限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

希羅聚銘:(第59回目)『貴族と平民の通婚の提案を巡っての鬩ぎあい』

2011-03-31 23:49:01 | 日記
Livy, History of Rome (Livius, Ab urbe condita)
(英訳: Loeb Classical Library, Benjamin Oliver Foster, 1922)

アグリッパの起死回生の秘策 -- 軍旗を敵陣に投げ込む -- などでアエクイ族とウォルスキ族の両面戦争にも勝利したローマは外乱が収まると、それを待っていたかのように内紛が噴出した。毎度のことではあるが、それは平民(plebs)と貴族(pater)の権力闘争である。しかしこの度は少し事情がことなる。

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Book4, Section 1

この年(BC445年)、年初に平民派の護民官であるカヌレイウス(Canuleius)が貴族と平民の通婚を合法化する法案を提出した。これを聞いた貴族たちは、そんなことを許したら自分達の高貴な血統が穢(けが)れ、代々守ってきた貴族の誇りが台無しになると反発した。

Nam principio et de conubio patrum et plebis C. Canuleius tribunus plebis rogationem promulgavit, qua contaminari sanguinem suum patres confundique iura gentium rebantur,

【英訳】For at its commencement Gaius Canuleius, a tribune of the plebs, proposed a bill regarding the intermarriage of patricians and plebeians which the patricians looked upon as involving the debasement of their blood and the subversion of the principles inhering in the gentes, or families;
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この文から判断すると、ローマは建国以来(あるいは建国以前からであろう)ずっと貴族と平民は全く通婚しなかったということになる。つまり、貴族と平民の身分制は、それぞれの身分の者同士で結婚するという不文律を守ってきたことで、強固に維持されてきたことを示している。通婚に対する貴族たちの反発は現代の我々からは想像できないほどの激しさであった。

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Book4, Section 2

貴族たちは言った。『貴族と平民が通婚するだって?それじゃ、まるっきりケダモノと変わるところがないじゃないか!生まれた子供は、一体どちらの身分に属するのか?半分貴族、半分平民だと子供はどちらについたらよいか困ってしまうではないか。』
この通婚の提案は、しかし、混乱のほんの出だしに過ぎなかった。さらに祭礼や国家体制全体が大きく揺らぐ出来事が起こった。

Quam enim aliam vim conubia promiscua habere nisi ut ferarum prope ritu volgentur concubitus plebis patrumque? Ut qui natus sit ignoret, cuius sanguinis, quorum sacrorum sit; dimidius patrum sit, dimidius plebis, ne secum quidem ipse concors. Parum id videri quod omnia divina humanaque turbentur:

【英訳】For what else, they asked, was the object of promiscuous marriages, if not that plebeians and patricians might mingle together almost like the beasts? The son of such a marriage would be ignorant to what blood and to what worship he belonged; he would pertain half to the patricians, half to the plebs, and be at strife even with himself. It was not enough for the disturbers of the rabble to play havoc with all divine and human institutions:
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ローマはロムルスはレムスによって建国されてからは王政が続いた。しかし、横暴な王、タルクィニウス・スペルブスを追放してからは最高権力は、毎年改選される2人のコンスールに委ねられて元老院と共に国政が運営されてきた。しかし、このコンスールも元老院議員も全て貴族が占めていたのに対して、ここに来て平民が自分達も国政に参画させろ、と要求したのだった。

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Book4, Section 1

平民の護民官が、貴族の反応を確かめつつ、現在2人のコンスールは貴族から選ばれているが、その内の一人を平民から選んではどうか、と提案してきた。しかし、その後まもなく、護民官9人の連名で、コンスールは貴族、平民といった身分に関係なく選べる、という法案を提出した。

... et mentio primo sensim inlata a tribunis ut alterum ex plebe consulem liceret fieri, eo processit deinde ut rogationem novem tribuni promulgarent, ut populo potestas esset, seu de plebe seu de patribus vellet, consules faciendi.

