ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「ソノブイ感度あり」

2010-09-27 07:22:12 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「ソノブイ感度あり」という本を読んだ。
サブタイトルには「続・潜水艦を探せ」となっている。
内容としては、戦後の海上自衛隊の対潜哨戒機のパイロットの物語であった。
奥付きを見ると、著者は岡崎拓生という人で、年は私と同い年である。
同じ自衛隊員でも私はペーペーのままで終わったが、彼は自衛隊という組織の中で、ある程度の功なり名を上げた成功者の違いがある。
私もかっては国の防人として、自衛隊の飯を食った人間なので、共感する部分は非常に多い。
しかし、さきに陸上自衛隊のイラクでの復興支援に赴任した物語を読み、更に海上自衛隊の対潜哨戒という仕事を垣間見、そして私の経験した航空自衛隊の警戒管制の仕事から勘案すると、今の国防というのはまさしくテクノロジーの競走のような観がする。
その中でも、イラクに派遣された陸上自衛隊員こそは、テクノロジーの枠の一番外側に位置していて、その分、一番ヒューマン・リレーションの要因に富んでいる。
テクノロジーは、何処までもどこまでもその進歩は天井知らずに延伸が可能だと思う。
ところが、人間関係というのは、まさしく複雑怪奇で、いくらテクノロジーが進化しても、人間の心の中の管理は技術では克服できない部分が多いように思う。
人間の心というのは、まさしく複雑怪奇で、それだからこそ人類は誕生以来、殺りくを繰り返してきたのではなかろうか。
それに反し、テクノロジーというのは実に正直で、人間の意図に対して極めて忠実に突き進んでいくので、それをコントロールするのは人間の側にある心の問題に行き着く。
私自身は、航空自衛隊には自ら身を置いてことがあるので、航空自衛隊についてはある程度の理解ができているが、海上自衛隊の事となるとあまりにも知識が不足している。
先にアメリカの空母の乗員の本も読んだが、この本もヘリコプターの整備という狭い枠の中での話で、対潜哨戒という話とはまるで次元が違っていた。
この本を読んで、潜水艦を探すということは如何に難しい仕儀とかということはよく理解できたが、それを逆の視点から見れば、潜水艦が攻撃兵器として如何に有効かということでもある。
索敵が非常に難しいということは、防御に困難をきたすということで、それは攻撃する側にとっては、この上ない有利な条件でもある。
潜水艦の戦いという意味で、我々は『眼下の敵』という映画を見て、彼らは彼らで如何に困難に立ち向かっているかということも十分に解っているが、こういうことは今の日本ではあまり語られることがない。
最近、インターネットのYouTubeで、アメリカ海軍の空母、「ロナルド・レーガン」の映像を見たし、同じく空母「アイゼンハワー」のDVDも持っているが、アメリカ人はまさしく戦う民族だ、とつくづく思い知らされた。
無理もない橋で、アメリカ人はインデアン、ネイティブ・アメリカンの土地を、銃で以て征服してきた民族なので、彼らの民族としてのDNAの中には、戦うことの遺伝子が潜在的に刷り込まれているに違いない。
「義に対して身を挺して戦うことは正義だ」という倫理で貫かれているように思う。
戦後の日本の自衛隊も、そういう影響下で、彼らのお下がりの道具で、彼らの真似事をしているにすぎないと思う。
戦後の我々には、基本的に国家主権ということの意義が真に理解されていない節が見え隠れしている。
今回の尖閣諸島における中国漁船による衝突事件でも、我々の側には主権国家の主権侵害という認識が極めて薄いように思う。
こういう事例に遭うと、まず最初に人命の如何を念頭に思い浮かべて、人命尊重という大義名分を正面に掲げた思考に陥るので、先方に舐められるのである。
そこには国の為に殉ずると概念が全く存在しいていないので、人質を取られると我々の側は完全に機能停止に陥ってしまう。
普通に常識のある人間が普通に考えれば、こちらが手足を縛って「武力行使は何時如何なる時でも致しません」と宣言しておれば、先方はしたい放題のことをするのはしごく当然なわけで、現に、戦後の日本の状況というのはそうなっているではないか。
日本に対しては、強く出れば直ぐに要求を飲む、自分たちの言うことを直ぐに聞く、ということは世界各国が知っているわけで、だとすれば中国や韓国がそういう態度に出てきても何ら不思議ではない。
戦後の日本人は、いくら主権が侵害されようとも、その事によって自分自身が被害を被ったわけではないので、何処まで行っても人ごとと思っているわけで、全く痛痒を感じていないのである。
いくら主権侵害があって、国家として舐められようとも、その事によって直接的に人命が損なわれたわけでもなく、そういうことは全て政府の責任だと、他者に責任を転嫁しているのである。
主権侵害があったならば、身を挺してでも、あるいは同胞の血を流してでも、屈辱を晴らすという気概が無いので、そういうことは全て政府の責任にして、自らは傍観者の位置に立って、あたかも自分たちの政府を第3者的な視点で眺めているのである。
それともう一つ、我々が外交下手と見做されている大きな理由は、国際社会に対するアピールがまことに下手だと思う。
日本の立場を国際社会に向けてPRしようともせず、2国間だけの話し合いで解決しようとするが、日本は国際連盟に極めて多額の協賛金を奉納しているのだから、理屈に合わない事案は、もっともっと国際機関に訴えてしかるべきだと思う。
今回の事案でも、その詳細ないきさつを世界に向けて発信し、公開して、中国が如何に不合理な行いをしているか、をもっともっと国際社会に知らしめることが必要だと思う。
武力行使を自ら封じ込められているならば、尚更、言論で以て世界にアピールすべきで、それを怠っているので、中国の宣伝が世界的に認知されそうになっているではないか。
話が飛躍しすぎたが、潜水艦を探すということが如何に難しいかは、この本を読んでよく分かったが、それは逆にいうと潜水艦は極めて有効な攻撃手段だということでもあるわけで、ならば我々もそういう視点で防衛ということを考えなければならないという話につながる。
軍艦や潜水艦の動力源として、原子力燃料が極めて有効な事は、既に世界の軍事的常識としては定着しているので、日本もそういうこと真剣に考える時に来ていると思う。
日本が原子力燃料を使った船を作るということは、過去において原子力船「むつ」の事例でも解るように、我々には何とも御しがたいアレルギーがあるわけで、これをまず最初に打ち砕かなければならない。
我々は極めて天然資源の枯渇した主権国家だ、ということは自明の事実であって、ならば最も効率の良い燃料を開発し、それの応用を早急に考えなければならないことは緊急の課題であったにもかかわらず、この原子力船「むつ」の開発は、動力源が原子力だから駄目だという論理で、とうとう中止の憂き目にあってしまった。
こんなバカな話もないと思う。
戦後の日本の知識階層というのは一体どういう思考でいるのであろう。
原子力がダメなので、依然として中東からの石油に依存し続けているが、その輸送経路のシーレーンの安全の為の防衛措置も行えないというのでは、一体我々は今後どう生きよというのであろう。
こう言う事を、学識経験者でない八百屋のおっさんや魚屋のあんちゃんが言うのなら、懇切丁寧に説明すれば解ってもらえるかもしれない。
ところが、日本の知識人がそういう自虐的な論理で、中東の石油の安全輸送に対する防衛措置もダメ、にもかかわらず石油に依存しない原子力燃料もだめだ、となれば後はどういう手段手法が残されているのかと問いたい。
日本の知識階層から、こういうジレンマの打開策が提案されてきたであろうか。
原子力燃料の開発も、無学文盲の人がああでもないこうでもないと鳩首会談をしているわけではなく、それ相当の学識経験者や、立派な学者諸氏が研究しているわけで、それに反対する側の人というのは、一体どういう人なのであろう。
原子力船「むつ」の開発がどういうシステムで進められたか詳しくは知らないが、民間企業と国策の推進機関としての組織がお互いに協力しあい、所管官庁ともタイアップしながら開発されたのではないかと思う。
が、新技術の開発ともなれば、国を挙げて官民協力して、新しい技術を作り上げることが、今後の日本が生き残るための大きな要因になるものと考える。
船舶の原子力エンジンの利用というのは、既にアメリカでは原子力空母でも原子力潜水艦でも実績があるわけで、資源ない日本としては、そういうものを大いに研究してしかるべきだと思う。
むしろ、資源の少ない日本だからこそ、原子力エンジンをもっともっと研究して当然だと思う。
我々はどうしても世界唯一の原爆被爆国ということで、原子力というと負のイメージを払しょくしきれずに、忌避しがちな心境に至るのは、ある程度はいた仕方ないが、原子爆弾と原子力利用とは全く別の次元話で、原子力だから何でもかんでも駄目だ、というのは全く理屈に合わない荒唐無稽な論理である。
原子力発電所ではアメリカでも旧ソ連でも大きな事故を起こしているが、人類の進歩にはいくら注意していても不慮の事故というのはついて回るわけで、我々が近い将来に少しでも良い生活がしたいと願うとするならば、それはそれなりのリスクも合わせ待たなければならない。
そのリスクを負うのが嫌ならば、昔に先祖返りして、原始生活に逆戻りする他ない。
地球上の資源の有効利用という意味で、原子力も決して無限という訳ではないが、他の資源と比べると一番長持ちのする資源である以上、その有効利用は早急に開発すべき問題だと思う。
よって科学者はその研究をしようとするが、もう一方の科学者が、人命を盾にとって、そのリスクの部分を容認できずに反対行動に出るのである。
結果として、中東の石油に今まで通り依存しながら、その搬入経路の安全については人任せにして、自らその安全を確保することは罷りならぬ、他者の善意に依存し続けるべきだというのである。
こういう得て勝手な言い分が通るわけがないではないか。
こういう言い分こそが、先の主権侵害について、「侵害されるのはこちらの政府が悪いからだ」という錯綜した思考と繋がっているわけで、我々の国の学識経験者というのは、一体何をどう考えているのであろう。
日本で高等教育を積み上げて学識経験豊富な知識人として認められるようになると、どうして自分の祖国を他者に売り渡すような思考になるのであろう。
この本を読んでいると、海の中には海水の温度のちがう層があって、その境界では音波が屈折すると書かれているが、我々の日本社会も、高等教育を受けた者と受けなかった者の間に、目に見ない層が出来て、この層を境にして、もの見方考え方があらぬ方向に屈折してしまうということなのであろうか。
この世の中にある一つの事象に対して、ものの見方は人によって千差万別であることは当然であるが、日本の将来ということを考えれば、その考え方が180度全く反対の方向を向くというのも、同じ日本人同士としていささか妙な事なのではなかろうか。
日本が中東の石油に依存し続けているという現実は、誰が見ても当たり前のことであって、ならばそれを何とかしなければ、という希求も同じ日本人とうして共有できるものだと思う。
そこで一部の人は原子力の利用に活路を見出そうと考えると、「それはリスクが大きいから駄目だ」という論拠になる。
これはこれで一つの考え方としては認めざるを得ないが、「ならば次善の策はあるか」というと、「それは政府が考えるべきだ」という論法は完全に逃げ口上であって、論理的な合理性に基づいた思考ではないはずである。
如何なる未来技術にも、未来技術だからこそリスクがあるわけで、完全に100%の安全を追い求め、それでなければだめだ、という論法は、子供の喧嘩の類の論理である。
今、直面している現実に真面目に対処しようとするならば、リスクを回避する手法を取りながら、資源の枯渇を避ける手法を実践する他ないと思う。
原子力発電は長い年月をかけて人々の理解を得られつつあるが、ならば原子力船の開発も、限られた資源を守るという意味で、せめて研究する余裕ぐらいはあってもいいことではなかろうか。
原子力船「むつ」も、当初は初期不具合が続出して、安全性とか技術的な欠陥が露呈したことは否めないが、新しいものを開発するというときは、そういう不具合はついて回ることだと思う。
ただ「原子力だから駄目だ」という発想は、まさしく子供の思考でしかない。

