ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「夫婦は定年からが面白い」

2008-07-30 07:37:13 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「夫婦は定年からが面白い」という本を読んだ。
今の自分の立場から、多少とも参考になるのではないかという下心で読んだが、参考にはならなかった。
無理もない話で、定年まで生き延びた人間が、人の意見に左右されるほど軟な精神状態であるわけないのだから、参考にならないのが当然である。
まあ、読み物として面白かった、という程度のことでしかない。
これも一種の随筆なのであろうが、最初に登場人物の概略が分かっていないことには、読んでいて反応にタイムラグが生じる。
前後の文脈から推察しなければならないので、そこが著者の狙いかも知れないが、私のようなセッカチな人間にはまどろっこしくてならない。
考えてみると、夫婦などは不思議な存在だと思う。
熱烈な恋愛で一緒になった夫婦だとて、その恋愛期間中に相手のすべてに納得したわけでもなかろう。
ある意味で、ぶっつけ本番で、直面してみなければわからない、という部分も抱え込みながら夫婦であり続けたに違いない。
しかし、夫婦であり続けるということは、双方で妥協と我慢、あるいは忍耐が強いられていたに違いない。
それぞれに個性を持ち、それぞれに自分の意思をもった者同士が一種に暮らすということは、そうでなければ存立しえない。
我々の世代は、多少とも古い封建主義の残滓を知っている。
結婚というものが、家と家の結びつきであったという時代をかすかながら知っている。
これは戦後の民主化で一気に崩壊したと思われているが、現実にはそう一気に消え去ったわけではなく、戦後もしばらくはそれを引きずっていた。
封建主義に下支えされた家父長制度というものがしばらくの間生きつづけたわけで、その犠牲となった女性も数多くいたに違いない。
これはひとえに日本の男性の問題だと思う。
日本の男性の怠慢だったと思う。
我々の中に連綿と生き続けていた封建主義というのは、儒教を根底とする男性有利な思考で、儒教を信奉している限り、男性は極めて有利なわけで、女性の犠牲の上に男性は胡坐をかいて生きておれたわけである。
完全に男尊女卑の世界で、女性には人格さえ認められなかったので、まさしく男性天国であったわけだ。
こういう状況を男性の側から改善しようという発想は起きるわけもなく、よって日本が敗戦で既存の倫理観が大転換を迫られたとき、新たに日本国憲法というもので婦人の権利というものが浮上してきたわけである。
われわれが今一度考えなければならない事は、この時日本の婦人の権利意識を啓発したのが、アメリカ占領軍のGHQの中で勤務していた、うら若き女性がこの問題にくさびを打ち込んだという事実である。
当時、若干23歳というゴードン・シロタという女性が、新憲法の中にこの項目を差し挟んだことで、日本の女性が解放されたという事実である。
私が言いたいのは、この時まで、当時の日本の文化人、知識人、教養人、インテリーとしての大人、日本の男性諸氏は一体何をしていたのかという疑問である。
口先では民主化、近代化を言いながら、女性の置かれた立場には何一つ理解を示そうとせず、自分たちに有利な位置はそのままにして、自分たちの気に入らない部分のみ民主化しようとしてもそれは得手勝手というものだ。
戦後の初期の段階で、外国の若干23歳の小娘の作った憲法の条文を、日本の文化人、知識人、教養人、インテリーとしての大人、日本の男性諸氏がその後一向に見直そうとしない不思議さである。
戦後は確かにこういう人たちも、食うや食わず生活を強いられていたことは言うまでもないが、問題はその時になって初めて日本の婦人たちが過酷な運命にさらされたわけではなく、日本の歴史上連綿と続いていたわけで、その間日本の男性は誰もそのことに気がつかなかったという点である。
日本の男性にとって、この儒教がもとになっている封建主義というのは極めて都合が良かったわけで、ぬるま湯にどっぷりとつかって自ら改革しようという気を起こさなかったというところにある。
日本の敗戦ということで、日本の男性支配の構図が全否定され、新しい憲法を押しいただいてみると、女性の権利が見事に光り輝いていたわけで、そこから女性の反乱が始まった。
戦後もしばらくは農村、いや日本の地方では、いままでの行きがかり上、農業が従来通りに営まれたが、そこに嫁いできた女性の方には、ぼつぼつと意識改革が浸透して、昔のように家訓に従順な嫁ではなくなってきた。
女性にもさまざまな人がいるわけで、意識改革に率先して飛び込む人と、躊躇する人がいるのは当然なので、一気に進むということはないが、徐々にではあるが農村の封建主義というのは崩壊してきた。
戦後の新しい民法では、親の遺産は子供同士で等分に分割することになった。
ここで長男以外の嫁がしゃしゃり出て、遺産相続が紛糾するわけであるが、これもある意味で女の反乱の一種である。
昔ならばここで長男とその嫁は遺産の大部分が相続できるが、新しい民法ではそうでなくなったので、長男の嫁というのは文字通り踏んだり蹴ったりの処遇ということになる。
女性の立場からすれば、誰が好き好んで奴隷以下の農家の嫁などになるものかというのは当然のことである。
これは嫁に来る側の問題ではなく、嫁を迎える側の問題であるにもかかわらず、日本の農家は、そのことに全く気がつかなかった。
農家自身が、農家に嫁を出すことを忌み嫌ったわけで、娘が可愛ければ可愛いほど、非農家に嫁がせようとした。これでは農村が疲弊するのも当然ではないか。
農家が自分の可愛い娘を農家に嫁がせれば、その娘が過大な苦労を背負い込むことを知っているがゆえに、非農家に嫁がせるわけで、それに気がつかない大人の世代は、まことに無責任だったと思う。
結局は、男性優位な封建主義というものに胡坐をかいて、女性の置かれた立場をいささかも理解することなく、従来の生活習慣のままで暮らしたいという思考が破たんしたということである。
この本の趣旨はそこを突くものではなく、長年連れ添ってきた夫婦が定年を迎えたとき如何にすべきかと問題提起しているわけだが、それには答えがあるわけではない。
各人各様になるようになるしかないと思う。
だいたい、大の大人が、定年になって「さて、どうしよう?!」と悩むこと自体が、大人になり切っていないと思う。
定年といえば昔は55歳であったが、今は60歳が普通だと思う。
60年も生きて、なおその間30年あるいは40年もサラリーマンをしていて、定年後如何に生きるべきか悩むような人間は、在職中何をしてきたのかと言いたい。
こんなサラリーマンだとしたら、在職中もまともな仕事をしていないに違いない。
人間の生き様というのは基本的には自己満足だと思う。
世のサラリーマンの中には立身出世を追い求めるものがいるのも事実であるが、これとても、どこで自己満足に折り合いをつけるかということだと思う。
もう一つうがった言い方をすれば、その人の持って生れた価値観の問題だと思う。
家庭を放り出して立身出世に走るか、立身出世を棒に振って家族を大事にするかは、その人の持って生れた価値感だと思う。
ただ両方を同時に得ようというのはあまりにも強欲すぎると思う。
男がいかなる価値感で仕事しようとも、仕事が出来るということは、家庭の内助の功があるが故であって、ここに家庭の主婦の在り方が大きく問われる。
戦後、女性の権利が確定して、女性が外で働くことも歓迎される風潮になったが、基本的に女性が外で働くというのは貧乏人の発想だと思う。
人間の基本的な自然の姿からは逸脱した行為だと思うが、現代の世の中というのは、最初から女性が働くことを前提に成り立っている。
封建主義の延長として女性を家に縛り付けて置くというのではない。
男と女という自然界の摂理では、やはり男は家の外で食料をあさる、労働をする、外敵から一族を守る、集団の統治を考えるのが本来の姿であり、女性は家の中で食事の世話をし、子育てをし、男が外に出やすいように心配りをするというのが、男と女の基本的な自然のままの姿だと思う。
「封建主義そのままではないか」という反論もあるだろうが、基本的に違うのは、男が家の中のことまで、つまり女性の領域まで自ら 管理しようとし、その際女性蔑視の思考が入り込むのが封建主義だと思う。
男が外で働き、女が家庭を守って、双方が対等に尊敬し合えば封建主義には至らないはずであるが、ここで男尊女卑の思想が入るので、女性が虐げられるという状況が生ずるのである。
20世紀後半から21世紀にかけては、民主化の波が広汎にいきわたり、女性蔑視の風潮は後退したが、男と女ではやはりまったく一緒というわけにはいかない。
自然界の定めた性差を無視するわけにはいかない。
男女の性差を正面から認めれば、社会生活の中で男女の違いというのはほとんど存在しないと思う。
昔の労働法では、女性保護という観点から、女性の仕事には様々な制約が設けられていた。
ところがこの女性保護という視点も、女性を寛大に扱うという思考の裏側には、かよわき女性を保護するという、女性差別の延長でもあるわけだ。
考えるべきは、女性が社会に出て働くという場合、その動機が最大の問題点だと思う。
人間、金が欲しいのは皆共通した願望であろうが、その時の価値観の優先順位が最大の問題のはずである。
子育てを放り出してもパートの金が欲しいのか、家の中を散らかしたままでもアルバイトで金を得たいのか、いい車、いい家が欲しいので身を粉にして働くのか、という点に行きつくと思う。
亭主が定年になって二人とも家の中にいるようになると、どう対処すべきかという問題は、この女性の価値観との衝突だと思う。
主婦として一応亭主の給料でやりくりし、子育てをし、暇つぶしでパートに出たとしても、それは基本的に亭主の扶養家族であろうが、亭主が一日中家の中にいるとなると、主婦としてもなにがしか従来のままでは良いわけない。
ここで大なり小なり発想の転換を迫られるわけで、ここで亭主の方が「定年になったから今から何をしようか?」では男の甲斐性があまりにもなさすぎると思う。
定年というのは生まれたときから、あるいは入社した時からくる期日は分かっているわけで、ある日突然来るわけではない。
これがリストラならばいつ自分に降りかかってくるはわからないが、いやしくも定年ならばそういうことはありえない。
ただ一般論として、定年前にあまり立派なことを言う人は、現実にはその言った通りのことをしていなケースが多いと思う。
世界旅行をするとか、晴耕雨読の生活をするとか、一念発起して何かをするというように、あまり立派なことを言う人は現実にはそうしていない。
一番無難な生き方は、やはり自然体で、近所付き合いから始め、地域のボランテイアから派生する様々な活動に手を染めていくことであろう。
定年になったということは、社会的には人間として完成を見たということで、そうがつがつすべきではないと思う。
定年まで来れたということは、自分の属した組織のおかげでもあり、心おきなく外で働けた内助の功もあったわけで、周囲の人々のおかげで定年まで勤め上げれたと思えば、残りの人生はそういう人たちへの恩返しの時期でもあると思う。
少なくとも私自身はそういう風に考えている。

