ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「マオ 誰も知らなかった毛沢東」

2006-03-31 07:02:11 | Weblog
前々から「ワイルド・スワン」の著者、ユン・チャンが新たに毛沢東の本を出したということを聞き及んでいたので、一度読んでみたいと思っていた。
それで2、3日前、本屋で購入して上巻を2日掛かりで読んだ。
これだけボリュームのある本だと読むほうもかなり大変だ。
毛沢東に関しては私の知識も相当なもので、この本に出てくるシチュエーションの大部分は知識としてすでに知っていることであった。
この上巻は毛沢東の誕生から中華人民共和国を立ち上げるまでの過程が記されているが、蒋介石の北伐から、長征、西安事件、延安、清風運動、国共合作まで、知識としてはその概略をおおよそ知っていることばかりであった。
ただ、その時々の事件や事柄における犠牲者の数というのは私の知っているところではなく、その数の多さは明らかに白髪3千丈の類ではないかと思えてならない。
しかし、この本を読んでいても、やはり中国人は中国人だと思わずにはおれない。
毛沢東の残虐さも、蒋介石の残虐さも、我々の想像を絶するものがあるように思えてならない。
そして、この両者とも、どこからどう見てもやはり中国人であるように見える。
我々、自由主義体制を望むものとしては蒋介石の汚職追放ということを真剣に考えたいところであるが、これも彼らが中国人である限り、汚職追放とか規律の厳正さというのは望めないのではないかと思う。
そのことは同時に、毛沢東の共産主義体制においても、時とともに、彼らが中国人である限りそれが復活してくると思う。
この本によると、毛沢東は人民にそういうことをすると恐怖政治で締め上げるということが、執拗に書かれているが、それも時の流れとともに、恐怖感が薄れ、汚職や規律の緩慢が復活するのではないかと思う。
これは中国の有史以来の民族性であり、潜在意識であると思う。
中国の地に住む人々は、有史以来そのことを繰り返して生きていたのではないかと想像する。
それにも増して、中国に地に住む人々というのは情けないと思う。
彼ら漢民族というのは自分の力でという概念がまったくないように見受けられる。
というのも、この本を読む限りにおいて、蒋介石も毛沢東も自分たちの力でことを解決するという意識が最初から欠落している。
この両者ともソビエット、旧ソビエット連邦共和国、つまりソ連の力添えを最初から期待している。
両方ともが何かにつけてソビエットに援助を依頼し、それを期待し、その顔色を伺いつつ、彼らに指導を仰いでいるというのはいったいどういうことなのであろう。
そして、それと関連して自分の権力、権威を維持するために外国に媚を売り、外国に支配されることを熱望している図というのはいったいどう考えたらいいのであろう。
双方とも、自分達が殺しあうのに、ソビエットの顔色を伺いながら、自分たちの軍が被害をこうむらないように策を弄しつつ、それでいて自分の手持ちの軍が傷つくこと、つまり自軍の弱体化を避けつつ、自分たちの国民、自分たちの同胞を殺すことにはなんら憐憫の情も示さず、まるで犬か猫が死ぬような感覚で見ているというのはいったいどういうことなのであろう。
ここにはまさしく秦の始皇帝と同じように、自分は皇帝という立場で、民百姓とは違う人間なのだ、という感覚でしかないではないか。
この感覚は蒋介石も毛沢東もまったく同じように根付いている。
蒋介石の統治の不味さというのは、典型的な東南アジアの民族の政治的特性がもろに出ているわけで、別の言い方をすれば如何にも民主主義の度合い、民主化の度合いが低いという現象である。
しからば、毛沢東のほうならば共産主義を信奉しているのだから、こういう弊害がまったくないのかといえば、これはまたこれで人民を抑圧するのに恐怖政治、密告、告げ口、裏切り、暴力的な圧力で人民を押さえつけるという手法で、秦の始皇帝の政策となんら変わるものではない。
アジア大陸、特に中国大陸で人々を統治するということは、結局のところ、こういう手段でなければあの膨大な人間、10億に近い人間を統治する手法はないということであろう。
仮にそうであったとしても、自分たちが施策をするのに、自分たちの民族を統治するのに、いちいちソビエットに伺いを立て、その指示を仰がなければならないという発想はいったいどこから来ているのであろう。
結局のところ、中国の地にすむ人々がこういう心意気だったがゆえに、西洋列強に国土を蚕食されたということではないかと思う。
彼らにとって、紅毛碧眼の西洋人は、彼らの小宇宙の外の人間だから自分たちの価値観に束縛されることがないが、これが同じアジアの日本人だと、彼らの価値観からすれば夷荻、つまり野蛮人だから、これが自分たちの上に来るとなんとも腹立たしさが拭い切れないという感情に犯されているようだ。
それでいて日本人の優秀さには彼ら自身舌を巻いているわけで、そういう文脈が随所に見られた。
日中戦争の間、蒋介石も毛沢東も、共に日本と戦うことを避けていたわけで、結局のところ中国人同士が殺し合いをしていたことになるが、その殺し合いの一つ一つにソビエット・スターリンの指示を仰ぎながら行った、ということは我々の視点から見て実に不可解なことである。
結果的に毛沢東が最終的に政権を握ったということは、日本がシナ大陸に攻め込み、それが日米戦の敗北という形でソビエットの軍隊を呼び込んだからということになる。
それにつけてもソビエットが毛沢東を支持するのは理解できるが、アメリカが毛沢東を過小評価していたことはなんとも情けない。
アメリカが蒋介石に見切りをつけるのはある程度理解できるが、毛沢東を過小評価した理由は、あのエドガー・スノーの「中国の赤い星」を100%信用した点にあると思う。
アメリカも日本に対しては徹底的に研究していたが、中国に対してはそういう基礎研究を怠っていたに違いない。
それはアメリカの視点から見て、日本は一筋縄ではいかないが、中国ならば簡単に御せると思っていたということだと思う。

