ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

NHK BS2「民衆が語る中国激動の時代」

2007-02-02 10:46:44 | Weblog
「異境」という本を読んで、文革のことについて考えていた矢先、NHK BS2の「民衆が語る中国激動の時代」という番組で文革のことを報じていた。
この番組の中で、それぞれに語っている民衆というのは、年齢はともに60歳代で、文革を身をもって体験してきた世代の人たちである。
被害者として、または加害者として、はたまた加害者であったものがあるときからいきなり被害者の側に身を転じたりと、さまざま身の処し方をそれぞれに語っているが、結局のところこの番組を見終わっても文革とは一体なんであったのかということは分からずじまいであった。
ただ、この激動の時代を体験した人たちが60歳代に達しているということは、今の中国の実質的な指導者層は、この文化大革命を体験した人たちが担っているという現実である。
文革というのは、様々な書物が暴露しているように、貧乏な農民が貧乏なるがゆえに革命的英雄に祭り上げられ、無学な人間が無学なるがゆえに革命的英雄に祭り上げられ、教養や知性を持った人間は、それだからこそ走資派として弾圧されたわけで、これでは世界共通の認識が全く通用していないということである。
この地球上の普遍的な常識なら、教養をつみ、知性を磨き、理性と知識にあふれた人間に、自らの統治を委ねたほうが平穏な社会が出来るに違いない、という暗黙の了解があるはずであるが、この時代の中国ではそれが根底から否定されている。
人間の知性、理性、向上心、好奇心、伝統、過去の実績というものをすべて否定するわけで、生きた人間の思考として、こんな馬鹿な話はありえない。
これが国家の最高指導者・毛沢東の指示だったというのだから驚く。
この時点で、毛沢東は完全に現人神になって、年端もいかない餓鬼連中から崇め奉られて好い気になっているわけで、それは我々が経験した戦時中の軍国主義の有り体と全く同じ轍を歩んでいるということだ。
そのことについてはすでに述べているが、毛沢東が間違った指示を次から次に出して、それを検証したり、懐疑したり、その結果を考察するものはすべて走資派とし、反革命分子として弾圧するということは、完全にこの時点で人間の理性が止まってしまったということだ。
それが法によってなされたのであればまだ納得できる部分があるが、年端もいかない中学生や高校生、大学生によって、なんら法的根拠もないまま無頼の輩に類したものが、自分達の仲間をいじめ抜いたり、他校のグループと武力抗争をするような状況が、人間の倫理として許されるわけがないではないか。
私が不思議に思うのは、この文革の嵐が終焉した後で、そのゆり戻しが全く見当たらないということである。
確かに、紅青女史を含む4人組は粛清されたが、文革の中で無学なるがゆえに革命的英雄になったような人たちは、その後引き下ろされたかどうかという点である。
このテレビに登場して語っている人たちは、全く罪の意識もなく、まさに転変地変のような他人事のように語っているが、普通の倫理観を持った人間ならば、そんな語り口はないと思う。
少なくとも、罪の意識にさいなまれてテレビカメラの前で自らの行為をしゃべることは出来ないはずだと思う。
被害者の側は、そのときに受けた屈辱で、自らの命を自ら絶った人も大勢いたに違いなく、そういう人は語ろうにも語れないわけで、ここで語っている人は、文革を生き抜いたというだけで大なり小なり加害者の側に身をおいていたといわなければならない。
先に、軍や治安機関は何をしていたのかという疑問を呈したが、このテレビを見た限り、軍や治安機関はわざと無知な民衆のなすがままにしていた節がうかがえる。
うがった言い方をすれば、毛沢東が軍や治安機関の出動を抑えていた節がある。
つまり、毛沢東は故意に、国民、民衆、社会の中に、混乱、擾乱を作り出しておいて、それを利用することによって自分の保身、権力の集中を強固にしたと考えられる。
文革が若い世代の無軌道、無節操で推し進められ、社会が大混乱に陥っても、彼はそれを人事のように見ていたわけで、自分の権威さえ維持できれば、それで由と考えていたにちがいない。
これは指導者としての毛沢東の知的老衰、理性の退化、頭脳の老化現象ではなかったかと思う。
それは同時に5千年とも4千年とも言われる中国の歴史の繰り返しに過ぎなかった。
中国の歴史というのは、こういうことが今までに連綿と繰り替えされてきたわけで、たまたま20世紀においては、そのエネルギーに共産主義、あるいはマルクス主義というのが介在していただけのことで、基本的には過去の中国の歴史の繰り返しに過ぎないということがいえる。
中国の中では、過去の歴史の繰り返しであったとしても、今日という地球上では、それぞれに主権国家が存立しているわけで、この中国大陸の中の人々の変動が外に多大な影響を及ぼすということを考えなければならない。
小泉首相の靖国神社参詣にクレームをつける、という中国側の思考は、あの文化大革命のときに知識人に走資派というレッテルを貼ったときの思考と全く同じであって、ただただ根も葉もない言いがかりにすぎず、こちらの事情をなんら考慮することなく、自分たちの思い込みの言い分を声高に叫んでいるだけではないか。
相手の言ったことに対して我々の側が敏感に反応するから、相手にしてみれば「それ見たことか、我々の言ったことは正しいではないか」という相手の論理に引き込まれてしまうのである。
自分の言い分を大きな声で叫び続け、回りのものに自分の整合性を訴える術というのは、中国人が古来から持っている国民性、ないしは民族性なわけで、文革の中でも、何ら整合性がないことでも、大きな声で相手を非難中傷すれば、大衆はそれに迎合するのである。大きな声で叫んで大衆を自分のほうに迎合させれば、大きな声で叫んだ人の勝ちになるわけで、非難されたほうは、何も理由がなくとも悪人に仕立てられてしまう。
このあたりの描写は「ワイルド・スワン」でも「異境」でも見事に描かれている。
靖国神社にA級戦犯が合祀されていようがいまいが、それは我々の側の問題であって、我々の側の御霊に、その国の首脳が参詣することに異議をさしはさむというのは、国際間の倫理上なんら問題がないにも拘らず、それを外交上の切り札にしてくるということは、文化大革命のときに紅衛兵が無辜の人を貶めたときの構図と全く同じではないか。
なんら整合性のないことでも、大声で叫び続けていると、それを聞いた回りのものがかかわりを避けるために少しでも追従すると、それが整合性を帯びてしまうわけで、非難中傷された側は悪人に仕立てられてしまう。
文化大革命の中の被害者加害者の関係はこうして成り立っていたのではなかろうか。
このときの状況を鑑みると、現在の中国の首脳部にはあの文化大革命のときに紅衛兵として中国人同胞を数限りなく窮地に貶めた面々が居残っているのではないかと思う。