ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「日本辺境論」

2012-04-24 07:07:03 | Weblog
例によって知人の一人が自分の読んだ本を捨てるために送りつけてきたもので、「日本辺境論」という本を読んだ。
出版社は新潮新書。著者は内田樹という人だ。
読み始めてみると最初は哲学的な言辞が多く、少々うんざり気味であったが、読み進めて行くうちにだんだん面白くなってきた。
彼の論旨は、日本は中国・漢民族の華夷秩序の一番外側に存在する辺境であり続けたことによって、日本民族たるものを営々と存続し得たということだ。
華夷秩序の一番外側のリングに在ったので、中心の漢民族の影響を受けることも少なく、我々の生き方に対して漢民族に対する伺いも建てる必要が無く、自存自衛を貫き通せたという論旨である。日本民族の置かれた地勢的な条件を勘案すれば、こういう論旨になるのは必然であろうが、問題は漢民族の影響の云々よりも、我々の選択としての生き方が大問題なわけで、その事にこの本の大方の論旨は傾注している。
つまり、究極の日本人論になり替わってしまっており、我々の民族ほど自分の民族のアイデンテイテーにこだわる民族も少ないのではなかろうか、と私自身は考えている。
それは筑波山麓のガマと同じで、ガマが自分の姿を鏡で見て、余りの醜さに冷汗をタラタラ流す図と同じである。
この地球上に存する民族で、今日的な倫理観で以て清廉潔白な民族はあり得ないであろうが、我々はそういうものに価値を見出そうとしている。
この著者も述べているが、戦後の我が国の在り方において、憲法第9条と自衛隊の存在というのは普通の認識でいえば大矛盾そのものである。
その前に、先の大戦・大東亜戦争において、我々の同胞は誰一人あの戦争を主導した人がいないにもかかわらず、我々同胞はあの戦争に嵌り込んで行った。
今の時点、戦後66年を経た時点で、我々が戦火を交えねばならなくなった経緯は公開されているので歴史を詳しく検証すれば、明らかに我々は騙され、嵌められ、欺かれ、大量殺戮を受けたことは明らかである。
1941年、昭和16年、11月26日に、アメリカ側から突き付けられたハル・ノートを見れば、「モナコのような小国でも立ちあがったであろう」と言われているが、それでも我々日本人の中で誰一人「直ちにアメリカに参戦せよ」と声に出して戦争を主導した人はいない。
ここに至るまで昭和天皇を含めた御前会議が5回も開かれたが、その中でも誰一人として開戦を主張し、主導した人はいないし、昭和天皇自身も、避戦のみを考えていたようだが、それでも、にも拘らず、戦争に突入していった。
これは一体どういう事なのであろう。
今、この場面を頭の中で思い描いて、空想を縦横無尽に働かせて考えてみると、この意思決定の欠如、誰もリーダーシップを発揮しないのに、ことがどんどん進むという在り方は、日本民族の大いなる特異性なのではなかろうか。
この本の著者も当然そのことに気が付いて、それを『気』という言葉で表現しているが、これはある意味で気使い、心配り、KY(空気が読めない)という言い方で、我々、日本民族の本質を成す精神構造を作り上げている部分かもしれない。
誰も時の声を発しないのに戦争に嵌り込んで行く、戦争放棄と自衛隊が同時に存在する、これらは普通の常識で考えれば大矛盾であって、論理的に成り立たない事象である。
その大矛盾が、我々、日本民族の中では厳然と存在し続けているわけで、これは世界的にも極めて奇異なことに違いない。
この地球上には極めて広大なユーラシア大陸があって、その片隅の方にアジアという地域があり、そのアジアから海を隔てた絶海の孤島に、日本民族という人たちが生息していた。
絶海の孤島といえども島伝いに人は流れ着くので、日本民族が居ついたのであるが、それと同じ原理で、他の民族も流れ着いたに違いない。
だから日本民族というのは、純粋培養に極めて近いが完全に純粋というわけではなく、適者生存の原理は自然に機能していたに違いない。
それは文化にも同じことが言えるわけで、古代における文化的な上流はあくまでもシナ大陸にあって、漢民族がそれを主導していたことは間違いないが、アジアに住み、シナ大陸を自分のものとしていた漢民族は、文化的には自分達が一番の先進国であることを極めて明確に認識していた。
それだからこそ華夷秩序ができ、それに安住していたのである。
だからシナ大陸の漢民族が文化の同心円の中心にあり、大陸から離れて、海の中の日本は辺境だと言う事であるが、辺境であるからこそ、シナ文明の全てを猿真似することなく、取捨選択する自主性を持っていたと言う事が成り立つ。
ここでこの本が問うていることは、この自主性の本質が論理的に大矛盾を内包していて、論理的な整合性が全く合わないにもかかわらず、我々はそれを受忍している不思議さである。
誰も「アメリカと戦争せよ」と言わないまま開戦になる。
戦争放棄と自衛隊が同時に存在する。
占領から解放されて自主独立するという時に、日本の知性と理性を代弁すべき大学の先生方が、「我々は独立する必要はない、占領下の奴隷のママの方が良い」という馬鹿なこと言う知的エリートの存在。
こういう大矛盾を抱えながら、漂い続ける我々、日本国、日本民族の在り方というのは、実に不可思議な存在と言えるのではなかろうか。
こういう大矛盾は、私のような無学なものにとっては、矛盾が矛盾のままでもいた仕方ないが、我々の国にも知的エリートは掃いて捨てるほどいるわけで、そういうエリートが大矛盾を矛盾のままにしていては知識、知能、知性、理性が死蔵されたままということになるのではなかろうか。
日本の敗戦という事は、旧日本軍の軍人と軍部の責任であるが、日本が占領を解かれて自主独立をするという時に、「我々は独立する必要はない、占領下の奴隷のママの方が良い」という、陳腐で馬鹿なこと言う大学救助たちの存在をどう考えたらいいのであろう。
こういう大学救助から教えを受けた若人が、祖国のリーダーとなって、祖国の復興に貢献するわけがないではないか。
こういう大学教授の言辞は、コミニズムにコミットして発言であることは言うまでもないが、そういう意味では、戦争を知らない軍人が、意味のない作戦で貴重な将兵を浪費し、結果として敗戦を招いた構図と全く同じなわけで、知性も理性も欠いた大学教授が、戦後の日本を第2第3の敗戦に至らしめた構図だと思う。
我々の数ある日本論の中で、ガマが自分の姿に冷汗をかくように、自分の醜い姿を徹底的に検証する勇気を持たねばならない。
軍隊の中の軍人、大学の中の大学教授も、組織の中の人間という意味では全く同じなわけで、個人が組織に埋没してしまうと、どうしてごく普通の常識が機能しなくなってしまうのであろう。
軍隊の組織で言えば、彼らは特別の専門学校で特別の職業教育を受けて来ているわけで、陸軍でも海軍でも、トップは全て自分の出身校の同窓生であって、俺お前先輩後輩というつながりの中でもの事が決まっている。
当然、以心伝心、口に出さなくても判り合えるわけで、いくら会議を開いたとしても、口角唾を飛ばして議論することもなく、阿吽の呼吸でことが決まってしまう。
これを文字で表現すると『気』を読む、場の雰囲気、その時の空気という表現になる。
その事は、同時に責任の所在も極めて不明確なわけで、「戦争をやれ!」と声を出して言った人がいないのだから、責任の所在が不明確になるのも当然である。
その点、大学という組織の中では、軍の組織よりも男気とか、決断力とか、担力とか、指導力という価値基準が重要視されていない分、女々しい雰囲気が漂っていて、イジメの構図が幅を利かせているように思えてならない。
いずれにしても、我々は論理的にものを考える事が出来ない民族なのであろうか。
我々は漢民族を文化の同心円の中心に据えるシナ文化の辺境に位置していたからこそ、自らの自主性に頼って、漢文化を取捨選択して、良いものは導入したがそうでないものは導入しなかった。
その導入しなかった代表的な事柄が宦官と科挙の制度だと言われているが、こういう状況で自主性を発揮するという事は、極めて先鋭的なことだと思う。
古代の日本人は、シナの文化を取捨選択しながら、我々にとって有益だと思うものだけを導入したが、昭和時代の日本人、特に高等教育を受けた大学教授というクラスの知識人は、マルクス主義を鵜飲みにするだけで、取捨選択を忖度したようには思えないのは一体どういうわけなのであろう。知識人ともあろうものが、外来思想を頭から鵜呑みにする愚は、旧日本軍の高級将校が戦争を知らなかった愚と同じではないか。
祖国の独立に反対した国立大学の教授連中の存在は、戦争を敗北に導いた高級参謀、高級軍人と同じ罪深き人々だと思う。
ここで私は人間の知能に対する疑問がふつふつと沸いてくる。
我々レベルの凡人は、大学というところは、広範な知識を馬鹿な学生に高い金を取って伝授する場だと思っている。
この世の中に数多ある仕事の中には、必ずしも高等教育を受けてからでなければなり得ない仕事というのは、そう沢山あるわけではない。
お医者さんや、弁護士や、軍人というのは、特殊な教育を受けなければ成り立たない職業であるが、大半の仕事はOJTで十分こなせるものだと思う。
ところが、世の中の大部分の人は、そういうことを考えもせず大学に進む。
