例によって図書館から借りてきた本で、「北欧ヴァイキングろまん」という本を読んだ。
著者、波勝一廣氏がスカンジナビア半島を列車で旅した紀行文であった。
スカンジナビア半島というのは私にとっても非常に興味ある所で、出来れば自分の目で見てみたい場所の一つではある。
ところが私はそのスカンジナビア半島よりも、この本を書いた著者に非常に興味を持った。
この本の奥付きを読んでみると、この著者は若い時に何年もヨーロッパを旅したと書かれているが、そういうことをする気持ち、何故そういう放浪の旅に憧れを抱くのか、そういう若者の心理に非常に興味が沸く。世界を放浪するというのも、本当の馬鹿や阿呆では出来ないことで、それはそれなりに考えて行動しているのであろうが、そういう自由気ままな生活に若者が惹きつけられて、それを実行に移す行動力の不思議さである。
そういう人は基本的に馬鹿ではないので、自分の意思をことのほか大事にしているのであって、それは同時に、人から言われたことには素直に従わない、人から指図されることは厭だという、具体的な自己主張でもあろう。
私のような旧世代の思考からすれば、そういう態度は「我儘だ」ということになるが、戦後の日本人は、この我儘ということをその人の個性と見なして、肯定的に受け入れている。
大方の高等教育の場、つまり高校レベルの学校には校則があるのが普通であるが、学園生活という集団生活の中では、一人一人がその規則を順守することによって、教育がスムースに実施され、同時に社会人としての訓練が行き届くと考えられている。
これを生徒の側から見れば、校則によって一人一人の自由、あるいは我儘が管理されることになるわけで、鬱陶しい存在であることは当然であろう。
よって、その校則を無視するものが現れるわけで、無視すれば当然処罰ということになる。
此処で、規則を無視した人はそのことによって何らかのペナルテイーを甘受することになるが、こういう場面になると、戦後の日本人の有識者たちは、こぞって校則の存在そのものを悪弊と見なして、個人を規則で拘束することを「悪」と認識するわけである。
だから規則に反する行為をした人に対するぺナルテイ―を素直に認めず、それを弱者に対する抑圧という構図でとらえるのである。
完全に規則の破壊、崩壊をフォローする発言なわけで、共産主義の思考と完全に軌を一にしている。
人が集団で生きる為にはルールが必要なわけで、そのルールを率先して守ることで社会が維持されているのに、それを根本から否定しようとするわけで、それは完全に民主主義の否定につながる。
校則に従わない人間を勇気ある人間として褒め称え、校則そのものを旧弊と決めつけて、そういうルールを破壊する方向に若いものを導くわけである。
近い将来、成熟した大人になる若者に、「あなた方はルールというものを無視して、旧弊を打ち破る行為を推し進めなさい」と説くわけで、これで良い社会が出来るわけがないではないか。
話が少々飛躍してしまったが、若い時に世界を放浪して、世界の異文化を理解することは良いことだ、という理想を振り回して若者にそういうことを進めることは、決して本当の意味の人格形成に良い効果を出すとは限らないと思う。
そういうことを経験した若者は、その後、組織の中で仕事をするということは多分出来ないであろうと思う。毎日毎日同じことの繰り返しの仕事も多分出来ないであろう。
組織の中で、他人と協力し合って事を進めるという作業が出来ないのであれば、今日の社会の中では社会人として生きることは極めて難しいと思う。
この本の著者も、奥付けを見ると、現在は短大の非常勤講師となっているが、彼を雇っている短大の側からすれば、彼が何時またふらりと旅に出てしまうかわからないので、彼を責任あるポストに就けるということは、大いに考えざるを得ないだろう。
ポストに就けたはいいが、何時そのポストを放り出して、旅に出てしまうかわからないわけで、心配でならないと思う。
そのことは、彼個人の立場からすれば、浮草のようなもので、ただただ世間という混沌の中で、あっちに寄ったりこっちに寄ったりしている浮草のように漂っているわけで、本人はそれでいいかもしれないが、周りの者は危なっかしくてならない。
本人にしてみれば、「俺のことだから構わんでくれ」と言うに違いなかろうが、自分が如何に周囲の人間に心配をかけているかについては、まったく無頓着なわけである。
4年も5年もヨーロッパを放浪してきたといえば聞こえはいいが、要するにヨーロッパでホームレスをしていたということだろうと思う。
