限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

惑鴻醸危:(第33回目)『日本の人口減少、大歓迎。2200年には4000万人に!(その4)』

2012-02-26 07:01:12 | 日記
前回から続く。。。

ギリシャの哲学者、アリストテレスは多作である上に、著作対象も哲学、政治学、倫理学から天文学、動物学、詩学まで非常に幅広い。それ故『万学の祖』と呼ばれる。現在伝わっている彼の著作のほとんどが公刊されたものではなく、いわゆる講義メモに過ぎないが、それでも後世に多大な影響を与えている。アリストテレスの特徴は、プラトンと異なり、非常に断定的な語句が多い。代表作の『形而上学』では冒頭に全体のテーマを一言で言い表す鋭い文句が掲げられている。著作自体は読まれなくても、冒頭の句は人口に膾炙している。曰く、
 『人は皆、生まれつき知を欲する』(All men naturally desire knowledge.)

また、倫理学の主要著作である『ニコマコス倫理』の冒頭では『人間の所業は全て何らかの善きものを目指して行われている。』と述べる。

 (英訳:Every art and every inquiry, and similarly every action and choice, is thought to aim at some good.)
【出典】Nicomachean Ethics, edited by Jonathan Barnes

つまりアリストテレスは、個人であろうと団体であろうと人の営みは全て何らかの善きものを達成しようと行われる、と性善的視点に立つ。このアリストテレスの論理を援用して、日本の過去と将来のあり方について考えてみよう。

さて、明治以降の日本の発展はとりもなおさず人口増と歩調を合わせているのは前回の図(「人口から読む日本の歴史」)からも読み取れる。開国当時の世界の状況は帝国主義的な覇権争いおよび植民地の争奪戦であった。それ故、国力増大および産業振興が最大の課題であった。必然的に人口増大政策が国是とされていた。つまり、国力=生産力=人口と考えられていたのだ。第二次大戦後も引き続き工業生産増大のために人口増加が望ましいとされていた。その後、工業の機械化が進んでもこの傾向は変らなかった。その内に国民の幸福向上には経済成長が必須という仮説から、疑問をはさむ余地のない確固とした定理へと変貌し、定着した。

アリストテレスの論理でいう、『善きもの』が『国民の幸福』であり、その達成手段が経済成長であったはずなのが、いつの間にか目的と手段を取り違えてしまった。手段であったはずの経済成長(GDPの伸び)が『目的化』してしまったのだ。その証拠に日本は経済成長で豊かになったはずなのに、生活が苦しいと不満を持つ日本人が近年とみに増えている。これに対して、経済面では遥かに貧しいはずの小国ブータンは国民の97%が幸福と感じているという。つまり、ブータンでは国民の幸福と目的を達成するための手段が経済成長とは考えず国づくりをしてきたのだ。

ブータンを一つの参考として、今後の日本の国づくりに関して、私の持論を述べる前に、学生の時(1977年~1978年)にヨーロッパでの体験を述べたい。



当時、日本経済はすでに世界のナンバー2となっていて、経済大国と言われていた。毎年、人々の生活が豊かになり、社会資本(道路、鉄道、水道など)が充実することを実感していた。こういった中、私はドイツに留学する機会を得た。そしてヨーロッパ各地を旅行して彼らの生活ぶりを実際に体験することができた。最初の滞在地、ドイツの生活水準の高さは、予想はしていただけに、さして驚くことはなかった。しかしドイツからスイス・フランスを抜けてイタリアに入った時に、驚いた。私の知識では、当時のイタリアは長らく高い失業率に悩まされ、GDP全体は言うまでもなく、国民ひとり当たりの所得も日本よりかなり低かった。それで私はイタリアに入る前に、さぞかし人々の暮らしは貧しく、苦しいのだろうと想像していた。しかし、イタリアに実際に足を入れてみると、街中の人々の表情や生活態度にまったく惨めさが感じられないのだ。その後、南欧のギリシャを巡り、当時はまだ社会主義国であった東欧のチェコスロバキアやハンガリーに旅行した。これらの国でも本質的なところで生活自体に豊かさを感じさせるものがあることに気づいた。これらの国で感じる豊かさとは一体何だろうか?