満州国

2006-03-30 12:24:16 | Weblog
我が家の小さな春

本日(30日)の朝日新聞には満鉄に関するコラム記事が載っていた。
満鉄の創設が1906年であるので100周年記念ということでコラムが書かれているが、この満鉄の舞台となっていた満州国については、日本の過去の植民地政策として今現在は歴史的認識が問われている。
しかし、アジアの自立という視点からこの満州国というものを考えてみると、きっと面白い架空の話が出来上がるのではなかろうか。
中国の地に、特にアジア大陸の東北部に住み続けていた人々は、有史以来、漢民族の影響下にあったことは歴史的事実であるが、これがもし第2次世界大戦後も日本人の運営に任されていたとしたら、きっと今頃はすばらしい近代国家が出来上がっていたのではなかろうか。
昔の満鉄の路線には今の我々の新幹線以上の列車が行き交っているに違いなく、その沿線には近代的な工場が並び、その向こう側には緑豊かな田園が広がっているのではなかろうか。
こういう進歩を迷惑だという人がいることも現実にはあるかと思うが、ごく普通の人間ならば、基本的にはそうありたいと思うのも、これまた普通の心情ではないかと思う。
日本が戦争に負け、満州国にはソ連兵が侵攻し、日本が投資したありとあらゆる社会的資本を接収して、要するに泥棒のように分捕ったあと、共産主義中国にその滓を開けわたしたところで、彼らは彼らで有史以来の手法、思考、考え方から脱することができず、近代とは程遠い営みしかできなかった、というのが現状だと思う。
今の中国・東北地方というのは中共政権の下で、満州建国以前の荒野の地に戻っているのではなかろうか。
私は満州国というものを自分の目で見たことはないので、確かなことはいえないし、この国が消滅したのが5歳のときで、私の頭の中の想像の国でしかないが!!!!
満州国は確かに日本の傀儡で、日本の息がかかった国家であることは論を待たないが、仮にそうであったとしても、全体の底上げ、生活レベルの底辺がレベルアップする、古い因習から解き放たれ、新しい人間像として自由で、自分の意志で物事を決められる個人乃至は社会ができれば、そこに住んでいる人々にとってもそのほうがよかったのではなかろうか。
満州国の建国というのは、そういう一つの大きなチャンスではなかったろうか。
確かに、建国の経緯は、日本が無理やり旧清朝の退位させられた皇帝を担ぎ出したという点はあるが、清の元皇帝という立場からすれば、自分たちの先祖の土地に、自分たちの新しい国家が再建できた、という解釈も成り立つのではなかろうか。
その時の皇帝、宣統帝・溥儀は、東京裁判に出廷したとき、そういう意味のことは言わずに、日本に対する不平不満を愚痴ったが、旧皇帝からして満州国の意義(女真族の地にまがりなりにも女真族の国が再建できた)ということをまったく理解していなかったわけである。
そのことは同時に宣統帝・溥儀、自身に自分の国の近代化、アジアの覚醒、民族の自立という概念そのものがなかったわけで、だからこそ辛亥革命で追われたということであろうと思う。
第2次世界大戦が終わった時点で、その後も引き続き日本があの地を管理運営することが許されていたとするならば、今頃はきっとすばらしい近代国家、近代都市が出来上がっていたのではないかと思う。
それを阻害したのは明らかに偏狭なナショナリズムだったと思う。
しかも、このナショナリズムというのは共産主義のバイアスがかかっているわけで、この共産主義というものが、目覚めかかった満州という大地を、昔の荒野に戻してしまったと考えるべきではなかろうか。
中国共産党にとって一番大事なことは、民衆の生活を考えることよりも、党勢の拡大が最大の関心であったわけで、大衆の生活のことなどは二の次の問題だったはずだ。
1945年以降も、日本にあの地の運営を任せられていれば、満鉄は近代工業の、そして経済発展の機関車として、あの地の経済を牽引したにちがいなかろうし、日本から渡った満蒙開拓団はきっとあの地を豊かな穀倉地帯に変えていたのではないかと思う。
これは一義的には日本人の優位、日本本位の施策であったかもしれないが、その影響は徐々に現地の人々にも普及していくと思う。
我々の施策は、西洋列強の植民地政策のように、現地の人々からの搾取のみを目的としたものではないはずで、現地の人々をも我々と同じように、同じレベルに引き上げ、我々と同等に扱うというのが我が民族としての理念であったわけで、この理念は今日に至るも理解されていないが、同じアジアの民として、異民族を搾取するなどという発想はもともと持ち合わせていないはずである。
仮に、今、かっての満州の地が、その後も日本の運営に任されていたとするならば、日本の内地と同様に経済復興を達成し、その影響は周辺諸国にも浸透し、その波及効果というのは計り知れないものがあると思う。
ところが、共産主義のバイアスのかかったナショナリズムというのは、皆仲良くという思考を嫌うわけで、お互いの悪口を言い合っていないとそのムードが高揚しないわけで、こちらが良かれと思ったことでも相手は抑圧したと、故意に悪意に取るわけである。
そう言い放たないと大衆の心を一つにまとめる雰囲気が湧き上がってこないわけで、それがそのまま外交上の切り札として使われるから、話がややこしくなるのである。
あの戦争前、日本が台湾、朝鮮、満州に、日本国民、大日本帝国臣民の血税で社会資本の基盤整備をしても、先方の共産主義のバイアスのかかったナショナリズムの視点からすれば、それらはすべて抑圧の象徴であり、侵略の象徴であり、弾圧の象徴であったと言わなければ、彼らの国民の不平不満のガス抜きができないわけで、先方の大衆は納得しないのである。

