例によって図書館から借りてきた本で「官僚、もういいかげんにせんかい」という本を読んだ。
どうも以前読んだような気がしてならない。こういうことはよくある。
図書館の開架式の書棚から、目についたものの中で一番興味を引いたものを選んでくるので、私の志向がある程度固まっているのであろう、その興味のあるという部分で同じ傾向のものを無意識のうちに選択しているようで、前読んだことを忘れて同じものを選ぶということはままある。
これも私がバカな証拠なのであろう。
で、この本、谷沢永一氏の著書であるが、この人は今の日本では最右翼の人ではなかったかと思う。
「あとがき」を読んでみると、彼自身、文部省のあこぎな手法を目の当たりにして、官僚に対する憎悪を倍加したことが述べられている。
官僚というものの元祖は、確かに江戸時代における各藩の武士階級にあることは論をまたないだろう。
江戸時代の藩の数というのは約260あったと言われているので、その藩にはそれぞれに藩政を司る武士としての官僚の存在があったものと考えられる。
今でいえば地方公務員という位置づけであろう。
しかし、この時代の藩というのは領民と武士と藩主というものが三位一体をなしていたのではないかと思う。
我々が学校教育で習った認識でいうと、藩主は領民を抑圧し、年貢を無理無体に絞り上げる存在という印象を受けがちであるが、それでは平穏な時代が長続きするわけもなく、真実はもっと合理的なシステムであったに違いない。
テレビドラマの水戸黄門を見ていても、藩主といえば農民を搾取する悪者というパターンを一歩も出るものではなく、藩主が領民、農民や町人を抑圧し続けて、自分一人酒池肉林に耽っていたかのように描かれているが、現実はそうではなかったと思う。
この藩主と領民の間をつつがなく維持していたのが武士、つまり今の公務員としての階層ではなかったかと思う。
ところが明治維新で、そういう小さな小廻りの効くシステムが否定されて、国家という大きなシステムを運用しなければならない時になると、従来の仕方ではできないわけで、そういう専門家を急きょ養成しなければならない状況に追いこまれた。
そういう目的で東京大学が出来たということは十分に納得できることである。
ところが役人養成機関、官僚養成機関、公務員養成機関という施設でいくら教育を施しても、個人の根からの卑しき心というのは教育では全く是正できないわけで、それがわかって居ながら、それを克服する方法を見つけ出せなかったという点に我が国の悲劇が潜んでいた。
官僚が昔も今も人々の怨嗟の的となるのは、彼らのモラルに起因していると思う。
国民の一人として、官僚だから、公務員だからと言って、彼らに「滅私奉公をせよ」というわけではない。
ただ彼ら自身が「国民のために仕事をしているのだよ」という自覚さえ持っていれば、人々の怨嗟の気持ちは相当に低下すると思う。
谷沢永一氏はこの本の中で言及していないが、戦後の一時期、国家公務員の給料が極めて低かった時期がある。
それを是正するために人事院勧告という形で民間企業並みにアップしたことがあるが、公務員の給料が民間企業と比べて低いときは、そういう措置をしておいて、景気が悪くなって民間企業にリストラ旋風が吹きまくるようになったとき、公務員の給料もそれに合わせてダウンするかといえば、そういうことはないわけで、これが国民の怨嗟の的になるのは当然である。
「あとがき」で彼が憤慨していることは、大学設置に伴い、旧文部省が先生の採用を押し付けたことにあるが、許認可権を盾にしてこういう横暴をするのが官僚だという意味で、この著者は怒っているのである。
これもひとえにモラルの問題なわけで、このモラルというのは目に見えないところが最大の難点である。
官僚というのはペーパーチェックで採用が決まるわけで、ペーパーチェックではそれこそモラルの測りようがない。
人を雇うのにペーパーチェックというのはある種の目安にはなるが、ペーパーチェックを最優先にするところが問題だと思う。
特に、旧日本軍の中では陸軍大学、海軍大学の成績がその人の出世に大きく左右したと言われているが、学校の成績とその人のモラルとの相関関係を全く無視した愚が、日本を奈落の底に落としたに違いない。
