前々から「ワイルド・スワン」の著者、ユン・チャンが新たに毛沢東の本を出したということを聞き及んでいたので、一度読んでみたいと思っていた。
それで2、3日前、本屋で購入して上巻を2日掛かりで読んだ。
これだけボリュームのある本だと読むほうもかなり大変だ。
毛沢東に関しては私の知識も相当なもので、この本に出てくるシチュエーションの大部分は知識としてすでに知っていることであった。
この上巻は毛沢東の誕生から中華人民共和国を立ち上げるまでの過程が記されているが、蒋介石の北伐から、長征、西安事件、延安、清風運動、国共合作まで、知識としてはその概略をおおよそ知っていることばかりであった。
ただ、その時々の事件や事柄における犠牲者の数というのは私の知っているところではなく、その数の多さは明らかに白髪3千丈の類ではないかと思えてならない。
しかし、この本を読んでいても、やはり中国人は中国人だと思わずにはおれない。
毛沢東の残虐さも、蒋介石の残虐さも、我々の想像を絶するものがあるように思えてならない。
そして、この両者とも、どこからどう見てもやはり中国人であるように見える。
我々、自由主義体制を望むものとしては蒋介石の汚職追放ということを真剣に考えたいところであるが、これも彼らが中国人である限り、汚職追放とか規律の厳正さというのは望めないのではないかと思う。
そのことは同時に、毛沢東の共産主義体制においても、時とともに、彼らが中国人である限りそれが復活してくると思う。
この本によると、毛沢東は人民にそういうことをすると恐怖政治で締め上げるということが、執拗に書かれているが、それも時の流れとともに、恐怖感が薄れ、汚職や規律の緩慢が復活するのではないかと思う。
これは中国の有史以来の民族性であり、潜在意識であると思う。
中国の地に住む人々は、有史以来そのことを繰り返して生きていたのではないかと想像する。
それにも増して、中国に地に住む人々というのは情けないと思う。
彼ら漢民族というのは自分の力でという概念がまったくないように見受けられる。
というのも、この本を読む限りにおいて、蒋介石も毛沢東も自分たちの力でことを解決するという意識が最初から欠落している。
この両者ともソビエット、旧ソビエット連邦共和国、つまりソ連の力添えを最初から期待している。
両方ともが何かにつけてソビエットに援助を依頼し、それを期待し、その顔色を伺いつつ、彼らに指導を仰いでいるというのはいったいどういうことなのであろう。
そして、それと関連して自分の権力、権威を維持するために外国に媚を売り、外国に支配されることを熱望している図というのはいったいどう考えたらいいのであろう。
双方とも、自分達が殺しあうのに、ソビエットの顔色を伺いながら、自分たちの軍が被害をこうむらないように策を弄しつつ、それでいて自分の手持ちの軍が傷つくこと、つまり自軍の弱体化を避けつつ、自分たちの国民、自分たちの同胞を殺すことにはなんら憐憫の情も示さず、まるで犬か猫が死ぬような感覚で見ているというのはいったいどういうことなのであろう。
ここにはまさしく秦の始皇帝と同じように、自分は皇帝という立場で、民百姓とは違う人間なのだ、という感覚でしかないではないか。
この感覚は蒋介石も毛沢東もまったく同じように根付いている。
蒋介石の統治の不味さというのは、典型的な東南アジアの民族の政治的特性がもろに出ているわけで、別の言い方をすれば如何にも民主主義の度合い、民主化の度合いが低いという現象である。
しからば、毛沢東のほうならば共産主義を信奉しているのだから、こういう弊害がまったくないのかといえば、これはまたこれで人民を抑圧するのに恐怖政治、密告、告げ口、裏切り、暴力的な圧力で人民を押さえつけるという手法で、秦の始皇帝の政策となんら変わるものではない。
アジア大陸、特に中国大陸で人々を統治するということは、結局のところ、こういう手段でなければあの膨大な人間、10億に近い人間を統治する手法はないということであろう。
仮にそうであったとしても、自分たちが施策をするのに、自分たちの民族を統治するのに、いちいちソビエットに伺いを立て、その指示を仰がなければならないという発想はいったいどこから来ているのであろう。
結局のところ、中国の地にすむ人々がこういう心意気だったがゆえに、西洋列強に国土を蚕食されたということではないかと思う。
彼らにとって、紅毛碧眼の西洋人は、彼らの小宇宙の外の人間だから自分たちの価値観に束縛されることがないが、これが同じアジアの日本人だと、彼らの価値観からすれば夷荻、つまり野蛮人だから、これが自分たちの上に来るとなんとも腹立たしさが拭い切れないという感情に犯されているようだ。
それでいて日本人の優秀さには彼ら自身舌を巻いているわけで、そういう文脈が随所に見られた。
日中戦争の間、蒋介石も毛沢東も、共に日本と戦うことを避けていたわけで、結局のところ中国人同士が殺し合いをしていたことになるが、その殺し合いの一つ一つにソビエット・スターリンの指示を仰ぎながら行った、ということは我々の視点から見て実に不可解なことである。
結果的に毛沢東が最終的に政権を握ったということは、日本がシナ大陸に攻め込み、それが日米戦の敗北という形でソビエットの軍隊を呼び込んだからということになる。
それにつけてもソビエットが毛沢東を支持するのは理解できるが、アメリカが毛沢東を過小評価していたことはなんとも情けない。
アメリカが蒋介石に見切りをつけるのはある程度理解できるが、毛沢東を過小評価した理由は、あのエドガー・スノーの「中国の赤い星」を100%信用した点にあると思う。
アメリカも日本に対しては徹底的に研究していたが、中国に対してはそういう基礎研究を怠っていたに違いない。
