限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第343回目)『両手でも持ちきれない程の巨大な英語辞書(後編) 』

2021-12-26 19:46:26 | 日記
前編

届いたFunk & Wagnalls (以下、F&W)の現物を見て、驚いたのはその大きさと重さであった。ざっとした寸法を記すと:縦32cm、横26cm、幅15cm と分厚い電話帳2つ分はある。そのうえ、重さはジャンボ級で、8.7kg もある。地震で棚から落ちて体に当たったら、必ず怪我をすること間違いない重さだ。当然片手では持てないし、両手で持っても、持ち上げるときに下手をすると手首や腰を傷め兼ねないような重さだ。(もっとも、ウェブスターの第2版も、これとほぼ同じ大きさ、重さであるので、 F&K だけがこの大きさにこだわったのではない。)それで、一冊本の他、2冊に分冊した版も販売されていたようだ。 2冊に分けると、かつての平凡社『大辞典』の趣きを感じさせる。




さて、F&Wはウェブスターの最大のライバル(archrival)であった。モートン著・『ウエブスター大辞典物語』(大修館)にはこの両社を代表する 2つの辞書が覇を争った様子の概略が記されている( P.530 - P. 533)。 20世紀の初頭から半世紀にもわたり、両社の覇権争いは続いたが、結局、1961年9月にウェブスターの第3版が出るに及んで、ウェブスターの一方的勝利で決着がついた。それでも、 1960年代末のテレビ番組『ローアン・アンド・マーチンズ・ラーフィン』では、単語の意味や使い方で不明な個所があると、俳優が繰り返し「『ファンク・アンド・ワグナルズ』調べてみろよ」というセリフを口にして流行語となったという。

F&Wの敗北は内容そのものではなく、定期的にアップデートをしなかったという商業的な要素が主因であったようだ。(もっとも、ウェブスターにしても、F&Kを蹴落としたあとは、1961年版の第3版に Addendaを補充しているだけで、大幅なバージョンは出していない。)ところで、私は今までウェブスターを使っていて、意味不明の単語に出くわした経験がないので、絶対の信頼を置いていたが、最近、2つの単語が載っていないことを発見し、認識を改めさせられた。

ウェブスター(第3版)に見つからなかった、一つの単語は epideictic だ(もっとも、ウェブスターの第2版には載せられている)。

F&Kには、次のような説明がある。


また、OED(Oxford English Dictionary)にも載せられていて、 "Adapted for display or show-off; chiefly of set orations." と説明されている。

もう一つの単語はaporetic だ(もっとも、ウェブスターの第2版には aporetical という単語が載せられている)。F&K では次のように説明する。
aporetic = One who believes that it is impossible to arrive at perfect certainty; a skeptic

また、OEDでは "Inclined to doubt, or to raise objections." と簡単な説明がある。

最後に、アメリカの英語辞書で最大規模を誇る Century Dictionary での aporetic の定義をみてみよう。(尚 Century の辞書全文は http://www.global-language.com/CENTURY/ で検索できる。)


このように、現代英語では、現在のウェブスター第3版は無敵ではあるが、私のように、古典的な文章を読もうとすると必ずしもそうではないことが分かる。今回、F&Wを入手してつくづくそれぞれの辞書には得手不得手があり、一冊ではなく複数を参照すべきだということがよく分かった。

現在は、インターネットや映像データなど、お手軽に得られる情報で、物事を理解しようとする人は多いが、私はこのような実体に触れない(intangible)で得る情報には大切なものが欠けていると思う。旅行でもそうだが、風景を映像を見たのと、実際に現地で感じるのとではくらべものにならない差がある。情報もそうで、泥臭いアナログ的な手法と思われるかもしれないが、実体を手で触れて、自分の五感を総動員して得る情報は観念的な情報よりずっと心に残るし、鮮烈な 知的興奮を与えてくれることが多い。私はこれからもこのようなアナログ情報を大切にしていきたい。

(了)
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翠滴残照:(第23回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その22)』

2021-12-19 20:03:08 | 日記
前回

〇「ヨーロッパ文化の根幹を知らない日本人」(『教養を極める読書術』P.156)

日本に限らず、世界における教育カリキュラムは近代ヨーロッパが100年ほど前に定めたものをベースに作成されている。そのカリキュラムに従って教育を受けてきた我々は意識しない内に欧米文化の考え方に馴染んでしまっている。それに加え、現代のテレビやインターネットの映像文化のおかげで世界各国のことが手に取るように分かるので、ついヨーロッパ文化(欧米文化)を理解しているように錯覚している。私も40数年前にドイツに留学して、ヨーロッパ各地を合計8ヶ月にもわたって旅行する前はそのように考えていた。

