例によって図書館から借りてきた本で、「蛇頭の生まれし都」という本を読んだ。
著者は田雁という中国人である。
この著者自身、蘇州出身で、蘇州大学を出た後、東京大学に留学し、その後サンフランシスコに在住となっている。
この著者の生き様そのものが、既に華僑の生き様と軌を一にしているわけで、中国の文化人は、他の国に留学しても、その国で習得した知識を自分の祖国に持ち帰って、自分の祖国に貢献するという発想が全くないのは一体どういうことなのであろう。
祖国の大学を出て、そこで修めた学業だけでは物足りなくて、もっと高度な技能知識を他の国の大学に留学して習得する。
そこで習得した先進国の優れた技能や知識を自分の祖国に持ち帰って、祖国の文化レベルの向上に役立てるという思考に至らないのは一体どう事なのであろう。
留学という学問の習得の手法というか、文化の伝播の在り様というか、こういうことにも留学生を送り出す側と受け入れる側で当然のこと話し合いがあると思う。
文化の高い方から低い方への伝搬というか、役割というか、使命のようなものが基底にあって、その合意の上に留学生の受け入れということが行われていると思う。
中国からの留学生を受け入れる側は、そこで習得した技能知識を中国に持ち帰って、中国の人々の文化を引き上げ、その人達が少しでも良い生活が出来るようにと願って、留学生を受け入れていると思う。
ところが現実には、そういう留学生は自分の祖国を出た以上、自分自身の利益追求に汲々しているわけで、高度な学問の研鑚という行為も、ただ単に自己の付加価値を高めているだけで、それは金儲けの手段としての学問を身につけているだけである。
先進国に留学して、そこで習得した学識経験を本国に帰ってから普及させ、人々の生活改善に役立たせる、という話が全くないのは一体どういうことなのであろう。
中国出身の文化人の本も数多く読んだが、その全てが祖国を出て、外国で勉強し、祖国の外から自分の母国を批判し、対中史観をマイナスの方向に煽っているではないか。
中国の外から対中批判をしているので、ベストセラーに成りうるということはありうる。
中国の中に居ては決して書けない、本の中味の内容もさることながら、中国人が外に出なければ自分達、中国人の事が書けないという状況も実に不可解なことである。
で、私がどうにも我慢ならないことは、中国人の留学生という場合、彼らとても本国で期待されて、大勢の中から選抜されて、外国留学という切符を手にしたのではないかと想像する。
革命前の中国ならば、大金持ちは誰に遠慮することもなく、金に飽かせて誰でも何時でも何処へでも留学できた筈だ。
ところが革命後の中国では、そんな自由はあり得ないはずで、国を出るなどということは仮に一時的な出国であろうとも、共産党の厳しい審査を経なければ、外国に行くなどということはあり得ない筈である。
にもかかわらず、留学生として中国共産党が認めたということは、党としてその本人に大きな期待をかけ、帰国後は祖国の為に大いに貢献してくれるであろう、という期待を背負って派遣されたに違いない。
それに反し、本人は祖国を出たならば、自分のこと以外何の関心もないわけで、ただただ自分の身が有利になるように、学問という免罪符の価値を高めるべく指向するのである。
中国から日本の大学に留学して、そこで学業を修めた後、アメリカにわたって、アメリカで一旗揚げるというケースがままあるが、このケースをもう少し考察すると、こういうケースでは日本側に留学生を受け入れる義理はないわけで、そういう中国人を日本国民の血税で勉学させることは、国税の無駄遣いそのものである。
そういう留学生に対しては、留学中の学費を返済してもらっても良いと思う。
中国人の日本への留学ということは、日本で学んだことを、祖国、母国に帰って、中国社会に還元することが暗黙の了解事項としてあったのではないかと考える。
この本の著者も、完全にそういう軌跡をトレースしているわけで、日本の大学で学業を修め、アメリカに住んで、一番身の安全な場所から、祖国の実態を批判しているわけである。
