例によって図書館から借りてきた本で、「ブログ・世界を変える個人メディア」という本を読んだ。
アメリカ人の書いたものを翻訳した作品であるが、まさしく重厚長大な読み物で、読み通すのにいささか苦労した。
その言わんとするところは、ブログというものがこの世の出現したことによって、個人レベルでも情報発信が可能になったということであるが、ブログというのはそういう要因を内蔵したツールであることは間違いない。
であるからこそ、21世紀においては、個人で発信できるツールが過去の巨大なメディアとしてのジャーナリズムと、どういう関係になるのかということを説こうとしている。
19世紀から20世紀のジャーナリズムは、一方的な情報の発信者とその受け手という対立軸でジャーナリズムが成り立っていたが、21世紀においては、個人としてのメディアが、それぞれに情報を発信するようになると、世の中はどうなるのかという点を追求しようとしている。
そこでジャーナリズムの原点が再確認されることになるわけで、ブログというのは、そのジャーナリズムを形作るツールでしかない。
そもそも人が他者に何かを伝えたい、というのは人としての根本的な欲求なのかもしれない。
原始時代の人間でも、洞窟の壁に絵を描いていたわけで、その絵は何のために誰がどういう意図で描いたものなのであろう。
ただただ、あり余る暇つぶしの手慰みに絵を描いたとも思えない。
やはり自分たち、自分の仲間、人間の集団として人々がこの辺りにいたよ、ということを他者に知らせたかったのではなかろうか。
それとも自分たちが、ある時この場にいたよ、ということを他者、あるいは後世に伝えたかったのだろうか。
この原始社会の態様の相異で、絵でコミニュケーションを計るものや、文字でコミニュケーションを計るものや、そういう記録ではなく言葉の伝承としてのコミニュケーションを計る様々なスタイルがあったに違いない。
自分の考えを他者に伝えるということは、その事自体が既にジャーナリズムを成しているように思える。
日本の江戸時代の瓦版も、完全にジャーナリズムの体をなしているが、その内容は、いわゆる為政者批判から巷のローカルな出来事まで、まさしく今日のメディアの内容とそっくりそのままのものであったようだ。
為政者が何を考え、庶民が日々如何なる生業をしているか、ということを広く知らしめる行為は、ジャーナリズムの基本であろうが、それを知らしめることによって、銭を得るとなるとこれが完全にメディアの論理になるのである。
瓦版でも、ただ面白おかしく伝えるだけでは銭にならないわけで、それを他者に買わせなければ、版元の利益は生まれない。
だからメディアというのは売らんがための様々な工夫が成されるわけで、そこで知らされる報道というのは、必ずしも真実ではないということになる。
まさしく新聞の原点が瓦版に見られるわけで、そういうメディアに群がる庶民は、何も最初から真実を追い求めて瓦版を購入するのではなく、それを売らんがための口上や、その内容の新奇さに惹かれて銭を払うわけで、それ自体がエンターテイメントに成り切ってしまっているのである。
いわば、覗き趣味と同じなわけで、垣根の向こう側では何が起きているのだろうか、ということを板塀の節穴から覗いて、その穴を通して見えたものは自分だけのものであるが故に、余計に人の言いふらしたくなるのである。
それをメディア界の用語でいえば『特ダネ』という言葉で言い表されているが、庶民は庶民でそれぞれに、板塀の向こう側では何が行われているだろう、ということに興味津々であることは論をまたない。
板塀の向こう側とこちら側というのは、要するに、統治する側とされる側という立場の相異が介在しているわけで、統治する側にも統治の都合上、庶民に知らしめておきたい様々な規則があるので、それは近代国家であれば広報という形で、あるいは官報という型で庶民にまで達せられる。
ところが、統治者の出す広報あるいは官報というのは、統治の都合上の手練手管なわけで、統治される側としては面白くも可笑しくもない。
だから、誰も関心を示さないわけで、それはまさしく生きた人間の普遍的な思考だと思う。