「父の酒」

2008-07-29 08:44:43 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「父の酒」という本を読んだ。
著者は安岡章太郎。
いろいろなところに書いた随筆を一冊にまとめ上げた本であったが、実に読みやすい文章であった。
随筆であるから、いろいろなことがランダムに記されているが、彼の場合、音楽にはあまり造詣が深くないようだ。
特に、ジャズに関しては世のインテリ―と同様、普遍的な偏見から一歩も出ていないように見受けられた。
アメリカ、テネシー州・ナッシュビルやニューオリンズに滞在していて、ウエスタンやヒルビリーに全くかかわりをもたずにいたということは、私からすればまことに勿体ない話だが、彼自身はあまりそういう風には感じていないようだ。
こういうことは、それぞれの人の好みの問題だから、他人がやきもきする必要はないが、完全に旧来の教養に順応してしまっている。
我々が、知的にと思い崇め奉っている教養は、すべて西洋のキリスト教文化圏のものを至上のものとする古い価値観から一歩も脱し切れていないということに他ならない。
これは一体どういうことなのであろう。
われわれは、民族として、太古より、文化文明というものは常に外来のものが貴重なものと崇めたてまつってきたので、未知なものと遭遇した時、自らの価値観でそれを見るという発想を放棄してしまっている。
常に海の西から流れ着くものが、立派なものだという思い込みに陥ってしまっているように思う。
特に、あの戦争に敗北する前の我々同胞の思考の中では、西洋的なものこそ価値あるものだという認識を払拭し切れていない。
近代以降の世界では、既に、全ての文化的傾向において西洋列強各国は下降線をたどりはじめ、日本から見て東に位置するアメリカはそれとは逆に、右肩上がりの上昇傾向を究め、頂点に達しつつあった。
ところが我々はあの戦争に敗北して、アメリカに占領支配されても、この時期に生き残っていたわが同胞の知識人・インテリーというのは、旧来の意識を方向転換させるに躊躇して、ヨーロッパのキリスト教文化圏に羨望の眼差しを向けていたのである。
ここで勝った連合軍に自分の魂を売り渡して、新しい盟主に媚びを売る知識人の存在も嘆かわしいものであるが、あの状況を鑑みればいた仕方ない面もあるにはある。
戦後に至っても、ヨーロッパには羨望の目を向けつつ、アメリカに対しては軽蔑のまなざしで眺めながら、戦争の勝者を心の中で軽蔑しつつ、占領という強者の懐の中で、精一杯、精神の抵抗を試みていたのであろう。
この著者も、戦前、戦中、戦後を生き抜くなかで、この時代の教養人の一人として、アメリカで禄を食みながら、心の奥ではアメリカ文化というものを軽蔑していたに違いない。
だから、ジャズの本場にいながら、ジャズに接しようもしなかったわけで、その深層心理の中では、当時のアメリカの人種差別を容認しつつ、ヨーロッパ系の価値感でアメリカの文化を眺めていたに違いない。
これは彼自身の責任ではない。
当時のわが同胞はすべてが彼と似たり寄ったりの思考であったに違いなく、ジャズに特別興味のある者以外は、押し並べてこの程度の認識ではなかろうかと思う。
ジャズが好きか嫌いかは感性の問題であって、その感性を支配する根源のところに、その人の内面に蓄積されたキリスト教文化の価値観が大きく関与していると思う。
西洋のキリスト教文化の価値観にどっぷりと浸って、アメリカの黒人の音楽を見た場合、そこでその人の文化の蓄積としての教養と、その人が本来持っている感性とが衝突すると思う。
我々の同胞の中にも優れたジャズ・プレーヤーはいるわけで、彼らのジャズに対する価値観は「良いものは良い」の一語に尽きると思う。
黒人が演奏しようが白人が演奏しようが「良いものは良い」わけで、それを嗅ぎ分けるのが彼らの音楽的な感性だと思う。
虐げられた黒人が演ずる音楽だから、フォローするなどという偽善性は微塵もないと思う。
この時代のアメリカには、明らかにジャズに対する偏見が残っていたわけで、その偏見のもとはヨーロッパ系のキリスト教文化圏の価値観であって、黒人の音楽だからダメだという認識であったと思う。
安岡章太郎氏は「私のきいたジャズ」というエッセイの中で、ジャズを語るのではなく、人種差別を語ろうとしたのであろうが、ジャズと黒人というのは硬貨の裏表のようなもので、分けては考えられない問題である。
この世にかって存在していたアメリカの奴隷制度の中で、アフリカから連れてこられた黒人というものがなかったならば、おそらくジャズは存在していなかった。
ならば、これら黒人の故郷、アフリカの西海岸からジャズが自然発生的に生まれるかと言えば、これも多分あり得ないことであろう。
アフリカから連れてこられた黒人が、アメリカ南部のプランテーションで過酷な労働に耐え、それが奴隷解放宣言で解放されたから、今まで抑圧されていた精神的なエネルギーが一気に沸騰して、ジャズという音楽表現になったものと私は思う。
われわれが普通にいうクラシックというのは、あくまでも宮廷音楽だと私は思う。
宮廷音楽だから、作る段階から様々な知恵と工夫が仕掛けられていた。
如何にしたら聴く側に感動を呼び覚ませることが出来るか、という作為が組み込まれている。
宮廷音楽なるがゆえに、最初から聴く対象が想定されていて、その限られた対象に対して、如何に感動を押し付け、引っ張り出し、負い被せるかという作為のもとに曲の構成が練られている。
聴く側にすれば、作り手の作為に如何に応えうるかどうかという潜在意識で聴くわけで、聴く前から「自分はこれから知的なゲームに浸るのだ」という意識、いわば優越感に浸る喜びを噛みしめながら、構えて聴くという態度に臨む。
日本の知識人は、こういうものこそ教養であり知性だと認識しているわけで、できうる限りこれ近づこう、寄りつこう、理解しようと努めるわけだが、そのことは同時にある種の優越感を刺激するわけで、この優越感こそが知への欲求になっている。
ところがジャズというのは虐げられた黒人の中から、苦難の叫びとしてふつふつと湧き出てきたわけで、それは最初から他者が聴くという要素を度外視しており、聴集、観客の存在を無視している。
自らプレーすることを本旨としているが、時の経過とともにそれがだんだんと洗練されてくると、聴衆や観客を意識したものになってきたに違いない。
われわれは太古から絶海の孤島の住人で、文化というのはその大部分が外来であるが、他の文化を取り入れようとするとき、表層の現象のみを取り入れてはならないと思う。
日本という小島に異文化を持った人が流れ着く、すると我々の方は、それをよくよく観察して、これは便利そうだ、これは合理的だと思うからその真似をし、それを自分たちのものにする。
そのとき、われわれは形として目に見えるものを模倣することから始めるわけで、形のあるものは、それと同じものと作ることから異文化との交流が始まるわけで、形のある物の模倣は比較的簡単にできる。
ところが形の見えないものは、模倣の仕様もないわけで、その部分で意識改革というのは常に後手に回っている。
形のあるものは模倣によって修得できるが、形のない目に見えないものは、上からの命令がないことには意識改革が出来ない。
上からの命令ということは、権力による押し付けということでもあるわけで、この場合 いくら上のものが心くばりしても、目こぼしということもあり、権力の中間で命令の本旨が歪曲してしまうこともあり、過剰反応、虚偽報告という、人間を介在するミスが付きまとうわけで、真のものまね、真の模倣ということはなかなか難しい。
目に見えない外国の思考というのは、取り入れようとしても、それが目に見えないがゆえに、日本独自のものになってしまうわけで、ここに日本の常識が世界の非常識につながる大きな要因がある。
ここで話題を180度転換すると、この本の表題である、「父の酒」というエッセイも面白かった。
父親はそうたいした大酒飲みではなかったが、戦後復員してきたら酒をやめてしまった。
ところが友達の持って来たウイスキーには手が出た、という話は親子の在り方として頬えましい光景である。
父の酒というテーマでは私も一文したためておきたいことがる。
あれは昭和の27、8年の頃で、私はまだ中学生だったと思うが、父がもらいもののサントリーの角瓶をちゃぶ台の上に置いて、さも大事そうにカットグラスのウイスキーグラスでちびりちびりやっていた。
前に並んでいる3人の子供に言い聞かせるように、「この酒は燃える」と言って、マッチの火をグラスのヘリに近づけると、たしかに薄い青い炎が立ち上っているようにみえたものだ。
この時、燃える酒というのにも驚いたし、何といっても父の幸せそうな姿が目に焼きついたものだ。
遠い遠い昔の話だ。
人生と酒というのはついて回るものだと思う。
特に、心の憂さを晴らす手段としての酒というのはあると思う。
しかし、それは酒が心の憂さを取り除くのではなく、酒を飲むことによって、精神の緊張を解きほぐすことに効果があるのではなかろうか。
それと同時に、飲みすぎれば数々の失敗もついてまわるわけで、これも飲むことによって精神の緊張がほぐれることによる心の油断がそうなさしめるのであろう。
私自身も、酒の上の失敗は数々あれど、加齢とともにそういう失敗も少なくなってきた。
酒の飲み方が大人しくなったというよりも、酒に費やす金がもったいなくなってきたわけで、要するに金の切れ目が縁の切れ目ということで、一言でいえば貧乏だから飲めなくなったというにすぎない。
しかし、いくら飲んだところで、そんなことは自慢にもならないわけで、今の現状で十分満足しているが、酒の世界も随分様変わりしたようだ。
われわれが若かった頃は特急、一級、二級と言っていたものだが、今ではそういう言い方はしないらしい。
そしてウイスキーなども昔はジョニ黒などと言えば、庶民の口にはとどかない代物であったが、今ではスーパーで目ん玉が飛び出るほどの値段ではなさそうだ。
しかし、その反対にサントリー・レッドとかトリスなどという昔の安いウイスキーが相当に格上げされて、角瓶やダルマとさほど変わらない値段になっている。
昨今、世界では日本ブームのようで、日本食が西洋人にももてはやされつつあるようだが、日本酒はどれほど浸透しているのであろう。
海外の日本食ブームというのも、半世紀前には考えられない現象だと思う。
前にも記したように、日本文化というのはその大部分が外来文化の咀嚼であって、日本古来の物が世界に認知されるということは、我々の想定外のことで考えてもみなかったことだ。
ジャポニズムという言葉があって、フランスの画家たちが日本の浮世絵に憧憬のまなざしを送ったという話は聞くが、それはあくまでも画家の集団の中だけの話で、大衆レベルで日本の文化が認知されたわけではない。
ところが最近では日本食ブームで、日本の食文化が世界に認知されたということは、思いもよらない特異な現象だと思う。
それと日本のアニメ、つまり漫画が、世界的に認知されているという話も聞く。
私の目からすれば、日本のアニマなどはまだまだ世界の水準に至っていないように思えるのだが、これが世界の子どもの人気があるというのだから驚く。
このように、日本古来のものが少しずつ世界に認知されるという中で、日本酒の普及というのは、どの程度に可能性を含んでいるのであろう。
味はともかく、あの匂いが障害になるのではなかろうか。
世界の美味と言われるものは、それぞれに固有の匂いをもっているとは言うものの、食べ物の好き嫌いの根本のところには、匂いの問題があることも真理なのではなかろうか。
われわれ日本人にとってのチーズの匂いも、最初は容認しからざる匂いであったに違いない。
しかし今ではそんなことを言う日本人はいないわけで、チーズの匂いも我々の文化に同化したと言える。
そういう意味で、日本酒も徐々に世界のバーに浸透していく可能性も否定はできない。
酒というのは、この地球上のそれぞれの民族の固有の文化だと思う。
日本酒、ウイスキー、ワイン、ビールそれぞれにそれぞれの地域の地勢的な条件を克服し、迎合し、利用して生まれてきたものだと思う。
だとすれば、その土地の食べ物と共に飲むのが一番理想的な飲み方ではなかろうか。
これが一番保守的な、食べ物と酒の在り方であろうが、文化の進歩というのはいくら長いこと保守的なことを続けていても変革はありえないわけで、誰かが好奇心で保守的でないことに挑戦した時、初めて変革が起きる。
最初に従来の保守的な行為・伝統、因習に挑戦しようとする者は、相当に勇気がいると思う。
海外の日本食ブームの中で特に人気のあるのが寿司であるが、日本人が寿司を握るかぎり、日本人の寿司のイメージら脱却することはいが、これが現地の人が寿司を握るとなると、我々の従来の思考では想定外の寿司ネタの登場ということになる。
当然といえば当然で、現地の人々にすれば、我々が寿司にイメージする既成の概念は何もないわけで、その分、自由な発想が出来るわけである。
こうなると、そうして出来上がったものを、我々の共通認識として「寿司」と呼称していいかどうかの問題になると思う。
酒に関して言えば、日本各地で様々な地酒があるわけで、良い酒が飲みたかったら、その土地に行ってそれを飲むというのが本当の贅沢というものであろう。
ところが最近の日本人というのは、真の贅沢とか、真の粋とか、真の道楽というものをあまりにも知らなすぎると思う。
金をばらまけばそれが贅沢だと思い違いをしているが、これこそ無粋というもので、粋がって遊び人を装っても、遊び人としては下の下であることさえ本人は気が付いていない。

