例によって図書館から借りてきた本で「ソノブイ感度あり」という本を読んだ。
サブタイトルには「続・潜水艦を探せ」となっている。
内容としては、戦後の海上自衛隊の対潜哨戒機のパイロットの物語であった。
奥付きを見ると、著者は岡崎拓生という人で、年は私と同い年である。
同じ自衛隊員でも私はペーペーのままで終わったが、彼は自衛隊という組織の中で、ある程度の功なり名を上げた成功者の違いがある。
私もかっては国の防人として、自衛隊の飯を食った人間なので、共感する部分は非常に多い。
しかし、さきに陸上自衛隊のイラクでの復興支援に赴任した物語を読み、更に海上自衛隊の対潜哨戒という仕事を垣間見、そして私の経験した航空自衛隊の警戒管制の仕事から勘案すると、今の国防というのはまさしくテクノロジーの競走のような観がする。
その中でも、イラクに派遣された陸上自衛隊員こそは、テクノロジーの枠の一番外側に位置していて、その分、一番ヒューマン・リレーションの要因に富んでいる。
テクノロジーは、何処までもどこまでもその進歩は天井知らずに延伸が可能だと思う。
ところが、人間関係というのは、まさしく複雑怪奇で、いくらテクノロジーが進化しても、人間の心の中の管理は技術では克服できない部分が多いように思う。
人間の心というのは、まさしく複雑怪奇で、それだからこそ人類は誕生以来、殺りくを繰り返してきたのではなかろうか。
それに反し、テクノロジーというのは実に正直で、人間の意図に対して極めて忠実に突き進んでいくので、それをコントロールするのは人間の側にある心の問題に行き着く。
私自身は、航空自衛隊には自ら身を置いてことがあるので、航空自衛隊についてはある程度の理解ができているが、海上自衛隊の事となるとあまりにも知識が不足している。
先にアメリカの空母の乗員の本も読んだが、この本もヘリコプターの整備という狭い枠の中での話で、対潜哨戒という話とはまるで次元が違っていた。
この本を読んで、潜水艦を探すということは如何に難しい仕儀とかということはよく理解できたが、それを逆の視点から見れば、潜水艦が攻撃兵器として如何に有効かということでもある。
索敵が非常に難しいということは、防御に困難をきたすということで、それは攻撃する側にとっては、この上ない有利な条件でもある。
潜水艦の戦いという意味で、我々は『眼下の敵』という映画を見て、彼らは彼らで如何に困難に立ち向かっているかということも十分に解っているが、こういうことは今の日本ではあまり語られることがない。
最近、インターネットのYouTubeで、アメリカ海軍の空母、「ロナルド・レーガン」の映像を見たし、同じく空母「アイゼンハワー」のDVDも持っているが、アメリカ人はまさしく戦う民族だ、とつくづく思い知らされた。
無理もない橋で、アメリカ人はインデアン、ネイティブ・アメリカンの土地を、銃で以て征服してきた民族なので、彼らの民族としてのDNAの中には、戦うことの遺伝子が潜在的に刷り込まれているに違いない。
「義に対して身を挺して戦うことは正義だ」という倫理で貫かれているように思う。
戦後の日本の自衛隊も、そういう影響下で、彼らのお下がりの道具で、彼らの真似事をしているにすぎないと思う。
戦後の我々には、基本的に国家主権ということの意義が真に理解されていない節が見え隠れしている。
今回の尖閣諸島における中国漁船による衝突事件でも、我々の側には主権国家の主権侵害という認識が極めて薄いように思う。
こういう事例に遭うと、まず最初に人命の如何を念頭に思い浮かべて、人命尊重という大義名分を正面に掲げた思考に陥るので、先方に舐められるのである。
そこには国の為に殉ずると概念が全く存在しいていないので、人質を取られると我々の側は完全に機能停止に陥ってしまう。
普通に常識のある人間が普通に考えれば、こちらが手足を縛って「武力行使は何時如何なる時でも致しません」と宣言しておれば、先方はしたい放題のことをするのはしごく当然なわけで、現に、戦後の日本の状況というのはそうなっているではないか。