彼は、自分の国でも大学を出て、その事によって日本への留学のチャンスをつかみ、日本で自分の知識に箔を付けて、アメリカに住んで自分の国の同胞の実態を暴いて、それを売り物にしているのである。
まさしく彼の説く、蛇頭の生き方そのもので、蛇頭というのはどちらかというと無学文盲に近い人達の集団だが、彼自身のしている事も、その蛇頭の生き方とそっくりである。
中国人にとって、教養人も無学文盲の人たちも、同じ中国人である限りにおいて、彼らの共通認識として普遍化している事は、中国人には祖国という概念がない、ということだ。
教養のある無しに関わらず、中国人には祖国・母国という概念がない。
自分の国という概念がないので、当然のこと、主権という概念も理解し切れない。
ある意味では人類皆兄弟なわけで、極めて自然に近似しているが、その事は同時に、兄弟は他人の始まりということも、人類の過去の実績が示している事も忘れてはならない。
中国人が自分の祖国という概念を持たない事は、中国人だけの問題では済まないわけで、他人の持つその概念をも、中国人は認めないということである。
この本で言っている蛇頭というのは、何も日本に来るだけのものではなく、たまたま日本を対象としたものを蛇頭と言っているだけで、中国人は世界に向けて噴き出しているのである。
噴火口から流れ出る溶岩のように、地中から湧き出たマグマは四方八方に流れ出しているのである。
何故、中国という噴火口から人々が湧き出るように外に出たがるかと言えば、矢張り貧乏からの脱出を願っているわけで、水が低い方に流れるように、誘蛾灯の明りに群がる虫のように、我も我もと豊かさを求めて国を捨てるのである。
中国人が自分の祖国を大事にしない、自分の国の事を何とも考えていないということは、この地球上の諸悪の根源だと思う。
国を出た中国人が、海外で得た知識や経験を携えて、それを祖国の発展の為に使うという気持ちを大勢の人が持てば、世界は中国を寛容な視線で眺めると思うが、現状のままでは中国人は何時まで経っても蔑視され続けるであろう。
この本にも述べられているが、蛇頭の悪事、偽造パスポートの作成や、クレジットカードの詐取、ピッキングという窃盗、こういう悪事は見事にやりとおしているが、そのエネルギーと知恵をまともに使えば彼らも信頼を得られるのに、そこが実に不可解なところである。
偽ブランド品なら作れるのに、本物は出来ないなどということが不思議でならない。
人間の生き様というか、人間の社会では、矢張り根本的な面で他者に対して誠実に接するということが大事だと思う。
物つくりでも、サービスでも、相手に対して誠実に接するということが大事で、我々日本民族は、比較的均一性が高いので、社会生活の中でも、相手も自分と同じ日本人だという認識で生きているが、中国人の場合は異民族が常に自分の周辺に居るわけで、彼らにすれば何時寝首をかかれるか判らない、という不安感に苛まれていると思う。
だから一瞬も油断が出来ず、常に自分自身の身を守り、自分が巻き添えをくわないように身構えて、他者のことよりも先ず我が身の事を考えるという思考に凝り固まっていると思う。
それが民族として上から下までそういう意識で生きているので、上は上なりに、下は下なりに、我が身の保身のみを最大の人生目標として生きて来たに違いない。
自分の身を守るのは自分自身であって、国家や、主権や、法や、規律や、倫理や、社会や、共同体や、隣近所ではない、ということを骨の髄まで知りつくしているので、当然のこと、祖国愛や、国に殉ずるなどということはあり得ない。
そもそも、国という概念こそが人為的なものであって、人間が人間の都合によって便宜的に作り上げたものなので、それを順守するということは、自ら積極的のその人為的なものに身を委ねるということである。
自然の摂理とは真っ向から対立して然るべきものではある。
その意味からすると、それにとらわれない中国人というのは、極めて自然人に近いということになるが、地球上の人々が皆素直にその人為的な約束事に身を委ねようとしている時に、中国人だけが天衣無縫に自然人の立ち居振る舞いをされては、周囲のものが迷惑をこうむるのは火を見るより明らかである。