ところが、板塀の節穴から向こう側を覗き見た人にとっては、塀の向こう側で行われていることが非常に興味深いことなので、それを皆に知らしめたいと思っても、今迄の在り方では安易な振る舞いでは行い得ず、非常に大変な作業であったわけである。
瓦版を例にとっても、それこそ取材の段階から、原稿を書き、それを版木に彫って印刷して、配布するという一連の作業は、組織的に人海戦術でこなさなければ成り立たないわけで、今日までのメディア界はその状態が続いてきたが、これがブログの登場によって一気に状況が変わってしまったわけだ。
ブログという個人的なメディアの出現によって、個人が巨大新聞社や巨大テレビ局と同じことをすることが可能になったということだ。
メディアの存在意義は、報道することによって金を得る、銭を儲けるという行為が付きまとっているわけで、資本主義体制の社会では、ただ真実を報道するだけでは金儲けに繋がらない。
だから、その報道の隙間に広告を流して、その広告収入によって銭儲けをしているのである。
金儲けをしなくてもいい報道は、どうしても国・公共の運営ということになるが、そうであるならば、当然のこと、為政者の都合によって内容が左右されるということは必然的な流れである。
ブログの出現によって、誰でも彼でも安易に情報発信できるということは、逆に言うと情報の洪水でもあるわけで、愚にもつかないどうでもいい情報の氾濫ということでもあり、良い面ばかりではない、ということも言える。
今は少し下火になっているが、例のウキリ―クスが様々な秘密情報をインターネット上に暴露する行為なども、諸手を挙げて歓迎すべきかどうかは非常に判断の難しいところだ。
メディアに携わる人たちは、統治者、為政者、政府、行政サイドの人を最初から悪人という認識で語りたがっているが、そんなバカな話はない。
こういう人たちも同じ人間である以上、日々、一生懸命、職務に忠実たらんと努力していても、ミスをしたり、失敗をしたり、判断を間違えたりすることはあるわけで、そういう場合は当然責任追及はあって当たり前だ。
しかし、存在そのものを否定ことは、論理的におかしなことで、統治者や為政者の立場としては、時と場合によって国民、市民、庶民に知らしめてはならないことが紛れ込むこともありうるはずである。
高度経済成長はなやかりし頃、行政が不用意に都市計画を漏らすと、それを不動産業者が地価高騰を見越して先行投資をして買い占めるということもあったし、あるいはインサイダー取引などということもあり、何でもかんでも情報を開示すればいいというものでもない。
原子力発電所を対象としたにテロ対策などという事柄も、一般に公開すべき事ではないわけで、ブラック・ボックスとしておくこと自体に抑止効果あるわけで、何でもかんでも公開すべきではない、ということは言うまでもない。
テロを行うかもしれない人間を取り調べるのに、公開の場ですれば、その容疑者は英雄にさえなりかねないし、その容疑者の奪還のために新たなテロが起きるかもしれないわけで、何でもかんでも公開すれば良いというものでもないはずである。
何かことが起きると、統治者や為政者、政府や行政に非難の渦が殺到するが、メディアの側には起きたことを予防する措置も手段も持ち合わせていないわけで、ただただ当事者の非をあげつらうのみで、そういう声を無責任に報道することによって、メディアの使命を尽くしたと思い違いをするところがある。
アメリカ軍がヘリの上からイラクの報道陣に銃撃を浴びせる映像を見せられると、アメリカ軍が如何にも悪いことをしているかのような印象を受けるが、一番悪いのはイラク人自身が自分たちの国をきちんと統治、治め、治安し切れていない点であって、彼ら自身がしっかりと自分の国を統治しておれば、アメリカ軍が出てくるまでもないではないか。
ウキリ―クスは、アメリカ軍がヘリの上からイラクの報道陣に銃撃を浴びせるところを放映して、アメリカ軍が如何に悪行を重ねているかを世界に向けて発信しているわけで、これは明らかに思惟的に仕組まれた情報操作だと思う。
情報操作も新たな戦争といえば戦争と言えるし、テロといえばテロとも言えるわけで、これは紛れもなく21世紀型のメディアの在り方としてはありうることだと思う。
