
昨日は、隣町・田川市で開催された「伊能忠敬の歩いた道ウォーキング」に参加してきた🎵

会場は、一昨年のマルシェでお世話になった「いいかねパレット」💖
洒落た名前がついているが、旧猪位金小学校の跡地...
つまり、廃校になった校舎を利用して、体育館は今回のような催しや講演会、マルシェ等に🎵
職員室や教室は宿泊施設に🎵
この日も、午後から隣の宿泊施設で結婚式の二次会が行われていた💖

こちらは、学校のすぐ隣にある、元保育園🎵
保育園の前は、猪位金村役場として使われていた🎵

実際に歩くのは午後で...(^_^)
午前中は、伊能忠敬の紹介となんば歩きの紹介🎵
そのあと、昼食をとり、4つの班に別れて5kmのウォーキング🎵
途中、実際の距離を伊能忠敬がやったように歩測で測って何キロか?
というクイズがあって、正解者、正解に近い人から順に地元のマルボシ酢が1本当たった🎵
私は10mも誤差があったけど(^_^)
太っ腹なマルボシ酢さんのお陰で貰えた(^ー^)💖


参加賞は伊能忠敬の缶バッジ🎵
【「いのう ただたか」って誰?】
意外と知らない人も居るので説明しておくと...
日本で最初に地図を作った人🎵
もちろん、彼より先に作った人は居るのだろうけど、実際に現地で測って地図におこした人
...
彼の作った地図は大図・中図・小図と呼ばれ、現在の国土地理院の十万分の一、五万分の一、二万五千分の一の地図のようなモノ🎵
その彼が、幕府に命じられて日本全国測量の旅に出掛けたのが、今の私くらいの年ごろ🎵
江戸時代の平均寿命は50歳そこそこだから、棺桶に片足突っ込んだ老人に、かような激務を命ずるとは、幕府よ、お主も酷よのう(^_^)
されど、このお陰で伊能忠敬は当時としては大往生、それこそ亡くなる間際まで地図を作り続け、彼が作った200年前の地図は、昭和4年まで使われていた、というんだからオドロキだ❗
そこまで彼の地図が"正確"であったことを物語っている🎵
【測量隊の様子🎵】
日本全図を作ったのだから、彼の足跡は全国各地に残されているが、九州は第8次測量の時に実測された。種子島、対馬といった離島まで含まれている。
この時の測量隊は19名、913日間、毎朝4時起床、6時半出発で夕方近くまで続けられた🎵
総距離は13083km🎵
脚を使うコトが長生きの秘訣である、と証明しているようなものである(^ー^)💖

測量隊の一日の食事が記録された紙が昼食の弁当と一緒に配布される予定だったが...
ここの店主が倒れて入院された、とのコトから急きょ、地元の別な仕出しやに注文が入った🎵
この弁当が、なかなか気合いが入っている(^ー^)💖

550円、は税込み価格だろうが、500円にしては安すぎる🎵
味も良し💖ボリュームも良し💖
【猪膝街道を行く🎵】
午後は伊能忠敬の測量隊が歩いた道を辿る🎵
私の3班は、猪位金小学校の校長先生をされていた方が案内役だったので、地元の歴史に関わる話を詳しく聞けた🎵

山の頂きの切れ目のような所は、昔の山城跡🎵

今回、通る猪膝街道は、初めて耳にする名前だが、明治以前は、田川の町、と言えば、ココ猪膝だったそうで...明治になって石炭産業が栄えると、後藤寺や伊田が栄え、昭和の終わりの石炭産業の衰退と共に町も衰退し、現在の田川の商業の中心地は、工業団地とトライアル?
猪膝...という聞きなれない地名は、古来よりここら辺を治めていた庄屋の姓によるもの、だそうだが、現在は猪膝と名乗る者は居ない。


何となく、街道っぽくなってきた🎵

国境の碑は、古くなって取り替えられ、古くなった当時のモノが一般家庭のお庭に移されていた🎵
なんだか酒蔵か窯元の煙突みたいですが...
家の方が門扉を開けてくれた🎵

国境の碑🎵
その隣にあるのが、秋月藩士の墓だ。
それにしても、この街道、宿場町の割りには、閑散としている(^_^)
いや、当時の面影がほとんど無い。
当時は、フツーにあったであろう、米屋や酒屋、醤油屋、紺屋...
酒屋は最近まであったそうだが、なんと夜逃げした、とか...
唯一、醤油屋が残っていた🎵


たまたま、この日は休みだったようで...
ココの醤油は美味しいらしい(^ー^)💖

何となく昭和レトロ的哀愁漂う店構えは、トランスエゾ復路で通過する咲来(サックル)のゴーストタウン的街並みを思い出させた。
そういえば、トランスエゾ主催者の御園生さんは、それこそ伊能忠敬の末裔だ🎵

たまたまエゾTシャツを着ていて、何ですか、ソレ?
と聞かれたのでPRしておきました(^ー^)💖

写真中央、わかりにくいけど(^_^)、雨乞い神社🎵
最後に雨乞いが行われたのは明治の頃で、翌日から雨になったそうな。

ココからは、本当に伊能忠敬が歩いた道が、そのまま残されている。

伊能忠敬も腰をかけた?木の根もと(^_^)

帰りは、そのまま飯塚市のスポーツジムのレッスンへ🎵
【「なんば歩き」について】
もう一つのお題、なんば歩きについて書いておこう🎵
なんば歩き、とは、左手左足、右手右足を同時に出す歩き方のコト🎵
現代の私たちからすれば、まるでロボット歩きのように奇異だけど、当時の着物と草履の生活からすれば、ごく自然なモノ🎵
現に佐川急便のマークである飛脚は、同じ側の手足が前になっている🎵
なんば歩きの「なんば」の由来は、諸説あるが...
私としては、田んぼに入る時に履いたカンジキ(=なんば)説が有力では?と思う。
なぜなら、このカンジキには長いヒモが付いていて、ヒモを手にして前に進もうとすると、必ず同じ側の手足が動くから(^_^)
【なぜ、日本人は、なんば歩きを捨てたか?】
一見、奇異ななんば歩きだが、疲れにくい、という利点があるコトから、一部のウルトラランナーや武道愛好家等を中心に研究が進められている🎵
では、なぜ、日本人はなんば歩きをしなくなったのか?
というと...
まあ、衣服が窮屈な着物から動きやすい洋服に変わった、というのが大きな理由だろうけど(^_^)
実は西南戦争が大きく関わっている。
西郷軍がある時、官軍に追い付かれ、壊滅的な被害を被った。
西洋式の軍事訓練を受けていた官軍は、なんば歩きではなく、現在の私たちのように左右交互に手足を出して走っていた。
だから、なんば歩きしか知らない西郷軍は追い付かれてしまったのだ。
以上、昨日はウォーキングとしては5kmという、物足りない距離だったが、色々と歴史的に興味深い話が聞けた🎵
こんな身近な所にも伊能忠敬の足跡があり、当時の地図を現在の地図にトレースしたモノも、何枚か入手したので、後日、探索してみよう(^ー^)💖
ところで...
今回の台風で長野の新幹線の格納庫が浸水し、120両が使用不能に。
新幹線1両当たり33億円だそうだから...
33億円×120両...
今こそ、新幹線を捨てて、なんば歩きダ🎵
当時の人は、着物と草履で一日35キロ歩いたんだから、私たちに出来ないコトではあるまい(^_^)