限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第81回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その16)』

2012-07-26 22:25:49 | 日記
 『1.16 分からないことは、虚心になって部下にきけ。』

日本人は皮肉や当てこすりを嫌い、概して直截的な言い方を好ましいと考える。『奥歯にものの挟まったような』とか『ねちねち』とした言い方は極めて否定的に受け取られる。(もっとも役人や議員の持って回ったような答弁は一種の職業病とも称すべきもので、彼らとて親しい仲間内ではあのような話し方をしている訳ではないと思える。)日本だけで陽明学が流行したのはこの心情のなせるわざであったと私は考えている。
【参照ブログ】
 百論簇出:(第43回目)『陽明学を実践する前にすべきこと』

中国人はこの点においては日本人と対極的な考え方に立つ。それは、過去の歴史を見ても分かるが、たとえ主張が客観的に見て合理的であり正しくとも、言いかた次第で、すぐにでも財産が没収され、首が飛ぶことが多かった。それ故、自分が主張したい点は相手の度量の限度内ぎりぎりの線にまでもってくる必要がある。このような姿勢を良しとしたのは、孔子も君主を諌めるなら間接的にせよ、と言った言葉からも分かる。(劉向説苑 五曰諷諌。孔子曰:「吾其從諷諌乎。」)
【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第39回目)『細君にローストビーフをプレゼント』

さて、4000年の歴史を誇る中国史は数多くの名君を輩出したが、その中でも唐の太宗(李世民)が傑出していると、もっぱらの世評だ。その理由は、帝王学の書として名高い『貞観政要』に収録されている太宗と名臣たちの対話から、太宗がリーダーとしていかに考え、行動したかがかなり詳しくわかるからである。日本では徳川家康が『貞観政要』を愛読し、広く臣下に配布したため有名になった。また明治帝も同書を愛読されたという。

こういった因縁のある書なので、私も十数年前に一度、全編を読んだ。正直な感想としてはこの本は世間で言うように唐の太宗を称える書ではないと思った。文章に多少の脚色はあると推測されるものの、史実を割とありのままに書いているように思えた。というのは、太宗の良い面だけでなく、失策もかなり書いてある。わけても後年になってから、太宗のボケぶりがくっきりと浮き立っている。その反面、硬骨の名臣・魏徴の常に変わらぬシャープな切れ味が死ぬまで冴えていた。つまり、編者は暗に、唐王朝の本当の中心人物は魏徴である、とでも言いたかったように私には思えた。



資治通鑑にはこの貞観政要から何か所か引用している所がある。次に挙げる部分は、太宗が、孔子の32代目の孫にあたる孔穎達に論語のある部分の解釈を聞いたところ、孔穎達が聞かれた箇所にかこつけて、普段から思っていたことを述べた場面を活写する。

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資治通鑑(中華書局):巻193・唐紀9(P.6067)

太宗が給事中の孔穎達に尋ねた「論語には『能をもって不能に問い、多をもって寡に問う,有りとも無きがごとく、実なれども虚しきがごとき。』という曾子の言葉があるが、これはどういう意味かね?」孔穎達は、この意味を詳しく説明し、さらにこう付け加えた。『これは庶民とってだけでなく、帝王にとっても心すべきことばです。帝王は内面に聡明を包むも、外面はそれを見せないのがいいのです。易経には『蒙もって正を養い、明夷もって衆に莅(のぞ)む。』(知恵の足りないものを教育し、自分の賢さを隠して民衆を指導する)というのです。もし、尊い帝位にいて自分の才能をひけらかし、人より賢いと自惚れて、間違いも認めず論駁したら、世間の事情も教えてくれる人もいなくなり、失敗してしまいますよ。』太宗は、この言葉を肝に銘じた。

上問給事中孔穎達曰:「論語:『以能問於不能,以多問於寡,有若無,實若虚。』曾子之言。何謂也?」穎達具釋其義以對;且曰:「非獨匹夫如是,帝王亦然。帝王内蘊神明,外當玄默,故易稱『以蒙養正,以明夷莅衆。』若位居尊極,耀聰明,以才陵人,飾非拒諫,則下情不通,取亡之道也。」上深善其言。

上、給事中の孔穎達に問いて曰く:「論語に『以能問於不能,以多問於寡,有若無,実若虚。』曾子の言。何の謂いなるや?」穎達、つぶさにその義を釈しもって対う。且つ曰く:「ひとり匹夫、かくの如くにあらず、帝王もまた然り。帝王、内に神明を蘊め,外にはまさに玄黙すべし。故に易に称す『以蒙養正,以明夷莅衆。』と。もし位、尊極に居,聡明を耀し、才もって人に陵ぎ,非を飾りて諫を拒めば、則ち下情、通ぜず,亡を取るの道なり。」上、深くその言を善しとす。
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英明な太宗は普段から自分の頭の回転と弁舌に自信をもち、少々のことでは自分の非を認めない傲岸なところがあった。推察するに、孔穎達はいつかこの点を指摘しなければ、と思っていたが唐突に指摘するのも気がひけた。そして、なかなか良い機会に恵まれなかったが、たまたま太宗の方から論語の字句についての質問があったので、普段からの指摘してくてうずうずしていた太宗の欠点をやんわりと指摘した。太宗は、あたかも孔子から諌められているような感じで、その忠告を素直に受け止めたと、いうのがこの場面である。太宗が虚心になって孔穎達に問うという姿勢に太宗のリーダーとしての器量の大きさを知ることができる。

ところで、どこに書いてあったか思い出せないが、資治通鑑を合計4回読んだと言う碩学の桑原隲蔵(くわばら・じつぞう)は『中国の歴史は戦乱の時代の記述が面白い。平和な時代は退屈だ。』という趣旨のことを述べていた。この文句を見た時、私は『なんと不謹慎な言葉!』と思ったが、実際に資治通鑑を通読してみると、桑原氏の感慨が納得できる。例えば、この部分(巻193)がそうで、『貞観の治』と言われた太平の時代、人々は強盗や泥棒の心配なく安楽に暮らせた(門不夜關、道不拾遺)。つまり戦乱がないので、記述する材料に乏しく史官は往生した。それで貞観政要から適当な文章を引用することで責めを塞いだ次第、と私は勝手に想像している。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
コメント (3)
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