ものの考え方の相違

2006-03-29 07:37:10 | Weblog
我が家の庭先の小さな春、水仙

先に個人のモラルと国家のモラルについて述べたが、国家というのは極めて強い意志を内在していると思う。
国家の意思というよりも、その国を形成している人々の考え方の集大成のようなものがあると思う。
1945年、昭和20年8月、日本はアメリカに見事なまでに完璧に敗北したが、この結果に対して我が方にも、アメリカ側にも、それぞれの国として、その国を形成している人々のものの考え方が見事に露呈していると思う。
例えば、この年の4月に沖縄戦が展開したことは周知の事実であるが、このときアメリカ軍が上陸した地点の沖合いには、アメリカの艦艇がそれこそ雲霞の如く集結していたといわれている。
この状況から、戦後、我々はアメリカの物量に負けた、アメリカの物資の豊富さに負けた、という言い方をしたものだ。
ところが、これは戦争当初より、我々のものの考え方とアメリカのものの考え方の相違がこういう形で露呈したに他ならない。
というのも、1941年、昭和16年、我が帝国海軍が真珠湾を攻撃した際、我々は湾内に停泊している軍艦のみを標的とし、その後の海戦でも、いつも相手の軍艦のみを標的とし、その他の艦艇はいくら沈めても戦果として評価しなかった。
この真珠湾でもそれと同じことで、標的を戦艦にのみに絞って、一喜一憂して、その他の兵站、つまり燃料タンクとか、ドックというものを無傷のまま放置して、戦艦に損傷を与え、いくつかは沈めたので一定の戦果があったとして引き上げてきている。
ところが攻撃されたアメリカは、ドックが無傷で残ったものだから、すぐに普及作業をし、燃料タンクもまったく損なわれていないので、迅速に戦線復帰ができたわけである。
この兵站を疎かにする、兵站に価値を置かない、補給を蔑視するという思考は、明治以来の日本の軍隊の伝統であったのではないかと思う。
兵站を疎かにする、補給の重要性をまったく認識していなかったという点からして、日本海軍は輸送船の護衛という任務をまったく評価していなかったという話だ。
陸軍でも同じことが言えるわけで、「輜重兵が兵ならば、蝶ちょトンボも鳥のうち」といって、補給部隊を軽蔑していたわけで、その延長線上に補給が底を着いて玉砕という結果を招いたものと思う。
同じように海軍も補給ということをまったく評価しなったものだから、敵の輸送船を発見して、それに対して積極的に攻撃をすることをしなかった。
だから味方の輸送船を護衛することを遺棄していたので、敵の輸送船に注意を払うこともなく、それが結果として、日本の輸送船は次から次へと沈められたのに、敵の輸送船は物資を満載して兵站を潤わせたのである。
仮に攻撃したとしても、それが戦果として正当に評価されないものだから、おざなりの仕事になるわけで、相手にしてみれば完璧に補給が可能であったわけで、気がついたときには豊かな物資で自分たちが攻撃されるという結果を招いたものと考える。
一方、アメリカ側は、日本の輸送船を見つけ次第沈めてしまったので、我が方は補給が続かず玉砕という結果になってわけである。
この輸送船に価値を見出すことなく、「ただただ戦艦を求めて、戦艦を沈めることだけが戦いだ」という認識は、結局戦争が終わるまで我が方では気がついていなかったのではないかと思う。
我が方の海軍は、「戦艦と戦艦の戦いこそ海戦だ」という、一昔前の武士の一騎打ちのような価値観で、あの20世紀の近代戦争をしていたわけである。
一方、アメリカの方は近代戦争である限り、「補給を絶つことこそ勝利の道だ」という発想でもって、日本の輸送船を見つけ次第沈めてしまったわけである。
結果的に、沖縄戦ではそれまでの過程でアメリカの物資は消耗されることなく戦線まで運ばれて、我が方に弾雨となって降りかかってきた。
これこそ日米双方のものの見方、考え方、合理的な思考の相違ではなかろうか。
この発想の違いは、それこそおのおのの民族の持つ潜在意識の違いだと思う。
日米戦に関する限り、その戦い方の理念が最初から噛み合っていなかったと思う。
アメリカは戦争をする前から、することを前提としてものを考えていたが、わが方は最期の最後まで戦争回避の方策を模索していたわけで、する気でいるものと、あわよくばしないで済ませようという考え方では、勝負はもう既にそのときに決まっていたといってもいいと思う。