勉強していたのであれば、「留学していた」という言い方になるわけで、留学という言葉でない以上、放浪という言葉で表すほかない。
戦後の日本は確かに豊かになって、海外を放浪する日本人もことのほか多く、アメリカでもヨーロッパでもそういう人は掃いて捨てるほどいる。
外国に来てまで遊んで暮らせるということは、日本が豊かな証拠であろうが、こういう所で遊びを身に付けた人が、日本に帰ってきてまともに仕事につけるとは到底思えない。
人一人食っていくことは何処でも出来ようが、充実した人生を送るということになると、充実した人生そのものの価値感が根底から異なっているので、一概に同じ土俵では語れないということになる。
一般論として、そういう人生を経てきた人が、結果的に社会保険から漏れたり、年金から漏れたり、ワーキング・プアと言われたり、派遣切りにあったりするわけで、若い時から堅実な企業で、汗水たらして、面白くもない仕事を毎日毎日もくもくとやって来た人からすれば、不運な境遇に見舞われるのである。
イソップ物語の「蟻とキリギリスの話」と同じで、若い時に好き放題のことをしておいて、年取ってから年金が少ないとか、保険から漏れたとか、再就職が思うようにいかない、など愚痴ってみたところで、所詮は「身から出たサビ」である。
問題は、こういう状況を目の当たりにした時、世間で有識者と称せられ、知識人といわれるようなう人達が、「本人が若い時に遊び呆けていたのだから、因果応報なのだよ」ということを言わない点にある。
本人が若い時に遊び呆けていながら、年取ってから年金が不十分だというのはあまりにもおこがましい発言なわけで、「それは自業自得だよ」と彼らに正面から言わず、何でもかんでも行政の不手際として、責任を転嫁するから甘えが出てくるのである。
世間の有識者と称する知識人は、何でもかんでも政府の責任にしておきさえすれば、非難を交わすことが出来るわけで、あえて犯人を作らなくても済むから、政府のみを攻撃するのである。
昔から若者が旅をすることは肯定的にとらえられているが、それは金持ちの息子が旅に出るのであって、貧乏人の息子が親のすねをかじりながらする旅などということは想定外のことである。
戦後の日本は、階級意識というものがとみに希薄になってしまって、金の多寡こそが階級の具現かのように錯覚して、金さえあれば何でも事は解決すると思い違いをして、見境もなく金持ちの真似をしているが、それこそ俄か成金の下品さそのものである。
旅の資金作りにアルバイトするなどということは、生きることに対する冒涜だと思う。
世間では冒険家と称する人たちがいることは承知しているが、こういう人はその冒険そのものが生業になっているのであろう。
ある意味でプロだと思う。
この本を読んでいて、私のひねくれた心情が芽を出して、意地悪な思考に至った。
というのも、この著者は夜行列車で旅をして、ある意味で宿泊費を浮かせている。
だとすると、ただレールをたどっているだけで、見るべき景色というものは見ずに、点と点を移動しているだけということになる。
ならば何のための旅かという素朴な疑問になる。
ただ、その地点に立ったというだけで、それが本人の自己満足であれば、それはそれで致し方ないが、何だか大の大人のする行為としては虚しい行為ではなかろうか。
やはり大人の旅ともなれば、若い時に汗水たらして働いて、ある程度産を成したものが、自分への報償、自分への恩返し、過去の自分に対する労り、この中には当然伴侶に対する思いやりも含まれている筈で、こいう大らかな気持ちで優雅な旅をしてこそ、大人の旅だと思う。
本来、旅というものはこういうものだと思うが、そう考えると旅は貧乏人には縁のない物ということになる。貧乏人には不釣り合いな旅を、貧乏人が金持ちと同じようにしようとするから、陳腐な光景が目に映るのである。
ただ企業というのは相手が金持ちであろうと貧乏人であろうと、顧客でさえあれば皆等しく大事なわけで、客の懐に応じたザービスを提供するものである。
金持ちには金持ちの自尊心をくすぐるようなサービスを提供し、貧乏人には自己責任の部分が多くなるがそれでもサービスをしないわけではなく、そのサービスは値段相応ということである。
我々、日本人というのはこういう企業の宣伝に極めて安易に乗り易い民族で、旅行会社の殺し文句にすぐにひっかかって、猫も杓子も旅に出るという傾向がある。
自分の金で旅をするのだからいらんお節介だ、という声は当然あろうが、同じ金を使うのであれば、有効に、上品に、大人らしく使いたいものだ。如何にも俄か成金でございますというような下品な金の使い方はしたくないものだ。
