19、20日と例によって通院のため東京に出掛けた。
途中、新幹線の中では読むものがなく、移動中は居眠りでもして暇をつぶす他なかった。
早めにホテルについても何も読むものがないということはこの上なく苦痛である。
それで外に出掛けて「文藝春秋3月号」を買ってきた。
その中に芥川賞の受賞作品があったので、それを真っ先に読んだが、これが受賞にふさわしい作品かと思うと何とも不思議な気持ちになった。
青山七恵「ひとり日和」という作品であるが、これを石原慎太郎や村上龍が絶賛しているのが不可解でならない。
本文の中では、この二人に加えて綿矢りきという、それぞれの世代を代表する三人の鼎談も載っていたが、これを読んで文学とは一体なんなのかさっぱりわからなくなった。
中でも作品の中のセックスの扱い方である。
セックスを表現するのに「寝た」という言い方で一括りに代弁しているが、そのことはボキャブラリーの不足であり、描写の技巧が稚拙ということだと思う。
今回の芥川賞の受賞作に登場する21歳の若い女性が、そうそう若いボーイフレンドと寝るということは実に不可解千万である。
作者自身も24歳ということであるが、24歳の女性が、そうそうセックス経験があるとも思われないのに、そういうものが文学の対象として描かれるということが実に不可解だ。
小説はフイックションだから体験していなくても空想をたくましくして描けばそれで良いというものでもないと思う。
これは倫理の問題だと思う。
作者本人だけの倫理が問題なのではなく、これらの作品を賛美する人、およびそれを受け入れる世間一般のセックスに対する倫理観の問題だと思う。
人間が思春期というものを経て大人になる過程で、若いときに惚れた腫れた、好きになった、という情熱が死ぬまで続くなどということはあり得ず、途中でふらふらと心が揺らいで他の人が好きになることは十分にあり得る。
しかし、好きになったからすぐ寝るというのもあまりにも短絡すぎるし、世の大部分の人は、その衝動を倫理観というもので押さえ、ないしは克服して、不倫とか、不貞とか、よろめきというものを乗り越えようと努力するものだと思う。
実際には一線を越えてしまったとしても、妻に対して申しわけないことをした、という悔悟の念と後ろめたさを背負い込むのが普通だと思うが、文学作品に描かれた情景にはそれが全く見あたらない。
ということは、文学という土壌では、そういう普通の人間の普通の倫理観をあざ笑うかのように、いとも簡単にその倫理を超えることを礼賛している、ということだ。
そして、それをあらゆる文学賞の選者達が褒めそやしているわけで、言ってみれば、不道徳を礼賛している。
性の乱れは文学の中だけの話ではないと思う。
同じ号に、瀬戸内寂聴さんの半生記のような文も掲載されていたが、彼女とて、自分の恋愛遍歴を悪びれることなく自分自身で暴露しているが、いくら文学者として立派な作品を残したかもしれないが、所詮はスケベ女ではないか。
「スケベ女で何が悪い」という開き直りが、モラルや倫理崩壊の元だと思うし、古来の価値観の罵倒につながっていると思う。
自分の本能の赴くままに生きたと言えば、一応は格好がつくけれども、突き詰めれば犬か猫と同じで、畜生の生き様ではないのか。
人間が犬や猫と違うのは、人には理性とか理念とか倫理というものが備わっていて、自然の法則、つまり自己の肉欲を自らの力でコントロールするところにあると思う。
そのコントロールする力が倫理というもので、これがあるからこそ、人間社会には道徳というものが生まれ、そこに社会的な規範が生じ、その道徳や規範を顧みない生き方というのは畜生並みとして扱われてもいたしかたない。
犬猫と同じに見られてはかなわない、という概念があるからこそ、自らの欲望を自らコントロールするように心が苦悶するわけで、そこを描くことが本来ならば文学でなければならないと思う。
その過程をとばして結果だけを並べてみても醜悪以外の何者でもない。
戦後の日本人が獲得した自由という概念は、突き詰めれば、犬や猫と同じように、好きなときに、好きだと思う相手と、好きなだけセックスする自由であったわけだ。
だとすれば我々の社会から倫理観が薄れるのも致し方ないわけで、文学にはその歯止めが期待できないと言うことだ。
それが文学の中だけの話ならば、それも知的マスタベーションですまされるが、文学賞の受賞が一般大衆にももてはやされる時代となれば、当然のことそういう風潮は一般化する。
既に一般化しているから、うら若き女性の作者がこういう小説を書き上げるのであろう。
こういう作品に接した選考委員会の人達は、その風潮を諫める方向に言葉を発しなければならないと思う。
現状ではますます野放図になり、精神的にはより原始人に近づくということになる。