日本に対しては、強く出れば直ぐに要求を飲む、自分たちの言うことを直ぐに聞く、ということは世界各国が知っているわけで、だとすれば中国や韓国がそういう態度に出てきても何ら不思議ではない。
戦後の日本人は、いくら主権が侵害されようとも、その事によって自分自身が被害を被ったわけではないので、何処まで行っても人ごとと思っているわけで、全く痛痒を感じていないのである。
いくら主権侵害があって、国家として舐められようとも、その事によって直接的に人命が損なわれたわけでもなく、そういうことは全て政府の責任だと、他者に責任を転嫁しているのである。
主権侵害があったならば、身を挺してでも、あるいは同胞の血を流してでも、屈辱を晴らすという気概が無いので、そういうことは全て政府の責任にして、自らは傍観者の位置に立って、あたかも自分たちの政府を第3者的な視点で眺めているのである。
それともう一つ、我々が外交下手と見做されている大きな理由は、国際社会に対するアピールがまことに下手だと思う。
日本の立場を国際社会に向けてPRしようともせず、2国間だけの話し合いで解決しようとするが、日本は国際連盟に極めて多額の協賛金を奉納しているのだから、理屈に合わない事案は、もっともっと国際機関に訴えてしかるべきだと思う。
今回の事案でも、その詳細ないきさつを世界に向けて発信し、公開して、中国が如何に不合理な行いをしているか、をもっともっと国際社会に知らしめることが必要だと思う。
武力行使を自ら封じ込められているならば、尚更、言論で以て世界にアピールすべきで、それを怠っているので、中国の宣伝が世界的に認知されそうになっているではないか。
話が飛躍しすぎたが、潜水艦を探すということが如何に難しいかは、この本を読んでよく分かったが、それは逆にいうと潜水艦は極めて有効な攻撃手段だということでもあるわけで、ならば我々もそういう視点で防衛ということを考えなければならないという話につながる。
軍艦や潜水艦の動力源として、原子力燃料が極めて有効な事は、既に世界の軍事的常識としては定着しているので、日本もそういうこと真剣に考える時に来ていると思う。
日本が原子力燃料を使った船を作るということは、過去において原子力船「むつ」の事例でも解るように、我々には何とも御しがたいアレルギーがあるわけで、これをまず最初に打ち砕かなければならない。
我々は極めて天然資源の枯渇した主権国家だ、ということは自明の事実であって、ならば最も効率の良い燃料を開発し、それの応用を早急に考えなければならないことは緊急の課題であったにもかかわらず、この原子力船「むつ」の開発は、動力源が原子力だから駄目だという論理で、とうとう中止の憂き目にあってしまった。
こんなバカな話もないと思う。
戦後の日本の知識階層というのは一体どういう思考でいるのであろう。
原子力がダメなので、依然として中東からの石油に依存し続けているが、その輸送経路のシーレーンの安全の為の防衛措置も行えないというのでは、一体我々は今後どう生きよというのであろう。
こう言う事を、学識経験者でない八百屋のおっさんや魚屋のあんちゃんが言うのなら、懇切丁寧に説明すれば解ってもらえるかもしれない。
ところが、日本の知識人がそういう自虐的な論理で、中東の石油の安全輸送に対する防衛措置もダメ、にもかかわらず石油に依存しない原子力燃料もだめだ、となれば後はどういう手段手法が残されているのかと問いたい。
日本の知識階層から、こういうジレンマの打開策が提案されてきたであろうか。
原子力燃料の開発も、無学文盲の人がああでもないこうでもないと鳩首会談をしているわけではなく、それ相当の学識経験者や、立派な学者諸氏が研究しているわけで、それに反対する側の人というのは、一体どういう人なのであろう。
原子力船「むつ」の開発がどういうシステムで進められたか詳しくは知らないが、民間企業と国策の推進機関としての組織がお互いに協力しあい、所管官庁ともタイアップしながら開発されたのではないかと思う。
が、新技術の開発ともなれば、国を挙げて官民協力して、新しい技術を作り上げることが、今後の日本が生き残るための大きな要因になるものと考える。
