ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「ブログ・世界を変える個人メディア」

2011-07-30 12:31:49 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「ブログ・世界を変える個人メディア」という本を読んだ。
アメリカ人の書いたものを翻訳した作品であるが、まさしく重厚長大な読み物で、読み通すのにいささか苦労した。
その言わんとするところは、ブログというものがこの世の出現したことによって、個人レベルでも情報発信が可能になったということであるが、ブログというのはそういう要因を内蔵したツールであることは間違いない。
であるからこそ、21世紀においては、個人で発信できるツールが過去の巨大なメディアとしてのジャーナリズムと、どういう関係になるのかということを説こうとしている。
19世紀から20世紀のジャーナリズムは、一方的な情報の発信者とその受け手という対立軸でジャーナリズムが成り立っていたが、21世紀においては、個人としてのメディアが、それぞれに情報を発信するようになると、世の中はどうなるのかという点を追求しようとしている。
そこでジャーナリズムの原点が再確認されることになるわけで、ブログというのは、そのジャーナリズムを形作るツールでしかない。
そもそも人が他者に何かを伝えたい、というのは人としての根本的な欲求なのかもしれない。
原始時代の人間でも、洞窟の壁に絵を描いていたわけで、その絵は何のために誰がどういう意図で描いたものなのであろう。
ただただ、あり余る暇つぶしの手慰みに絵を描いたとも思えない。
やはり自分たち、自分の仲間、人間の集団として人々がこの辺りにいたよ、ということを他者に知らせたかったのではなかろうか。
それとも自分たちが、ある時この場にいたよ、ということを他者、あるいは後世に伝えたかったのだろうか。
この原始社会の態様の相異で、絵でコミニュケーションを計るものや、文字でコミニュケーションを計るものや、そういう記録ではなく言葉の伝承としてのコミニュケーションを計る様々なスタイルがあったに違いない。
自分の考えを他者に伝えるということは、その事自体が既にジャーナリズムを成しているように思える。
日本の江戸時代の瓦版も、完全にジャーナリズムの体をなしているが、その内容は、いわゆる為政者批判から巷のローカルな出来事まで、まさしく今日のメディアの内容とそっくりそのままのものであったようだ。
為政者が何を考え、庶民が日々如何なる生業をしているか、ということを広く知らしめる行為は、ジャーナリズムの基本であろうが、それを知らしめることによって、銭を得るとなるとこれが完全にメディアの論理になるのである。
瓦版でも、ただ面白おかしく伝えるだけでは銭にならないわけで、それを他者に買わせなければ、版元の利益は生まれない。
だからメディアというのは売らんがための様々な工夫が成されるわけで、そこで知らされる報道というのは、必ずしも真実ではないということになる。
まさしく新聞の原点が瓦版に見られるわけで、そういうメディアに群がる庶民は、何も最初から真実を追い求めて瓦版を購入するのではなく、それを売らんがための口上や、その内容の新奇さに惹かれて銭を払うわけで、それ自体がエンターテイメントに成り切ってしまっているのである。
いわば、覗き趣味と同じなわけで、垣根の向こう側では何が起きているのだろうか、ということを板塀の節穴から覗いて、その穴を通して見えたものは自分だけのものであるが故に、余計に人の言いふらしたくなるのである。
それをメディア界の用語でいえば『特ダネ』という言葉で言い表されているが、庶民は庶民でそれぞれに、板塀の向こう側では何が行われているだろう、ということに興味津々であることは論をまたない。
板塀の向こう側とこちら側というのは、要するに、統治する側とされる側という立場の相異が介在しているわけで、統治する側にも統治の都合上、庶民に知らしめておきたい様々な規則があるので、それは近代国家であれば広報という形で、あるいは官報という型で庶民にまで達せられる。
ところが、統治者の出す広報あるいは官報というのは、統治の都合上の手練手管なわけで、統治される側としては面白くも可笑しくもない。
だから、誰も関心を示さないわけで、それはまさしく生きた人間の普遍的な思考だと思う。
ところが、板塀の節穴から向こう側を覗き見た人にとっては、塀の向こう側で行われていることが非常に興味深いことなので、それを皆に知らしめたいと思っても、今迄の在り方では安易な振る舞いでは行い得ず、非常に大変な作業であったわけである。
瓦版を例にとっても、それこそ取材の段階から、原稿を書き、それを版木に彫って印刷して、配布するという一連の作業は、組織的に人海戦術でこなさなければ成り立たないわけで、今日までのメディア界はその状態が続いてきたが、これがブログの登場によって一気に状況が変わってしまったわけだ。
ブログという個人的なメディアの出現によって、個人が巨大新聞社や巨大テレビ局と同じことをすることが可能になったということだ。
メディアの存在意義は、報道することによって金を得る、銭を儲けるという行為が付きまとっているわけで、資本主義体制の社会では、ただ真実を報道するだけでは金儲けに繋がらない。
だから、その報道の隙間に広告を流して、その広告収入によって銭儲けをしているのである。
金儲けをしなくてもいい報道は、どうしても国・公共の運営ということになるが、そうであるならば、当然のこと、為政者の都合によって内容が左右されるということは必然的な流れである。
ブログの出現によって、誰でも彼でも安易に情報発信できるということは、逆に言うと情報の洪水でもあるわけで、愚にもつかないどうでもいい情報の氾濫ということでもあり、良い面ばかりではない、ということも言える。
今は少し下火になっているが、例のウキリ―クスが様々な秘密情報をインターネット上に暴露する行為なども、諸手を挙げて歓迎すべきかどうかは非常に判断の難しいところだ。
メディアに携わる人たちは、統治者、為政者、政府、行政サイドの人を最初から悪人という認識で語りたがっているが、そんなバカな話はない。
こういう人たちも同じ人間である以上、日々、一生懸命、職務に忠実たらんと努力していても、ミスをしたり、失敗をしたり、判断を間違えたりすることはあるわけで、そういう場合は当然責任追及はあって当たり前だ。
しかし、存在そのものを否定ことは、論理的におかしなことで、統治者や為政者の立場としては、時と場合によって国民、市民、庶民に知らしめてはならないことが紛れ込むこともありうるはずである。
高度経済成長はなやかりし頃、行政が不用意に都市計画を漏らすと、それを不動産業者が地価高騰を見越して先行投資をして買い占めるということもあったし、あるいはインサイダー取引などということもあり、何でもかんでも情報を開示すればいいというものでもない。
原子力発電所を対象としたにテロ対策などという事柄も、一般に公開すべき事ではないわけで、ブラック・ボックスとしておくこと自体に抑止効果あるわけで、何でもかんでも公開すべきではない、ということは言うまでもない。
テロを行うかもしれない人間を取り調べるのに、公開の場ですれば、その容疑者は英雄にさえなりかねないし、その容疑者の奪還のために新たなテロが起きるかもしれないわけで、何でもかんでも公開すれば良いというものでもないはずである。
何かことが起きると、統治者や為政者、政府や行政に非難の渦が殺到するが、メディアの側には起きたことを予防する措置も手段も持ち合わせていないわけで、ただただ当事者の非をあげつらうのみで、そういう声を無責任に報道することによって、メディアの使命を尽くしたと思い違いをするところがある。
アメリカ軍がヘリの上からイラクの報道陣に銃撃を浴びせる映像を見せられると、アメリカ軍が如何にも悪いことをしているかのような印象を受けるが、一番悪いのはイラク人自身が自分たちの国をきちんと統治、治め、治安し切れていない点であって、彼ら自身がしっかりと自分の国を統治しておれば、アメリカ軍が出てくるまでもないではないか。
ウキリ―クスは、アメリカ軍がヘリの上からイラクの報道陣に銃撃を浴びせるところを放映して、アメリカ軍が如何に悪行を重ねているかを世界に向けて発信しているわけで、これは明らかに思惟的に仕組まれた情報操作だと思う。
情報操作も新たな戦争といえば戦争と言えるし、テロといえばテロとも言えるわけで、これは紛れもなく21世紀型のメディアの在り方としてはありうることだと思う。
ジャーナリズムというのは、形の変わって覗き趣味の延長であるが、自分しか知らない事柄を、誰かに知らせたいという欲求は、非常に快感を伴う行為で、今ではその方法に様々な手法が存在する。
本という形で活字でもって知らしめる方法、放送という形で声とか映像でもって知らしめる方法、そこに21世紀になるとインターネットという新しい媒体が出現したわけで、これによって自分の考えを世に知らしめる方法論は一段と進化した。
しかし、文化文明の進化というのは、言うまでもなく諸刃の刃であって、良い面もあればその裏側にはマイナス面も併せ持っている事を忘れてはならない。
先に述べたウキリ―クスの場合でも、統治者、為政者の側が秘密にしておきたいことを暴いてしまったわけで、ならばその行為は、その後の人々の生き様に何か益する影響を与えたかといえば、ただただ塀の節穴から中を覗いただけのことでしかない。
ただメディア界の人々の言い分によれば、その事によって政府の悪弊を是正させることが出来た、と言うであろうが、それはメディア界の手前味噌な評価でしかない。
この世の人は、誰でも自分たちの統治者や為政者をこき下ろしたとき、何らかの快感を覚えると思う。
今迄、自分たちの前で、威張り、ふんぞり返り、不遜な態度でいた連中の些細な瑕疵を指摘して、それを口実に全人格を否定するような悪口雑言を浴びせるとことは、気分的にスカーッとした爽快感を覚えると思うが、その部分がジャーナリズムのエンターテイメント性なのではなかろうか。
そのエンターテイメント性と覗き見趣味を合体させ、演出したのがメディアなわけで、メディアとしては、それを如何に金儲けに繋げるかが最大の問題であったろうと思う。
その金儲け集団としての規模拡大と、その規模拡大に伴う広告効果がセールスポイントとなって、巨大なマス・メディアの誕生ということになったものと想像する。
ところが、20世紀後半のマス・メデイアは、自らを『社会の木鐸』と自認するようになったが、これはメデイア側の大いなる驕りであって、自分たちの出自の卑しさをカモフラージュする常套句に過ぎない。
先にも述べたように、自分たちの選挙で選出した自分たちの為政者を、言論と活字でこき下ろす事は、得も言えぬ快感を覚えるわけで、自分たちでは権力側のアラを探し回って、ほんの些細な瑕疵でも見つけようものなら、天地がひっくり返るほどの大騒ぎを演じ、正義漢面をして下々のものに正義のなんたるかを説く訳であるが、こういう行為は実に見栄えが良く、格好よく見え、自負心に満ち、世の中を善導している気分に浸れるのである。
そういう振る舞いをしている本人も、そういう振る舞いを見せられている大衆も、それを演じている人たちを立派な人だと勘違いするのである。
昔から、日本でも世界でも、メディアに携わる人はインテリ・ヤクザという評価が定番になっているわけで、その事を忘れてはならない。
例のウキリ―クスでも、『社会の木鐸』を自負している部分が大いにあるわけで、体制側に従順になって体制批判をするな、という極端な言い方はあり得ないが、彼らの行為は普通の世の中の公序良俗に抵触するぎりぎりの線上にある。
そのことは、大きな意味で、国益との兼ね合いを内包している。
国益という表現よりもなお一層広範な内容を含んで、善良な人々の普通の生活を脅かすかも知れないテロ行為に、手を貸すことになるかも知れないではないか。
メディアに携わる人をインテリ・ヤクザという言い分の中には、こういう人たちが、自分の言ったことに対して一切責任を追わない、という面からもヤクザと呼称されるのであろう。
この場合の、ヤクザという言葉の定義は、普通の善良な人の常識が通用しない異星人の集合という意味であって、この部分に彼らが驕り高ぶっている部分があるのであって、普通の常識から浮き上がっている点である。
活字のメディアでも、言語のメディアでも、取材対象のほんの一部分のみを切り取って、それがさも全体であるかのように報じるので、受け取る側はその字句の通りに素直に受けとると、言った本人の意図とは逆の内容になってしまうこともある。
それでは発言した人の真意を伝えていないという意味で、メデイアは常に嘘の報道をして、その報道の中には真実はいささかも存在しない、という評価が定着しかねない。
そもそも自分の知っていることを人に伝えるということは、伝言ゲームと同じで、オリジナルの言葉がそのままの形で最後まで伝わるということはあり得ない。
意図するしないに関わらず、最初の言葉が最後までそのまま伝わることはあり得ないはずで、メディアの報ずることにもそれがそのまま生きていると思うが、物事は何が何でも真実でなければならないということもないように思う。
9・11事件や東日本大震災などというニュースは、映像を見ればそれが嘘でもなければ虚像でもないわけで、まさしく一目瞭然である。
ところが管直人首相が何時辞めるのか、という事柄は映像にはし切れないので、様々な憶測が飛び交っているが、これには真実も無ければ虚像も無いないわけで、あるのは憶測意外の何ものでもない。
メディアとしては、憶測だけでは紙面も埋められず、番組も成り立たないので、憶測に輪を掛けた未来予測をして、紙面ならびに穴の空いた時間帯を埋めねばならないのである。
ところが個人の発信するブログには、そういうむなしい努力をする必要は全くないわけで、金儲けが主体ではないので、ニュースがなければ沈黙していれば済むわけで、その部分が巨大メディアとは自から違っている。
ローカルな個人メデイアのブログでも、コマーシャルを入れることは可能なはずで、その意味で課金ということもあろうかと思う。
しかし、金にはならなくとも、自分の考えたことや、自分の思いを世界に向けて発信出来るということは、素晴らしいことだと思う。
確かに文明の利器という言葉の通りだ。
メディア、つまりジャーナリズムを発信するということは、やり方によっては大きな金儲けの手段にもなりうるが、金儲けということを考えなければ、個人で自分の好きなように好きな時間に好きなところで発信することが出来るということだ。
発信するコンテンツは、それこそその人の個性から導き出されるわけで、そこにその人の知性と理性と感性が如実に表現、あるいは実現できるのである。

