜ぶものと、文学者が賞賛するものでは違いが有るというのは一理あるように思えるが、これがすなわち思い込みだと私は思う。
大衆は素直に目の前の作品に感動するが、権威ある文学者が、大衆と同じように感動していては、文学者として威厳、権威がまるつぶれになるわけで、何を言いたいかわかったようなわからないような意味不明の作品に、さももっともらしい文言をつけて批評するからこそ彼らの権威が維持されているわけである。
こういう人たちが大衆と同じレベルで作品に感動していては権威が廃れてしまうということだ。
世にさまざまな文学賞があるが、その大部分は有る種の客寄せパンダだと思う。
文学界、出版界も生存競争の打ち勝たねば生きていけないわけで、その中で「今年の目玉商品はこれとこれにしよう」という風に客寄せパンダ的なものだと思う。
中身の文学性などというものは二の次で、とにかく話題性を沸騰させて、売らんかなという手練手管の結果としてああいう様々な賞があるのではないかと思う
受賞作品に本当に文学性があるとしたら、その作品は味も素っ気もないものになるだろうと思う。書く人が普通のモラルを持っているとすれば、その作品は本人のモラルの枠を大きくはみ出ることはなく、ということは面白くない作品になってしまうと思う。
書いている人がアンチモラルを思考しているから、モラルとアンチモラルの綱引きの部分で多少とも面白いと思われそうな作品が出来上がると思う。
昨今の文学作品というのは、そのほとんどが不倫とか、離婚とか、浮気だとか、未婚の母だとか、社会悪を暴くという表現で汚職とか、収賄とか、アンチモラルのものばかりではないか。
これは作品を書く人の責任というよりも、それを選考する人の責任だと思う。
これは文学者や出版界の知的マスタベーション以外の何者でもない。

ネギの植え付け

2006-04-10 08:48:05 | Weblog
無題

昨日、9日には午前中ネギの苗を畑に植えた。
怠け者の私のことだからそうたいして収穫は期待していないが、目の前が畑ということは必要なときにいつでも採れるという点でありがたいことだ。
ところがネギに限らず、必要なときに作物を採りに行かされるのは決まって私だ。
目の前が畑なのだから自分で必要なだけ採ってくればよさそうなのに、いつも私を使う。
作業が終わって、つらつら自分の畑を眺めていると、どういうわけか「チャングムの誓い」というテレビドラマを思い出した。
昨年の韓流ブームの影響でもなかろうが、このドラマは面白かった。
特に、食材に関する薀蓄の部分が非常に面白く、その部分だけでも覚えておきたいと思ったが、テレビの前で見ているだけでは一向に記憶として残っていない。
やはり我々オールドボーイは活字でないことには記憶として残らないようだ。

黄砂

2006-04-09 07:58:42 | Weblog
庭先の春

昨日、8日午後から家内と土岐市にあるアウトレットモールに出かけてみた。
近くにありながらまだ一度も行ったことが無かったので、どんなところかという好奇心で出かけた。
途中、前方に見える山々が薄曇りというか、埃をかぶったように見えたので、家内と「これは黄砂ではなかろうか?」と話し合ったものだ。
で、家に帰り、テレビを何気なく眺めていると民放の天気状況では「今年初めての黄砂だ」と報じていた。
ところが7時のNHKの天気状況では何一つそのことを報じていなかったが、こういうことでもNHKは中国に気兼ねしているのであろうか。

孫との遊戯

2006-04-08 10:10:59 | Weblog
我が家のささやかな春

昨日、7日には嫁いだ娘が孫二人を連れてやってきた。
4歳と1歳半の男の孫です。
この日は最高に天気がよかったので、広い公園で力いっぱい遊ばせてやった。
そろそろ疲れたであろうと思って家に帰り、今度は家の中で遊んだ。
両腕をいっぱい伸ばして、押し合いをして、急に力を抜くと孫たちは前のめりになるので、それがとても面白かったらしい。
最後にはこちらが大げさな格好で後ろにデングリ返ってやると、もうキャッキャと大喜びしていた。
最後に、誰に言うともなく「今日はお面白かった!!」とつぶやくのを聞いてこちらまで愉快になった。