船舶の原子力エンジンの利用というのは、既にアメリカでは原子力空母でも原子力潜水艦でも実績があるわけで、資源ない日本としては、そういうものを大いに研究してしかるべきだと思う。
むしろ、資源の少ない日本だからこそ、原子力エンジンをもっともっと研究して当然だと思う。
我々はどうしても世界唯一の原爆被爆国ということで、原子力というと負のイメージを払しょくしきれずに、忌避しがちな心境に至るのは、ある程度はいた仕方ないが、原子爆弾と原子力利用とは全く別の次元話で、原子力だから何でもかんでも駄目だ、というのは全く理屈に合わない荒唐無稽な論理である。
原子力発電所ではアメリカでも旧ソ連でも大きな事故を起こしているが、人類の進歩にはいくら注意していても不慮の事故というのはついて回るわけで、我々が近い将来に少しでも良い生活がしたいと願うとするならば、それはそれなりのリスクも合わせ待たなければならない。
そのリスクを負うのが嫌ならば、昔に先祖返りして、原始生活に逆戻りする他ない。
地球上の資源の有効利用という意味で、原子力も決して無限という訳ではないが、他の資源と比べると一番長持ちのする資源である以上、その有効利用は早急に開発すべき問題だと思う。
よって科学者はその研究をしようとするが、もう一方の科学者が、人命を盾にとって、そのリスクの部分を容認できずに反対行動に出るのである。
結果として、中東の石油に今まで通り依存しながら、その搬入経路の安全については人任せにして、自らその安全を確保することは罷りならぬ、他者の善意に依存し続けるべきだというのである。
こういう得て勝手な言い分が通るわけがないではないか。
こういう言い分こそが、先の主権侵害について、「侵害されるのはこちらの政府が悪いからだ」という錯綜した思考と繋がっているわけで、我々の国の学識経験者というのは、一体何をどう考えているのであろう。
日本で高等教育を積み上げて学識経験豊富な知識人として認められるようになると、どうして自分の祖国を他者に売り渡すような思考になるのであろう。
この本を読んでいると、海の中には海水の温度のちがう層があって、その境界では音波が屈折すると書かれているが、我々の日本社会も、高等教育を受けた者と受けなかった者の間に、目に見ない層が出来て、この層を境にして、もの見方考え方があらぬ方向に屈折してしまうということなのであろうか。
この世の中にある一つの事象に対して、ものの見方は人によって千差万別であることは当然であるが、日本の将来ということを考えれば、その考え方が180度全く反対の方向を向くというのも、同じ日本人同士としていささか妙な事なのではなかろうか。
日本が中東の石油に依存し続けているという現実は、誰が見ても当たり前のことであって、ならばそれを何とかしなければ、という希求も同じ日本人とうして共有できるものだと思う。
そこで一部の人は原子力の利用に活路を見出そうと考えると、「それはリスクが大きいから駄目だ」という論拠になる。
これはこれで一つの考え方としては認めざるを得ないが、「ならば次善の策はあるか」というと、「それは政府が考えるべきだ」という論法は完全に逃げ口上であって、論理的な合理性に基づいた思考ではないはずである。
如何なる未来技術にも、未来技術だからこそリスクがあるわけで、完全に100%の安全を追い求め、それでなければだめだ、という論法は、子供の喧嘩の類の論理である。
今、直面している現実に真面目に対処しようとするならば、リスクを回避する手法を取りながら、資源の枯渇を避ける手法を実践する他ないと思う。
原子力発電は長い年月をかけて人々の理解を得られつつあるが、ならば原子力船の開発も、限られた資源を守るという意味で、せめて研究する余裕ぐらいはあってもいいことではなかろうか。
原子力船「むつ」も、当初は初期不具合が続出して、安全性とか技術的な欠陥が露呈したことは否めないが、新しいものを開発するというときは、そういう不具合はついて回ることだと思う。