「本当の日本語力もってますか」

2011-07-27 07:51:04 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「本当の日本語力もってますか」という本を読んだ。
著者は宮川俊彦という人だが私としてはなじみのない人だ。
本人はどうも作文指導をしている人のようであるが、本当の日本語力というよりも、日本語による表現力を高めようと試みているように見える。
学校の教育現場における日本の語の表現も大きな問題ではあろうが、私の個人的な思いとしては、日本のメデイアにおける日本語表現の問題もより大きな課題だと思う。
特に、テレビにおける若いタレントの言葉使いに注視すべきであるが、テレビの画面に登場するという意味から説かねばならないように思う。
すなわち「自分がその場に存在するだけでもTPOが必要だよ」というところから説き明かさねばならないように見える。
彼ら、若い人たちというのは、全ての人間が皆友達感覚で、皆平等だとでも思っている節があって、長幼の序を全く意に介さない風に見える。
人は皆友達でもいいのだが、「親しき仲にも礼儀あり」というように、友地には友達としての付き合い方というものがある筈で、それは目上の人や幼児の付き合い方とは自ずから違っているのが当然で、そこに身に振り方としてのTPOが必要になって来る。
これを別の言い方をすれば、「その場の空気を読む」ということになるわけで、それはそれなりに細かい心配りが必要ということでもある。
言葉の問題以前に、生活に対する心構えの問題が先にあるわけで、今時の若い人は、飢餓という概念そのもののイメージを知らないので、まことにアッケラカンとしているが、生きるということが如何にコミニケーションに支えられて存在しているのか、ということに思いが至っていない。
それはある意味で無理もない話で、今の若者は戦後の4世代目に当たるわけで、66年間も平和な中で暮らしてきたので、生きるということがこういう平和が未来永劫続くという仮定で生きているとしても何ら不思議ではない。
この世の中の人は、老いも若きも全て友達だ、という概念であったとしても不思議ではない。
それと今のコミニケーションのツールとしてのメールも、昔風の言葉では通じないわけで、それこそ時代にあった21世紀の言語にならざるを得ない。
口で語る言葉も変化するが、それと同じで書く言葉も、時代とともに変化するのも当然だと思う。
しかし、書いた文字を不特定多数の者に読んでもらうためには、幾多の関門、校正という関門を潜って世に出るわけで、ある意味で篩に掛けられたものが出るということである。
ところが、テレビの画面に映る若いタレントの姿は、番組の企画、構成という過程の中で、ある程度の篩に掛けられたものと言えるであろうが、この篩の目があまりにも大き過ぎて、篩の目の役を果たしていない。
まさしく野放図のままという感がするが、それはテレビの番組を送る側の責任であることは言うまでもない。問題の本質は、この部分に潜んでいる。
テレビの番組制作というのは、中学生のクラブ活動の延長ではないはずで、大人が真剣に取り組んで作っている筈のものが、あまりにも低俗過ぎて、我々大人は見るに堪えない。
この見るに堪えないという部分の感覚の相異、いわゆる価値観の相異が作る側に理解されていないのではないかと思う。
作る側としては、自分たちの作っている番組が大衆から支持されていると思って作っているならば、あまりにも現状認識が甘いと言わざるを得ない。
テレビ番組の低俗化は今に始まったことではなく、テレビの創世期から同じ事が言われ続けているが、それでも一向に改善の兆しが見えないのは、我々の文化として、そういう低俗化が民族の基本的底流に成り下がってしまったということが言えると思う。
今月で以て、テレビのアナログ放送が終了してデジタル放送に切り替わったが、テレビの放送などというものを国を挙げて大騒ぎすべきものではない。
テレビ局など日本ならばNHK一局あれば十分で、民間テレビ局などは全部つぶして然るべきだと思う。
テレビ局を放置しておいて、日本語の乱れをいくら説いて意味を成さない。
民間のテレビ局も、高校生並みの大人が経営をしているわけではなく、それなりの大学を出た人がそれなりの修業をして、それなりの経験に基づいて番組を作っているに違いなかろうが、そういう人が何故にああも下劣な番組を流し続けているのであろう。
自分たちで、あの番組が良いものだと認識しているとしたならば、それは我々の民族の文化度そのものを表現していると考えなければならない。
民間のテレビ局は、広告収入によって経営が成り立っているので、広告主の意向を無視することが出来ないという言い分は、「治安維持法があったからものが言えなかった」という言い分とまったく同じで、子供の言い訳並みの言い分に過ぎない。
民間テレビ局の経営者と言われるような人たちも、自分たちの作っている番組が良いものでないことは重々判っていると思うが、生きんがために背に腹は代えられないということであろう。
ところが、そうなるとテレビの画面の低俗さの元凶は、その番組のクライアントになっている企業の責任ということにあるわけで、言ってみれば日本の国民の全部の責任ということになってしまう。
先の戦争の敗因の一つが、旧軍人の独断専横と言われているが、その軍人の独断専横を許したのは、銃後の人々のイケイケドンドンを許した当時の国民感情であったのと全く同じ構図で、日本人の言葉の力の低下をきたしているのも、日本国民のトータルの潜在意識だということになる。
テレビが低俗で、携帯電話のメールでは絵文字が飛びかい、パソコンの文章はもう文章でさえなく、中学校の先生は、男言葉も女言葉もないありさまで、日本語の表現力というのは、まさしく完全に失墜したと思う。
普通の生活の場面で、普通の家庭生活の中でさえ、普通の日本語というものが廃れてしまっているわけで、その中で日本語力を再構築する場は、何処に見出したらいいのであろう。
日本語の乱れというのは、突き詰めれば大人の自信の喪失だと思う。
大人が自分の分際に応じた言葉使いに自信が持てなくなって、言葉のTPOが出来なくなったことによると思う。
日本語というのは極めて語彙の豊富な言語で、その豊富な言葉を使い分けるということは、案外難しいことではないかと思う。
そういう難しさがあるが故に、言葉を使うにもいろいろと知恵を働せなばならず、その部分に戦後の大人が対応できずに、目下のものに自信を持って語り継ぐことが出来なったので、今、日本語の乱れということが話題になっているのであろう。
その根底には共産主義が伏流水にように流れており、それを浮き彫りにすると日教組への攻撃となるので、人々は正面切って言うことを遠慮しているのであろう。
あの全共闘世代のアジ演説を見ても、壊された日本語のオンパレードで、ああ言う言葉に塗れた学校の先生から授業を受けたとなれば、日本語がまともに若い世代の引き継がれることはあり得ないではないか。
世相が乱れるということは、共産主義者が革命を声高に叫べば、昔の伝統を全否定するわけで、そこで言葉の伝承も経ち切れて当然である。
我々が節度ある言葉を維持しようとするならば、共産主義革命を全否定しなければらず、革新と称する人々を全部放逐しなければ、綺麗な日本の言葉の維持ということはあり得ない。
今時の学校の先生の生徒に対する言葉など、日本人にあるまじき体たらくであって、あれを聞いて育った若者に、いくら熱心に日本語力を説いても「馬の耳に念仏」に過ぎない。
又、生徒の家庭においても、言葉が言葉として在りえていないわけで、会話というものは存在していないように思う。
会話というのは相手の話を聞いて、その話に対してどういう反応をするか、ということで成り立っているわけで、それが成り立つためには話の交換がなければならないが、昨今の若者の会話は、ただただ奇声を発しているだけで、会話というものが存在していない。
まるで猿の社会と同じだということだ。
戦後の日本人がこういう体たらくになった最大の理由は、あの戦争に生き残った我々の同胞が、あの敗北という現実を目の当たりにして、生きる望みを失って、ただただ生物的に生の維持にまい進して、人としての倫理や、誇りや、自尊心を失ってしまったことに尽きると思う。
その諸悪の根源は、あの戦争に生き残った人たちの、その後の生き様にあると思う。
あの世代は、確かに「勝つ!勝つ!」と言われて戦ったけれど、結果は敗北であって、明らかに旧軍人、旧軍部に騙されていたのだが、生き残ってみると、誰もその旧軍人、旧軍部に騙されたことへの仕返しをしようという機運は何処からも湧かなかった。
自分たちを騙し続けた戦争指導者に、自分たちで仕返しをしようという機運が湧かなかったという現実そのものが、自信の喪失を如実に語っている。
占領軍が勝手に彼らの思い込みで行った彼らの戦争裁判で、敗者の首を血祭りに上げたことに、生き残った我々の同胞もなんとなく納得してしまったということだ。
後味の悪い思いをしながらも、それで禊を済ませた気になってしまったわけで、そういうもやもやとした気分を綺麗に払拭しきれていないので、生きること自体に胸を張った気分になれないまま、時間だけが無為に過ぎてしまったということだ。
あの戦争に生き残った同胞が、見事に生きる自信を見失ってしまったので、結果として、次世代に日本人の自信と誇りを継承することを放棄してしまったということだ。
そこに入って来たのが共産主義による革新思想であって、古い日本の伝統は全て悪で、軍国主義に繋がっているから駄目だ、という論法で、次世代を担う教育現場でそういう授業が行われたのだから、日本の文化が疲弊するのも無理ない話ではある。
それを今から元に戻せと言うからには、日本から革新的な思想というものを全部取りはらわねばならない。
今の日本人の大部分は、既に戦後の教育を受けたものばかりで、これを元に戻すということはあり得ない相談だと思う。

「長銀はなぜ敗れたか」

2011-07-26 11:56:43 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「長銀はなぜ敗れたか」という本を読んだ。
長銀というのは日本長期信用銀行のことであるが、この銀行は元々戦後復興の時、長期に資金融通させる銀行の必要性に鑑み設立されたものであって、戦後復興が軌道に乗り、日本経済がアメリカを追い抜き世界第2位になるという状況では、存立の意義が変化せざるを得なかった。
その変化の対応に遅れたが故に、会社そのものが姿を消さざるを得なかった、ということを縷々述べた本であった。
戦後の復興がなり、その復興の勢いが尚も引き続き加速して、高度経済成長を達成し、その右肩上がりの経済成長に幻惑されて、バブル状況に舞い上がって、そのバブルがはじけて暗黒の10年という低迷期が続いたが、それは日本の現実の軌跡であったことは確かだと思う。
戦後の時点における日本の状況は、ゼロからの出発ではなく、まさしくマイナスからの出発であって、それこそ生きんがために死に物狂いで戦い抜いて来たが、その苦しい暗黒の時期をやり過ごすことに成功すると、我々は少なからず生きる自信を取り戻した。
マイナスから出発して、ゼロに回帰して、これから右肩上がりの成長が目前に出現しそうだと思えるような僥倖がさすと、我々は楽観主義に陥り、思考的にかなり傲慢になったようだ。
戦前にも紡績業で一夜成金が現出して、料亭で札束を燃やして履物を探すなどというバカなことをする成金がいたのと同じで、戦後の高度経済成長の時にも、中小企業のオッサンが清掃婦や飯炊き女までひきつれて海外旅行をするのは、そういう成金趣味と同じレベルの話である。
基本的にこれと同じことが金融界でも起きていたわけで、普通に考えて、金貸しのプロフェッショナルが、不良債権を抱え込むということをどういう風に考えたらいいのであろう。
私のような経済のド素人が、担保の価値も知らずに金を貸すというレベルの話ではないわけで、金を貸す側も借りる側も、経済のプロフェッショナルでありながら、不良債権が出るということは一体どう考えたらいいのであろう。
戦後復興を成し、これから高度経済成長に向かうというとき、あらゆる経済的な兆候が右肩上がりになる事は当然であろうが、「それが何時までも続く」と考えるのはバカな人以外にありえない。
しかし、あの時期、日本の経済界は全てバカになり切ってしまっていて、誰一人「バブルが崩壊する」と言う人がいなかったということは一体どう解釈したら良いのであろう。
あのバブルの時、日本には金が余りに余っていたということは全く信じられないことだ。
金が余っていたので、誰も金を借りてくれる人がいなくて、金利はゼロにまで達してしまっていたわけだ。
人が如何に生きるかということは、如何に闘い抜くか、如何に生き抜くかということに直結しているわけで、それはある意味で戦争でもある。
目標を設定して、その目標に如何に接近するか、如何にそれを克服するかと考えることは戦争の発想そのものであるが、それを個人のレベルで考えれば、金儲けのノウハウということであり、国レベルに拡大して考えれば、それは経済ということになる。
問題をこういう風に考えると、個人の金儲けでも、国の経済でも、常に相手も自分も双方が変化しているわけで、その変化を如何に読みとるかということにその道のプロフェッショナルは注視するのが当然である。
鉄砲で撃ち合いをするプロフェッショアナルは言うまでもなく軍人であるが、金という弾を撃ち合うのが経済人の筈で、戦後復興を成した日本で金が余るということは、弾だけがどんどん行き先もなく溜まってしまったということで、これは経済の専門家、経済のプロフェッショナルの怠慢以外の何ものでもない。
先の戦争で、日本の軍人がバカだったので敗北したのと同じ構図である。
我々の同胞の中で、その道のプロフェッショナルが非常にバカだということは一体どういうことなのであろう。
戦争をすれば、その戦争のプロフェッショナルがあまりにもバカ過ぎて、明治の実績までも放棄せざるを得なくなり、経済戦争では本来倒産などすべきでない銀行がいとも安易に倒産すると言うことは一体どう考えたらいいのであろう。
これは我々同胞の価値観の基準、あるいは基軸が間違っているということではなかろうか。
例えば、戦前に日本の海軍兵学校や陸軍士官学校に進学した人を、我々は「優秀な人」という評価をしてきた。
事実として、そういう人たちは村一番町一番の秀才の誉れ高い人がそういうところに進学したわけで、その時点では確かに「優秀な人」であった。
ところが彼らの実績といえば、日本の敗北であったわけで、戦争で敗北するような軍人が何故優秀だという素朴な疑問はぬぐいされない。
戦後の復興期に銀行に就職出来た人も、その時代においては最高に名誉なことで、銀行といえば安定企業の最たるもので、極めて誉れ高いことであったが、その銀行が倒産するということは、あきらかに放漫経営をしていたまぎれもない事実だと思う。
確かに、戦後の復興期に銀行に就職できたということは、その時点では極めて優秀であったことを示してはいるが、その後の怠慢が回り回って倒産ということになったとしか言いようがない。
旧日本軍でも戦後の銀行でも一様に巨大な組織であって、組織としての目標達成、プロジェクトの達成ということがあるわけで、それが出来ずに組織そのものが崩壊したということは、組織そのものの怠惰と不勉強と慢心以外にその理由はない。
問題は、本来、優秀な人たちであったにも関わらず、その禍根の渦に嵌り込んだ理由の究明である。
元来、一人の個人としては極めて優秀であった筈の人たちが、銀行という組織の中に埋没すると、どうして不良債権などというものをつかまされる事になるのであろう。
担保価値以上の金を貸せば、貸し倒れになりかねないということは赤ん坊でもわかることで、判っていながらそうせざるを得なかったということが最大の問題である。
その部分が何故優秀であった筈の人たちの集合でありながら、基本の順守が出来なかったのであろう。
昔の日本軍でも、戦後の銀行でも、自分たちの目的と使命は充分に解っていると思うが、それを達成する手法において、我々の伝統文化であるところの義理と人情にがんじがらめに縛られていて、その部分に合理的な近代思想でもって処理できなかったということであろうか。
そもそも、こういう場面で言われる「優秀な人」という価値そのものに間違いがあったわけで、我々が安易に「優秀な人」という場合、それは学校秀才を指していて、学校の成績の良い者を「優秀な人」と言っていたが、この「学校秀才」というのは案外と曲者で、この言葉は信用ならない。
「学校秀才」を「優秀な人」と思い込んだところが我々の民族の過誤であったということであろう。
旧日本軍も戦後復興期の銀行も、「学校秀才」を「優秀な人」と思い込んだので、大きな過誤を背負い込むことになったに違いないが、それを大きな視点で考えれば教育の過信だと思う。
「教育は高ければ高いほど素晴らしいことだ」という思い違いにあるが、日本が豊かになって、食うことに困らなくなると、この教育に対する過信も徐々に解消されていくであろう。
ただしその前に、教育というものが金儲けの手段となって、パチンコ屋の乱立と同じレベルで教育産業が隆盛を極めているのも教育の過信なるが故の現象なのであろう。