私はこの時から『経済の指標では計れない生活の豊かさの本質とは何か』と考えるようになった。

続く。。。
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惑鴻醸危:(第32回目)『日本の人口減少、大歓迎。2200年には4000万人に!(その3)』

2012-02-23 12:47:44 | 日記
前回から続く。。。

2200年には、世界中が食料難、資源・エネルギー難で苦しむ。その状況ではいくら金があるからと言って、食料や資源・エネルギーを自由に購入し、特定の国だけが贅沢・飽食することが許されるのであろうか?世説新語に『覆巣之下、復有完卵乎?』(覆巣の下、復た完卵あらんや)という言葉がある。孔子20世の孫で孔融という直言居士がいた。いつも曹操の言動を非難して、曹操を苛立たせていた。ある時、とうとう曹操の堪忍袋の緒が切れて、孔融は逮捕され、処刑されることになった。その時に子供だけは助けてくれ、と役人に頼んだ。それを聴いていた孔融の九歳の子供が、『お父さん、それは無理と言うものです。木が倒れ、鳥の巣が落ちたら、中の卵が無事であるはずはないでしょう』と父親をたしなめた、と言われる。根本の木(世界)が壊れれば、巣(日本)も無事ではいられないということだ。

結局、2200年の日本は食料は輸入できず、この狭い国土で自給・自活することを強制されることになる。この狭い国土で養える限度の人口を考えてみよう。

日本の国土は約38万平方キロあると言われているが、ご承知のように大部分は山林である。具体的に言うと、耕作可能面積は国土のわずか15%、の6万平方キロ(最高値:1960年前後)に過ぎない。
また、住居可能面積(山林以外の土地)は国土の約30%もあるが、実際の宅地面積はわずか約5%に過ぎない。これらの数字から日本の実態としては、森林・湖沼など、人の住めない場所が30万平方キロある。残りの8万平方キロの内、2万平方キロの土地に1.2億人が住み、 6万平方キロの田畑を耕して食料生産していることになる。

比較のために、ヨーロッパの国々と比較してみよう。人が住める面積、8万平方キロと言うのは、ちょうど、オランダベルギーを合わせた面積(7万平方キロ)に近い。この二国は多少の丘陵はあるもののほぼ平地であるので、全土が耕地可能、かつ住居可能と考えられる。この二国合計の人口は、2600万人である。良く知られているように人口密度(オランダ・399人、ベルギー・349人)はヨーロッパでは一番高い。しかしこの地方を訪問すると分かるが、非常にゆったりと暮らしている。

この二国の状態を参考にして、日本の適正人口を歴史的観点から考えてみよう。


【出典】「人口から読む日本の歴史」鬼頭宏

日本の現在の人口、1.2億人と言うのは異常な状態だということは、奈良時代からの人口変動を見るとよく分かる。鎖国状態の江戸時代、中期以降は人口3000万人で安定したが明治時代以降、急激に一直線に増大して今に至っている。この人口増はすべて石炭や石油に依存した工業・農業生産によって可能となった分である。つまり、化石燃料が使えなくなると、日本の国土で養える人口は江戸時代の3000万人であることが分かる。ただ、江戸時代に比べると現在の方が農法が格段に進歩しているので単位面積当たりの収穫は多くなっているので、養える人数は多くなっていると考えるかもしれない。しかし、江戸時代に比べて農業人口の減少を勘案すると、私は2200年の日本の適正人口は 4000万人(少々甘く見積もっても 5000万人)であろうと考える。



従って、もし、現時点(2012年)で人口減をくい止める政策を実行したと仮定すると、2100年ごろまで人口が1億人前後で推移すると考えられる。しかし、前々回述べたように2100年にならない内に石油が枯渇してしまい、また世界の食料事情は極めて悪くなっている。その時になって食料輸入が全面的ストップすると、日本の食料自給は4000万人しか養えないので、 2100年から2200年の100年間に6000万人を減らさないといけなくなる。つまり、この政策では2100年以降に、相当数の餓死者が出ることを覚悟しないといけない。これに反し、2200年に4000万人にすることを目標として、今(2012年)から段階的、かつ戦略的に人口を緩慢に減少させる政策をとれば、餓死者を出さずに済む。

結局、フランスのように人口を増やす政策を取った場合、2200年になる前のいつかの段階で、食料自給できない分の人間は数千万人単位で餓死せざるを得なくなる。目先数十年の安逸な生活を営みたいと考えて、果たしてそうなることが日本にとって良い事なのだろうか?

グローバル視点で考えて、今後の日本は人口減政策を進めるべき、と私は考えるが、それではどういった国づくりが望ましいのであろうか?