「小野田寛郎」

2008-07-26 06:50:24 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「小野田寛郎」という本を読んだ。
小野田さんはあまりにも有名人なので、今更詳細に語ることもないが、この本は彼の約30年間のルバング島での戦闘を、彼自身が報告するというスタイルで書かれている。
誰に対しての報告なのか、という部分ではあいまいな点もあるが、彼の真意としては、彼自身が無事に帰還できたことに対する、すべての関係者にという思いがあったのではなかろうか。
彼が、終戦を知らず、敗戦を知らずにいたということは、状況として十分考えられるが、それでも潜伏の最中に、捜索隊の残していった様々な新聞や、雑誌、トランジスタラジオで知っていたにもかかわらず、その事実を信じ切れなかったという点は、どうにも腑に落ちないところである。
中野学校の二股分校の教育の成果だ、という部分に何とも理解しがたいものがあるように思う。
敵側の情報かく乱工作とみなす点に、どうにも割り切れなさが残る。
この部分に、終戦の詔勅を聞いても尚聖戦完遂を叫んだ人々と共通する思考がうかがえる。
こういう疑問点を内包しつつも、小野田さんという人物を私は文句なく好きだ。
彼は有名人なるがゆえに、テレビのインタビューにもたびたび出演しているが、彼の発する一語一語が、私には貴重に思える。
その前に、グアム島で発見された横井正一氏は、日本の敗戦を知っていたかどうかは定かでないが、彼の場合はどこからどう見ても敗残兵であった。
本人もいうように、それこそ「恥ずかしながら!」の登場であるが、小野田さんの場合は、完全に武人、軍人、将校としての堂々の投降で、戦に負けたとはいえ、軍人の尊厳を立派に維持しつつ、彼の奮闘努力には世界から称賛が与えられたわけで、まさしく日露戦争の乃木希輔とステッセルの会談のようなものだ。
彼、小野田少尉がテレビの映像の中で見せた、挙手の敬礼は威厳に満ちていた。
「ぼろは着てても心は錦」という歌があったが、まさしくそれを彷彿させる。
ジャングルの中で、一人で30年間も戦い続けるということは、並みの人間ではしえないことである。
ある意味で完全に聖戦を遂行していたわけで、一編の口頭の命令を、これほどまでに順守したということは、あらゆる国のすべての軍人の鑑であることは間違いない。
私自身は、彼がテレビの中で示した挙手の敬礼に感動してしまった。
で、その後、彼のことを注意深く見ていると、やはり彼の心中には並みの人間を超えたものがあるように思えてならない。
彼がその後ブラジルに渡って、日本内地に「小野田自然塾」を開く際のインタビューで、日本の子どもの軟弱さが話題になった時、今日の日本の若者の軟弱さは、いつまでも親と一緒にいることが最大の原因だ、と看破していた。
まさしくその通りで、子離れの頃になっても、親子がぐじぐじと同じ屋根の下にいるからさまざまなトラブルが生まれるのだと言っていた。
全くもってそのとおりであって、戦後の日本人の幸福感というのは、家族が一堂に集まって、楽しい夕飯を囲むというのが理想に姿に思えたものである。
この理想に一歩でも二歩でも近づこうとするから余分なストレスが貯まるわけで、自分は自分で自分の道を歩む、あるいは開拓するという生き方を選択すれば、余分なストレスなど生じるわけがない、と述べていたがまさしくその通りだと思う。
我々、日本人の子育ての概念の中に、自立とか巣立ちという考え方が存在していないので、自然界の野生動物以下の思考でしかないわけである。
彼自身の子どものころの生き方は、相当に腕白で、親の言うことなど屁とも思わない勝手気ままな子供時代だったようで、それが動物としての自然であり、自然界の生の姿なのである。
ところが今の子供は兄弟が少なく、家の外に出れば危険がいっぱいで、子供同士で遊び呆けるという場がなくなってしまい、家で勉強に追い立てられるかゲームに嵌るかしか時間のつぶしようがない。
彼の場合、好きなことがしたいというので、貿易会社に入り、海外に出て、経済格差を上手に利用して遊び呆けていたらしいが、この自由奔放な生き方も彼自身の選択であったわけで、これが招集令状一枚で国家の要員に召されると、気持の切り替えが見事に行われて、心身ともに皇軍の兵士になったわけである。
彼が、今の日本で子離れ、親離れがきちんと行われないのは、社会そのものが複雑化していることも理由の一つであろうが、その前に日本はあまりにも豊かになりすぎたことにあると思う。
いくら豊かになっても、だからといって庶民の欲望が頭打ちになることはないわけで、自分が如何に恵まれていても、それでもなお自分の欲望を満たそうとするので、人間の欲望には際限がない。
日本の現在の社会では、親子ともどもその際限のない欲望を満たそうとするから、とんでもない事が起きるのである。
良い家に住み、良い車に乗り、良い学校に通っていながら、それでも心の中ではより良い状況に上がろうとして、欲求を募らせているわけで、このより良いものを手にしたい、という欲求があるかぎり人はストレスを抱え込むということになる。
若者が抱え込むストレスというのは昔も今も変わるものではないと思う。
ただ最近の若者は、ストレスが高じてくると、その発散の対象を他人に向けてしまうところが、きわめて不可解なことで、憂さ晴らしの対象として、「誰でもいいから人を殺す」という心理は、まさしく世紀末の思考なのであろう。
生育環境が極めて劣悪な状況下で育った若者がするわけではなく、子育ての環境としては、ごくごく普通の環境の中で生育した若者が、ある日突然殺人鬼に変身するわけで、我々の年齢の者の理解を超える行為だ。
ここで考えなければならないことは、ごく普通の環境の中で育った若者が、ある日突然殺人鬼になるというとき、その「ごく普通の環境」というのが本当に「普通の環境」であったかどうかということだ。
現在の社会的な状況下では、ごく普通に見え、思え、感じられるが、人間の本質的な側面からこういう現代人の生活様式を眺めた場合、果たして本当に普遍的な意味でいう「ごく普通の生活」であったかどうかが問題である。
小野田寛郎氏が20歳の頃の日本社会というのは、アジア解放を目指し、日本の国威掲楊に現を抜かし、アジアの盟主にならんと全国民が一致団結して、それこそ「一億総火の玉」と化していた。
結果としてそれは間違っていたが、国策遂行、聖戦完遂で、国民の気持ちは一致していた。
このように、戦時中に国民の気持ちが一致すること自体が、民主主義的には極めて悪いことで、遺棄すべきことであり、国家統制であり、暗黒政治であり、独裁政治だと、戦後になって非難されたが、その時の反動として、それ以降はわがままを通すことが民主的で、上長に逆らうことが民主的であり、旧来の秩序を壊すことが民主的だと、急進的な知識人が叫んだわけである。
この急進的な人々の叫びというのは、戦後の教育システムを介して、戦後の若い人々に植え付けられたわけで、今、無差別殺人を犯している若い世代は、戦後教育の第3世代か第4世代である。
今の日本には国家的な緊張感が抜け落ちている。
1960年代の安保闘争や学園紛争というのは、明らかに戦後の急進的な知識人にリードされていたが、この時にデモに参加したり、運動に積極的にかかわった若者たちは、実に好戦的な日本人であったと思う。
これらの運動は、「平和を希求する」という風にカモフラージュされていたが、していることの実態は、まさしく小野田少尉の30年にもわたる戦闘と同じではないか。
戦後、同胞の兵士の海外における悪行が暴露されて、日本軍は中国はじめとする占領地あるいは支配地で極悪非道な悪い事をしたと責められているが、こういう卑劣な振る舞いをしたのは、我々の父や、兄や、従兄や、郷里の先輩後輩という人たちあった。
こういう人たちが戦地に行くと、聖戦遂行という名のもとで、野蛮きわまりないことをしたわけだ。
この日本人の極めて好戦的で野蛮な特質というのは、状況が変わると、それに対応した形で、ごく自然な形であらわれてくる。
1960年代の安保闘争や学園紛争で、デモの先頭に立って大衆運動をリードしてきた若者は、世が世ならばまっさきに特攻隊に志願する純粋な若者であろう。
時代が変わって、自分の純粋な民族主義を表現する場、発露する場を求めて、デモの先頭に立って大衆を煽っているが、その深層心理の奥底には、我々の民族の潜在意識としての残虐性(中国人を無意味に殺す)、好戦的な思考が澱のように横たわっているのである。
我々の父や、兄や、従兄や、郷里の先輩後輩という人たち、つまり言い方を変えれば日本の庶民、が戦地に就くと、そこには明らかに日本との格差があるわけで、そこに持ってきて我々の方は軍隊という組織、集団で行動しているので、群集心理が我々の方の隠れた野蛮性、残忍性、好戦的な性質を刺激することになる。
戦前においてテロで要人を殺傷した若者、戦中においては特攻隊員として自己犠牲に殉じた若者、戦後においてはデモの先頭に立って角棒や旗を振り回した若者、こういう若者に共通していることは、われわれ日本人の持つ潜在的な残忍性である。
それと同時に好戦的な心の根である。
われわれは、戦後、押し並べて平和思考になったと思い違いをしているが、わが民族の潜在意識としては、極めて好戦的な思考を内包しているわけで、その証拠に戦後の平和運動のリーダーたちは、口では平和を唱えながら、彼ら自身の行動は極めて好戦的ではなかったか。
戦後の若者が口では平和を唱えながら、その行動は極めて好戦的・暴力的であったということは、われわれは民族として極めて残虐な思考をもっているわけで、強いものには媚び諂うが、弱い者には横柄な態度に出て尊大ぶるわけで、下賤、卑しい者の典型的な態様である。
戦後、急進的な若者、共産主義に被れた若者が、政府や行政に楯突いたのは、相手が日本人という同胞であったからからであって、対象が朝鮮総連とか中国大使館には決してそういう行為には出ないわけで、そこに損得を勘定に入れて行動しているということである。
デモ隊の先頭で角棒を振り回している連中は、相手が日本の警察官であるからこそ、殺される心配はないという計算の上で、心おきなく暴力がふるえたわけである。
これが10年前ならば、中国の地で無意味な殺傷を繰り返していたわが同胞の本質的な姿である。
時と、場所と、状況が変わると、我々の民族の持つ本来的な残虐性、あるいは好戦的な思考の表れ方が大きく変わって来るが、本質的なものは時代がいかように変わろうとも変わるものではない。
1960年代の急進的、あるいは革新的な思考の若者の相手は、あくまでも同胞の保守的な思考であったわけで、それはあくまでも同胞という枠の中の存在で、現実に日本の地に腰を据えている米軍基地、あるいは北方領土の問題を解決しようという風に、外に向かっての働きかけはなおざりにされた。
米軍基地に関しては、これは戦争に負けたという事実がある以上何とも動かしがたい問題だ。
基地反対の運動は、運動として何の効果も期待できないが、ただただ日本政府を窮地に陥れることて補助金にありつこうという賎民の思考でしかない。
政府は地元住民の声を聞くふりをして補助金を出してごま化そうとしているだけである。
戦争で負けた以上、基地を取り返すのにどういう手段があるというのだ。
急進的で革新的な思考の持ち主の言い分にも、聞くべきことはあり、正論でもあろうが、だからと言って、当局がその全部を聴き入れるということもあり得ないわけで、当局としても聞けることと聞けないことがあるに違いない。
当局が自分たちの要求を聞かないからと言って、デモをすることは明らかに好戦的な態度だし、残虐性の発露だし、知性のなさしめる行為ではないはずである。
グアム島で生き残った横井正一氏は、日本に引き揚げてきてメデイアに翻弄されて、結局は人寄せパンダで終わってしまった。
それに引き替え、小野田寛郎氏は、自らの生き方をいささかも揺るがすことなく、ブラジルという地に根を張って、自らの信念で生き抜いている。
彼こそ典型的な大日本帝国陸軍軍人の立派なサンプルの一人なのであろう。