ただ「原子力だから駄目だ」という発想は、まさしく子供の思考でしかない。
サブタイトルには「続・潜水艦を探せ」となっている。
内容としては、戦後の海上自衛隊の対潜哨戒機のパイロットの物語であった。
奥付きを見ると、著者は岡崎拓生という人で、年は私と同い年である。
同じ自衛隊員でも私はペーペーのままで終わったが、彼は自衛隊という組織の中で、ある程度の功なり名を上げた成功者の違いがある。
私もかっては国の防人として、自衛隊の飯を食った人間なので、共感する部分は非常に多い。
しかし、さきに陸上自衛隊のイラクでの復興支援に赴任した物語を読み、更に海上自衛隊の対潜哨戒という仕事を垣間見、そして私の経験した航空自衛隊の警戒管制の仕事から勘案すると、今の国防というのはまさしくテクノロジーの競走のような観がする。
その中でも、イラクに派遣された陸上自衛隊員こそは、テクノロジーの枠の一番外側に位置していて、その分、一番ヒューマン・リレーションの要因に富んでいる。
テクノロジーは、何処までもどこまでもその進歩は天井知らずに延伸が可能だと思う。
ところが、人間関係というのは、まさしく複雑怪奇で、いくらテクノロジーが進化しても、人間の心の中の管理は技術では克服できない部分が多いように思う。
人間の心というのは、まさしく複雑怪奇で、それだからこそ人類は誕生以来、殺りくを繰り返してきたのではなかろうか。
それに反し、テクノロジーというのは実に正直で、人間の意図に対して極めて忠実に突き進んでいくので、それをコントロールするのは人間の側にある心の問題に行き着く。
私自身は、航空自衛隊には自ら身を置いてことがあるので、航空自衛隊についてはある程度の理解ができているが、海上自衛隊の事となるとあまりにも知識が不足している。
先にアメリカの空母の乗員の本も読んだが、この本もヘリコプターの整備という狭い枠の中での話で、対潜哨戒という話とはまるで次元が違っていた。
この本を読んで、潜水艦を探すということは如何に難しい仕儀とかということはよく理解できたが、それを逆の視点から見れば、潜水艦が攻撃兵器として如何に有効かということでもある。
索敵が非常に難しいということは、防御に困難をきたすということで、それは攻撃する側にとっては、この上ない有利な条件でもある。
潜水艦の戦いという意味で、我々は『眼下の敵』という映画を見て、彼らは彼らで如何に困難に立ち向かっているかということも十分に解っているが、こういうことは今の日本ではあまり語られることがない。
最近、インターネットのYouTubeで、アメリカ海軍の空母、「ロナルド・レーガン」の映像を見たし、同じく空母「アイゼンハワー」のDVDも持っているが、アメリカ人はまさしく戦う民族だ、とつくづく思い知らされた。
無理もない橋で、アメリカ人はインデアン、ネイティブ・アメリカンの土地を、銃で以て征服してきた民族なので、彼らの民族としてのDNAの中には、戦うことの遺伝子が潜在的に刷り込まれているに違いない。
「義に対して身を挺して戦うことは正義だ」という倫理で貫かれているように思う。
戦後の日本の自衛隊も、そういう影響下で、彼らのお下がりの道具で、彼らの真似事をしているにすぎないと思う。
戦後の我々には、基本的に国家主権ということの意義が真に理解されていない節が見え隠れしている。
今回の尖閣諸島における中国漁船による衝突事件でも、我々の側には主権国家の主権侵害という認識が極めて薄いように思う。
こういう事例に遭うと、まず最初に人命の如何を念頭に思い浮かべて、人命尊重という大義名分を正面に掲げた思考に陥るので、先方に舐められるのである。
そこには国の為に殉ずると概念が全く存在しいていないので、人質を取られると我々の側は完全に機能停止に陥ってしまう。
普通に常識のある人間が普通に考えれば、こちらが手足を縛って「武力行使は何時如何なる時でも致しません」と宣言しておれば、先方はしたい放題のことをするのはしごく当然なわけで、現に、戦後の日本の状況というのはそうなっているではないか。