続く。。。
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惑鴻醸危:(第31回目)『日本の人口減少、大歓迎。2200年には4000万人に!(その2)』

2012-02-19 14:45:32 | 日記
前回から続く。。。

確乎とした数字をベースにした話ではないが、私が勝手な想像している2200年の世界では、日本のみならず、世界中で食料の調達が極めて困難になっている。

まず、2200年には、石油がほぼ枯渇しているので、石油を動力源や熱源として使うことは世界中で禁止されている。なぜなら、石油の価値は燃料よりも合成化学を製造できることろにあるのだから。合成化学物質は、現在の電子部品には欠かすことのできない材料であるのみならず、医薬品や化粧品のような我々の日常に不可欠な製品の材料である。従って、2200年には残り少ない貴重な石油を動力源や熱源、発電などの用途に使うことは厳禁されている。つまり石油を動力源とするタンカーは運行できない。その代わり、代替エネルギーで運行されるタンカーは出来ているかもしれないが、今のような低コストで運行されるとは考えられない。従って、物の輸出入コストは確実にアップしている。


【出典】Scientific American

輸入コストが高くなるだけではすまない。 2200年の世界の食料事情を考えてみよう。

世界の飢餓人口が2050年で30億人だから、それより150年後の2200年には飢餓人口は更に増大していると考えられる。地球温暖化に関係なく、砂漠化ももっと進展しているだろう。現在、穀物の大輸出国であるオーストラリアやアメリカ・カナダで穀物を更に増産できたとしてもグローバル的に食糧が絶対的に不足する。このような状況で、現在のように食糧を資本主義的経済原理で購入する、(つまり、金さえ払えば買うことができる)ことは可能だろうか?

この問いに対して私はNOだと考える。

2200年の世界では、食料の購入に対しては経済原理が機能しなくなっていると予想している。つまり飢餓人口の危機的増大が人権意識を変えてしまうのだ。 2200年の世界では、経済格差によって人権に格差があることをおかしいと考える思想が普遍的になっていると想像する。この新しい人権意識によって、世界の食料はすべて国連で管理され、グローバル的に見て適切に配分されることになる。確かに穀物を輸出できる国は多少の優遇措置は受けることになろうが、それでも現在のように生産者が経済原理に則って自由に販売しても良いということにならない。さらには世界を航行する食糧運搬用のタンカーも国連管理下に組み込まれ、自由に使えない状況に陥る。つまり金があるからと言って、欲しいだけの食料を輸入調達できなくなるのだ。

一歩譲って、国連の管理が上述のように厳しくならないとしてもまだ安心はできない。穀物の輸出国の観点から考えてみよう。穀物の需要が供給を圧倒的に上回っている2200年には、穀物は通常兵器にも勝る、否、核兵器にもまさる兵器となり得る。世界のほとんどの国は自国の穀物生産では養えない程の人口を抱えているのであるから、食料を国外から調達せざるを得ない。ところが、食料の価格は需要の極大化に伴いすでに経済原理で決定される値の埒外にある。つまり穀物を、売る/売らない、は生産国の胸先三寸にある。つまり生産国は戦争を仕掛けなくても、穀物輸出をストップすることで、自分に敵対する国は膨大な餓死者が生じ、国が滅んでしまう。つまり、食料は最強の戦略物資なのだ。

以上のことから、私は2200年の世界状況では基本的に各国は食料は自給せざるを得なくなる、と予想している。この状況での日本の適切な人口は何人になるのであろうか?

続く。。。
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惑鴻醸危:(第30回目)『日本の人口減少、大歓迎。2200年には4000万人に!(その1)』

2012-02-16 15:26:08 | 日記
黒澤監督の名作に『羅生門』という映画がある。一つの事件に関連した3人の人物がそれぞれ自分の見た事を物語るのだが、それぞれの意見が食い違う。事実は一つしか無いはずだが、それぞれの観点からは異なって見えた、ということが骨格となっている映画だ。これと同様に、よく言われるように、コップ半分に水が入っているのを見ても、一人は『コップには半分しか水が入っていない』と言い、他の一人は『まだコップに半分も水が残っている』と言う。

これらと同じく、同じ現象・同じデータを見ても主観が異なれば判断結果も異なる。

最近、ライフネット生命保険(株)の出口治明社長がダイヤモンド・オンラインに『【第36回】 出口治明の提言:日本の優先順位』という記事を寄稿された。

出口社長は、ビジネス界きっての読書家で博学な上に、まとめ方や語り口が極めて明解である。私の京大でのグローバルリテラシーの授業でも講義をお願いしたり、またリベラルアーツフォーラムでは『人類の5000年史』を講演して頂いている。

今回の記事で、出口社長は今後の日本の人口減に対する警鐘をならしている。国立社会保障・人口問題研究所のデータをベースに 2060年に、日本の人口は8000万人台にまで落ちる、と指摘し、これで果たして日本経済はサステイナブルであろうか、と憂えておられる。結論として『人口を増やす政策を総動員して、日本の人口を増やすべし。ただし、国家として強制すべきではない』、と主張されている。