「戦中派動乱日記」

2008-07-24 11:31:23 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「戦中派動乱日記」という本を読んだ。
山田風太郎の昭和24年と25年の日記であるが、彼はもともと医学生であって、その学生中から作品が評価されたようだ。
お医者さんから文筆家になって人は大勢いる。
渡辺淳一や手塚治虫などなど有名な作家が多いが、私は山田風太郎の作品は読んだことがない。
忍法なんとかという作品がどうにも好きになれなかったからである。
作品の好き嫌いとは別に、著名人の日記というのは、その歴史的価値という意味でしばしば公刊されるが、もともとが人に読ませるために書かれていないので、読んでいても差ほど面白いものではない。
読む側からすれば、人の生活を覗き見するようなもので、著名人が普通の生活では何をどういう風に考えているのか推し量るには日記を見るということに意義がある感がしないでもないが、それとても覗き見趣味を満足させる程度のものでしかない。
しかし、これを読んでみると山田風太郎はまだ20代にして、流行作家になっているわけで、昭和24年という時期に、原稿用紙1枚100円という値段で稿料を手にしている。
結果として、金がざくざくと手元に入ってきて、その分遊びまわっているということが描かれている。
昭和24年と25年、当時の日本の作家の生活が垣間見れるが、彼はある意味でよく勉強もしているが、作品の制作にも実に淡々として、蚕が次々と糸を紡いで繭を作るように、作品の制作に行き詰って悩むというところがない。
人の作品を読んで勉強しているか、それとも自分が作品を紡ぎだしているか、そのどちらでもない時はもっぱら酒を飲むという具合だ。
酒を飲み歩くとき、リンタクを使ったという記述がたびたび出てくるが、昭和24年当時、私の育った地域では、このリンタクなるものを見ることはなかった。
自転車と人力車を合体させた様なもので、この頃の東京にはおそらくずいぶん走りまわっていたに違いない。
私は人力車とかリンタクとか、人力を介する乗り物は生理的に好きになれない。
いくら自分が金を出す客の立場だとはいえ、自分を移動させために、人が汗水たらして働いているのを眺めるのは自責の念に押されて好きになれない。
しかし、若い著者は、そういうことには全く意に介していない。
若かくして、大金を懐にすれば、若いがゆえにそれで自らの青春を心おきなく楽しもうという気持ちもわからないではない。
彼自身がこの年まで医学生でおれたということは、彼の置かれていた状況が極めて恵まれていたということである。
彼の同世代の若者は、当然のこと、家族のため、一家のため額に汗して働かねば生きていけれなかったわけだが、彼はそういうことをする必要もなく、逆に作品が金になったので、遊んで暮らせていたのである。
書いた作品が金になるということは、金になるような作品を書いたということであろうが、若いものが分不相応な大金を手にすると、奔放な生活に陥りやすいというもの世の常なわけで、それはそれでいた仕方ない面がある。
世の大人もすべてそういう道を歩んだに違いない。
この本を読んでいて私が気にくわないのは彼が共産党のシンパであったということである。
いつの世でも知識人が現政府に不満の思いを持ち、不平不満を抱え込むのは変わらない事だと思う。
知識人からすれば、同胞の政府の人間、官僚の人間、行政の人間が、知識人の思いとは別の方向に進むのではないか、という危惧は払しょくしきれない筈だ。
政府の言うことなすことに諸手を挙げて賛成すれば、つい数年前の大政翼賛会になってしまうわけで、政府というのは常に批判の対象であるべきだという論理はよくわかる。
政府が自分の思いを実現する方向に向いていないからと言って、駄々をこねるのは知識人らしからぬ浅慮だと思うが、自分たちの行為があまりにも浅はかだ、と気がつかない知識人もどうかしている。
自分たちの政府が自分たちの思う通りに動かないからと言って、それがそのまま共産党支持につながるでは、まったく戦中の思想の反対向きの思考と何ら変わるものではない。
ただただ方向が逆向きになっているだけで、時流という潮の目に乗る、乗ろうとしている図でしかない。 
この時期の日本のインテリ―、知識人からすれば、自分たちは同胞の政府に完全に騙されていた、裏切られていた、嘘で丸め込まれていた、という不信感は払しょくしきれるものでなかったに違いない。
この時期に朝鮮戦争が勃発しているが、これに対する彼の反応は、極めて他人事のように冷淡な感想で、第3次世界大戦になるかもしれないと心配はしているが、心配したところで日本の現状では何もしえないと達観もしている。
これが大方の当時の日本人の認識ではなかったかと思うが、こういう状況下で知識人が共産主義に傾倒するのも、ある程度はいた仕方ない面がある。
数年前までは同胞の政府に完全に騙されていたわけで、それを深く認識していた人ほど、現行政府に不信感を持つのは当然であろう。
その結果として、共産主義の人気が上がるのも当然の成り行きであるが、だとすると、共産党のいう共産主義の宣伝を鵜呑みにする知識人の思考というのは、現人神を疑いつつ信仰した数年前の知識人の思考となんらかわるところがないではないか。
当時、共産党が人気を博したのは共産主義に共鳴したわけではなく、ただなんとなく現状打破をしたかっただけで、真から共産主義に共鳴したわけではなかろうと思う。
だとすれば、現人神を嘘と知りつつなんとなく周囲の状況に迎合した構図と同じわけで、隣がやるから自分もやる、という程度のものでしかないということになる。
まさしく時流の潮の目そのものではないか。
この日記の中で彼は占領軍としてのマッカアサーの施策を批判しているが、医学生出身の文筆家が当時天皇陛下よりも上に立っている為政者を批判するということがどれだけ思い上がった行為か本人は分かっていなかったに違いない。
これは人に見せない日記だからとはいえ、だからこそ本人の考え方そのものが思い上がりもはなはだしいわけで、そのことは逆に自分のおかれた状況が分かっていないということにもつながっている。
彼が日記の中でいくらマッカアサーを批判しようとも、それはそれでカラスの勝手でいいが、われわれはその批判したマッカアサーから完膚無きまでに打ちのめされたのであって、その事実は決して忘れてはならない。
アメリカと戦争をする前の我々のアメリカ人に対する認識は、「アメリカ人は軟な人間どもだから、こちらが居丈高に出れば相手は尻尾を巻いて逃げる」という、何の根拠もない実にいい加減なものであったが、これも我々の側の一方的な思い込みだったわけで、誰がこういう根も葉もない話を我々に広めたのであろう。
たった4、5年前の相手の出方を肝に銘じてみれば、われわれの同胞がマッカアサーから完膚無きまでに打ちのめされた理由と原因を徹底的に究明すべきが、あの戦後に生き残った知識人の新生日本に対する新たな使命なのではなかろうか。
このことは戦後生き残った我々の側の同胞の知識人には全く理解されず、彼らはただただ生物学的に生の維持という意味で、生きんがために名誉も誇りも、理念も理性もなにもかもかな繰り捨ててさまよっていたにすぎない。
口先で相手を非難することは誰でもできるが、相手を非難して悦にいっているだけでは何の進展もないわけで、相手の出方に合わせてこちらは傾向と対策を考えなければならない。
戦後の日本の知識人は、相手を口先で非難するだけで、非難の結果として、それに対処する傾向と対策を掲示出来れば、もっともっと信頼を勝ち得たが、為政者の側に対抗しうるに足る傾向と対策がなかったので、為政者の側に埋没させられてしまったわけである。
我々は連合軍とはいうものの実質アメリカに完膚無きまでに打ちのめされたが、戦後の同胞は「なぜ我々はあれほどまでにみじめな敗北を帰したのだろか?」、という反省の弁は皆無である。
ただ軍人が悪かった、政治家が悪かった、と責任転嫁の論議は姦しかったが、敗北の本質を解明しようという機運は今に至ってもない。
で、戦争が敗北という形で終わる。すると医者を志していたものまでが、売文で生業が成り立ってしまうようになり、若さにかまけて遊び呆けるというのが戦後の風潮として世間を風靡した。
いわば刹那的な生き方が世間を席巻していたが、この日記の中で彼はストリッパーがしなびた乳を曝け出して金を稼ぐ図に悲哀を感じつつ眺めているが、彼自身の生き方も、このストりパーの生き方と大同小異である。