個人のモラルと国家のモラル

2006-03-28 09:41:12 | Weblog
我が家の春を告げる椿です。

私の所属している自分史サークルの文集に、あの戦争が終わった直後の話として、外地から引き上げる時、アメリカ兵の監視の元引き上げ船に乗る際、大きな荷物を背負った邦人が倒れたが、その時、監視の米兵が駆け寄って助け起こしたという話、又、捕虜の使役の際、怪我をした元敵国の我が邦人に適切な処置をした米兵を目撃したことに対して、「我々は道徳の面でもアメリカに負けていた」という趣旨の文が載っていた。
私も全く同感だと思う。
先に記した竹やり訓練の祭の我々の同胞の居丈高な態度と比較して、全く我々は道徳の面でもアメリカにかなわなかったのではないかと思う。
さて話し変わって、最近、乗り物に乗ると、シルバーシートなるものがあって、老人や妊婦、怪我をしている人、肢体不自由な人に専用シートが別に割り当てられている。
これも実に不思議なことのはずであるが、我が同胞は誰一人その不合理さに気が付いていないということは一体どういうことなのであろう。
老人や妊婦、怪我をしている人、肢体不自由な人、小さな子供をつれている人に席を譲ることは普通の人間として、普通に常識のある人ならば当然の話ではないのか。
自分の目の前のこういう人が来れば、仮に何処に座っていようとも、健康な大人ならば、ごく自然に席を譲るのが人間としての本当の優しさなのではなかろうか。
普通の大人が、普通に子供を育てる過程において、家の中の躾や、初等教育の学校現場で、幼児にそういうことを教えるのが人としての勤めだったのではなかろうか。
わざわざ、別に席を設けて、それを図示して、尚、啓蒙運動をしなければならないことのほうがよほど異常で、幼児や赤子に説教をしている図ではなかろうか。
それに加え、わざわざこういう席を別に設けていても尚それを無視する人間がいることの方がよほど社会的に問題なのではないのか。
肢体不自由者用の駐車スペースに勝手に車を止める輩もこの類である。
これも戦後の悪しき平等主義の産物ではないかと思う。
運賃を払っている以上、同じ権利があるわけで、その同じ権利という枠の中では、先に席を占めた人には、優先権があるとでもいう平等意識ではないかと思う。
そこには人間愛というものは微塵も存在せず、自分さえ良ければ人のことなどかまっておれるか、という心理に違いない。
シルバーシートなるものを行政なり鉄道会社が宣伝しなければならない我々の国というのは実に見下げ果てた国といわざるを得ない。
弱者に席を譲ることを、赤の他人、ひいては行政なり、鉄道会社が大きな声で何度も何度も言わなければならないような国というのは、全くモラル不在の国ではなかろうか。
人間として普遍的な情緒や感情というものがあるとすれば、弱者をいたわる心は人から強制されるべきものではないはずで、それは民族の如何を問わず人として当然な行為であるはずである。
それが実践できない我々、電車の中にシルバーシートなるものをわざわざ設けなければならない我々の国というのは、まさしくモラル不在の国ではなかろうか。
と言いながらも、これが国家の行為となると全く逆転しているわけで、個人としてきわめて優しいアメリカ人も、それらの集合体としての国家の行為となると、わが国に2つも原爆を投下したわけだし、極東国際軍事法廷なるもので我が方のいわゆるA級戦犯と名指しされた人々は、極限まで戦争回避に努力していたことを考えると、個人として極めて優しいアメリカ人と、個人として全くモラルに欠けた我々の側のその時の為政者の行為をどう考えたら良いのであろう。
その後の日本の知識人は、こういうことをすべて政府の行為として、政府という言葉で、政府を悪者に仕立て、スケープゴートとして、自らの責任を政府に転嫁していると思う。
善良な市民を、矛盾の狭間に立たせたのは、その国の政府だという言い方で、日本にしろアメリカにしろ、そういう矛盾の根本は政府にあるという言い方で、責任転嫁しているがこれは極めて無責任な発想だと思う。
アメリカにしろ、日本にしろ、民主主義国の為政者というのは、その国の国民の総意を体現しているわけで、国民の意思とかけ離れた独裁者が国政を担い、外交を担い、国益を担っているわけではないと思う。
しかし、現実にはこの地球上の諸国家の在り方というのは、個々の国民の善意や、優しさや、思慮分別とはかけはなれた行為が、国家の意思として具現化しているのが現状である。