著者、波勝一廣氏がスカンジナビア半島を列車で旅した紀行文であった。
スカンジナビア半島というのは私にとっても非常に興味ある所で、出来れば自分の目で見てみたい場所の一つではある。
ところが私はそのスカンジナビア半島よりも、この本を書いた著者に非常に興味を持った。
この本の奥付きを読んでみると、この著者は若い時に何年もヨーロッパを旅したと書かれているが、そういうことをする気持ち、何故そういう放浪の旅に憧れを抱くのか、そういう若者の心理に非常に興味が沸く。世界を放浪するというのも、本当の馬鹿や阿呆では出来ないことで、それはそれなりに考えて行動しているのであろうが、そういう自由気ままな生活に若者が惹きつけられて、それを実行に移す行動力の不思議さである。
そういう人は基本的に馬鹿ではないので、自分の意思をことのほか大事にしているのであって、それは同時に、人から言われたことには素直に従わない、人から指図されることは厭だという、具体的な自己主張でもあろう。
私のような旧世代の思考からすれば、そういう態度は「我儘だ」ということになるが、戦後の日本人は、この我儘ということをその人の個性と見なして、肯定的に受け入れている。
大方の高等教育の場、つまり高校レベルの学校には校則があるのが普通であるが、学園生活という集団生活の中では、一人一人がその規則を順守することによって、教育がスムースに実施され、同時に社会人としての訓練が行き届くと考えられている。
これを生徒の側から見れば、校則によって一人一人の自由、あるいは我儘が管理されることになるわけで、鬱陶しい存在であることは当然であろう。
よって、その校則を無視するものが現れるわけで、無視すれば当然処罰ということになる。
此処で、規則を無視した人はそのことによって何らかのペナルテイーを甘受することになるが、こういう場面になると、戦後の日本人の有識者たちは、こぞって校則の存在そのものを悪弊と見なして、個人を規則で拘束することを「悪」と認識するわけである。
だから規則に反する行為をした人に対するぺナルテイ―を素直に認めず、それを弱者に対する抑圧という構図でとらえるのである。
完全に規則の破壊、崩壊をフォローする発言なわけで、共産主義の思考と完全に軌を一にしている。
人が集団で生きる為にはルールが必要なわけで、そのルールを率先して守ることで社会が維持されているのに、それを根本から否定しようとするわけで、それは完全に民主主義の否定につながる。
校則に従わない人間を勇気ある人間として褒め称え、校則そのものを旧弊と決めつけて、そういうルールを破壊する方向に若いものを導くわけである。
近い将来、成熟した大人になる若者に、「あなた方はルールというものを無視して、旧弊を打ち破る行為を推し進めなさい」と説くわけで、これで良い社会が出来るわけがないではないか。
話が少々飛躍してしまったが、若い時に世界を放浪して、世界の異文化を理解することは良いことだ、という理想を振り回して若者にそういうことを進めることは、決して本当の意味の人格形成に良い効果を出すとは限らないと思う。
そういうことを経験した若者は、その後、組織の中で仕事をするということは多分出来ないであろうと思う。毎日毎日同じことの繰り返しの仕事も多分出来ないであろう。
組織の中で、他人と協力し合って事を進めるという作業が出来ないのであれば、今日の社会の中では社会人として生きることは極めて難しいと思う。
この本の著者も、奥付けを見ると、現在は短大の非常勤講師となっているが、彼を雇っている短大の側からすれば、彼が何時またふらりと旅に出てしまうかわからないので、彼を責任あるポストに就けるということは、大いに考えざるを得ないだろう。
ポストに就けたはいいが、何時そのポストを放り出して、旅に出てしまうかわからないわけで、心配でならないと思う。
そのことは、彼個人の立場からすれば、浮草のようなもので、ただただ世間という混沌の中で、あっちに寄ったりこっちに寄ったりしている浮草のように漂っているわけで、本人はそれでいいかもしれないが、周りの者は危なっかしくてならない。
本人にしてみれば、「俺のことだから構わんでくれ」と言うに違いなかろうが、自分が如何に周囲の人間に心配をかけているかについては、まったく無頓着なわけである。
4年も5年もヨーロッパを放浪してきたといえば聞こえはいいが、要するにヨーロッパでホームレスをしていたということだろうと思う。