【英訳】... and a suggestion, cautiously put forward at first by the tribunes, that it should be lawful for one of the consuls to be chosen from the plebs, was afterwards carried so far that nine tribunes proposed a bill giving the people power to choose consuls as they might see fit, from either the plebs or the patriciate.
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この平民からの提案によって、またもや白熱した議論が戦わされることになるのであった。
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沂風詠録:(第135回目)『平田篤胤の「古史徴開題記」読書メモ』

2011-03-30 22:57:57 | 日記
平田篤胤は江戸時代の国学者として有名だ。第二次世界大戦のさなかに国家神道のグルー(ご本尊)として持ち上げられたため、戦後全く省みられなくなってしまった。高校の日本史の教科書には、賀茂真淵、本居宣長などと共に国学者として載せられているため、名前だけは知られているようだが、さて、どのような思想の持ち主であったか分からない人が多いのではないか。実際、他人事ではなく、私自身もそうであった。

数年前に、国学のことを調べていて彼の本を探していた。平田篤胤の思想を知るにはどの本を読んだらよいのか、という点に関しては私は知らない。Wikipediaの平田篤胤の項目を見ても分かるように、著書が非常に多い。その大多数は専門家でない限り一生目にすることがあるまい。我々一般人は岩波文庫でまずは十分であろうと考え、とりあえず次の本を読んでみた。
 『古史徴開題記』(岩波文庫、山田孝雄校訂)

正直な所、この本『古史徴開題記』は本当に読みにくい本だったが、教えられる点が多かった。とりわけ感心したのは、彼は漢文を完全に制覇してから日本の古典に向かっていったことである。私は、彼が国学者を目指したのは、漢文ができないため、逆恨みや僻みで中国や漢文を敵視していたのだと思っていたが、全くの誤解であった。現代の基準で言っても中国哲学の教授が務まる位のレベルだと思わせる程の学力があるには、脱帽する。それを思うと、現代の国文学者達の漢文を読む力は疑問符がつくのではないかと感じる。

ところが、日本精神を発揚する本である『勅版日本書記』の前言(P.181)や天照大御神を称える文章(P.438)が、皮肉なことに全て漢文で書かれている。こういった文章を漢文で書くという行為が、国学の理念と矛盾するとは考えていなかった所に、国学者達の精神構造の複雑さを感じる。更には、漢心(からごころ)を散々非難しておきながら『尾大不掉』(P.295)や『隔靴掻痒』(P.321)という中国の成句を持ち出して説明しているのは、もはや滑稽を通り越して、度し難たい漢文癖だ。いわゆる『上知と下愚は移らず』というもの歟?

私の個人的感想としては、本居宣長や平田篤胤、そしてその後のエピゴーネンが熱心に言うほど、漢心(からごころ)や仏教を排除しなくても良いと考える。だって、私個人にとってベルギービールやコーヒーなどがない生活が耐えられないように、西洋や中国も物心両面で既に日本の生活の一部となっているからだ。



以下に私の読書メモを記載する。

『古史徴開題記』(岩波文庫、山田孝雄校訂)

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P.82・国史を修した、清人藤麻呂の官位がむげに低い。

P.124・(日本書紀の)漢文の部分だけをむやみに尊重して、祝詞のような部分をなおざりにするのは、正しい姿勢とは言えない。

P.140・古事記が貧相に見えたので、漢文の体裁にならって日本書紀を作った。

P.181・神道は儒仏より上。といいながら、その奏上文自体が漢文で記述されているのはなんとも滑稽だ。

P.182・日本人として生まれたのであれば、まず御紀(日本書紀)を読むべし。

P.242・(聖徳太子批判)この太子が漢風と仏法を日本に広めてからロクなことがなかった(種々の弊(ついえ)がおきた)。

P.254・中国は『もとより賢(さかし)だつ国柄』で代々、官僚体制を変更し、『ことごとしい名を付ける』

P.277・帰化人の増加に伴い、日本の風俗も穢れていった。

P.277・(聖徳太子批判)十七条憲法は日本を改善しようという意図ではなく、単なる中華かぶれだ。

P.282・仏教などというのは、異国の乞食道だ。

P.300・『惟神(かむながら)とは、神道に随いながら、おのずから神の道にあるをいう』(さかしらを用いずに天下を治めるということ)