事業撤退

2006-03-24 20:34:27 | Weblog
昭和の始め頃、名古屋は航空機産業のメッカであった。
名古屋市の南には三菱航空機があり、ここでは機体を作っていた。
名古屋市の東端には三菱発動機があって、ここでは航空機用エンジンを作っていた。
この工場は広大な敷地を擁し、工場内をバスが走り回っていたという話だ。
戦争が終わって財閥解体になり、その影響をもろに受けたのであろう、広大な敷地は細切れに売りさばかれ、工員や職員の給料になったという話だが、最終的には今の名古屋ドームのある辺りが平成の世にまで、三菱の名をとどめていた。
このドームの北側に平成12年に三菱が事務所ビルを建てた。
三菱重工名古屋ビルというもので5階建ての地味なビルであったが、これもいよいよ本日(平成
18年2月24日)をもって、今、日の出の勢いのIT産業に身売りされてしまった。
これも栄華盛衰、世の習いというものであろう。
産業構造が見事に変遷したわけで、重厚長大な産業からIT産業という世の中の流れを忠実にトレースしたわけだ。
財閥解体の所為だとはいえ、大都市のど真ん中で鋳造、鍛造という産業はいかにも場違いなものであったことは確かである。
問題は、三菱という企業が、戦後の復興から派生した経済発展の中で、鋳造、鍛造という業種から一刻も早く脱却しようとしなかったことにある。
これはひとえに名古屋機器製作所の責任だと思う。
その背景には三菱という会社そのものが官僚的になっていたということがあって、今まで、戦前、戦中の仕事の有体から、官需に頼るという体質が抜けきれず、三菱という名に固執して先を見る目が鈍っていたということに他ならない。
国家の命令で物を作っている限り、旧ソビエットのように、コストという概念も観念も無しでこれたが、これが民間企業同士の競争に分け入っていくということになると、早く、安く、良い物を迅速に提供するという競争においては、従来の三菱の手法では全く話にならなかったわけである。
その結果として今日においてIT産業に土地を売り渡さなければならなくなったということである。
ビルを作ってそれを売るまでわずか5年しかなかったが、ならば何のためにビルを作ったのか、という点で、全く整合性がない。
これが三菱、この場合は元名古屋機器製作所の考えることであった。
三菱は昔も今も巨大な企業であることに代わりはないが、巨大な企業なるが故に、やることが全く官僚的で、組織全体として今の日本の政府に酷似している。
組織そのものが官僚的になってしまって、誰も芯から責任を負うものがいない。
責任者は、自分の在任中は大過なく過ごし、後は後任に追い被せればいいという発想に違いない。
不思議なことに三菱重工の中でも名古屋機器製作所の管轄だけが年毎に規模縮小しているのはどういうわけなのであろう。
航空機の方がだんだん規模拡大しているのに、名機のみが蛸が自分の足を食うようにだんだんと規模縮小してしまっている。
営業品目の選択が悪ければ、それを乗り越えるのも企業人としての勤めではなかろうか。
広大な土地を持っておれば、それを如何に生かすかは企業人として真っ先に考えなければならないことではなかろうか。
私はこの土地で3つも事業撤退を経験した。
三菱重工名古屋機器製作所は昭和61年、三菱重工名古屋航空機製作所は昭和63年、三菱重工名古屋ビルは平成18年3月24日。
これも不思議な因縁だと思う。