そもそも大学という教育機関は、就職予備校ではないわけで、広範な知識を金を取って授ける場であるので、そこを出たからといって就職に有利ということにはつながらない筈のものである。
そこが勘違いされて、大学に行けば就職が有利だ、と本人も世間も想い違いしている。
問題は、この部分であって、世間が勘違いしていることを誰一人「それは間違っているよ」と言わないところである。
それを言うべき人は、本来、学識経験豊富な知識階層としての知識人でなければならない。
この狭い日本で、本当に学問を追求する大学の必要数は、旧制帝國大学と2,3の有名私立大学だけで十分だと思う。後は高等幼稚園に過ぎない。
こういう部分でこそ、民主党政権は仕分けをすべきであって、全入などということは論外である。
ところが大学が産業と化してしまって、大学教授はその産業の中で働く労働者になり下がっているので、自分たちが知的エリートだという矜持を持っていない。
この21世紀において、本当に知的好奇心を満たそうとすれば、大学等に行かなくても他にいくらでも手段はあるが、にも拘らず大学に行くという事は、そこの卒業証書が欲しいだけなのである。本人はもとより、世間も企業も、それを一つの価値基準としているので、真の高等教育が死滅してしまっている。
更に問題なことは、高等教育でも人間の持って生まれた品性やモラルの向上には何の役にも立たないという現実である。
この地球上には5大陸があって、その大陸にはそれぞれ現住民と称する人々がいて、人々はそれぞれに集団を作って生きていたに違いない。
如何なる民族でも集団を作るとなれば当然それは社会を形成するわけで、古代においてはそれぞれが干渉することもなく平和に暮らしていた。
ところが歴史を重ね、文化が発達して来ると格差が生じ、それぞれの集団の間に強弱や優劣が付くようになると、優勝劣敗の自然界の摂理に委ねられて、支配、被支配という統治の構図ができあがって、血で血を洗う抗争に発展してしまう。
だから人が殺し合う現象というのは、極めて自然の摂理だと考えるべきで、地球上に現存する生物の中で、同類同士で殺し合う種というのは人間のみではなかろうか。
トラやライオン、ヒョウやピューマは、肉食動物と言われているが、トラがトラ同士で食い合うであろうか、ライオンがライオン同士で食い合うであろうか。
メスを得んが為に喧嘩はするであろうが、生殖、繁殖のための喧嘩が殺し合いにまで発展するであろうか。
こう考えると、同類同士で殺し合う種は人間以外にあり得ないように思えるが、言葉としては『共食い』という言葉があるので、同種同士で食い合う生き物もいるには違いない。
人類はこれからも殺し合って行くだろうと思う。
今、地球上の人間の数は70億と言われている。
ライオンが70億匹もいるであろうか。野生のトラが70億もいるいであろうか。
地球上の動物の中で、人間の数だけが突出しているわけで、「目下、自然環境が壊滅的に壊れているので、それを阻止しなければ人間の生存そのものが危機に曝される」といわれているが、この人間の数の級数的な増加をどう考えたらいいのであろう。
この世の知性ある人々は、人間の死を忌み嫌って、人が死なないように死なないように知恵を出し合っているが、この人間の数の増加をどう考えているのであろう。
人間がこの地球上で生き続ける事そのものが大矛盾を呈しているわけで、70億もの人間を生かそうと思えば、自然を壊して農業用に土地を機械で耕し、収穫を多くするために有害な農薬を使わねばならず、流通機関を発展させて末端まで食糧を運ばねばならず、70億の人間を生かすことそのものが地球の環境破壊そのものではないか。
人間の生存そのものが地球を破滅に導いているわけで、人間の知性はこれにどう対応しようとしているのだろう。
だから過去の人間の価値観を、この21世紀以降では全否定しなければ、地球そのもの、人類そのものが存在し切れないことになると思う。
人間の数は、その内に地球のキャパシテイ―を超えることになるのではなかろうか。
その時は、丁度、地球の資源も枯渇する時期と合致するわけで、このことを世界の知識人はどう考えているのであろう。
人が自分の死を忌み嫌う事は世界共通で、誰でもが長生き願望を持っている。
ところが、それは人類がこの地球上に誕生して以来の普遍的な価値観であって、そういう古典的な価値観からはもうそろそろ脱却すべき時期に来ているように思う。
人は、自分の生を自ら閉じる権利を容認すべき時がきていると思う。
私個人としては、自分の両親の死を見つめていて、安楽死の必要性をつくづく思ったものだ。
私の祖母は、孫の私が訪ねて行くと「死にたい!死にたい?」といつも言っていたが、これは本音だと思う。
父の死を看取った時は、老醜とまではいかないにしても、他人に下の世話まで依存しつつ生きる事の非情さを身を以て味わったので、私自身は人様に下の世話までさせて生きたいとは毛頭考えていない。
人間は『考える葦』と言った人がいるが、人間が『考える』と言う事をするから、『葦』ではなくなってしまうわけで、考えるから自然の摂理に素直に従うことを拒むようになるのである。
人間が自然の摂理のままに、自然の在るがままに靡いておれば、その数が70億にもならずに、地球の環境破壊も招かず生きてこれたものが、色々なことを考えて、それを実践したものだから、科学が発達して地球環境が汚染されたのである。
日本がアメリカとの戦争に敗北した頃、今から丁度66年ほど前の日本人の平均寿命は、極めて大雑把に言って男50歳、女54歳であって、人々がこの年齢で世を去って行けば、今の年金の問題も介護の問題も現実にはあり得ないということである。
昔は50歳前後で死んでいったものが今は80歳近くまで生きることになったので、普通の常識的な評価としては「極めて有難いこと」となっているが、これが果たして本当に良いことであろうか。
「長生きは良い事だ」という価値観は、人類誕生以来の普遍的な価値観であって、人間の感情としては極めて自然の在り様であるが、これから先も人間の数が級数的な勢いで増加するとなると、手放しで喜んでおれるだろうか。
「人間の命は何ものにも代えがたい」という価値観は、これから先も今まで通りの価値足りえるであろうか。
今、70億という人間がいて、これから先も無尽蔵に人間の数を包容するだけのキャパシテイ―をこの地球は持っているのであろうか。

「超巨大地震に迫る」

2012-04-21 07:15:16 | Weblog
例によって知人の一人が送りつけてきた本で、「超巨大地震に迫る」という本を読んだ。
昨年の3月11日の東日本大震災を経たことで、地震のことを知りたくなって買ったに違いない。この本を読んで一番読みごたえのあった部分は「あとがき」である。
その中で言っていることは「地震の予知はできない」という一語である。
私は別に立派な科学者ではないが、私自身もそう思う。
地震の予知は21世紀に至っても不可能に近いと思っている。
「近々起きるであろう」ということは言えても、何時何処でということは確定できないのではないかと思う。
今回の大震災は、地震とそれによって引き起こされた津波と、その津波によって機能停止に至った原子力発電の事故と、3重の災害が同時に起きたと言ってもいいと思う。
その地震そのものが、過去の例を越える想定外の規模であったわけで、千年に一度というスパンで起きたと言われている。
それで東北地方の太平洋岸では甚大な被害が出たことは周知の事実であるが、そういう意味では、これは天災だと言える。
ただし、東京電力の原子力発電所の事故対応は、大地震がきっかけになっているとはいうものの、明らかに人災であって、天災とは切り離して考えねばならない。
しかし、よくよく考えてみると、東北地方の太平洋岸というエリアは、地震も津波も過去に何度も体験している地域だと思う。
だからこそ万全の態勢を取っていた市町村もあるわけで、普通の常識的な知識があれば、防災に対しては万全であってしかるべきだと思う。
今回は、過去の事例にはない想定外の規模であったということはいえるが、そもそも我々の住む日本列島というのは地震列島なわけで、我々は日本という国土の何処に住んでも地震から安全ということはあり得ない。
地震が起きれは、その後に津波が押し寄せてくることも充分に考えられることで、そうであればこそ、我々は産まれ落ちた時から、その対策を考えてしかるべきだと思う。
私は27年前に自分の家を作ったが、家を作るについて真っ先に考えたことは、地震に対する対応であった。
耐震性もさることながら、家が乗る地盤についても心配でならず、そういうことを加味して家の素材から選択を熟考した。
日本人が、日本という国土で生活を営むのに、日本住宅が最適であることに異論はなかったが、「ならばそれは地震に対してはどうか」と考えた時、選択肢から外した。
日本でも木造の建築物が太古からあり続けているが、あれは木材の加工に充分な時間と余裕を持たせて乾燥させた素材を使っており、現代という時空間の中では、普通の人にそういう贅沢が許されるわけがない。
そういう経済的な余裕はあり得ず、どうしても廉価で、丈夫で、長持ちで、地震に強いとなるとコンクリート系のプレハブということに落ち付いた。