戦前の日本軍、旧陸軍、旧海軍の組織を徹底的に掘り起こせば官僚の研究にはきっと大きな功績につながると思う。
そういう戦争のプロが、プロらしからぬ作戦を遂行した揚句が、日本の敗戦、勝つべき戦争で敗北するという愚挙を犯したわけで、こういう大失敗を経験したにもかかわらず、戦後の学歴偏重、成績偏重の悪弊は一向に改善された兆しがないのはどういうことなのであろう。
明治維新を経た我が国では社会的な階級というものが極めて低く見られて、特に戦後はそういう特権階級というのは全否定され、文字通り四民平等が徹底した。
その中で人を採用する際の目安としてはペーパーチェックしかないわけで、そのペーパーチェックこそが唯一の判定基準にならざるを得なかったのはいた仕方ない面がある。
採用する際の基準としてはペーパーチェックしか手法がなかったとしても、その後の仕事の配分では、人物本位の裁量というのは当然あってしかるべきであるが、これがうまく機能していないところに官僚の最大の問題点が潜んでいたわけだ。
近代的な国家を運営するにはピラミット型の組織が必要なことは十分にわかっているが、問題は、そのピラミットは国民のためにあるという認識を、ピラミットを構成している人々が持っているかどうかである。
国というものを運営するためには、きっちりとしたピラミット型の組織が入用なことは当然であるが、そのピラミットはそれぞれの持ち場立場で、それぞれの使命というか役割をきちんと果たさないことにはピラミットは崩壊してしまう。
ピラミットを築き上げている石は、長い年月の間にそれぞれの部分に不具合を生じ、欠陥が表れ、崩れそうになるのも自然の摂理であって、問題はそれを自分で修正する自己修復、自己防衛、自浄作用が機能するかどうかである。
旧日本陸軍、旧日本海軍、旧内務省、今の外務省、厚生省にそういう内部からの自立的な機能修復機能があったかだどうかを検証すべきだと思う。
私はこの本の著者から言われるまでもなく、官僚というのはアメーバ―の自己増殖のように、自ら際限なく増殖する存在だと思っている。
国民のために新しい仕事を作るのではなく、彼らは彼ら自身の存続のために次から次へと新しい仕事をねつ造するわけで、それはどこまでもどこまでも膨らんで行くものだと考えている。
そして一旦出来た組織は、その使命・役目が終わった後でも可能な限り存続させるわけで、こういう事例から鑑みれば、彼らの縄張り意識というのは決して後ろ向きにはならないわけで、無駄を承知で存続させるのである。
この部分の潜在意識に、民間と同じレベルに給料をアップしながら、不況の時も民間と同じレベルに給料をダウンさせない屁理屈が罷り通っているのである。
それは同時にコスト管理がないということでもある。
民間企業ならば、無駄なものは一刻でも早く整理しなければコスト面で損をするという概念が否応なく作用するが、彼らにはそういう意識は毛頭ないわけで、所詮は国民の血税ということに気が回っていないので、こういうことが罷り通るのである。
官僚がこういうふうに威張るのは、自分が統治する側の人間だということを自覚しているからであって、これもモラルの問題にいきつくが、自分自身が弱いから空威張りという行為で虚勢を張っているのであろう。
しかし、官僚がこういう態度をとるようになった遠因には、国民の側にも一抹の責任があるようにも思える。
というのは、日常生活の些細な問題点を解決するのに官頼みということがある。
例えば、振り込め詐欺が横行すると監督官庁になんとかせよと迫る。
ネズミ講がはやるとまたもや監督官庁に何とかせよと迫る。
交通事故が多発すると監督官庁になんとせよと迫る。
国民は、日常生活の些細な問題点の解決を、すべて官僚の責任においかぶせようとするが、その些細な問題点の大部分は、国民の側の自己責任の部分も多々あると思う。
振り込め詐欺の問題だって、ネズミ講の問題だって、交通事故の問題だって、国民の一人一人がしっかりしていれば犯罪そのものがありえないわけで、その責任を官僚におい被せようという発想は、無責任な責任転嫁以外の何ものでもない。
自己責任を放棄しておいて、官の施政に寄りかかろうとする安易な思考である。