『「非戦の国」が崩れゆく』

2010-09-24 07:14:32 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『「非戦の国」が崩れゆく』という本を読んだ。
サブタイトルには、有事法制、アフガン参戦、イラク派兵を検証するとなっているが、まさしく押しも押されもせぬ平和主義の固まりのような内容であった。
普通の民主主義国では、政府、為政者、統治者というのは、国民から批判されることが当然であって、如何なる善政であったとしても、全ての国民からそういう評価を得ることは甚だ難しいことだろうとは思う。
国民の側からすれば、政府の行う施政に不平や不満が高じる事も、大いにあり得ることとは思う。
しかし、ものごとを考え、それについて発言する時に、前提条件の認識が食い違っていては、正当でまともな評価は成り立たない。
この世の中のある一つの事柄について、それに対する感想というのは、あるゆる視点から眺めた場合、その視点の数だけ異なった感想があって当然である。
上から眺めた場合、下から仰ぎ見た場合、横から見た場合、斜め後ろから見た場合、見たものは同じものであったとしても、見る視点でそれぞれの感想は異なってくるのも当然である。
その事から推察すると、この本の著者は、日本国憲法というものが極めて立派で、崇高な存在で、この憲法こそ、この世の絶対的な善であるという認識から抜け出していないわけで、我々、オールド世代は、あの憲法がアメリカ占領軍からの押し付け憲法だという認識とは相容れないのである。
憲法を挟んで、ものの考え方が、お互いに交わることのない鉄道のレールのように平行線のままである。
戦争放棄を内包した今の日本国憲法の存在こそが、日本が戦後65年間も平和でこれた大きな理由だ、というわけである。
だからこそ「非戦の国」という言い方になるのであろうが、「非戦の国」なるが故に、日本は周辺諸国ら非常に舐められた存在に追いやられているわけで、それでも同胞の血が流されたわけではないので、何となく平和の状態にあるという認識なのであろう。
そもそも、人間の存在を「正しい」とか「正しくない」、あるいは「正義・不正義」、あるいは「善・悪」という価値基準で測るべきではない。
あるべき姿は、人間としての生存競争という大枠で眺めるべきで、生きんがために如何なる方策を講ずるか、という視点でものごとを考えなければならないと思う。
生存競争を生き延びるということは、要するに、国益の維持推進なわけで、個人に一番密着した存在が、国であるとするならば、自分の属する国家に如何に利益をもたらすかによって、生存競争そのものに勝ち残れることになる。
主権国家の存在は、人間の生存競争を継続させるための一時的な方便であって、そんなものはアメ―バーの細胞膜のようなもので、周囲の環境によって如何様にも変幻自在に変化する存在である。
ただこの地球上に住む人という種の習性として、出来るだけ同じ種は固まってテリトリーを作りたがる傾向があるので、その意味で、狭義には、ある特定の民族というものが存在しうる。
今の日本の知識階層の認識では、戦争は「悪」だという認識であるが、この考え方は人間の誕生以来の生き方を正面から否定し、知識に溺れ切った偏狭な心の持ち主の大きな驕り、傲慢さだと思う。
人の歴史は、古来から人を殺し合うことによって、人の死の上に蓄積されてきたもの、と私は考える。
野生動物の中の肉食動物は、獲物を狩って自己の生命の維持に繋げているが、自分の同種のものを狩るということは決してしない。
ところが人間は、同種の人間を食うことはしないが、自分のテリトリーの維持の為には、人同士、殺し合いを何度も懲りることなく行っているわけで、そこには殺し合いは種の絶滅につながり、肉親が悲惨な思いをするから自粛しよう、という思考は一切存在していない。
つまり、殺し合うことは、今の言葉で言えば戦争は、自らが生き延びんがためには必要不可欠の行為であったわけだ。
それは人と人が殺し合う行為なので、目の前で展開すれば悲惨な事は言うまでもないが、古典的な戦争は人里離れた荒野で行われたので、非戦闘員にはその真実は伝わらなかった。
地球上の人類が現代にまで生き延びると、戦争も非常に合理化が進んできたわけで、人を殺すのに費用対効果でかなりの効率が上がってしまったことになる。
こうなると、その犠牲者に同情が寄せられるよいうになってきた。
昔の戦争は人里離れた荒野で行われたので非戦闘員が巻き込まれることはなかったが、現代の戦争は、いきなり非戦闘員の上に爆弾が落ちてくるようになり、その犠牲者が可哀そうだという感情は免れなくなってきた。
それと同時に、人間の生きる条件が進化して来ると、人は様ざまなことを考えるようになり、当然その中には「人は何故争うのか」というテーマも入るわけで、そのことに対する懐疑の気持ちも芽生えてきた。
それが後の平和主義につながって、だから「戦争反対」というシュプレヒコールになるのであるが、こういう声を上げる人は、いわば戦争の部外者なわけで、部外者なるが故に、何処にも責任が無いので、自分の善意、あるいは平和愛好というポーズ、あるいは偽善で善人ぶっているのである。
政府というのは、自分が統治している国民に対して責任を負っているが、その統治している国民が、世界から「もっと国際平和に貢献してくれ」と言われている時に、一部の日本人の観念論に振り回されて、世界の要求に応えれないでは、大部分の国民の負託に応えていないことになり、それでは日本にとっても世界にとっても良いことではない。
ここで、前にも言ったように、一つの事象に対して視点の位置が違えば、その評価は視点の違いの数だけあることになり、それを一つに集約するには論理的な議論の積み重ねが必要だと思う。
しかし、片一方が感得論に陥っているとすると、論理的に議論を積み上げるという作業が成りたたなくなる。
日本国憲法が押し付けかどうかという議論でも、「日本の国会議員が採決したのだから、我々の自主憲法だ」という言い方まで成り立つわけで、論議の下のところの見方から認識の相異があるので、議論が何処まで行っても平行線のままで、結論が見出せないままに終わる。
私の個人的な見方では、「日本国憲法というのはアメリカ占領軍からの押しつけ憲法だから一刻も早く改正して、主権国家の象徴としての国軍を作るべきだ」、というものである。
主権国家が自主的な憲法を持つ事と、その憲法で軍隊を持つとすぐに戦争をするということは全く次元の異なる話であって、それを混同する思考はあまりにも子供じみた認識だ。
「自衛隊を軍隊に改編すると、日本人はすぐ戦争をおっぱじめる」という認識はあまりにも同胞を知らなさすぎる極論だと思う。
それは、日本が平和憲法を堅持している限り、日本に攻め込んでくる国はあり得ない、という暴論と同じ程度の無意味な話である。
自分の国を守るということは、何も海岸線に上陸用舟艇で攻めのぼって来る敵前上陸のみではないわけで、北朝鮮による日本人拉致なども立派な主権侵害であるし、今回の尖閣諸島における海保の船と漁船の衝突なども、立派な主権侵害なわけで、そういうことを頭から無視する態度というのはあまりにも無知に等しい事だと思う。
今の日本に対して、かつての日本海軍の真珠湾攻撃や、イラクのクエート進攻のような戦争を仕掛けてくるようなところはないであろうが、国を守るということは、そういうケースのみではない筈で、9・11事件のようなテロに対してはどうするのか、ということも為政者としては常に考えておかねばならないことだと思う。
為政者としては、「備えあれば憂いなし」という施策を取ろうとすると、「非戦の国」が好戦化したと言って叩かれ、ならば何もせずにおけば「国は何をしているのだ、国民の生命と財産を守るのは当然ではないか」と言われるわけで、どっちに転んでも何か言われるのである。
為政者が国民から文句を言われてる間は、それは人の集団としての社会は極めてノーマルな状況であって、こういう批判が出来ること自体、民主的な政治の中に身を置いているという健全な状態である。
とはいうものの、「日本が平和憲法を堅持している限り、日本に攻め入るものはいない」という発想は一体どこから来るのであろう。
北朝鮮の日本人拉致や、尖閣諸島の現実をどう見ているのであろう。
確かにこれらの事件は、真珠湾攻撃やイラクの進攻とはスケールが違うが、主権の侵害という意味では、何ら変わるところがないにもかかわらず、こういう主権侵害も冷静に話し合えば回避可能だという認識に立っている。
こういう人の発想の中には、自分は日本という祖国の中の一員という認識は全く無いわけで、何処の馬の骨ともわからない、有象無象の人の集まりの中の、無国籍人の一人という発想でしかない。
自分の祖国という概念がないので、自分の同胞の為に、ミニマムこういうことをしてはいけない、或いはしなければならない、又は守らねばならない、侵されてはならない、というものが最初から欠落している。
だから、北朝鮮が日本の領域から日本人を浚って行っても、それは日本の過去の行いが悪いからするのであって、北朝鮮は悪い国ではない、という論理になるのである。
朝鮮半島の南北の分離は、日本支配の後遺症なのだから、日本は真摯に反省しなければならない、という論旨に至っては全く開いた口がふさがらない。
こういうトンチンカンな論理を展開する人間が、さも尤もらしくこういう本を世に送り出すと、人々は大いに迷ってしまうに違いない。
日本とアメリカさえやり玉に挙げておれば、飯が食えるというのも実に妙な話で、それは自らが井戸の中の蛙に等しく、平和主義という呪縛から自らの精神が解き放たれていない証拠だと思う。
自分の思い込みだけに寄りかかり、その思い込みから脱しきれないので、陳腐な思考の下降気流にのみ込まれて、負のスパイラルに嵌り込んだということであろう。
こういう類の人は、日本やアメリカの政策、軍事的行動の批判ばかりをしているが、私に言わしめれば、日本もアメリカも、アフガンや、イラクの復興などに手を貸す必要はさらさらないと思う。
イランだろうが、イラクであろうが、アフガニスタンであろうが、日本もアメリカも一切手を貸す必要はないと思う。
彼らの成すままにしておくのが一番良いと思う。
ただ困るのは、彼らも自分たちの国を離れて、日本やアメリカには何も咎められずに入国しておいて、中でテロをしでかすから困るのである。
日本の平和主義の人たちは、本来、自分の同胞に平和を説くのではなく、こういう人たちに対してこそ真に平和を説くべきであって、平和主義の向けるべき矛先が違っているように思う。
オサマビンラディン、あるいはアルカイダの首脳、タリバンの首脳に平和を説き、武装闘争の無意味さを説き、自爆テロのナンセンスさを説くべきである。
彼らさえそういうテロをしなければ、アメリカも空からのピンポイント攻撃もなければ、査察で生物兵器や化学兵、あるいは核兵器があるかないかという議論もありえない。
こういう第3者の説得に応じないというのは、アメリカ政府のみならず、テロリストの側、あるいは「悪の枢軸」側にも同じように不寛容があるわけで、その一方のみ糾弾するというのはアンフェア―だと私は思う。
アメリカ政府とテロ集団という対比で眺めると、何となくテロ集団の方に同情心が傾きやすいが、今日の法の支配する社会では、法を順守する側が正義であるはずだが、ここでも人は「正義・不正義」という価値感で動いているわけではない。
アメリカという地上最強の国家と、極めて貧弱な武器しかもっていないテロ集団を比べて、アメリカは巨大なるが故にテロを甘受しなければならない、という論理はあり得ない。

