例によって図書館から借りてきた本で「日本の基本問題を考えてみよう」という本を読んだ。
題名を見てもわかるように、青少年向きの本であった。
図書館の開架式の棚のヤングコーナーにあった本で、出版社も岩波ジュニア新書である。
青少年向きに解りやすく書いたつもりであろうが、内容は完全に偏向しているので困ったものだ。
著者は中馬清福という人で、奥付きによると、1935年生まれということではあるが朝日新聞の記者をやっていた人だと書かれていた。
朝日新聞の記者が青少年向けに偏向した見識を語るということは、本当は迷惑な話というべきではなかろうか。
朝日新聞が「アカイアカイアサヒ」と世間一般で認識されていることは周知の事実で、そういう偏向した意見を縷々載せながら、自分自身は不偏不党を固辞していると思い込んでいるところが極めて傍迷惑である。
彼らが不偏不党で、中立的な立場でものを言っているなどと世間の人は心から思っていないわけで、朝日新聞は明らかに左翼の側に肩入れしていると思っているはずである。
だったら、不偏不党などと綺麗ごとを言わず、きっぱりと自分の立ち位置を明確にすれば、それはそれなりに評価し得るが、八方美人的に誰からも好かれようとするあまり、不偏不党を標榜しているところが極めて卑しい根性だ。
この本の著者も、それこそ正論を縷々述べており、反論のしようもないが、問題は、この世の中というのは正論では通らないという点を見落としている。
正論は確かに正論で、非の打ちどころがないが、人間の行いというのは、神様ではないので何処かにミスというか、瑕疵というか、抜け穴というか、人間の欲望に引導された恣意的な部分がある。
正論で、綺麗ごとばかり並べることは「言うは易く行うは難し」なわけで、朝日新聞に代表される日本のメディアは、この「言うは易し」の部分のみを言い立てて綺麗ごとばかりを並べ立てて、禄を食んでいるのである。
つまり、認識とか、見識とか、時代に即した価値観の良いとこどりだけをして、その一番良いところというのは、口先だけの綺麗ごと、あるいは口先の正論をもっともらしく言いたてるという行為に他ならない。
口先3寸で、一番楽なポジションから、言いたいことを言いたいだけ言いふらしているにすぎない。
その口先から出る言葉はまさしく非の打ちどころのない正論で、他人のすることなすこと全てに難癖をつけて、自分では額に汗して働くことは一切せず、人が汗水たらして成したことの結果を、ことごとくけなしては糊塗を凌いでいるのである。
それ故に心ある人は彼らをインテリ―ヤクザと称して軽蔑しているのである。
しかし、20世紀以降の社会というのは、如何なる人も自分が社会でひとかどの仕事を成そうとすると、どうしてもメディアなしではあり得ないので、如何に彼らを上手に使うかということに知恵を絞る。
ヒットラーの治世下のドイツではゲッペルスがメデイアを上手につかって国民の戦意高揚を図ったし、アメリカのルーズベルト大統領はラジオというメディアを使って、同じように国民の戦意高揚を煽ったわけで、メディアは時の権力者にいいように使われる存在である。
日本でもあの戦争中のメディアは、為政者の犬か下僕のように権力に尻尾を振り続けていたわけで、その最たるものが朝日新聞であったと思う。
ところが、この朝日新聞は、戦争が終わると、掌を返したように民主主義の旗手となって、為政者に対して批判の雨を降らせたわけだ。
そういう彼らの言い分がこれまた人を食ったような話で、「権力者を監視する」だとか「権力の番人」というもので、彼らにそれだけの器量があれば、何故軍部に政権を握られたのだ、と問い質さなければならない。
こういうところがヤクザのヤクザ足る所以であって、それを知っている心ある人は、メディアには決して心の内を見せないようにしているはずである。
しかし、こういうヤクザなメディアも、使いようによっては強力な武器になるわけで、それを勘案しながら自分に有利に使いきることは非常に難しいことではあろうが、一考の余地は確かにある。