そして、地盤のことを思い浮かべて、基礎にパイルを打つことも考えたが、この地域では地盤がことのほか固くて、それをする必要はないと言われたので、その分は大いに助かった。
私の周りでも家を新築した人は多いが、そこまで考えている人はほとんどいないようだ。
だが、我々の住む国が地震列島であることを考えれば、家という超高価な買い物をする以上、そこまで心配しても罰は当たらないと思う。
これこそ自己防衛の第一歩だと思う。
その事は、当然、今回被害に遭われた東北地方の方々にも言えると思う。
自分の街を散歩してみても、川の堤防よりも低い所に家を建てている人もいるが、私には考えられないことである。
そんなところの家を建てておいて、大雨で堤防が崩れると、「行政の不備だから金寄こせ!」という論調で迫ることになるが、そういう場所にも建築許可を出したという意味では、行政の責任が問われても仕方がない。
津波の被害といっても、過去の経験から高台に移転していた集落は被害を免れているわけで、こういう自己防衛をどう評価すべきなのであろう。
同じ東北地方で、同じように太平洋に面した地域で、自己防衛で被害を免れた集落と、ただ単に「不便だから」というだけで、海の近くに居を構えて被害にあった集落をどういう風に評価すべきなのであろう。
自己防衛で被害に遭わなかったのだから、それだけで十分ではないか、という言い分はどうにも私個人としては納得出来ない。
大地震というのは天災にあって、他からの支援が全くないというのならば、皆平等に不幸な目にあったのだから運命として諦める他ないというのならば、それはそれで納得できる。
しかし、現実には自己防衛あるいは自分の智恵と才覚で災害を免れた人と、家や財産を全部失った人が混在していて、それが一様に被災者という括り方で支援を受けるとなると、どうにも腑に落ちない。
被災者のいる現場を見たこともないのでよく判らないが、義援金や支援物資というのは、被害の大小によって差別があるのかないのか果たしてどちらなのであろう。
東北地方の太平洋側に住む人で、海の見える範囲にいる人が、護岸堤防を信用して、海岸べりに住む、あるいは家を作ること自体、津波被害を全く想定しておらず、津波に合うという意識が全くないではないか。
津波の映像がテレビニュースで全国に放映されたので、それを見た人の大部分が、「被害にあった方々は可哀そうだ、気の毒だ」という感情に突き動かされたと思うが、そういう中で自己防衛をした人や、自分の智恵と才覚で被害を免れた人の努力は一瞥だにされていない。
私の老婆心は、そういう人にも支援金や、義援金は配分されるだろうかということである。
だがよくよく考えてみると、自己防衛や自分の才覚で被害を免れた人は、被害にあっていないのだから、被害者でもなければ被災者でもないわけで、義援金が一銭も来なくても文句は言えないのかもしれない。
この文章を綴るに当たって、インターネットで義援金のトータルを検索してみると、3491億円という数字が出ているが、これも正確なものではなく、トータルの正確な数字は判らないものらしい。
という事は、我々が「被災者が気の毒だ」と思って出した善意の金は、確実に被災者にわたっているとは限らないということだ。
誰かが何処かでネコババしている可能性も大いにありうるが、それを追求する術はないらしい。
しかし、善意の金が3491億円も集まったということは、それだけのカネが東北地方に落ちたという事ではなかろうか。
被災者が津波で流された家具を買ったり、テレビを買ったり、車を買ったりしたということであれば、それだけの経済効果が出てこなければならないと思う。
それは政府の交付金や、地方の補助金の類とは全く違っていて、全く善意の金なわけで、それが社会に還元されれば、何処かに流れ着くに違いないと思う。
この本のいう、純粋に科学的な論理は難しい部分もあるが、この本で一番良い部分は「あとがき」であって、「地震学者は地震の予知できない」と言う事をもっともっと国民にアピールしなければならないというのは、科学者の本音だと思う。
ただともすると、人は他者に不快な念を抱かせないように、「地震は予知できない」ということ正直に言えないので、結果として何となく希望を持たせるような言い方になってしまうから世間からの冷遇に合うのである。
地震学者が「地震の予知はできない」と正直に言えば、自分自身の存在感が疑われるわけで、「地震学者のくせに何をしているのだ」と言う論駁に至ってしまう。
この地震を体験したことによって、東北地方の護岸堤防はもっともっと強固にしなければならないということになるのであろうが、ならばどこまですれば安心か、ということになると答えはなかなか言えないのではなかろうか。
確率の問題として、千年に一度という安全率をどう捉えるかということになると思うが、あの東北地方に中国の万里の長城のような堤防が果たしてできるものだろうか。
ただこういう事は言えると思う。
我々、日本人というのは、物事を単一的に捉える民族で、堤防なら堤防、道路なら道路、ガス、電気、上下水道等社会的インフラも合わせて危機管理ならば危機管理と、一つ一つ単一の問題として考える傾向がある。
そうではなくて、複数の目的を合わせて一本のものに集約させる、という発想が下手だ。
千年に一度の地震に耐える堤防を作るのならば、それを高速道路としても使えるように、又電話、上下水道、光ケーブルなども全部組み込んだインフラ整備としても役立たせるような高機能なものとして作るという発想を醸成すべきだと思う。
一頃、スーパー堤防という事が言われていたが、政権交替した民主党の仕分け作業で廃棄されたように記憶している。
スーパー堤防よりももっと機能強化したものを考えるべきだと思う。
スーパー堤防は都市近郊の河川を念頭においた発想であるが、それを海岸の津波対策にも応用すべきだと思う。
今回の地震で、国民全般に地震対策という意味で、今住んでいる家の耐震対策の需要が増えたと思うが、そういうものは経済の下支えには成り切れないものだろうか。
住宅産業は充分に潤っているのではなかろうか。
聞くところによると復興バブルという現象が起きているやに聞く。
仮設住宅からタクシーでパチンコ屋に通う被災者がいると言われているが、これでは地震でなくとも日本は壊滅するに違いない。

「奪われる日本の森」

2012-04-19 10:35:02 | Weblog
知人の一人が自分の読んだ本を、「よかったら読んでくれ、気に入らなければそのまま捨ててくれ」といって本を送り付けてきた。
まるで我が家が本の捨て場の感がしないでもないが、貧乏父さん(爺さん)としては、自分の好奇心を刺激する本なので、そのまま捨てるのは忍びず、結局は読んでしまった。
「奪われる日本の森」というものでサブタイトルには「外資が水資源を狙っている」というものである。
発行は2010年なのでいささか古いが、それでも極めて今日的な主題ではある。
この問題の根本の所には、日本の林野行政に関する不備や不満があって、法的に日本の森を守る手だてが何もない点をこの著者は憂いている。
今の日本の林業は、産業として成り立たない面があるので、それが水資源の保護と直結している。水資源の保護と林業の育成は、車の両輪のような関係であるが、林業そのものが産業の体を成さないようになってしまったことが水資源の枯渇に大きな影響を与えているという論旨である。
その林業の実態がこと細かに語られているが、日本の林業の衰退は、安価な輸入木材の流入がその最大の理由であろう。
だが、日本で使う木材を外国から持ってこようが、日本の材木を使おうが、地球全体の材木が消費される事に変わりはない。
こういう産業の推移というのは、何も林業だけの問題ではなく、戦前・戦後を通じて日本が今まで繁栄を築きあげてきた過程では常にあったわけで、それは林業のみに限らない。
石炭産業も、絹織物も、他の繊維業界も、かつては栄華盛衰の試練を経てきているわけで、それはある意味で輪廻転生ということでもあるが、この問題がそういう問題と比べて一味深刻なのは、国土というものに直接関わりがあるからである。
日本の中に外国人の所有する土地が出来るという点に深刻さがあるのである。
そもそも、日本の野山に湧き出ている清水の水は、極めて美味しいことは言うまでもなく万人が認めるところである。
だから、その水の湧き出る場所を外国人が占有するとなると大きな問題を抱え込むことになるよ、と警告を出しているのである。
そもそも、こういう山林には境界をはっきり示す地籍が曖昧だということが、今まで知られていなかった。
日本の土地は、全てきちんと役場に届けられていて、地番が付いているものだとばかり思っていたが、深山幽谷ではそういう管理が全くなされていないなどとは思ってもみなかった。
ただ私が日常生活の中で思うことは、私の周囲の人でも、車にポリタンクを積んで、名水と言われる湧水を汲みに行っては自己満足に浸っている人間がいるが、私としてはこういう行為にいささか懐疑的である。
日本人として毎日食べているお米にも様々なこだわりを持っている人がいるように、水に対してもこだわりを持つことを非難するわけにはいかないが、私からすれば馬鹿らしい行為にしか見えない。そういう人がいるから、そういう名水をペットボトルに入れて売りだす行為も出てくるわけで、それに対して利に聡い外国資本がそういう商売に手を出したとしても、それを一概に阻止することも府に落ちない。