「日本共産党」

2010-09-23 08:18:48 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「日本共産党」という本を読んだ。
著者は筆坂秀世という人物で、かっては日本共産党のNo4とまで言われた人らしいが、どうもセクハラで離党させられたらしい。
本人が本の中で述べていることだ。
当人は、以前、テレビの画面でもしばしば顔を拝見したものであるが、離党してから共産党の悪口を言うというのは、内部告発ともいささか趣が異なっているのであろう。
内部告発ならば、相当な勇気が必要だが、離党後の悪口ならば、犬が後ろ足で泥を引っ掛けるようなもので、人の世にはよくある話しである。
日本共産党といえば、戦前は治安維持法でかなり締めつけられて、党員が非常に苦労したことは察して余りあるが、だからと言って彼らに正当性、あるいは整合性があるかといえば、この点においては甚だ疑問である。
如何なる共産主義者も、共産主義に傾倒している限り、マルクス・エンゲルスの思考に準拠にしているわけで、彼らの「共産党宣言」が思考の根源に横たわっていると見做さなければならない。
つまり、分かりやすく単純化して一言でいえば、「世の中の不公平を正すためには、金持ちを殺して、富を貧乏人に分配しなければならない、その為の暴力の行使は必要不可欠で、政治の変革は銃口から」という論理である。
共産主義、あるいは共産党を見るとき注意しなければならない部分に、この暴力の肯定というものがあるわけで、暴力を肯定する政党が、果たして政府公認の公党たりえるかという点に尽きる。
旧ソビエット連邦でも、中華人民共和国でも、それぞれの共産主義政党、いわゆる共産党が、既存の政府の枠を乗り越えて、従来の規範を超越し国家を乗っ取ってしまった構図で、政府が党の下部組織に成り下がってしまった。
こういうところでは、従来の我々の価値観でいうところの政府という概念は消滅してしまったわけで、あるのは党のみという状態である。
日本は、ある意味で国民が冷静であったが故に、戦後の混乱期においても、日本共産党の宣伝に唯々諾々と乗ることもなく、冷静な判断を下してきたと思う。
そこにはアメリカ占領軍の潜在能力としての反共という伏流水が脈々と流れていたことは言うまでもないが、共産党側の戦略も実に未熟だったと思う。
あの戦時中の治安維持法に耐えてきた歴戦の古参党員も、所詮は人の子であって、官憲の圧力という外圧に対しては、非常に意志堅固であったが、自分の心との対話という内面の精神の葛藤には極めて弱かったわけで、その意味では彼らもやはり人の子ということが言える。
彼らも、権力闘争には非常に心が揺らぎ、疑心暗鬼にかられ、邪推憶測に惑わされ、裏切り、報復、仕返し、策略、という極めて人間的な作為に翻弄されたのである。
その中でも、宮本顕冶の「スパイ査問事件」というのは解決しているのかどうか、この本には全く記述が無いし、伊藤律に関しても一言も言及していないというのは一体どういうことなのであろう。
宮本顕冶が過去に人を殺したのかどうか、その精査は警察の担当であろうが、日本共産党の幹部が素直に警察の取り締まりに応じるかどうかは甚だ疑問で、その結論が一体どうなったのか、という回答は在ったのか無かったのかどうなのであろう。
戦前の治安維持法でさえ屈服することのなかった人間が、戦後の軟な民主的な警察の取り締まりに屈するということはあり得ないと思う。
伊藤律の問題に関しても、これは戦後の共産党内の問題であるわけで、自分たちの同士が、中国国内で過酷な試練を負わされているのに、同じ共産党員という連携の下で、何もしていないというのも甚だ不可解なことだと思う。
その延長線上に北朝鮮による拉致被害者問題もよこたわっているわけで、彼らの認識は、自分の外に向けては甚だ不備であり、不正確であり、情報の召集にあたっては非常に怠慢であり、不熱心であると思う。
国内の国会審議における質問主意書の内容は、極めて詳細な情報が盛られているが、これが国外の事となると、まるでツンボさじきに等しいわけで、これは如何に情報収集能力に欠けるかということである。
中国共産党も日本共産党も、初期の頃は旧ソビエットの国際共産主義、つまりコミンテルンの指示を金科玉条のように崇めていたわけで、そこにあるのは、紅毛碧眼のヨーロッパ人に対するコンプレックス以外の何ものでもなかったと言える。
ただただ、ヨーロッパ人の言うことさえ忠実に守っていれば、自分たちの覇権、つまり権力構造は維持改善されると思い込んでいたわけである。
ところがマルクス・エンゲルスの唱える共産主義思想というのは、既に封建主義を脱し、資本主義もかなりの程度進行した社会でなければ、共産主義が普遍化する条件が揃わなかったということである。
だからソ連の真似をそのまま行っても、それは失敗に終わるわけで、中国は、それを体験してはじめて悟ったわけであるが、問題は彼ら自身、西洋のマルクス・エンゲルスの思考を超える発想が、自分たちで出来なかったということである。
こういう傾向は、日本の共産党員にもそのまま引き継がれているわけで、彼らも旧ソ連や、中華人民共和国を手本とし、心の奥底では畏敬の念を持っているが、彼らの生活の場である日本では、そういうことが許されない状況で、彼らも自らの方針を変えざるを得なかった。
それが、暴力革命の廃棄であって、民主政治下において、民主的な手法で政権を獲得する、という極めて理性的な思考に転換したわけである。
これはこれで良しとしなければならない。
だとすれば、この時点で共産党という党名を変えてしかるべきだと思う。
共産党が共産党である限りにおいて、暴力革命を内在、あるいは容認しているからこそ共産党なわけで、それだからこそ世界の多くの国で排斥されてきたのであって、普通の常識で考えても、暴力を肯定する政治団体を、普通の主権国家が容認し得ないのは当然ではないか。
「革命の為には人を殺しても構わない」という主張を持ったグループを容認する主権国家は、常識的にはあり得ないのが当然で、だからこそ何処でも規制され、共産党は世界各地で顰蹙を買っている。
普通に理性と知性を備えた人間が、暴力を肯定できるわけがないではないか。
で、日本共産党も戦後、その暴力肯定の部分を改めたわけであるが、ならば党名も変えてしかるべきだと思う。
共産党と名乗る限り、暴力肯定の思考はついて回るわけで、今の日本共産党は、昔の名前で出ている限り、非常に不利な立場に立たされていると思う。
この本の中には、党員の苦労が縷々述べられているが、確かに末端の党員の苦労は察して余りある。
そういう苦労を承知の上で、なお党に殉じている姿というのは、主義主張を超えて立派で、健気な事だと思うが、組織のトップは下々のことにまで思いが至っていないというのも、あらゆる組織に共通した事ではある。
日本共産党も、組織という面から眺めれば、自民党や民主党と何ら変わるものではない。
もっと言えば、トップ交代の機会が少ないだけ、党内が硬直しているようには思う。
組織のトップというのは、ある程度は交替したほうが、新鮮な空気が行き来するわけで、一人があまり永いこと同じポストに居座れば、組織内の空気がよどんでしまうのも無理からぬ話である。
人間の業は、権力を握ると、それを必然的に振り回すようになってしまうという点にある。
組織のトップになれば、自分の思いを、自分の思う通りに反映させたいという意識がふつふつと湧いてくるのは当然だと思う。
それを自分の思う通りに推し進めようとする時は、それこそトップとしての権力で以て推し進めることになるが、ここで人の意見に耳を傾ける勇気というか、器量の広さというか、冷静で沈着な判断力が試されるわけで、ただただ自分の権力に溺れてしまえば、それは失政へとつながる。
組織のトップと言っても、たった一人で立っているわけではなく、周りには当然のこと、取り巻き連中がいるわけで、こういう取り巻き連中を通して全体を統治しているのである。
問題は、こういう取り巻き連中が、個人崇拝で組織のトップを仰ぎ見、保身と権勢欲に駆られているのか、それとも組織全体の利益という視点に立って、トップの意向を汲み取っているのかどうか、を見定めることだと思う。
マルクス、エンゲルスの唱えた共産主義革命という理念は、当時の知識人にとっては甚だ斬新で興味を引く思考であったに違いない。
自分の身の周りを眺めてみれば、成り金で不労所得を得て札びらを切っている者もいれば、食うや食わずの貧民まで巷にはうようよいるわけで、「この富の格差は何とかしなければならない」と考える若者は大勢いいたに違いない。
そういう若者は、まことに純真で、健気で、律儀な存在であるが、こういう若者も、自分の祖国が国難に直面していると感じると、その素直さゆえ、その純真さゆえ、その律儀さゆえ、軍国主義に陥ってしまって、何とか自分の祖国を救済しなければという思いに駆られるのである。
こういう若者の、精神的なバランスに均衡を保つべくアドバイスすべき立場が、基本的には学識経験者という人生の先達でなければならないと思う。
ところが、日本では、こういう階層が全て共産主義に洗脳されてしまっていて、「左翼でなければ人であらず」という雰囲気に犯されてしまっている。
日本共産党は日米安保廃棄、非武装中立ということを言っているが、こういう認識は一体何処から出て来るのであろう。
こういうことを、まともな日本の大人が真面目な顔して言うことの陳腐さが解っていないということで、これこそ時代錯誤の見本のようなことであるが、そういうことをしている日本共産党に、未来はないことは言うまでもない。
これでは、鰯の頭も熱心に拝めばご利益がある、と説いているようなもので全くナンセンスそのものである。
組織の下で苦労している下部党員は、さっさと見切りをつければ良さそうに思うが、やはりこれも鰯の頭を信じているということなのであろう。