さて、冒頭で羅生門の話をしたように、同じ人口減のデータを見ても、私は出口社長とは異なる見解を持っている。衝撃的に聞こえるかもしれないが、それは:
『今後の日本は国家戦略として人口減を推進し、2200年の人口を4000万人に抑えるべし』

こういうと、途端にそこらあたりから、大反論が聞こえてきそうだ。
『いくらなんでも人口が1/3になると、日本は立ちゆかなくなるのでは?』
『今でも先行き不安な年金は、これ以上若者が少なくなると破綻する!』
『海外から積極的に移民を受け入れ人口は維持すべきである!』


日本経済や今後の高齢化社会を考えた場合、人口減、とくに若年層も減少は全ての面で大きな変革を迫ることは、私も理解している。しかし、私は現在やこれから10年、20年単位の近未来の話をしているのではない。今から200年後、つまり西暦2200年の時点から現在を見ているのである。さらに言うと日本の人口問題を日本の国内問題として見ていない。次の2つの観点から見ている。
 ○日本の人口問題をグローバル視点で考える。
 ○2200年の世界情勢から日本の適切な人口を考える。


日本の人口問題を日本の国内の問題としてではなく、世界の人口問題の一部として考えるということだ。ご承知のように、現在、アジア、アフリカ、南米などの発展途上国での人口爆発によって世界中の食料・資源・エネルギーが大量に消費され、近い将来に枯渇することは今さら言うまでもない。世界中で、いろいろな前提に基づき、さまざまな未来予測がされているが、その一つによると:石油は2050年に、天然ガスは2075年に、石炭は2165年に、それぞれ枯渇する。また金属資源は、今のまま掘り続ければ2050年には枯渇する。資源の枯渇と同時に深刻なのは、人口爆発に伴い、2050年には飢餓人口が現在の3倍の30億人に、水不足人口が現在の5倍の50億人に増大する。【参考資料:1、P.20】

あと40年後の2050年の世界でも既に世界の食料・資源・エネルギー状況は非常に厳しくなっている。ましてや西暦2200年にはこれを何層倍も上回る厳しい情勢であることは容易に想像できる。

続く。。。

参考資料:
【1】『350兆円市場を制するグリーンビジネス戦略』、東洋経済新報社 平井孝志・遠山浩二
【2】『2050年の世界をいかに養うか 人口増と成長で深みにはまる食料問題』
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【座右之銘・66】『一狐裘三十年』

2012-02-12 17:24:49 | 日記
徒然草に、『後世を思はん者は、糂汰瓶一つも持つまじきことなり』という句がある。つまり、あの世で幸福な生活を営みたいと思う者は、この世では『糂汰瓶(じんたがめ)』ひとつ持たないほうがよい、と言う。糂汰瓶とは、ぬかみそを漬ける壺をいい、価値のない壺のことである。結局、この世に一切の執着を捨て去ってこそあの世で幸福になれると言うのだ。仏教でいう全ての執着心を取り去れということを具体的に言っている。



片や、ギリシャではセネカに代表されるストア派やアレキサンダー大王に、『日影になるからそこをどいてくれ』といったディオゲネスに代表される犬儒派(キュニコス派)がこの考えに近い。さらに、世間で快楽派と呼ばれているエピキュリアン(エピクロス派)はこれ以上に世俗的な欲望を一切振り切っている。日本のみならず世界中で完全に誤解されているが、快楽主義を標榜したといわれるエピクロス(Epicurus)は極めて質素な生活を善しとした。

紀元3世紀に生きたギリシャのディオゲネス・ラエルティオス(Diogenes Laertius)の『ギリシア哲学者列伝』(10.11)に拠るとエピクロスは次のように述べたと言われている。

『(私には)水とわずかばかりのパンがあれば十分だ。チーズの小さい壺を送ってくれ。そうすれば、いつでもすきな時に宴会を催せる。』

このようにギリシャ人の中には質素に暮らすことが、とりもなおさず快楽であると見い出した賢人がいる。

ギリシャから中国に目を向けてみよう。

現在の中国は、金の亡者のような人ばかりのような印象を受けるが、過去には質素を旨とした人がいたことが分かる。斉の宰相であった晏嬰(字を晏平仲という)は一枚の狐の毛皮をぼろぼろになるまで30年も使っていたと言う。(一狐裘三十年、いちこきゅう、30ねん)

2004年にノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイ女史は『もったいない』という日本語を世界に広めたが、本家本元の日本が『もったいない』と言う言葉と同時にその概念をも忘れてしまっているのは、恥ずかしいを通りこしているのではないか、と私には思える。
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