我が同胞の善意

2006-03-23 10:39:09 | Weblog
22日の朝日新聞に曽野綾子女史の「善人はなぜ回りの人を不幸にするのか」という本の広告が載っていた。
まだ中身を読んではいないが、非常に刺激的な題名に惹かれた。
戦後の日本の知識人というのは、これ皆すべて自分自身が善人のつもりで、善人を自負し、善意で以って無辜の大衆をより良き方向に導こうとして、結果的に亡国の道を選択しているのではなかろうか。
戦前、戦中の我々の先輩諸氏が軍国主義に傾倒したのも、これまた善意の同胞が、善意で以って、祖国に幸あれと願望し、熱望し、善意の塊として挙国一致という政治体制を確立したのではなかろうか。
その結果として一度は奈落の底の転がり落ちてしまったが、我々の民族の魂の中には、この善意というものが潜在意識として刷り込まれているわけで、そのことを意識せず、無意識に振舞っている点が一番問題だと思う。
そのことは言い方を変えれば観念論で物事を見ているということに他ならない。
現実を直視することなく、理念、理想を追い求めているので、現実との乖離が避けられないと思う。
現実を直視するということは相手をよく観るということであって、相手をよく観るということは相手について徹底的に研究し、その本質にまで掘り下げて研究しなければならないわけで、そのことは同時に相手の歴史的背景までも心に刻み込まなければだめだということである。
我々はあの戦争中、敵性語という言葉で敵の言語を封殺した経験があるが、これも敵性語が生きておれば相手を利するに違いないという短絡的な善意の発想であったに違いない。
この善意が大儀に摩り替わるところに注意を要する。
B-29が1万メートルの上空を飛んでくるのに、その下では竹やり訓練をしていた。
この竹やり訓練のときの町内会会長や在郷軍人、配属将校の叱咤激励の過酷さも、明らかに祖国を愛するが故の善意の塊であったものと推察するが、その善意や熱意の陳腐さたるや滑稽さを通り越して馬鹿馬鹿しささえ覚えるではないか。
この時の役職者、つまり時の町内会長や在郷軍人、はたまた配属将校の威張りようというのは一体なんであったのだろう。
昭和天皇を現人神と崇め奉った行為も明らかに最初は善意から出たものであろうが、それが軍国主義のオブラートに包まれて大儀に摩り替わってしまったところに我々の不幸があった。
この体質が当時の日本の国民の全般に行き渡っていたと推察するが、それこそ軍国主義の衣を借りた傍若無人な振る舞いをした同胞がいたということだと思う。
本人たちは善意で以って一生懸命であったろうが、それが周りの人を不幸にしたことには最後まで気が付いていなかったに違いない。
この時の反動として、戦後のインテリゲンチャがことごとく反政府、反体制に身を置いたものと推察する。
これこそ無意識の善意が隣人を苦しめている図で、「善人はなぜ回りの人を不幸にするのか」という典型的な事例のはずである。
目下、日本は中国や韓国と外交の面で不調和音が響き渡っているが、その中で「相手の言うことに耳を傾けよ」という同胞が余りにも多いが、これも相手のいうことには素直に従ってお互いに仲良くやりたい、という善意の現れであろうが、此処で我々は理念や観念で相手に接するのではなく、現実的な思考を巡らせなければならないと思う。

WBCの勝利

2006-03-22 22:08:57 | Weblog
日本が世界一になりましたね。
例のWBCのことです。
私はそうたいした野球ファンというわけではなかったが、韓国だけには負けたくないと思っていて、韓国に2敗したという時点で、日本の不甲斐なさに非常に腹が立っていた。
それがひょんなことからまるで棚ボタ式というべきか、他力本願で、再度、準決勝で韓国と戦うというチャンスが来たときから、にわか愛国者となってしまいました。
アメリカがメキシコに敗れたので日本が準決勝に出れた、というところが良くわからないし、韓国が6勝1敗で4位というのもなんだか良く判らないが、それでも韓国にだけは負けてもらいたくなかった。キューバのカストロ首相ではないが、韓国にさえ勝てば、金でも銀でもそうたいした違いはないと思っていた。
韓国に負けたことをイチローは屈辱的な敗北といっていたが、彼も私と思いと同じものがあったのだろうか。
その延長線上で、昨日の試合も見ていましたが、テレビを見ながら悪態をついたり、一喜一憂してぶつぶつ独り言をいっていたので家内からすっかり馬鹿にされてしまいました。
逆境から優勝へという過程は大いに賞賛に値すると思います。