私は朝日新聞の記者と称するヤクザな連中が、正義漢ぶって正論を大声で叫びながら為政者を糾弾する態度が鼻持ちならない。
彼らは政治家でもなく、官僚でもなく、学校の先生でもなく、警察官でもなく、労働者でもないわけで、ただただそういう人が一生懸命働いている場に行っては、取材と称して邪魔するだけで、それで以て高給を食んでいるのである。
彼らの口から出る言葉は綺麗ごとばかりで、何でもかんでも自分を局外おいて他者を糾弾して止まないわけで、自分は常に高見の見物をしながら、当事者の行動に対して、ああでもないこうでもないと批判しているのである。
政府が悪い、行政が悪い、学校が悪い、文部省が悪い、アメリカが悪い、経営者が悪い、自民党が悪いと他者の所為にするわけである。
この本の中でも、世界的な不況で日本の企業ではリストラが横行して、派遣社員が真っ先に犠牲になっているので、経営者側はもっと恒久的な雇用を打ち立てるべきだと言っているが、誠に無責任な発言だと思う。
私は経営者側に義理があるわけではないが、そもそも派遣労働者として人材派遣会社に登録している者こそ社会を見る目が甘いわけで、世の中はそんな生半可な心掛けでは泳げないよ、と言うことをメディアは当人たちに知らしめるべきだ。
こういう役目こそメディアの仕事であり、進歩的知識階層の仕事であるが、彼らも困っている人を助けるという正論のみを振りかざして、その表層の下に隠れている本質を見失っている。
こういう人たちの困窮は、自ら作り出しているわけで、それは本人の我儘の裏返しである。
私は雇用を専門に研究している者ではないが、自分自身の成長とともに見、体験してきた社会から推察すると、そもそも日本の高度経済成長の前まで雇用形態は正社員と臨時工という二種類しかなかった。
その後の経済成長に合わせてこの臨時工の部分が多様化してきたわけで、呼び方も様々に変化していて、その多様化した根本のところには働く側、つまり労働を売る側が我儘になって、正社員として拘束されることを嫌う傾向が出てきた。
それは個の尊重が敷衍化した結果として、自分の都合のいい時に、自分の都合に合わせて、自分の納得のいく労働を売るという風に変わってきたが、そんな都合の良いことはそう潤沢にあるわけではない。
このことは基本的には非常に素晴らしいことで、誰でもがそういう労働形態を望むであろうが、現実にはあり得ないわけで、働く人の全てが何かを犠牲にしながらそれに耐えて生きている筈である。
とは言うものの、過労死するまで働くというのは本人が馬鹿だと思う。
「過労死に追い込むような企業は糾弾すべし」というのは、まことに綺麗ごとであり、正論であるが、本人が自分の命と仕事を秤にかけて、仕事の方を選択したから過労死に至ったわけで、自分の命が大事だと考えれば、そういう事態にはならなかったと思う。
その判断が本人に出来なかったことが不思議でならないが、朝日新聞に代表される日本の知識階層は、この現実を企業の責任に追い被せようとしている。
私に言わしめれば、死ぬまで仕事をする奴はその本人が馬鹿としか言いようがないが、日本の知識人はそういう個人の非を認めず、組織としての企業に責を負い被せるという綺麗ごとで済まそうとする。
「死ぬまで仕事をした人は可哀そうだ」というのは、感情論に依拠している限りそれは正論であるが、社会の動きを感情論で斟酌してはならないと思う。
死ぬまで仕事に固執する人がいるかと思うと、その対極にはあれは嫌、これは嫌、疲れる仕事は嫌、汚い仕事は嫌、という我儘を言う人もいるわけで、そういう労働を売る側の希望に合わせて、それを満たすべくそういう需要に合わせて双方を斡旋する人が現われた。
こういう仕事は昔もあって、女郎屋に女を世話する仕事を、女衒と称して卑しむべき仕事であった。
経営者と労働者という対立軸で見ると、どうしても経営者の方が頭がよくて狡猾であるので、経営者側はそういう労働者側の我儘を上手に利用して、仕事に必要な時に必要なだけ雇い入れるという経営手法を取り入れたわけである。