それはアメリカの視点から見て、日本は一筋縄ではいかないが、中国ならば簡単に御せると思っていたということだと思う。
それで2、3日前、本屋で購入して上巻を2日掛かりで読んだ。
これだけボリュームのある本だと読むほうもかなり大変だ。
毛沢東に関しては私の知識も相当なもので、この本に出てくるシチュエーションの大部分は知識としてすでに知っていることであった。
この上巻は毛沢東の誕生から中華人民共和国を立ち上げるまでの過程が記されているが、蒋介石の北伐から、長征、西安事件、延安、清風運動、国共合作まで、知識としてはその概略をおおよそ知っていることばかりであった。
ただ、その時々の事件や事柄における犠牲者の数というのは私の知っているところではなく、その数の多さは明らかに白髪3千丈の類ではないかと思えてならない。
しかし、この本を読んでいても、やはり中国人は中国人だと思わずにはおれない。
毛沢東の残虐さも、蒋介石の残虐さも、我々の想像を絶するものがあるように思えてならない。
そして、この両者とも、どこからどう見てもやはり中国人であるように見える。
我々、自由主義体制を望むものとしては蒋介石の汚職追放ということを真剣に考えたいところであるが、これも彼らが中国人である限り、汚職追放とか規律の厳正さというのは望めないのではないかと思う。
そのことは同時に、毛沢東の共産主義体制においても、時とともに、彼らが中国人である限りそれが復活してくると思う。
この本によると、毛沢東は人民にそういうことをすると恐怖政治で締め上げるということが、執拗に書かれているが、それも時の流れとともに、恐怖感が薄れ、汚職や規律の緩慢が復活するのではないかと思う。
これは中国の有史以来の民族性であり、潜在意識であると思う。
中国の地に住む人々は、有史以来そのことを繰り返して生きていたのではないかと想像する。
それにも増して、中国に地に住む人々というのは情けないと思う。
彼ら漢民族というのは自分の力でという概念がまったくないように見受けられる。
というのも、この本を読む限りにおいて、蒋介石も毛沢東も自分たちの力でことを解決するという意識が最初から欠落している。
この両者ともソビエット、旧ソビエット連邦共和国、つまりソ連の力添えを最初から期待している。
両方ともが何かにつけてソビエットに援助を依頼し、それを期待し、その顔色を伺いつつ、彼らに指導を仰いでいるというのはいったいどういうことなのであろう。
そして、それと関連して自分の権力、権威を維持するために外国に媚を売り、外国に支配されることを熱望している図というのはいったいどう考えたらいいのであろう。
双方とも、自分達が殺しあうのに、ソビエットの顔色を伺いながら、自分たちの軍が被害をこうむらないように策を弄しつつ、それでいて自分の手持ちの軍が傷つくこと、つまり自軍の弱体化を避けつつ、自分たちの国民、自分たちの同胞を殺すことにはなんら憐憫の情も示さず、まるで犬か猫が死ぬような感覚で見ているというのはいったいどういうことなのであろう。
ここにはまさしく秦の始皇帝と同じように、自分は皇帝という立場で、民百姓とは違う人間なのだ、という感覚でしかないではないか。
この感覚は蒋介石も毛沢東もまったく同じように根付いている。
蒋介石の統治の不味さというのは、典型的な東南アジアの民族の政治的特性がもろに出ているわけで、別の言い方をすれば如何にも民主主義の度合い、民主化の度合いが低いという現象である。
しからば、毛沢東のほうならば共産主義を信奉しているのだから、こういう弊害がまったくないのかといえば、これはまたこれで人民を抑圧するのに恐怖政治、密告、告げ口、裏切り、暴力的な圧力で人民を押さえつけるという手法で、秦の始皇帝の政策となんら変わるものではない。
アジア大陸、特に中国大陸で人々を統治するということは、結局のところ、こういう手段でなければあの膨大な人間、10億に近い人間を統治する手法はないということであろう。
仮にそうであったとしても、自分たちが施策をするのに、自分たちの民族を統治するのに、いちいちソビエットに伺いを立て、その指示を仰がなければならないという発想はいったいどこから来ているのであろう。
結局のところ、中国の地にすむ人々がこういう心意気だったがゆえに、西洋列強に国土を蚕食されたということではないかと思う。
彼らにとって、紅毛碧眼の西洋人は、彼らの小宇宙の外の人間だから自分たちの価値観に束縛されることがないが、これが同じアジアの日本人だと、彼らの価値観からすれば夷荻、つまり野蛮人だから、これが自分たちの上に来るとなんとも腹立たしさが拭い切れないという感情に犯されているようだ。
それでいて日本人の優秀さには彼ら自身舌を巻いているわけで、そういう文脈が随所に見られた。
日中戦争の間、蒋介石も毛沢東も、共に日本と戦うことを避けていたわけで、結局のところ中国人同士が殺し合いをしていたことになるが、その殺し合いの一つ一つにソビエット・スターリンの指示を仰ぎながら行った、ということは我々の視点から見て実に不可解なことである。
結果的に毛沢東が最終的に政権を握ったということは、日本がシナ大陸に攻め込み、それが日米戦の敗北という形でソビエットの軍隊を呼び込んだからということになる。
それにつけてもソビエットが毛沢東を支持するのは理解できるが、アメリカが毛沢東を過小評価していたことはなんとも情けない。
アメリカが蒋介石に見切りをつけるのはある程度理解できるが、毛沢東を過小評価した理由は、あのエドガー・スノーの「中国の赤い星」を100%信用した点にあると思う。
アメリカも日本に対しては徹底的に研究していたが、中国に対してはそういう基礎研究を怠っていたに違いない。
それはアメリカの視点から見て、日本は一筋縄ではいかないが、中国ならば簡単に御せると思っていたということだと思う。