「歴史の真実」

2006-03-21 09:30:19 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「歴史の真実」という本を読んだ。
まさしく憂国の書で、大筋で私の思っていることと共鳴しているが、一部見解の相違があった。
というのは、この著者は吉田茂をこき下ろして、中曽根康弘を持ち上げている。
私の見解では、これは逆になっているので、その点で意見が合わないが、大筋では大体考え方が合っていた。
私は戦後の宰相として吉田茂は高く評価したいと思っている。
ところがこの本の著者は吉田茂が日本の独立と日米安保を抱き合わせてしまったことで、対米追従路線を確立してしまったという点を糾弾しているが、私はあの時代状況を考えれば、あれ以外の選択肢はなかったと思う。
この時点で、憲法改正をしなかったのが吉田茂の最大の汚点だという見解であるが、あの時点でいくら日本が独立したといったところで、まだ戦後復興の前というよりも戦後復興の端緒に過ぎなかったわけで、とても日本が独自にひとり立ちできる状況ではなかったと思う。
著者は、彼がその後の対米追従路線を踏襲したが故に、今の日本の状況が出来上がったという論調であるが、彼、吉田茂は同胞を全く信用していなかったと思う。
彼の目から日本人というものを眺めれば、我々の同胞は衆を頼んでマスとなった場合、何をしでかすかわからないという危惧を持っていたものと推察する。
この思考は、丸ごと西洋人、いわゆる西洋列強の白人の思考で、日本が戦争に嵌まり込んでいった過程から、彼は日本人でありながら同胞のすることを忌々しく思っていたに違いないと思う。
今の反日日本人とは全く違う視点から、彼は同胞というものを眺めていたものと考える。
つまり、彼が首相のとき朝鮮戦争が起き、その流れの中でアメリカから再軍備を迫られた際にも、彼はそれを突っぱねているわけで、日本は血も汗も流すことなく、アメリカに日本の防衛を肩代わりさせよう、という腹つもりでいたものと推察する。
今の言い方でいえば安保ただ乗り論を実践していたものと思う。
汚い言葉で表現すれが、他人のふんどしで相撲を取るという発想であったに違いない。
日本が独立しても憲法改正に冷淡であったのも、我々の同胞は箍が取れたとたんに何をしでかすか判らないと言う、同胞に対する不信感であったと思う。
この彼の不信感は昭和初期の日本の政治、軍事をつぶさに観察し、その経過を彼自身が見聞きし、知っておればこそ、彼にとっては同胞を信用しきれなかったと思う。
民主主義というものが判っておればおるほど、彼は同胞の政治とか軍事というものが信用しきれないというジレンマに陥っていたに違いない。
今、私達は、あの昭和の初期の時代においても日本のトップ・リーダーたちが如何に戦争を回避するかということで頭を悩ませていたかということを知っているが、トップ・リーダーの直近の部下たちが勝手に独断専行して、その結果として日本という国が奈落の底に転がり落ちてしまったという経緯を知っているが故に、日本の政治家及びそれを下支えしている大衆というものが如何に信用ならないかということが骨身に応えていたものと推察する。
だから彼はアメリカという外圧を利用して、統治する手法を選択したものと思う。
それに引きかえ中曽根康弘は文字通り風見鶏で、時流の潮の目を読むのに長けていたと思う。
口では立派なことを言いながら、その信念は常に時流を敏感に読み取り、時流に迎合し、奇麗事を並べて、そつなくこなすという生き様であったと思う。
彼が信念の人であったとするならば、若き後輩をフォローアップするように発言しなければならないが、彼の発言は後輩の足を引っ張る方向に向いているではないか。
周りから持ち上げられると、自分の座標軸を見失ってしまって、ほいほいと祭り上げられて喜んでいる図でしかない。
この本の著者は政財界に知己が多いが故に、そういう人に対して遠慮した物言いが目立つ。
我々のような一般大衆というレベルの人間は、実に無責任に人物批評ができるが、なまじ政財界に知己が多いが故に、本当のことを本当のこととしていえない部分があると思う。
人物評としては本当のことが言い難い面があったとしても、歴史の流れとしての文脈の中で言う分にはまさしく正論を述べていると思う。
その正論の中でも、冒頭にインドのパール判事に関して述べられている点は実に立派だと思う。
文章の書き出しがこのパール判事の墓参りに孫たちを連れて出かけた、というところから始まっている点も実に良いアプローチだと思う。
極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判を語るときに、このインドのパール判事を抜きに語れないと思うが、こういうきちんとした国際的に認知された評価があるにもかかわらず、今の文化人というのは何ゆえに自虐史観に陥っているのであろう。
少なくとも大学を出るぐらいの人ならば、このインドのパール判事の事を知らないでは日本の戦後を語れないのではないかと思う。
そして東京裁判そのものが歴史的に、そしてワールドワイドな見識として意味を失いつつあるときに、どうしてその当事者としての我々、日本人が自虐史観にさいなまれているのであろう。
我々は世界的にも指折り数えるほどの経済大国になったので「金持ち喧嘩せず」という状況になったのだろうか。
だとするとそれは再び我々の奢りでしかないと思う。
人間の織り成す世の中というのは、自分だけがいくら正しいと思い、間違っていないと思い、人を叩かなければ叩きかえされることはないと思っていても、周囲の人間からすれば、そういう善良で愚昧な人を苛めるのに、何も理由は要らないわけで、自分の国益のみを考えて、取れるところから取り、取れるものは何でもかんでも取ろうとするのが普通の人間の集団としての生き様である。
これが人間の織り成す原始の姿である。
人間という生き物の本質的な生き方である。
そこには教育も、知性も、教養もなんら関与し得ないのである。