水は人間の生命の維持には欠かせない物質なわけで、ある意味では完全に戦略的な資源という事も言えるが、我々は太古から水と空気と自由はタダだという概念を持っているので、それを戦略的な資源だとするイメージを抱くことにはいささか違和感を覚える。
地球上の人類の中で、畑作放牧生活を主とする人々が地球上の緑を食い荒らしてしまったが、稲作水稲生活をする人々は、水を上手に使う技術に磨きをかけて、森の保全に並々ならぬ努力を重ねてきたという論旨は十分に納得できるものである。
毎年春先になると中国大陸から黄砂が飛んでくるが、あれは人間が中国の大地を丸裸にした結果であって、いわば人災というのだから驚く。
彼らが野山を丸裸にしたのだから、その後植林をすればああはならなかったであろうが、それをしないところが漢民族の漢民族たる所以なのである。
砂漠化した土地を元の緑に戻すということはほぼ不可能なことで、緑の原野を砂漠化することは安易に出来るが、その逆は不可能なわけで、それを中国人は有史以来し続けてきた。
この本の言わんとするところは、そういう中国人の触手が日本の森にも及びつつあるから注意を怠ってはいけませんよ、と言っているのである。
樹を切ったのでその後に植林をしておけば、砂漠化ということは避けられたであろうが、その植えた樹が再び地球を再生するまでには、人間の時間単位で途方もない長期のスパンを要するので、過去の中国人、要するに漢民族というのはその努力を放棄したという事だ。
問題はこの部分にあるわけで、中国人とくに漢民族の人々は、自分の目の前の利得にはなりふり構わずむさぼり取るが、その後のフォローには何の関心も示さないわけで、自然が荒廃するに任せたままで平気でいるというわけだ。
自分の回りから得るものが無くなると、次の場所に移動するわけで、移動して来られた側は、たまったものではない。
21世紀までの人類は、森の樹は無尽蔵にあるという認識でいたに違いない。
日本のみならず、アメリカでも、ロシアでも、いくらでも樹を切り倒して、外国に売り渡していたわけで、だからこそそれを買い叩いて来たから日本の林業が衰退したわけである。
日本の樹であろうが、外国の樹であろうが、樹の絶対数が減れば、その分自然界の酸素の再生能力の減少は必然的に減ることは言うまでもない。
日本の林業も、切って搬出できる範囲のものは全て切り尽くしてしまって、残っているのは切っても搬出できないところのものだけと言うことだ。
こういう問題に直面すると、私は人間の英知に期待を掛けたくなるが、これがなかなか不合理であって、英知が英知たり得ないのは一体どういう事なのであろう。
日本でも外国でも、地球規模で見て、頭の良い人は掃いて捨てる程いるに違いなかろうが、そういう人の英知が、この森の保護、砂漠化の抑制、水震源の確保という人間の生存に直接関わる問題に対して、優れた対応策や解決策を提示できないということをどういう風に考えるべきなのであろう。日本でも優秀な大学が掃いて捨てる程あって、そこの卒業生も腐る程いるに違いないが、そういう人の知性とか理性、理念というものが、社会の正常化にいささかも反映されない、ということはどういう事なのであろう。
林業に関しても 日本の大学の農学部で、林業を専門に研究しているところもあるに違いないと思うが、そういう学究的な実績が一向に我々国民の目に入ってこないということは一体どういう事なのであろう。
この本を読んで思い当たることに、日本では地権者の権利が余りにも強くて、国家権力さえもその個人の私有権を越えられないという矛盾にあらためて思い至った。
今の日本の国民に与えられた私有権、土地所有権は、国家権力でさえもそれを抑圧することが出来ず、公共の福祉のために個人の土地所有権に制限を加えることが出来ないので、それが為公共機関の施設が使用不能に陥っているケースがあって、その代表的なものが成田空港である。
たった数軒の個人の為に、日本の空の表玄関であるべき成田空港の機能が大幅に制限されている現状がある。
この問題に対しても日本の知識階層は、国家の利益を阻害している反対派住民に肩入れをして、日本の知識階層が国益を阻害している人達に良い子ぶって支援する風潮というのは由々しき問題だと思う。
個人の私有権の擁護と、国家のなす公共の福祉を秤に掛けて、個人の我儘を助長するような言辞を弄しては、学識経験者、あるいは知識人としての矜持に欠けると思う。
国家対個人という図式において、どうしても強い側が国家で、個人の立場は弱いものだ、という認識が普遍的であるが、公共の福祉という事が前提であれば、個人の私権の制限という事も素直に受け入れるべきだと思う。
この本の中では、森あるいは水源地を守るといった場合、この個人の所有権、私権が大きく立ちはだかることを危惧しているのである。
山林の売買に関して、売り主は一刻も早く手放して、現金化したいばかりで、藁をも掴む思いで買主を捜しているが、その売買には何の制限もないので、買主の素性が如何なるものであっても厭わず、外国人に渡る可能性が大いにありうるということである。
個人と国家という対立の図式で見ると、過疎の山林の持ち主と、得体の知れない山林ブローカーの存在というのは、資本主義の基本である自由競争に委ねられていて、国家が介在すべきものではないという認識が普遍化している。
だから強力な国家権力の介在という風には見えてはおらず、日本の知識階層には等閑な問題にしか映っていないので、国家の危急な問題とは考えない。
戦後、我々同胞の知識階層、知識階級、高学歴な大学教授やそれに類する評論家というような人々は、国家権力というものが悪の権化かのような認識に浸っている点に大いなる問題が潜んでいる。私に言わしめれば極めて無責任な態度ということになるが、何故に無責任かといえば、如何なる場合、場面でも、大衆、民衆、国民の側の権利を優先させるわけで、それには公共の福祉よりも一部の市民の我儘を優先させる、という大矛盾を正そうとしない点が無責任極まりない。
大衆や民衆というのは、その存在そのものが「善」であって、国家というのはその存在そのものが「悪」だという認識から脱却できないでいるわけで、その事は完全にマルクス史観に嵌り込んだ、妄想であって、自分の頭脳で現実を見ていないということである。
成田闘争に関んして言えば、一部の反対派の住民が未だに頑張っているので、本来もっと有効に、アジアのハブ空港としての機能を発揮し得るところがそうなっていない。
その事実は、大きく日本という主権国家の国益を阻害しているのだけれども、日本の知識階層は、未だに反対派住民をフォローし続けているわけで、これでは日本という国が良くなるわけがない。日本人の中でも教養知性が豊かで、学識経験豊富な階層の人々が、自分の祖国の国益を殺いでいて、自分の祖国の政府に反旗を翻して、自分の祖国の施策の足を引っ張っていてはいては、諸外国から尊敬を得られる国家たり得ないではないか。
日本という国土の中で、外国人が土地を買いあさって、一旦土地の所有権を握ってしまえば、それは国家権力さえも自国の国民のために有効に利用することが出来ないでは、日本という国家そのものこれから先存続し得ない。
日本における土地所有権に関んしては、国家権力でさえも関与し得ないというのでは、国家の繁栄ということは最初から成り立たないではないか。
外国人が日本の土地を買い漁る問題からは飛躍するが、日本という主権国家がこれから先世界と渡り合って生き残って行くことを考えた時、やはりグローバル化と言いつつも、自分たちのアイデンテイテイ―は維持しなければならないと考えざるを得ない。
日本が国論を二分する岐路に立たされたとき、日本の知識階層と日本のメデイアは、こぞって政府に反対する主張を展開する。
物事を推し進める時には『すべきか?すべきでないか!』とニ者択一を迫られることは当然であるが、政府が『しよう』と考えた時には、それを願う人々がいるからこそそういうアクションが起きるわけで、それに反対するということは、そういう人達の意思や願いを踏みつぶすことでもある。ところが、それに対して反対を唱える人達は、どういう対処方法を持っているのであろう。
私にはそういう反対運動をする人達は、政府に盾突くという事で、自分たちのパフォーマンスを演じているのではないかと思う。
現時点での問題では、福島の原発事故に関連して、原発を再開するかどうかという問題であるが、原発など無しで済ませれればそれに越したことはないが、果たしてそんなことができるかとなると答えはない。
反対派の人達はその点を突かれると、「それは政府の責任」と、自分の不利なことは政府に押しつけて、自分は見た目の良い、如何にも社会に貢献しているが如く、立派なことを言っている、かの様に振舞っている。
私に言わせれば、時流に便乗することの得意な、風見鶏に過ぎない。

『父・金正日と私、金正男独占告白』

2012-04-14 12:04:37 | Weblog
例によって近所の知人が自分の読んだ本を我が家に捨てて行った本の中から『父・金正日と私、金正男独占告白』という本を読んだ。
まだ新しい本で、今年の1月に発行されたばかりの本だ。