子飼いの正社員を限りなく少ない数にしておけば、内部からの労働争議という反乱を引き起こすリスクは限りなく制限されるので、経営としては大きなメリットになるし、景気の動向にも素直に順応できるわけである。
今になって派遣労働者が正社員と同じ待遇を要求してもそれは虫が良すぎる。
正社員は労働契約に拘束されて、その契約を遵守するという前提で雇用されているのに、そういう我が身を縛る窮屈な規則から逃れて、困ったときだけ弱者救済を叫ぶのは筋に通らない話だ。
今、仕事がないと一般的に言われているが、世の中に全く仕事がないわけではなく、自分の我儘の通る仕事がないと言うだけにことで、する気になればいくらでも仕事はある。
自分で我儘一杯のことを言っておいて、その我儘が通らないからと言って、仕事がない、仕事に就けないと言って、陽がな遊んでいる若者を弱者救済という綺麗ごとで扱う話ではないと思う。
昔も今も、人が大学に行くというのは、良い就職をするために大学に行くわけで、これだけ大学の数が多くなれば、大学を出たからといって皆が皆良い就職にたどり着けるわけはないではないか。
こういうことは日本人の皆が皆、何十年も前に気がつかねばならなかったことではなかろうか。
明治維新当時と同じ認識で、東京の大学に行くことはそのまま立身出世に直結しているという思考のシーラカンスから一歩も脱却出来ていないわけだ。
ここで問題とすべきことが、いわゆる知識階層の役割というか、使命というか、指導性というか、社会的な貢献の在り様である。
戦後の教育では民主主義教育が実践され、それに付随して共産主義の思考がこういう知識階層を席巻したことは紛れもない事実だと思う。
共産主義というのは確かに公平・平等を旗印にしているが、それを実践するのに革命、つまり内乱を起こし、既存の体制を殺しても構わないという部分に日本人の嫌悪感が集中した。
よって、共産主義者というものはそう大きな存在にはなりえなかったが、それが内包している公平さと、平等と、自由という個人主義は、日本の知識階層には極めて魅力的に見えたわけである。
要するに、この著者をはじめとする朝日新聞に集合した知識階層は、こういう面でも良いとこ取りをしているわけで、先に述べた派遣労働者が自分の都合に合わせて、都合の良い時だけ働こうという思考と全く同じである。
自分の都合の良い考え方だけを、自分の都合に合わせて、鐘太鼓で大宣伝するが、自分に何らかの負担がかかるような考え方、例えば何らかの責務や義務を負うはめになることが予想される思考・思索に対しては徹底的に糾弾して、今にも世の中が潰れるかのごとく誇大広告をするという寸法である。
これを総称して彼らは「個の尊重」とか、「個の尊厳」と言い繕っているが、それは知に溺れた理念の崩壊に過ぎない。
それは猿のセンズリと同じで、いくら思考や思索をしごいても、なんら前向な進歩にはつながらないわけで、ただあるのは自己愛の無意味な堂々巡りだけである。
自らは一粒の麦も作ることなく、一本の釘も生産することなく、座して人の悪口のみを言いふらして糊塗を凌いでいるわけで、人間として一番最下層の生業ではなかろうか。
人が良かれと思ってしようとすることには、全て反対するわけで、「ならば自分でやれ」と言われると、それは政府の責任だとか行政の仕事だかといって逃げる。
結局の所、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うという風に、不毛の議論を延々と続けて、結論を出そうとすると「まだ審議が足らない」といい、多数決で決めると「少数意見を尊重せよ」というわけで、「ならばどうすればいいのだ」と迫ると、「とことん話し合うべきだ」という。
何のことはない、ただ何もせず、しようともせず、不毛の議論を延々と続けていればメディアは生きておれるのだ。
何と言っても彼らはインテリーヤクザなわけで、どこからか寺銭、あるいはみかじめ料が回ってくるのであろう。
馬鹿な話だ。
諸悪の根源はメディアだ。
こんなメディアに日本の基本問題を考えてもらった日には、日本は確実に沈没してしまうではないか。