「そうだったのか!中国」

2010-09-20 22:52:17 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「そうだったのか!中国」という本を読んだ。
著者は池上彰氏。彼は民放テレビにもよく出演しており、解りやすい時事解説をしている。
この本も実に解りやすく書かれていて、非常にニュートラルな視点で貫かれている。
まるで中学校や高校の社会科の教科書を読むように解りやすく説かれている。
しかし、私は過去に「ワイルド・スワン」や「マオ」、あるいは「中国の赤い星」を読んでいるので、こういうオールド世代にはいささか物足りない面も無きにしも非ずである。
アジア大陸の中国の領域においては、人間のしていることは昔も今も何なら変わるものではない、ということなのであろう。
人間が人間を統治する限りにおいて、昔の人も今の人も、することは同じということに他ならない。
人が人の上に立って君臨するということは、如何なる方式であろうとも、万人を納得せしめることは不可能なわけで、人の織り成す社会が、人の欲望で支配されている限り、それは一向に進化するものではない。
ただその間に、テクノロジ-は刻一刻と進化するわけで、このテクノロジーの進化と、人間の理性、知性との隔離は、その時代の状況に大きく支配される。
清王朝の時の西太后の立ち居振る舞いも、中華民国の袁世凱の立ち居振る舞いも、新生中国の毛沢東の立ち居振る舞いも、人の有り体としての立ち居振る舞いとしては皆同じなわけで、そこにある一本の筋は、権力というもので、それは皇帝から下々の人々にまで、貫き通っている一本の価値基準でしかない。
統治するものは、その権力を如何に維持し続けるかに、持てる全ての力と英知を結集するわけで、傍から見れば、権力維持の為には、下々の人のことなど何ら考慮の外におかれているわけで、統治者の眼中には入っていないということである。
それに引き換え、上からの抑圧の少ない民主化された地域では、人々は自分の行いの中で如何にすれば楽が出来るかを考えるわけで、これがテクノロジーの発達につながることになる。
ところが、毛沢東はそれを許さなかった。
日本が戦争で敗北して4年も立った後で新生中国が出来た時、私のいた高校の校長は、中国に招かれて『中国にはハエもいない』と我々の前で述べた。
この校長は、戦中に治安維持法に引っかっかってムショがえりだったことを自慢していたが、この校長のように、あの時代、中国の言うことを真に受けた日本の知識人は大勢いた。
それと同時に、この時代の中国の状況というのは、我々には一切知られていなかった。
「大躍進」も我々は字義通りそれを真に受けていたし、「文化大革命」の実態も見えてこなかった。
この頃の日本も、戦後の復興の真っ盛りの頃で、普通の日本人が中国の実情を知る機会も少なかったと思う。
竹のカーテンという言葉はあったが、そのカーテンの向こう側で何が起きていたのか、ということはよく解らなかった。
だからこそ「中国にはハエもいない」という話がもっともらしく語り継がれていたのであろう。
我々にとって中国というのは何と言っても一衣帯水の隣国なわけで、まして日本の文化は皆中国から渡ってきたということは、日本人ならば誰でもが知っているわけで、我々の潜在意識としての中国とは、基本的に好意的なものである筈である。
戦前・戦中を通じて、我々の同胞の一部が、彼の地で不合理な振る舞いをしたことは真摯に受け止め、その点に関しては謝罪するにやぶさかではないが、なれば先方も礼をもって対応してこそ国際関係というものではないかと思う。
あの時代の我が同胞は確かに中国人に対して大いに驕り高ぶっていたことは事実であり、そういう人たちが日本人の同胞の中の一部に過ぎなかったということも事実であるが、日本の国家として、あるいは民族の総意として、そういう不合理な行為に走ったわけではない。
そして、そういう問題は戦後の両国関係の中で、要するに日中会談において毛沢東や周恩来との話し合いの中で、一つ一つ解決されて日本は中国に対して正式に謝罪し、先方は先方で賠償は放棄したわけであって、これはこれできちんと再確認し合わなければならない。
ただ、外交というのは話し合いの場なわけで、道理の通らない話し合いでは、相互理解ということは成り立たない。
赤を黒と言いくるめ、黒を赤といくるめるような荒唐無稽な議論は成り立たないはずであるが、こういう相手に対しては何とも手の施しようがない。
こういう相手に対してはただ揉手をしながら傍観する他ない。
こういう態度で臨んでくるということは、既に敵対関係を作り上げているに等しいわけで、頭から話し合う気がないということに等しいと思う。
この本は中国の痛いところも歯に衣を着せず的確に指摘しているが、基本的に、中国人には民族の根源的な潜在意識として、中華思想というのは21世紀の今日に至っても抜けていないと思う。
こういう民族の基底を成している感情はそう安易に抜け切れるものではない。
そこに以てきて、意図的に洗脳する、あるいは故意に教えない、という人為的な作為によって、人々の意識をコントロールする傾向があるわけで、こういうことをしなければ人々を統治できないということは、それだけで民主化の度合いが低いということであるが、時の為政者にとってみれば、民主化の度合いそのものよりも、自らが如何に権力を維持するかが最大の問題なわけで、その意味で人間の権力志向というものは時代を超越した存在である。
今回の尖閣諸島における日本の巡視船に対する漁船の衝突事件の対応を一つ取って見ても、如何にも彼らの態度は「盗人猛々しい」という対応ではないか。
これは、彼らの中華思想がその深層に横たわっているれっきとした証拠であって、尖閣諸島が彼らの国土だ、という認識からして間違っているが、その間違いをどうしたら先方に分からせる、理解させることが可能かという点に尽きる。
我々の側で、「尖閣諸島はもともと日本古来の領土だ」という根拠をいくら示したとしても、「そんなものは欺瞞だ」と言われれば、それ以上に彼らを説得する手段はあり得ない。
中曽根康弘や小泉純一郎が靖国神社に参詣することが、軍国主義の復活とは何の関係もないということを、どう彼らに解らせられるのであろう。
今の日本に、軍国主義のかけらもないということをどう説明したら彼らは納得するのであろう。
こういう先方の言い分は、ただ単なる言い訳に過ぎないわけで、中国の要人によって、自分の都合に合わせて何でもないこと反日、排日、侮日の口実にして、民衆の不満のガス抜きにしているにすぎない。
この態度こそ、まさしく中国の悠久の歴史認識としての中華思想であり、華夷秩序であり、覇権主義そのものである。
彼らは有史以来、自分たちの権勢の外へ外への拡張を熱望しているわけで、外へ外へと勢力の膨張を望み、それを民族の至上課題にしているわけで、それだからこそ朝鮮戦争の義勇軍であり、中ソ論争であり、チベットへの侵略であり、ベトナムへの進攻であり、今まさに東シナ海への海洋への触手の伸長であるではないか。
彼らにとっては、人間の命などは何の価値もないわけで、まさしく薄汚い泥の中にいるシャコ程のものでしかないはずである。
あの戦争中は、我々の側でも「人の命は鴻毛よりも軽い」という状況があったが、それと同じことが今でも生きているわけで、人の命に価値がない以上、為政者にとっては、如何なることも容認されることになってしまう。
近代国家というのは、人の命に最大限の価値を置いて統治がおこなわれているので、国家首脳の最大の目的は、国民の生命と財産を守るというところに帰している。
ところが中国では、この価値観が普遍化していないので、中国の首脳にとっては、国民の生命財産よりも、自己の権勢の盛衰こそが至上的な価値観であったわけである。
毛沢東が核戦争をも辞さないという背景には、「国民の半分が死んでも、まだ半分生き残っている限り、反撃は可能だから」という論理だそうで、こうあけすけに言われると、開いた口がふさがらないということになる。
これこそ、毛沢東の赤裸々な本音であったに違いない。
先方がこういう発想でいる限り、国民の生命財産を守ることを本旨としている民主的な国家の首脳とは、同じ土俵の上で話し合うということはあり得ない。
価値観が根本的に違っている者同士が、いくら話し合ったところで、価値観の位相が合う訳ないが、国家の首脳というのは、何も価値観を摺り合わせなければならないことはないわけで、お互いの国益の侵害さえなければそれでいいわけである。
自分の国が不利になるようなことは御免こうむるが、それさえなければ手を組んでも何ら差しさわりがあるわけないので、それが外交の妙というものである。
その時に、声を大にして自己の主張を恥も外聞もなく、論理の整合性も無視して、ただただ独善的にゴリ推しをし、それが罷り通る状況に持ちこめば、外交の勝利ということになる。
先の尖閣諸島での衝突事件でも、日本の側がその一部始終をビデオで撮影しているとするならば、それを世界に向けて公開してしまえば、中国も自分の主張を引っ込めざるを得なくなるが、我々はそういう対応に実に稚拙なわけで、どうしてそういう発想に至らないのであろう。
この問題でも、中国サイドは、自分たちの国民のメールによる不満が高じてきているということを言っているのだから、そういう人たちに向けて日本側の整合性を積極的に指し示さねば、何時まで経っても水かけ論の延長になってしまうではないか。
日本側に有利な資料があれば、そういうものは、どんどん世界に向けて公開してしまえば、先方も態度を改めざるをえなくなるではないか。
ところが中国サイドは、そういう全ての情報を国家が管理しているので、人々に何を知らせ何を知らせないかを逐一管理している。
よって、国民の側は国家に良いように踊らされていおる。
今回の場合は、「メールでの国民の支援があったから日本に対して抗議せざるを得ない」という論調であるが、ならば天安門事件の時には何万人という学生の声を聞く耳があったかといえば、この時は武力で抑え込んだではないか。
ことほど左様に、中国の為政者というのは、政治の状況を自分の都合に合わせて如何様にも出し惜しみするということである。
一党独裁体制の国が崩壊に向かう契機は、いわゆる情報公開だろうと思う。
東欧の民主化も、その遠因は情報の公開にあったわけで、国家が国民に対して何をしようとしているか、という情報が漏れたことによって、国民の意識が覚醒されてしまい、それが民主化運動を加速させたことによる。
中国の為政者にとっても、自分たちが何をしようとしているのか、ということが国民に漏れる事は、人々の反感を買う最大の根拠でもあるわけで、為政者の側としては、そういうことは国民に知られたくない問題である。
よって、情報を事細かく管理するわけで、中国のメデイアが国家管理されている限り、中国の民衆は真実を知ることができない。
国家の当事者が、自分の国の国益に最大限の注意を払うことは当然であるが、為政者の立場からすれば、国内から反政府運動が起きる事も、あるいは政府に対する批判も、国益に直結しているわけで、そういうことはあってはならないことになっている。
政治ということは、所詮、人が人を統治することであって、そうである限り、それは次から次へと世代交代するのが自然のままのあるべき姿であって、権力というのは次から次へと委譲してしかるべき存在である。
ところが人が人を統治するシステムというのは、ピラミット型の強固な組織を構築しているわけで、権力の移譲というのは、その頂点の部分でしか行われていないところが古典的な政治形態ということになる。
民主化された政治形態では、権力の移譲は、その強固な組織の中の上下の関係の中で、大きく下剋上的な動きがあって、権力の行使を委ねられる人は、ピラミットの底辺の人たちから委任された形で、権力の移譲が成り立っている。
過去の共産主義国家というのは、この権力の移譲が組織の一番トップの部分でしか行われていないが、民主化した国家では、ピラミットの底辺、あるいは中間層から民意のよって選出された人に、権力が移行する。
この権力の移譲が、ピラミットの頂点のみでくるくる回転しているのか、それとも底辺あるいは中間層から新たな人が民意を背景に選出されるのかが、民主化の度合いの大きな別れ道である。
中国の歴史というのは、21世紀の今日に至っても、国民、あるいは民意という概念は生まれていないのではないかと思う。
統治するものとされるものの区分けは、彼の地の悠久の歴史とともに存在するが、統治される側が国民、あるいは市民という概念で捉えられたことは未だかって一度もないと思う。
民はあっても、それはでしかないわけで、毛沢東の共産主義革命でも、彼の地に住む人々を中国の国民、あるいは市民という概念で捉えている節は一切見当たらないわけで、彼らのイメージの中では、封建主義の時代におけるという感じでしかないと思う。
ならば都市と農村で何故に戸籍が違うのだ。
文化大革命の時、都会の文化人を下放という意味で農村に送り込んだ。
これは農村というものが、都会人からすれば牢獄に等しいという認識の下、都会のインテリーを懲罰する意味で、農村に送り込んだということで、ならば農村で都会人の食糧を生産している人達は、生涯、牢獄の中で生き、死んでいけということになるではないか。
こんなバカな話があってたまるかと言いたい。
毛沢東の共産主義革命というのは、基本的に農民を味方に引き入れて、富裕な大地主を殺して、その土地を水飲み百姓に分け与えることによって、富の公平化をうたいつつ、農民の力を利用して勢力を伸ばしたが、政権を取ったら今度は計画経済を推し進めるという理由で、その農民から再び土地を取り上げて、人民公社を作って、土地そのものを国家管理にしてしまった。
こういう人間の営みも、その地に住む人々が正直な人々ならば、どんな体制であろうとも社会はうまく回るであろうが、この地に住む人々には長年の生活の知恵として、統治するものとされるものの間に、賄賂、収賄、袖の下、汚職、公金横領という犯罪が必然的に存在するわけで、これが生活の知恵と化している。
こうなると如何なる社会システムも正常には機能しないわけで、社会の矛盾は級数的に拡大する。
すると当局側としては、どうしてもそういう分子を抑え込まなければならなくなるが、この地では人の命などまともに評価されていないわけで、何処かに消し去られてしまうということになる。
ただ地球規模で中国という国を眺めてみると、アジア大陸で占める国土の広さからも、人口の多さから見ても無視できない存在なわけで、そういう国が世界共通の認識を持っていないので、まことに困りきっているのが現状だと思う。
この地球は、中国人のアメ―バーのような自己増殖によって死滅しかねないようの思う。
中国人の存在というのは、既に、アジアの中国大陸だけのことではなく、地球規模に広がっているわけで、世界各国何処に行っても中国人の姿は見れる。
その中国人が、人類の未来に貢献する方向に生き方を指し示せばまだ救いはあるが、彼らは既存の社会システムの恩典を貪る方向にしか機能しないわけで、先人の功績をただただ浪費する存在でしかないところが最大の問題点である。

「将軍様の鉄道」

2010-09-17 07:23:57 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「将軍様の鉄道」という本を読んだ。
サブタイトルには「北朝鮮鉄道事情」となっている。
内容的には標題そのもので、鉄道マニアの目を通した、北朝鮮の鉄道の今の状況が縷々述べられているが、如何せん、何でもかんでも秘密にする国なので、筆者自身あまりその内情を深くは探れなかったようだ。
そもそも北朝鮮という国そのものが我々にはよくわからない国である。
言うまでもなく、アジアの東方の政治の状況というのは、不可解な部分が多くて、あの清王朝もこの北朝鮮のほんの少し北の地から出ているわけで、私が勝手に想像するに、この地にはあちらこちらにそれぞれの民族がそれぞれに群雄割拠していたのが実情ではなかったかと思う。
朝鮮半島は李という朝鮮民族が李王朝という安定政権を継続させていたわけで、清王朝は満州の地から出て漢民族を支配した種族であったように、今の北朝鮮も、金という種族の軍閥ではないかとさえ思えてくる。
旧満州に張作霖という軍閥がいたように、また段祺瑞とか袁世凱という軍閥が清王朝から中華民国という過渡期に軍閥として跋扈したように、金日成から金正日というのは、こういう軍閥と同じ社会的集団と見做すべきなのではなかろうか。
様々な情報から勘案して、どこからどう見ても近代国家の体を成していない。
夜盗や山賊が近代的な兵器を携えている構図でしかないわけで、その兵器もまともに正面から対峙すれ、明らかに劣勢であるにもかかわらず、口先だけは強がりを言っているという構図でしかない。
この国が昔の軍閥と同じレベルの社会的集団であるからこそ、統治が世襲されるわけで、社会主義体制というのは、統治する側の都合によってそういう体制が取られているだけのことで、そこには民意というものは最初から存在していない。
日本が敗戦によって、朝鮮半島における統治能力を喪失した時、朝鮮半島のこの部分は旧ソビエット連邦によって統治され、支配されたが、その時にこの辺りで対日戦のパルチザンとして、活躍していた金正日がたまたま共産主義に傾倒していたので、旧ソ連は彼を統治のシンボルとして据えたのである。
いわば彼は旧ソビエット連邦の利益獲得の為の代理者として、押し上げられ、祭り上げられたわけだが、彼は忠実に旧ソビエットの利益代表の役割を果たしたわけである。
旧ソビエット連邦から北朝鮮の統治の手法というのは、きしくもソルジェンツインが書いた『収容所列島』そのものであって、ある種の恐怖政治であった。
北朝鮮の政治の基底になっている思考は、表向きは労働党という見方がなされているが、実質は共産主義なわけで、共産主義の潜在意識には当然のこと、覇権主義が潜んでいるので、必然的に他国への侵略ということが整合性を持つことになり、武力衝突に至るのである。
今年は日韓併合100年ということで、韓国では日本を糾弾する行事が盛んに行われているらしいが、この今の朝鮮半島の現状を見るにつけ、日韓併合も必然の流れであったように思われる。
日本が朝鮮半島の統治権を喪失して既に65年も経過しているにもかかわらず、未だに彼らは自分の祖国、統一国家を作りえていないではないか。
日本は明治維新の際、朝鮮の李王朝に対して仁義を切っているが、その仁義を受けようともせず、王朝の支配能力が危うくなると、清にすがったり、ロシアにすがったり、日本にすがったりと、右往左往するのみで、自分の信念というものが全く見られなかったではないか。
だから、日本の頸木を出して65年経っても、未だに統一出来ないでいるのである。
そしてその言い草が、これ又極めて朝鮮的で「日本の統治があったから」というわけで、自分の欠陥、つまり自らの民族の瑕疵までも他者の所為に転化する発想というのは、彼ら独特のものの考え方なのであろう。
で、この本の内容としては、北朝鮮の鉄道というのは、いよいよ衰退の道を転がり落ちている現状は救いようがないという点に尽きる。
これは日本の鉄道フアンの見た鉄道のみの衰退ではなく、北朝鮮のあらゆるものが、衰退の道をたどっているように見受けられる。
片一方の韓国は、いよいよ日本を凌ぐところまで発展してきているのに、その一方でますます坂を転がり落ちる状況は、どう考えたらいいのであろう。
ミサイルを撃ったり、核実験をするしないと言ったり、世界に向けて自国の存在感を示していることはよくわかるが、今そんなことをしている場合ではないと思う。
北朝鮮にも個人的と言うか、個人レベルでは優秀な人も大勢いると思うが、それが組織となるとあまりにも陳腐な行いに収斂されるということは一体どういうことなのであろう。
組織の腐敗ということは、人間の作る組織である以上免れない部分があって、それが人類の歴史そのものであるが、我々と海を隔てた対岸で、それを傍観するというのもなんとも言いようのない哀れさを感じずにはおれない。
彼らと同じ民族の韓国でも、我々と同じ気持ちでいるが故に、金大中氏は太陽政策でその窮状をいくらかでも救おうとしたが、先方がこちらの意を汲もうとせず、自らの殻に閉じこもろうとする限り救いようがない。
彼の国は、傍観者の目で見る限り、金日成、金正日という一族の安泰のみが至上命令のように見えているが、国民の存在というのはの存在でしかない。
まさしく、山賊、夜盗、盗賊、軍閥という暴力集団の跡目相続の感を呈しているわけで、近代国家の体を成していないが、それを他者と同じレベルにプッシュ・アップしようとすると、内政干渉という文言で封殺されてしまう。
善意で以て支援しようとすれば、それは金一族の富の収奪なってしまうわけで、国民の全般には行き渡らない。
今から65年前までは日本人が朝鮮半島の南から北まで縦貫鉄道をきちんと運営していたではないか。
彼の地全般が日本人の手を離れ、朝鮮の人たちの自主運営になったとたんに、民族そのものが分断してしまい、南はともかく北はその社会的インフラがなくなってしまうということは一体どういうことなのであろう。