ただ官僚という場合、我々は自分の身の回りの視点で見がちであるが、外交問題に携わっている官僚もいるわけで、こういう官僚が国益というものを忘却していたとしたら大変なことである。
国益という言葉が出ると、人の命と国益を秤にかけるという形で問題提起されると答える方ははなはだ難しくなって返答に困るが、平成20年12月30日の新聞報道ではイラクで拉致された邦人救出に2億円が投じられたとなっている。
危険地域に指定されたところに、ふらふらと出かけて行った阿呆な邦人救出に、国民の血税が使われるというとき、我々はこれをどう考えたらいいのであろう。
本人から、その2億円という金を弁済してもらえば何ら問題はなく、こういう当然の事が当然の事として素直に通っていれば何ら憂うべき問題にすることはない。
官僚、この場合は外務省であろうが、きちんと本人にその金額を要求して、本人がきちんとそれを支払うのが筋だと思う。
問題は、官僚として、その2億円という金を外務省の官僚がきちんと本人に請求するかどうかである。
人が国益ということを考えるとき、その人の祖国への誇りというものがない限り、国益という思考そのものが湧いてこないと思う。
その顕著な例が、日米開戦の劈頭において、駐米アメリカ大使館の不様な対応と、それを不問に付した外務省の感覚である。
此処では当然の事が当然の事として当たり前の事として通らなかったから日本人は卑怯な民族としてアメリカ人の敵がい心をあおる結果を招いたではないか。
日米開戦、対米戦争において、日本の旧軍人の戦争に対する認識と、駐米日本大使館の国益ということに対する背任行為は、官僚の愚直をものの見事に具現化した局面である。
この本の著者は、大東亜戦争は官僚にそそのかされて軍部が踊らされた、というニュアンスで語っているが、戦後の我々の普通の認識では、軍部が独断専横した結果だという風に語られるのが普遍的である。
ここで問題なことは旧軍部も明らかに官僚であったという点である。
軍官僚という言葉もあるように、軍隊という組織も、官僚制度の一環ではあるが、その中でも兵は徴兵制で集められているわけで、下の方は官僚制にそぐわないが、トップは明らかに官僚そのものである。
で、その官僚が国益というものに全く無頓着であったという点に、日本の悲劇が潜んでいたわけである。
戦争のプロであるべき軍人が、近代戦争、現代の戦争、国家総力戦という戦争について無知であったわけで、だからこそ最前線で戦う兵士たちは優秀であったが、後方で指揮を執っていた参謀連中は、世界最悪最低の軍人達であったということを日本の敗戦が見事に証明したということである。
軍人の価値、軍隊の存在理由は、戦争に勝ってこそ証明されるわけで、戦争に負ける軍隊、将校、高級参謀というのは結果が敗北である以上、国民からヤツサギにされてしかるべきである。
国民から袋叩きにあって当然である。
ところが我々日本民族、日本国民というのは肩書、官職に極めて弱いわけで、負ける戦争をした元○○中将、旧○○大将という旧軍の高級将校に対してさえも、畏敬の念を抱き、恐れおののいていたわけで、ここでも官に依存する体質が見事に露呈している。
敗戦になるような戦争指導した軍人を袋叩きにするという発想には至らないのである。
旧軍人たちが負ける戦争をしたということは、戦争を私物化していたわけで、それは現代の戦争を関ヶ原の合戦レベルの思考で見ていたということに他ならない。
これが軍官僚の官僚たる所以であって、如何に愚昧な連中であったかを物語っているが、そういう反省は未だに我々の中に沸き上がっていない。
官僚のモラルの低下は、官僚になる前からのそれぞれの個人に内在している問題なわけで、それこそその人の生い立ちから解きあかさねばならない。
仮に18歳の人間が将来官僚として身を立てようと考えたとする。
その若者は官僚になるための最短コースとして東大を目指して、そこから官途の道を選択した場合、官僚の精神的腐敗はすでにこの時からその人の心を蝕んでいるわけで、動機そのものが不純である。
官僚になるという動機からして不純である。
何故、官僚を目指すかと問えば、その人の答えは「国家のために身を挺して働く」と模範解答をするであろうが、既にここから嘘のうわぬりが始まるわけである。