題名を見てもわかるように、青少年向きの本であった。
図書館の開架式の棚のヤングコーナーにあった本で、出版社も岩波ジュニア新書である。
青少年向きに解りやすく書いたつもりであろうが、内容は完全に偏向しているので困ったものだ。
著者は中馬清福という人で、奥付きによると、1935年生まれということではあるが朝日新聞の記者をやっていた人だと書かれていた。
朝日新聞の記者が青少年向けに偏向した見識を語るということは、本当は迷惑な話というべきではなかろうか。
朝日新聞が「アカイアカイアサヒ」と世間一般で認識されていることは周知の事実で、そういう偏向した意見を縷々載せながら、自分自身は不偏不党を固辞していると思い込んでいるところが極めて傍迷惑である。
彼らが不偏不党で、中立的な立場でものを言っているなどと世間の人は心から思っていないわけで、朝日新聞は明らかに左翼の側に肩入れしていると思っているはずである。
だったら、不偏不党などと綺麗ごとを言わず、きっぱりと自分の立ち位置を明確にすれば、それはそれなりに評価し得るが、八方美人的に誰からも好かれようとするあまり、不偏不党を標榜しているところが極めて卑しい根性だ。
この本の著者も、それこそ正論を縷々述べており、反論のしようもないが、問題は、この世の中というのは正論では通らないという点を見落としている。
正論は確かに正論で、非の打ちどころがないが、人間の行いというのは、神様ではないので何処かにミスというか、瑕疵というか、抜け穴というか、人間の欲望に引導された恣意的な部分がある。
正論で、綺麗ごとばかり並べることは「言うは易く行うは難し」なわけで、朝日新聞に代表される日本のメディアは、この「言うは易し」の部分のみを言い立てて綺麗ごとばかりを並べ立てて、禄を食んでいるのである。
つまり、認識とか、見識とか、時代に即した価値観の良いとこどりだけをして、その一番良いところというのは、口先だけの綺麗ごと、あるいは口先の正論をもっともらしく言いたてるという行為に他ならない。
口先3寸で、一番楽なポジションから、言いたいことを言いたいだけ言いふらしているにすぎない。
その口先から出る言葉はまさしく非の打ちどころのない正論で、他人のすることなすこと全てに難癖をつけて、自分では額に汗して働くことは一切せず、人が汗水たらして成したことの結果を、ことごとくけなしては糊塗を凌いでいるのである。
それ故に心ある人は彼らをインテリ―ヤクザと称して軽蔑しているのである。
しかし、20世紀以降の社会というのは、如何なる人も自分が社会でひとかどの仕事を成そうとすると、どうしてもメディアなしではあり得ないので、如何に彼らを上手に使うかということに知恵を絞る。
ヒットラーの治世下のドイツではゲッペルスがメデイアを上手につかって国民の戦意高揚を図ったし、アメリカのルーズベルト大統領はラジオというメディアを使って、同じように国民の戦意高揚を煽ったわけで、メディアは時の権力者にいいように使われる存在である。
日本でもあの戦争中のメディアは、為政者の犬か下僕のように権力に尻尾を振り続けていたわけで、その最たるものが朝日新聞であったと思う。
ところが、この朝日新聞は、戦争が終わると、掌を返したように民主主義の旗手となって、為政者に対して批判の雨を降らせたわけだ。
そういう彼らの言い分がこれまた人を食ったような話で、「権力者を監視する」だとか「権力の番人」というもので、彼らにそれだけの器量があれば、何故軍部に政権を握られたのだ、と問い質さなければならない。
こういうところがヤクザのヤクザ足る所以であって、それを知っている心ある人は、メディアには決して心の内を見せないようにしているはずである。
しかし、こういうヤクザなメディアも、使いようによっては強力な武器になるわけで、それを勘案しながら自分に有利に使いきることは非常に難しいことではあろうが、一考の余地は確かにある。
私は朝日新聞の記者と称するヤクザな連中が、正義漢ぶって正論を大声で叫びながら為政者を糾弾する態度が鼻持ちならない。