「靖国戦後秘史」

2011-07-21 09:19:32 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「靖国戦後秘史」という本を読んだ。
サブタイトルには「A級戦犯を合祀した男」となっていて、毎日新聞の「靖国」取材班が著したものだ。
そもそも靖国神社にA級戦犯を合祀したことから、この靖国問題というのが提起されたことになっているが、A級戦犯を合祀しようがしまいが、靖国神社は複雑な問題を内包した存在だと思う。
明治維新という大変革の時、これはまさしく日本の革命そのものであって、旧幕府を倒して新しい新政府を築くという過程で、旧体制をそのまま支持する側と、新しい変革を受け入れた新体制を支持する側で刃傷沙汰が多発して、それで亡くなった人たちを顕彰し、その志を慰霊する目的で出来たものであった。
その根本原理は、国の為に命を落とした方々、国事で命を亡くした方々の慰霊をする場として建立されたものである。
明らかに氏神様とは違うわけで、その建立の目的は実に明確に規定されていると思う。
だから単純に日清戦争や日露戦争の戦闘中に敵の弾に当たって亡くなった将兵ならば、何の問題もなく靖国神社に祀られて、国家元首が何かの折に礼拝されるのも問題はない。
ところがA級戦犯という人たちを、同じ国事に殉じた人と認めるには、いささか疑問があるが故に、今日問題提起を引き起こしているのである。
私の個人的な思考では「戦犯」という言葉自体が不合理だと思っている。
平時に人を殺せば犯罪者になるのは当然であるが、戦争中に敵を殺すことは犯罪ではないが、ここで言う敵には厳格な定義があって、その定義に合致していることが最低限必要ではある。
その敵の定義は国際協定で決められていて、ハーグ陸戦規定によれば、制服を着て、明らかに軍人、兵士であって武器を携行しているという条件を満たせばそれは敵とみなしていいが、何も武器を持たない平民であれば、それを殺したものは犯罪者となるように定められている。
だが、この規定も現代の戦争には通用しないわけで、空から飛行機で爆弾を投ずるのに、軍人だけを選別して攻撃することは出来ないわけで、結果としてハーグ陸戦協定は有名無実で、中味が雲散霧消してしまっている。
その国際規約が有名無実、中味が雲散霧消した中から、勝者の都合の良い言葉として「戦犯」という言葉が作られたわけで、その言葉で以て、自分たちの正当性をねつ造したことになる。
理由の如何を問わず、武器をとって戦った相手のみならず、戦争中の敵国という立場から見て、自分たちの同胞を殺した敵国人を何とかして懲らしめてやりたい、という感情は人として当然の感情である。
よって、自分たちが戦争に勝利した暁には、敵国の軍人を懲らしめてやりたい、と思うのは必然的な思いであることは十分に理解できる。
だから勝った連合軍も、負けた側の戦争指導者をわざわざ戦犯・戦争犯罪者などと手間暇かけて裁判などせずに、見つけ次第その場でさっさと処刑しておけばよかったのである。
自分たちを文明人であるかのように見せるべく、あるいは文化人のように振る舞おうとして、裁判などという茶番劇を演出するから話がややこしくなったのである。
日本が敗北を認めたということは、当然、その責任追及、いわゆる報復されることを覚悟の上で降伏したのであって、昭和天皇だって殺されることを覚悟して、ポツダム宣言を受諾したのである。
昭和天皇は、その事をわざわざ言うために、マッカアサー元帥のところまで足を運んでいるが、天皇の存命は既に連合軍側の方針として確定していたので、天皇自身は処刑をまぬがれたが、他の政府要人は責任を負わされたとみるべきだ。
あの当時の日本側の戦争指導者は、連合軍側の視点に立てば、確かに戦争犯罪者であろうが、だからと言って、我々の側、生き残った日本国民の側が、当時の自分たちの政府要人、戦争指導者を、戦争犯罪者ということはないと思う。
だが当時の日本の戦争指導者の指導の仕方が適切であったかどうかは全くの別問題であって、彼らの戦争指導が稚拙であったからこそ、我々は敗北を期したのだ、という事実は拭い去ることは出来ない。
誤った戦争指導をして、間違った戦争指導をし、負け戦になるような戦争指導したという意味で、本当ならば、連合軍側よりも我々の側が戦争犯罪者と言いたいところである。
A級戦犯を靖国神社に合祀する事の是非であるが、これも私の個人的な考え方では、A級戦犯と言われている人たちは、戦場あるいは前線の戦闘で亡くなったわけではないことは言うまでもない。
又、彼らは政治的な活動はしていたが、その事が国事とイコールで直結しているかどうかも疑問だと思う。
確かに、政治の延長としての戦争に深く関わり合っていたことは認めざるを得ないが、戦闘で死んだわけでもないということも歴然たる事実で、連合軍側に報復された死を、靖国神社に祀っていいかという問題に帰結する。
結論としては、既に祀ってしまったから、今、問題化しているのである。
靖国神社というのは、祖国に対する貢献度が高いから、死後、祀られるというものでもない筈だ。
いくら立派な戦功を立てても、生環して、天寿を全うして、畳の上で死んだ人は靖国神社には祀られないので、「国事に殉じた」というフレーズを厳格に守れば、A級戦犯を合祀するということは、大きな問題を内包していることになる。
この本の言わんとするところは、筑波藤磨宮司はA級戦犯の合祀に慎重であったが、その後を引きついだ松平永芳宮司がそれを実施してしまったから、今日この問題が輻輳していると言いたいようだ。
この本は、二人の宮司さんの善悪を鮮明に色分けしたがっているようで、この論調は極めてマスコミ的であり、ジャーナリスティクな論調で、勧善懲悪という日本古来の伝統的思考を喚起するような書きぶりである。
松平永芳宮司は、例の皇国史観の平泉澄氏と深いつながりがあるので、それを警戒するというニュアンスも感じられる。
靖国神社と、この平泉澄氏がくっつくと、厄介なことになりかねない。
この人、もともとは東京大学の教授なわけで、戦前・戦中の東京大学で皇国史観を教えていたので、そこに陸軍の若手将校が集まって、ある一種の独特な雰囲気を醸し出していた。
私が日本の民主化の最大の疑問と思うことは、東京帝国大学という日本の知の殿堂は、昔から国税で運営されていたが、その事は日本国民の血税で学校経営がなされていたということであって、そういう中でどうして共産主義や極右の思想が醸成されたのか不思議でならない。
極端から極端の思想が同居して、それぞれに共存している姿というのが何とも不思議でならない。
そこで教鞭を取る先生方も、教えを受ける学生も、共産主義と皇国史観を同じ一つのミキサーに放り込んで、それぞれに学外にそのイデオロギーを実践しようとしているわけで、こんなことをして国民の血税を浪費して、生かされていて良いものかという疑問は湧かなかったのであろうか。
「象牙の塔」の中で研究するだけならばまだ許されるが、学外でそれを実践しようとするところが甚だ不愉快で、それはかつて軍人が政治を専横した構図と瓜二つで、自らの社会的使命を履き違えている図である。
靖国神社の軍国主義化は、平泉澄氏やそれに追従する若手将校によって煽られたと思う。
私の個人的な思いとしては、A級戦犯の合祀はそのまま保留にしておいた方が無難であったと思うが、それは外国の干渉をそのまま聞き流すということとは自ずから違っている。
前にも言ったように、A級戦犯という言葉は、我々の言葉としてはあまりにも不合理・不適切だと思う。
彼らは断じて戦争犯罪者ではない。
勝った側の言い方をそのまま受け入れる必要はさらさらないわけで、彼らは戦争指導者ではあるが、戦争犯罪者ではない。
そうであるとしても、その戦争指導者を素直な気持ちで靖国神社に祀れるかどうかというと、そうはならないのが実情だろうと思う。
彼らの戦争指導は結果として大間違いであったわけで、彼らの政治判断の過ちで、彼らの戦争指導の過ちで、我々の祖国は恢塵と化し、東京は焼け野原になり、トータルで240万の将兵を殺し、60万のシベリア抑留者を出したことから考えれば、我々の側から犯罪者として石を以て撃ち殺したいのが本音である。
そういう人間を、前線で敵弾に倒れた将兵と同じに扱うことは、何とも複雑な思いがするのは私だけではないと思う。
戦争には当然のことながら勝ち負けが付いて回るわけで、昔ならば負けた側の男は全員奴隷になり、女は犯されるのが当たり前で、その意味からして勝った側は負けた側の主だった人間を勝手に処刑しても良かったはずだ。
ところがここで連合軍側は文明人の振りをしようとして、負けた側の人間を戦争犯罪者に仕立てて、見せしめの裁判をし、その結果として処刑をしたのである。
勝った側が、自分たちの勝手な思い込みで、負けた側の人間をピックアップして、それを戦争犯罪者に仕立てて見ても、その選択が実情に合っていなかったことは当然あって、その犠牲になった人はまことに気の毒だと思う。
勝った側の連合軍にしても、戦争に勝った以上、敵の大将の首級を血祭りに上げないことには、勝った意味を自国民に説明できないわけで、その意味で敵の戦争指導者を殺さねばならなったことは確かである。
そういう意味からすれば「国事に殉じた」、あるいは「国難に殉じた」という言い方が成り立つかもしれないが、彼らの失敗の結果はどう評価したら良いのであろう。
戦争に負けたということは、彼らの戦争指導が失敗であったということで、彼らの戦争指導が功を奏しておれば、敗戦ということはなかった筈で、あの戦争に生き残った我が同胞は、あの戦争の失敗の責任を何処に持っていけばいいのであろう。
私は根が阿呆だから靖国神社といえば、単純に戦没者の霊を祀るところだと思っていたが、その戦没者にもいろいろな態様があって、そうそう安易に「死ねば靖国神社に祀られる」というものでもなさそうだ。
しかし、話がここまで来ると我々の民族の宗教観になってしまい、そのうえ政治まで絡んでしまうということになる。
この本を著した毎日新聞というのは、言うまでもなく日本の巨大マスコミであり、この本の論調も極めてマスコミ的であり、ジャーナリスティクな論調で書かれているが、メディアというのはどうしてもこういう問題点を暴き、騒ぎ立てることで、彼ら自身が糊塗を得る糧とするところがある。
火の無いところにワザと煙を立てて、オオカミが来るオオカミが来ると騒ぎ立てて、人々を喧騒の渦に惹き込んで、小魚の群れを黒い大きな一塊の団塊に仕立て上げて、世論を形成すると豪語するところがある。
世論は確かにメディアによって形成されるが、その世論を如何に冷徹な目で見るかということは、我々の側の政治的な感覚であって、メディアによって好きなように踊らされては「赤信号、皆で渡れば怖くない」ということになって、イケイイケドンドンになってしまうのである。
筑波藤磨氏は、A級戦犯合祀に慎重であったが、その後を引き継いだ松平永芳氏が、さっさと合祀したのはケシカランという論旨は、極めてセンセーショナリズムに煽られた独善的な見解で、こういう判断はそれぞれにその人の個性だと思う。
結果として、その事が後から「ああでもないこうでもない」と批判を浴びことも理の当然で、両者の執った行動が逆であっても同じように批判を浴びることに変わりはないと思う。
毎日新聞としてはどっちでもいいわけで、ただただこの靖国神社を騒ぎ立てることで新聞が売れればそれでいいわけである。
新聞社の社会的な存在意義というのは、せいぜいこんなところであるが、新聞社の人間としては、自分たちの存在が「社会の木鐸」を示しているかのように錯覚をしている。
ところが、それが如何に幻想か、ということを我々は冷静な視線で注視しなければならない。
あの戦争に失敗して、敵側に首をはねられた我々の側の為政者、戦争指導者、政治指導者を、前線で戦って死んだ同胞と同じところに祀って果たして良いものだろうか。
確かに、戦争に負けたとはいえ、彼らが犯罪者でないことは論をまたないが、負けるような戦争を指導したということが、果たして「国事に殉じた」と本当に言えるであろうか。
しかし、あの戦争犯罪者の認定は、連合軍が勝手に自分たちの思い込みで指定したのであって、それはそれで我々の側の戦争の失敗者と同一でないことも致し方ない。
しかし、先方に間違って認定されて首を撥ねられたからと言って、それがそのまま「国難に殉じた」とも言い切れない面もあろうかと思う。
このA級戦犯を合祀した松平永芳宮司の思いの中には、極東国際軍事法廷そのものが、連合軍側の茶番劇だから、A級戦犯そのものの存在を否定する思いが根底にあったもの推察する。
ならば極東国際軍事法廷を経ずして、連合軍が敗者の政治指導者を自分の思い通りに処刑したら、A級戦犯という文言は存在しないが、我々の側から見て、そういう人たちを殉職、「国難に殉じた人たち」と言えるであろうか。
自分たちで負けるような戦争をしておいて、「戦争に負けたから国家に殉じた」、と素直な気持ちで言えるであろうか。
戦争犯罪者という言葉があるとするならば、終戦間際に自分の家族だけを先に疎開させた高級将校や、「自分も後から行くから」と言って若人を特攻させた高級将校や、兵クラスの不当、不合理な内務班生活など、こういうさまざまなは不合理を全て告発しなければならないのではなかろうか。
こういう行為こそ戦争犯罪であって、戦争であるから敵を殺すのは当たり前の行為であり、捕虜を虐待するのも当然の成り行きだと思う。
自分の方にゆとりがあれば、捕虜も寛容に扱えるが、自分たちでさえ死ぬか生きるかという時に、敵の捕虜のことなど構っておれないのは当然のことである。
そういう意味で、極東国際軍事法廷の定める裁定は、極めて根拠が薄いことは言うまでもないが、如何なる理由であろうとも、負けた側の言い草では、何処まで行ってもゴマの歯ぎしりでしかない。
我々は戦争に負けた。だから勝った側が好き勝手に日本側の戦争指導者を糾弾し、裁判をし、処刑し、縛り首にしたのだが、負けた側としてはいくらあの裁判が茶番だと言ってみたところで何の意味も成さない。
だから戦争には負けてはならないのである。負ける戦争ならば最初からしないことである。
にもかかわらず、負けるような戦争指導した我が方の為政者は、我々の同胞から石を以て追われて当然であるが、我々は旧軍人、旧陸軍の高級将校や、旧海軍の高級将校に、緒戦の作戦の失敗、敗戦の責任をただしたことがあるであろうか。
連合軍が、彼らの思い込みで勝手に彼らの言う戦争犯罪者を血祭りにあげてしまったので、我々はそれで民族の禊が終わってしまった、と勘違いしているのではなかろうか。
彼らのしたことは、彼らの勝手な思い込みであって、それとは別に我々の民族の中から、同胞の中から、戦争の失敗の原因を究明し、失敗の原因をオペレーション・リサーチして、合わせてその失敗の責任もとことん追求する作業が必要なのではなかろうか。
私は戦後66年も経って未だに不可解なことは、66年前、あの東京が見事に焼け野原になっていたにもかかわらず、それでも尚徹底抗戦を唱える戦争のプロフェッショナルがいたという事実である。
こういう頓珍漢な状況把握しかできない戦争のプロ、陸軍の若手将校という戦争のプロがいたということで、彼らは思想的に平泉澄の皇国史観に毒されて、現状認識が狂わされていたようであるが、こういう軍人が戦争指導していたとなれば、勝てる戦争も負けて当然だと思う。
そもそも靖国神社にどういう人を祀るか議論すること自体、何の科学的な根拠もないわけで、ただただ政争の道具でしかないということだ。
社殿の奥の人から見えないところに、イワシの頭でも突き刺しておけばそれで済むわけで、後は周りの者に話の種を撒いておけば、メディアがそれをどんどん育ててくれるわけで、世間における話題が大きくなればなるほど参詣者が増えるので、神社としては結構なこととなるのである。
特攻隊として散華して行った若人は、確かに「靖国神社で遭う!」と言って散っていったことは確かであろうが、その事を考えると、これだけ人の悪口を言いふらす私も目頭が熱くなる。
その半面、「俺も後から行くから」と言いつつ戦後を生き延びた司令官や、指揮官は許さない。
またインサイダー取引みたいに、ソ連が侵攻して来る情報をいち早く得ると、自分の家族だけを先に引き揚げさせた司令官や指揮官も決して許されないと思う。
しかし、戦後、こういう司令官、指揮官に対する同胞からの、あるいは旧部下からの告発ということがあったであろうか。
こういう司令官や指揮官に仕返しに行った部下の存在というのはあったであろうか。
何故、我々日本民族というのは、そういう理不尽な上司に対する告発をしないのであろう。
何故、日本のメディアは、そういう告発を報じないのであろう。
これでは我々の国はアメリカと戦う前に、日本人同士の同胞愛に欠け、同胞内の精神性や倫理性の面でメルトダウンしているようなもので、日本の戦争指導者は、理性とか知性をいささかも持ち合わせていないに等しいではないか。
世界の戦争のプロフェッショナルが、戦前の日本の軍隊を見たとき、「下士官は世界でも最高の軍人だが、高級将校はバカだ」という評価であったが、実によく的を射っていると思う。
世界の目から見て、日本の高級将校はバカと見做されているのに、我々同胞の評価では、「海兵や陸士を出た人は優秀だ」と、世界の評価と真逆になっているわけで、これでは戦争に負けるのも当然だと思う。
海兵や陸士を出た人が優秀ならば、何故、負けるような戦争をしたのだ。
彼らがバカであったから、日本は戦争に負けたではないか。