P.306・(聖徳太子批判)漢風を好んだのはまだ理解できるとしても、仏教に執心したのは理解できない。

P.319・日本の法律は、唐令の中の用いがたき三分を損てて、七分を採り、それに皇朝の故例を合わせて制定した。

P.320・日本の律疏を読むには、まず唐律疏義を必ず読むべし。

P.324・中国の官吏登用の科挙の制批判。実力主義を採用し、賢人を登用したために、かえって世の中が乱れた。

P.331・天智天皇と藤原鎌足が漢風に染まり、皇国のこころを忘れた悪人だ。それなのに世の中では中興の祖ともてはやしている。

P.390・倭名類聚鈔は古学に緊要の書。

P.403-405・漢字もしっかりと勉強すべし。

P.417・『群書類従』=人は不要の書だと言って読まないが、貴重な古書の引用文が多い。読む人が少ないのは嘆かわしい。

P.441・漢学者達は日本の古書を読んでいない、と批判。

P.449・『阿波礼皇御国(あはれすめらみくに)は神国なれば、神祇を敬い祭りて、その恩頼(みたまのふゆ)を祈り給うが御政事の本にて。。。わが国は神国なり。』

P.461・中世以降、天皇をも火葬するようになった。後光明天皇の葬式のとき、魚売り・八兵衛が号泣して訴えたので、土葬に戻した。

P.462・源氏物語の類は浮華淫乱の書だ。

P.467・たとえ同時代人に理解されなくても書を残せば、500年後、あるいは千年後に理解してくれる人もいよう。孔子もそうして五経を残した。

P.472・師の説を守るより、真理を探求せよ。

P.477・国学の徒であるには、和魂漢才でなければならない。

以上
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【座右之銘・60】『Noli barbam vellere mortuo leoni』

2011-03-29 23:56:49 | 日記
中国の戦国時代、六国が覇を競っていた時代、楽毅という名将がいた。元は趙の将であったが内乱の為に、魏に行ったが、燕が郭隗の献策(『まず隗より始めよ』)で賢者を高給でリクルートしていると聞き、燕に仕官した。燕では、才能を認められ昌国君に封ぜられた。燕の仇敵である隣国の斉を攻め、ほとんど全領土を征服できそうになった時に、讒言(デマ)によって解任された。それで、楽毅は趙に亡命した。楽毅の後任の騎劫が敵の計略にひっかかって大敗北したので、燕王から戻ってきてくれるよう要請の手紙がきた。それに対して
 『古之君子、交絶不出悪声、忠臣去国、不其名』
 (昔の君子は、付き合いを止めた人の悪口は言わないものだし、忠臣というのは、国を出るときに、自分には落ち度がなかったなどと自己弁護しないものだ。)

と言ってその要請を断った。

たとえ仲たがいをしても、関係を結んだことのある人に対して、言葉でも傷つけないのが君子の弁えるべき規律だというのが楽毅の信条だった。しかし、世の中には楽毅のような人ばかりではない。

呉王・夫差に伍子胥という名参謀がいた。元は楚の名家の生まれで、父親は王を補佐する太傅であった。ところが、内乱で、父と兄を殺されたので、呉に亡命した。そして楚王に復讐するために呉王・夫差を助けて楚に侵攻した。楚の昭王がいち早く逃亡したので、先代の平王の墓を暴いて、その屍体を鞭打ち、こなごなにした。(乃掘楚平王墓、出其尸、鞭之三百。)楚の家臣で、伍子胥の元の友人である申包胥がこの振る舞いはあまりにもひどいではないかと詰ると、伍子胥は
 『吾日莫途遠、吾故倒行而逆施之』
 (私には残された時間がすくない。今復讐をしないとするチャンスがないのだ。)

と弁明した。

先祖代々、高官として楚王に仕えてきたが、父と兄が無実にも拘わらず殺された怨みを晴らすためには、敢えて、死者に鞭打つという非道な振る舞い(倒行而逆施)も辞さないのが伍子胥の信条であった。楽毅と正反対と言える。



さて話は変わるが、ローマにマルティアリスという詩人がいた。エピグラム(警句)で当時の風俗を風刺することを得意としていた。中には、卑猥な言い回しも自由に使っているため教材にはなり難く、大人の読み物と言えよう。