「イラク自衛隊の真実」

2010-09-16 07:50:35 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「イラク自衛隊の真実」という本を読んだ。
サブタイトルというか見出しの前に「誰も書かなかった」というフレーズがあり、サブタイトルには「人道復興支援2年半の軌跡」となっている。
サダム・フセイン大統領のいないイラクで、2年半も人道支援と称する海外派遣に従事した自衛隊員各位には、心から敬意を表するものである。
私の個人的な印象としては、イラクなどに人道支援することは最初からその必要はないと思っている。
あの地のことは、あの地の人々の任せておけばいいと思っている。
飲料水が無かろうが、学校が無かろうが、病院が不足していようが、あの地のことはあの地の人々に任せておけばいいと思う。
今の時代に生を享けている人々、21世紀の今日、この地球上に生きている人々の大部分は、「この世に生を受けた人間は皆平等で、等しく生を共有すべき存在だ」と思い込んでいると思う。
こういう認識が地球的規模で普遍的な思考だと思い込んでいるが、こういう前提が成り立つとするならば、この地球上の人々は、すべからく自分の宗教を一旦は否定して、宗教的に無の境地から出発しなければならないと思う。
この地球上において、如何なる人々も、その人の行動の基盤には宗教が大きく関与しているわけで、こちらに住む人々が働かないということも、その宗教が起因しているわけで、こんなバカな話が21世紀の今日あっていいわけないではないか。
イラク、イランといえば、人類の歴史上4大文明の中の一つの発祥の地であるにもかかわらず、その後この地を制覇した宗教によって、その文明も衰退してしまったわけで、彼らはその事実を真摯に受け止めなければならない。
人が、人類が、この地球上に住み続けるという事柄の中には、当然、栄華盛衰ということが何度となく繰り返されてきたと想像される。
その栄華盛衰には、多分、核となる中心人物、あるいは組織の頂点としての人物の存在があったに違いない。
人間の集合体としての都市の衰退は、その組織のトップの存在が大きく左右したに違いないと思う。
周囲の環境が人間の生存に叶わなくなったとき、今までの都市を捨てて新天地を求めて放浪の旅に出るか、それともそこに留まって周りの環境の方を変えるか、という選択は組織のトップに委ねられた大きな決断だと思う。
人類は何千年、何万年という時系列の中で、それを繰り返してきたに違いないが、ここでも宗教が人間の決断を大きく左右する場面が相当にあったに違いない。
そもそも人類の起源ということから考えれば、地球上の如何なる地域の住民も、同じ時間を共有していた筈で、同じ時間内にアメリカやヨーロッパ、はたまたイラクやイラン、中国の奥地の人々、ポリネシアの海の民などという文明の格差が生じたわけで、この格差の遠因は、それぞれの地域に住む人々のものの考え方の相異にその根源があると思う。
この21世紀において、空からピンポイントで攻撃できる人々と、未だに羊や牛を追い回し、土の家に住み、一日に5回もお祈りを捧げて生きている人々の相異は、それぞれの人々の自らの選択にあるわけで、その格差を是認したまま「富める国は貧しい国に恵みを施すのが当然」と考えている人々が、同じ地球に存在すること自体、私に言わしめればおかしいことである。
ならば人として、自助努力を何と説明するのだ、という理屈に至るではないか。
そもそも、この世に生を受けた人々は何時かは死ぬわけで、その死に方が如何様なあり様であろうとも、それは個人の責任だと思う。
だからこそ、このイラクでは自爆テロなどというのが横行しているわけで、自爆テロに身を捧げて、それが聖戦などと崇め奉る思考そのものが、実に卑屈な論理であって、人としてあるまじき姿だと思う。
問題は、こういう状況を先進国、具体的にはヨーロパの人々や、日本の知識階層の人々が、自己責任、自助努力を放棄した人々を救済しなければならない、という偽善にある。
イランやイラクで、宗教上の屁理屈で自爆テロをするような人を、救済しなければならないという論理そのものが大いなる傲慢である。
昔は、野蛮人という言葉があったが、今はそういう言葉がメデイアの上では出てくることが無くなったが、基本的に先進国の認識からすれば、イランやイラクの人々は実質的には野蛮人そのものだと思う。
ところが文明の利器というのは、そういう野蛮人でも使いこなすことが容易なわけで、ある意味で、どんな人でも使いこなせることこそが文明の利器でもあるわけで、その意味では文明の格差というのは見えにくくなっている。
前にも言ったよいうに、この地球上に住む人々は、皆同じ時間を共有しているわけで、にもかかわらず、日本の自衛隊がイラクで人道支援をして、飲料水を供給し、学校を建設しているのに、現地の人々は何故それと同じことが自分たちで出来ないのか、という点を考えるべきだと思う。
サダム・フセインの恐怖政治が払拭されたならば、その後は、何故彼ら自身の力でそれが出来ないのか、と問い直すべきである。
「富める者が貧しいものに分け与えるのが当然だ」などという論理がある限り、彼らは自分で自分たちの環境を良くするという発想には至らないわけで、こんなバカな話もないと思う。
日本の自衛隊のイラクにおける復興支援は、素晴らしい成果を立派に成し遂げたと思うが、日本の国民はその実態とその実績をあまり高く評価しているようには見えない。
そもそも自衛隊が海外に出ること自体を、快く思っていないわけで、この我々の同胞の信条は、如何なる根拠で、そういうものの考え方に至るのであろう。
まあ普通の常識で考えて想像できることは、旧日本軍の我々の先輩諸氏の振るまいがあまりにも不合理、不条理、不道徳であったので、それがトラウマとなって意識の底に澱となって沈降している所為だと言える。
だから、我々の同胞の軍隊が海外に出ると、又同じことをするに違いない、よって自衛隊が海外に出ることは罷りならぬ、という論理だろうと思うが、もしこれが我々の同胞の知識階層の深層心理だとすると、彼らは今の自分の同胞をあまりにも知らな過ぎると思う。
それは自衛隊ィコール旧日本軍の延長という図式の認識でいるということになる。
こういう認識の間違いは戦前にもあったわけで、「鬼畜米英」というスローガンそのものが、間違った認識の上に成り立っていたということに尽きる。
戦前の我々の先輩諸氏は、「アメリカ人は自分の名前もろくに書けず、男と女が人前でもジャレあっているような奴らは、大和魂の一撃で難なく殲滅できる」と認識していたが、その認識は完全に我々の側の見誤りであったではないか。
戦争が終わってみれば、我々はその鬼畜米英に完膚無きまでに打ちのめされて、祖国は恢塵と化してしまったではないか。
つまり、戦前の我々は、アメリカ人など取るに足らない存在だ、と認識していたが、実質は完全に違っていたわけで、こういう間違いと同じ間違いを今もしているということである。
今の自衛隊が昔の旧軍の延長線上にある武力集団だ、と見做す認識は、完全に間違っているが、その間違いを自ら正そうとせず、つまり相手を良く見ることもせず、ただただ観念論で何の根拠もないことを大声で叫べば、それが正義に転化すると考えるところが極めて幼稚な思考と言わざるを得ない。
旧日本陸軍は、人の命を鴻毛よりも軽いと認識して、軍の中で階級が上になればなるほど、兵士の命を軽んずる傾向がった。
無理もない話で、高級軍人、高級参謀は、戦争を自分の立身出世のチャンスと見做していたわけで、それの犠牲になる兵士の命など、毛頭、眼中にないわけで、当然のその中には国家の為に戦う、国民の為に戦う、天皇の為に戦うという意識は微塵もないわけで、ただただ官僚として自分で自分の出世の機会を伺って、自分で仕事を作っていたに過ぎない。
しかし、個々の将官は一生懸命仕事をした気でいたろうけれど、戦争のプロである限り、勝つ戦争をしてナンボの世界でなければならないはずである。
しかし、戦後の自衛隊は如何なるプロジェクトでも、人的損失を出しては、成果になりえないという極めて厳しい制約の中で業務をこなしているわけで、そういう内情を全く知ろうともせず、ただただ観念論で批判するだけの知識人があまりにも多すぎる。
そういう人たちの頭の中には、まず最初に自衛隊の存在そのものが悪である、という認識に凝り固まっているので、その固定観念からの脱却できないでいる限り、その先の進展がない。
この本も、実質的にはある種の戦記物の読み物であるが、旧軍の戦記物とは根本的に違っている。
その違いは、人命尊重の概念そのものである。
国を守る、国民を守る立場のものが、国民を傷つけるようなことがあってはまことに申し訳ない、という信念で貫かれているわけで、そこが旧軍の発想とは根本的に違っている。
航空自衛隊のT33練習機が多摩川に墜落した事例でも、2名のパイロットは、地上の民家に堕ちて被害者を出してはならないという信念で、自らの命を犠牲にして殉職したが、世論の評価は高圧線を切断して、周囲を停電させたことがケシカランという認識である。
こういう評価を鼓舞宣伝するのは言うまでもなく日本のメデイアなわけで、メデイアというのは、どうしても時の時流に沿った見解をとりがちである。
資本主義社会の中のメデイアである限り、ある程度まではそういう傾向もいた仕方ない面がある。
しかし、我々は資本主義社会の中のメデイアが、時流に便乗しがちな報道を垂れ流すということを理性で承知しているとするならば、メデイアの報道の裏側も斟酌して接すべきである。
戦前の我々の軍国主義も、いうまでもなく当時のメデイアに踊らされた部分が多分にあるわけで、メデイアの報道を鵜呑みにしてはならないということは肝に銘じておくべきだと思う。
イラクにおける日本の自衛隊の復興支援は、各国の軍隊からは極めて良心的に評価されているが、日本国内では、あまりそういう好意的な評価は成されていないように見受けられる。
こういう無知は、日本の将来にとって極めて大きな禍根を残しかねないが、我々の同胞は、そういうことにあまりにも無関心だ。
あの日米開戦に至る過程を見ても、あの太平洋戦争全体を俯瞰しで眺めて見ても、日本の政府は一貫して戦争遂行には消極的であったではないか。
にもかかわらず我々は戦争という泥沼に嵌り込んでいったわけで、私に言わしめれば、あの戦争は当時の我々の同胞が、ああいう状況を熱望し、富国強兵を下支えしていた結果だと思う。
その証拠が、南京陥落の時の提灯行列であり、真珠湾攻撃の報を聞いた時の庶民の浮足立った歓喜の声であったではないか。
戦後の反省では、軍の独断専行が日本を奈落の底の突き落とした、という言い分が大手を振って罷り通っていたが、その軍、軍部、大日本帝国陸海軍を下支えしたのは当時の日本国民であり、我々の先輩諸氏であり、我々の父であり、兄であり、従兄であり、隣のお兄さんであり、村の幼馴染であり、我々の身の回りの人々であったではないか。
他の星から飛来した戦争好きなエイリアンではないわけで、我々の身の回りの身近な人が、イケイケドンドンと呼応していたわけで、我々の政府は、最後の最後まで戦争回避を願っていたではないか。
我々がこういう状況に嵌り込んでしまったのも、我々が無知であったから、メデイアに安易に踊らされてしまったからである。
戦後は、それがトラウマとなってしまって、軍隊的な組織そのものを極度に恐れ、「暑さに懲りてなますを吹く」状態に堕ちってしまったのである。
そこには理性と知性でもの事を見るという極めて常識的な視点が抜け落ちてしまっている。
私は、あの戦争を下支えしたのは我々同胞であったと言ったが、あの当時でも国民の大部分の深層心理では、戦争忌避であったと思う。
あの与謝野晶子の「君死にたもう事なかれ」の歌が、ものの見事に国民の潜在意識を表現していると思うが、あの歌を厭戦歌として糾弾してやまなかったのが、当時のメデイアだったことを真摯に考えなければならない。
普通の国民の本音の部分では、戦争など嫌で嫌でたまらなかったが、それを声に出して言えなかったところに、我々の民族の悲劇が潜んでいたのである。
何故、我々は、自分の本音を声に出して言えなかったのかといえば、それを言えば周囲から自分自身がイジメられるからであって、このイジメが怖くて言えなかったのである。
あの当時、日本政府も、国民の下々も、共に戦争など嫌いで嫌いで仕方がなかったが、それでも戦争という蟻地獄に嵌り込んでいったのは一体何故であろう。
ここにはメデイアの力が大きく作用していると思う。
当時のメデイアといえば、今から思えば実に稚拙なものであって、新聞とラジオぐらいしかなかったが、いわゆる口コミというのが一般庶民にとっては一番怖い存在であったに違いない。
要するに、自分の身の周りの同胞、隣近所の人々、向こう三軒両隣の人々の陰口が一番の恐怖であったわけだ。
赤紙が来て、軍の召集に応じる時には、家族としてはそれこそ困惑していたに違いなかろうが、そんなことは口にも出せず、赤飯を炊いて、歓喜の声に見送られて故郷を後にしたわけで、本人にしてみれば、嫌で嫌でたまらなかったと思う。
あの当時、こういう心境でいながら、それをこらえて出征に応じた人の声なき声を聞こうとした人がいなかった。
そういう声を無視し続けたのも、軍国主義という当時の風潮が、そういう声ををかき消してしまったに違いない。
戦後、平和主義が勃興して来ると、旧東大生が学徒出陣で出征した時の手記、「きけわだつみの声」が公開されて、彼らが如何にも反戦思想に満ちていたかのように喧伝されたが、これも戦後の平和志向が手記の本旨を歪曲していたことが暴露されてしまった。
彼らが素直な気持ちで国に殉じようとした部分をカットして、如何にも国策の犠牲になったかのように歪曲していたことが暴かれてしまった。
我々、日本人というのは世界においても普通の国ではないようだ。
小さな4つの島に閉じ込められた閉鎖空間に、長いこと生きてきた民族なので、ある意味で非常に自己完結的な部分があるのではなかろうか。
この4つの小さな島に生き永らえても、人口がだんだん増えてきて、外に出ていかざるを得なくなっても、他民族との折衝が実に下手くそなわけで、その部分で齟齬をきたすのは我々の民族の抱えた根本的なアキレス腱であったものと考えざるを得ない。
民族として、他民族との折衝が下手であると同時に、内側に向けても、仲間内の利害得失が妙に混乱を極め、その収拾が実に稚拙なので、外から見ると如何にも魑魅魍魎としているが、その混乱の中で世に秀でたものを作りだすので、ますます他の民族からは不可解に見られるのであろう。
冒頭に述べたように、地球上の如何なる人々も同じ時間を共有しているはずなのに、西洋列強に伍して近代文明を習得したのは、有色人種では日本人しかいないわけで、この事実は世界的な視野から見てどう考えたらいいのであろう。
中国でも韓国でも、20世紀の後半になってやっと近代国家の仲間入りを果たしたが、この事実に対しても日本が西洋列強の頸木を断ち切ったからそれがなされたわけで、日本という存在がなければ、彼らの今があるかどうかは甚だ難しいところだと思う。
今のアジアの状況を眺めるについて、戦後の日本の知識人が極めて中国寄りで、韓国に同情を寄せてやまないのも、戦後の日本がアジアで覇権を得ることに、内側から大きな牽制球を投げている、ということなのかも知れない。