人類が乗り物を開発し、安易に誰でもが何処へでも行けるように成ると、中国人はそれこそ噴火口からあふれ出た溶岩のごとく、地球規模で広がって、世界各地にチャイナタウンを作った。
世界中にチャイナタウンがあるということは、中国の人々は行った先で現地の人々と同化しなかったということである。
中国人は何処に行っても中国人だけでコミュニティ―を作って、現地の人々と交わるということをしなかったということである。
中国人が先進国の中にチャイナタウンを作るということは、基本的に、そこの住人は違法滞在者と見做していいと思う。
違法でなく、正規の手続きを経て入国したのであれば、自分達で群がって住む必要はないわけで、相手先の社会に溶け込んで、普通の社会生活を続ければいいが、それが出来ないから自分達で固まって相互扶助しながら生きているのである。
問題は、こういう中国人が、相手先の法を犯してでも自己の欲求を追い求め、金を稼ぎ、故郷に錦を飾りたいという願望の実現思考であって、これを目の当たりに見る受け入れ側から眺めると、そういう風に健気に生きる人達を救済しなければならない、という極めて人道的な善意に満ちた安直な好意の跋扈である。
そもそも、近代的な先進国というのは法治国家なわけで、法律が全ての国民の上に君臨して、国民はその法を順守することが暗黙の了解事項となって国というシステムが成り立っている。
ところが、中国から渡ってくる蛇頭の集団というのは、最初から法の存在など眼中にないわけで、その意味でも完全な自然人であって、自分の国にも法律があり相手国にも法律があって、法の元での自由という概念そのものが最初から欠落している。
だから、こういう蛇頭の進出を食い止める最良の方法は、入国管理法という法律に抵触したものは直ちに本国に送還することである。
本国に送還された者が、自分の祖国の法律でどう裁かれるかは我々の関知することではないし、してはならない。
ひとことでいえば、法律の厳正な施行ということであるが、こういう措置を取ろうとすると、我々の側から必ず、それを批判するものが現れて、「違法に入国する蛇頭に対しても人道的な措置をとれ」と物分かりに良い綺麗ごとを言う輩が現れる。
まさしく蛇頭の利益を擁護するような発言が、人道的と称する綺麗ごとの耳触りのいい言葉でメデイアを席巻する。
こういう風潮は日本のみならず、アメリカにも、イギリスにも、ドイツにもあるわけで、違法入国者を法に基づいて処置すると、「人道的に許されない」と、法治国でありながら法の施行を否定するような発言が人道の名の元に出てくる。
ただ21世紀の世界を俯瞰して見ると、そういう不法入国者が社会の構成員として定着してしまった感が無きにしも非ずである。
彼らは不法な存在であるが故に、不当な低賃金で、俗に3Kと言われる、人の嫌がる仕事を担っている部分は否定しようがない。
日本のように人件費の高い国では、そういう人の嫌がる仕事をする人間がいないので、その分、違法滞在の人を安い賃金で使うが、彼らにしてみればそれはそれなりに高額な所得に成るわけで、大いにメリットがあるということになる。
我々が憂うべき事は、我々の同胞がこういう違法な滞在者に対して同情という感情で以て、法の順守を甘く見る点である。
「彼らは可哀そうな立場なのだから、少々の法律違反は寛大に扱え」という趣旨であるが、彼らが可愛そうという認識そのものが最初から間違っているわけで、彼らは虎視眈々とあらゆる可能性を探って、それでも合法的に成りえないからこそ、違法であることを十分承知しながら滞在を続けているのである。
その意味で完全に確信犯であって、悪いということを十分知りながら、それでも自己の欲求に屈して、荒稼ぎをしよと企んでいるのである。
そういう人間に対して、我々が何故に同情しなければならないのだ。
こういう同情は、我々日本人だけの一人よがりなものではなく、先進国の住民には大なり小なりこういう考えの人間がいるものであるが、この違法入国、不法滞在に甘く寛大な処遇をするから、結果的に「庇を貸して母屋を盗られる」ことに成るのである。