「だから日本人よ、靖国へ行こう」

2011-07-20 07:58:33 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「だから日本人よ、靖国へ行こう」という本を読んだ。
あの小野田寛郎氏と、アサヒビールの会長の中條高徳氏の対談という体裁であるが、小野田寛郎氏の言葉には何とも言えぬ重々しさがある。
戦後も28年間もルパング島のジャングルの中で戦っていたということは、並々ならぬ忍耐力と言わざるを得ない。
彼の場合、陸軍中野学校の出身者というわけで、普通の戦闘員とはまた別の使命というか、指令というか、軍務というか、そういうものがあったので、戦争が終わったからといって、のこのこ出てくるわけにはいかなかったという事情は斟酌するとしても、孤立無援のジャングルの中で28年間も戦闘行為を継続するという精神力に驚かざるを得ない。
この彼の敢闘精神には世界中が敬意を表していると思う。
まさしく軍人、兵士としての鑑なわけで、その彼の評価は世界共通の認識だと思う。
私の個人的な印象としては、彼がどういう場面で行ったか定かには知らないが、ボロボロの軍服姿のまま背筋を伸ばし、正面を見据え、きちんとした挙手の敬礼をしている姿が心に焼き付いている。
まさに「ボロを着てても心は錦」を絵にしたような光景だ、と思ったものだ。
彼の降伏は基本的には降伏ではないように思う。投降でもないように思える。
彼の場合、民間人の鈴木紀夫という人の仲介で、元の上官を探し出して、その上官の命令で以て戦闘行為を中止しているわけで、それまでの間、彼の中では大東亜戦争が継続しており、敵に包囲されて自分の命が惜しくなって投降したわけではない。
まさしく軍の行動規範に則っての出頭であったわけで、これこそ軍人として、兵士としての模範中の模範といえるであろう。
あくまでもというか、正式にというか、上官の命令下達によって、その命に従っての行動であったわけで、自分の意思による投降ではない。
この部分のこだわりが、小野田少尉らしい考え方の一環であった、と言える。
当然、投降するに当たっては自分が処罰されることはも想定の中に入っているわけで、それでもそういう気持ちに傾いたということは、多少とも気弱な気持ちに傾いたということだったかもしれない。
しかし、いくら中野学校でスパイとしての特有の、特殊な教育を受けたからといって、残置諜者を命じられたからと言って、28年間も何の支援も受けずに頑張ることは、並大抵のことでないことは言うまでもない。
その間、日本の情報を全く知らなかったわけではなく、サバイバルをしながらでも常に新しい情報は敏感に感じ取っていたわけで、にもかかわらず、それが敵の謀略ではないかと案じてのサバイバル継続であったわけである。
この小野田少尉の出現は、世界的にも大きなニュースであったに違いないと思うが、海外のメディアがどういう扱いで報じたかは、我々の知るところではない。
しかし、世界の常識から見ても、小野田少尉の行動は軍人や兵士の振る舞いとしては、模範となるべきことに違いがある筈もなく、称賛の的だと思う。
世界の人は日本人のこういう行動に少なからず共鳴を覚えているようで、それだからこそ世界から日本を見るとき、ある程度崇められる要因になっているのだろうと思う。
ところが肝心の日本人が、自分たちの立ち居振る舞いが如何に世界から称賛されているかを知らない場面があまりにも多い。
要は、「日本の常識が世界の非常識で、世界の非常識が日本の常識」と化しているところが最大の問題点であって、世界の常識と日本の常識の間に乖離があることが最大の問題である。
この常識の乖離は、何も悪いことばかりではなく、我々のもつ根源的な平和主義、平等主義というのは、もっともっと世界の常識として昇華してもいい事柄ではある。
それよりもこの本の主題は、小野田少尉のような今浦島から見た日本の現状であって、その矛先がこの本では靖国神社の参詣に向けられているが、戦後の我々の同胞が靖国神社を蔑にし、国歌・国旗に敬意を表さなくなったのは如何なる理由によるのであろう。
戦争体験と言うことであれば、アジアの諸国は皆等しく戦争体験を共有しているわけで、日本だけが加害者であり、同時に被害者であったわけではない。
アジアに日本という国が存在していなければ、アジア全体が平和裏におれた訳でもない。
戦後、第2次世界大戦後、アジアの諸国が独立を勝ち得た背景には、日本が西洋列強の植民地支配をこっぱみじんに粉砕した実績があったればこそ、アジア諸国の独立が在り得たわけで、その事を考えれば我々はアジアの国々からもっともっと感謝されてもいいと思う。
第2次世界大戦後、アジアでは中国共産党が勢力を伸ばし、戦後の1949年、戦争が終わって4年も経ってから、蒋介石の国民党を台湾に追いやり、本土は中華人民共和国という共産主義国家を成立させた。
ところが、ここでも中国共産党だけでは国民党政府を駆逐することが出来ず、我々の日本がこの国民党政府の力を殺いだので、共産党は最終的に勝利を治めることが出来たわけで、中華人民共和国の建国には我々も間接的に大いに貢献しているではないか。
しかし、我々と中華人民共和国は直接的には戦火を交えていないにもかかわらず、先方に反日感情が漁火のように連綿と生き続けているということは、まさしく彼らの潜在意識としての中華思想そのものと言わなければならない。
過去に戦争もしたことがない国が、何故、日本の内政に嘴を差し挟むのか、という疑問は当然あってしかるべきだと思う。
小野田少尉が日本に帰還した時、時の内閣総理大臣田中角栄から100万円の寄付があったが、それを全額靖国神社に奉納してしまったということだ。
こういうところにも小野田寛郎という人の強烈な個性が滲み出ているように思える。
彼の言い分によると、「自分は生きて帰って来たのだから、そんなものをもらう筋合いではない」、というものであるが、筋の通らない金を受け取らない、という心意気も見上げたものだと思う。
ああいう状況下であれば、黙って受け取っておいても、誰も咎める者はいないであろうが、筋の通らない金は受け取れない、というのは出来そうで出来ないことだと思う。
この話から必然的に靖国神社の話に移るのだが、何故、我々の同胞は、祖国の為に戦った同胞に対して、こういうひどい仕打ちが出来るのであろう。
祖国のために戦った英霊も、生き残った元兵士にしても、自分たちの為政者が、そういう英霊に対して心から鎮魂の礼を尽くすからこそ、国に殉ずることが出来るのである。
国家の元首であればこそ、祖国のために命を投げ出した同胞の英霊に対し、鎮魂の意を表することが当然であって、それだからこそ国民は国に協力し、社会に貢献しなければ、という決意を新たにするのではなかろうか。
国民が国に協力するということは、何も鉄砲をもって戦争に行くということではなくて、普通の人が普通に健全な生活を維持すれば、それがそのまま国に協力することになるではないか。
祖国の為に戦った英霊に対して、残された国民が畏敬の念で以て敬うことは、普通の国家の、普通の国民の、普通の義務ではないのか。
「A級戦犯が合祀されているから、そこに参詣することは被害者の礼を逆なですることだから駄目だ」、という言い分はあくまでも都合のいいこじつけ以外の何ものでもない。
「風が吹くと桶屋が儲かる」式の、何の整合性もない詭弁以外の何ものでもないわけで、先方が言いだすと「お説ごもっとも」と迎合する風潮は、実に嘆かわしいものであるが、問題は、それに反論しない、あるいは反論できないこちら側の知性、知識、認識不足、歴史的無知、歴史の不勉強にあることは言うまでもない。
我々の戦後世代が、自分たちの祖国のために戦った英霊に対して、畏敬の念を亡失したということは一体どういうことなのであろう。
これは私の個人的な推測であるが、あの戦争で生き残った人たちが、戦争の真実を次世代に語り継いでこなかった所為だと思う。
死んだ人は何も後世に語ることは出来ないが、生き残って帰還した人は、実際問題として、戦争の悲惨さ、不合理さ、不条理さというものを身をもって体験している。
その体験があまりにも惨いものだったので、口で語って後世の人に聞かせることはできない、ということであろうか。
戦場から命からがら生環しても、その体験を自分の子供や家族に体験として語れなかったに違いない。
だから戦後世代の人が、父や、兄や、はたまたお爺さんから、戦争体験を聞かされた経験が案外少ないように思える。
そういう人の昔話を寝物語に聞かされという話は聞いた事がない。
自分がじかに体験したことがあまりにもひどい話で、そうそう人に語りたくないのが普通ではないかと思う。
戦争終結の時、部下や開拓者を放置して自分の家族だけを優先して逃がした司令官や、内務班での非合理、不合理な扱いなどを考えると、我々は敵と戦う前に、同胞と戦わねばならなかったわけで、そんな不合理な話を人に話せるわけもない。
そもそも国が他国と戦争をするというのに、海軍と陸軍で仲が悪いという点からして不合理そのものではないか。
海軍にも陸軍にも優秀な人が大勢いるのに、その根本的なことが解決されないということは一体どういうことなのであろう。
それを増幅するのがメディアなわけで、メディアというのは、良きに付け悪しきに付け、国民を煽るわけで、メディアに煽られて国民は右に行ったり左に行ったり、と右往左往するということなのであろう。
小魚が群れて大群となって、あっちに行ったりこっちに行ったりするのと同じで、その小魚の大群が「時の正義」となるわけで、その群れから離れると異端者として糾弾されるという塩梅である。
戦後、父や兄が戦争に行っていたというと、「中国で人殺しをしてきたか」のように言う同胞の態度を見ても、既に同胞内の言葉狩りの悪意が露出しているわけで、その事を考えるとますます口が重くなると思う。
それと戦前・戦中の我々の身の回りの雰囲気としては、あくまでも「勝って来るぞと勇ましく」というイケイケドンドンの雰囲気であって、これは明らかに当時の国民が戦争プロパガンダに踊らされていたことになる。
ところが、戦後はこのプロパガンダのベクトルが逆向きになって、平和・平和の大合唱になっただけのことで、プロパガンダに踊らされたという部分では何も変わっていないということである。
我々の同胞がプロパガンダに踊らされて、あっちに寄ったり、こっちに寄ったりするということは、自分の頭でものごとを考えずに、「人の振り見て我が振り直す」ということをしているからだと思う。
だから人が「右向け右」というと、全員が同じ方向を向く、そしてその逆もまた真というわけである。
今の日本人が祖国のために戦った英霊に対して畏敬の念を持たないというのも、そういう風潮の流れの一環であって、一言でいえば無知ということであるが、軽薄な平和主義をアジルことで生業を立てている人がいるのも確かだと思う。
戦前の我々の国では、軍国主義者でなければ日本人であらず、少々女々しい感想を述べると直ちに非国民というレッテルを張り、戦後の我々は、「祖国の為に戦った英霊を敬いましょう」というと、これまた負の軍国主義者と蔑まれるわけで、戦前と戦後で同じ日本人でありながら、どうしてこうもものの考え方が逆転してしまったのであろう。
戦前も戦後も、日本には立派な大学がいくつもあるにもかかわらず、こういうものの変え方を善導する人がいないというのは一体どういうことなのであろう。
アメリカにもイギリスにもフランスにも立派な大学は沢山あるわけで、その結果として、これらの西洋先進国は第2次世界大戦でも勝利し、冷戦でも見事に勝利したが、日本の大学は祖国を勝利に導くテクノロジ―もメンタリティ―も醸成し切れていないということをどういう風に考えるべきなのであろう。
戦前の極端な軍国主義、戦後の極端な平和主義、この極端から極端に揺れ動く人々の考え方の振幅の幅を、管理・調整する大学の先生方がいないというのは一体どう考えたらいいのであろう。
大学が政治の指南役というのも妙なことではあるが、大学が「知の殿堂」であるべきことは人類の変わることのない定理だと思う。
ところが、日本の場合、全ての人がその事を忘れてしまって、軍人や政治家に知のコントロールさえ委ねてしまったところに、日本の不幸があったと思う。
知識、知能、教養、コモンセンス、知恵というものは、軍事や政治の前に立たねばならないことであるが、我々の場合、大学人にそれを言う勇気がなく、軍人や政治家は、それだけの理性と知性を欠いていたということだ。
美濃部達吉博士の『天皇機関説』が問題化した時、彼の同僚の大学教授たちは、全て学問を放棄したようなもので、まさしく小魚の群れと同じで、「時の正義」の中に身を隠して、糊塗を凌がざるを得なかったということだ。
そこには知の威厳は全く存在しておらず、世俗的な生きんがための智恵でしかなかったということだ。
戦前でも戦後でも、極端な思考の振幅の幅をコントロールする意見ぐらいは、学識経験者という立場からすれば出すのが当然ではなかろうか。
生きた人間の考え方にはさまざまなものがあることは当然であって、そのいろいろな考え方の中から、自分たちの同胞の社会が、同胞の至福を追い求める考え方を導きだすのが、高等教育の基本なのではなかろうか。
ところが今の知識人というのは、様々な思考の中でどれが人々の至福の追求に貢献するのかと分からずに、全てのものがそれぞれに甲論乙駁の状態なので、自分自身が何をして良いのか判らないのである。
けれども政府や、権力者や、官僚を非難攻撃しておれば、それこそ人畜無害で、自分自身、意義のある意見を述べたような気になれるのである。
メデイアはそれらしく扱ってくれるので、そういうパフォーマンスをすることで暫くの間は糊塗を凌げるという寸法だ。
民主主義というのはある意味で人気投票のような部分を抱えており、国民の為、あるいは国家の為と称して、国民に我慢を強いるような政策を掲げると決して当選しないわけで、そういう政策を掲げている限り、政治家たりえない。
政治家として何かしら発言権を得ようとするならば、バラ色の政策を掲げて、人々に金をばら撒くような政策を掲げないことには、政治家として存在し切れないのである。
こんなことは阿呆な私でも判るわけだから、立派な大学を出た立派な人ならば、「そういうことでは日本の将来は成り立ちませんよ」ということをしっかり言うべきだと思う。
本来、言うべき人が、言うべきタイミングで、言うべき事を言わないから世の中がおかしくなるのだと思う。
ただし、この言うべき事というのも、思い込みということもあるわけで、自分で勝手に思い込んで、から騒ぎということもあるので、そこは注意すべきところであるが、ものごとの本質を正確に把握すれば、そういう思い違いとか思い込みというのは排除できると思う。
冷静に、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の頭で考えてみれば、靖国神社に日本の元首が英霊の鎮魂の為に参詣すると、その事が被害者の感情を逆なでするという論理は、その整合性を暴くことが出来る筈だが、それをしないということはこちら側に何らかの意図が潜んでいるからだと思う。
主権国家として、その国の為に奮闘努力して命を落とした人を顕彰するという行為は、世界標準として褒め称えられる行為であって、当然、そういう人の慰霊碑には、その国の元首が敬意を表するのが普通であろうと思う。
祖国の為に戦って命を落としたということは、相手の側からすれば、被害を及ぼした憎き敵ということになるわけで、被害者意識を逆なですることにもなるが、そこを深く追求しないのが国際常識としてのコモンセンスである。
元首同士が外国訪問すれば、旧敵国であっても、無名戦士の墓に弔意を表して参詣するのが国際的な礼儀として認められているではないか。
お互いに、かつては敵同士で戦いあったが、戦争が終われば、お互いの健闘をたたえ合うのが人間としての普通の自然の感情だと思う。
こういう人としての根源的な感情を、学識経験豊富な知識人が理解しないというのも不可解なことで、そのことはわざとトラブルの種をまいて、自分たちの糊塗を得るための方策を講じているのかもしれない。