彼らは政治家でもなく、官僚でもなく、学校の先生でもなく、警察官でもなく、労働者でもないわけで、ただただそういう人が一生懸命働いている場に行っては、取材と称して邪魔するだけで、それで以て高給を食んでいるのである。
彼らの口から出る言葉は綺麗ごとばかりで、何でもかんでも自分を局外おいて他者を糾弾して止まないわけで、自分は常に高見の見物をしながら、当事者の行動に対して、ああでもないこうでもないと批判しているのである。
政府が悪い、行政が悪い、学校が悪い、文部省が悪い、アメリカが悪い、経営者が悪い、自民党が悪いと他者の所為にするわけである。
この本の中でも、世界的な不況で日本の企業ではリストラが横行して、派遣社員が真っ先に犠牲になっているので、経営者側はもっと恒久的な雇用を打ち立てるべきだと言っているが、誠に無責任な発言だと思う。
私は経営者側に義理があるわけではないが、そもそも派遣労働者として人材派遣会社に登録している者こそ社会を見る目が甘いわけで、世の中はそんな生半可な心掛けでは泳げないよ、と言うことをメディアは当人たちに知らしめるべきだ。
こういう役目こそメディアの仕事であり、進歩的知識階層の仕事であるが、彼らも困っている人を助けるという正論のみを振りかざして、その表層の下に隠れている本質を見失っている。
こういう人たちの困窮は、自ら作り出しているわけで、それは本人の我儘の裏返しである。
私は雇用を専門に研究している者ではないが、自分自身の成長とともに見、体験してきた社会から推察すると、そもそも日本の高度経済成長の前まで雇用形態は正社員と臨時工という二種類しかなかった。
その後の経済成長に合わせてこの臨時工の部分が多様化してきたわけで、呼び方も様々に変化していて、その多様化した根本のところには働く側、つまり労働を売る側が我儘になって、正社員として拘束されることを嫌う傾向が出てきた。
それは個の尊重が敷衍化した結果として、自分の都合のいい時に、自分の都合に合わせて、自分の納得のいく労働を売るという風に変わってきたが、そんな都合の良いことはそう潤沢にあるわけではない。
このことは基本的には非常に素晴らしいことで、誰でもがそういう労働形態を望むであろうが、現実にはあり得ないわけで、働く人の全てが何かを犠牲にしながらそれに耐えて生きている筈である。
とは言うものの、過労死するまで働くというのは本人が馬鹿だと思う。
「過労死に追い込むような企業は糾弾すべし」というのは、まことに綺麗ごとであり、正論であるが、本人が自分の命と仕事を秤にかけて、仕事の方を選択したから過労死に至ったわけで、自分の命が大事だと考えれば、そういう事態にはならなかったと思う。
その判断が本人に出来なかったことが不思議でならないが、朝日新聞に代表される日本の知識階層は、この現実を企業の責任に追い被せようとしている。
私に言わしめれば、死ぬまで仕事をする奴はその本人が馬鹿としか言いようがないが、日本の知識人はそういう個人の非を認めず、組織としての企業に責を負い被せるという綺麗ごとで済まそうとする。
「死ぬまで仕事をした人は可哀そうだ」というのは、感情論に依拠している限りそれは正論であるが、社会の動きを感情論で斟酌してはならないと思う。
死ぬまで仕事に固執する人がいるかと思うと、その対極にはあれは嫌、これは嫌、疲れる仕事は嫌、汚い仕事は嫌、という我儘を言う人もいるわけで、そういう労働を売る側の希望に合わせて、それを満たすべくそういう需要に合わせて双方を斡旋する人が現われた。
こういう仕事は昔もあって、女郎屋に女を世話する仕事を、女衒と称して卑しむべき仕事であった。
経営者と労働者という対立軸で見ると、どうしても経営者の方が頭がよくて狡猾であるので、経営者側はそういう労働者側の我儘を上手に利用して、仕事に必要な時に必要なだけ雇い入れるという経営手法を取り入れたわけである。