世界各国にある中華街・チャイナタウンの存在などまさしくその顕著な例である。
著者は田雁という中国人である。
この著者自身、蘇州出身で、蘇州大学を出た後、東京大学に留学し、その後サンフランシスコに在住となっている。
この著者の生き様そのものが、既に華僑の生き様と軌を一にしているわけで、中国の文化人は、他の国に留学しても、その国で習得した知識を自分の祖国に持ち帰って、自分の祖国に貢献するという発想が全くないのは一体どういうことなのであろう。
祖国の大学を出て、そこで修めた学業だけでは物足りなくて、もっと高度な技能知識を他の国の大学に留学して習得する。
そこで習得した先進国の優れた技能や知識を自分の祖国に持ち帰って、祖国の文化レベルの向上に役立てるという思考に至らないのは一体どう事なのであろう。
留学という学問の習得の手法というか、文化の伝播の在り様というか、こういうことにも留学生を送り出す側と受け入れる側で当然のこと話し合いがあると思う。
文化の高い方から低い方への伝搬というか、役割というか、使命のようなものが基底にあって、その合意の上に留学生の受け入れということが行われていると思う。
中国からの留学生を受け入れる側は、そこで習得した技能知識を中国に持ち帰って、中国の人々の文化を引き上げ、その人達が少しでも良い生活が出来るようにと願って、留学生を受け入れていると思う。
ところが現実には、そういう留学生は自分の祖国を出た以上、自分自身の利益追求に汲々しているわけで、高度な学問の研鑚という行為も、ただ単に自己の付加価値を高めているだけで、それは金儲けの手段としての学問を身につけているだけである。
先進国に留学して、そこで習得した学識経験を本国に帰ってから普及させ、人々の生活改善に役立たせる、という話が全くないのは一体どういうことなのであろう。
中国出身の文化人の本も数多く読んだが、その全てが祖国を出て、外国で勉強し、祖国の外から自分の母国を批判し、対中史観をマイナスの方向に煽っているではないか。
中国の外から対中批判をしているので、ベストセラーに成りうるということはありうる。
中国の中に居ては決して書けない、本の中味の内容もさることながら、中国人が外に出なければ自分達、中国人の事が書けないという状況も実に不可解なことである。
で、私がどうにも我慢ならないことは、中国人の留学生という場合、彼らとても本国で期待されて、大勢の中から選抜されて、外国留学という切符を手にしたのではないかと想像する。
革命前の中国ならば、大金持ちは誰に遠慮することもなく、金に飽かせて誰でも何時でも何処へでも留学できた筈だ。
ところが革命後の中国では、そんな自由はあり得ないはずで、国を出るなどということは仮に一時的な出国であろうとも、共産党の厳しい審査を経なければ、外国に行くなどということはあり得ない筈である。
にもかかわらず、留学生として中国共産党が認めたということは、党としてその本人に大きな期待をかけ、帰国後は祖国の為に大いに貢献してくれるであろう、という期待を背負って派遣されたに違いない。
それに反し、本人は祖国を出たならば、自分のこと以外何の関心もないわけで、ただただ自分の身が有利になるように、学問という免罪符の価値を高めるべく指向するのである。
中国から日本の大学に留学して、そこで学業を修めた後、アメリカにわたって、アメリカで一旗揚げるというケースがままあるが、このケースをもう少し考察すると、こういうケースでは日本側に留学生を受け入れる義理はないわけで、そういう中国人を日本国民の血税で勉学させることは、国税の無駄遣いそのものである。
そういう留学生に対しては、留学中の学費を返済してもらっても良いと思う。
中国人の日本への留学ということは、日本で学んだことを、祖国、母国に帰って、中国社会に還元することが暗黙の了解事項としてあったのではないかと考える。
この本の著者も、完全にそういう軌跡をトレースしているわけで、日本の大学で学業を修め、アメリカに住んで、一番身の安全な場所から、祖国の実態を批判しているわけである。