ジャーナリズムというのは、形の変わって覗き趣味の延長であるが、自分しか知らない事柄を、誰かに知らせたいという欲求は、非常に快感を伴う行為で、今ではその方法に様々な手法が存在する。
本という形で活字でもって知らしめる方法、放送という形で声とか映像でもって知らしめる方法、そこに21世紀になるとインターネットという新しい媒体が出現したわけで、これによって自分の考えを世に知らしめる方法論は一段と進化した。
しかし、文化文明の進化というのは、言うまでもなく諸刃の刃であって、良い面もあればその裏側にはマイナス面も併せ持っている事を忘れてはならない。
先に述べたウキリ―クスの場合でも、統治者、為政者の側が秘密にしておきたいことを暴いてしまったわけで、ならばその行為は、その後の人々の生き様に何か益する影響を与えたかといえば、ただただ塀の節穴から中を覗いただけのことでしかない。
ただメディア界の人々の言い分によれば、その事によって政府の悪弊を是正させることが出来た、と言うであろうが、それはメディア界の手前味噌な評価でしかない。
この世の人は、誰でも自分たちの統治者や為政者をこき下ろしたとき、何らかの快感を覚えると思う。
今迄、自分たちの前で、威張り、ふんぞり返り、不遜な態度でいた連中の些細な瑕疵を指摘して、それを口実に全人格を否定するような悪口雑言を浴びせるとことは、気分的にスカーッとした爽快感を覚えると思うが、その部分がジャーナリズムのエンターテイメント性なのではなかろうか。
そのエンターテイメント性と覗き見趣味を合体させ、演出したのがメディアなわけで、メディアとしては、それを如何に金儲けに繋げるかが最大の問題であったろうと思う。
その金儲け集団としての規模拡大と、その規模拡大に伴う広告効果がセールスポイントとなって、巨大なマス・メディアの誕生ということになったものと想像する。
ところが、20世紀後半のマス・メデイアは、自らを『社会の木鐸』と自認するようになったが、これはメデイア側の大いなる驕りであって、自分たちの出自の卑しさをカモフラージュする常套句に過ぎない。
先にも述べたように、自分たちの選挙で選出した自分たちの為政者を、言論と活字でこき下ろす事は、得も言えぬ快感を覚えるわけで、自分たちでは権力側のアラを探し回って、ほんの些細な瑕疵でも見つけようものなら、天地がひっくり返るほどの大騒ぎを演じ、正義漢面をして下々のものに正義のなんたるかを説く訳であるが、こういう行為は実に見栄えが良く、格好よく見え、自負心に満ち、世の中を善導している気分に浸れるのである。
そういう振る舞いをしている本人も、そういう振る舞いを見せられている大衆も、それを演じている人たちを立派な人だと勘違いするのである。
昔から、日本でも世界でも、メディアに携わる人はインテリ・ヤクザという評価が定番になっているわけで、その事を忘れてはならない。
例のウキリ―クスでも、『社会の木鐸』を自負している部分が大いにあるわけで、体制側に従順になって体制批判をするな、という極端な言い方はあり得ないが、彼らの行為は普通の世の中の公序良俗に抵触するぎりぎりの線上にある。
そのことは、大きな意味で、国益との兼ね合いを内包している。
国益という表現よりもなお一層広範な内容を含んで、善良な人々の普通の生活を脅かすかも知れないテロ行為に、手を貸すことになるかも知れないではないか。
メディアに携わる人をインテリ・ヤクザという言い分の中には、こういう人たちが、自分の言ったことに対して一切責任を追わない、という面からもヤクザと呼称されるのであろう。
この場合の、ヤクザという言葉の定義は、普通の善良な人の常識が通用しない異星人の集合という意味であって、この部分に彼らが驕り高ぶっている部分があるのであって、普通の常識から浮き上がっている点である。
活字のメディアでも、言語のメディアでも、取材対象のほんの一部分のみを切り取って、それがさも全体であるかのように報じるので、受け取る側はその字句の通りに素直に受けとると、言った本人の意図とは逆の内容になってしまうこともある。