子飼いの正社員を限りなく少ない数にしておけば、内部からの労働争議という反乱を引き起こすリスクは限りなく制限されるので、経営としては大きなメリットになるし、景気の動向にも素直に順応できるわけである。
今になって派遣労働者が正社員と同じ待遇を要求してもそれは虫が良すぎる。
正社員は労働契約に拘束されて、その契約を遵守するという前提で雇用されているのに、そういう我が身を縛る窮屈な規則から逃れて、困ったときだけ弱者救済を叫ぶのは筋に通らない話だ。
今、仕事がないと一般的に言われているが、世の中に全く仕事がないわけではなく、自分の我儘の通る仕事がないと言うだけにことで、する気になればいくらでも仕事はある。
自分で我儘一杯のことを言っておいて、その我儘が通らないからと言って、仕事がない、仕事に就けないと言って、陽がな遊んでいる若者を弱者救済という綺麗ごとで扱う話ではないと思う。
昔も今も、人が大学に行くというのは、良い就職をするために大学に行くわけで、これだけ大学の数が多くなれば、大学を出たからといって皆が皆良い就職にたどり着けるわけはないではないか。
こういうことは日本人の皆が皆、何十年も前に気がつかねばならなかったことではなかろうか。
明治維新当時と同じ認識で、東京の大学に行くことはそのまま立身出世に直結しているという思考のシーラカンスから一歩も脱却出来ていないわけだ。
ここで問題とすべきことが、いわゆる知識階層の役割というか、使命というか、指導性というか、社会的な貢献の在り様である。
戦後の教育では民主主義教育が実践され、それに付随して共産主義の思考がこういう知識階層を席巻したことは紛れもない事実だと思う。
共産主義というのは確かに公平・平等を旗印にしているが、それを実践するのに革命、つまり内乱を起こし、既存の体制を殺しても構わないという部分に日本人の嫌悪感が集中した。
よって、共産主義者というものはそう大きな存在にはなりえなかったが、それが内包している公平さと、平等と、自由という個人主義は、日本の知識階層には極めて魅力的に見えたわけである。
要するに、この著者をはじめとする朝日新聞に集合した知識階層は、こういう面でも良いとこ取りをしているわけで、先に述べた派遣労働者が自分の都合に合わせて、都合の良い時だけ働こうという思考と全く同じである。
自分の都合の良い考え方だけを、自分の都合に合わせて、鐘太鼓で大宣伝するが、自分に何らかの負担がかかるような考え方、例えば何らかの責務や義務を負うはめになることが予想される思考・思索に対しては徹底的に糾弾して、今にも世の中が潰れるかのごとく誇大広告をするという寸法である。
これを総称して彼らは「個の尊重」とか、「個の尊厳」と言い繕っているが、それは知に溺れた理念の崩壊に過ぎない。
それは猿のセンズリと同じで、いくら思考や思索をしごいても、なんら前向な進歩にはつながらないわけで、ただあるのは自己愛の無意味な堂々巡りだけである。
自らは一粒の麦も作ることなく、一本の釘も生産することなく、座して人の悪口のみを言いふらして糊塗を凌いでいるわけで、人間として一番最下層の生業ではなかろうか。
人が良かれと思ってしようとすることには、全て反対するわけで、「ならば自分でやれ」と言われると、それは政府の責任だとか行政の仕事だかといって逃げる。
結局の所、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うという風に、不毛の議論を延々と続けて、結論を出そうとすると「まだ審議が足らない」といい、多数決で決めると「少数意見を尊重せよ」というわけで、「ならばどうすればいいのだ」と迫ると、「とことん話し合うべきだ」という。
何のことはない、ただ何もせず、しようともせず、不毛の議論を延々と続けていればメディアは生きておれるのだ。
何と言っても彼らはインテリーヤクザなわけで、どこからか寺銭、あるいはみかじめ料が回ってくるのであろう。
馬鹿な話だ。
諸悪の根源はメディアだ。
こんなメディアに日本の基本問題を考えてもらった日には、日本は確実に沈没してしまうではないか。