こういう本を自分の金で買って、読んだらすぐに捨てる贅沢を一度はして見たいと常々思っている。貧乏人はそういう贅沢が出来ないので、とぼとぼと地域の図書館でセーブ・マネーに努めねばならない。
ああ!!!情けない。
一度は自分の金で好きな本を欲しいだけ買い込んでみたい。
そういう愚痴はさておき、この本も前に述べたように、本来の表紙の上に更に別の表紙が被さっており、二重底というか過剰な包装というか、余分なことが成されている。
だが、その表紙の金正男の顔写真というのが余りにも品がなくて、警察が発行する指名手配の犯人の顔写真と同じである。
本人が見たらきっと出版差し止めするに違いない。
この本の中では金一族のことをロイヤル・ファミリーと称しているが、独裁者の一族という意味では確かにロイヤル・ファミリーであろうが、その実態はまさしく野生動物のファミリーに近い。
人類の歴史の中で我々人たるものが一夫一婦制を採用してきたということは、人間の持つ理性のなせるわざであって、人間が『考える葦』であるからには、それぞれの個々の人間が自分の頭脳で、自分たちの健やかな生存を考えた結果が一夫一婦制であったに違いない。
当然のこと、人間の理性にも人によって大きな振幅があるわけで、一夫一婦制に納得できず、尚本人の個性によっても一人の妻に納得出来ない人もいるわけで、いろいろな抜け道というか、言い逃れの便法も用意されていることは論をまたない。
しかし、人類の価値観としては一夫一婦制が普遍化したわけで、これがスタンダードな人間の道として認識されている。
しかし、金日成の一族は、そういう普遍化した人間の道を踏襲することなく、欲望の赴くままに子孫を増やしたので、母親もその子供達もまさしく野生動物の在り様と変わらない状態になってしまっているのである。
この状態は日本でも明治維新の前頃までは普通に見られた有り様で、そのこと自体を咎めるものではないが、近代の意識としては極めて時代錯誤しているわけで、この時代錯誤が統治の面にもそのまま現れている部分が問題なのである。
そもそも北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国という国の生い立ちそのものが、極めて不合理極まりないわけで、そこを最初に統治した金日成から金正日、金正恩にいたる世襲ということも、はなはだ不可解なことである。
この本の内容は、今の金正恩の腹違いの兄・金正男との情報のやり取りが主題になっているが、その中において、この兄が権力の世襲に対して否定的に見ていることが強調されている。
ところが、北朝鮮という国のすることは、普通の人の意表を突くことばかりで、我々の普遍的な認識が全く通用しないところが不可解千万である。
彼、北朝鮮という国は、自分達が国際社会で孤立している、しかも軍事的にも経済的に全く弱い立場だ、ということを武器にしている。
弱い者が強い者を恫喝しているわけで、こういう論理は普通の常識的な世界ではあり得ないが、それが現に存在することが北朝鮮という国である。
そのことは国家が国家の体をなしていないということだと思う。
普通の国家ならば、為政者は自分の国の国民、住民、市民に対して責任を負って、そういう人達が幸せに暮らせるように様々な方策を講じて、そういう人達のために便宜を計るのが普通の主権国家というものである。
為政者がそうであるからこそ、その国の国民は、為政者に対して納税や兵役の義務を負うのである。為政者の行う国政の第一の目的は、自らの国民の福祉に貢献することであって、自分の国の国民に豊かな生活を補償することである。
ところが中国や北朝鮮の為政者は、国民の福祉という概念が全く念頭にないようで、自分が国家権力の椅子に座り続ける事と勘違いしている節がある。
昔、東西冷戦華やかりし頃、中国の毛沢東はアメリカの核攻撃に対して、「そんなモノは全く怖くない」と言い放ったことがある。
中国は「13億の人口を抱えているので、1億や2億死んだとしても、残ったもので起死回生が図れるので、アメリカの核攻撃など少しもこわくない」と言ったとされている。
今の北朝鮮が6カ国協議に立ち向かう姿も、この構図と瓜二つで、北朝鮮の為政者にとって、自分の国の国民、住民、市民のことなど眼中になく、ただただアメリカと対等の立場でモノを言う事だけが、彼らの存在価値であるかのような対応である。
こういう為政者の姿は、アジアの地に連綿と生き続けているであろう野武士、山賊、夜盗、強盗、馬賊、軍閥の類でしかないということだ。
これは日本でも江戸時代前の戦国時代はこれとほぼ似たり寄ったりの世界であったわけで、織田信長も徳川家康も、ほぼこれに似た部族集団であったと見做していいが、言い方を変えれば、近代化以前の人間集団だということに他ならない。
近代化以前の人間集団であるが故に、為政者は、自分の隷下の人間を、国民だとか市民という認識ではなく、奴隷かぐらいにしか考えていないのであろう。
だからアメリカが「食糧援助を断ち切る」と言ったところで、国家の上層を成している人々は何の痛痒も感じず、困るのは下々の人間だということに考えが及ばないので平気でおれるのである。
今回、平成24年4月13日、北朝鮮はロケットの打ち上げに失敗したが、それに先立ってその打ち上げの施設を世界のメデイアに向けて公開した。
ところが、それほど大見えを切ったにも関わらず失敗だったということは、完全にもの笑いの対象になったが、そういう感覚が彼らにはないのであろうか。
人間の集団が近代化すると言うことは、大勢の人の意見を聞いて、その中の最良と思われることを採択して、前に進むということであって、たった一人に独裁者が自分の意向でことを動かすことではない。
北朝鮮が、ロケット打ち上げのコントロール・センターを世界のメデイアの公開したということは、彼らにとって真のロケット打ち上げの本質が判っていなかったのではないかと思える。
日本の場合でも、ロケットの打ち上げは国防という意味からでなくとも、技術的な秘密部分もあろうかと思うので、全面公開というわけではないと思うが、テレビの報道で見る限り、北朝鮮のロケット打ち上げのコントロール・センターの在り様は芝居のセットのようにしか見えなかった。
私のような素人であればこそ、あれでロケットが打ち上げられるのか、甚だ不思議に思えたものだ。このあたりのセンスが、普通の常識人の意表を突くものであって、実に摩訶不思議な部分である。何でもかんでも秘密にしながら、大事なことを公開したと思ったら、まるで芝居じみた振る舞いで、こちらが度胆を抜かれた思いだ。
小泉総理の時に行われた日本人拉致の問題でも、最初七人は何の問題もなく返したが、その後横田めぐみさんの件になると、偽の骨まで出してきて問題を混乱させてしまったが、あれは一体何であったのだろう。
急所を突かれると場当たり的にその場を取り繕うという感じで、見え見えの嘘を平気でつくという神経は、我々には理解し難い面がある。
こういう彼らの態度は、我々の感覚からすれば、全く誠意のない行為に映るわけで、我々の倫理感では決して許される事ではないが、彼らにはそういう認識が欠けている風に見える。
この倫理観の相異というのは、地球上の人間集団にはそれぞれに固有のものがある。
人間の集団には、その集団が置かれた地勢的な条件によって、それぞれ固有の思考回路が出来上がっていると思う。
我々、日本人の倫理感では、誠実こそ至上の価値観であるが、朝鮮民族にとっては誠実さよりも、その場その場を如才なく泳ぎ回る知恵こそ至上の価値を示しているのかもしれない。
他者に対して奉仕や貢献することに価値を示すのが我々の倫理観で最も高い価値を示しているが、アジアの諸民族の間では、自己保存のみに価値を示す例が多く、自己犠牲など最も卑しむべき行為と見做している民族もいる。
北朝鮮の金一族も野武士の集団ではないので、周りに有能なスタッフを揃えて物事の判断をしているとは思うが、そのスタッフがボスの顔色ばかりを伺って、ボスの喜ぶことばかりを提言していたとしたら、全体が崩壊しかねないことは当然のことである。
先日、韓国を観光旅行してみたが、韓国の近代化は目を見張るものがある。
こういうことを言うと韓国人は怒り心頭に来る想いに立つかもしれないが、韓国の近代化には、彼らのいう「日帝36年の七奪」という命題が大きくのしかかっていると思う。
これの別の言い方をすれば、朝鮮は日本に支配されたからこそ、近代化に目覚めれたという事だ。
朝鮮民族は朝鮮民族の自らの内なるエネルギーでは自己改革、近代化という意識改革を成し得ず、従来からの老醜の呪縛から脱し切れずに、中国の属国のままでしか生きれなかったに違いない。
「日帝36年の支配」があって始めて朝鮮民族は近代的な法の存在を知り、税のシステムを学び、社会的インフラ整備ということを習得し、学校制度を確立して進取の気風を醸成し、意識改革に成功し得たのである。
それが今の韓国の経済発展の礎になっているが、それを言うと、彼らの自尊心の估券に関わるので、口には出せないのだろうが、こういう部分が余りにも利己的に我々には見える。
自分にとって不利な部分、自分にとって恥の部分、自分にとって弱い所を曝すことは自尊心が許さないわけで、それをカモフラージュするために、故意に虚勢を張るという部分が彼らにはあるように見える。