「街は国境を越える」

2008-07-23 07:59:49 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「街は国境を越える」という本を読んだ。
東京に住んでいる外国人を取材したものであるが、この本を読んでいるとやはり民族によって生き方の根本にある思考が発想の段階から様々なことがよく理解できる。
人の生き方は、人さまざまなことは当然であるが、とは言うものの民族によって共通性のあることもこれまた自明のことである。
この中では18人の外国人が取り上げられているが、その中で4人が中国系というよりもアジア大陸の人間である。
ところが、このアジア大陸から来ている人間には極めて共通的なものがある。
同じアジアでも、大陸から離れた地域、いや中国の影響のうすい地域の人はそうでもないが、中国文化の影響下にある人々は、共通して他の地域の人たちとは異質の発想のように見受けられる。
先に読んだ中国の犯罪組織の小説と見事に符合する。
中国の文化園の人は、極めて個人主義で、まず自分があって、その自己を確立するために、自分の周囲の者を最大限利用するという思考である。
まず自分というものを円の中心に置いておいて、その自分の一番近い外側に家族を描き、その家族の外側に親族を置き、その親族の外側に友人・知人を置き、後は野となれ山となれで、あかの他人であれば人間の内にも入れないという構図である。
これが西洋系の思考だと、彼らは子供が成人すれば、巣立ちを促すわけで、巣立ちをした後の家族との関係はきわめて希薄で、後は成人した個と個の関係になり、男女の仲もこの個と個の関係で推移していく。
この個と個の関係で、夫婦という社会の最小の単位を形成しており、それが社会とのかかわりにつながっていくようであるが、ここにアジア系の思考とヨーロッパ系の思考の大きな相違が潜んでいるように見受けられる。
東京はもはや日本の首都というよりも完全に世界的な都市になっているわけで、昔、マルコポーロが「黄金の国」といったように、ヨーロッパやアジアの国々からすれば、まさしく「黄金の国」に違いない。
自己の才覚と知恵で金の鉱脈を見つけることが可能な街である。
いま東京に集まる外国人は、アメリカ映画に描かれている西部劇のゴールドラッシュとおなじで、彼らはすべからく富を求めて群がってきていると思う。
その富の求め方に、我々、日本人として容認できるものとそうでないものがある。
この本の中に描かれている人は、すべて合法的に真面目に生きようとしているが、ここで「非合法でも構わず、とにかく富さえつかめ」となると、先の小説のようになるのであろう。
ここで問題とすべきは、中国系でない人たちは、日本に根をおろして日本の民草になろうとしているが、中国系の人たちは最初からその気がないわけで、日本で稼ぎながら、最後は後ろ足で砂を掛けて逃げてしまうというところである。
この部分に究極の個人主義があるわけで、受けた恩を仇で返しても、彼らは良心の呵責を何ら感じにないというところである。
その根底には、やはり日中戦争の後を引きずっているわけで、彼らの深層心理の中では、日本があれだけ悪い事をしたのだから、これぐらいのことはしても構わないという尊大な気持ちがあるに違いない。
ところが、我々の側の普通の人は、そのことを一切忘れてしまっているが、反日日本人、非日本人という人たちが極めて偏狭な綺麗事で、人道的という旗印の下、贖罪の意識で以って古傷をほじくり返すので、彼らにしてみればそれが立派に有効性を発揮して、強力なカードとなるのである。
そういうカードを見せびらかして、恫暍してくること自体が下賤な思考であるが、日中双方とも、そういう意識を喪失してしまっている。
恫暍する方もされている方も、それを恫暍と認識していないところに、モラルの本質を理解していないことが明瞭にあらわれている。
無理もない話で、中国大陸では1949年の毛沢東の共産主義革命がなった時点で、古い旧来の価値感は葬り去られてしまったわけで、その時点で中国5千にもわたる倫理、道徳というのは消滅してしまった。
もともとこの地にすむ人々は、あいつぐ戦乱の中で、国家とか社会というものに信を置いておらず、信ずべきものは金、ないしは持ち運べる財宝であって、頼るべきものは自分自身しかないということを経験的に知っており、理念とか、倫理とか、道徳とか、モラルなどというものを信じてはいなかった。
アジア大陸にすむ人々、特に、中国という土地に住んでいた人々にとって最大の不幸は、そういう人々の間に共通の価値観を伝搬する宗教をもたなかったということだろう。
部分的には様々な宗教が起きては消え、消えては起きたに違いないが、アジア全土を共通の価値観で統一するまでには至らなかった。
その点、ヨーロッパはキリスト教が全ヨーロッパを席巻し、それぞれに分派ができたといっても根っこのところではつながっていた。
だから中国の歴史の中での様々な王朝も、我々の歴史認識では全土を統一したように思い込んでいるが、実質は首都とその周辺のみを掌握していたにすぎず、これは21世紀の今日でもそのまま通用しているではないか。
確かに、今日では鉄道もあり、高速道路もあり、社会的なインフラは整備されているように思えるが、政治の根本のところでは、地方はあくまでも地方で、都市優先の施策が行われているではないか。
アジア大陸にすむ人々は、第2次世界大戦が終わるまで、儒教思想の中で生きてきた。
全土に共通した価値観がなかったとは言うものの、儒教というのは彼らの潜在意識に刷り込まれていたわけで、それは宗教を介して刷り込まれたわけではなく、彼らの長年の生活の知恵で、人々の集落ごとに独立して確立されていたが、それを横につなぐ思考がなかったので、人々の統一的な価値感とはなり得なかった。
だから自分の隣の集落の人間は、そのまま敵であったわけで、お互いに敵に囲まれた中で自分たちだけが生き残るにはどうすればいいか、という発想になったものと思う。
だとすれば、金や貴金属を抱え込んで、いざとなったら何処にでも逃げる勘考をしておかなければならないわけで、隣人のことなど構っておれないのである。
よってそれは究極の個人主義となってしまうのである。
一方、ヨーロッパ人は成人したら、巣立ちをするわけで、巣立った子供に対して親も子も過干渉はしない。
子が成功すれば、それはそれで目出度い事であるが、成功した子のところに一族郎党が転がり込むということもない。
子が財産を築いて、そういうゆとりがある場合は、そういうこともありうるが、親の方でも成功した子のところに転がり込むことを良しとしない風潮があるわけで、自分で自活できる間は、自己の責任で生きるというのが基本的なスタンスである。
子が巣立ったといっても、親子の縁が切れるわけではないので、困った時はお互いに助け合うことはあろうが、それを義務として押し付けるようなことはしない。
だからヨーロッパ系の人々は、年老いた人の介護は社会が担うという発想が行きわたっているが、アジアではそういう発想には至らないで、年老いた家族の面倒は身内で見るのが当然という風潮である。
この発想のもとには儒教思想があるわけで、儒教でいう「年長者を敬う」という思考は、年長者、年寄、統治者にはまことに都合のいい考え方で、統治する側の極めて保守的な統治理念であった。
しかるに毛沢東の共産主義革命というのは、この部分でヨーロッパ式の良いとこ取りをしようというもので、子どもの養育と老親の介護は社会で面度を見るようにしようとしたが、中国人の長年の潜在指揮は、そう簡単にはとけないので、その理念を実現するには権力の介入なしではできない。
ここで権力というものを容認すると、その権力が独り歩きしてしまうのが中国の中国らしい特質である。
子どもの養育と老親の介護は社会で面度を見るということは人間の生存にとって極めて喜ばしきことであるが、それを実践するためにはヨーロッパのような民主化の進んだところでは民主的手法で行えるが、中国のようなところでは、民主化の度合いが遅れているので、強力な権力で以って上からの命令でなければそれが出来ない。
よってそれは権力抗争を引き起こす。
これを一言でいえば、中国人には民主化があり得ないので、人々は自分で自分を守り、自分の得になることを探し、人のためには唾を吐くのも回避し、水に落ちた犬は徹底的に叩き、人を踏みつけても自己の利益を優先させる、という選択をとるということになる。
われわれは中国人に対する認識が極めて甘いと思う。
日本の文化は中国大陸から流れてきたので、そういう意味で、日本文化の源であるという認識と、先の戦争で迷惑を掛けたという認識が重なり合い、その上、姿形は酷似しているし、漢字という媒体も共有しているし、海を隔てているとはいえ実質は隣国なわけで、そういう人たち、そういう国々とは仲良くしなければならないと思い込んでいる。
ところが、先方からすれば日本など金の卵を産む鶏にすぎない。
ちょっと叩けばいくらでも金が湧き出てくる打ち出の小槌でしかない。
この本が記述している東京の外人のなかで、中国系の人達は明らかに砂糖に群がる蟻のように、金を目当てに集まってきているが、他の国の人たちはそうそう露骨ではない。
旅から旅して東京に一時的に留まっているとか、結婚して日本の主婦になりきるとか、日本に根をおろして生きていくことを心掛けているが、こういう血の混じり合う事象を、どういう風に考えたらいいのであろう。
今時、我々が単一民族などというと笑われるが、国際結婚という言葉も今は陳腐化しているようで、日本人とそうでない組み合わせというのは掃いて捨てるほどになってきた。
結局、結婚というものが男と女の合意のみで成り立つようになってきたわけで、昔のように家と家の結びつきというのが希薄になってきたということであろうが、洋の東西を問わず昔風の考え方を捨てきれない人というのも大勢いると思う。
当然、そういう人達からすれは、こういう国際結婚ということにはならないだろうが、そのことは言い方を変えれば、保守的な思考から脱しきれないということであろう。
昔から営々と引き継がれてきた伝統を打ち破ることが出来ず、因習の殻から抜け出せずにいるということになるのであろう。
ただこういう民族を超えた結婚というのも平和な時は別に問題はない。
ところがこれがいったん戦乱の渦に巻き込まれると一筋縄ではいかない厄介なことになる。
在日朝鮮人と所帯を持って、戦後、北朝鮮に渡った日本人妻の問題を見るにつけ、国際結婚の難しさが見事に露呈しているではないか。
戦後の混乱の中でアメリカのGIと一緒になった戦争花嫁も全く同じことで、アメリカまで行ったはいいがそこに幸せにはなかったわけで結局馬鹿を見たのは本人だけということになる。
結婚などというものは、日本人同士で結婚したとしても、皆が皆、幸せになるとは限らないわけで、確率からいけば国際結婚であろうとなかろうとリスクは同じかもしれない。
ただ結婚としてのリスクは同じであったとしても、国籍上の困難はついてまわると思う。
こうして、日本にいる外国人を見ると、日本は明らかに食い物にされていると思える。
文化というのは若いものが古いものを打ち破って先に先にと進化するのはまぎれもなく真理だと思う。
だとすると、先に進んだ地域、文化、民族、国家というのは、ある程度のところまで進むと、後は下降線をたどるというのもこの地球上の生き物、特に人間にとっては免れようのない真理なのかもしれない。
古代文明も他からの侵略で滅亡したものはほとんどないのではないかと思う。
民族なり国家の弱体化が他からの侵略を誘発して下降線をたどるというケースはあったかもしれないが、ある民族が武力で他の民族を壊滅的に崩壊するということはありえなかったのではなかろうか。
ある国家、あるいは民族が、繁栄を極める、すると周囲からそれこそ砂糖に群がる蟻のようにじわじわとその繁栄に惹かれて他の人々、民族、周辺の異民族が浸透してきて、今まで繁栄がうやむやのうちに衰退し、消滅するというのが古代文明の遍歴ではなかろうか。
19世紀から20世紀にかけてのアメリカの繁栄は、最初から異民族の混在で成り立っていたわけで、ここには本来の土着の文化、ネイテイブアメリカンの文化は最初から無視され続けたが、この地に渡ってきた人たちは、自分たちで自分たちの文化を築き上げねばならなかった。
旧大陸の人々は、生まれ落ちたときから古来の文化の中で生きねばならなかったが、アメリカに限っては、様々な人たちが無から有を作らねばならず、その分、伝統とか因習とか個を束縛する概念が存在していなかった。
もともと個を尊重するヨーロッパから移住してきた人が多かったので、個というものが最大限尊重されたので、そこではきわめて民主的な社会が構築された。
民主的な社会というと、我々の今日の概念でいえば、極めて優れた開明的で平和で安全な社会と思われがちであるが、この思い込みは完全に間違っている。
個が尊重される民主的な社会というのは、自分の身は自分で守るということでもあるわけで、我々のように社会に甘えることが許されない社会ということである。
自分の身に振り掛かって来た火の子は、自分で振り払わなければならず、国家がなんとかしてくれる、行政が手を差し伸べてくれる、という妄想はありえない社会ということである。
このようにアメリカというところは、従来のネイテイブアメリカンを無視したことによって、ヨーロッパ系の個の確立という思考が普遍化していたので、自分たちで自分たちのルールを作って、そのルールを自分たちで運用するという民主主義が確立されたが、旧大陸では従来の概念が払しょくしきれないので、その思考の普遍化にタイムラグが出来た。
われわれの場合は、1945年の敗戦によってアメリカンデモクラシーの洗礼を受けたが、われわれには従来の思考というものが根強く残っていたので、その概念は両方の良いとこ取りになった。
つまり、融合が未成熟で、自分たちの都合によって都合のいい方に解釈するという便利主義に陥ってしまったので、文化そのものが混とんとしてしまった。
その結果として、最先端の技術と2千年前の歴史的遺物が同時に混在するという摩訶不思議な状況になってしまった。
アメリカのニューヨークが人種のるつぼならば、日本の東京は文化・文明のるつぼと化したわけで、ここではあらゆる文化、文明、人種が生息可能となったわけである。