勉強していたのであれば、「留学していた」という言い方になるわけで、留学という言葉でない以上、放浪という言葉で表すほかない。
戦後の日本は確かに豊かになって、海外を放浪する日本人もことのほか多く、アメリカでもヨーロッパでもそういう人は掃いて捨てるほどいる。
外国に来てまで遊んで暮らせるということは、日本が豊かな証拠であろうが、こういう所で遊びを身に付けた人が、日本に帰ってきてまともに仕事につけるとは到底思えない。
人一人食っていくことは何処でも出来ようが、充実した人生を送るということになると、充実した人生そのものの価値感が根底から異なっているので、一概に同じ土俵では語れないということになる。
一般論として、そういう人生を経てきた人が、結果的に社会保険から漏れたり、年金から漏れたり、ワーキング・プアと言われたり、派遣切りにあったりするわけで、若い時から堅実な企業で、汗水たらして、面白くもない仕事を毎日毎日もくもくとやって来た人からすれば、不運な境遇に見舞われるのである。
イソップ物語の「蟻とキリギリスの話」と同じで、若い時に好き放題のことをしておいて、年取ってから年金が少ないとか、保険から漏れたとか、再就職が思うようにいかない、など愚痴ってみたところで、所詮は「身から出たサビ」である。
問題は、こういう状況を目の当たりにした時、世間で有識者と称せられ、知識人といわれるようなう人達が、「本人が若い時に遊び呆けていたのだから、因果応報なのだよ」ということを言わない点にある。
本人が若い時に遊び呆けていながら、年取ってから年金が不十分だというのはあまりにもおこがましい発言なわけで、「それは自業自得だよ」と彼らに正面から言わず、何でもかんでも行政の不手際として、責任を転嫁するから甘えが出てくるのである。
世間の有識者と称する知識人は、何でもかんでも政府の責任にしておきさえすれば、非難を交わすことが出来るわけで、あえて犯人を作らなくても済むから、政府のみを攻撃するのである。
昔から若者が旅をすることは肯定的にとらえられているが、それは金持ちの息子が旅に出るのであって、貧乏人の息子が親のすねをかじりながらする旅などということは想定外のことである。
戦後の日本は、階級意識というものがとみに希薄になってしまって、金の多寡こそが階級の具現かのように錯覚して、金さえあれば何でも事は解決すると思い違いをして、見境もなく金持ちの真似をしているが、それこそ俄か成金の下品さそのものである。
旅の資金作りにアルバイトするなどということは、生きることに対する冒涜だと思う。
世間では冒険家と称する人たちがいることは承知しているが、こういう人はその冒険そのものが生業になっているのであろう。
ある意味でプロだと思う。
この本を読んでいて、私のひねくれた心情が芽を出して、意地悪な思考に至った。
というのも、この著者は夜行列車で旅をして、ある意味で宿泊費を浮かせている。
だとすると、ただレールをたどっているだけで、見るべき景色というものは見ずに、点と点を移動しているだけということになる。
ならば何のための旅かという素朴な疑問になる。
ただ、その地点に立ったというだけで、それが本人の自己満足であれば、それはそれで致し方ないが、何だか大の大人のする行為としては虚しい行為ではなかろうか。
やはり大人の旅ともなれば、若い時に汗水たらして働いて、ある程度産を成したものが、自分への報償、自分への恩返し、過去の自分に対する労り、この中には当然伴侶に対する思いやりも含まれている筈で、こいう大らかな気持ちで優雅な旅をしてこそ、大人の旅だと思う。
本来、旅というものはこういうものだと思うが、そう考えると旅は貧乏人には縁のない物ということになる。貧乏人には不釣り合いな旅を、貧乏人が金持ちと同じようにしようとするから、陳腐な光景が目に映るのである。
ただ企業というのは相手が金持ちであろうと貧乏人であろうと、顧客でさえあれば皆等しく大事なわけで、客の懐に応じたザービスを提供するものである。
金持ちには金持ちの自尊心をくすぐるようなサービスを提供し、貧乏人には自己責任の部分が多くなるがそれでもサービスをしないわけではなく、そのサービスは値段相応ということである。
我々、日本人というのはこういう企業の宣伝に極めて安易に乗り易い民族で、旅行会社の殺し文句にすぐにひっかかって、猫も杓子も旅に出るという傾向がある。
自分の金で旅をするのだからいらんお節介だ、という声は当然あろうが、同じ金を使うのであれば、有効に、上品に、大人らしく使いたいものだ。如何にも俄か成金でございますというような下品な金の使い方はしたくないものだ。