18歳にもなった人間が、真面目に模範解答するところが嘘っぽいわけで、その心の内では「楽して立身出世が出来るから」と計算しつくして志願するわけである。
官僚を目指す人間は、すべてこういう計算によって官僚を目指しているわけだから、その中で青雲の志を探そうたって見つかるものではない。
官僚は「楽して立身出世が出来る」ということは、日本国民にもれなく行きわたっている認識なわけで、その地位は安定し、給料は黙っていても上がるし、馘首の心配はないし、何もせずにじっとしていれば、それなりに出世が出来ることは保証されている。
こういう官僚に前途有能な若者が応募すること自体、既にモラルの低下を示している。
若者ならば、目先の損得を度外視して、未知のものに挑戦する勇気をもってこそ、はつらつとした若者像だと思うが、そういう選択とは対極の選択なわけで、そういう発想そのものが不純で、いかがわしいと私には思える。
しかし、現実にはそういう選択をする若者が官僚として今でも応募しているわけで、これでは公務員の倫理の向上は望めない。
楽して出世できるから公務員になる、というその根本のところから既に公務員の本旨を履き違えているわけで、こういうものに国民に対する奉仕を期待する方が間違っている。
彼らはなった瞬間から国民の事など忘却の彼方に追い込んでいるわけで、あるのは目先の出世、つまりいく段階にもわたる階梯の一つ一つを上がることだけである。
彼らはペーパーチェックを一度はクリア―しているわけで、その意味では並み以上の頭脳の持ち主であろうが、それ以降の頭脳の鍛え方、あるいは身の処し方、または未知のものに挑戦する勇気を持ち続けたかどうかだと思う。
しかし、官僚という環境の中に身を置く限り、そういう若者の前には周囲の同僚や先輩達の姿を見、あるいは悟り、懐柔されだんだんと官僚らしい官僚に至るのであろう。
民間企業では新しい試練が次から次の課せられるので、常に緊張を強いられるが、ぬるま湯の中にどっぷりとつかることを最良の策と刷り込まれた人たちにはそれは当然耐えられないであろう。
どうも以前読んだような気がしてならない。こういうことはよくある。
図書館の開架式の書棚から、目についたものの中で一番興味を引いたものを選んでくるので、私の志向がある程度固まっているのであろう、その興味のあるという部分で同じ傾向のものを無意識のうちに選択しているようで、前読んだことを忘れて同じものを選ぶということはままある。
これも私がバカな証拠なのであろう。
で、この本、谷沢永一氏の著書であるが、この人は今の日本では最右翼の人ではなかったかと思う。
「あとがき」を読んでみると、彼自身、文部省のあこぎな手法を目の当たりにして、官僚に対する憎悪を倍加したことが述べられている。
官僚というものの元祖は、確かに江戸時代における各藩の武士階級にあることは論をまたないだろう。
江戸時代の藩の数というのは約260あったと言われているので、その藩にはそれぞれに藩政を司る武士としての官僚の存在があったものと考えられる。
今でいえば地方公務員という位置づけであろう。
しかし、この時代の藩というのは領民と武士と藩主というものが三位一体をなしていたのではないかと思う。
我々が学校教育で習った認識でいうと、藩主は領民を抑圧し、年貢を無理無体に絞り上げる存在という印象を受けがちであるが、それでは平穏な時代が長続きするわけもなく、真実はもっと合理的なシステムであったに違いない。
テレビドラマの水戸黄門を見ていても、藩主といえば農民を搾取する悪者というパターンを一歩も出るものではなく、藩主が領民、農民や町人を抑圧し続けて、自分一人酒池肉林に耽っていたかのように描かれているが、現実はそうではなかったと思う。
この藩主と領民の間をつつがなく維持していたのが武士、つまり今の公務員としての階層ではなかったかと思う。
ところが明治維新で、そういう小さな小廻りの効くシステムが否定されて、国家という大きなシステムを運用しなければならない時になると、従来の仕方ではできないわけで、そういう専門家を急きょ養成しなければならない状況に追いこまれた。
