例によってヨーロッパ旅行の予備知識にと思って図書館から借りてきた本で、「やさしいユダヤ教Q&A」という本を読んだ。
キリスト教を知るにはユダヤ教も同時に知らなければならないと思って読んでみたが、これも問答形式の本で、読みやすかった。
しかしユダヤ教についてはある程度の理解を深めることは出来たが、どうもいまいちピンと来るものがない。
ユダヤ教とその信者のユダヤ教徒というのは私の理解を超えた存在だ。
キリスト教徒をはじめとするあらゆる宗教の信徒について同じことが言えると思うが、例えばキリスト教信者として日曜日に教会に礼拝に行くという程度の信仰ならば私も納得できるが、ユダヤ教徒の全部が全部ではないとは断ってはいるものの、その戒律というものには何とも不可解な気持ちにならざるを得ない。
自然の中の一人の人間というよりも、社会の最小の単位の家族として、生活の節々における通過儀礼というのは如何なる民族にも大同小異存在することは理解できる。
キリスト教徒はキリスト教なりに、ユダヤ教徒はユダヤ教なりに、南方のポリネシア人は彼らの風称として、インデアンはインデアンなりに通過儀礼というものを持っていると思う。
社会を構成する一番の最小単位として、若い男女が一緒になって新家庭を持てば、必然的に子供が生まれ、その子供の成長の過程で、それぞれの社会にかなった通過儀礼を経ることによって新たな社会の構成員が出来上がってくるわけで、それはそれで特別に宗教色が強いわけではないと思う。
民族により、国により、集落により、それぞれが同じようなことを同じような意味合いで行っていると思う。
この点に関しては特にキリスト教だからとかユダヤ教だからということはないと思うが、それが2千年も前から同じことが繰り返されているとなると、これはあきらかに宗教の影響といわざるを得ない。
この地球上の、あらゆる民族が同じように通過儀礼を行うという意味では、人類は皆同じということがいえるが、問題は通過儀礼を受ける側がそれに何の懐疑も抱かずにそのまま受け容れるのかどうかという点である。
普通に健康に育った人間ならば、二十歳前後になれば当然自我に目覚め、その結果として親との確執、周囲との軋轢、自分達の伝統に対する疑義、疑念というのが生じてくるのが正常な精神の発達ではないかと思う。
いわゆる反抗期といわれるものであるが、ある民族が2千年もの間、伝統を守り続けるということは、その民族の中の若者は伝統を逸脱することが全くなかったということと考えざるを得ない。
それは良いとか悪いという問題ではなく、若者が従来の古色蒼然たる伝統とか因習に対して何の違和感も感じず、唯々諾々としてそれを引き継いだということである。
我々の普通の認識では、伝統を守るということは良い意味の価値観で評価されがちである。
伝統や因習に抵抗するような行為は、異端者、変わり者、ひねくれ者というように、どちらかというと顰蹙を買いそうな悪い評価につながりがちである。
しかし、文明とか文化というのは常にそういう古い殻を破ったときに進化するわけで、2千年も同じ伝統が守り続けられているということは、そういう飛躍が一度もなかったということである。
同じことが宗教にもいえるわけで、有史以来の伝統が未だに守り続けられているということは、その間にそれを超越する思考がいっさいなかったということである。
今日の敬虔なユダヤ教信者、キリスト教信者、その他の宗教の信者というのは、そういう古い古い思考を如何にも有り難く受け容れているということである。
2千年も語り継がれてきた言葉というのは、それこそ真理を極めているに違いない。
語り継がれていることが如何に真理であったとしても、それは真理なるが故に完全なる理想なわけで、人間の追い求めているものが100%完全なる真理であるが故に、それは人々の理想として燦然と輝いているのではなかろうか。
だから人々がそれを追い求めれば追い求める程遠のいてしまう。
陽炎の逃げ水のように近づいたと思った途端にさっと逃げてしまう。
で、結果として、人は理想を追い求めるだけで、実際にはたどり着けないということになる。
それを人間の生涯に当てはめてみると、若いときには古老の説くこの真理を意味もわからず受け容れているが、思春期ともなれば普通に健康な精神を持つ若者であればあるほど古老の言っていることに疑問を抱くのが当然だと思う。