「二つの血の、大きな河」

2008-07-20 16:20:24 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「二つの血の、大きな河」という本を読んだ。
これは完全なるフインクションで、最近読んだ中では久々の小説である。
松本清張と同じ傾向の社会派推理小説で、その主題は日本に流れ込んできている中国人の犯罪が主なテーマになっているが、その伏線として日本の戦時中の731部隊のことが描かれている。
著者について、私は何の先入観も持っておらず、全く未知の人であるが、読み通した感想としては、この著者は少しばかり中国人に同情的な感情をもっているのではないかと思えてきた。
今の世の中では、差別意識を悪いものとする認識が普遍化しているが、それは人間の倫理としては当然のことであろう。
人間の理念として、人が人を差別するということは悪いことに違いないが、生きた人間からそれを消去することも出来ない話だ。
人は人として皆平等でなければならないはずであるが、人間の感情というのは、理性や知性ではコントロール不可能だと思う。
好きなものを好きという、嫌いなものを嫌いという、こういう感情を一切合財捨てよと言われてもまことに困る。
差別意識の払しょくということは、こういうことだと思うが、そんなことを生きた人間に求めることは人間否定になるではないか。
この地球上の生きとし生きるものは、すべからく生存競争で生きているわけで、肉食動物に他の生き物を殺すなと言っても、それが成り立たないのと同じで、隣り合わせに住んでいる人間同士で諍いをするな、といってもそれは成り立たないはずである。
ただ主権国家という枠の中の人間は、その主権国家の法律で、隣人同士の諍いを調整する機能を備えている。
またその機能を確実に実行あらしめるためには、警察、検察、裁判所というものが存在する。
ところが、この主権国家の枠を超えたグローバルな人間の存在という場面では、諍いを調整する機関は非常に微力な組織で、国家間の諍いを調整する機能が極めて弱い。
よって、それぞれの主権国家はそれぞれに自分を守る組織を自分の考えうる範囲で用意することになるが、問題はその時に、それぞれの国が、何をどういう風に考え、どういう風に対処しようとするのかが他者に解らないことである。
これも人間の心理とすれば当然のことで、お互いに相手の出方がわからないのに、自分の手の内を見せるバカはいない。
そのあり得ないバカの一つが我々の国で、自分で自分の手足を縛っているのを世界に向けて公開して、サンドバックのように叩かれていながら、人が銃撃されたわけではないので、叩かれたこと自体を認識していない。
人というのは一人では生きてけれないわけで、群れでなければ生きていけれない。
人が群れをなすということは、当然そこには一つの社会が出来上がるということで、その社会の中ではリーダーを立て、そのリーダーのもとに統治される人々が集まるわけで、それが一つの国家になる。
その国家は、必ずしも同一民族で成り立っているとは限らないわけで、複数の民族が一つの国家を形つくることもある。
こういう人間の集まりの中で、お互いの差別意識をゼロにするということは、理想ではあるが実現不可能なことだと思う。
人の物を盗むことが悪い事だというのは、人類誕生の時からの普遍的な価値感である。
戦争が好ましからざる事だというのも、人類誕生の時から変わらない価値観だと思う。
にもかかわらず、それは21世紀の今日でもあるわけで、人が人である限り、盗みとか戦争というのは継続すると考えなければならない。
この小説は、読み始めたら止まらなくなってしまった。
まさしく「どうにも止まらない!!」というわけで、一気に最後まで読んでしまったが、この中では中国人の犯罪がメインのテーマになっているが、私は、我々の同胞は中国人に対する認識が極めて甘いと思う。
この小説の中では、旧日本軍の731部隊のことがサブのテーマとして描かれているが、われわれは戦時中の中国人に対する所業に贖罪の意識にさいなまれて、彼らに対して申し訳ないという認識が普遍化している。
これは先方が旧日本軍の所業を日本叩きのカードとして使っているから、我々の側がそれに呼応してそういう感情に陥っているのである。
先方も、日本が戦争に負けた結果として、終戦直後の日本の現状を21世紀の今日までそのままの姿で留めておれば、こういう日本叩きはありえない。
お互いに戦争中であった、お互いに交戦国同士であった、戦争ならばいた仕方ないという認識で共通認識を持ち得たに違いない。
1945年の時点で、旧日本軍の支配していた中国と、日本内地の東京、大阪、名古屋、広島、長崎の状況を比較した場合、どちらが戦災の被害が大きかったかを比べれば、当然わが方が大きいわけで、それで中華民国としては「あの焼け野の日本からは賠償を要求しても取れない」と判断して、放棄したのであろう。
この時点で中国は戦勝国の一員として、焼け野原の日本に対して尊大な気持ちでおれたが、その焼け野原の日本が、半世紀もしないうちにアメリカに次ぐ世界第2の経済大国になってしまった。
こういうことは中国人も夢想だにできなかったに違いないし、現実の問題として、いくら共産主義の天下になったとはいえ、彼らの潜在意識としての中華思想、華夷秩序にある差別意識がいたく刺激されて、彼らにとって日本の隆盛は生理的に我慢ならず、日本叩きの口実を探していたのである。
日本が金満国家になると、砂糖にたかる蟻のようなもので、金の匂いを嗅ぎつけて海を渡って有象無象の中国人が大挙して日本に押し寄せてきた。
問題は、此処でいうところの、金の匂いを嗅ぎつけると砂糖に群がる蟻のように集まってくる中国人の心の内である。
それに対して我々の側はあまりにも彼らに対して甘く、先方の要求を安易に受けやすい。
日本が金持ちになると、何とか日本から金を引き出そうとして、ある事ない事でっちあげて、金を無心する口実を作るわけで、それが「昔、おじいさんやおばあさんが日本兵に殺された、だから金を出せ」という論法になるのである。
先方からこう言われると、我々の側は、青菜に塩をかけたようにしゅんとなってしまい、返す言葉を失ってしまうのである。
確かに、戦争中は交戦国として彼の地で殺生をしたことは事実なるがゆえに、贖罪の気持ちがふつふつと湧き出て、先方の言う事に応えなければという発想になる。
ここが日本人の中国人に対して弱い部分で、「国家間で話し合いがついているので後は感知しない」とはっきりと正面から言い切れないわけで、少しでも善意の態度を示さなければ、と阿るから相手に付け込まれ、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うという外交上の恫喝に屈することになる。
われわれの中国人に阿る気持ちが、素直な我々の同胞の善意であり、良心であり、人として理想の姿であるとするならば、その反対側にある我々の受けた被害の方はどういう風に考えたらいいのであろう。
言うまでもなく、広島、長崎の原爆投下、沖縄の非戦闘員の殺戮、日本の都市の空襲による非戦闘員の殺戮、こういう戦争による惨禍にたいして、中国人に対する贖罪の気持ちと、どこでどういう風に折り合いをつけたらいいのであろう。
加害者としての贖罪と、被害者としての怨嗟の気持ちをどこでどういう風に整合性をもたせるべきなのであろう。
この問題は、我々の同胞の中に、中国人に加担する勢力があるから先方はそれに便乗してくるわけで、ここで「差別意識が悪い」などという綺麗事の念仏を捨て去って、自己防衛に徹すべきだと思うが、こういう合理主義に徹しきれないところが相手に付け込まれる最大の弱点である。
今日の世界を見ると、地球規模で見て今の世界には格差が歴然と存在する。
日本が高度経済成長を果たすと、日本とアジアでは明らかに格差が顕著になって、日本の製造業は人件費の安いアジアにシフトしていった。
その流れの中で、日本の企業は中国にたくさんの工場を作ったが、それは同時に人的な交流も盛んになったわけで、人が行き来すればそのうちに住みやすいところに人が定着するのも自然の流れである。
中国人が海外に出ると、その出た先で必ずチャイナタウンを形つくる。
そしてこのチャイナタウンというのは如何なる国でも異質な存在で、その国に同化することがない。
日本の横浜、神戸そしてアメリカの各都市のチャイナタウンも見事にそうであって、その土地に同化することなく異質のままで汚く、雑然として、周囲から浮いている。
この小説の最後には、犯罪組織の幹部の言葉として、日本の社会は閉鎖的で中国人に職も住まいも快く提供しないので、中国人の犯罪はなくならない、という意味のことが書かれているが、冗談ではない、自分の祖国を裏切って出てくる者を何故に他国が温かく迎え入れなければならないのだと言いたい。
自分の祖国を捨てて出てきておきながら、他国が温かく迎えてくれないので悪い事をする、などという論理が成り立たないことは言うまでもないではないか。
この小説に描かれている中国人というのは、政治的な亡命者ではなく、明らかに金の匂いを嗅ぎつけて集まってくる蟻のような中国人である。
こういう中国人は地球規模で世界に散らばっているわけで、地球は最終的には中国人によって食い散れされてしまうに違いない。
自分の祖国を大事しないものが、行った先の国家に貢献するとは考えられず、結局は、行った先々で良いとこ取りをするだけでは、誰からも信頼されず、異質なまま、浮いたままの存在にすぎない。
こちらが差別意識を捨てて掛かっても、自分たちで差別の壁を高くしているようなものだ。
そういう意味で恐ろしい小説であったが、だからこそ一気に読んでしまった。

「昭和の子」

2008-07-19 07:57:36 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「昭和の子」という本を読んだ。
前に2度も読んだ「昭和ッ子」とも題名は酷似しているが内容は全く別物である。
代田健慈という人物の目を通した昭和史というようなものだ。
自分史なのかフィクションなのか極めて曖昧な書き方がなされていた。
代田健慈とその姉・亜貴子という子どもの視線から、両親とその両親の周りの大人を描き、そのもう一つ外側に当時の世相を織り交ぜた昭和史になっている。
料理の仕方によっては極めて膨大な著作にもなりうる素材だと思う。
昭和史ともなれば同世代を生きてきた私にとっても共感する部分が多々あって、非常に興味深く読んだ。
中でも、私が不思議でならないのは、あの昭和20年の廃墟の中で、尚も徹底抗戦を唱えた人たちの心情である。
この本の中でも、姉・亜貴子というのは完璧な軍国少女であって、わずか国民学校の6年生でありながら、徹底抗戦を信じているあたりは不思議でならない。
この本の中では、厚木の事例が詳細に記されている。
海軍厚木基地302航空隊司令小園安名大佐として実名で登場しているが、その前には、皇居で天皇の録音盤を略取しようとしてクーデターを起した陸軍の人たちの例もあるわけで、こういう人たちはあの戦争をどういう風に理解していたのであろう。
小学生が「聖戦遂行」と言うのは、あの時代背景を考えればまだ理解できる。
しかし、戦争のプロとしての軍人、特にこの例のように海軍大佐というほどの戦争のプロフェショナルであるべき人が、あの昭和20年の状況下においても尚「聖戦完遂」を言うということは一体どういうことなのであろう。
これを私流の言い方で表現すれば、戦争の私物化である。
口では天皇のため、国民のため、銃後のため、祖国のためと言いながら、何のことはない自己陶酔に酔いしれて、自分自身の大義にのみ忠実であるだけで、周囲の人のことが全く眼中にないということではないか。
海軍大佐ともなって、昭和20年8月の東京の現況を目の当たりにして、それでもなお交戦能力があると思うのはよほどどうかしている。
この物語の中では、主人公の姉・亜貴子は国民学校の6年生にもかかわらず、玉音放送を聞いても尚健気に聖戦完遂を信じていたが、あの戦争を通じて軍人の大部分、軍部の全部が、この少女のような心境であった、ということは一体どういうことなのであろう。
まさしく司馬遼太郎のいう「鬼胎の時代」という以外、表現のしようがないように思える。
戦後の我々は、この部分を深く掘り下げて考えたことがないのではなかろうか。
何でもかんでも軍人の悪行、軍部の独断専行、軍国主義の圧政、言論統制、等々の理由をつけて、軍人と軍部に責任を押し付け、極東国際軍事法廷でけりをつけた形にして、我々が如何にして一億火の玉と化して西洋列強と戦ったのか、という真の根源を追求する努力を怠っているのではなかろうか。
この物語に登場する姉・亜貴子は、戦後しばらくして進学を果たすと、今度は左翼運動に走ることになったが、100%完璧な軍国少女が状況が変わると今度はその対極に走ったわけで、作者はこの少女を介して、当時の日本のインテリ―層の思考を代弁させようと意図したものと考える。
右から左へと、あまりにも極端な思考の遍歴は、日本の真面目な青年の典型的な精神の移行過程ではないかと思う。
この場合、若者の真面目さ、若者の気真面目というものが最大の障害ではなかろうか。
軍国主義の中で、真面目であればある程、猪突猛進的に傾倒してしまうわけで、ところが時代が変わってそのベクトルが逆向きになると、やはりその真面目さなるが故に、新しい方針に前にもまして猪突猛進になってしまうのではなかろうか。
この物語の中で、彼らの父親は経営者として満州の実情視察に出かける場面があって、そのなかで満映社長の甘粕正彦の講演を聞くところがあるが、この父親は満州の視察を経験して、当時の風潮に疑問を感じ、自分の事業の満州進出を断念する。
政府が笛太鼓を鳴らして大宣伝する事業に何かしら不安を感じ、それに便乗することを自重したわけだが、こういう冷静さが昭和初期の日本人には全くなかったわけで、我々の大部分は、自らの政府が大宣伝する事業にいとも安易に便乗しようとしたのである。
当時の日本政府といえども、最初から同胞を騙す気がなかったことは当然であろうが、金太鼓を打ち鳴らして宣伝した計画そのものが極めて杜撰であったわけだ。
この杜撰さがどこから来たのかと問えば、それは我々自身の奢りであったわけで、奢り高ぶっていたので、物事の真の姿が見えず、表層の事象に目を奪われて、それに幻惑されたものと考えざるを得ない。
この兄弟の父親が、満州進出を断念したその根拠は、現地の人々の目の輝き見て悟ったと記されているが、昭和初期の日本人はこういう視点が国民全体として抜け落ちていたに違いない。
第1次世界大戦が終わって、日本は世界の5大強国となったものと勘違いしていたわけで、こういう勘違いに陥ることからして、限りなく増長していたことになるが、われわれはそれを爪の垢ほども認識していなかったのである。
ある面ではいた仕方ないところもあるわけで、われわれは島国の住人で、他民族との接触ということには極めて不慣れであった。
こちらが良かれと思ったことは先方もそのまま受け入れると思い込んでいた節がある。
これが大陸国家ならば、歴史上で何度も犯し侵された経験があるので、外交巧者に成りうるが、われわれは島国なるがゆえに、そういう経験を経ずして名目的な大国になってしまった。
しかし、われわれは近代国家をつくる過程で、優秀な人材を全国各地から集め、陸軍士官学校、海軍兵学校、あるいは各地のナンバースクール、帝国大学で養成して、国家の機関要員として学識経験を積ませた。
ところがその結果として、あるいはその集大成として、昭和20年、わが祖国が恢塵と化した。
日本の都市そのものが灰となってしまったということをどう説明したらいいのであろう。
その根本のところには政治の延長としての戦争という事態が横たわっていたが、そういう過酷な事態を回避あるいは潜り抜けるために、われわれは優秀な人材を育成してきたつもりなのに、それが全く効果を現さなかったということは一体どういうことなのであろう。
明治維新以降、営々と築き上げてきた近代日本、若い優秀な若者を集中的に教育した結果として、彼らの先輩諸氏が築き上げた近代日本というものが灰となってしまったということをどう説明するのであろう。
我が国の優秀な若者が集合した、陸軍士官学校、海軍兵学校、あるいは各地のナンバースクール、帝国大学の教育は一体何であったのか、と問い直さなければならないではないか。
昭和20年の東京の現状を目の当たりしても、なお戦争を継続しようとした軍人を我々はどう考えたらいいのであろう。
明治以降の優秀な若者を集めた教育の効果が、こういう形で現れたことに対して、どういう説明が出来るのであろう。
この本の中で描かれている主人公の父親は、学は無いけれども、満州に渡って、その地に生きている現地の人々の目を見て、彼らは日本を、われわれを恨んでいるということを直感的に悟ったが、高等教育を受けた優秀な若者は、そういう自覚が全くなかったわけで、これは一体どういうことなのであろう。
昭和20年、1945年8月に、われわれがポツダム宣言を受諾して戦争を終結させたのは、昭和天皇の意志であって、優秀とされていた日本の高等教育を受けた人たちの成果は全く反映されていなかったことになる。
だとすれば、その高等教育は一体何であったのかと言いたい。
市井の無名の人が、海を渡って満州の地に立ってみると、現地の人々は日本に対して実に恨めしい眼差しでわが同胞を見ていることを肌で感じたにもかかわらず、高級軍人や高級官僚はそれに全く気がついていなかったというのは一体どういうことなのであろう。
私が思うに、日本の近代化の過程で、四民平等で、日本全国津々浦々から優秀な若者を集めて、国家が枠を嵌めた教育をしたところにその原因があると思う。
この四民平等というのがいわば曲者で、このフレーズはきわめて民主的に聞こえ、好ましい印象を受けがちであるが、ぶっちゃけて言えば味噌も糞も一緒くたにするということでもある。
人間の能力を測るのに、記憶力や洞察力はペーパーチェックで測れるが、その人の持つ潜在的なモラル、精神の気高さ、ノブレス・オブリージというのは測るすべがない。
東北の貧乏な百姓の子忰が、立身出世を夢見て、軍人養成機関に入ってくる。そこで一生懸命、切磋琢磨して、恩賜の短剣を得て卒業、高位高官の地位に就く。故郷に錦を飾って帰る。本人も周囲の人間も彼は優秀な人間と一目置く。
ところが、この人の仕事あるいは任務は、その職権の維持ないしは拡大で、軍の仕事とはいうものの、軍のための軍の仕事であって、それは国民のため、あるいは銃後の人々のためではないわけで、軍による軍のための仕事に過ぎなかったのである。
本人は軍のための仕事を通じて、それが天皇のため、あるいは国民のためになっていると思い込んでいるかもしれないが、この思い込みが大間違いであったわけである。
問題は、貧乏な百姓の子忰が、立身出世のために、学費のいらない高等教育に群らがるという点が、既にその発想からして下賤であって、そういう人が努力の甲斐あって高位高官に就くと、自分の生い立ちを忘れ得て、尊大に振舞い、奢り高ぶって、下々のことを眼中に置かなくなるということである。
貧乏な百姓の子忰が立身出世をして高位高官に就いて、その地位にふさわしい立ち居振る舞いをすれば、その人のモラルも地位に応じて向上し、人としてはそうでなければならないが、普通はこういう場合、地位におぼれ、自分の生い立ちを忘れがちでなところが下賤な百姓根性というものである。
これは現在でも立派に通用しているわけで、若い美空で官僚、公務員になろうと思っている人間は、明らかに百姓根性の持ち主である。
覇気のある若者ならば、ぬるま湯ということが解り切った官僚や公務員の世界など目指すわけがない。
民間の企業で、とことん自分を試す試練に立ち向かうものと思う。
考えてみれば我々大和民族というのは実に不思議な集団だと思う。
われわれは、戦前、アジア大陸に夢と希望を託して進出して、手痛いしっぺ返しを受けた。
にもかかわらず再び高度経済成長で日本が豊かになりかけ、日本の人件費が高騰してくると、再び安い人件費を求めてアジアに進出した。
今度は武力を背景にしていないので、先方はしたい放題嫌がらせをしてくるが、それに対しては我々の側は徹底的に隠忍自重して、完全にエコノミックアニマルに徹しきっている。
あの戦争を通じて、手痛いしっぺ返しを食ったので、なにがなんでもアジアには足を踏み入れない、という信念にはなっていない。
「喉元過ぎれば暑さを忘れる」で、目前の人件費の高騰という問題をいとも安易に中国進出という方法で解決しようとする。
日本の製造業のノウハウは、その一つ一つが戦略的に極めて有効な外交カードだ、という認識が全く存在せず、ただただ自分の会社がいかに儲けるかという下賤な狭い了見でしかない。
つまり表層の流れしか目に入っていないということである。
われわれはアジアの人たちとも仲良くしてかなければならないことは当然であるが、その為には相手の本質をとことん研究して、その傾向と対策を十分に考えてから掛からねばならない。
中国では人件費が安いから工場を移すなどという安直な思考で出るのではなく、常に何かの担保を取り、何か確実な保証を築いてからでなければ相手の土俵に上がらないことである。
われわれの歴史を見れば、明らかに大陸の影響を受けているわけで、それがため我々にとって中国の民は、何となく親近感を持ちがちであるが、そんな甘い感覚でいると「庇を貸して母屋を取られる」ということになりかねない。
だいたいあの戦争だとて、元は中国問題のこじれなのであって、中国におけるトラブルの処理がまずかったので対米戦にまで発展して、最後は廃墟と化してしまったではないか。
日本全土が灰となった原因が中国問題であったことを決して忘れてはならない。
戦後の我々は日中戦争と大東亜戦争を分けて考えがちであるが、あれは一続きの一連の連続した流れであって、分けて考えるべきではない。
ところが我々は戦後に至っても、中国となるとついつい情に絆されて、甘い甘い思考になってしまうのである。
相手は五千年の歴史の国である。
われわれは皇紀で勘定しても2668年でしかないわけで、大雑把に比べても倍の年月の違いがある。
この年月の違いは、そのまましたたかさの違いとなっているわけで、今回の北京オリンピックも上海万博も大きなチャンスなので、これを機に対中国政策を根本的に見直すようにすべきだと思う。