「日本の失敗」

2006-03-19 09:27:25 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「日本の失敗」という本を読んだ。
久しぶりに骨のある本であったが、日本が戦争で負けたことを指し示して、「日本の失敗」という題になったと思うが、失敗の本質を追及するという点についてはやや物足りなさを感じる。
戦後も半世紀以上経過して、あの戦争の失敗は軍部の独走に起因するという歴史的評価はほぼ定着した感があり、そんなことは馬鹿でもチョンでも言えるわけで、何故軍部が独走したのか、というその元のところの究明は未だ十分に成されているとは思われない。
何故、昭和の初期という時代に、我々が軍国主義にまい進してしまったのか、というその根底のところにある深層心理を究明する作業を我々の同胞はしようとしていないように見える。
この本も、著者の狙いはそういうところにあったものと思われるが、その点についてはいささか物足りなさもを感じる。
昭和の初期の我々の同胞が何故軍国主義一辺倒になってしまったのかという点では、同胞の著述よりも外国人、アメリカ人のルース・ベネジェクト女史の「菊と刀」の右に出るものはないと思う。
しかし、この本の著者は、昭和の初期の段階で軍部が独走した背景には、政治家の怠慢というよりも、政治家が政治家足りえていなかった、という指摘には大いに共鳴するものである。
私の個人的な思考もそこにあるからである。
そして、それは同時に国民の側に潜在的に存在していた他国民を侮蔑する傲慢さ起因していると思う。
この本の著者が指摘している統帥権干犯問題で、政友会の鳩山一郎が、この統帥権というものを政争の具として、深く考えもせず、安易に、ただただ政敵を糾弾するという下賎な思考により発言したことが最大のポイントなっている点では私もそう思っているところである。
鳩山一郎は昭和初期という時代背景の中で、軍部が徐々に勝手な行動をしようとしている矢先に、よりによって政党政治を自滅させるようなことを言ってのけたわけである。
つまり、ロンドン軍縮会議で若槻全権大使たちが決めてきたことに不満(軍縮会議である以上、当事者としての軍が不満なことは当然である)の軍部に身を摺り寄せたのである。
軍部が勝手な行動に出かかったその時期に、その軍部に擦り寄って、保身を図ったわけである。
そのことは同時に政党政治というものを根底から否定したということでもある。
この鳩山一郎の浅薄な思考が、軍部の独走に拍車を掛けたといってもいいであろう。
彼の対極の位置にいたもう一人の人物にもスポットライトを当てた著者の見識はなかなかのものだと思う。
そのもう一人というのは斉藤隆夫である。
彼・斉藤隆夫の粛軍演説を非常に高く評価している点は私とも全く意見が一致している。
しかし、「日本の失敗」の本質という点から見れば、著者は「何故、斉藤隆夫が彼の演説で衆議院から除名処分を受けなければならなかった」のかを解かなければ、本の題名に応えることになっていないのではないかと思う。
その点に迫ったのが先の「菊と刀」ではないかと私は考える。
戦後の今日においても、我々は斉藤隆夫という政治家について語ることが少ないように思う。
彼は基本的に戦後の日本でもてはやされている平和愛好者ではなかったはずで、売られた喧嘩は買うしかない、という思考であったと思う。
戦争の整合性は彼の場合十分に理解していたと思う。
しかし、戦争遂行における政治のあり方が彼には不合理に映っていたからあのような演説になったと思うが、そのことは民主的な政治としては極めてノーマルなことで、彼を取り巻く周囲がアブ・ノーマルな政治思考をしていたから、結果として我々は失敗したものと考える。
我々は、極めて同質性の高い民族で、その民族がこの4つの島の中でいろいろなことを考え、口角泡を飛ばして議論しても、それは所詮、井戸の中の蛙の論争に過ぎず、井戸の外、つまり外界から見ると全く問題にもならない不整合なことが多々あったわけである。
日本の常識は世界の非常識で、世界の常識は日本の非常識であったわけである。
その真髄を内側から見開いた顕著な例が、何度も例を引くルース・ベネジェクト女史の「菊と刀」であり、スチムソン国務長官の「極東の危機」という本であったが、日本のその当時の知識人というのはこういうものに一瞥の価値も見出していない。
「菊と刀」は正確には戦後我々の前に現出したが、当時の日本の学者で誰一人その本を評価していない。
スチムソン国務長官の「極東の危機」という本も、満州事変当時、出版と同時に翻訳されたにもかかわらず誰一人我々の中でそれを評価したものがいない。
このことは、我々同胞が「毛唐の言うことなぞ信用できるものか」、という侮りと同時に、自己の慢心に他ならないと思う。
まさしく井戸の中の蛙の精神状態であったと思われる。

アマリリス

2006-03-18 08:05:45 | Weblog
我が家のリビングの日当りの良いところに置いてあるアマリリスです。
家内がホームセンターで買い求めたものだが、あまり発芽が遅かったので、「返却しようか」といって悪態をついていたにもかかわらず、時期が来れば立派な花を咲かせてくれました。