そういう目的で東京大学が出来たということは十分に納得できることである。
ところが役人養成機関、官僚養成機関、公務員養成機関という施設でいくら教育を施しても、個人の根からの卑しき心というのは教育では全く是正できないわけで、それがわかって居ながら、それを克服する方法を見つけ出せなかったという点に我が国の悲劇が潜んでいた。
官僚が昔も今も人々の怨嗟の的となるのは、彼らのモラルに起因していると思う。
国民の一人として、官僚だから、公務員だからと言って、彼らに「滅私奉公をせよ」というわけではない。
ただ彼ら自身が「国民のために仕事をしているのだよ」という自覚さえ持っていれば、人々の怨嗟の気持ちは相当に低下すると思う。
谷沢永一氏はこの本の中で言及していないが、戦後の一時期、国家公務員の給料が極めて低かった時期がある。
それを是正するために人事院勧告という形で民間企業並みにアップしたことがあるが、公務員の給料が民間企業と比べて低いときは、そういう措置をしておいて、景気が悪くなって民間企業にリストラ旋風が吹きまくるようになったとき、公務員の給料もそれに合わせてダウンするかといえば、そういうことはないわけで、これが国民の怨嗟の的になるのは当然である。
「あとがき」で彼が憤慨していることは、大学設置に伴い、旧文部省が先生の採用を押し付けたことにあるが、許認可権を盾にしてこういう横暴をするのが官僚だという意味で、この著者は怒っているのである。
これもひとえにモラルの問題なわけで、このモラルというのは目に見えないところが最大の難点である。
官僚というのはペーパーチェックで採用が決まるわけで、ペーパーチェックではそれこそモラルの測りようがない。
人を雇うのにペーパーチェックというのはある種の目安にはなるが、ペーパーチェックを最優先にするところが問題だと思う。
特に、旧日本軍の中では陸軍大学、海軍大学の成績がその人の出世に大きく左右したと言われているが、学校の成績とその人のモラルとの相関関係を全く無視した愚が、日本を奈落の底に落としたに違いない。
戦前の日本軍、旧陸軍、旧海軍の組織を徹底的に掘り起こせば官僚の研究にはきっと大きな功績につながると思う。
そういう戦争のプロが、プロらしからぬ作戦を遂行した揚句が、日本の敗戦、勝つべき戦争で敗北するという愚挙を犯したわけで、こういう大失敗を経験したにもかかわらず、戦後の学歴偏重、成績偏重の悪弊は一向に改善された兆しがないのはどういうことなのであろう。
明治維新を経た我が国では社会的な階級というものが極めて低く見られて、特に戦後はそういう特権階級というのは全否定され、文字通り四民平等が徹底した。
その中で人を採用する際の目安としてはペーパーチェックしかないわけで、そのペーパーチェックこそが唯一の判定基準にならざるを得なかったのはいた仕方ない面がある。
採用する際の基準としてはペーパーチェックしか手法がなかったとしても、その後の仕事の配分では、人物本位の裁量というのは当然あってしかるべきであるが、これがうまく機能していないところに官僚の最大の問題点が潜んでいたわけだ。
近代的な国家を運営するにはピラミット型の組織が必要なことは十分にわかっているが、問題は、そのピラミットは国民のためにあるという認識を、ピラミットを構成している人々が持っているかどうかである。
国というものを運営するためには、きっちりとしたピラミット型の組織が入用なことは当然であるが、そのピラミットはそれぞれの持ち場立場で、それぞれの使命というか役割をきちんと果たさないことにはピラミットは崩壊してしまう。
ピラミットを築き上げている石は、長い年月の間にそれぞれの部分に不具合を生じ、欠陥が表れ、崩れそうになるのも自然の摂理であって、問題はそれを自分で修正する自己修復、自己防衛、自浄作用が機能するかどうかである。
旧日本陸軍、旧日本海軍、旧内務省、今の外務省、厚生省にそういう内部からの自立的な機能修復機能があったかだどうかを検証すべきだと思う。
私はこの本の著者から言われるまでもなく、官僚というのはアメーバ―の自己増殖のように、自ら際限なく増殖する存在だと思っている。
