(前回から続く。。。)
ギリシャの哲学者、アリストテレスは多作である上に、著作対象も哲学、政治学、倫理学から天文学、動物学、詩学まで非常に幅広い。それ故『万学の祖』と呼ばれる。現在伝わっている彼の著作のほとんどが公刊されたものではなく、いわゆる講義メモに過ぎないが、それでも後世に多大な影響を与えている。アリストテレスの特徴は、プラトンと異なり、非常に断定的な語句が多い。代表作の『形而上学』では冒頭に全体のテーマを一言で言い表す鋭い文句が掲げられている。著作自体は読まれなくても、冒頭の句は人口に膾炙している。曰く、
『人は皆、生まれつき知を欲する』(All men naturally desire knowledge.)
また、倫理学の主要著作である『ニコマコス倫理』の冒頭では『人間の所業は全て何らかの善きものを目指して行われている。』と述べる。
(英訳:Every art and every inquiry, and similarly every action and choice, is thought to aim at some good.)
【出典】Nicomachean Ethics, edited by Jonathan Barnes
つまりアリストテレスは、個人であろうと団体であろうと人の営みは全て何らかの善きものを達成しようと行われる、と性善的視点に立つ。このアリストテレスの論理を援用して、日本の過去と将来のあり方について考えてみよう。
さて、明治以降の日本の発展はとりもなおさず人口増と歩調を合わせているのは前回の図(「人口から読む日本の歴史」)からも読み取れる。開国当時の世界の状況は帝国主義的な覇権争いおよび植民地の争奪戦であった。それ故、国力増大および産業振興が最大の課題であった。必然的に人口増大政策が国是とされていた。つまり、国力=生産力=人口と考えられていたのだ。第二次大戦後も引き続き工業生産増大のために人口増加が望ましいとされていた。その後、工業の機械化が進んでもこの傾向は変らなかった。その内に国民の幸福向上には経済成長が必須という仮説から、疑問をはさむ余地のない確固とした定理へと変貌し、定着した。
アリストテレスの論理でいう、『善きもの』が『国民の幸福』であり、その達成手段が経済成長であったはずなのが、いつの間にか目的と手段を取り違えてしまった。手段であったはずの経済成長(GDPの伸び)が『目的化』してしまったのだ。その証拠に日本は経済成長で豊かになったはずなのに、生活が苦しいと不満を持つ日本人が近年とみに増えている。これに対して、経済面では遥かに貧しいはずの小国ブータンは国民の97%が幸福と感じているという。つまり、ブータンでは国民の幸福と目的を達成するための手段が経済成長とは考えず国づくりをしてきたのだ。
ブータンを一つの参考として、今後の日本の国づくりに関して、私の持論を述べる前に、学生の時(1977年~1978年)にヨーロッパでの体験を述べたい。
当時、日本経済はすでに世界のナンバー2となっていて、経済大国と言われていた。毎年、人々の生活が豊かになり、社会資本(道路、鉄道、水道など)が充実することを実感していた。こういった中、私はドイツに留学する機会を得た。そしてヨーロッパ各地を旅行して彼らの生活ぶりを実際に体験することができた。最初の滞在地、ドイツの生活水準の高さは、予想はしていただけに、さして驚くことはなかった。しかしドイツからスイス・フランスを抜けてイタリアに入った時に、驚いた。私の知識では、当時のイタリアは長らく高い失業率に悩まされ、GDP全体は言うまでもなく、国民ひとり当たりの所得も日本よりかなり低かった。それで私はイタリアに入る前に、さぞかし人々の暮らしは貧しく、苦しいのだろうと想像していた。しかし、イタリアに実際に足を入れてみると、街中の人々の表情や生活態度にまったく惨めさが感じられないのだ。その後、南欧のギリシャを巡り、当時はまだ社会主義国であった東欧のチェコスロバキアやハンガリーに旅行した。これらの国でも本質的なところで生活自体に豊かさを感じさせるものがあることに気づいた。これらの国で感じる豊かさとは一体何だろうか?