「清朝と近代世界」

2011-07-19 07:05:29 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「清朝と近代世界」という本を読んだ。
題名の示す通り、中国の清王朝と近代化した世界を対比させた解説書であるが、当然のこと、我々の日本もこの清王朝とは深く関わり合っている。
歴史を語るときに、今の価値観で物事を比較検討してはならないと思う。
価値観というのは、時と場所と場合によって大きく変動するものであって、それを今の価値観で推し量って侵略したとか、虐殺したとか、負のイメージで騒ぎ立てる行為は、大人としての品性に欠ける行為だと思う。
ただ我々が憂うべき事は、この「品性に欠ける行為」という概念も、相手には通じないわけで、そこには共通の価値観が無く、共通の認識が欠けているので、「品性」という言葉の意味が正しく理解されないからである。
「品位」というものは金では買えず、3代経ないと人格の上品さは身につかないと言われているが、まさしくその通りだと思う。
初代はなりふり構わず蓄財に所為を出すが、2代目はその初代の築いた実績の上に胡坐をかき、3代目がその蓄財を消費する過程で、「品位」を露わに表現できるわけで、それが終わると元の木阿弥に帰るというのが輪廻転生だろうと考えている。
「三つ子の魂百まで」という言葉も、日本人の処世訓を見事に表していると思う。
幼い頃の両親の生き様は、生涯消えることが無く、それが無意識に自分の人生を律しているという風に私は解釈している。
つまり、親が意地汚いと、子供もそれを見習って意地汚い大人になる、ということを暗に指し示していると考えている。
こういう俚言は何も日本人向けにあるのではなく、その全てが中国人にあてはまるのではないかと思う。
個々の価値観に相異があるわけで、ここで例に示した事例は、我々にとっては負のイメージで語られる内容のもので、「そうあってはいけませんよ」という風に諭されるものである。
ところが中国ではこれが普遍化しているわけで、「そうでなければ中国の地では生きていけないよ」ということでもあるわけだ。
中国の歴史が四千年とも五千年とも言われているが、その間に、この問いに対する答えはあり得なかったわけで、それが清王朝になって一気に解決できることもあリえないことである。
地球規模で人類の分布を考えた時、南北のアメリカ大陸にも元々先住民としての人たちが住んでいたわけで、そこに15世から17世紀の間にヨーロッパ人が移り住んだことで、元々居た先住民の平穏な生活が打ち壊された。
元々居た先住民は極めておっとりした性格で、人を押のけたり押さえつけたりして自己の利益を追う生き方を好んでいなかったが、そこにヨーロッパ人が銃を持ってやって来ると、好むと好まざるとそういう生き方をせざるを得なくなった。
ところがアジアでは、ヨーロッパ人が銃をもってやってきても、そうそう安易には屈服しなかった。
ヨーロッパ人が大航海時代の波に乗ってやって来ても、そうとうに抵抗したのがアジアの諸民族であったわけだ。
ヨーロッパ人の来襲に対して、あっさり屈服したのがアメリカのネイテブ・アメリカンであり、インディオであったが、アジアの諸民族は、出来る限り抵抗して、日本などは太平洋戦争に敗北するまで、西洋列強には敗北しなかったことは歴史が示している。
その日本と対比して、中国は沿岸地域を虫食い状態に西洋列強に蚕食されていたが、奥行きが深い分、内陸部は無傷のままで済んだということが言える。
ところが清王朝の晩年の頃になると、情報は世界規模で飛び交うようになって、そういう現実に即した視点で中国というものを見ると、これはアメリカ・インデアン、ネイティブ・アメリカン、インディオの世界そのままという風にも受け取れる。
ヨーロッパ人のまだ足を踏み入れていない大地、それこそネイティブな世界そのままの姿で、近代文明の及んでいない地域という風に見える。
日本があの戦争で地球規模で太平洋全域に戦線を広げた時、ラバウル辺りの人々のことを「南洋の土人」と称していたが、まさしく中国の奥地の人々は、その「土人」という言葉そのものであったわけだ。
日本人の目から見て、中国は国土は広すぎて、完全な中央集権的な国家建設は難しいということは、一目瞭然である。
そんなことは我々が心配するまでもなく、中国人自身が当然四千年も五千年も前から判り切ったことではないか。
今更「国土が広すぎて中央集権は難しい」などという言い草は通らない話だ。
中国の奥地に西洋の文化が浸透しなかったということは、アメリカのインディアンがUSAの保護も受けずに、独自にひっそり砂漠の中で生きている事と同じなわけで、それが何かの拍子にメディアをにぎわすということである。
アメリカはヨーロッパ人が進出してきて、ネイティブな人々を、保留地という地域に集中的に集めて自治を認めつつ保護しているが、その一方で彼らの大地はヨーロッパからきた人たちが見事に有効利用して、産業を興隆させた。
結果として世界一番の経済大国となっている。
中国というのは、アメリカ大陸でいうところのネイティブ・アメリカンがそのまま居ついているようなもので、それは言葉を変えれば、有史以来の歴史を引きづっているということで、四千年も五千年も前の思考から一歩も脱皮できていないということでもある。
アメリカの歴史はわずか250年弱で、その250年の間に世界最強の国になったが、その原点は考え方の断絶があったからで、古い考え方がアメリカには一切なかったからだいえる。
中国でいう儒教も道教も、アメリカに移り住んだヨーロッパ人にはなかったわけで、そもそも自分たちの信仰する宗教に異論を抱えていたので、海を渡ったのだから、海を渡った時点で古い考え方は一切捨て切ったので、そこにあるのは未来志向のみであった。
こういう考え方は実に強いと思う。
何かをしようとしたとき、あれをしてはいかん、これをしてはいかん、誰それの許可がいるとか、前例と比較検討するとか、そういう煩わしさは一切ないわけで、思ったことを思った通りに出来るということは、これほどありがたいことも他にない。
これが、アメリカが世界一の経済大国になった根源的な理由であるが、中国はこのアメリカとは対極の関係にあるわけで、歴史の古さが中国の脱皮の足かせになっている。
しかし、新生中華人民共和国は、共産主義という新しい思想で理論武装した国家であるので、中国の四千年とも五千年とも言われる歴史とは縁が切れているように見えるが、問題はその中身の人間である。
確かに、中国共産党の称える共産主義というのは、中国の悠久の歴史とは縁が切れているかもしれないが、それを支えている人民は、何処まで行っても中国の悠久の歴史から逃れられないので、潜在意識の中にはそれが澱となって沈澱していると思う。
アメリカ大陸のネイテブ・アメリカンは、後からきたヨーロッパ系の人々に追われて保留地に押し籠められてしまったが、アジア大陸のネイティブ・アジアンはもう少し上手く対応して、保留地に押し込められることはなかったが、その分彼らが自分たちを囲い込んで租界というものを作った。
租界とは、まさしくネイティブ・アジアンの保留地の真逆のもので、アジアにやって来たヨーロッパ人は自分たちを租界という囲みの中に入り込むことで身の安全を確保しつつ様々な交渉に当たったということになる。
問題は、そういう西洋との接点が沿海地方のみで行われたので、奥地では西洋という文化・文明に接する機会もなく、そういう辺境では意識改革の機会がことの他すくなかったということだ。
それと合わせて、この地の人々には中華思想というのが潜在意識として刷り込まれているので、「自分たちがこの世で一番偉いんだ」という認識を払拭し切れない。
だから余所から来る人間は全て夷狄、つまり野蛮人という認識で凝り固まっているので、西洋の先進技術が自分たちのものより優れているということをなかなか認めようとしない。
相手の文化・文明が自分たちのものよりも優れているので、何とかそれを真似しようという発想に至らないので、近代化に後れを取ってしまうことになる。
ヨーロッパ人が中国本土において租界を形作り、その租界を徐々に大きくするということは、本国の領地を少しづつ拡大することになるのだが、中国の人たちにはそれが判らなかった。
中国の奥地で、西洋人との接触もなく、自分たちの世界は何処に行ってもこんなもんだと思っている人たちにとっては、そういう問題は問題になり得ないが、沿岸地方で、情報が頻繁に行き交い、他の国の様子が解るようになると、自分たちはこのままでいいのか、という焦燥感に駆られることは当然であろうと思う。
アジアの平和ということを言う時、中国が覇権主義を振りまわさなければ、アジアは平穏に収まるところであるが、中国がいくら平和、平和と唱えても、周辺諸国はどこも中国の言う事を真に受けとらない。
中国にはそういう本質があるということを周辺諸国は皆知っているわけで、東西冷戦が終焉して20年になろうとしており、その間にヨーロッパはEUという広域連合をなしたが、これからはアジアの時代になる。
アジアの時代は、アジアの平和な時代という意味ではなく、全くその逆で、アジアの紛争の時代になると思う。
日本は中国と一衣帯水の関係にあるので、仲良くやりたいという根源的な希望は当然であるが、中国から日本を見たとき、彼らの目には日本が東夷、東の野蛮人という意識でしか見ていない。
我々はそのところをよくよく肝に銘じて話し合いに応じなければならない。
中国人には、我々の価値観としての美徳は通じないわけで、相手を慮るとか、謙譲の美徳とか、寡黙の美意識とか、腹芸とか、そういう日本人固有の政治的手法はいささかも通じないと考えるべきだ。
我々と中国人では、そもそも根本的な価値観が自ずと違っているわけで、日本人同士なら通じ合えるようなことも全く通じないばかりか、それを逆手にとって攻撃さえしかねない。
けれども、そういう中国の特質であるが故に、彼らは様々トラブルを2国間の問題として処理したがるが、これは彼らの常とう手段なわけで、そういう彼らの術中に嵌らないように対抗しなければならない。
最近、中国も海軍力を強化してきたので、その自信の表れとして南シナ海で周辺諸国と様々なトラブルを引き起こしているが、その個々の案件をそれぞれに2国間の問題として対応しようとしている。
それを許せばアジアの周辺諸国は非常に不利になるわけで、こういうケースでは当然のこと、国際機関に裁定を委ねるようにすべきである。
我々の場合でも、アジアの周辺から言われなき非難を受けた時は、その事実を事実として国際機関に委ねて、国際機関の裁定を仰ぐという方針がベターだと思うが、こういう問題になると須らく外務省の所管になるわけで、その外務省が本来の自分たちの任務を真に理解していない節が往々に見られる。
最近、中国が海軍力をつけて南シナ海に活躍の場を広げて来たというのは、歴史的に見れば太古の昔からの漢民族の行為がそのまま続いていることと同じであるが、それが21世紀という時代にはどういう影響が出るかという点だと思う。
南シナ海でも、東シナ海でも、日本海でも、人間のやっている行為は何ら変わることがないが、そのツールが大きく変わったということだ。
ツールが変わったと同時に、社会の規模が太古の時代とは大きく変わっているので、その影響力も点と線の繋がりを越えて、重層化した面の広さになってしまった。
だから、それに応じた対応が求められるということだ。
この三つの海、南シナ海、東シナ海、日本海を抱え込み、アジア大陸の大部分を包含している中国という国の21世紀の立ち位置というのは、非常に重要なポイントにいると思う。
世界は中国の存在抜きにはあり得ないわけで、その意味で19世紀の末においては『眠れる獅子』と言われ、眠っていたからこそ、東海の小島の日本に敗北してしまったが、この事実は彼の地の人々にとっては耐えがたい屈辱であったに違いない。
彼らも紅毛碧眼の西洋人に敗れるのならばまだそれほど自尊心が傷つくことはなかったが、こともあろうに自分たちが夷狄として蔑んでいた日本にだけは負けたくなかった、というのが本音だったろうと思う。
その敗北の理由を検証することなく、悔しさの根源を自分たち怠惰であったからという風には考えずに、相手が悪いから自分たちが負けた、という論法にすり替えるのが彼らの潜在意識である。
21世紀のアジアは、もう過去の覇権主義では成り立たないと思う。
民族の壁を越えて協力し合わなければ、モンゴロイド系の人々の口を養うことが不可能になるのではないかと思う。
中国の民が一様に近代的な生活を享受するようになれば、必然的に資源の枯渇を招くことは当然で、それを防ぐためには、個々の主権や個々の国益を主張し合っていては、解決の糸口は見つからない。
中国の13憶の民が全て近代的な生活を営むようになれば、中国そのものの地形が大きく変わってしまうと思う。
それは言い方を変えれば、地球そのものが13憶人の中国人によって占有されてしまうということでもある。
テレビのニュースを漠然と眺めていると、世界の映像が見ようとせずとも目に飛び込んでくるが、その映像から推察するに、世界にはまだまだ開発可能な土地がいくらでもあるように見える。
それが開発されないまま残っているということは、過去のテクノロジ-では経済的にコストが見合わなかったからに他ならない。
こういうことを考えると21世紀のアジアは、個々の国の主権を限りなく矮小化して、その分、相互扶助を大きくすべきであるが、そのリーダー・シップを本来ならば中国に取ってもらいたいところである。
ところが、中国人の潜在意識、漢民族のDNAのことを考えると、中国の民が人の為に力を貸すという行為が出来るかどうか甚だ不安である。
地球上のあらゆる民族は、その民族固有の考え方というのがあるわけで、中国人には中国人固有の、他に例ない独特の考え方があり、日本人には日本人固有の思考方法があることは言うまでもない。
この世に生まれ出た赤ん坊は、両親の庇護の元に幼児時代を過ごすし、その子供が幼児から児童、青年という生育過程においても、それぞれ両親や地域社会の庇護のもとで生育するわけで、その間に当然のことその民族の因習や慣習と同時に、ものの考え方も習得するわけで、結果としてその民族の固有の思考形式が成立することになる。
それが中国人の場合、華夷秩序であり、中華思想であり、唯我独尊的な個人主義であるわけで、そこには民主的な物の考え方は存在しないということだ。
だから彼らには民主的という概念そのものが理解不能、想定外の事柄であって、民主主義というのは彼らの政治理念になり得ないのであろう。
各人が同じ立場で意見を述べ合う、同じ資格で思ったことを述べ合う、というイメージが掴み切れていないと思う。
会議のテーブルについたものが同じ参加資格で、同じ発言権に基づいて発言する、というイメージが理解出来ていないように思える。

「中国という世界」

2011-07-17 08:28:11 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「中国という世界」という本を読んだ。
著者は竹内実という人で、サブタイトルには「人、風土、近代」となっているが、一読した感想としては、中国について語ってはいるが、いくら語ったとしても結論はあり得ないということだ。
当然といえば当然のことで、中国の行く末に結論などある筈が無い。
この著者は、ご自身が中国で生まれて、戦後引き揚げて来ても尚のこと、中国研究に生涯を賭けたという感がする。
学問としての中国研究は、それはそれなりに有意義なものだと思うが、プロの学者として国費で研究生活を送ったというのであれば、その研究成果は国家に還元されて然るべきではなかろうか。
学問というものが、直ぐに人間の生活に応用のきくものばかりではない、ということも理解できるが、少なくとも国のお陰で研究されたものならば、その成果は国家に還元されて然るべきだと思う。
そういう屁理屈は脇に置いておいて、中国を研究するということは一体どういうことなのであろう。
現実に生きた人間の思考からすれば、今の自分の立ち位置から見て、中国という存在をどういう観点で見るかということだと思う。
人間の起源はアフリカにあると言われているが、アフリカに誕生した人類には3色の人種がいたようだ。
いわゆる白人と言われる白い肌の色の人々、その次が黄色人種と言われる黄色い肌の人々、その次が例の黒人という黒い肌の人々であるが、人類の起源の時点で、この3色の人間がどのようにして誕生したのか実に不思議だ。
アフリカで誕生した比較的白い色の人たちがヨーロパに向かったのは何となくわかるような気がする。
同時に、肌の色の黒い人たちがアフリカに居残ったのも何となくわかるかような気がする。
問題は、肌の色の黄色い黄色人種が アフリカを出てアジア大陸を横断して、ベーリング海峡を渡って尚もアメリカ大陸まで行ったという事実である。
このバイタリティーを考えると、その旺盛な増殖力というのは、黄色人種の特色ではないかと思う。
今の世界で、中国人を見掛けない地域というのは地球上には無いのではなかろうか。
私は西部劇が好きでよく見るが、あのジョン・ウエインの主演していた西部劇にも、ジョン・ウエインの身の回りを世話する従者として中国人が登場していたのを見て実に驚いたものだ。
インデアインと西部開拓者と騎兵隊が活躍していた同時代の中に、既に中国人がいたというところが実に驚きである。
それと合わせて、日本がアメリカと戦争し始めた時、アメリカは日本人のみを隔離したが、中国人は隔離しなかった。
この事実は、この時点で、既に中国人はアメリカ社会に認知されていたが、日本人は警戒されていたので、アメリカ社会に認知されていなかったということを指し示している。
あの戦争そのものでも、中国は日本を敵に回して、ちゃっかり連合国側に身を置いて、究極の日本叩きに成功している。
それとは別の視点から眺めて、新生中国になった以降も、又、新しい中国の中で文化大革命が起きた時も、中国人はいとも安易にアメリカに亡命している。
日本人でも、一人か二人という単位では世界各地で活躍している人もいようが、マスの存在として世界的規模で国際舞台で活躍しているケースが限られていると思う。
中国人が、地球規模で、国際舞台において活躍しているということは、彼らには自分の祖国という概念が存在していないのではなかろうか。
我々はこの世の生まれ出て、「生きる」ということを考える時は、自分一人がこの世の中で満ち足りれば、それで由という発想はしない。
自分の生は家族のためであり、親戚の為であり、会社の為であり、地域の人々の為であり、それが向上して国家の為ということを無意識に考えていると思う。
そういうことを意識的に考えなくとも、少なくとも自分以外の人の為に、ということは考えているわけで、人と人の連携の中で生かされているという思考だと思う。
ところが中国人にはこういう発想は微塵も存在しないわけで、自分の為ならば周囲の人を押しのけても、踏み越えてでも、徹底的に利用してでも、自分個人の為に使い切るという思考のようだ。
それは究極の個人主義の具現であって、我々同胞の中にもたまにはそういう人がいて、「世界の名も知らぬ僻地に一人の日本人がいる」などという形で報道されることがある。
ション・ウエインの映画を持ちだすまでもなく、戦後、一世を風靡した映画に『慕情』というのがあって、この映画は戦後の香港を舞台としているが、その中にも中国人の金持ち生き方というのは如実に語られている。
香港に赴任してきた新聞記者、ウイリアム・ホールディンの恋人ハン・スーインは、イギリスに留学した女医という設定でラブストーリーが展開するのだが、この女医さんハン・スーインの家族を描いた部分で、図らずも中国人の金持ちの生き方が垣間見えていた。
つまり、如何なる時代でも、中国人の金持ちは、自分の子弟をイギリスのようなキリスト教文化圏で勉強させるということである。
その事は、彼ら中国の金持ちは、将来的に如何なる国の生活様式が自分達の生き方の最も有利か、ということを確実に見抜いているということである。
蒋介石の奥さんである宋美麗は3人姉妹であるが、3人ともアメリカに留学しているわけで、この3人のアメリカでの影響力というのはかなりのもので、日本の敗戦にも大きく影響している気がしてならない。
中国人の金持ちが、自分の子弟の教育をキリスト教文化圏に送り出すということは、自分の国の伝統的な文化を否定しているということで、言い方を変えれば、自分は中国人としてのアイデンテティーを放棄しているということでもある。
中国人としてのアイデンテティーを放棄している以上、祖国という概念も持ち合わせていないわけで、如何なるところに居ようとも、そこが自分にとってベストかベストでないかという基準しかないということだ。
糸の切れた凧のようなもので、自分の帰属する土地を持たないので、時流によってあっちに流れ着いたり、こっちに流れ着いたりするということであろう。
問題は、このようにして世界をまたに活動できる人は、自分の意思で好きな場所に行けるが、そういうことの叶わない貧乏な人の群れの存在である。
海外進出が出来ず、国内に留まらざるを得ない人たちの群れである。
中国のニュースでは、しばしばあちこちの地方で暴動が起きたと報じられているが、今時、暴動なるものがそうたびたび起きるなどということは、我々の国ならば考えられないことである。
今年の3月11日に東日本大震災でも暴動などは起きておらず、避難中に盗難にあった事は報じられても、民衆が生き残った金持ちの家を襲うなどということはなかった。
何かの拍子に暴動が起きるということは、治安が極めて悪いということで、その事は同時に、民衆の民度が低い、民主化の度合いが極めて低いということの表れでもある。
中国の現状を見て、金持ちはアメリカに子弟を送って高度な教育を受けさせ、もう一方では社会のちょっとした変動ですぐに暴動が起きるということは、中国全体が未だに混沌としているということに他ならない。
しかし、この混沌がわが国のすぐ隣で収まる気配も見せずにうごめいている事実を、我々は肝に銘じておく必要がある。
中国の今の躍進は、世界が中国製品を買っているから成り立っているわけで、中国製品の特質は、ただただ価格が安いという点だけがセールス・ポイントになっている。
社会が高度化して来ると、如何なる社会でも人件費は高騰する。
その高騰した社会では物つくりのコストは非常に高くなり、人件費の安い地域からの輸入に頼らざるを得なくなるので、今の中国が繁栄を極めているのである。
今、我々が憂うべきことは、中国社会が繁栄の頂点を極めた時、「経済に見合う軍事力」という考えを押し出してくるのではないか、という危惧である。
既にその兆候は出始めているわけで、それに対して我々の側は戦後66年間も「経済に見合う軍事力」などという発想を思い描いた事が無い。
この発想のギャップを如何に考えるかが今の最大の問題なのであろう。