「旅はゲストルーム」

2010-09-15 07:48:23 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「旅はゲストルーム」という本を読んだ。
サブタイトルには「測って描いたホテルの部屋たち」となっている。
要するに建築家が泊まり歩いたホテルの部屋を、データ―を取りつつ、絵にも描いてメモってきたということだ。
著者が建築の専門家で、旅をする際にもホテルのインテリアが気になってしょうがなく、職業意識が抜け切れずに、ホテルの部屋そのものを実測して、それを絵に描いて楽しんでいたということである。
専門家は専門家として、旅をしてホテルに泊まっても、そのホテルの在りようが気になって気になって、おちおち眠れないということらしい。
私などは何処に旅しても、ホテルなどというものは、いわば寝るだけの目的にしか見えず、ホテルで寛ぐなどという心境に至ったことがない。
ホテルといえば、ただただ寝るための部屋であって、それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、この世にはホテル・ライフという言葉があるように、ホテルが寛ぎの場であるという認識も近頃は出来てきたらしい。
しかし、そういうことを言う人はきっと大金持ちの人で、そういう大金持ちであるとするならば、日常生活の場でも、きっと優雅な環境の中で心身のリフレッシュをされているに違いない。
私ども貧乏人は、ホテルと言うだけでエントランスに入る勇気が萎縮してしまう。
よって団体で大勢で一気に押し掛けて、旅の恥はかき捨て式の立ち居振る舞いになってしまうのである。
ホテル・ライフなどという気のきいた心の余裕など最初から存在していない。
若い時は生活に追われて旅をする機会もなく、ホテルに泊まるということも少なかったが、定年になって多少とも暇ができると、あちらこちら出歩く機会も多くなった。
必然的にホテルの泊る機会も多くなってきたが、私にとってはやはりいくらホテルと言われても、ただたんに寝るだけの場所に過ぎない。
バスルームにタオルがいくらあろうとも、いくら化粧品の小物がしつらえてあっても、その全部を使うこともないわけで、ミニマムの数さえあればそれで十分である。
窓からの景色がどうであろうとも、ただ寝るだけの部屋である限り、そんなものはどうでも良い。
景色が見たければホテルの外に出れば済むことなわけで、クローゼットの位置がどうであろうと、動線がどうであろうと、私には何の関係もない。
こういう人間が対象では、いくら有能なインテリア・デザイナーも取りつく島もなく、はなはだおもしろくないお客に違いないと思う。
この著者も、インテリア・デザイナーというカタカナ表記の職業人らしく、化粧品やアパレルの宣伝のように、カタカナ表記が随所に見受けられるが、こういう現象もやはり文化の進化と捉えるべきなのであろう。
ガラス張りの高層建築と、それにマッチした様々なインテリア・デザインを、日本古来の言語で表現しようとしても、それは甚だ困難なことにぶつかるであろう事は察して余りある。
東京都庁の建物を、カタカナを一切使わずに、古来の日本語の表現のみで描写するとすれば一体どういうことになるのであろう。
それは不可能ではないにしても、逆に今の日本人には素直に受け入れられない描写になりかねない。
外国語を何でもかんでも日本語に置き換えれば済むという問題でもないと思う。
業界には、その業界にしか通用しない業界用語というものが、如何なる業界にもあるわけで、それを不用意に業界の外、いわゆる普通の社会の普段の場面で使ってしまうと、少なからぬ違和感を感じるが、その違和感こそが若い人からみると斬新な感覚に映るのかもしれない。
ホテルの部屋に通されると、その部屋の寸法を測らずにおれない、というのもある種の職業病のようなものであろうが、私のような落ちこぼれの年寄りからすると、なんとも貧乏臭い感がする。
大枚をはたいて泊まったホテルならば、貧乏学生が美術館で本物を模写して修行を積むようなことをしなくとも、堂々とそれこそホテル・ライフを楽しめばいいと思う。
しかし、大都会で憶ションと言われるような高級マンションで居を構える程の人ならば、逆にホテルを自分の家として使いこなした方が、経済的に有利という状況も有りうる。
映画に出てくるホテルで、私が一番印象深いのは、オードリー・ヘップバーンの主演した、「おしゃれ泥棒」に出てくるホテル・リッツである。
ツアーでパリに旅行した時、このホテル・リッツを探したが、ツアー旅行ではなんともいた仕方なく、探し切れなかった。