「日本語のゆくえ」

2008-07-18 06:36:35 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「日本語のゆくえ」という本を読んだ。
作者は吉本隆明。
正直言ってこの人がこの本で何が言いたいのかさっぱり理解できなかった。
ただなんとなくわかるのは、この本の終わりの部分で、昨今の若者の詩が吉本自身理解に苦しむというところで、それならば共感出来ると思われるところだ。
吉本隆明氏は世間では文明評論家として通っているようであるが、評論家というよりも、本人自身が哲学者の風格がある。
これは私流の褒め言葉ではなく、全くその逆で、私としては最大限のけなし言葉である。
そもそも私は哲学というものを信用していない。
哲学者などというものは、人間の屑でしかないと思っている。
「われ思う、故にわれあり」。デカルトかショウペンハウエルか知らないが、こんな愚にもつかないことを日がな考えているぐらいならば、草の一本でも抜け、釘の一本でも作れと言いたい。
囲碁の世界に「下手な長考、休むに似たり」という言葉もあるが、人間が物事を考える行為は怠惰にそのまま通じていると思う。
哲学者がものを考えるというのは、経営者が金儲けの方法を考えるとのは違っている。
職人が自分のやり方を考え直して工夫するのとは根本的に違っている。
哲学者がものを考えるという場合は、考えるために考えているわけで、彼らがいくら考えても、答えがあるわけではなく、ただただ考えるために考えているに過ぎず、結論として何も人間にとって有意義なことをしているわけではない。
ただただ暇つぶしの延長として、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うという風に、愚にもつかない思考を堂々巡りさせているにすぎない。
ただただ日向ボッコをしているでは、世間に対して面目が立たないので、さも難しい言葉を並べ立てて、立派なことを議論している風に見せてはいるが、言葉が難しいだけで、言っている内容は何もないのである。
それで凡俗な人々は、その難解な言葉に幻惑されて、哲学者というものは偉い先生がただ、という間違った認識を持つのである。
60年安保闘争や、学園紛争のときに出まわった立て看板の表現は、実に難解な言葉の羅列であったが、哲学者の心境もあれに近いわけで、小難しい言葉をこれ見よがしに並べておけば、無知な大衆は自分たちにひれ伏すに違いないという錯覚に陥っている。
だいたい学者ともあろうものが、大衆の解らない言葉を並べて何になる、というところに注目しなければならない。
学者が学生に説くのならば、それもある程度はいた仕方ない面があるが、一般大衆に説くのが目的ならば、当然大衆に解る表現をつかうのが常道であって、難解な言葉を並べ立てたところで意味をなさない。
にもかかわらずそれをすると云うことは、真に大衆にものごとを説くのではなく、自分たちで自分たちのしている行為に酔いしれて、自己満足に浸っていることに他ならない。
自分たちで学者ゴッコをしているわけで、自分たちの仲間内で批判し合い、傷を舐め合っているのと同じで、他への影響力というのはありえない。
ただ後半の部分で、この著者が最近の若い人の詩は意味不明だ、という部分は私も同感だ。
私自身、こういう若い人の詩集をひも解くということはあり得ないが、インターネットの文章を読めば、だいたいのことは想像がつく。
それと直木賞とか芥川賞の受賞作品を見れば、だいたいの方向性は掴める。
言葉というものが変化することは論を待たない。
言葉は時代とともに変化するが、その変化は逆に時代を再現しているようにも見える。
例えば、60数年前までの小学校では教育勅語をまる暗記させていたが、この教育勅語の文面は今では通用しない。
しかし、今は通用しないが当時はそれで通じていたわけで、当時の人々は、それになんのてらいもなく分かり合えていたわけだ。
ことほど左様に言葉は変化するわけで、その変化をとやかく言う筋合いではない。
それに順応できない人の愚痴が、「言葉の乱れ」という言い方で露呈しているにすぎない。
それとは別の問題として、小学校で漢字をどこまで教えるかという問題は、別の視点からの考察が必要だと思う。
いわゆる国語教育の問題であるが、教育の場では字の書き順と、当用漢字、常用漢字を幾つ教えるか、覚えさせるかというのも大きな問題だと思う。
大人になってしまえば、字の書き順などというものは大したことではなく、全体が整っていれば問題はないが、国語教育の現場はそうはいかないと思う。
それに国語教育の現場では詩というのも大きな課題のはずで、どういう詩が良いとか悪いとか話題になるはであるが、ここで旧世代と新世代の価値観が大きく作用するに違いない。
詩の解釈の仕方で、旧世代と新世代の力の均衡が、新しい方向に向かうか旧態依然とした保守に舞い戻るかの別れ道だと思う。
「日本語の乱れ」という場合、それは保守の立場から新しいものの考え方についていけれない人の思考であって、時流の中で自然淘汰される過程のことだ。