その中に
  Noli barbam vellere mortuo leoni.
という句が見える。直訳すれば、『死せる獅子の鬚を抜くなかれ』となるが、意訳すると『死人に鞭打つな』ともとれる。ローマにも中国と同じような行動規範が尊ばれたということではないかと考える。

【注記】
下記にラテン語の原文を示す。(巻10、第90)
よく読むとこの詩は、凛とした行動規範を諭したものではなく、どうやら容色の衰えた愛人(Ligeia)が自分(Martial)の気を惹こうとして陰部の毛を抜いたのを年甲斐もなく、とたしなめたような内容であるような。。。
  Quid vellis vetulum, Ligeia, cunnum?
  Quid busti cineres tui lacessis?
  Tales munditiae decent puellas
  ―Nam tu iam nec anus potes videri―;
  Istud, crede mihi, Ligeia, belle
  Non mater facit Hectoris, sed uxor.
  Erras, si tibi cunnus hic videtur,
  Ad quem mentula pertinere desit.
  Quare si pudor est, Ligeia, noli
  Barbam vellere mortuo leoni.
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彰史聚銘:(第3回目)『大日本史にキズあるも、価値は変わらず』

2011-03-28 23:11:40 | 日記
韓非子に次のような話がある。
昔、宋に監止子と言う商人がいた。珠玉を買おうとして売主と値段の交渉で争った。なかなか売ってくれないので、わざと玉を床に落して傷つけた。申し訳ないと言って100金(1億円)を支払った。そしてその玉を入手すると、その瑕(きず)を修理して、買値の10倍の千溢(10億円)で転売した。
(原文:『宋之富賈有監止子者,与人争買百金之璞玉,因佯失而毀之,負其百金,而理其毀瑕,得千溢焉』)

またもや『おぼこい日本人』には到底真似のできない中国人のあくどいやり口である。非難はさておき、この説話の意図を私なりに理解(曲解?)すると、『価値があるものは、たとえ少々の瑕があっても、それは本来的な価値を減ずるものではない』ということになる。これをそのまま大日本史に適用すると、『多少のイデオロギー的な難があっても、それは大日本史の本来の価値を貶めるものではない。』ということだ。

私は大日本史は我々日本人にとって必読の書だと考えている。(ついでに言うと、かつてブログ『稀代の幻学者、西田幾多郎』で、私が槍玉にあげた西田幾多郎も「明治大正の間、歴史の名に値するほどの著述は水戸の大日本史があるだけである。」と高く評価している、という。

ところが世間では評価が高くない。その理由を考えてみるに、第二次大戦中にその原因が求められる。当時、国粋主義者達が、北畠親房の神皇正統記の冒頭にある『日本国は神国なり』を担ぎ出したり、『八紘一宇』という独りよがりのイデオロギーをアジア全体に広めようとした、等の余殃(とばっちり)が大日本史に降りかかっているせいだと私には思える。



大日本史全体を通読した私の客観的な感想は、この本には世間で言われているほどイデオロギー的な要素は多くないし、強くもない。むしろ文献的な正確さを期そうという学問的良識が非常に強く感じられる本である。ただ、僅かに江戸時代の国学者達が唱えた幾つかの点が戦後の民主主義者たちのお気に召さなかったようだ。

具体的には次の評価にその一端を見ることができる。
『(大日本史は)全体的に朱子学に基づいた水戸学=大義名分論とする尊皇論で貫かれて』いる。(Wikipedia)

そして『次の点が三大特色とされる』として、大日本史の記述がイデオロギー的に偏向している項目を3つ列挙している。
  1. 神功皇后を皇后伝に列した。
 2. 大友皇子を帝紀に列した。
 3. 南朝正統論を唱えた。


この批判は果たして当たっているのであろうか?