「テレビを消せ!」

2010-09-13 06:55:17 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「テレビを消せ!」という本を読んだ。
著者は韓国人で、それを東京生まれの韓国人が翻訳したという代物であるが、内容的には韓国の事というよりも、我々の同胞、日本人の今の生き様を問われているようなものであった。
今の人間はテレビに毒されて、碌な人間にならない、ということを声高に叫んでいるわけだが、心情的には私も大いに共感する。
子供がテレビばかり見て勉強しないとか、家庭の主婦がテレビの通販でものを買いすぎて困るとか、さまざまな問題提起がなされているが、それを「テレビが悪い」という一方的な結論に直結させるのは、いささか早計ではないかと思う。
確かに、同じ状況は日本でもあるわけで、だからと言って我々の周りで「テレビ断ち」などという極端な行動に出る話は聞いたことがない。
テレビを見るのを止めて、本を読めば、そのまま成績がストレートに向上するということは、少々オーバーな話だと思う。
確かに、テレビの見過ぎや、インターネットのゲームのしすぎが、若い青少年に良い効果をもたらさないことは事実であろうが、だからと言って、それを止めて本を読めば、それがそのまま成績の向上につながるというのも信じがたいことである。
この本が強調していることは、家からテレビを追放して、その空いた時間に本を読めば、人間はもっともっと幸せになれると説いているが、これはこれで一種の仮説に過ぎない。
私自身も、テレビというマス・メデイアには大いに不満を持っている人間であるが、だからと言って「テレビそのものを追放せよ」とまでは言い切れない。
テレビを見る見ないは、個人の自制心に依拠しているわけで、この本の著者が、テレビを見ることに対してこの自制心を自らコントロールすることのできない人に対して言うのならば、この説も極めて説得力に富む論旨だと思う。
ところがこの本の場合、一般論として、全ての人に対して「テレビを捨てよ」と言っているわけで、ここまで来ると、ある種の思い上がりであり、思い込みになってしまう。
そして視線がテレビ番組を作る側には向いておらず、それを受け取る視聴者の側に反乱を強要しているわけで、これではものの見方が少々いびつではないかと思う。
私もテレビというメデイアに対しては大いに不満を持っているが、それはメデイア側の送り出す内容があまりにも下劣であって、文化の香りが微塵もない点に不満があるわけで、だとすれば見る側がそれを拒んで、好きな番組を取捨選択すれば良い、という発想である。
日本でも、テレビを朝からつけっ放しにしている家庭はずいぶんとあると思うし、テレビに子守りをさせている母親もいると思う。
しかし、それを見る側の人間は、好きな番組を無意識のうちに選択しているわけで、ただただテレビの前で頭脳を何も働かせず、ただただ座禅でもしているかのように、無の境地になっているわけではないと思う。
私自身、テレビ大好き人間で、テレビの前から動かない方なので、何時も家内から叱られており、この本に描かれているテレビ人間と全く同じだ。
けれども、我が身の体験から察するに、リモコンをいじって次々とチャンネルを回すということは、自分の気に入った番組が見当たらないから、それにありつこうとしてそういう結果になるわけで、自分の気に入った番組が見つかれば、そこでチャンエルの迷走は止まる。
チャンネルを次から次に回すということは、如何なるテレビ局も見るべき、見たいと思わせる、見るに値する番組を作っていないということである。
ここで私は、いくらチャンネルを回しても見るべき番組がないとなれば、テレビを消してしまう。
こういう自分を振り返ってみると、一日の中でテレビを見る時間というのは、案外限られた範囲に収まっている。
新聞のテレビ欄を見て、その日に見たい番組に目星をつけておいて、それを録画して見る時もあれば、その時間にテレビの前に座るということもあるが、テレビを絶対悪と認識するまでには至っていない。
日本のテレビでもくだらない番組があまりにも多すぎるとは思う。
あまりにも番組がつまらないと、出演者を始めその番組作成にかかわった人たちが可哀そうに見えてくる。
テレビ番組というのは、どれ一つとっても素人が映画を作るのとはわけ違うわけで、それぞれの専門家が知恵と金を出し合って、ああでもないこうでもない、視聴率が上がる下がると、議論を繰り替えし、倫理規定に反するかしないか議論を繰り返し、そういう大人が議論に議論を積み上げて出来上がっているわけで、その出来上がったものが視聴者が目をそむけたくなるような代物であったとしたならば、それに携わった人々は、まことに気の毒で、哀れに思えてくる。
立派な大学を出て、狭い関門をくぐって、メデイアの一員となって、作りあげた作品が、世の中から顰蹙を買うようなくだらないものであったとしたならば、それと作った人たちの今までの努力は一体何であったのかということになる。
私が、憂うべき事と思うのは、立派な大学を出て、狭い関門をくぐってメデイアの一員となった人が、真に文化というものを理解しているかどうか、という危惧である。
今のテレビ局の放映しているくだらない作品・番組を、こういう人たちは「くだらない作品」という感覚・認識で捉えておらず、それこそが最新の新世代の文化だ、思い込んでいるのではなかろうかということだ。
我々の世代から見ると、今、日本のテレビ局が放映されている番組の内容は、あまりにもくだらなさ過ぎて見ない。見るに堪えない。見ることが阿呆らしい。よってテレビは見ない。
今の日本で、普通に常識のある普通の大人ならば、病人でもない限り、昼の昼間からテレビを見ている人はいないと思う。
第一、見るに耐える番組がないのだから、誰も見ないのが当然だと思う。
にもかかわらず、日本のテレビ局が電波を出し続けているとことは、大いに資源の浪費だと思う。
日本のテレビ界においては、NHK以外はすべて民間放送で、これらは広告料で経営が成り立っていると言われているが、テレビの質を高めるには、この広告主の圧力が一番大きな効果を成すと思う。
ところが、広告業界がテレビ番組の堕落に寛容すぎると思う。
広告というのは本質的に奇をてらうものであって、普通の人が普通に常識的な事をしていては、人目を引く広告にはならないわけで、常に人の意表を突く突飛な行動をしないことには、人の耳目を引きつけることが出来ない。
普通の人の普通の行動をいくら放映しても、それを人々は関心を持って見てはくれないので、広告の媒体としては限りなく低俗な立ち居振る舞いを演じて、人々の注目を引くということになる。
これを別の言葉で表現すれば、限りない低俗化ということになる。
それを立派な大学を出た人が企画・立案し、出来上がったものを立派な企業が、広告としてその低俗化した番組に広告を張りつけるのである。
テレビ局にすれば、視聴者が見ようが見まいが、広告収入が入ってくれば、番組の内容などどうでもいいわけで、ただただ視聴率さえ良ければ、広告主に対して説得力が維持できているのである。
この本の不思議なところは、テレビからの情報を、それを受ける側が拒否して、その空いた時間に本を読めば全てがハッピーになれるというものであるが、そんなに単純な話ではないと思う。
くだらないテレビ番組を送り出す側への糾弾は一言もないわけで、これではものの見方が一方的だと思う。
テレビ依存症ということは確かにあると思うが、それは明らかに一種の心の病であって、ノーマルな精神の持ち主とは一線を画して語らねばならないと思う。
とは言うものの、この本の内容は、我々の日常生活そのものの悩みでもあるので、極めて身近な問題ということであるが、それが日韓双方で同じように存在するということは、我々が如何に近似的な民族かということを指し示していると思う。
アジアに住む我々東洋人、アジアのモンゴロイド系の民族は、本当はもっともっと仲良くしなければならないのではなかろうか。
同じアジア系でも、住みついた場所によって言語が違い、その言語の違いが潜在意識の相異を生み、その潜在意識の相異が思考の発想の相異に転化して、結果としてお互いにいがみ合うようになってしまったが、それは今までの過去の歴史であって、これから先の未来志向では、過去の歴史を超越しなければならないと思う。
すると、過去の歴史を簡単に水に流して、良いとこ取りを謀る倭人という呪縛が頭をもたげる。
アジアの躍進というと、必ず日本がリーダーシップを取らねばならないような言い方がなされるが、これはおかしいと思う。
韓国人でも、中国人でも、先頭になってアジアの躍進を説いても良いと思う。
その時に、韓国人も、中国人も、日本を手足に使って、金を出させて、良いとこ取りだけを自分たちに割り振り、日本を利用しようという下心が見え隠れしているところが問題である。
これこそがアジアの潜在意識としての中華思想であり、華夷秩序であって、それが伏流水のように底流にあるところが難点である。