国民のために新しい仕事を作るのではなく、彼らは彼ら自身の存続のために次から次へと新しい仕事をねつ造するわけで、それはどこまでもどこまでも膨らんで行くものだと考えている。
そして一旦出来た組織は、その使命・役目が終わった後でも可能な限り存続させるわけで、こういう事例から鑑みれば、彼らの縄張り意識というのは決して後ろ向きにはならないわけで、無駄を承知で存続させるのである。
この部分の潜在意識に、民間と同じレベルに給料をアップしながら、不況の時も民間と同じレベルに給料をダウンさせない屁理屈が罷り通っているのである。
それは同時にコスト管理がないということでもある。
民間企業ならば、無駄なものは一刻でも早く整理しなければコスト面で損をするという概念が否応なく作用するが、彼らにはそういう意識は毛頭ないわけで、所詮は国民の血税ということに気が回っていないので、こういうことが罷り通るのである。
官僚がこういうふうに威張るのは、自分が統治する側の人間だということを自覚しているからであって、これもモラルの問題にいきつくが、自分自身が弱いから空威張りという行為で虚勢を張っているのであろう。
しかし、官僚がこういう態度をとるようになった遠因には、国民の側にも一抹の責任があるようにも思える。
というのは、日常生活の些細な問題点を解決するのに官頼みということがある。
例えば、振り込め詐欺が横行すると監督官庁になんとかせよと迫る。
ネズミ講がはやるとまたもや監督官庁に何とかせよと迫る。
交通事故が多発すると監督官庁になんとせよと迫る。
国民は、日常生活の些細な問題点の解決を、すべて官僚の責任においかぶせようとするが、その些細な問題点の大部分は、国民の側の自己責任の部分も多々あると思う。
振り込め詐欺の問題だって、ネズミ講の問題だって、交通事故の問題だって、国民の一人一人がしっかりしていれば犯罪そのものがありえないわけで、その責任を官僚におい被せようという発想は、無責任な責任転嫁以外の何ものでもない。
自己責任を放棄しておいて、官の施政に寄りかかろうとする安易な思考である。
ただ官僚という場合、我々は自分の身の回りの視点で見がちであるが、外交問題に携わっている官僚もいるわけで、こういう官僚が国益というものを忘却していたとしたら大変なことである。
国益という言葉が出ると、人の命と国益を秤にかけるという形で問題提起されると答える方ははなはだ難しくなって返答に困るが、平成20年12月30日の新聞報道ではイラクで拉致された邦人救出に2億円が投じられたとなっている。
危険地域に指定されたところに、ふらふらと出かけて行った阿呆な邦人救出に、国民の血税が使われるというとき、我々はこれをどう考えたらいいのであろう。
本人から、その2億円という金を弁済してもらえば何ら問題はなく、こういう当然の事が当然の事として素直に通っていれば何ら憂うべき問題にすることはない。
官僚、この場合は外務省であろうが、きちんと本人にその金額を要求して、本人がきちんとそれを支払うのが筋だと思う。
問題は、官僚として、その2億円という金を外務省の官僚がきちんと本人に請求するかどうかである。
人が国益ということを考えるとき、その人の祖国への誇りというものがない限り、国益という思考そのものが湧いてこないと思う。
その顕著な例が、日米開戦の劈頭において、駐米アメリカ大使館の不様な対応と、それを不問に付した外務省の感覚である。
此処では当然の事が当然の事として当たり前の事として通らなかったから日本人は卑怯な民族としてアメリカ人の敵がい心をあおる結果を招いたではないか。
日米開戦、対米戦争において、日本の旧軍人の戦争に対する認識と、駐米日本大使館の国益ということに対する背任行為は、官僚の愚直をものの見事に具現化した局面である。
この本の著者は、大東亜戦争は官僚にそそのかされて軍部が踊らされた、というニュアンスで語っているが、戦後の我々の普通の認識では、軍部が独断専横した結果だという風に語られるのが普遍的である。
ここで問題なことは旧軍部も明らかに官僚であったという点である。
軍官僚という言葉もあるように、軍隊という組織も、官僚制度の一環ではあるが、その中でも兵は徴兵制で集められているわけで、下の方は官僚制にそぐわないが、トップは明らかに官僚そのものである。
