ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「日本人の敵」

2007-02-18 21:28:48 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「日本人の敵」という本を読んだ。
渡部昇一とテリー伊藤の対談集であったが、内容はそれなりにおもしろかった。
然し、テリー伊藤というのはいったい何者なのであろう。
テレビでは時々見かける。
変な帽子をかぶって、色眼鏡をかけて、人を食ったような印象を受ける。
然し、言っていることはかなりまともなことを言う。
渡部昇一は今時まれにみる右よりの発言で人気を博している人物である。
私の思考とは一番波長が合う。
今の日本を憂う気持ちというのは皆同じだが、その本質がいったいどこにあるのかという点では各人各様の考えがあるようだ。
まるで盲人が像をなでているようなもので、自分の感性に抵触したところによって、様々な思考が渦巻いている。
こういう世の中というのは、本当はありがたい世の中だと言わなければならない。
人間の織りなす社会で、文化が先に進むということは若者のエネルギーにあると思う。
世の中をクリエイテイブするのは、いかなる生き物においても、若い世代の筈である。
人間の社会ばかりでなく、あらゆる生き物の進化というのは、若者の好奇心がその源泉であると思う。
そういう観点で我々の今の状況をみてみると、今の日本の若者にそういうバイタリテイーがあるであろうか。
学校ではいじめの問題、社会人になればフリーターとかニート、はたまた引きこもりだとか、まことに若者らしくない現象が散見される。
今の日本の若者を作り出したのは基本的にはその親の世代だと思う。
浪人生が自分の妹を殺して切り刻むだとか、大学生が隣人の老人親子を殺害するだとか、なぜ若者がこういう行為に走るのだろう。
こういう家庭の親も特別に変わった親ではないと思う。
自分の子供にそういうことを教えたわけでもないと思う。学校でもそういうことを教えるはずもない。いくら日本の教育が乱れているといっても、学校でそんなことを教えるわけがない。
だとしたら、そういう子供はどこからそういうアイデアを寸借してきたのであろう。
いうまでもなくテレビ以外にないではないか。
いくら変哲な親でも、自分の子供にテレビを見せない親というのはまずいないだろうと思う。
時間制限をする親はいるかもしれない、番組を選択する親もいるかもしれない、然し、テレビの番組というのはそういう防御を多少したとしても、そんなことはお構いなしに一方的に各家庭に押し込んでくる。
私も本当のところは2時間番組の刑事もの、警察もの、推理ものは好きで見る方であるが、殺人が出てこない2時間番組というのはない。
リアルな殺人の描写がないとしても、基本的に殺人がないことには刑事もの、警察もの、推理ものの番組は成り立たないわけで、これを日本中のテレビ局が流していれば、若者が人を殺すということに無感覚になったとしても何ら不思議ではない。
テレビドラマというのは殺人がなければドラマそのものが成り立たないと思う。
テレビを見る人間というのは、私のように定年をすぎた、成熟しすぎた人ばかりではないわけで、若い人がそういうものに常日頃から接していれば、人の命に対して無感覚になるのも当然の成り行きだと思う。
私も正直言って「はぐれ刑事純情派」の安浦刑事は好きだ。
然し、そのほかの昼間のテレビ番組というのは好きではなく、全く嫌いで、そういうものは努めて見ないようにしているが、世間の人も昼間からテレビを見ているような人は少ないと思う。
少ないけれども見ている人はいるわけで、テレビを見ない人はさほど問題はないが、少ないけれども見ている人にモロに影響が出るわけだ。
普通の家庭でも、子供がどういうテレビを見ているかまでは関知しないはずで、家でおとなしくしていれば親はそれで満足すると思う。
テレビには確かに良い面もある。
我が家の小さな孫などは、テレビから知識を吸収している面が如実に表れている。
私自身は、日本にはテレビ局がありすぎると思う。
その全部が殺人事件を放送しているわけではなかろうが、テレビの放映時間というのは制限すべきだと思う。
民放はコマーシャルを流さなければならないので、放映時間の短縮はまかりならぬ、というのであれば、放送内容をもっと知的にアップすべきだと思う。
然し、そういう番組はおもしろくないというわけで視聴率が上がらない。
この視聴率というのも突き詰めれば、バカ指数に匹敵すると思う。
視聴率の高い番組ほど知的にレベルが低いのではなかろうか。
テレビ局の人間だとて、大学にも行っていない人が番組担当になっているわけでもなかろうに、何故に知的に優れたものが作り出せないのであろう。
これを突き詰めれば、視聴率を高めるために、本来ならば高学歴な人が、本来まともであるべきものを故意に低レベルに合わせて番組を作り、視聴率アップに貢献しているということだと思う。そこで問題とすべきことは、視聴者の選択と、番組を作り、それを放映する側の倫理観である。
今の日本の現状では絶対正義というのがないわけで、正しい倫理とか、正しい生き方とか、正しい人間のあり方という概念が喪失してしまっており、正しい価値観の基準がどこかに行ってしまっている。
何を信じて良いのかわからなくなってきていると思う。
私にとっては、渡部昇一氏やテリー伊藤の言っていることはまともだと思うが、そうではないと思う人が実に大勢いるわけである。
「日本にはテレビ局が多すぎる」と言えば、「いやいやそうではない」という人がごまんといるわけで、どれが正しくてどれが正しくないか、ということが言えない世の中になっている。
どれが正しくてどれが正しくないかわからない、と言うのであれば、人を殺して何が悪いか、ということも成り立ってしまうではないか。
テレビをはじめとするメディァは、朝から晩まで、あらゆる新聞、雑誌が人殺しを報じているではないか。
殺人、強盗、自殺、交通事故、等々、毎日どこかで人が死んでいる、ないしは殺されているではないか。
これでは若い人が、人の死に対して無頓着になることも致し方ないと思う。
今の日本に大学がいくつあるか定かに知らないが、そこを卒業した人はすべからくインテリーの筈なのに、日本全体として一向に知的にならないのはいったいどういうわけなのであろう。
大学というのは、人間の徳育を高めるためにあるのではないのか。
にもかかわらず、大学がこれだけあっても日本人の徳育、知性、理性が一向に高くならないのであれば、日本の大学は全部廃止にすべきではないのか。
もう一度原始の社会に戻るべきではなかろうか。
これは政治の所為ではない。
政治に所為にするのは責任転嫁に当たるものであり、その責任は国民の全部が等しく背負うべきことだと思う。
何が正しくて何が間違っているのか、という価値観の機軸の揺らぎは国民全部の責任だと思う。