それでは発言した人の真意を伝えていないという意味で、メデイアは常に嘘の報道をして、その報道の中には真実はいささかも存在しない、という評価が定着しかねない。
そもそも自分の知っていることを人に伝えるということは、伝言ゲームと同じで、オリジナルの言葉がそのままの形で最後まで伝わるということはあり得ない。
意図するしないに関わらず、最初の言葉が最後までそのまま伝わることはあり得ないはずで、メディアの報ずることにもそれがそのまま生きていると思うが、物事は何が何でも真実でなければならないということもないように思う。
9・11事件や東日本大震災などというニュースは、映像を見ればそれが嘘でもなければ虚像でもないわけで、まさしく一目瞭然である。
ところが管直人首相が何時辞めるのか、という事柄は映像にはし切れないので、様々な憶測が飛び交っているが、これには真実も無ければ虚像も無いないわけで、あるのは憶測意外の何ものでもない。
メディアとしては、憶測だけでは紙面も埋められず、番組も成り立たないので、憶測に輪を掛けた未来予測をして、紙面ならびに穴の空いた時間帯を埋めねばならないのである。
ところが個人の発信するブログには、そういうむなしい努力をする必要は全くないわけで、金儲けが主体ではないので、ニュースがなければ沈黙していれば済むわけで、その部分が巨大メディアとは自から違っている。
ローカルな個人メデイアのブログでも、コマーシャルを入れることは可能なはずで、その意味で課金ということもあろうかと思う。
しかし、金にはならなくとも、自分の考えたことや、自分の思いを世界に向けて発信出来るということは、素晴らしいことだと思う。
確かに文明の利器という言葉の通りだ。
メディア、つまりジャーナリズムを発信するということは、やり方によっては大きな金儲けの手段にもなりうるが、金儲けということを考えなければ、個人で自分の好きなように好きな時間に好きなところで発信することが出来るということだ。
発信するコンテンツは、それこそその人の個性から導き出されるわけで、そこにその人の知性と理性と感性が如実に表現、あるいは実現できるのである。
アメリカ人の書いたものを翻訳した作品であるが、まさしく重厚長大な読み物で、読み通すのにいささか苦労した。
その言わんとするところは、ブログというものがこの世の出現したことによって、個人レベルでも情報発信が可能になったということであるが、ブログというのはそういう要因を内蔵したツールであることは間違いない。
であるからこそ、21世紀においては、個人で発信できるツールが過去の巨大なメディアとしてのジャーナリズムと、どういう関係になるのかということを説こうとしている。
19世紀から20世紀のジャーナリズムは、一方的な情報の発信者とその受け手という対立軸でジャーナリズムが成り立っていたが、21世紀においては、個人としてのメディアが、それぞれに情報を発信するようになると、世の中はどうなるのかという点を追求しようとしている。
そこでジャーナリズムの原点が再確認されることになるわけで、ブログというのは、そのジャーナリズムを形作るツールでしかない。
そもそも人が他者に何かを伝えたい、というのは人としての根本的な欲求なのかもしれない。
原始時代の人間でも、洞窟の壁に絵を描いていたわけで、その絵は何のために誰がどういう意図で描いたものなのであろう。
ただただ、あり余る暇つぶしの手慰みに絵を描いたとも思えない。
やはり自分たち、自分の仲間、人間の集団として人々がこの辺りにいたよ、ということを他者に知らせたかったのではなかろうか。
それとも自分たちが、ある時この場にいたよ、ということを他者、あるいは後世に伝えたかったのだろうか。
この原始社会の態様の相異で、絵でコミニュケーションを計るものや、文字でコミニュケーションを計るものや、そういう記録ではなく言葉の伝承としてのコミニュケーションを計る様々なスタイルがあったに違いない。
自分の考えを他者に伝えるということは、その事自体が既にジャーナリズムを成しているように思える。