「満鉄と満州事変・意外史」

2011-07-14 07:00:16 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「満鉄と満州事変・意外史」という本を読んだ。
標題の通り南満州鉄道と満州事変を描いた著作であったが、満州事変に如何に満鉄が貢献したかという視点で描かれている。
私はどういうものか満州という言葉を聞くと、誘蛾灯に寄って行く虫のように何となくそれに近づいてしまう。
満州に関する体験は何一つないにもかかわらず、満州と聴くと何となく赤い夕日の沈む荒野のイメージが目の前に現れて、郷愁が注がれるような気持ちになるが、私自身は満州に関わる如何なる体験も持ち合わせておらず、全くの空想の世界である。
昭和15年、1940年生まれの私が、満州の実態を知るわけもなく、親戚縁者にも満州で生活した人が一人もいないにも関わらず、満州という言葉には何かしら惹かれるものがある。
この年になるまでに、様々な本で読んだ満州にまつわる印象は、日本の軍部、特に関東軍が無理やり中国東北部に作り上げた傀儡国家というイメージでしかなかった。
しかし、様々な本を読めば読むほど、単純にそう言い切れるものではなさそうだ、という懐疑的な念が湧きたつようになってきた。
これは私の持論であるが、歴史を善悪、正邪、善し悪し、虚実という価値観で以て推し量ってはならないと思っている。
私の考え方では、歴史とは人間の生き様の記録であって、生き馬の目を抜くこの世を生き切るためには、倫理としての善悪、正邪、善し悪し、虚実という価値観を信条としていては生き残れないと思う。
だから、それぞれの立場で、自分の立ち位置によって、それぞれに違った歴史があるのが当然だと思っている。
今の中華人民共和国が、南京大虐殺の犠牲者を30万人だというのは、あくまでも彼らの言い分であって、その30万という数字が、正しいとか正しくないと議論することは意味がないことだと思う。
先方がそう言えば、こちらは論拠を示して倫理的に反論すればいいわけで、その反論する努力を怠っていることこそが問題なのである。
反論すれば当然向こうもまた反論するが、その反論の応酬を恐れてはならないことは言うまでもない。
しかし、私はこの満州という国を、中国もソ連も、日本の経営のままに任せておいてくれたならば、世界の歴史は自ずと今と異なる道を歩んでいるように思えてならない。
満州国の建国は1931年昭和6年の柳条湖事件が発端となって、関東軍が中国東北部の全域を手中に収めて、そこに満州族のラスト・エンペラー宣統帝溥儀を擁立して、満州国を作り上げたというものである。
中国の本来の地に、勝手に日本の関東軍が傀儡国家を作り上げたことが侵略に値するからケシカラン、というものであるが、この地が果たして本当に漢民族の土地であったどうかは、大いに疑問のあるところである。
この満州国が国として存立しえた期間は、1932年昭和7年から1945年昭和20年までの13年間であったが、この13年間、この地域に住んだ人たちは皆その統治の優れた面を認識していたように思う。
この地域には当然のこと漢民族も、満州族も、朝鮮人も、モンゴル人も、ロシア人も入り混じって、それこそ五族共和で生きていたと思う。
こういう複合国家であって見れば、細部にはそれこそ不平不満が鬱積していたとしても不思議ではなく、今その不平不満を取り上げて、日本人が抑圧していたという言い分は整合性を欠く。
確かに、満州国の官吏は全て満州族の人に任せていたが、内面指導という言い方で、日本人が後ろで糸を引いていたから傀儡だという言い分はもっともなことである。
しかし、清朝においては、そういう日本人の内面指導が無かったからこそ、辛亥革命で紫禁城を追われたではないか。
20世紀の初頭、日本の年号でいえば昭和の初期のアジアにおいては、まさしく帝国主義が渦を巻いて輻輳していたことから考えると、アジアの安定の為には日本人の躍進に任せた方がどれだけ合理的であったか判らない。
日本人の中にも悪人、不道徳な者、腹黒い輩が大勢紛れ込んでいたことは確かであるが、相対的には真面目一方で、アジアに軸足を乗せている日本人は、真からアジアのことを考えていたに違いない。
しかし、その日本人が一歩中国に地に足を踏み入れると、中国人の側は言われのない優越感に浸り、日本蔑視の態度に出るのである。
この時、中国の地に足を踏み入れた日本人は、日清・日露の戦争で勝利した成り上がりの日本、傲慢に増長した日本人であって、彼らが中国古来の中華思想と真正面から精神的な衝突をしたということになる。
無理もない話で、彼らにしてみれば日本人は中華の外側に居る東夷、いわゆる野蛮人なわけで、そういう認識を有史以来引き継いでいるので、中国に地に足を踏み入れた日本人を、彼らの視点から見れば侮日、嫌日、蔑視、排日、日貨排斥、不売運動になるのも自然の流れではある。
ところが旧満州、今の中国東北部というのは漢民にとっては「化外の地」であって、ここでの対日感情は、さほど悪くはなかったのである。
対日感情うんぬんという前に、この地は漢民族からすればそれこそ不毛の大地と見做されていたわけで、好き好んで行くべき土地ではなかったはずである。
そういう旧来の慣習を超越して、もっと根源的な要因はコミ二ズム、いわゆる共産主義の浸透であった。
共産主義者というのは、一目でわかる標識を付けているわけではなく、馬賊、匪賊、蒋介石の国民党政府軍の中にも、満鉄職員の中にも、恐らく旧日本帝国陸軍、関東軍の中にもいたに違いないと思う。
現に、満州事変のきっかけとなった柳条湖の事件も、後の中華人共和国の周恩来副主席の言葉としては、共産党員の功績として讃えられているわけで、同じ事件でも自分の手柄とする場合と、相手に責任をなすりつける場合とがあるわけで、歴史の評価は安易な価値観では定めることが出来ないということである。
しかし、満州国というのは人類の成し得た最高の統治ではなかったかと思う。
「傀儡として満州族の官吏を操縦しておきながら、最高の統治とは何事だ」という反論が聞こえてくるが、日本が後ろで後見していなければ、また清朝の滅亡を繰り返すではないか。
満州国というのは20世紀の理想の王国であったような気がしてならない。
満州という土地は、第2次世界大戦後も日本人の経営に任せられていたならば、地球規模で世界の情勢が変わっていたと思う。
何故日本人のよる満州経営が優れていたかといえば、我々の同胞の歴史も、中国の歴史同様に古いわけで、内地で何かをやろうと思えば、様々な因習や慣習や前例が立ちふさがることになり、若者は思いきったことが出来ない。
ところが満州では、そういう旧習や旧弊が全くないわけで、思ったことが思った通りに実施できるので真っ白なキャンバスの思いっきり自由に絵が描けるという状況であったと思う。
そういう環境をフォローしたのが共産主義者であったわけで、彼らはここでは革命を目指すような青臭い手法をとらなくとも、旧習や旧弊が無い土地なのだから、思い通りに運動が可能であったにちがいいない。
日本の敗戦は、こういう青写真を全て水泡に帰してしまったわけで、ロシアにしろ、国民政府、あるいは中共政府も、日本の残した遺産を食いつぶした感がする。
一度敷いた鉄路を撤去したという意味ではないが、この地方の経済成長を鈍らせたという意味で、日本の残した遺産を食いつぶしたと言っているのである。
この時の経済成長の鈍化は、中華人民共和国にとっては大きな代償だったと思う。
満州事件を引き起こし、その後、満州国の建国に奔走した関東軍の高級将校も、この満州という土地がアメリカ合衆国とまさしく類似している点に気が付いていない。
事の張本人である石原莞爾は、最終戦争論という論文で、日本は最終的にはアメリカと戦うことになると論破していたが、その為には中国と戦争してはならないと説いていた。
ところが、日本は須らくそれと逆の道を歩んだが、満州とアメリカが酷似してるという点には気が付いていなかったみたいだ。
要するに、真新しい土地で、古い因習や慣習が一切存在しない土地なので、そこに入って来た人は、古い束縛を考慮することなく、思ったことを思った通りに実践できる環境がある。
そこに新しいエネルギーの根源があったわけで、進化の度合いには目を見張るものがあったわけだ。
その意味で、満州国も、その後の経営を日本人に任せられたならばアメリカに次ぐ大経済大国になっていたかもしれない。
日本の敗戦で日本人は彼の地から引き揚げてしまったので、再びあの地は中華人民共和国にとっても「化外の地」でしかなくなったわけで、それはある意味で無理もない話ではある。
何となれば、あの地は漢民族の土地ではなく、満州人の土地であるからして、漢民族としては関心が無いのも無理からぬ話である。
しかし、漢民族と言えども、いや漢民族なるが故に、覇権主義は有史以来連綿と持ち続けているので、その意味で「中国の領土だ」という意識は棄てがたいものがある。
日本人と中国人という対立軸でこの両者を眺めてみると、中国人のしたたかさは日本人の比ではなく、我々はそのしたたかさという点では足元にも及ばない。
お互いに民族が違うのだから、ものの考え方が違っても不思議ではないが、我々はまことに生真面目なのもだから、その違いをどう克服しようかと考える。
先方は、その違いを克服しようなどとは考えることなく、違いは違いのまま、平行線のままで平気でいるのである。
自分の方が相手に合わせるなどという発想は微塵もない。
ただし、それに損得勘定が絡むと、そのバランスに合わせて柔軟に対応してくるが、こういう清濁併せ飲む対応は我々のもっとも不得意とするところで、我々はどうしても生真面目に事に当たってしまう。
例えば、相手と交わした約束でも、我々は真面目に順守しよう、しなければと考えるが、彼らはそういう順法精神は極めて希薄で、それこそ臨機応変に対応している。
強硬に約束履行を迫られれば、しぶしぶそれに応じるが、甘い対応をしていれば、何時まで経ても約束を履行する気にはならないのである。
こういう現実を日本の法治主義と言い、中国の人知主義とも言い表しているが、近代社会は法を基準としない社会ではあり得ず、行きあたりばったりの人知主義では成り立たないはずである。
だから、満州国の建国に鑑みて、これを日本の侵略という見方をすると、その日本の頸木から解かれた戦後は、もっともっと発展してしかるべきではないのか、ということが言える。
中華人民共和国になってからというもの、この地方の情報はあまり日本には入ってこなかった。
「竹のカーテン」とも言われて、共産主義者がこの地方を治めている間は、その統治があまり良いものではなかったみたいで、内部の様子を窺い知ることが出来なかった。
ということは、あまり目覚ましい発展をしていなかったということになると思う。
この本の末尾には「今、奉天の街には旧日本の建築物がそのまま残っていて昔を偲ぶ事が出来る」と書かれているが、戦後66年も経っているにもかかわらず、そういう様子であるとするならば、その間の経済発展は何もなかったということになるではないか。
日本の街で、66年も前のものがそのまま残っているなどということがあれば、それは神社仏閣のような観光資源であって、経済活動の表舞台ではそういう場面はあり得ない。
満州という土地は、漢民族からすれば「化外の地」であるわけで、そうであるとするならば、漢民族はその地を完全なる特別区に指定して、かつての理念であった五族協和、王道楽土のユートピアを建設してしかるべきだと思う。
ところが漢民族というのは、覇権主義というものを民族のDNAとして刷り込まれてしまっているので、他者が自分たちの隣で豊かな生活をしているのを、指を咥えて眺めるなどという屈辱的なことに耐えられないので、抗議デモということになるのであろう。
基本的に、共産主義の中国では、人民の権利としてのデモは許されないので、中国のデモ、示威運動というのはすべからく中国共産党のひも付きデモと見做さなければならない。
地球規模で見て、中国人の世界進出は実に目を見張るものがあって、地球上で中国人の居ない地域というのはあり得ないのではなかろうか。
太平洋戦争の遠因には、アメリカにおける日本人の移民の問題もあったに違いなく、戦争がはじまるとアメリカは日本人を隔離して収容所に入れてしまったが、その時でも在米日本人よりも在米シナ人の方が数の上では多かったと思う。
しかし、シナ人にはそういう措置を取らず、日本人だけを隔離したということは、西洋人、ヨーロッパ系の白人、アメリカのWASPにとって、シナ人は少しも怖くないが、日本人は怖かったということである。
地球規模で見てユダヤ人は世界中で嫌われているが、何故ユダヤ人が嫌われるかといえば、彼らはあまりにも頭が良いので、全ての組織のトップの座を全部彼らに浚われてしまうからだと私は考える。
まさしく「出る杭は打たれる」のであって、日本人が何かで頑張ると、世界中が日本パッシングに走るのである。
満州国の建国についても、この時にアメリカの鉄道王ハリマンが、この地の鉄道を共同経営しようと提案してきた時に、それを聞き入れておれば、その後の歴史は今と変わったものになっていたかもしれない。
満州の地に、アメリカを一枚噛ませておけば、その後の歴史は大きく変わっていたに違いない。
満州国の建国の理念は、いわゆるロシアの南下の防止であったはずで、だとすればそこにアメリカを一枚噛ませておけば、より有効な手段となりえたに違いないと思うが、石原莞爾ならばこのアイデアをどう評価するであろう。
我々は満州国を13年間統治し、朝鮮は36年間、台湾は約56年間統治したが、今考えて見ても、これらの人々は日本が統治していた時期が一番幸せだったのではなかろうか。
満州における日本人に対するトラブルの中には、朝鮮人が日本国籍になったので、日本人としてシナ人に横柄な態度をとったというのもあるようで、戦後の対日非難の中には、そういうケースも多々あると考えなければならない。
同時に、真から日本人になり切り、日本人であることをこの上ない誇りに思っている人たちも数限りなくいたことを忘れてはならない。
そういう人たちにとって、日本の植民地支配というのは紛れもない至福の時間であったわけで、日本の統治が及ばなくなった途端に、それこそ地獄が口を開けていたということになったではないか。
そういう人たちが、焼け跡から不死鳥のように立ち上がった日本を見ると、それに追従し切れない彼らは、自分達の政治不信のガス抜きを、日本パッシングでする以外に、自らの鬱憤を晴らす場所が無いのである。
普通に冷静に考えて、自分達の政治不信、自分達の政治課題を、日本の所為にして真の前進があるわけないではないか。
日本がかつて台湾、朝鮮、満州を植民地支配したという言い方は、基本的に間違っていると思う。
確かに、これらの土地を統治する初期の段階では、武力の行使による武断政治もあったには違いないが、統治の理念としては、これらの土地を植民地などという概念で捉えていたわけではない。
現地人を搾取しない植民地経営などということはあり得ないではないか。
過去の日本の行って来た外地経営に、植民地経営という言葉が当てはまらないとすると、それに該当する言葉が他にない。
台湾でも、朝鮮でも、満州でも、現地の社会的インフラ整備に内地の国民の血税をどんどん注ぎ込んだわけで、こんな植民地経営などありうるわけが無い。
満州においては、この時点で満鉄という会社があったので、必ずしも国民の血税というのは当たらないかもしれないが、日本側の持ち出しであることに変わりはない。
しかし、末端では異民族どうしが肩をすり合わせて生きているので、様々なトラブルがあることは当然であろう。
日本人だからと言って、現地の人々を見下して威張る人間も少なからずいたとは思う。
偽日本人になり済ます不逞の輩もいたであろう。
だからと言って、日本が彼らを抑圧したという言い分には大きな語弊があると思う。
昨今のアジア諸国からの日本へ対する様々な批判も、彼らと我々では倫理観に大きな隔たりがあるので、彼らは彼らの論理で攻めてくるが、それに対して我々も我々の正当性を、論理的にきちんとした合理性に基づいて説明すべきで、相手が言って来たからすぐ謝罪するでは話にならない。
外交のイロハのイの字も知らないということで、本人の無知・無能を天下に曝しているようなものである。
こういう外交センスの政治家は実に国辱もので、石を以て追われて当然である。
こういう日本の植民地支配は、世界的に見ても極めて異例なことで、その意味で第1次世界大戦後のパリの講和会議の席上で日本が人種差別撤廃を提起したのと同じ程度の奇異なことだと思う。
この事実こそが「日本の常識は世界の非常識で、世界の非常識は日本の常識」という言葉に見事に現れているが、日本の植民地支配も、その世界の非常識の典型的な例だと思う。
この日本の真意を、真に理解するアジアの諸国民が、日本の回りに居ないのは、言うまでもなく中国の中華思想がアジアの民には潜在意識として刷り込まれているからである。
中国人、韓国人、北朝鮮から日本を見れば、確かに日本の文化は彼らの下流に位置しているので、文化に関しては彼らも鼻が高いが、こと過去の歴史ということになると、彼らが日本に支配されたと言うことは、鼻持ちならない怨恨として残っているのである。
歴史がそうなったということは、双方でそうなるべく選択を経てきた結果であって、何処かで違う選択をしておれば歴史は変わっていたかもしれない。