日本に対しては、強く出れば直ぐに要求を飲む、自分たちの言うことを直ぐに聞く、ということは世界各国が知っているわけで、だとすれば中国や韓国がそういう態度に出てきても何ら不思議ではない。
戦後の日本人は、いくら主権が侵害されようとも、その事によって自分自身が被害を被ったわけではないので、何処まで行っても人ごとと思っているわけで、全く痛痒を感じていないのである。
いくら主権侵害があって、国家として舐められようとも、その事によって直接的に人命が損なわれたわけでもなく、そういうことは全て政府の責任だと、他者に責任を転嫁しているのである。
主権侵害があったならば、身を挺してでも、あるいは同胞の血を流してでも、屈辱を晴らすという気概が無いので、そういうことは全て政府の責任にして、自らは傍観者の位置に立って、あたかも自分たちの政府を第3者的な視点で眺めているのである。
それともう一つ、我々が外交下手と見做されている大きな理由は、国際社会に対するアピールがまことに下手だと思う。
日本の立場を国際社会に向けてPRしようともせず、2国間だけの話し合いで解決しようとするが、日本は国際連盟に極めて多額の協賛金を奉納しているのだから、理屈に合わない事案は、もっともっと国際機関に訴えてしかるべきだと思う。
今回の事案でも、その詳細ないきさつを世界に向けて発信し、公開して、中国が如何に不合理な行いをしているか、をもっともっと国際社会に知らしめることが必要だと思う。
武力行使を自ら封じ込められているならば、尚更、言論で以て世界にアピールすべきで、それを怠っているので、中国の宣伝が世界的に認知されそうになっているではないか。
話が飛躍しすぎたが、潜水艦を探すということが如何に難しいかは、この本を読んでよく分かったが、それは逆にいうと潜水艦は極めて有効な攻撃手段だということでもあるわけで、ならば我々もそういう視点で防衛ということを考えなければならないという話につながる。
軍艦や潜水艦の動力源として、原子力燃料が極めて有効な事は、既に世界の軍事的常識としては定着しているので、日本もそういうこと真剣に考える時に来ていると思う。
日本が原子力燃料を使った船を作るということは、過去において原子力船「むつ」の事例でも解るように、我々には何とも御しがたいアレルギーがあるわけで、これをまず最初に打ち砕かなければならない。
我々は極めて天然資源の枯渇した主権国家だ、ということは自明の事実であって、ならば最も効率の良い燃料を開発し、それの応用を早急に考えなければならないことは緊急の課題であったにもかかわらず、この原子力船「むつ」の開発は、動力源が原子力だから駄目だという論理で、とうとう中止の憂き目にあってしまった。
こんなバカな話もないと思う。
戦後の日本の知識階層というのは一体どういう思考でいるのであろう。
原子力がダメなので、依然として中東からの石油に依存し続けているが、その輸送経路のシーレーンの安全の為の防衛措置も行えないというのでは、一体我々は今後どう生きよというのであろう。
こう言う事を、学識経験者でない八百屋のおっさんや魚屋のあんちゃんが言うのなら、懇切丁寧に説明すれば解ってもらえるかもしれない。
ところが、日本の知識人がそういう自虐的な論理で、中東の石油の安全輸送に対する防衛措置もダメ、にもかかわらず石油に依存しない原子力燃料もだめだ、となれば後はどういう手段手法が残されているのかと問いたい。
日本の知識階層から、こういうジレンマの打開策が提案されてきたであろうか。
原子力燃料の開発も、無学文盲の人がああでもないこうでもないと鳩首会談をしているわけではなく、それ相当の学識経験者や、立派な学者諸氏が研究しているわけで、それに反対する側の人というのは、一体どういう人なのであろう。
原子力船「むつ」の開発がどういうシステムで進められたか詳しくは知らないが、民間企業と国策の推進機関としての組織がお互いに協力しあい、所管官庁ともタイアップしながら開発されたのではないかと思う。
が、新技術の開発ともなれば、国を挙げて官民協力して、新しい技術を作り上げることが、今後の日本が生き残るための大きな要因になるものと考える。