「人生万歳」

2008-07-16 08:07:11 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「人生万歳」という本を読んだ。
永六輔と瀬戸内寂聴の対談集であったが、まさしく抱腹絶倒というものである。
永六輔はまさしくメデイア人間というべき人物で、特にテレビ界ではタレントと称する職業の走りのようなものだ。
瀬戸内寂聴は、これまたエロ小説の元祖のような人物で、以前はあまり好きでなかった。
しかし、両名ともメデイアで何だかんだと言われつつも今まで生き残ってきたということは、本人の才覚によるものであろう。
マルチ・タレントとして、それだけの才能があったからメデイア界を生き延びてきたのであろうが、瀬戸内寂聴の出家などは、私としては売名行為ぐらいの認識でしかなかった。
世間に名を成す人というのは、やはり何かしら人にはない才能があることは確かだ。
瀬戸内晴美時代の小説が如何にエロっぽくあろうとも、その人の持つ個性なわけで、世間から顰蹙を買うというそのこと自体が、ある種のポーズであったわけで、彼女への批判はその反作用であった。
考えてみれば、小説家といえども小説という商品を生産しているわけで、その商品をいかに売るかということは経営の問題になる。
正統派でいくか、あるいは搦め手、邪道でいくかということは、作家の経営戦略でもあるわけだ。
正統派として王道を歩くことは極めて難しい。
数ある作家、数ある小説家の中で、誰が文学の王道を歩んでいるかという問題は、極めて見極めの困難なことであって、それには答えがあり得ない。
文学に、王道そのものが果たして存在するかどうかも極めて難しいわけで、その中で売れるものを書くということは、奇をてらうしか道がないのではなかろうか。
書いたものが商品として売れなければ、作家といえども路頭に迷ってしまうわけで、いかにして売れる作品を作るかという問題が、作家としての生命線だと思う。
そして、それには尺度とか目安とか指針というものは全くないわけで、何が売れるか、どうすれば売れるかということは誰にもわからず、その部分が作家をして悩ませる最大のポイントなのであろう。
様々な無名有名な作家や小説家の作品になにがしかの付加価値をつければ販売促進にいくらかでも貢献するのではないかというわけで、様々な賞が用意されてきた。
その代表的なものが、直木賞であったり芥川賞であろうが、無名の作家がこれを受賞すれば、その時点でもう無名ではなくなるわけで、それ以降というものは執筆依頼が山ほど来るということであろう。
私も本好きな人間のひとりであるが、読み物の世界にもある種にはやりすたりがあるようで、昨今の直木賞、芥川署の受賞作品というのは、読んでいてどうにも納得しかねる。
こんな作品がどうして受賞に値するのか不可解な思いをするのが常だ。
これは審査員の責任だと思うが、審査委員の思考が限りなく堕落しているのではないかと思う。
私の持論ではあるが、文化の進展・発達は常に若者が従来の思考を超えるところから始まる。
この時に成熟した大人がきちんと若者をコントロールしないから、ずるずると自堕落の方向に進んでしまう。
つまり、若者が従来の思考を超えた発想をした時、きちんとした大人が、従来の規範を指し示して、若者の行きすぎを制御しないから、だらだらとモラルハザードが進んでしまう。
それを一言でいうと、大人が若者に迎合するということで、大人が若者に迎合する部分に、旧来の思考の没落が潜んでいるのであろう。
昨今の直木賞、芥川署の受賞作品に、我々、大人世代が違和感を覚えるのは、その部分に審査員が若者にすり寄る姿態を見るからであって、そこに世相の乱れを感じずにはおれない。
瀬戸内寂聴氏は源氏物語を寂聴流に翻訳して、寂聴源氏というものを確立したが、この源氏物語そのものが既に書かれたときからアンチモラルであったわけで、そのことは言い方を変えれば、人間の本質を描いているとも言える。
しかし、モラルというのも時代とともに変化するわけで、千年という時空間の中で、千年前のモラルと今日のモラルを同一視してはならないのではなかろうか。
モラルが時とともに変わろうとも、人間の本質は変わらないわけで、その変わらない部分を抽出するとなると、それはエロそのものということになる。
人間の性に対する欲望というのは、時代がいかように変わろうとも変わらないわけで、文学というのはその部分を文字で表現したものだと思う。
その部分を文字で表現するのに、千年前と今日では隔世の感があるわけで、その表現のテクニックは常にモラルとの葛藤ではないかと思う。
モラルとの葛藤の部分は、精神性との軋轢でもあるわけで、そこを如何に表現するかが、作家や小説家の器量が問われるところである。
話変わるが、昔は読書人という言葉があったが、今この言葉は生きているのだろうか。
テレビはもとより、映像で情報を伝える機器が世の中に掃いて捨てるほど出回っている中で、こういう環境の中で読書人ということがありうるであろうか。
若者の活字離れが言われだして久しいが、本屋はますます大きくなって郊外に進出し、逆に市中の小さな本屋は倒産していると聞く。
その本屋をのぞくとまさしく本があふれかえっている。
本を読むことが遊びになっているが、遊びとか娯楽で本を読む人を、読書人というべきかどうかは、はなはだ難しい定義だ。
この本の中の対談で、三波春夫が登場しているが、彼は舞台で歌を歌っていない時は、楽屋でも読書に耽っているということが暴露されているが、私たち旧世代の者からすると、こういう人こそ読書人にふさわしい人ということになろう。
ところで永六輔となるとテレビ創世記からのタレントで、今は活躍の舞台をラジオにおいているらしいが、こういう人こそメデイア界のご意見番として、メデイアの行きすぎを内側から考え直すべき立場ではなかろうか。
彼の立場と彼の人脈からすれば、その影響力はメデイア界に深く広く浸透しているはずで、そういう意味からしてもメデイア界のモラルの向上に一役も二役も貢献すべきではないかと思う。
局の人間と、その局の依頼で出演するタレントとしての立場の違いがあろうとも、メデイア界における彼の発言力というのは大きなものがあると思う。
そういう意味で、彼のいうことを聴く局が少ないので、彼自身がラジオの方にシフトしていったのかもしれない。
いづれにしてもこの二人は日本のメデイア界を悠々と泳いでいるわけで結構な御身分ではある。
メデイアの発信する情報というのは、発信する側が主導権を握っているわけで、永六輔や瀬戸内寂聴がいくら苦言を呈したところで、それを握りつぶす力は先方の方にある。

「旅する愉しみ」

2008-07-15 07:00:13 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「旅する愉しみ」という本を読んだ。
この本も一種の随筆であるが、読んでいて興味尽きないものがあった。
岡田喜秋という人は性来旅が好きな人のようで、旧制高校さえも山のある信州を選んだというぐらいであるから、並みの旅好きの域を超越している。
そして就職した先がこれまた日本交通公社と来ているのだから、生まれ落ちたときから旅が宿命になっていたような人だ。
ツアー、トラベル、ジャーニーと、旅にもいろいろあるが、私に言わしめれば、旅が出来るということは、極めて裕福な立場のいることだと考える。
基本的には、貴族や裕福な商人の子息が、人生修業の一環として、親元を離れて、人生経験を積む場であったはずである。
太古から封建主義の時代においては、人々は農耕を主体として生きてきたので、のこのこ他の土地をさ迷い歩くような行為は、人々の想定外のことであったと思う。
農耕を主として生きている限り、世界は自分の農村の中だけであって、その小さな世界から外に出るということは、人々の思考の外のことであったに違いない。
ところが、そんな小さな宇宙も、外からの刺激で風穴があいてしまうわけで、そこに好奇心に満ちた人間が入り込むとことによって、だんだんと外の世界が人々に伝わっていく。
この場合、その好奇心を満たすことが出来る人というのは、貴族として遊んでおれる身分のものか、あるいは大金持で同じように何もする必要のない恵まれた子弟のみである。
だから旅というのは極めて贅沢な遊びであったわけだ。
日本でも、講を組んで、貧しい人たちが毎月わずかな金を積み立てて、講の代表として、順番にお伊勢参りなど称して物見遊山をしたり、贅沢をすることによって明日へのエネルギーとしていたのである。
だから旅をするということは、金持ちゴッコに徹しなければならないわけで、貧乏人根性が抜けきれないうちは旅などするものではない。
われわれはチップのない世界に生きているが、世界にはチップで生きいるひとも大勢いるわけで、チップの有無は、必ずしも文明度に比例しているわけではない。
たとえば世界の最大の強国アメリカは、明らかに文明度においては最強・最新であるが、この国では未だに立派にチップが生きている。
であるからして、そのチップの渡し方も実に洗練されている。
日本も最近はアメリカに対して相当強気な発言をしており、アメリカを見くびる傾向があるが、その一つとして、このチップに対して極めて冷淡に無視することが、一種の「粋」と勘違いする向きがある。
「チップは強制ではない」と十分に承知しているが、だからこそ率先して払うのがより良きジェントルマンであり、相互扶助の精神でもあり、明るい社会に向かう第一歩だと思う。
チップを必要とする職域は、いづれも最下層の職域で、企業や組織のトップにチップを払うわけではない。
私も定年後アメリカを2、3度観光旅行したが、アメリカ人同士のチップの受け渡しは実にスマートであったので感心した。
レストランで食事が終わって席を立つ時、花瓶の下に差し込むとか、観光バスのガイドが終わって下車するとき、握手する手にそっと忍ばせたり、相手に対する控え目な配慮が実に小憎らしいぐらいだ。
金持ちが貧乏人にめぐむという態度にならないように振舞うところが実にスマートである。
チップを受け取る方だとて、もらったからと言ってそう大業に豊かになるというものではなかろうが、サービスに対するささやかな感謝の気持ちとして受け取っているに違いない。
問題は、この感謝の気持ちを素直に表すということだと思う。
われわれの発想だと、「料金の中にサービス代も入っているではないか」ということになるが、確かに理屈はそうであるが、理屈・プラス・アルファーが「心のゆとり」というものではなかろうか。
この「心のゆとり」の部分が大事なわけで、我が民族は、民族全体として、この「心のゆとり」というものに理解を示さないのである。
ウエイトレスが快くサービスしてくれた、ガイドが一生懸命目説明してくれた、それを彼らの仕事だと冷徹に割りきるか、仕事だとはいえよくやってくれた、と感謝するかどうかの問題と思う。
われわれは従来何事にも感謝して生きてきた民族だと思うが、戦後の民主教育は、この何事にも感謝をする風習を、時代遅れの封建主義と混同して遺棄してしまった。
チップというのは何も多ければ多いほど良いというわけではなく、あまり多すぎても相手からバカに見られるというのも事実だろうと思う。
外国旅行が自由にできるということは、それだけ豊かになったわけで、昔ならば貴族や大金持ちしかできなかったものを庶民レベルでも可能ということは、そういう旅に出る庶民は旅の間だけでも貴族や大金持ちと同じような立ち居振る舞いをしなければならないはずだ。
旅をすると言うことは、ある意味で金をばらまいてやるということでもある。
金がおしければ最初から旅などの出なければ済むことである。
出た以上、散在してやるのが旅人としてのエチケットだと思う。
ところが旅の大衆化ということは、旅に出る人が全て「心のゆとり」をもった人たちではないわけで、中には正規な料金を払っている以上チップなど払う必要がない、と頭から決めつけている御仁もいる。
こうなると文字通り旅の恥はかき捨てということになる。
もう一方で、若者の無銭旅行というのもあるわけで、これは旅が高貴な遊びである以上、金も地位ももたない若者は如何にしたら見聞を広めることが出来るかという反問でもある。
若者は金も地位もないのだから、人の情けにすがって旅をするということになるわけで、リタイアした大人が若者と同じことをしていては、大人の沽券にかかわる問題のはずである。
最近の日本人の旅というのは、ある意味で極めて浪費型の旅で、それはそれで意義があると思う。
金持ちの日本人が、世界各地に出かけて行って、そこでそれなりの散財をするということは大事なことであるが、出かける側としては、行った先で何かを得てこなければ旅に出た意義がないと思う。
ただ頭の中に印象つけてきたといっても、それはすぐに忘れてしまうわけで、あそこにも行った、ここにも行ったという記憶は残るが、行った先で何を見何をしたかという記憶は綺麗さっぱり忘れてしまう。
高い旅費を投資して、あそこに行ったここに行ったという記憶だけしか残っていないとするならば、その旅は極めて効率の悪いものだったということになる。
その意味で、紀行文を残すということが一番旅の効果をあらしめる行為だと思う。
文章を書いて残すということは、それぞれに得手不得手があると思うが、写真ならば比較的誰でも安易に実行できることであろう。
しかし、もう一歩踏み込んで考えてみると、旅に出てその記憶、記録を残すということも究極の貧乏人根性かもしれない。
旅に出るような人は、忘れたらまた旅に出ればいいわけで、そう度々旅に出れないから一度得たチャンスを最も有効に使おうという魂胆が記録させる衝動につながっているのかもしれない。
それと日本の若者が集団で海外旅行をするというのも根本的に考え直すべきことではなかろうか。
明治維新の前後には日本の若者は死に物狂いで海外事情を得ようと粉骨砕身したが、それに比して、今の日本の高校生が海外に修学旅行に出るというのは根本的に間違っていると思う。
今の日本の若者に海外事情を見せるに値するかどうかの問題だと思うし、その判断は大人の側が握っているのだから、全体として日本の社会全体の奢りだと考えられる。
これは金さえあれば何をやってもいいという発想の顕著な例だ。
先にそれがあるので、理由は後から どういう風にでもつけれるわけで、その部分に大人の側の奢りと傲慢さが潜んでいる。
当然、高校生の海外修学旅行をセットアップする旅行業者も一枚加わっているわけで、学校、父兄、旅行業者が三位一体となって、高校生の海外修学旅行は良い事に違いなく、行うに値することだという驕りと傲慢につながっていくのであろう。
驕りとか傲慢さというのは、本人にはさっぱりわからないわけで、本人は一生懸命であったとしても、その一生懸命していることが周囲から浮き上がっている、ということになかなか気がつかないのである。