「官僚亡国」

2011-07-13 06:33:11 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「官僚亡国」という本を読んだ。
サブタイトルには「軍部と霞が関エリート、失敗の本質」となっていた。
著者は保阪正康氏。
標題から全編、官僚の悪口が書かれているかと思ったら、最初の一編だけで、後は官僚とは別の旧日本軍への批判となっていた。
旧日本軍の高級将校、高級参謀も、突き詰めれば官僚といえるので、その意味では標題の真意が貫かれているとも言えないこともない。
そもそも官僚というものは、為政者の意を汲んで統治を肩代わりする存在であろうと思う。
言い換えれば、彼らは統治者の側に身をすり寄せるべきが本来の姿ではないかと思うが、近代の主権国家では、統治者と国民の間に在って、双方の利害を調整すべき存在ではないかと思う。
統治する側とされる側という区分わけをしたとき、統治される側が心安らかな生活が営める治世であるとするならば、それは統治する側もされる側も双方ともに満足できるが、それはやはり人の世の常として、そういう理想的な治世というのは容易には実現できない。
どちらか一方に不平不満が偏るのも致し方ない。
統治する側としては有能な官吏、つまり統治する側にとって都合のいい官吏を獲得したい、と願うのは当然のことであって、自分の都合の良い尺度で以て人選をするのも当然の帰結である。
この時、自分にとって都合の良い尺度というのは、必ずしも縁故採用が優れているとは限らないわけで、公明正大な試験を課して、公正中立な視点から人選をするという方法は、極めて民主的な手法のように見える。
官吏を人選する手法としては、公明正大なペーパー・チェックを課すというのは優れているが、問題は、それで選抜された側の倫理観に在る。
古代中国の科挙の制度は、そういう試験の篩を通過した人士は、官吏としての在籍中に私腹を肥やす事も大いに認められていたわけで、既定の手当ての他に、自己の才覚で私腹を肥やす事は、その人の能力の一部とみなされていた。
これは我々の感覚でいえば贈収賄であり、袖の下であるが、それが中国の文化であり、固有の文化であるからには、日本人の感覚で「あれは悪弊だ!」ということは相手に対して失礼に当たる。
ところが、日本人の感覚からすると、難しいペーパー・チェックをクリアして任官した官吏・官僚は、下々から贈収賄を受けたり、袖の下を受けるとは何事だ、公僕に徹すべきだ、という感覚に映る。
中国の文化と日本人の文化は根底から違っているわけで、我々の感覚からすれば、日本の官僚は、法律で定められて俸給以外に金品を受けとってはならないという認識である。
我々のような一般庶民から官僚を眺めた時、昔ならば高等文官試験、今ならば国家公務員試験1種をパスするような人は、まさしく後光の射した金品卑しからぬ学識経験豊富な雲上人のように見えるが、中味は同じ人間なわけで、その心の内も我々同様、卑しさの塊であったとしても何ら不思議ではない。
そもそも人の心の内はペーパー・チェックでは計り切れないことはいうまでもない。
為政者の意を汲んで国民を治めている官僚だからこそ、最初から恵まれた俸給が支給されているわけで、官僚が人として生きていく分には、何不自由なく暮らせると思うが、そこは人の子、金はいくらあっても邪魔にはならないわけで、金銭欲というのは尽きるところが無い。
だから、十分に報酬はもらっているにもかかわらず、ついつい収賄や袖の下に手が出てしまうのだろうけれど、それは個々の人間の本質的な欲望なわけで、その欲望に負けるか負けないかが、その人の倫理観の境目になるのである。
充分に満足できる報酬を得ながら、それでもなお私腹を肥したいという人間は、その人の持って生まれた性癖が元々卑しいわけで、その卑しい性癖は先祖代々遺伝するものであり、今の言葉でいえばそれぞれの個人にDNAとして刷り込まれているといえる。
しかし、それは外見からは決して判別できないわけで、事前に選別することは不可能である。
問題は、そういう人でもたった一回のペーパーチ・ェックをクリアーすれば、後は何の篩も掛けられないまま、倫理観の正常な人と同一の条件下で立身出世が出来るということである。
こういう職域、つまり統治者の意向を汲んで統治されるものとの橋渡しをすべく、国家公務員を目指し、天下国家に貢献するという立派な口上を述べて応募して来る輩は、基本的に口舌の徒であって、本音の部分ではそんな殊勝な心の根で集ってきているわけではない。
官吏に応募して来るという人間は、その応募するという時点で、楽して私欲を肥やし、労せず立身出世をする気で来ているので、応募の時点で既にその心が邪なわけであるが、そういう人に限って、自分の本音を上手にカモフラージュするので、誰もその人の下心には気がつかないのである。
日本で国家公務員を目指すということはそういうことだと思う。
主権国家の行政は、単純な独裁的なシステムではないわけで、幾層にもシステム化された階層があって、トータルとして主権国家が主権国家として機能している。
よって、彼らの報酬、収入というのは、そう多くはないのが普通である。それは当然のことだ。
その国の国民が納めた税金の中から、その国の行政サービスに携わった人にペイするのだから、そう多くないのは当然である。
給料はそう多くはないが、行政サービスというのは誰かがしなければならない仕事であって、その誰かがしなければならない仕事を自分がしているのだという誇りで、彼らは仕事をしていると想像する。
こういう信念であれば、公僕という言葉が一番ぴったり合うが、高級官僚と言われる人々は、そうではないと思う。
そもそも国家の行政サービスの階梯の上の方に自分の身を置くことを狙って、それを志願して来るという根性が卑しい。
その本音の卑しさをカモフラージュするために、「国家に尽くす」だとか、「奉仕の精神だ」とか、「国に殉ずる」などという綺麗な言葉で誤魔化そうとしているが、その言葉の裏にある本音の部分が非常に汚い。
金が欲しければ素直に実業界に身を投ずればいいし、地位・権力が欲しければ素直に政治家になれば良いわけで、そういう気持ちをストレートに表明するには、自分の出自の卑しさが邪魔するわけで、そういう人の倫理観の欠如は個人の資質によるものではなく、その家系のDNAとして引きつがれていると思う。
昔の高等文官試験、今の国家公務員1級試験をクリアーしようと思えば、引き籠りや、登校拒否をするような落ちこぼれの者ではありえないわけで、当然のこと、優秀な大学を優秀な成績で卒業する実力が無いことにはそれは成り立たないである。
ところが優秀な大学で優秀な教育をいくら受けたところで、先祖代々引きついできたDNA、つまり卑しい心根、倫理観の欠落というのは教育では補填することが出来ない。
ペーパー・チェックはその人の持つ心の卑しさは選別できず、点数のみ既定の値をクリアーしておれば、味噌も糞も一緒くたに扱われるということである。
味噌も糞も一緒くたにすることが究極の民主化でもあるわけで、昨今では人を採用する時に出自は勿論、身元調査、身上調査すら御法度となっているので、高級官僚のみならず、民間の優良企業でも不祥事が後を絶たないのである。
そもそも人が人を管理している限り、官僚のみならず、あらゆる組織で人心の乱れ、綱紀の緩み、モラルの低下ということはついて回るので、官僚のみの問題ではない。
この本は題名は「官僚亡国」となっているので、今の日本の官僚の問題であるかのような印象を受けるが、実質は旧日本軍の高級将校、高級参謀を官僚と見立てて糾弾している。
それは私の眼から見ても当然のことで、日本の敗因は、旧日本軍の高級将校、高級参謀が、その全てが見事に官僚化してしまっていたからこそ、あのような惨めな敗北を期したものと考えている。
あの時代、当時の日本軍の高級将校、高級参謀は、自分が軍人であることを忘れてしまって、官僚になり変わってしまっていたので、戦争そのものを知らなかったといえる。
あの戦争を振り返ってみても、私個人は戦争の素人、軍事教育を受けたことがないズブの素人であるが、あの真珠湾攻撃を見て、「その後どうするのだ?」ということを誰も考えていなかった、という事をどういう風に考えたらいいのであろう。
いよいよ敗北が目に前に迫って来たとき、昭和天皇がポツダム宣言を受諾する決意を固められたが、沖縄が落ち、東京が焼け野原になり、広島・長崎に原爆が落ち、ソ連が参戦して来た、という状況の中で、尚、徹底抗戦を唱える我々の同胞の軍人の存在を、どういう風に考えたらいいのであろう。
陸軍の青年将校クラスの単なる思い込みぐらいならば、まだ理解の枠内に収まるが、東條元首相までがそういう認識であったというに至っては、空いた口が塞がらないではないか。
私は個人的には、東條英機という人は悲劇の人で、運が悪い人ではなかったかと思っていたが、自分が首相をおりた後で、ポツダム宣言受諾の決定がなされたことに切歯扼腕して悔しがっていたと記されているのを見て、彼の評価が全部ひっくり返ってしまった。
世間では東條英機の評価があまりにも悪いので、何処かに美点の一つもあるのではないか、と彼を擁護する思いでいたが、やはり世間の目は正しかったということになってしまった。
開戦の時には、「開戦を阻止出来なかった」と一人涙を流したともいわれているが、その同じ人が何故に戦争継続、徹底抗戦を願うなどという現状認識に陥ったのであろう。
自分の目の前の現状、焼け野原の東京の姿を見ただけでも、これ以上の抗戦が如何に無意味か、ということが分からないということは一体どういうことなのだろう。
これと同じ心境の人は彼だけではなく阿南惟幾や梅津美冶郎クラスでも心情的にこれに最も近いわけで、あの時期の戦争指導者、軍の要職の人たちは、全て東條英機と似たり寄ったりの信条であった。
問題はここにあるわけで、あの時代の戦争指導者の考え方は一体どうなっていたのか、ということが最大の謎である。
参謀本部だとか、軍令部というような戦争の中枢にいた軍人のものの考え方は、一体どうなっていたのであろう。
こういうセクションに配属された人たちは、それこそエリート中のエリートであったはずなのに、彼らのする事は、まるでバカで頓珍漢なことばかりだ、ということは一体何がどうなっていたのだろう。
あの焼け野原の東京の街中に立って、それでもなお戦争を続けよう、本土決戦をしようという発想は、一体どこから出てくるのであろう。
昭和20年8月の時点で、あの時の戦争指導者は、もう既に戦争の勝敗を度外視して、ただただ自己の面子のみで戦争継続を唱え、もしそれを遂行すれば、結果としてどういう状況を呈するか、ということまで知恵というか、考えというか、先の見通しを持っていないということに他ならない。
この時の日本の戦争指導者の人たちは、もう既にこの時点に来るまでに、作戦の勝敗を度外視しており、ただただ自己の面子で、無理を承知で無意味な戦争を推し進めて来たわけで、その集大成として日本の敗北という結果になったものと考えられる。
ここで注意しなければならないことは、こういう戦争指導者にとって、誰の為の戦争か、日本の将兵は誰の為に戦っているのか、天皇陛下はこういう戦争を本当に望んでいるであろうか、という配慮が全く存在していないということである。
あの天皇制の軍国主義の元で、真に天皇の為の戦争であるとするならば、とてもあんな無意味でバカげた作戦はあえない。
天皇に対する忠心があるとするならば、作戦の失敗はただの失敗では済まされず、天皇の赤子を無駄に死なせた、という意味からも天皇に対して詫びねばならないはずである。
作戦に失敗した司令官に起死回生のチャンスを与えるなどありえぬ話であるが、戦争指導者にとってあの戦争が天皇の為の戦争ではなく、自分達の戦争であったが故に、ゲームをリセットするなどというバカな話が成り立っていたのである。
先にも述べたように、こういう高級官僚は基本的に優秀な人間が優秀な教育を受けて特別な環境で純粋培養されるので、広範な判断能力に欠け、井戸の中の蛙的思考、葦の髄から天覗く式発想に至ったということだと思う。
こういう戦争指導者にとっては、国民、市民、民衆、有象無象の輩、臣下、臣民、赤子というものの存在は意に介していないわけで、まるで家畜並みの存在で、彼らの為に自分が国益を擁護しているのだ、という自覚はさらさらない。
昭和20年8月15日の東京の街中に立ってみれば、これ以上の戦争継続が如何に無意味かということは自ずとわかると思う。
普通の家庭に普通に育った普通の大人ならば、普通に理解できたと思うが、当時の軍の一部から戦争指導者の中には、それが解らない人がいたということを今どう考えたらいいのであろう。
こういう戦争指導者から、戦うことを強要されていたとしたら、勝てる戦争でも勝てなくなるのも当然であろうと思う。
官僚というのは、政府の統治を代行するシステムであって、民主国家、いわゆる近代国家の政府というのは、国民の至福を追求することが政府、あるいは統治者の存在意義であったと考える。
統治するものとされるものの間に在って、その両者の関係調整をするのが本来の官僚の使命の筈で、政府も官僚も基本的には国民の至福を目指すものでなければならない。
戦前の日本においては、軍人がこの政府や官僚機構の中に入り込むことによって、つまり戦争を推し進め、それに勝利することで、日本国民の至福の追求に応えるつもりでいた。
ところが政府や官僚機構を占拠した軍人たちがあまりにも無能・無知であったが故に、日本は奈落の底に突き落とされ、東京は焼け野原と化し、広島・長崎には原爆が落ち、ソ連は落ち目の日本を見て水に落ちた犬を叩かんと参戦して来たのである。
その無能・無知の具体的な例が、この期に及んでも尚徹底抗戦を主張する政府要人の存在である。
戦後は、政府要人に軍人が参入することはなくなったが、軍人がいないのでそれだけモラルが向上したかといえば、やはりそういった部分ではモラルの向上はあり得ない。
その事は、その人の持つ基本的な道徳観の問題であって、個々の人間が生まれつき身に備えている性癖であって、職業や、受けた教育や、置かれた環境によっては是正されるものではない。
品行方正な特質は、その人が持って生まれた特質であって、モラルを順守できない人は、それこそ先祖代々心卑しき出自ということを実証していると思う。
今の日本の高級官僚は、須らく国家公務員試験1種をクリアーして、現在の地位を得ていると思うが、試験をクリアーした時点で、既に将来の生活設計も成り立っているわけで、それでも尚天下り先を勘案しつつ、業務を執り行うという姑息な生き方を納税者としてどう考えたらいいのであろう。
これも、戦前の軍官僚が天皇陛下のことや、国民のことや、銃後の人々のことを何も考えず、自分達の面子のみで、やみくもに戦争を推し進めた構図と瓜二つではないか。
そもそも昔の海兵や陸士、あるいは高文試験や国家公務員試験一種をクリアーできる人は、学校秀才なわけで、学科試験では極めて優秀な成績を修めることが出来るので、その分、先見の明も立ち、先の読みも確実で、身の処し方にもそつがなく、悪事にも巧妙に対処できる知恵と狡猾さを兼ね備えている。
無いのは道徳観のみで、モラルの欠如だけが彼らの欠点である。
彼らのこういう特質が国益の擁護に向かえば日本の為に非常に心強いが、惜しむらくはそういう才覚が本人の私利私欲に向かってしまうところがまことに残念である。
日本には大学と称する大人の遊園地が掃いて捨てるほどあって、この遊園地も表向きは高等教育の場となっているが、実質は遊園地そのもので、高等教育とは程遠いが、それでも一応は教育機関である。
こういう教育機関が掃いて捨てる程あるのに、モラルや道徳を教える学校が一つもないということは一体どういうことなのであろう。
そもそもモラルや道徳を学校で教えるという発想から間違っており、そういうものは全て家庭で教え、躾けるべきことであるが、日本人はそれぞれの家庭でそれをして来なかった。
それを教えるべき大人が、最初からモラルを欠き、道徳観、あるいは倫理観が無いのだから、そういう両親もとで生育した青少年が立派になるわけが無い。