途中、新幹線の中では読むものがなく、移動中は居眠りでもして暇をつぶす他なかった。
早めにホテルについても何も読むものがないということはこの上なく苦痛である。
それで外に出掛けて「文藝春秋3月号」を買ってきた。
その中に芥川賞の受賞作品があったので、それを真っ先に読んだが、これが受賞にふさわしい作品かと思うと何とも不思議な気持ちになった。
青山七恵「ひとり日和」という作品であるが、これを石原慎太郎や村上龍が絶賛しているのが不可解でならない。
本文の中では、この二人に加えて綿矢りきという、それぞれの世代を代表する三人の鼎談も載っていたが、これを読んで文学とは一体なんなのかさっぱりわからなくなった。
中でも作品の中のセックスの扱い方である。
セックスを表現するのに「寝た」という言い方で一括りに代弁しているが、そのことはボキャブラリーの不足であり、描写の技巧が稚拙ということだと思う。
今回の芥川賞の受賞作に登場する21歳の若い女性が、そうそう若いボーイフレンドと寝るということは実に不可解千万である。
作者自身も24歳ということであるが、24歳の女性が、そうそうセックス経験があるとも思われないのに、そういうものが文学の対象として描かれるということが実に不可解だ。
小説はフイックションだから体験していなくても空想をたくましくして描けばそれで良いというものでもないと思う。
これは倫理の問題だと思う。
作者本人だけの倫理が問題なのではなく、これらの作品を賛美する人、およびそれを受け入れる世間一般のセックスに対する倫理観の問題だと思う。
人間が思春期というものを経て大人になる過程で、若いときに惚れた腫れた、好きになった、という情熱が死ぬまで続くなどということはあり得ず、途中でふらふらと心が揺らいで他の人が好きになることは十分にあり得る。
しかし、好きになったからすぐ寝るというのもあまりにも短絡すぎるし、世の大部分の人は、その衝動を倫理観というもので押さえ、ないしは克服して、不倫とか、不貞とか、よろめきというものを乗り越えようと努力するものだと思う。
実際には一線を越えてしまったとしても、妻に対して申しわけないことをした、という悔悟の念と後ろめたさを背負い込むのが普通だと思うが、文学作品に描かれた情景にはそれが全く見あたらない。
ということは、文学という土壌では、そういう普通の人間の普通の倫理観をあざ笑うかのように、いとも簡単にその倫理を超えることを礼賛している、ということだ。
そして、それをあらゆる文学賞の選者達が褒めそやしているわけで、言ってみれば、不道徳を礼賛している。
性の乱れは文学の中だけの話ではないと思う。
同じ号に、瀬戸内寂聴さんの半生記のような文も掲載されていたが、彼女とて、自分の恋愛遍歴を悪びれることなく自分自身で暴露しているが、いくら文学者として立派な作品を残したかもしれないが、所詮はスケベ女ではないか。
「スケベ女で何が悪い」という開き直りが、モラルや倫理崩壊の元だと思うし、古来の価値観の罵倒につながっていると思う。
自分の本能の赴くままに生きたと言えば、一応は格好がつくけれども、突き詰めれば犬か猫と同じで、畜生の生き様ではないのか。
人間が犬や猫と違うのは、人には理性とか理念とか倫理というものが備わっていて、自然の法則、つまり自己の肉欲を自らの力でコントロールするところにあると思う。
そのコントロールする力が倫理というもので、これがあるからこそ、人間社会には道徳というものが生まれ、そこに社会的な規範が生じ、その道徳や規範を顧みない生き方というのは畜生並みとして扱われてもいたしかたない。
犬猫と同じに見られてはかなわない、という概念があるからこそ、自らの欲望を自らコントロールするように心が苦悶するわけで、そこを描くことが本来ならば文学でなければならないと思う。
その過程をとばして結果だけを並べてみても醜悪以外の何者でもない。
戦後の日本人が獲得した自由という概念は、突き詰めれば、犬や猫と同じように、好きなときに、好きだと思う相手と、好きなだけセックスする自由であったわけだ。
だとすれば我々の社会から倫理観が薄れるのも致し方ないわけで、文学にはその歯止めが期待できないと言うことだ。
それが文学の中だけの話ならば、それも知的マスタベーションですまされるが、文学賞の受賞が一般大衆にももてはやされる時代となれば、当然のことそういう風潮は一般化する。
既に一般化しているから、うら若き女性の作者がこういう小説を書き上げるのであろう。
こういう作品に接した選考委員会の人達は、その風潮を諫める方向に言葉を発しなければならないと思う。
現状ではますます野放図になり、精神的にはより原始人に近づくということになる。