船舶の原子力エンジンの利用というのは、既にアメリカでは原子力空母でも原子力潜水艦でも実績があるわけで、資源ない日本としては、そういうものを大いに研究してしかるべきだと思う。
むしろ、資源の少ない日本だからこそ、原子力エンジンをもっともっと研究して当然だと思う。
我々はどうしても世界唯一の原爆被爆国ということで、原子力というと負のイメージを払しょくしきれずに、忌避しがちな心境に至るのは、ある程度はいた仕方ないが、原子爆弾と原子力利用とは全く別の次元話で、原子力だから何でもかんでも駄目だ、というのは全く理屈に合わない荒唐無稽な論理である。
原子力発電所ではアメリカでも旧ソ連でも大きな事故を起こしているが、人類の進歩にはいくら注意していても不慮の事故というのはついて回るわけで、我々が近い将来に少しでも良い生活がしたいと願うとするならば、それはそれなりのリスクも合わせ待たなければならない。
そのリスクを負うのが嫌ならば、昔に先祖返りして、原始生活に逆戻りする他ない。
地球上の資源の有効利用という意味で、原子力も決して無限という訳ではないが、他の資源と比べると一番長持ちのする資源である以上、その有効利用は早急に開発すべき問題だと思う。
よって科学者はその研究をしようとするが、もう一方の科学者が、人命を盾にとって、そのリスクの部分を容認できずに反対行動に出るのである。
結果として、中東の石油に今まで通り依存しながら、その搬入経路の安全については人任せにして、自らその安全を確保することは罷りならぬ、他者の善意に依存し続けるべきだというのである。
こういう得て勝手な言い分が通るわけがないではないか。
こういう言い分こそが、先の主権侵害について、「侵害されるのはこちらの政府が悪いからだ」という錯綜した思考と繋がっているわけで、我々の国の学識経験者というのは、一体何をどう考えているのであろう。
日本で高等教育を積み上げて学識経験豊富な知識人として認められるようになると、どうして自分の祖国を他者に売り渡すような思考になるのであろう。
この本を読んでいると、海の中には海水の温度のちがう層があって、その境界では音波が屈折すると書かれているが、我々の日本社会も、高等教育を受けた者と受けなかった者の間に、目に見ない層が出来て、この層を境にして、もの見方考え方があらぬ方向に屈折してしまうということなのであろうか。
この世の中にある一つの事象に対して、ものの見方は人によって千差万別であることは当然であるが、日本の将来ということを考えれば、その考え方が180度全く反対の方向を向くというのも、同じ日本人同士としていささか妙な事なのではなかろうか。
日本が中東の石油に依存し続けているという現実は、誰が見ても当たり前のことであって、ならばそれを何とかしなければ、という希求も同じ日本人とうして共有できるものだと思う。
そこで一部の人は原子力の利用に活路を見出そうと考えると、「それはリスクが大きいから駄目だ」という論拠になる。
これはこれで一つの考え方としては認めざるを得ないが、「ならば次善の策はあるか」というと、「それは政府が考えるべきだ」という論法は完全に逃げ口上であって、論理的な合理性に基づいた思考ではないはずである。
如何なる未来技術にも、未来技術だからこそリスクがあるわけで、完全に100%の安全を追い求め、それでなければだめだ、という論法は、子供の喧嘩の類の論理である。
今、直面している現実に真面目に対処しようとするならば、リスクを回避する手法を取りながら、資源の枯渇を避ける手法を実践する他ないと思う。
原子力発電は長い年月をかけて人々の理解を得られつつあるが、ならば原子力船の開発も、限られた資源を守るという意味で、せめて研究する余裕ぐらいはあってもいいことではなかろうか。
原子力船「むつ」も、当初は初期不具合が続出して、安全性とか技術的な欠陥が露呈したことは否めないが、新しいものを開発するというときは、そういう不具合はついて回ることだと思う。
ただ「原子力だから駄目だ」という発想は、まさしく子供の思考でしかない。