「あの戦争になぜ負けたのか」

2011-07-11 06:57:13 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「あの戦争になぜ負けたのか」という本を読んだ。
6人の論客の対談の形になっているが、この標題そのものが私の長年の疑問でもあった。
私の思索も、この標題の回答を求めてさまざまな本を読み漁っては見たが、まだ確とした答えを見出したようにも思えない。
答えが無いということが、真の答えなのかもしれない。
人がこの世に生まれ出てくるのに理由などないように思う。
この世に生まれ出る赤ん坊は、自分の意思で生まれてくるわけではないと思う。
生まれて、両親の温かい庇護のもとで成長するにつれて、自分は何のためにこの世のいるのだろう、と自問自答することはあっても、自分がこの世の生まれ出た理由を探し求めても答えはないと思う。
戦争も、人間の誕生と同じで、それの起きる理由をカクカクシカジカと理由つけしても、それは人類の後知恵であって、利害の相対する社会、民族、国家の接点では、自然発生的にトラブルが起きるのは、自然の摂理だと思う。
しかし、一度起きた戦争には勝ち負けが付いて回るわけで、古代世界ならば負けた方は奴隷に身をやつすことになり、近代ならば賠償金を支払うということになる。
如何なる理由であれ、戦争に負ければ負けた方は過酷な人生を歩まねばならなくなるので、戦争には負けられないということになる。
この地球上には、様々な人種が様々な生活様式で生きているが、自然環境の変化でその人種間の生活の均衡が崩れることも往々にしてあるが、それでも人々は生きて行かねばならない。
従来の人種間、民族間、国家間の均衡が崩れた時、当然それらの接点ではトラブルが起きるわけで、この生きんがためのトラブルを、正邪とか、善し悪しとか、善不善という価値観では計り切れない問題だと思う。
戦争というからには全ての戦争が聖戦なわけで、それを見る視点の立場の違いで、聖戦であるべきものが侵略戦争にも見えることは往々にして存在する。
日本が日中戦争から対米戦に至るまでの戦争も、そういう戦争であったと思うが、問題は、一度始めた戦争は勝たねばならないということである。
戦争だから「勝ち負けは時の運」というのであれば、最初からそんな危ない橋は渡らないことで、勝つ自信のない時は、そんな戦争は初めからしないことである。
日本の昭和初期の軍人、戦争のプロフェッショナルの人たちは、その信念がを持たず、日清・日露の戦争の勝利がまさしく「時の運」であった事を綺麗さっぱり忘れてしまって、自分たちの実力と勘違いしたところに驕りが潜んでいたということだ。
私がこの問題を頭の中で考え続けて不思議に思うことは、昭和初期という時代に、海軍兵学校や陸軍士官学校に進学した人たちは、俺らが村俺らが町の一番の秀才・神童であったと言われている。
ところが、そういう人が偉くなると何故に児戯にも等しい稚拙な戦争をしたのかという疑問である。
普通に生育した普通の人が普通に考えても、どうにもつじつまの合わない不合理、非合理な戦争を、何故おっぱじめたのであろう。
旧帝国海軍が作戦を遂行しよという時に、何故に成績順に、ハンモクナンバーで司令官を指名して、適材適所に人員を配置しなかったのであろう。
本来、優秀であるべき人ならば、こういう不合理を自ら排除すべく、理性と知性が機能してしかるべきではないか。
組織のトップが作戦に失敗すれば、その作戦の指揮を執った司令官は、降格を含む懲罰を受けるのが当たり前の自然の有り体ではなかろうか。
しかし、大日本帝国海軍はそういう措置を取らなかったことを今どういう風に解釈すべきなのであろう。
私に言わしめれば、海軍の上層部は全て海軍兵学校の同窓生なわけで、良い意味でお仲間なので、お互いに庇い合うという美徳があったのかもしれないが、ことが戦争ともなれば、そういう庇い合いをしていては勝てる戦争も勝てなくなるのは火を見るより明らかで、歴史がその通りに軌跡を踏襲したではないか。
こんな判り切ったことを海軍の内側から是正できなかった、ということを今どういう風に考えたらいいのであろう。
これが、俺らが村俺らが町の一番の秀才のなれの果ての実績だったとしたら、海軍兵学校の教育は一体何であったのかということになるではないか。
陸軍でもこれと同じことが言えるわけで、こういう軍人養成機関としての士官学校では、一体どういう教育をしていたのだということになる。
これは、この時代の軍人があまりにもエリート化しすぎてしまって、官僚主義にどっぷりとつかりすぎてしまい、戦争を私物化してしまったということだと思う。
戦争を私物化するということは、言い方を変えれば、この時代の戦争について何も知らなかったということになる。
この本の中ではそれに言及して、日本は第1次世界大戦のとき、海軍は地中海にまで船を出したが、ほとんど参戦していないのも同然なので、この時代の戦争の実態を知らずに済ませてしまった、という言い方が成されていた。
至極妥当な見方だと思う。
しかし、日本も、近代国家の例にもれず、先進国には駐在武官を出しているので、その気になれば西洋の近代兵器の趨勢を知る機会は大いにあったものと推察する。
事実、この時代の駐在武官でも真面目な方はそういう観察を怠っていないが、それと合わせて報告を受けた内地にいる側が、その報告をどういう風に扱ったかも大いに考えなければならず、どうもまともに扱わなかったに違いない。
つまり、軍部そのものが官僚化してしまって、戦争の本質を何処かに置き忘れたということだ。
これは今の日本の現状を見ても一向に改善されていないように見える。
例えば、国家公務員1種試験をクリアーした若者が、ある期間の研修を受けた後、現場に配属されたとすると、その若者を受け入れた所管は、下にもおかぬ扱いで、自分の父親ほどのノンキャリア―のベテランが丁重に扱ってくれる。
ルーチン化した業務は全てベテランがそつなく処理してくれるので、新たに赴任したキャリア―官僚は、実質何もすることがなく、ただただそのセクションの利益を擁護さえすれば、それで存在価値は示せることになる。
ところが組織全体の動きということになると、何も知らない、何も分からない、何もしたことが無い、ということでキャリアーのポストに居座っているだけの存在になってしまう。
この状態のままでことが進んでしまい、組織全体の動きが結果として失敗であったとしても、組織の長として自分の失敗という実感が伴わないと思う。
なにしろ自分は何も知らないし、率先して命令を下したわけでもないので、何がどうなったか分からないまま、失敗だったということになるわけで、自分では自分に責任があることすら分からなかったに違いない。
従来はそれで通って来たからこそ、新たな作戦の司令官も、成績順・ハンモクナンバーで決まるというわけだ。
司令官と言っても、司令官自身は自分では何もしないわけで、全てスタッフがお膳立てしてくれたことを、オウム返しするだけのことだから、自分に責任があるなどとは考えてもいなかったに違いない。
巷の警察署や税務署にはときどきこういうケースがあるようで、若いエリートが喜び勇んで先頭に立って業務を推し進めようとすると、ベテランの署員は大迷惑するという話がある。
警察署や税務署ではそれで済ませれても、戦争の作戦ともなると敵味方共に人の命が掛かっているわけで、そうそう安易に済ませれるわけがないが、昭和の高級軍人や高級参謀は、案外こういう態度を通し続けていたものと想像する。
そもそも海軍兵学校でも陸軍士官学校でも、厳密に言うと戦術のみを教えて戦略については何も教えなかったのではないかと想像する。
海軍を例にとれば、兵学校で一番成績にいいものは戦艦を選択し、成績の悪い者ほど兵站や潜水艦に回されると聞く。
つまり、海軍全体として、兵站とか潜水艦の使い方に関しては全く評価が低く、一番の花形が戦艦というわけで、そういうところに優秀な成績の者に振り分けられるということである。
俺らが村俺らが町の一番の秀才と言われるような人たちは、先を読む能力にも優れているので、そういう人たちが成績順に戦艦の艦長を目指すということは、兵站や潜水艦の機能ということに全く無頓着のままでいるということで、私の言い方をすればバカだったということになる。
昭和16年12月7日の真珠湾攻撃をする時点で、いくら大日本帝国の海軍が優秀だとはいえ、太平洋全域に戦域を広げて、その後をどうするのだ、補給はどうするのだ、船団護衛はどうするのだ、という戦略が全く欠けていたではないか。
これが俺らが村俺らが町の一番の秀才と言われた人たちの行った愚昧な作戦の本質であって、その愚昧さには結局のところ海軍そのものが消滅するまで海軍内で誰一人気が付かずにいたわけだ。
これは戦争というものをシステマチックに考えるという発想に欠けていたわけで、昭和の軍人、俺らが村俺らが町の一番の秀才が集った人たちの行った、愚昧そのものの振る舞いである。
兵站にかんしても、船団護衛にかんしても、潜水艦の運用についても、旧日本海軍はこういうものに価値を認めていなかったので、海戦をシステムとして考えることが出来なかったのである。
我々の民族に古い言葉に「窮すれば通ず」というのがあるが、これは切羽つまれば何か新しいアイデアが湧いて現状を打開してくれるということを表しているが、帝国海軍ではいくら窮しても新しいアイデアが湧き出てこなかったということだ。
アイデアを出すには、それこそ柔軟な考え方が必要なわけで、海軍の上層部にはその新しいアイデアを生み出す柔軟性が無かったわけで、これを端的に言い表せばバカだったという一語に尽きる。
日本の軍艦は、敵の輸送船を沈めても戦果として評価しなかった、というのだから馬鹿馬鹿しくて話にならない。
潜水艦の運用でも、これを上手く運用すればかなり大きな戦果が期待できたであろうに、そういうものをむざむざ切り捨てていたのだから、空いた口がふさがらないではないか。
あの戦争で果敢に戦った将兵をバカ呼ばりするのは甚だ心苦しいが、あの戦争を指導した軍の上層部、高級将校、高級参謀たちの無能さにはほとほと嫌気がさしてくる。
彼らは戦争そのものを私物化してしまって、銃後の臣下の為に戦争をしていのではなく、ましてや天皇の為に戦争をしているのでもなく、ただただ自分達、軍人の、軍部の、軍組織の存在感を示すためだけに、戦争をしていたのである。
だからある作戦において、指揮官の采配が間違って大敗しても、指揮官は責任追及されることもなく、再び次の作戦に起用されるのである。
これは、軍人の、軍人の為の戦争であるからして、大敗した司令官・指揮官は、誰に対しても責任を感ずることなく、再び起死回生のチャンスが与えられるのである。
一度失敗した司令官が二度目に起死回生を計ることはあり得ない。
それが出来るならば最初の失敗はない筈である。
これは究極の官僚主義の具現であって、軍そのものが官僚主義に陥ってしまっていて、戦争の目的は何処かに忘れられてしまっていたことになる。
それと、この本においても、6人の論客が丁々発止と議論を展開しているが、ものの考え方の元にある発想という段階にまで掘り下げた議論が全くない。
地球規模で世界の在り方を見てみると、ヨーロッパに多い白色人種の人々は、モンゴロイド系のアジアの人々を、深層心理の中では今でも蔑視していると思う。
日本が、ドイツとイタリアと組んで三国同盟を結ぼうとしているとき、ドイツは狡猾にも中国の蒋介石政府に軍事援助をしているわけで、ヒットラーは日本に対して根から好意を持っていたわけではない。
ただただソ連に対するジェスチャーとして日本を利用しただけのことで、ヨーロッパの人々は、モンゴロイド系のアジアの人々を信用するなどということは決してありえない。
ただただ時と場合によっては、ちょっとだけ好意的に振舞うふりをするだけで、我々の側は利用されるだけである。
日本と中国が戦っているのを知りながら、ドイツは蒋介石に軍事援助をしているわけで、そのドイツと日本は同盟を結ぶというのだから、その陳腐さに空いた口がふさがらないではないか。
こういうことがその当時の政府の高官、軍部の高級将校に判らなかったのであろうか。
今の日本を例にとって、東京電力の福島第一原子力発電所のトラブルを見ても、やっている事は似たようなことだが、戦争ではないので人が滅多矢鱈と死ぬことはなく、その分のんびりとしているが、優秀な人たちの集団という風にはとても思えない。
我々同胞の組織は、どうしてこういう事態に陥ると正常に機能しなくなるのであろう。
いくら想定外の地震であったとしても、破損した原子炉を止めるのに有効な手段を講じきれないというのは、戦争を知らない軍人が戦争をするのと同じことで、専門家が専門家でなかったということになるではないか。
道端でウンコ座りしている餓鬼が原子力発電所を運転しているわけではなく、それなりの教育を受け、それなりの研修を受けた専門家が原子力発電所を運転しているわけで、その意味では戦争のプロが戦争をしている図と同じである。
しかし、それぞれにプロ、その道のプロフェッショナルであるにもかかわらず、それが正常に機能せず、紆余曲折を経て結果として失敗だった、ということは一体どういうことなのであろう。
昔の陸海軍軍人・高級将校、今の東京電力の社員が優秀だという評価は、いわゆる学校秀才として優秀であったわけで、学校秀才だからと言って、必ずしも世情に長けているとはいえず、何か事を成すという意味では、彼らはあまりにも無能であったということだ。
いくら無能な集団であったとしても、目の前にある組織を根底から作り替えることも叶わず、それは敗戦とか大地震という外圧でなければその組織そのものの再構築はあり得ないということになる。
子供のころに神童と呼ばれるほどの優秀な児童ならば、先を読む能力にも長けており、時流を読み解く観察力もあり、自分の進路も抜かりなく探り当てて、最小の努力で最高の金、あるいは名誉、あるいは評価を得る才覚を持っていると思う。
明治維新以降の、我々の同胞の小学生や児童のうちの優れたものは、好むと好まざると、そういう選択を経て、時流として一番脚光を浴び、世間体も良く、将来の待遇もいい職業として軍人の道を選んだに違いない。
それが戦後になると、もう軍人の道は選択肢とはなりえなかったので、その時の時流としては高度経済成長の時期でもあったので、産業界に身を置くことが一番身の保全にとって有利な選択となっていた。
子供の頃、優秀と言われた人ほど、時流という潮の目を読むのに長けているわけで、そういう人が選択する職業がその時々の一番の華やかな職業であったことは間違いない。
ところが時代も人も、年月を経ることで変わって行くもので、この時代の変化ということを充分に認識していないと、プロがプロでなくなってしまう。
プロなればこそ、自分の所管の領域のおける時代の変化には遅れることなく追従して行かねばならない。
ところが、大きな組織で暖かい居場所にのうのうとしていると、ついついそれに気が回らなくて、周囲の変化を見落としてしまう。
日本が戦争に負けるまでの海軍兵学校、いわゆる江田島の兵学校は、世界的にも極めて優れた軍人養成機関と称賛されていたが、そこの卒業生が指導した大東亜戦争では、何故にその優秀さが機能しえなかったのだろう。
優秀な兵学校に優秀な生徒が全国から蝟集してきていたのに、何故、兵站や潜水艦の運用に知恵とアイデアが湧き出てこなかったのだろう。
海戦をする、海の上で大砲を撃ち合うというのに、戦艦大和の艦長室はホテル並みの設備が整っていたというではないか。
戦争のツールとしての軍艦に、艦長の居室とは言え、ホテル並みの施設がいるかどうか、普通に考えれば自ずから答えは出る筈のものであるが、当時はそうでなかったということだ。
「何か間違っていませんか?」という疑問が当時の海軍軍人には湧いてこなかったのだろうか。
江田島を卒業したような人には、そういう感慨が湧かなかったのであろうか。
江田島海軍兵学校の施設、戦艦大和という戦争のツール、こういうものは全てハード・ウエアーなわけで、要するに入れものであるが、戦争というのは人間の智恵と知恵の戦いなわけで、自分の持ち駒としての戦争のツールを如何に使い切るかということに尽きると思う。
兵学校の施設とか戦艦大和というはあくまでもハード・ウエアーなわけで、そのハード・ウエアーを如何に使いこなすかというソフト・ウエアーになると、まさしく知恵と知恵の戦いになるが、こうなると途端に馬脚が現れるということだ。
そもそも貧乏国の日本にあのように立派な施設としての海軍兵学校が必要であったかどうかというところから考察しなければならないと思う。
建物は立派であっても、教育の中味、そこで行われた教育の内容を結果から考えると、日本を焼け野原にしてしまったことをどういう風に考えるべきなのであろう。
ハード・ウエアーとソフト・ウエアーの関係でいうと、自分の手の内にある持ち駒で如何に有利な位置を占めるか、という考察は知恵の戦いそのものであるが、この場合、個々の戦いでは我々も十分に戦い切ったが、それをトータルとして戦略という視点に置き換えると明らかに敗北であった。
あの戦争を通じて、日本軍はそれぞれの戦線ではよく戦い、健闘したと思うが、結果が敗北であっては全てがご破算になってしまったということだ。
その敗北の大きな原因は、私に言わしめれば異民族との意思疎通が不得手あったが故に誤解を招いたと考える。
日本人が世界的規模で行動を起こすと、相手は非常に警戒するわけで、それは何故かといえば、日本人があまりにも優秀で、日本人を野放しにしておくと、先方は「庇をかして母屋をとられる」という心境になるからだと推察する。
それと合わせて、我々の同胞の人格的な欠陥者、倫理を欠いた不良指導者が、組織の要職を占め、それを是正し切れなかった我々庶民の優柔不断な態度がトータルとして自分の祖国を恢塵にまでしてしまったということだと考える。