日本の江戸時代の瓦版も、完全にジャーナリズムの体をなしているが、その内容は、いわゆる為政者批判から巷のローカルな出来事まで、まさしく今日のメディアの内容とそっくりそのままのものであったようだ。
為政者が何を考え、庶民が日々如何なる生業をしているか、ということを広く知らしめる行為は、ジャーナリズムの基本であろうが、それを知らしめることによって、銭を得るとなるとこれが完全にメディアの論理になるのである。
瓦版でも、ただ面白おかしく伝えるだけでは銭にならないわけで、それを他者に買わせなければ、版元の利益は生まれない。
だからメディアというのは売らんがための様々な工夫が成されるわけで、そこで知らされる報道というのは、必ずしも真実ではないということになる。
まさしく新聞の原点が瓦版に見られるわけで、そういうメディアに群がる庶民は、何も最初から真実を追い求めて瓦版を購入するのではなく、それを売らんがための口上や、その内容の新奇さに惹かれて銭を払うわけで、それ自体がエンターテイメントに成り切ってしまっているのである。
いわば、覗き趣味と同じなわけで、垣根の向こう側では何が起きているのだろうか、ということを板塀の節穴から覗いて、その穴を通して見えたものは自分だけのものであるが故に、余計に人の言いふらしたくなるのである。
それをメディア界の用語でいえば『特ダネ』という言葉で言い表されているが、庶民は庶民でそれぞれに、板塀の向こう側では何が行われているだろう、ということに興味津々であることは論をまたない。
板塀の向こう側とこちら側というのは、要するに、統治する側とされる側という立場の相異が介在しているわけで、統治する側にも統治の都合上、庶民に知らしめておきたい様々な規則があるので、それは近代国家であれば広報という形で、あるいは官報という型で庶民にまで達せられる。
ところが、統治者の出す広報あるいは官報というのは、統治の都合上の手練手管なわけで、統治される側としては面白くも可笑しくもない。
だから、誰も関心を示さないわけで、それはまさしく生きた人間の普遍的な思考だと思う。
ところが、板塀の節穴から向こう側を覗き見た人にとっては、塀の向こう側で行われていることが非常に興味深いことなので、それを皆に知らしめたいと思っても、今迄の在り方では安易な振る舞いでは行い得ず、非常に大変な作業であったわけである。
瓦版を例にとっても、それこそ取材の段階から、原稿を書き、それを版木に彫って印刷して、配布するという一連の作業は、組織的に人海戦術でこなさなければ成り立たないわけで、今日までのメディア界はその状態が続いてきたが、これがブログの登場によって一気に状況が変わってしまったわけだ。
ブログという個人的なメディアの出現によって、個人が巨大新聞社や巨大テレビ局と同じことをすることが可能になったということだ。
メディアの存在意義は、報道することによって金を得る、銭を儲けるという行為が付きまとっているわけで、資本主義体制の社会では、ただ真実を報道するだけでは金儲けに繋がらない。
だから、その報道の隙間に広告を流して、その広告収入によって銭儲けをしているのである。
金儲けをしなくてもいい報道は、どうしても国・公共の運営ということになるが、そうであるならば、当然のこと、為政者の都合によって内容が左右されるということは必然的な流れである。
ブログの出現によって、誰でも彼でも安易に情報発信できるということは、逆に言うと情報の洪水でもあるわけで、愚にもつかないどうでもいい情報の氾濫ということでもあり、良い面ばかりではない、ということも言える。
今は少し下火になっているが、例のウキリ―クスが様々な秘密情報をインターネット上に暴露する行為なども、諸手を挙げて歓迎すべきかどうかは非常に判断の難しいところだ。
メディアに携わる人たちは、統治者、為政者、政府、行政サイドの人を最初から悪人という認識で語りたがっているが、そんなバカな話はない。
こういう人たちも同じ人間である以上、日々、一生懸命、職務に忠実たらんと努力していても、ミスをしたり、失敗をしたり、判断を間違えたりすることはあるわけで、そういう場合は当然責任追及はあって当たり前だ。