「日本はなぜ敗れるのか」

2010-09-11 07:24:24 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「日本はなぜ敗れるのか」という本を読んだ。
サブタイトルに「敗因21カ条」となっていた。
著者は山本七平氏。彼の評論は非常に辛口な事は前々から知っているが、この本は小松真一氏の『慮人日記』を下敷きにして、この本でいうところの日本の敗戦に至る21カ条に新たに視線を向けての考察になっている。
山本七平と小松真一は共に同じような体験をしており、その体験から推し量って、同じような見解に至ったので、それが元となって評論が組み立てられている。
共に同胞に対する厳しい糾弾であるが、そういう意味で、私も自分の同胞の在り方を思う時、彼らと同じ憤懣に突き動かせられる。
あの戦時中の軍国主義と、戦後の平和主義の過度な反応は、一体どういう風に説明なされるのか実に不可解千万である。
これを私流の表現でいえば「付和雷同」という言葉で今まで語ってきたが、この両者は私よりも学問が深淵で、思考に重みがあるので、私のような軽々しい表現にはなっていない。
我々の民族の本質を「西南の役」にまで遡って考察しているので、私ごとき浅薄なものでは、足元にも及ばないが、やはり民族の本質というのは一度戦争に負けたぐらいでは変わるものではない。
我々、日本民族の本質は、金太郎飴のように、何時、何処で、どの部分を切っても、同じ金太郎の顔が出るわけで、一度の敗戦ぐらいでは、その本質が変わるものではなさそうである。
アメリカ人は世界各地から人々が集まって来て、アメリカ合衆国というものを人為的に作り上げた国なので、常にその枠組みを内側から支え続けなければならない。
ところが我々は生まれ落ちた時点で四周を海で囲まれた自然の要塞に保護されているので、自分の周囲は日本人という同僚に包み込まれているわけで、意識的に国家の枠組みを支える、という感覚は存在していない。
自分の祖国というのは、空気や水のように、無意識のうちにあって当たり前なわけで、そこに自分たちのシンボルとしての天皇が屹立していたが、普通の人々はことさらその事を意識していたわけではない。
年に数回の儀式の時にだけ意識の中に蘇るだけで、普通の時はそれは全く忘れて生きている。
戦前の日本があたかも天皇制の国で、天皇はヒットラーのように独裁者であったかのようにいう人がいるが、そんなことを言う人は無知以外の何ものでもない。
あの軍国主義華やかな昭和の初期でも、天皇陛下は政治的発言は殊の外控えて、発言する時も、先代の俳句で自分の意思を表明するぐらいに気を使っていたわけで、言い方を変えればシンボルに徹しようと努めておられたということである。
問題は、その臣下の中で、天皇に極めて近いところにる人が、その天皇の権威と威光を自己の利益の為に勝手に使ったものがいたということである。
軍隊の下部組織の中で、三八歩兵銃を「天皇から賜った武器」と称して、過度に丁寧に扱って、その事によって下級者イジメにまで応用した同胞がいたという事実こそ、民主化の度合いが如何に低かったかのバロメーターであったわけである。
これが昭和初期の我々の同胞のありのままの姿であったわけで、こういう事が全て敗因21カ条の中に内包されていたということだ。
この21カ条の項目は、当然のものばかりであるが、私に言わしめると、この中に戦争のプロフェショナルとしての士官に対する批判が一つもないのが不可解である。
山本七平も小松真一も、フイリッピンにおいて同じような戦闘に参加していたが、その実践の中では、既にエリートとしての若手将校も皆同じように苦境に立たされていたので、特別に戦争のプロフェショナルとしての立場も示し得ずに終わったのかもしれない。
ところがこの本の中には、高級将校、高級参謀に対する怨嗟の気持ちは随所に出ている。
しかるに、若手の将校に限定した苦情はあまり見受けられない。
小松真一氏は本来は軍人ではなく、民間人でありながら現地の工場生産を稼働させる見地から軍属として徴用されていたので、職業軍人のものの見方とはまた異なった視点で周囲の状況を見ている。
しかし、前線を軍と共に行動しているので、各高級参謀、高級将校の動静もつぶさに観察しているわけで、その中には若手エリート将校に対する観察が抜け落ちている。
日本をあの戦争に駆り立てた本元のところには、軍国主義に踊り狂った軍の独断専横があったことは言うまでもないが、そこで踊り狂った連中というのは、言うまでもなく陸軍士官学校を出た、あるいは海軍兵学校を出た秀逸たちであった。
にもかかわらず、それに対して政治家としても、外務省としても、旧帝国大学を出た秀才がいくらでもいたに違いないが、そういう連中が何故あの戦争に嵌り込んでいったのか、という分析に欠けていると思う。
あの戦争の敗因が21カ条もあったのに、何故、海軍の戦争プロ、陸軍の戦争プロ、政府、あるいは外務省の中の主要な人々が、その道が危険な道であることを言わなかったのであろう。
個々の人間としては、そういう意見を述べた人もいたと思う。
問題は、そういう個人の意見を押しつぶす、その他大勢の声高き大合唱に、個人のささやきが押しつぶされてしまったことにあると思う。
その他大勢の有象無象の無責任な大衆の声は、戦争遂行を是認していたわけで、南京陥落が伝えられれば提灯行列をし、真珠湾攻撃に成功したと言っては大歓声を上げて前途を祝したわけである。
日本の内地にいた国民は、そういうニュースを聞いて大喜びをしたわけで、それには当然、当時のメデイアの責任が大いに寄与していた。
当時のメデイアといえば、新聞とラジオしかないわけで、有象無象の国民は、その新聞のニュースから日本軍の活躍を知って一喜一憂していたわけであるが、問題は、そのメデイアの報じた内容が真実かどうかという点に尽きる。
メデイアも、時の世論に迎合する事が世の常で、人々が「戦」を好む時は、そういう好みに応じたニュースを流すのである。
反対に、平和志向の時は、あらゆるものを反平和的に捉え、国旗の掲揚や国歌の斉唱さえも、軍国主義の復活という具合に、反体制思考に直結させて憚らないのである。
南京大虐殺も、100人切りの武勇伝も、全くの虚報あったにもかかわらず、当時は、その虚報が虚報として受け止められず、戦後は戦後で、それが真実の報道となってしまったわけで、ならば真実は一体何なんだということになる。
真実はきっと一つに違いなかろうと思うが、有象無象の大衆という存在は、それを自分のイメージと絡めて評価するわけで、たった一つの真実を、自分の都合に合わせて都合の良いように解釈するのである。
陸軍でも、海軍でも、政府でも、外務省でも、様々な組織のトップは、それ相当の学識経験者というよりも並みの人間以上に優れた人たちが国家なり組織の舵取りをしているはずである。
八百屋の兄さんや、魚屋のおっさんが組織のトップにいるわけではない。
軍の組織ならば当然の事、陸軍士官学校や海軍兵学校を出た秀逸が、もう一つ上の学校を出て、枢要な地位についているわけで、そういう地位につくと、ここで書かれている21カ条の我々の側の欠陥に気がつかないわけはないと思う。
「合理性を欠いた作戦が成功するわけがない」ということは充分彼らには分かっている事だと思う。
「分かっちゃいるけど止められない」という事だったと思う。
日米開戦だとて、「分かっちゃいるけど止められない」という部分が多分にあったのではなかろうか。
海軍の中には、最初から結果が分かっていた人もいたわけで、「分かっていたけれど止められなかった」ということだ。
問題は、何故、その時止められなかったのかという点に尽きるが、その答えは様々あるが、確定的な事は未だに分からないままになっている。
私に言わしめれば、その時から、日本は奈落の底に転がり落ちたことになるが、それが当時の日本国民の総意だったと思う。
山本五十六や昭和天皇が、「その時、もし戦争をするという決断を下さなければ、恐らくクーデターが起きていたかも知れない」と思い込むほど、当時の日本国民は戦争を渇望していた。
当時の日本国民を、そういう方向に仕向けたのは、言うまでもなく当時のメデイアであったことは論を待たず、当時のメデイアは、いわゆる大衆、民衆、国民に対して、それこそ戦意高揚の記事を書き綴って、開戦を煽りに煽っていたという事だと思う。
その一番良い例は、日本海軍が真珠湾攻撃に成功した、というニュースを聞いた時の、日本国民の印象がそれを物語っている。
あのニュースを聞いて、当時の我々の同胞は、その大部分が「胸のつかえが下りたような、晴々とした」という印象を語っているではないか。
まさしく、イケイケドンドンにもろ手を上げて歓喜している図であって、そこには長引く中国戦線の暗雲が経ち切れた様な、すがすがしい気持が描かれているではないか。
この時点では、日本国内の生活の事情は、まったくもって切迫などしておらず、自分の祖国が灰燼に化すなどということは、夢にも思っていなかったわけで、今から思えば完全に能天気な状態にいたということになる。
日米開戦の初っ端に大成功を収めて、一気に上げ潮に乗った気になってしまたので、それ以降の対応が後手後手に回ってしまったということが言える。
私が実に不可解に思うことは、こういう状況において、軍人の養成機関、いわゆる海軍兵学校あるいは陸軍士官学校を出たような秀逸が、最初の成功例に直面して、「勝って兜の緒を締めよ」という心境に至らなかたのかということである。
初っ端の成功例に有頂天になってしまうようでは、海軍兵学校あるいは陸軍士官学校で受けた、軍事学をはじめとする様々な高等教育が何の役にも立っていないではないか、ということである。
八百屋のおっちゃんや魚屋のあんちゃんならばいざ知らず、軍人養成機関を出た人間が、そういうセンスでいたとなれば、軍人としての専門教育も意味をなしていないではないか。
こういう知的センスは、日本が奈落の底にまで転がり落ちても、まだ尚、是正されたようには見えず、戦後の平和主義の中でも、実に堂々と生き残っていた。
戦後の平和主義に根差した様々な運動においても、明らかに論理的に破たんした思考を、何の恥じらいもなく学者先生方が堂々と述べて、大声で大衆や民衆を煽りに煽って、自分は日本の為に良いことをしている気でいる光景が見られた。
この本に登場している小松真一氏も山本七平氏も、日本が戦争に負けた敗因を21カ条に集約しているが、その中には日本対アメリカの対立軸の中に、発想の相異については深く掘り下げていない。
合理性と非合理性という意味では、発想の相異に起因している事柄に通じるが、やはり我々とアメリカ人とでは物事の発想の原点から大きな相違があるように思う。
今、日米開戦を歴史的視点から冷静に眺めてみると、我々の側は、最後の最後まで「避けよう避けよう」と考えて行動していた。
ところが相手は、最初から「する気」でいたわけで、最初のきっかけ、いわゆる開戦の大義名分を探っていたので、ハル・ノートで鎌を掛けてきたわけである。
その計略に、ものの見事に乗っかってしまったのが我々の側であって、ここに既に発想の段階から戦争に対する対処の仕方の相異があったことになる。
よって、我々の側の最初の一撃が見事に成果を上げたので、銃後の人々も実に見事に舞い上がってしまって、アメリカに嵌められたとも知らず、「心が晴れ晴れした」心境になったのである。
こういう誤謬は中国戦線でもあったわけで、張学良は日本軍の進撃を奥へ奥へと引き込んで、戦線が何処までも伸びきるまで奥に引きずり込んだにも関わらず、日本軍はその戦略に最後まで気がつかず、「勝った勝った」と喜んでいたわけである。
戦線が伸び切って補給が続かなくなれば、自然に現地調達ということになり、戦争が終わってみれば、「日本軍は中国戦線で極悪非道な行為をした」、という言葉で連合軍から非難中傷の矢面に立たされたということになる。
問題は、日本の軍人養成機関は、そこに集まった若者に対して、本当に軍事学を教えていたのかどうかという点に尽きる。
本当に戦というもの、戦の仕方、戦争が政治の延長線上の行為、国益の維持、国民の安全とその財産の保護ということを真に教えていたのかどうかという点である。
「天皇の為に戦う」という言い分は、天皇陛下個人の為ではなく、天皇陛下の赤子としての国民の為、その赤子の生命財産を守るという内容を含んでいるはずであるが、そのことがあの時代の職業軍人に分かっていたのであろうか。
一人一人の軍人がその事を理解していたかどうか、ということよりも当時の社会的な雰囲気として、そういうことを当時の国民の全部が理解していたかどうかということだろうと思う。
前にも記したように、当時の我々の同胞は、メデイアの報ずる戦意高揚の記事に一喜一憂していたわけで、そういう国民を前にすれば、為政者、具体的には大本営も、正直な事実は国民に知らせることができなかったと思う。
真珠湾攻撃のような華々しい戦果ならば、大威張りで国民に言えるが、ミッドウエイ―海戦のような敗北ならば、言うに言えなかったと思う。
結果として、後になって国民は騙された、ということになるわけである。
私が何時も不可解な思いでいることに、本土決戦という思考と、B29の爆弾投下にハタキと竹槍で戦うというあまりにも陳腐な思考である。
これを当時の大人、特に軍人たちがまともに考えていたことの不思議である。
これではまるで子供の向けの「裸の王様」の話と同じではないか。
「そんなバカな事をするような状況ならば、もう完全に勝算は無い」という、子供でもわかる話を、誰もが言い出せないでいたという事だ。
この「誰も言い出せない」でいた状況こそ、真剣に考えなければならないことではなかろうか。
本当の事を言うと、我々の同胞がよってたかってその発言を糾弾し、「非国民」と言ってイジメ、自分の仲間から追い出す、ということは一体どういうことなのであろう。
これにもメデイアの存在が大きく寄与しているわけで、人が本当のことを言うと、それは周りにとっては異質な事なので、そこにニュース・バリューが生じる。
しかしメデイアとしては、事実を事実として単調に伝えるだけでは無味乾燥なので、そこに主観を加える。
当然、その時に加えられる主観は、その時、その場の雰囲気を内包した、時代に迎合した言辞になるわけで、結果として異端者、異端な発言ということになり、それが非難中傷に進化し、その本人は糾弾されるということになるのである。
人と違った意見を聞いたり見たりした人は、「これはケシカラン、何とかせねば」という思考に陥って、結果として当人をボイコットすることが社会正義につながると錯覚するのである。
これは八百屋のおっちゃんや魚屋のあんちゃんのレベルの話ではなく、大学の先生方の話であり、国会議員の話であるところに、我々の同胞の不可解というか、残酷なというか、付和雷同的で「人の振り見て我が振り直す」式の思考停止の様相が垣間見れる。
子供でもわかる極めて常識的な事が、「言えない」というのは、煎じつめると周囲の人の報復が怖いので、大勢に迎合しているだけであって、心の奥底では常識は常識として機能していたに違いない。
問題は、この時に、人々の知性とか理性はどのように作用したかということである。
この本は極限の状態におかれた状況から、人間の理性と知性の在り方を考察しているが、こういう状況におかれると、人の持つ理性も知性も意味を成さないということを述べている。
ならば、その人の受けた高等教育は如何なる効用があるのかという問題に帰って来るが、人がいくら高等教育を受けたところで、それはモラルの向上にはいささかも貢献しない。
モラルというのは、その人が生来持ってうまれた本質であって、後からいくら高等教育を施しても、それがモラルの向上につながる、あるいは貢献するということはない、ということだ。
乞食でも気高い人がいる一方、大学教授や代議士でも、意地汚い輩は掃いて捨てるほどいるということだ。

「世界の火山百科図鑑」

2010-09-09 08:14:56 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「世界の火山百科図鑑」という本を読んだ。
読んだというよりは、この本の場合「見た」というべきであろう。
標題にもあるように、この本は図鑑になっているので、「読む」というよりも「見る」と言った方が正しい。
そう大型の本ではないが、立派な本で、紙の質も極めて上等で、写真や図版も大量に描かれているので、まさしく読むというよりは見る本である。
火山に対する一通りの常識的な事が、より専門的に述べられているが、この本は世界の火山をある程度網羅している。
日本の場合は、九州の開聞岳から普賢岳、そして富士山から有珠山まで掲載されているが、ただ浅間山が抜け落ちている点が残念である。
富士山まで俎上に乗せれば、当然、浅間山も載せられても良いように私は思う。
しかし、この地球上のプレートテクト二クスというのは驚異そのものだ。
あの世界最高峰のエベレストが、かっては海の底にあったというのだから俄かに信じられない。
我々の住んでいる陸地が、マグマの上にぷかぷか浮いているプレートに乗っかっているなどということは不思議でならない。
日本列島は、そのプレートが3つも4つも押し合いへしあいしている境目にある、などということはどうにも不思議でならない。
日本の周囲で、そのプレートが押し合いへしあいしながら、あるものは下に潜り込み、あるものはせり上がっているなどと言われても信じがたい。
こういう状況であってみれば、我々は地震の巣の上にいるようなもので、何時大地震が起きても不思議ではない。
我々の日本に限らず、この地球上には、至るところに人間という生きものが生息しているわけで、人間が住んでいないところでは、いくら地震が起きようとも、それは自然現象で済まされてしまう。
ところが人間がかたまって住んでいるところで地震が起きれば、大なり小なり人的被害の出るのも当然のことである。
イタリアのボンペイの例でも、日本の嬬恋の例でも、人の居るところで噴火が起きれば大惨事になるわけで、我々はそういう予測不可能な自然の現象を、ただただ受忍して生きなければならない。
先に読んだ地震予知の話でも、人間というのは極めて利己的な存在で、そういう自然災害をも回避したいと願うので、様々な問題を引き起こすのである。
地球の自然の有り体が解明されて、地球表面は幾つかの大きなプレートに分割され、それはマグマの上に浮かんでいるので、プレート同士の接点では常に押し合いへしあいの力が加わっている、ということが分かれば、それを素直に認めて、その現実に対応して分散して生きればよさそうに思うが、ここに人間の欲望が作用して、群れて生きたがる。
群れとしてかたまって生きたがるので、そこに地震が襲えば、大きな人的被害をもたらすということになるのである。
しかし、この本を読んでみると、地震と噴火とはいささか異なるようで、プレートテクト二クスでプレートが押し合いへしあいして、下に潜り込んだりせり上がったりするときに地震が起きることはあるが、それと火山の噴火とはまた別の問題らしい。
プレートというものは、丁度、池に咲く睡蓮の葉のように、マグマの海の中にぷかぷか浮いている状態であるが、マグマの上昇というのは、その上の葉っぱを突き抜けて来るものらしい。
よってプレートに縦に小さな割れ目があれば、そこにストローで飲み物を吸い上げるように、マグマが上って来るものらしい。
それが地殻の表面を突き破った時が噴火という現象という事だ。
こういう事が分かっておれば、人間は、それに対応すべき手段を講じればいいわけで、その究極の手法は人口の分散であろう。
大都市への人口集中の是正こそが究極の防災対策ということになる。
大都市に、ぎゅうぎゅうに人間を詰め込んでおいて、自然災害から人命を守るなどということは、論理的にありえないのではなかろうか。
問題は、大都市に人間をぎゅうぎゅうに詰め込むということをどういう風に捉えるかという事だと思う。
為政者が意図的にそういうことを推し進めるのではなく、有象無象の大衆の方が、後から後から大都市に集まって来るわけで、それは誘蛾灯に集まる昆虫のようなもので、それをどういう風に見るかという点に尽きる。
有象無象の大衆が、かってに大都市に集まってきて、高層ビルを作り、高架鉄道、あるいは道路を作り、安普請の家を作っておいて、「さあ防災対策を」と言われても為、政者としても困ると思う。
有象無象の大勢の人の願望を叶えることが、民主政治の根本ではあろうが、論理的に冷静に考えれば、それが実現し得ないことは自明である。
新幹線が出来て、高速道路が充実して、人々は地方に分散するかと思ったら、現実はその逆で、人々は大都市に集中してしまった。
新幹線も高速道路も、その建設の大局的な目的は、人口の地方分散を狙ったものであったと思うが、出来上がってみると、人々はその目的とは逆方向に傾倒してしまったわけだ。
こういう状況から鑑みて、防災対策というのは取りようがないと思う。
あるのは自己の防衛本能を信じるしかない。
自分の身は自分で守るという、極めて古典的な思考でしかない。