私はこの時から『経済の指標では計れない生活の豊かさの本質とは何か』と考えるようになった。
(続く。。。)
ギリシャの哲学者、アリストテレスは多作である上に、著作対象も哲学、政治学、倫理学から天文学、動物学、詩学まで非常に幅広い。それ故『万学の祖』と呼ばれる。現在伝わっている彼の著作のほとんどが公刊されたものではなく、いわゆる講義メモに過ぎないが、それでも後世に多大な影響を与えている。アリストテレスの特徴は、プラトンと異なり、非常に断定的な語句が多い。代表作の『形而上学』では冒頭に全体のテーマを一言で言い表す鋭い文句が掲げられている。著作自体は読まれなくても、冒頭の句は人口に膾炙している。曰く、
『人は皆、生まれつき知を欲する』(All men naturally desire knowledge.)
また、倫理学の主要著作である『ニコマコス倫理』の冒頭では『人間の所業は全て何らかの善きものを目指して行われている。』と述べる。
(英訳:Every art and every inquiry, and similarly every action and choice, is thought to aim at some good.)
【出典】Nicomachean Ethics, edited by Jonathan Barnes
つまりアリストテレスは、個人であろうと団体であろうと人の営みは全て何らかの善きものを達成しようと行われる、と性善的視点に立つ。このアリストテレスの論理を援用して、日本の過去と将来のあり方について考えてみよう。
さて、明治以降の日本の発展はとりもなおさず人口増と歩調を合わせているのは前回の図(「人口から読む日本の歴史」)からも読み取れる。開国当時の世界の状況は帝国主義的な覇権争いおよび植民地の争奪戦であった。それ故、国力増大および産業振興が最大の課題であった。必然的に人口増大政策が国是とされていた。つまり、国力=生産力=人口と考えられていたのだ。第二次大戦後も引き続き工業生産増大のために人口増加が望ましいとされていた。その後、工業の機械化が進んでもこの傾向は変らなかった。その内に国民の幸福向上には経済成長が必須という仮説から、疑問をはさむ余地のない確固とした定理へと変貌し、定着した。
アリストテレスの論理でいう、『善きもの』が『国民の幸福』であり、その達成手段が経済成長であったはずなのが、いつの間にか目的と手段を取り違えてしまった。手段であったはずの経済成長(GDPの伸び)が『目的化』してしまったのだ。その証拠に日本は経済成長で豊かになったはずなのに、生活が苦しいと不満を持つ日本人が近年とみに増えている。これに対して、経済面では遥かに貧しいはずの小国ブータンは国民の97%が幸福と感じているという。つまり、ブータンでは国民の幸福と目的を達成するための手段が経済成長とは考えず国づくりをしてきたのだ。
ブータンを一つの参考として、今後の日本の国づくりに関して、私の持論を述べる前に、学生の時(1977年~1978年)にヨーロッパでの体験を述べたい。
当時、日本経済はすでに世界のナンバー2となっていて、経済大国と言われていた。毎年、人々の生活が豊かになり、社会資本(道路、鉄道、水道など)が充実することを実感していた。こういった中、私はドイツに留学する機会を得た。そしてヨーロッパ各地を旅行して彼らの生活ぶりを実際に体験することができた。最初の滞在地、ドイツの生活水準の高さは、予想はしていただけに、さして驚くことはなかった。しかしドイツからスイス・フランスを抜けてイタリアに入った時に、驚いた。私の知識では、当時のイタリアは長らく高い失業率に悩まされ、GDP全体は言うまでもなく、国民ひとり当たりの所得も日本よりかなり低かった。それで私はイタリアに入る前に、さぞかし人々の暮らしは貧しく、苦しいのだろうと想像していた。しかし、イタリアに実際に足を入れてみると、街中の人々の表情や生活態度にまったく惨めさが感じられないのだ。その後、南欧のギリシャを巡り、当時はまだ社会主義国であった東欧のチェコスロバキアやハンガリーに旅行した。これらの国でも本質的なところで生活自体に豊かさを感じさせるものがあることに気づいた。これらの国で感じる豊かさとは一体何だろうか?
私はこの時から『経済の指標では計れない生活の豊かさの本質とは何か』と考えるようになった。
(続く。。。)