で、その官僚が国益というものに全く無頓着であったという点に、日本の悲劇が潜んでいたわけである。
戦争のプロであるべき軍人が、近代戦争、現代の戦争、国家総力戦という戦争について無知であったわけで、だからこそ最前線で戦う兵士たちは優秀であったが、後方で指揮を執っていた参謀連中は、世界最悪最低の軍人達であったということを日本の敗戦が見事に証明したということである。
軍人の価値、軍隊の存在理由は、戦争に勝ってこそ証明されるわけで、戦争に負ける軍隊、将校、高級参謀というのは結果が敗北である以上、国民からヤツサギにされてしかるべきである。
国民から袋叩きにあって当然である。
ところが我々日本民族、日本国民というのは肩書、官職に極めて弱いわけで、負ける戦争をした元○○中将、旧○○大将という旧軍の高級将校に対してさえも、畏敬の念を抱き、恐れおののいていたわけで、ここでも官に依存する体質が見事に露呈している。
敗戦になるような戦争指導した軍人を袋叩きにするという発想には至らないのである。
旧軍人たちが負ける戦争をしたということは、戦争を私物化していたわけで、それは現代の戦争を関ヶ原の合戦レベルの思考で見ていたということに他ならない。
これが軍官僚の官僚たる所以であって、如何に愚昧な連中であったかを物語っているが、そういう反省は未だに我々の中に沸き上がっていない。
官僚のモラルの低下は、官僚になる前からのそれぞれの個人に内在している問題なわけで、それこそその人の生い立ちから解きあかさねばならない。
仮に18歳の人間が将来官僚として身を立てようと考えたとする。
その若者は官僚になるための最短コースとして東大を目指して、そこから官途の道を選択した場合、官僚の精神的腐敗はすでにこの時からその人の心を蝕んでいるわけで、動機そのものが不純である。
官僚になるという動機からして不純である。
何故、官僚を目指すかと問えば、その人の答えは「国家のために身を挺して働く」と模範解答をするであろうが、既にここから嘘のうわぬりが始まるわけである。
18歳にもなった人間が、真面目に模範解答するところが嘘っぽいわけで、その心の内では「楽して立身出世が出来るから」と計算しつくして志願するわけである。
官僚を目指す人間は、すべてこういう計算によって官僚を目指しているわけだから、その中で青雲の志を探そうたって見つかるものではない。
官僚は「楽して立身出世が出来る」ということは、日本国民にもれなく行きわたっている認識なわけで、その地位は安定し、給料は黙っていても上がるし、馘首の心配はないし、何もせずにじっとしていれば、それなりに出世が出来ることは保証されている。
こういう官僚に前途有能な若者が応募すること自体、既にモラルの低下を示している。
若者ならば、目先の損得を度外視して、未知のものに挑戦する勇気をもってこそ、はつらつとした若者像だと思うが、そういう選択とは対極の選択なわけで、そういう発想そのものが不純で、いかがわしいと私には思える。
しかし、現実にはそういう選択をする若者が官僚として今でも応募しているわけで、これでは公務員の倫理の向上は望めない。
楽して出世できるから公務員になる、というその根本のところから既に公務員の本旨を履き違えているわけで、こういうものに国民に対する奉仕を期待する方が間違っている。
彼らはなった瞬間から国民の事など忘却の彼方に追い込んでいるわけで、あるのは目先の出世、つまりいく段階にもわたる階梯の一つ一つを上がることだけである。
彼らはペーパーチェックを一度はクリア―しているわけで、その意味では並み以上の頭脳の持ち主であろうが、それ以降の頭脳の鍛え方、あるいは身の処し方、または未知のものに挑戦する勇気を持ち続けたかどうかだと思う。
しかし、官僚という環境の中に身を置く限り、そういう若者の前には周囲の同僚や先輩達の姿を見、あるいは悟り、懐柔されだんだんと官僚らしい官僚に至るのであろう。
民間企業では新しい試練が次から次の課せられるので、常に緊張を強いられるが、ぬるま湯の中にどっぷりとつかることを最良の策と刷り込まれた人たちにはそれは当然耐えられないであろう。