しかし、存在そのものを否定ことは、論理的におかしなことで、統治者や為政者の立場としては、時と場合によって国民、市民、庶民に知らしめてはならないことが紛れ込むこともありうるはずである。
高度経済成長はなやかりし頃、行政が不用意に都市計画を漏らすと、それを不動産業者が地価高騰を見越して先行投資をして買い占めるということもあったし、あるいはインサイダー取引などということもあり、何でもかんでも情報を開示すればいいというものでもない。
原子力発電所を対象としたにテロ対策などという事柄も、一般に公開すべき事ではないわけで、ブラック・ボックスとしておくこと自体に抑止効果あるわけで、何でもかんでも公開すべきではない、ということは言うまでもない。
テロを行うかもしれない人間を取り調べるのに、公開の場ですれば、その容疑者は英雄にさえなりかねないし、その容疑者の奪還のために新たなテロが起きるかもしれないわけで、何でもかんでも公開すれば良いというものでもないはずである。
何かことが起きると、統治者や為政者、政府や行政に非難の渦が殺到するが、メディアの側には起きたことを予防する措置も手段も持ち合わせていないわけで、ただただ当事者の非をあげつらうのみで、そういう声を無責任に報道することによって、メディアの使命を尽くしたと思い違いをするところがある。
アメリカ軍がヘリの上からイラクの報道陣に銃撃を浴びせる映像を見せられると、アメリカ軍が如何にも悪いことをしているかのような印象を受けるが、一番悪いのはイラク人自身が自分たちの国をきちんと統治、治め、治安し切れていない点であって、彼ら自身がしっかりと自分の国を統治しておれば、アメリカ軍が出てくるまでもないではないか。
ウキリ―クスは、アメリカ軍がヘリの上からイラクの報道陣に銃撃を浴びせるところを放映して、アメリカ軍が如何に悪行を重ねているかを世界に向けて発信しているわけで、これは明らかに思惟的に仕組まれた情報操作だと思う。
情報操作も新たな戦争といえば戦争と言えるし、テロといえばテロとも言えるわけで、これは紛れもなく21世紀型のメディアの在り方としてはありうることだと思う。
ジャーナリズムというのは、形の変わって覗き趣味の延長であるが、自分しか知らない事柄を、誰かに知らせたいという欲求は、非常に快感を伴う行為で、今ではその方法に様々な手法が存在する。
本という形で活字でもって知らしめる方法、放送という形で声とか映像でもって知らしめる方法、そこに21世紀になるとインターネットという新しい媒体が出現したわけで、これによって自分の考えを世に知らしめる方法論は一段と進化した。
しかし、文化文明の進化というのは、言うまでもなく諸刃の刃であって、良い面もあればその裏側にはマイナス面も併せ持っている事を忘れてはならない。
先に述べたウキリ―クスの場合でも、統治者、為政者の側が秘密にしておきたいことを暴いてしまったわけで、ならばその行為は、その後の人々の生き様に何か益する影響を与えたかといえば、ただただ塀の節穴から中を覗いただけのことでしかない。
ただメディア界の人々の言い分によれば、その事によって政府の悪弊を是正させることが出来た、と言うであろうが、それはメディア界の手前味噌な評価でしかない。
この世の人は、誰でも自分たちの統治者や為政者をこき下ろしたとき、何らかの快感を覚えると思う。
今迄、自分たちの前で、威張り、ふんぞり返り、不遜な態度でいた連中の些細な瑕疵を指摘して、それを口実に全人格を否定するような悪口雑言を浴びせるとことは、気分的にスカーッとした爽快感を覚えると思うが、その部分がジャーナリズムのエンターテイメント性なのではなかろうか。
そのエンターテイメント性と覗き見趣味を合体させ、演出したのがメディアなわけで、メディアとしては、それを如何に金儲けに繋げるかが最大の問題であったろうと思う。
その金儲け集団としての規模拡大と、その規模拡大に伴う広告効果がセールスポイントとなって、巨大なマス・メディアの誕生ということになったものと想像する。
ところが、20世紀後半のマス・メデイアは、自らを『社会の木鐸』と自認するようになったが、これはメデイア側の大いなる驕りであって、自分たちの出自の卑しさをカモフラージュする常套句に過ぎない。