疑問を抱きつつも、古老の言うことをそのまま信じ続ければ、それは立派な伝統として後世に語り継ぐということになる。
ところが、ここでその疑問を深く掘り下げようとすると、現状との衝突となるわけで、それでも尚いっそう自分の考えを優先させ、それに忠実足らんとすれば、それは革新となり、異端となり、変わり者と烙印を押され、仲間内から排斥されかねない。
イエス・キリストの誕生も、この流れの中で出てきたのではないかと思う。
ここで言うユダヤ教が2千年も続いてきたということは、イエス・キリスト以外にユダヤ教の中でそれに続く革新者が一人も登場していないということに他ならない。
厳密に言えば、現代のユダヤ教徒の中にも様々な宗派があるようで、その意味ではイエス・キリスト以外にも、その他の革新者がいたということなのではなかろうか。
信仰の厚い人、敬虔な信者という言葉は、今の状況の中では良い評価を得ているようであるが、私の個人的な評価からすれば、それは心の柔軟性の乏しい人ということになる。
生まれ落ちたところが両親共に敬虔な信者で、その元で厳格な宗教的戒律の中で生育したとしても、成長の過程で思春期というものを経験する際に、その両親のしていることに何も疑問を抱かずに大人になるなどということが私には考えられない。
この地球上には未だにあらゆる情報から隔離されている地域があるが、そういう地域の人々ならばいざ知らず、普通のところであらゆる情報に晒されながら、未だに2千年前の戒律のままに生きるなどということは信じられない。
歴史上には世界的な規模で活躍したユダヤ人というは掃いて捨てるほどいる。
イエス・キリストを始め、アインシュタインからキッシンジャーまで、著名なユダヤ人が目白押しであるが、問題は彼らが自分達の祖国を持っていないという点が実に我々には解りにくい。
アメリカ人、イギリス人、フランス人、中国人、日本人という場合、大抵はそれぞれの祖国を背負って語られているが、彼らは世俗的にはそれぞれに自分の祖国というものを持ちながら尚それに付け加えてユダヤ人といわれているわけで、その部分がいまいち理解しがたいものがある。
イタリア系アメリカ人、インド系イギリス人、アルジェリア系フランス人というものともひと味違っている。
第2次世界大戦後の1948年にユダヤ人の国家、イスラエルが誕生したので、イスラエル人かというとそうでもない。
この本の中でもユダヤ人の定義が成されているが、突き詰めると、結局のところ解らないということになる。
ローマ皇帝に祖国を追われ、世界を放浪する民となり、それが20世紀になって自分達の祖国が出来た以上、全員そこに帰還すれば良さそうなものだが、そうはならない。
無理もない話で、アメリカやイギリスで何不自由ない生活をしていたものが、自分の祖国が出来たからといって、禿げ山ばかりの砂漠に戻るなどということは、普通の人間ならば御免被りたいと思うのが当然だ。
修験者でもない限り、わざわざ苦行の道を選択するはずもない。
大昔にローマ皇帝に祖国を追われ放浪の民となって以来というもの、あちらの国こちらの国に散って、その国の軒先を借りて細々と生きてきたといっても、軒先を貸した方の人々にしてみれば、何時寝首をかかれるか解らないという不安はついて回ると思う。
一旦は追われても又元の場所に戻って、そこで祖国を再建したというのであれば、それなりの対応というものもあり得るが、そうではなく、世界中に散らばって、散らばった先で社会的にも高い地位を占める人が多くなれば、軒先ばかりではなく母屋まで取られるのではないか、という心配はついて回ると思う。
主権国家という概念が確立すればするほど、様々な主権国家の首脳者としてみれば、自分の国の中で起居するユダヤ人に対してそういう心配がついて回ると思う。
彼らが自分達の宗教にこだわることなく、完全に周囲に同化してしまえば、そういう心配もなくなるかもしれないが、軒下を借りた形でいながら2千年も前の伝統をそのまま引き継いでいるとすれば、軒下を貸した方の心配は払拭されないものと想像する。
それが20世紀におけるユダヤ人の抑圧というものではなかろうか。
1948年にイスラエルがユダヤ人に国家として誕生したならば、そこに世界中のユダヤ人が集合すれば良さそうに思うが、そうならないという点では「人は信仰のみでは生きれない」ということなのであろう。