大日本史は大部の本で、全部で170巻もある。活字本では何と3000ページものボリュームがある。そしてその中で僅かの部分だけが、この指摘に該当する。しかし、それで直ちに大日本史全体を読む価値なしと断罪する意見には、私は反対だ。

例えば『1.神功皇后を皇后伝に列した』という点であるが、神功皇后伝の原文は次のようになっている。

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譯文・大日本史(春秋社):巻74(4-P.99)

仲哀天皇の皇后、神功皇后は気長宿弥王(おきながすくねのみこ)の女(むすめ)であった。母は葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)と言った。幼いころから聡明で、容姿端麗であった。宿禰王はこれはすごいとおもっていた。仲哀天皇の二年の正月に、皇后に立冊された。仲哀天皇がなくなると、神功皇后は自ら政治を執り、軍隊に命じて朝鮮まで攻め入った。朝鮮から人が多く渡来して、国力が伸張した。息子の応神帝が生まれると、政治を運営する時には『制』と言った。群臣は神功皇后を敬って『皇太后』と呼んだ。国の政治を運営すること70年に及んだ。詳しくは帝紀を参照のこと。己丑の年(AD269年)に稚桜宮にて崩御された。100歳であった。狭城盾列池上陵に葬った。息子である応神帝は『気長足姫尊』(おきながたらしひめのみこと)をいう贈名を奉った。後には『神功皇后』と呼びならわすのが一般的となった。

仲哀神功皇后,氣長宿彌王女也。母曰葛城高額媛。幼而聰叡,容貌壯麗。宿禰王異之。帝二年正月,立為皇后。及帝崩,后親綢繆後事,督軍征三韓。外國歸化,威風大行。及生應神帝,后臨朝稱制,群臣尊曰皇太后。攝政凡七十年矣,事詳帝紀。己丑歳,崩于稚櫻宮,年一百歳,葬狹城盾列池上陵。應神帝追尊曰氣長足姫尊,後世諡神功皇后。
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この程度の内容であれば、神功皇后の事績が帝紀に載せられていようが、后紀に載せられていようが単に神功皇后に関する情報を得ようとしている人間にはどちらでもよいことである、ことがお分かり頂けよう。

私の思うに、日本人は本来的にイデオロギー(漢語でいう『名分論』)にはこだわらない民族であったはずだ。ところが、鎌倉以降、日本に朱子学が導入されてきてから大義名分に煩くなり、神功皇后の伝が本紀か列伝か、といった些細なことまで論争するようになってしまった。あげくの果ては、瑕瑾(わずかなキズ)で価値ある歴史書(大日本史)全体を否定している。これでは、まるで冒頭で述べた、韓非子の説話に登場する、間抜けの売主のようではないか!

結局、大日本史に対する私の評価を史記(項羽本紀)の有名な鴻門の会に出てくる『大行不顧細謹、大禮不辭小讓』(大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せず)の言い方を真似して総括すれば、『大日本史、不顧細謹』(大日本史の価値は少々のキズがあっても変わらず)ということになる。
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惑鴻醸危:(第28回目)『定説への挑戦:豊臣秀吉の朝鮮出兵の意図』

2011-03-27 21:51:12 | 日記
昨年(2010年)亡くなった梅棹忠夫氏が日本人について次のようなことを言っていた。
『アジアの大陸的古典国家は、人間のあらゆる悪 -- 悪ということばは悪いですが -- どろどろした人間の業がいっぱい詰まっているところなのです。日本人のようなおぼこい民族が手をだしてうまくいくものと違うのです。わたしはアジアをずいぶん歩いていますので、そのことを痛感しています。』(『文明の生態史観はいま』梅棹忠夫・編、中公叢書、P.220)


この好適なサンプルとして史記の世家・第16の『田敬仲完世家』に載せられている次の文章を見てみよう。

中国の戦国時代の斉の国で、成侯と言われていた騶忌と田忌は犬猿の仲であった。それを知った公孫閲はある方策を騶忌に授けた。『公は斉王に魏に戦争を仕掛けることを勧めてはいかがでしょうか?当然、田忌が将軍となり戦争に出かけるでしょう。もし、田忌が戦功を建てればそれは、戦争を提言した公の功績となりましょう。もし田忌が敗北すれば、戦死するか、逃げ帰ってきても敗戦の責任を取らせて殺してしまうことができます。いずれにしても公に有利でしょう。』
【原文】公孫閲謂成侯忌(騶忌)曰:「公何不謀伐魏,田忌必将.戦勝有功,則公之謀中也;戦不勝,非前死則後北,而命在公矣.」