先にも述べたように、自分たちの選挙で選出した自分たちの為政者を、言論と活字でこき下ろす事は、得も言えぬ快感を覚えるわけで、自分たちでは権力側のアラを探し回って、ほんの些細な瑕疵でも見つけようものなら、天地がひっくり返るほどの大騒ぎを演じ、正義漢面をして下々のものに正義のなんたるかを説く訳であるが、こういう行為は実に見栄えが良く、格好よく見え、自負心に満ち、世の中を善導している気分に浸れるのである。
そういう振る舞いをしている本人も、そういう振る舞いを見せられている大衆も、それを演じている人たちを立派な人だと勘違いするのである。
昔から、日本でも世界でも、メディアに携わる人はインテリ・ヤクザという評価が定番になっているわけで、その事を忘れてはならない。
例のウキリ―クスでも、『社会の木鐸』を自負している部分が大いにあるわけで、体制側に従順になって体制批判をするな、という極端な言い方はあり得ないが、彼らの行為は普通の世の中の公序良俗に抵触するぎりぎりの線上にある。
そのことは、大きな意味で、国益との兼ね合いを内包している。
国益という表現よりもなお一層広範な内容を含んで、善良な人々の普通の生活を脅かすかも知れないテロ行為に、手を貸すことになるかも知れないではないか。
メディアに携わる人をインテリ・ヤクザという言い分の中には、こういう人たちが、自分の言ったことに対して一切責任を追わない、という面からもヤクザと呼称されるのであろう。
この場合の、ヤクザという言葉の定義は、普通の善良な人の常識が通用しない異星人の集合という意味であって、この部分に彼らが驕り高ぶっている部分があるのであって、普通の常識から浮き上がっている点である。
活字のメディアでも、言語のメディアでも、取材対象のほんの一部分のみを切り取って、それがさも全体であるかのように報じるので、受け取る側はその字句の通りに素直に受けとると、言った本人の意図とは逆の内容になってしまうこともある。
それでは発言した人の真意を伝えていないという意味で、メデイアは常に嘘の報道をして、その報道の中には真実はいささかも存在しない、という評価が定着しかねない。
そもそも自分の知っていることを人に伝えるということは、伝言ゲームと同じで、オリジナルの言葉がそのままの形で最後まで伝わるということはあり得ない。
意図するしないに関わらず、最初の言葉が最後までそのまま伝わることはあり得ないはずで、メディアの報ずることにもそれがそのまま生きていると思うが、物事は何が何でも真実でなければならないということもないように思う。
9・11事件や東日本大震災などというニュースは、映像を見ればそれが嘘でもなければ虚像でもないわけで、まさしく一目瞭然である。
ところが管直人首相が何時辞めるのか、という事柄は映像にはし切れないので、様々な憶測が飛び交っているが、これには真実も無ければ虚像も無いないわけで、あるのは憶測意外の何ものでもない。
メディアとしては、憶測だけでは紙面も埋められず、番組も成り立たないので、憶測に輪を掛けた未来予測をして、紙面ならびに穴の空いた時間帯を埋めねばならないのである。
ところが個人の発信するブログには、そういうむなしい努力をする必要は全くないわけで、金儲けが主体ではないので、ニュースがなければ沈黙していれば済むわけで、その部分が巨大メディアとは自から違っている。
ローカルな個人メデイアのブログでも、コマーシャルを入れることは可能なはずで、その意味で課金ということもあろうかと思う。
しかし、金にはならなくとも、自分の考えたことや、自分の思いを世界に向けて発信出来るということは、素晴らしいことだと思う。
確かに文明の利器という言葉の通りだ。
メディア、つまりジャーナリズムを発信するということは、やり方によっては大きな金儲けの手段にもなりうるが、金儲けということを考えなければ、個人で自分の好きなように好きな時間に好きなところで発信することが出来るということだ。
発信するコンテンツは、それこそその人の個性から導き出されるわけで、そこにその人の知性と理性と感性が如実に表現、あるいは実現できるのである。