彼は、自分の国でも大学を出て、その事によって日本への留学のチャンスをつかみ、日本で自分の知識に箔を付けて、アメリカに住んで自分の国の同胞の実態を暴いて、それを売り物にしているのである。
まさしく彼の説く、蛇頭の生き方そのもので、蛇頭というのはどちらかというと無学文盲に近い人達の集団だが、彼自身のしている事も、その蛇頭の生き方とそっくりである。
中国人にとって、教養人も無学文盲の人たちも、同じ中国人である限りにおいて、彼らの共通認識として普遍化している事は、中国人には祖国という概念がない、ということだ。
教養のある無しに関わらず、中国人には祖国・母国という概念がない。
自分の国という概念がないので、当然のこと、主権という概念も理解し切れない。
ある意味では人類皆兄弟なわけで、極めて自然に近似しているが、その事は同時に、兄弟は他人の始まりということも、人類の過去の実績が示している事も忘れてはならない。
中国人が自分の祖国という概念を持たない事は、中国人だけの問題では済まないわけで、他人の持つその概念をも、中国人は認めないということである。
この本で言っている蛇頭というのは、何も日本に来るだけのものではなく、たまたま日本を対象としたものを蛇頭と言っているだけで、中国人は世界に向けて噴き出しているのである。
噴火口から流れ出る溶岩のように、地中から湧き出たマグマは四方八方に流れ出しているのである。
何故、中国という噴火口から人々が湧き出るように外に出たがるかと言えば、矢張り貧乏からの脱出を願っているわけで、水が低い方に流れるように、誘蛾灯の明りに群がる虫のように、我も我もと豊かさを求めて国を捨てるのである。
中国人が自分の祖国を大事にしない、自分の国の事を何とも考えていないということは、この地球上の諸悪の根源だと思う。
国を出た中国人が、海外で得た知識や経験を携えて、それを祖国の発展の為に使うという気持ちを大勢の人が持てば、世界は中国を寛容な視線で眺めると思うが、現状のままでは中国人は何時まで経っても蔑視され続けるであろう。
この本にも述べられているが、蛇頭の悪事、偽造パスポートの作成や、クレジットカードの詐取、ピッキングという窃盗、こういう悪事は見事にやりとおしているが、そのエネルギーと知恵をまともに使えば彼らも信頼を得られるのに、そこが実に不可解なところである。
偽ブランド品なら作れるのに、本物は出来ないなどということが不思議でならない。
人間の生き様というか、人間の社会では、矢張り根本的な面で他者に対して誠実に接するということが大事だと思う。
物つくりでも、サービスでも、相手に対して誠実に接するということが大事で、我々日本民族は、比較的均一性が高いので、社会生活の中でも、相手も自分と同じ日本人だという認識で生きているが、中国人の場合は異民族が常に自分の周辺に居るわけで、彼らにすれば何時寝首をかかれるか判らない、という不安感に苛まれていると思う。
だから一瞬も油断が出来ず、常に自分自身の身を守り、自分が巻き添えをくわないように身構えて、他者のことよりも先ず我が身の事を考えるという思考に凝り固まっていると思う。
それが民族として上から下までそういう意識で生きているので、上は上なりに、下は下なりに、我が身の保身のみを最大の人生目標として生きて来たに違いない。
自分の身を守るのは自分自身であって、国家や、主権や、法や、規律や、倫理や、社会や、共同体や、隣近所ではない、ということを骨の髄まで知りつくしているので、当然のこと、祖国愛や、国に殉ずるなどということはあり得ない。
そもそも、国という概念こそが人為的なものであって、人間が人間の都合によって便宜的に作り上げたものなので、それを順守するということは、自ら積極的のその人為的なものに身を委ねるということである。
自然の摂理とは真っ向から対立して然るべきものではある。
その意味からすると、それにとらわれない中国人というのは、極めて自然人に近いということになるが、地球上の人々が皆素直にその人為的な約束事に身を委ねようとしている時に、中国人だけが天衣無縫に自然人の立ち居振る舞いをされては、周囲のものが迷惑をこうむるのは火を見るより明らかである。