キリスト教を知るにはユダヤ教も同時に知らなければならないと思って読んでみたが、これも問答形式の本で、読みやすかった。
しかしユダヤ教についてはある程度の理解を深めることは出来たが、どうもいまいちピンと来るものがない。
ユダヤ教とその信者のユダヤ教徒というのは私の理解を超えた存在だ。
キリスト教徒をはじめとするあらゆる宗教の信徒について同じことが言えると思うが、例えばキリスト教信者として日曜日に教会に礼拝に行くという程度の信仰ならば私も納得できるが、ユダヤ教徒の全部が全部ではないとは断ってはいるものの、その戒律というものには何とも不可解な気持ちにならざるを得ない。
自然の中の一人の人間というよりも、社会の最小の単位の家族として、生活の節々における通過儀礼というのは如何なる民族にも大同小異存在することは理解できる。
キリスト教徒はキリスト教なりに、ユダヤ教徒はユダヤ教なりに、南方のポリネシア人は彼らの風称として、インデアンはインデアンなりに通過儀礼というものを持っていると思う。
社会を構成する一番の最小単位として、若い男女が一緒になって新家庭を持てば、必然的に子供が生まれ、その子供の成長の過程で、それぞれの社会にかなった通過儀礼を経ることによって新たな社会の構成員が出来上がってくるわけで、それはそれで特別に宗教色が強いわけではないと思う。
民族により、国により、集落により、それぞれが同じようなことを同じような意味合いで行っていると思う。
この点に関しては特にキリスト教だからとかユダヤ教だからということはないと思うが、それが2千年も前から同じことが繰り返されているとなると、これはあきらかに宗教の影響といわざるを得ない。
この地球上の、あらゆる民族が同じように通過儀礼を行うという意味では、人類は皆同じということがいえるが、問題は通過儀礼を受ける側がそれに何の懐疑も抱かずにそのまま受け容れるのかどうかという点である。
普通に健康に育った人間ならば、二十歳前後になれば当然自我に目覚め、その結果として親との確執、周囲との軋轢、自分達の伝統に対する疑義、疑念というのが生じてくるのが正常な精神の発達ではないかと思う。
いわゆる反抗期といわれるものであるが、ある民族が2千年もの間、伝統を守り続けるということは、その民族の中の若者は伝統を逸脱することが全くなかったということと考えざるを得ない。
それは良いとか悪いという問題ではなく、若者が従来の古色蒼然たる伝統とか因習に対して何の違和感も感じず、唯々諾々としてそれを引き継いだということである。
我々の普通の認識では、伝統を守るということは良い意味の価値観で評価されがちである。
伝統や因習に抵抗するような行為は、異端者、変わり者、ひねくれ者というように、どちらかというと顰蹙を買いそうな悪い評価につながりがちである。
しかし、文明とか文化というのは常にそういう古い殻を破ったときに進化するわけで、2千年も同じ伝統が守り続けられているということは、そういう飛躍が一度もなかったということである。
同じことが宗教にもいえるわけで、有史以来の伝統が未だに守り続けられているということは、その間にそれを超越する思考がいっさいなかったということである。
今日の敬虔なユダヤ教信者、キリスト教信者、その他の宗教の信者というのは、そういう古い古い思考を如何にも有り難く受け容れているということである。
2千年も語り継がれてきた言葉というのは、それこそ真理を極めているに違いない。
語り継がれていることが如何に真理であったとしても、それは真理なるが故に完全なる理想なわけで、人間の追い求めているものが100%完全なる真理であるが故に、それは人々の理想として燦然と輝いているのではなかろうか。
だから人々がそれを追い求めれば追い求める程遠のいてしまう。
陽炎の逃げ水のように近づいたと思った途端にさっと逃げてしまう。
で、結果として、人は理想を追い求めるだけで、実際にはたどり着けないということになる。
それを人間の生涯に当てはめてみると、若いときには古老の説くこの真理を意味もわからず受け容れているが、思春期ともなれば普通に健康な精神を持つ若者であればあるほど古老の言っていることに疑問を抱くのが当然だと思う。