北朝鮮も日本が敗戦を迎えるまでは日本が支配していたわけで、日本はこの地域に莫大な社会資本の投下を行った。
その事を今では日本の悪行であるかのような言い方でいわれているが、その社会的インフラ整備をことごとく無にしたのは、彼ら自身の彼らのための戦争であって、日本が折角作り上げた近代工業の礎をことごとく無に帰したのは彼ら自身の選択であった。
私としては、北朝鮮のことを特に注視して見ているわけではないが、日本のメデイアの報ずるところから察する限り、北朝鮮においては国家としての組織そのものが充分に機能していないように見受けられる。
そういう状況であるからこそ、この本の著者・五味洋治という東京新聞の記者は、そのロイヤル・ファミリーの一員である所の金正男に近づき、コンタクトを取ったのであろう。
金正日という為政者の長男として、自分の子供を海外で教育するということは、帝王学としては有りうることであろうが、そうであればこそ、そういう教育を受けたならば祖国に戻って、国政にその留学で得た広範な知識を反映させてしかるべきである。
ところが彼の場合、そういうことは見受けられないわけで、あくまでも放蕩息子の域を出るものではなく、ただただ金日成一家の末裔というに過ぎない。
この本の著者である五味洋治も、彼が金日成一家の末裔と言うだけで、ジャーナリストとしての触角が動いたのであろうが、いくら彼とインタビューした所で、それは芸能人のインタビューと同じ次元でしかない。
ただその対象が北朝鮮の為政者の放蕩息子だから、取材対象としては多少値打ちが高い、という程度のものでしかない。
そもそもこの本の表紙の顔写真からして戴けない代物ではないか。
この写真は著者・五味洋治自身が撮影したものと記されているが、そうであるとするならば、彼自身の審美眼、あるいは美的センスというものが疑われる。
この本の表紙の写真はそれこそ指名手配の顔写真であるが、裏表紙には家族一員の記念撮影的な小さな写真が記載されている。
だが、こちらの方がよほど頬えましいものである。
著者が本人に直接会って写真を撮らせてもらったというからには、たった1枚ということは考えられないので、他にも良いものがあったに違いないと思うが、敢えてこの写真を選択したということは、そこにこの著者のセンスが映っていると言う事である。

「背信政権」

2012-04-12 22:15:26 | Weblog
例によって近所に住む知人がわが家に捨てていった本の中から「背信政権」という本を読んだ。
まだ新しい本で、中央公論新社が昨年(平成11年)の5月に発行した本である。
私の知人は金持ち父さん(本当は爺さん)なので、こういう本を右から左へと買っては捨てられるが、私は貧乏人を自認しているので、とても同じ真似はできない。
この本の定価は1600円となっているが、本来、本の値段などというものは、中身の内容によって軽重が変わるものではないかと思う。
内容的には文庫本で十分なものをこういう単行本に仕立てるということは、資本主義体制の最も基本的な部分であろうが、それを言葉を変えて言えば、売らんが為に創意工夫が満載されているということでもある。
本の内容に関わる問題ではないが、ただただ消費者の財布を緩める為の工夫が盛り沢山なわけで、その一つが表紙の体裁である。
本であるからには、表と裏に表紙があることは当然でるあが、本来の表紙の上に更にもう一枚綺麗な表紙を被せ、その上に尚も帯までが入っている。
これでは普通に土産物屋で売っているお土産の二重底、あるいは上げ底に匹敵することで、本を買う消費者からすれば、そんなに綺麗な表紙のカバーに金を払う気は更々ないに違いない。
私自身は根が貧乏なので自分の金で本を買うということはあまりしないので、出版界の寄生虫のようなものだが、それでもこういう本を手に取るといささか不思議に思う。
そして書いた人がこれまた讀賣新聞の人で、民主党政権になってから読売新聞社内で、民主党政権をウオッチするチームが作られ、社会部と政治部の混成チームでウオッチし続けた結果を纏めたものだということが判る。
新聞に連載された記事を、後で一冊の本にするということは往々にしたあることだと思うが、その時の版権は一体何処に帰属するのであろう。
出版界の寄生虫が心配する筋合いのものではないが、そういうことは専門家集団なので我々のような素人が心配するに及ばないかもしれないが、素人としては気になるところである。
新聞社の人間が、会社の金で取材して、それを記事にするまではよく判るが、その後に残ったその原稿は一体どうなるのであろう。
一旦記事なった後の原稿を寄せ集めて、更に一冊の本に仕立て上げることは、悪いことでないと思うが、その本の売り上げとしての儲けの落ち付く先は一体何処にあるのであろう。
メデイア界ではこういうことがよくあって朝日新聞でもNHKでも、一度公開した内容を再び本にしたり、他の映像として世に出すことはままある。
その時に取材した記者は、自分の仕事の範囲内として、その後で本にした部分の儲けにはタッチしていないというのならば納得がいくが、その意味で大学の先生の出す本にも同じことが言えると思う。
大学という組織の中で、給料を受け取って、大学の研究費で研究をして、それを学会誌に発表する、学術誌に発表するまでは大学の先生としての常識的な立ち居振る舞いであろう。
ところが、その原稿を一般の読者向けに手直しして、一般向けの教養書として発行し、印税を稼ぐとなるといささか問題になるのではなかろうか。
こういう下素っぽい論議はさておいて、小泉政権の後の自民党の体たらくにはほとほと嫌気がさして、民主党に乗り換えてはみたものの、これも全く頂けない有り様である。
我々日本民族というのは、物作りには長けているが、どうして政治的には何時まで経っても3流国の域を出られないのであろう。
我々日本民族は極めて単一民族に近いと言われているが、厳密には海から来た異民族とも融合しているわけで、限りなく単一民族に近いと言いつつも正確にはそうではない。
しかし、我々日本民族を取り巻く地勢的な環境は、海が極めて強固な要塞の役を果たしていて、他民族の影響を限りなく制限してきたことは確かだと思う。
ある意味で海が隔壁の役を果たして、その中で限りなく純粋培養に近い有り様で進化してきたに違いない。
我々の国土に住む我々の同胞は、極めて純粋培養に近い状態で生き永らえてきたので、極めて単一性が高く、それこそ以心伝心という技を知らず知らずのうちに習得していた。
自分の周りの人間は、全てが自分と同じ日本人であり、同胞であるので、何も警戒する必要が無い。相手を信用しても、「庇を貸して母屋を取られる」ことを心配する必要がないし、農業に生産基盤を置いているので、自然の恵みは年々巡ってくるわけで、集落を統治する役目もお互いの回り持ちで済ませれたわけである。
統治ということを、人々を管理するという発想で捉えるのではなく、役職の盥回しという感覚で捉えて、皆が平等に役職を務め、皆が公平に使役を分担するという感覚で捉えていたのである。
集落のトップの地位は統治のためのポストではなく、輪番制でたまたまそこに座っただけのことで、権力の象徴でもなく、統治の指標でもないわけで、決して固執する立場のものではなかった。
この部分は、地球上の他の民族の概念とは全く相容れない思考であって、日本の常識が世界の非常識であり、世界の非常識が日本の常識である所以である。
しかし、日本が鎖国状態のときはこれでもよかったが、我々の国も世界の国々と歩調を合わせて歩もうとすると、これでは世界に通用しないことは当然のことである。
この本が語りかけていることは、日本の中において、日本人が日本を統治するについての余りにも不手際が多すぎることを憂いているわけで、これは日本人の自らの統治能力の瑕疵にそのままつながっている。
我々日本人の祖先は、農耕民族として水の管理にはそれこそ血道を分けた紛争を経てきていると思う。
Aという集落とBという集落とCという集落が、それこそ田に引く水に関して死活問題として論じ合ったに違ない。
それぞれの村の長が集まって、鳩首会談をしたに違いないと思うが、今の民主政治もこの延長線上にあると思う。
要するに、政治に対する感覚として、江戸時代の村の長の寄り合いの域を出るものではなく、そういう感覚で21世紀の政治をしているからこそ、無意味な議論が罷り通っているのである。
民主党の掲げるマニフェストというのは、国民が心の底から渇望しているものを網羅しているが、これがその通りに実現できればこんなに幸せなことはない。
しかし、その財源は何処から出すのだ、となると明確な答えはないわけで、結果として出来もしないマニフェストを掲げた、嘘を言ったという結果に結び付いてしまう。
子供手当でも、出来ればそれを振りまいた方が国民が喜ぶのが当然であるが、「ならばその財源は?」となると答えはないわけで、そこで自民党との確執ができるのである。
国民の為という大義の前では民主党も自民党もない筈である。
問題は、その大義の重心を何処に置くかの違いだけで、自民党でも理念としては「子供手当など全く必要ない」と言うわけではない筈だが、政党として政党の利害得失を考えると、民主党の言うことにもろ手を挙げて賛同するわけにもいかない。
これが党利党略というもので、この党利党略が大きな足かせになっているのが今の日本の政治の状況だと思う。