人類が乗り物を開発し、安易に誰でもが何処へでも行けるように成ると、中国人はそれこそ噴火口からあふれ出た溶岩のごとく、地球規模で広がって、世界各地にチャイナタウンを作った。
世界中にチャイナタウンがあるということは、中国の人々は行った先で現地の人々と同化しなかったということである。
中国人は何処に行っても中国人だけでコミュニティ―を作って、現地の人々と交わるということをしなかったということである。
中国人が先進国の中にチャイナタウンを作るということは、基本的に、そこの住人は違法滞在者と見做していいと思う。
違法でなく、正規の手続きを経て入国したのであれば、自分達で群がって住む必要はないわけで、相手先の社会に溶け込んで、普通の社会生活を続ければいいが、それが出来ないから自分達で固まって相互扶助しながら生きているのである。
問題は、こういう中国人が、相手先の法を犯してでも自己の欲求を追い求め、金を稼ぎ、故郷に錦を飾りたいという願望の実現思考であって、これを目の当たりに見る受け入れ側から眺めると、そういう風に健気に生きる人達を救済しなければならない、という極めて人道的な善意に満ちた安直な好意の跋扈である。
そもそも、近代的な先進国というのは法治国家なわけで、法律が全ての国民の上に君臨して、国民はその法を順守することが暗黙の了解事項となって国というシステムが成り立っている。
ところが、中国から渡ってくる蛇頭の集団というのは、最初から法の存在など眼中にないわけで、その意味でも完全な自然人であって、自分の国にも法律があり相手国にも法律があって、法の元での自由という概念そのものが最初から欠落している。
だから、こういう蛇頭の進出を食い止める最良の方法は、入国管理法という法律に抵触したものは直ちに本国に送還することである。
本国に送還された者が、自分の祖国の法律でどう裁かれるかは我々の関知することではないし、してはならない。
ひとことでいえば、法律の厳正な施行ということであるが、こういう措置を取ろうとすると、我々の側から必ず、それを批判するものが現れて、「違法に入国する蛇頭に対しても人道的な措置をとれ」と物分かりに良い綺麗ごとを言う輩が現れる。
まさしく蛇頭の利益を擁護するような発言が、人道的と称する綺麗ごとの耳触りのいい言葉でメデイアを席巻する。
こういう風潮は日本のみならず、アメリカにも、イギリスにも、ドイツにもあるわけで、違法入国者を法に基づいて処置すると、「人道的に許されない」と、法治国でありながら法の施行を否定するような発言が人道の名の元に出てくる。
ただ21世紀の世界を俯瞰して見ると、そういう不法入国者が社会の構成員として定着してしまった感が無きにしも非ずである。
彼らは不法な存在であるが故に、不当な低賃金で、俗に3Kと言われる、人の嫌がる仕事を担っている部分は否定しようがない。
日本のように人件費の高い国では、そういう人の嫌がる仕事をする人間がいないので、その分、違法滞在の人を安い賃金で使うが、彼らにしてみればそれはそれなりに高額な所得に成るわけで、大いにメリットがあるということになる。
我々が憂うべき事は、我々の同胞がこういう違法な滞在者に対して同情という感情で以て、法の順守を甘く見る点である。
「彼らは可哀そうな立場なのだから、少々の法律違反は寛大に扱え」という趣旨であるが、彼らが可愛そうという認識そのものが最初から間違っているわけで、彼らは虎視眈々とあらゆる可能性を探って、それでも合法的に成りえないからこそ、違法であることを十分承知しながら滞在を続けているのである。
その意味で完全に確信犯であって、悪いということを十分知りながら、それでも自己の欲求に屈して、荒稼ぎをしよと企んでいるのである。
そういう人間に対して、我々が何故に同情しなければならないのだ。
こういう同情は、我々日本人だけの一人よがりなものではなく、先進国の住民には大なり小なりこういう考えの人間がいるものであるが、この違法入国、不法滞在に甘く寛大な処遇をするから、結果的に「庇を貸して母屋を盗られる」ことに成るのである。
世界各国にある中華街・チャイナタウンの存在などまさしくその顕著な例である。