疑問を抱きつつも、古老の言うことをそのまま信じ続ければ、それは立派な伝統として後世に語り継ぐということになる。
ところが、ここでその疑問を深く掘り下げようとすると、現状との衝突となるわけで、それでも尚いっそう自分の考えを優先させ、それに忠実足らんとすれば、それは革新となり、異端となり、変わり者と烙印を押され、仲間内から排斥されかねない。
イエス・キリストの誕生も、この流れの中で出てきたのではないかと思う。
ここで言うユダヤ教が2千年も続いてきたということは、イエス・キリスト以外にユダヤ教の中でそれに続く革新者が一人も登場していないということに他ならない。
厳密に言えば、現代のユダヤ教徒の中にも様々な宗派があるようで、その意味ではイエス・キリスト以外にも、その他の革新者がいたということなのではなかろうか。
信仰の厚い人、敬虔な信者という言葉は、今の状況の中では良い評価を得ているようであるが、私の個人的な評価からすれば、それは心の柔軟性の乏しい人ということになる。
生まれ落ちたところが両親共に敬虔な信者で、その元で厳格な宗教的戒律の中で生育したとしても、成長の過程で思春期というものを経験する際に、その両親のしていることに何も疑問を抱かずに大人になるなどということが私には考えられない。
この地球上には未だにあらゆる情報から隔離されている地域があるが、そういう地域の人々ならばいざ知らず、普通のところであらゆる情報に晒されながら、未だに2千年前の戒律のままに生きるなどということは信じられない。
歴史上には世界的な規模で活躍したユダヤ人というは掃いて捨てるほどいる。
イエス・キリストを始め、アインシュタインからキッシンジャーまで、著名なユダヤ人が目白押しであるが、問題は彼らが自分達の祖国を持っていないという点が実に我々には解りにくい。
アメリカ人、イギリス人、フランス人、中国人、日本人という場合、大抵はそれぞれの祖国を背負って語られているが、彼らは世俗的にはそれぞれに自分の祖国というものを持ちながら尚それに付け加えてユダヤ人といわれているわけで、その部分がいまいち理解しがたいものがある。
イタリア系アメリカ人、インド系イギリス人、アルジェリア系フランス人というものともひと味違っている。
第2次世界大戦後の1948年にユダヤ人の国家、イスラエルが誕生したので、イスラエル人かというとそうでもない。
この本の中でもユダヤ人の定義が成されているが、突き詰めると、結局のところ解らないということになる。
ローマ皇帝に祖国を追われ、世界を放浪する民となり、それが20世紀になって自分達の祖国が出来た以上、全員そこに帰還すれば良さそうなものだが、そうはならない。
無理もない話で、アメリカやイギリスで何不自由ない生活をしていたものが、自分の祖国が出来たからといって、禿げ山ばかりの砂漠に戻るなどということは、普通の人間ならば御免被りたいと思うのが当然だ。
修験者でもない限り、わざわざ苦行の道を選択するはずもない。
大昔にローマ皇帝に祖国を追われ放浪の民となって以来というもの、あちらの国こちらの国に散って、その国の軒先を借りて細々と生きてきたといっても、軒先を貸した方の人々にしてみれば、何時寝首をかかれるか解らないという不安はついて回ると思う。
一旦は追われても又元の場所に戻って、そこで祖国を再建したというのであれば、それなりの対応というものもあり得るが、そうではなく、世界中に散らばって、散らばった先で社会的にも高い地位を占める人が多くなれば、軒先ばかりではなく母屋まで取られるのではないか、という心配はついて回ると思う。
主権国家という概念が確立すればするほど、様々な主権国家の首脳者としてみれば、自分の国の中で起居するユダヤ人に対してそういう心配がついて回ると思う。
彼らが自分達の宗教にこだわることなく、完全に周囲に同化してしまえば、そういう心配もなくなるかもしれないが、軒下を借りた形でいながら2千年も前の伝統をそのまま引き継いでいるとすれば、軒下を貸した方の心配は払拭されないものと想像する。
それが20世紀におけるユダヤ人の抑圧というものではなかろうか。
1948年にイスラエルがユダヤ人に国家として誕生したならば、そこに世界中のユダヤ人が集合すれば良さそうに思うが、そうならないという点では「人は信仰のみでは生きれない」ということなのであろう。