公孫閲の提言は、元来、魏に対しては戦争をしかける大義名分は全くないが、単に田忌に対する私怨を晴らすために、魏と斉の両国何十万人もの命を犠牲にすることを何とも思わない中国人の冷酷な一面をまざまざと見せつけてくれる。これは、毛沢東が劉少奇など数名の政敵を抹殺するために、文化大革命なる運動を起こし、数千万人もの罪のない人々を巻き添えにしたのと全く同じ趣旨である。

梅棹氏がこれらのことを念頭においたかは定かでないが、冒頭でのべた指摘は流石に鋭いところを衝いていると感心する。

さて、私がこの公孫閲の言論で指摘したいのは実はこのような中国人の陰湿な策略ではなく、レトリックの点である。物事の前提Aがあったとする。そのAが成立する時には、Xが成り立ち、 Aが成立しないときには、Yが成り立つという論理は、前提条件が尽くされている。つまり、世の中には、Aが成り立つ時か、成り立たない時の2つの場合しかないので、この両方に対して、結果が記述されているということは、場合が網羅的にカバーされていることになる。この観点から言うと、公孫閲のレトリックの凄い点は、このどちらの条件が成立しても、必ず騶忌が有利になることである。

このような『悪魔のレトリック』をすんなりと考えだすことができるのが、中国人であり、そうすることができないのが『おぼこい』日本人である、と梅棹氏が指摘したのだと私には思える。

これまでを前ふりとして、いよいよ私の言いたいことを述べようと思う。

高校の日本史の授業などでは、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、壬申・丁酉の倭乱)の目的は秀吉が明を征服することだったと教えられる。日本人全体に関する統計的なデータは知らないが、大抵の日本人はこの説を信じている(あるいは信じさせられている)ように思える。私もずっとそのように思っていたが、ある時からこの考えは間違っているのではないかと考えるようになった。それは、当時の秀吉の立場に立って考えてみて初めて分かったことであった。

豊臣秀吉という人間は、人格的にはいろいろと非難はあることは私も承知している。しかし、人格と知能とは別物である。私は、秀吉はかなり知能的に優れていたと思っている。確かに秀吉は、信長の天下統一の事業をうまく引き継いでいくことで、権力の頂点に立つことができたのは事実であるが、その全国統一のやり方を見ても決してバカではなかった。秀吉の知的判断から考えると、とても誇大妄想にかられて明の征服を真剣に考えたとは思えない。結果的に朝鮮出兵をしたのは事実ではあるが、これはもっと別の理由があったに違いないと私は考える。

結論を述べると、朝鮮出兵とは、危険な軍人(侍)の削減という極めて難しい課題の解決のための口実であったということだ。

全国統一された後には、各戦国大名同士の闘争の削減と自分へ刃向かう勢力の一掃が秀吉を悩ませていたに違いない。しかし、罪なしに抹殺したり弾圧したりすれば、相手が武士だけに、却って自分の方が危ない、と秀吉には分かっていたはずだ。これら危険分子の危ない牙はどうすれば抜けるか?この設問に対する自問自答の答えが『朝鮮出兵』であった。出兵した兵士が彼の地で死ねば、全く本来の目的が達成されたことになる。反対に連戦連勝で、朝鮮を横断して明まで攻め入り、遠征軍が中国を征服したとすれば、朝鮮なり中国を領土としてこれらの侍に与えればよい。いづれにせよ日本から侍が減る訳で、これまた本来の目的が達成できることになる。これは冒頭で述べたレトリックと同様、朝鮮へ出兵した兵士が勝っても負けても、秀吉に不利なことは考えられない。つまり、秀吉の朝鮮出兵は、全国統一で不要となった日本の侍を捨てるために、日本、朝鮮、明の三国の民や兵、数百万を巻き込んだ壮大な悲劇であった、と私は考える。

この不要となった武士を死地に送る、という策略は明治になってからも提言され、実行された。征韓論、しかり、征台の役、しかり。これら事件の当事者は、そんなことはない、と言い張るに違いないが、論理的に考えると、そうとしか私には考えられない。

【参照ブログ】
 惑鴻醸危:(第53回目)『定説への挑戦:豊臣秀吉の朝鮮出兵の意図(補遺)』
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