与党の提案にもろ手を挙げて賛成すれば、反対党の存在意義が失われるわけで、政党政治である限り、心の中で相手の党の言う事に賛成であったとしても、政党員である限りそれが表に出せないのである。
ここで党と個人の関係が日本の封建性のしっぽのようなものと映り、前近代的な思考を引きずっているあかしである。
それと、我々日本民族というのは、責任ということに極めて曖昧な思考しかもっていないように思う。
自民党政権でも民主党政権でも大臣に任命された人が、他愛のない失言で大臣の椅子を放り出すケースが後を絶たないが、これは一種の責任の取り方の一つではあるが、そういう責任の取り方があっていいかどうかの議論は一向に出てこない。
人は誰でも失言の一つや二つは無意識のうちに発してしまうと思う。
不用意で言ってしまうこともあれば、常日頃心中で思っていることがポロッと出てしまうこともあろうかと思うが、その度ごとに大臣が変わると言うのも、余りにも大臣の値打ちが軽いということでもある。
人の発言の言葉尻をつかまえて、揚げ足取りに徹する行為も、余りにも議論の本旨をゆがめてしまうもので、民主主義の本質を見失う最大のものだと思う。
これは政界、政治を司どる立場のものが、政治をマツリゴトと認識して、村の寄り合いの延長線上の認識で以て、マツリゴトというパフォーマンスを演じている図でしかなく、国民のために何を成すべきか、ということを忘れた立ち居振る舞いだと思う。
そして、この本の内容であるが、この本は政権交替した後の民主党政治の政局を縷々述べてるが、問題はこの政局を述べる、政局を語るという行為であって、これは実に下賤な振る舞いではなかろうか。
俗に床屋談議という言葉がって、床屋で語られる政局は、無責任極まりない放言ばかりで、何の参考にもならないという意味で言われているが、この本もそれと全く同じ轍を踏むもので、民主党政権の政局をいくら熱弁で語ったとしても、屁のツッパリにもならないという典型的な例である。
民主党というのは元を正せば革新政党で、憲法改正反対、自衛隊反対、日米安保反対が基本的な伏流水として在るわけで、アメリカ占領軍のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの最も忠実な実践者でもある。
対日戦に勝利したアメリカの、日本民族の金玉抜き政策を後生大事に押し戴いて、日本民族であることを否定しようとする人達である。
民族としての誇りも名誉もいらない人達で、ただペットのように飼い主から餌さえ与えられれば、自らの力でそれを維持管理することさえも忌避しかねない思考なのである。
鳩山由紀夫などは宇宙人と言われるぐらいノー天気な人なので、耳触りの良い綺麗な言葉に酔いしれて、出来もしない約束を安易にするので、後に続く人が困ってしまっているが、本人は自分の撒いた種の事の重大さに全く気が付いていないようだ。
この人の政治感覚は全くのド素人であって、浜田幸一氏のように生き馬の目を抜く修羅場に顔を出すべき人ではない。
「おだてりゃ豚も木に登る」という例えのようなもので、政治家としては全く人畜無害な人であるが、それがおだてられてノコノコ顔を出すから、世の中が混乱するのである。
彼の最大の失敗は、沖縄の米軍の移転問題であるが、彼は余りにも安易に出来もしない約束を交わして、それが結果として彼の命取りになったが、彼の約束は彼が退いた後も生きているわけで、その事を考えると彼は日本の国益を大きく損ねたことになる。
ところが、この彼の失政の責任、国益を大きく損ねた責任は一体どうなるのであろう。
今月に入って彼は再びイランを訪れて、イランへのIEAOの在り方に文句をつけて物議をかもしだしているが、彼の政治的センスというのは一体どうなっているのであろう。
馬鹿とか阿呆としか表現の仕様がないではないか。
管直人も市民運動家出身の総理大臣ということであるか、彼自身も自分が統治者と言う認識が無く、国民を統治するという意識は持っていないと思う。
市民運動の延長のような感覚で、町内のお祭りや運動会をし切っているような感覚でいたに違いない。
町内のお祭りや運動会をし切っている分には、全部が日本人という仲間であるが、国の総理大臣ともなれば、付き合う相手は国際的な広がりを持つわけで、仲間内というわけにはいかない。
そこに東日本大震災が覆いかぶさってきたわけで、それに付随して東京電力の福島第1原子力発電のメルトダウンが追い打ちをかけたので、民主党政権の危機管理能力が見事に試されたことになった。
民主党は今までは野党であって、与党、自民党に対して言いたい放題のことを言い、責任は一切回避できたので、随分とお気楽な立場でおれたが、自分が政権をとってみると、与党の辛さを身に沁みて感じたに違ない。
しかし、考えてみると人間の集団というのは実に不思議な存在だと思う。
人間の集団という言い方は極めて雑駁とした捉え方であるが、地球上のあらゆる主権国家には、それぞれに優れた大学を持っていると思う。
大学ともなれば、それぞれに知の殿堂なわけで、そこを出た人は、それぞれに優秀であって優れた知性と理性の持ち主に違いない。
そういう人が頭を寄せ合って、それぞれに国家の運営に当たっていると思うが、それでもこの世に失政ということは多々ある。
これは一体どういうことなのであろう。
日本にも有名大学は掃いて捨てるほどあって、今の若者の60%以上がそういう大学を出た人だと言われているが、21世紀の日本はそういう高学歴社会に至っている筈であるが、そうであれば今日の政治の低迷は一体どう説明するのだろう。
民主党は高校無料化を目指し、大学は全入を目指しているが、日本がそういう高学歴社会になればもっともっと住み易い国になって当然であるが、そうなっていないのは何故なのであろう。
大学での教育というのは一体何なのであろう。
日本は戦争に負けたので、アメリカ占領軍のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムに忠実に従って来た経緯があるが、民主党員が政権を担うような時代になれば、我々の祖国が根本からメルトダウンするのも当然の帰結と言える。
一度敗戦を経験したら「もう金輪際、武器を取ることを止めましょう」、一度原発が事故を起こしたら「もう金輪際、原発は止めましょう」というのは余りにも幼児じみた思考ではなかろうか。
中国漁船が日本の巡視艇にぶつかってきたので船長を逮捕したら、中国の恫喝にあっさり屈服する民主党政権の不甲斐なさも、基本的にはアメリカ占領軍が日本国民に施した、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの完膚なきまでの成功例である。
金玉を抜かれた日本民族は、世界の羨望の的であることは間違いない。
何となれば、こんなに人畜無害でよく働く民族は他にいないわけで、踏んでも踏んでも雑草ように立ちあがって、モノを作りに精を出す民族は他にないからである。
中国人あるいはアメリカ人からすれば、まるで打ち出の小槌のようなもので、打ちつければ打ちつけるほど金銀財宝がザクザク出てくるわけで、こういう民族を根絶やしにすることは、彼ら自身の損失につながる。
だから彼らからすれば、生かさぬよう殺さぬよう、適当に泳がせておくことが最良の策なわけで、彼らはそれを実践しているのである。
適当に餌を与え、出過ぎた時は制裁を加え、おとなしい時はおだてて働かせれば、日本民族というのは実に生真面目に働く。
その中で、その殻を破る勇気を持った者はおらず、その殻を破って本来の大和魂を発揮しようとすると、自分に災禍が及ぶことを恐れ、そういう人の足を引っ張り、一様に綺麗な言辞に惑わされて、血を見ることを避けたがる傾向の中で飼いならされているのが我々の現実の姿なのである。
そういう現実であったとしても、それで直接人が死ぬわけではないので、それが平和だと思い込んでいる。
民主党政権というのは基本的にこういう人々の政権なわけで、魂を抜かれた大和民族の末裔であるが、それでも人は生きて行かねばならず、プライドや誇りは投げ捨てでも、生物的に生きねばならないのである。
こういう非常に心根の優しい政権なので、国民に喜ばれる施策は大いに推し進めるが、その結果に関して責任を負うものではない。
その責任は次世代に先送りするだけで、自分たちは人から恨まれる施策は極力さけて、耳触りの良いマニフェストを吹聴するのに一生懸命になっているのである。

「YUIGON」

2012-04-11 08:10:19 | Weblog
近所に住む知人が自分の読んだ本を捨てる前に私に置いて行ってくれた。
その中の「YUIGON」という本を読んだ。
著者は浜田幸一氏であって、この本の表題は、彼の言うには『遺言』という意味と内容を盛ったもの、ということらしい。
この浜田幸一という人はメデイアにもしばしば登場して人気を博しているが、そういう彼のパフォーマンスは彼の気持ちの中では政治家を辞めた後の政治活動というものらしい。
この本は彼が自らペンをとって原稿用紙を一字一字埋めていったものではないようだ。
ある意味で口述筆記に近いものではないかと推察するが、それだからこそ非常に読み易く、判り易い文章で綴られている。
彼のメデイアにおける発言は非常に過激に思える部分もあるが、彼はでたらめを言っているわけではなく、非常に的を得た発言をしている。
彼の考えていることは、基本的に私の思考と合致しており、私は彼の思考回路を非常に買っている。ただ、問題とすべきことは、彼がアメリカのラスベガスで賭博をして大負けをしたと報道されたが、そのことが彼の不道徳、不行跡、不届きな行為という印象で、世間の人に認知されている。
ところが、この部分の彼の弁明では、一旦受け取ったリベートを先方に返す為の振る舞いだったといっている。
もしこれが真実ならば、日本のメデイアの本質が問われるべき課題だと思う。
あの戦争中に、日本政府の大本営発表がことごとく嘘であったことを戦後我々は知ったわけであるが、それと同じことが戦後も行われていた、ということは実に嘆かわしいことだと思う。
浜田幸一というオッチョコチョイの政治家が、ラスベガスで賭博をすることの裏も取らずに報道する、というメデイアのオッチョコチョイ振りを何と評したらいいのであろう。
浜田幸一氏が、小佐野賢治か児玉誉士夫か田中角栄の依頼で、受け取ったリベートをアメリカ側に返還に行ったとすれば、それを察知し切れずに「ラスベガスの博打で負けた」という根も葉もない報道は一体何であったのかという事になる。
事の核心も探りきれない報道であったとしたならば、報道の意味を成さないわけで、浜田幸一の功罪よりも、メデイアの不甲斐なさを真剣に憂えなければならない。
彼は政界という伏魔殿の中で修羅場を掻い潜ってきたわけで、そのしたたかさおいては人後に落ちないだろうが、その意味で終始一匹オオカミ的に行動し、派閥に属さない生き方を選択したと言うことは大いに共感を覚える。
一匹オオカミ的な態度を貫いたからこそ、言いたい放題のことが言えた、という面もあろうかと思うが、民主政治というのは基本的にそういうものでなければならないと思う。
しかし、民主政治というのは数のマジックが罷り通る場であって、理念や理想をいくら語っても、最後に決するのは人の数であって、正しいことが必ず多数の賛同を得られるとは限らない。
浜田幸一氏の本とはいささかずれるが、昨年の地震による東京電力福島第1原子力発電所の事故に関連して、日本中があの事故を契機にして、「もう原子力発電は要らない、原発廃止」という運動が盛り上がったが、こういう国民大衆の心理もよくよく注視しなければならない。
あの事故で、福島県の一部では放射能が飛び散って人が住めなくなった、という面は如何ともし難いが、だからといってこれから先原子力発電を一切認めないという発想も極めて短絡的な子供じみた発想ではないかと思う。
再び同じような事故を起こしたくない、という感情論は十分に理解できるが、「だから今後一切原子力発電は罷り成らぬ」という発想は、余りにも幼児じみた思考ではないかと思う。
大震災がきっかけとはいえ、誰でも「同じような事故があってはならない」と思っていることに変わりはない筈である。
だからといって「一切、原発を認めない」という発想は、言葉としての理念の綺麗さ、絶対正義に対する盲目的な従属に惑わされた思考停止状態ではないかと思う。
美しい理念や理想を並べることで自分の人格が向上したような気分に浸っている愚昧な人々ではなかろうか。
資源小国の日本にとって、また原爆の被害国にとって、原子力に関するモノが無いに越したことはないが、「ならば日本の電力をどうするのだ」と言ったとき、「節電に務めれば良い」という無責任な答えしかないではないか。
節電などということは、原子力発電が正常に機能している時でも、するのが当たり前のことで、原発のあるなしに関わらずしなければならないことであって、この期に及んで改めて取り組む問題ではない。
我々が問題とすべき点は、「原発が事故を起こしたから、もう二度と同じ惨劇を繰り返したくない」という思いは万人に共通のものであろう。
だが、こういう発想では人類の進化は望めないわけで、同じ惨劇を再び繰り返しては成らないという思いを、事故の真相究明とそれに応じた対策に充てるべく、前向きに考えてこそ人類に未来に貢献する思考ではないかと私は考える。
事故が起きたから「原発を一切合財日本から無くしましょう」では、一見整合性のある議論に見えるが、考え方としては後ろ向きの思考だと思う。
それと合わせて、日本の立ち居振る舞いは世界が見ているわけで、日本で原発廃止の動きが出れば、石油業界のメジャーは「日本は再び炭素エネルギー、石油エネルギーに戻ってくるに違いない、それ稼ぎ時だ」という動きに出る。
現に石油は値上がりし続けているわけで、世界は敏感に日本の動きをウオッチしているのである。その意味で、世界で生き馬の目を抜く熾烈な駆け引きをしている石油メジャーは、我々が日本という国内で大きな声で「原子力発電を止めましょう」と声高に叫んでおれば、「いずれ石油買いに来るからストックしておけ」ということになるのは必然的な動きである。

浜田幸一の政治から少々逸脱してしまったが、彼の政治に対する論旨は、そう極端に変わったものではなく、極めて平穏な思考であったように思う。
ただ彼は派閥に属していないので、他者の支援が得られずその分、派手なパフォーマンスを打って注目を引かねばならなかった。
その為に、一見、極端な立ち居振る舞いを演じなければならなかったことは事実でろうと思う。
民主政治というのは極めて不都合な部分も併せ持っているわけで、多数決原理で事を運ばねばならないので、その多数意見というのが必ずしも最良の方策ではない、ということを真摯に考えなければならない。
民衆、大衆にとっての政治の利得というのは、自らの益するものを得ることであって、民主党のばらまき政策というのは、一般大衆にとってこれほどありがたいモノはない筈である。
政治が生活保護や子供手当、医療補助をすることは国民にとって極めて有難ことに違いない。
しかし、その為には財源がいるわけで、一般大衆や国民は、その方面には無関心なわけで、貰える物さえ貰えれば嬉々としておれるが、その為には増税しなければならず、そのことに対してはなかなか納得し得ない。
本来、民主政治というのは、国民に負担を強いて、国家の付託を国民の全部が分け合うものではないかと思う。
戦後66年間の内の終戦直後の時代は、それこそ生きんが為にがむしゃらに働いた時期であったが、それが高度経済成長を達成し、その後の経済の低迷を招いたわけで、その低迷の時期からいまだに脱出できないでいるのが今の日本の姿ではないかと思う。
ここで我々が考えなければならないことは、当時、日本とアジアでは経済の格差があって、アジアでは人件費が安かったので、製造業は全てアジアにシフトしていった。
結果として製造業のノウハウもアジアに移転してしまったわけで、そのおかげで韓国、中国その他アジア諸国も経済的に大いに発展し得た。
近隣のアジア諸国は、日本から製造業のノウハウを習得し、安い人件費で洪水のようにモノを生産し、それを輸出にあてて経済の底上げに成功したが、それはかって日本が歩んだ道でもあった。
問題は、あの高度経済成長の時、日本では人件費が高くなって製造業が成り立たなくなった。
その時、安易に人件費の安いアジアに工場を移したことにある。
こういう場合の我々の発想が実に安直で思慮分別に欠いた思考ではなかったか、という反省であるが、我々の同胞の中で誰一人だそれを指摘する者がいない。
この発想は「原発が事故を起こしたからもう原発は止めましょう」という発想と全く同じであり、
大東亜戦争に負けたから「もう金輪際、武器を持つことは止めましょう」という思考と全く同じである。
「日本では人件費が高いからアジアに行きましょう」という発想は、余りにも安易な思考であって、それがひいては日本の市場が無くなってしまうという事まで考えが及んでいなかったではないか。日本から製造業が無くなってしまえば、日本の失業者が増えることは理の当然ではないか。
今の日本経済の低迷は、日本に製造業が存在しないので、人々の働く場がない、それが失業者の増大になり生活保護世帯の増加になっているわけで、民主党の近近の課題は人々の働く場を提供することである。
東北の震災復興がままならないのは、あの地に製造業がないからに他ならず、製造業があれば失業者を吸収することが可能で、その分生活保護の給付も減るに違いない。
日本経済の低迷は日本の製造業がアジアに進出した時期から始まっているわけで、モノの作り方を相手に教えれば、相手は教えられたという恩義はいささかも感じないので、「庇を貸して母屋を取られる」仕儀に至ったわけである。
ここで問題になってくるのが人間の知恵という事になるのだが、日本には立派な大学がいくつもあるにもかかわらず、こういう国家の帰趨に貢献する知恵を提供する者が現れないというのは一体どういうことなのであろう。
そもそも人間の組織というものは実に不可解な存在で、あらゆる組織にはそれこそ優秀な人材が掃いて捨てる程いるのであろうが、そういう人の知恵が一向に具現化せず、組織そのものが崩壊するということは一体どういうことなのであろう。
人は綺麗な言葉に惑わされやすい。
しかし、人間の生き様というのは綺麗な言葉では語り継げれないわけで、阿修羅を掻い潜る勇気と挑戦者魂が必要だと思う。
浜田幸一氏はそれを持っていたことは間違いない。