(「一年の留学中で、旅行を 8ヶ月もしたんじゃ、それではいつ勉強したの?」という突っ込みをされる御仁もいようがそれは無視して)とにかく旅行から得たヨーロッパの実像は、そこまで本やテレビで読んだり見たりしたのとでは雲泥の差(漢語表現では「霄壌の差」)があった。その差というのは、以前のブログ
【麻生川語録・10】『手触りのある歴史観』
にも書いたように、匂いや気温・湿気のような視覚以外の嗅覚や触覚などから来る。また視界にしても、カメラのレンズを通して見られる狭く、限定された景色ではなく、全空間・全方位を見ることのできる景色は、迫力が全く異なる。簡単な話、崖っぷちから下を見たとき、映像だと一瞬、ひやっとするだけが、実際に見ると足が竦み、心の底から恐怖感が湧きおこってくる。また、日本の夏は、必ず高湿度なので、真夏の陽射しと聞くだけで汗がじとーっと湧いて来そうだが、地中海では気温は高くとも、日陰にはいると汗がすうーっと引いていく。この感覚は冷房の効いた部屋でカウチポテトで見ていては決して分からない。

さて、ヨーロッパ各地を巡ってみて、はじめて分かったのはヨーロッパの至る所にローマ文明の遺産が今だに数多く存在していたことだ。イタリアはもちろんのこと、フランス、イギリス、ドイツ、ハンガリーなどにも数多く残っていて、そのどれもがかなりしっかりと保存されていた。それも特別に旧所名跡だとして、柵が設けられたり、手が触れないように隔離されている訳でなく、普通に人が住んでいる所もかなり見かけられた。生活の一部に古代ローマの遺跡が溶け込んでいるのだ。

ところで、以前のブログ、『徹夜マージャンの果てに』にも書いたように、私は留学前に人生論から始まってヨーロッパ哲学に首を突っ込んでいたが、その時に読んだ本はギリシャ文明についての記述が多かった。ソクラテス、プラトン、アリストテレスの3大哲学者はいうに及ばず、3大悲劇作家のアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスや歴史の2大巨頭のヘロドトス、トゥキディデスなど歴々たる名前が並んでいた。これらと比較するとローマ人で名前が挙がっていたのは、カエサル、ネロ、キケロ、セネカなど、至って少なかった。それだけでなく、ギリシャ文明は高貴であるが、ローマ文明は享楽や淫乱に明け暮れた廃頽した文明であるかのような暗いイメージが付きまとっていた。


ところがヨーロッパ各地を旅行して強く印象づけられたのは、日本で感じたギリシャが高貴でローマは下卑た、という観点はヨーロッパでは見られなかったことであった。それよりも、現代ヨーロッパ(西欧)は何らかの関係で直接ローマにつながりがあるが、ギリシャはそうでないと彼等が考えていることが様々な場面で印象づけられた。直接的なつながりというのは、喩えれば、ローマが現代ヨーロッパの曾祖父のようなものだが、ギリシャは親戚ではあるが、直系の先祖ではなく、喩えれば曾祖父の兄のようなものだ。この微妙な差が、先年のギリシャの財政危機の時にEU各国の対応に現われたように私には思える。ギリシャはEUの加盟国ではあるが西欧諸国は心情的には積極的には助けようとはしない風に見えた。仮定の話になるが、同様の危機がイタリア、スペイン、アイルランドに起こったら、EUはもう少し積極的に働いたであろうと私には思える。

このようにヨーロッパ(西欧)にとっては現実のギリシャは多少縁遠い国ではあるが、ギリシャの古代文明に対してはヨーロッパ人は限りなく景仰している。確たる情報があるわけではないので、多少無責任な言い方になるが、感覚的にはドイツにとりわけこの傾向が強く見られる。一方、イタリアは勿論だが、フランスはどちらかといえばローマ寄りである。この理由を推察するに、ラテン系の言語であるイタリア語、フランス語(それにスペイン語とポルトガル語)にはラテン語を語源とする単語が非常に多く入っている。それに引き換え、ドイツ語は確かにラテン語語源の単語も少ないとは言えないが、一般人はドイツの土着語(日本語でいう大和言葉に相当)を使い、ラテン語語源の単語はあまり知らないし、使わない。ドイツのインテリ階層はギムナジウム(高等学校)ではたいていラテン語を学ぶので、一応ラテン語語源の単語は修得言語として理解できるものの、それでもラテン語の文章からローマ文明を理解する点においては、イタリア人やフランス人と比べるとハンディキャップがある。(この点、半分以上フランス語の語彙が取り入れられている英語はフランス人とほぼ同じポジショニングにあると言って差支えないだろう。)ところが、ギリシャ語に関しては、ギリシャ人を除いては全てのヨーロッパ人にとって修得言語であり、理解度(つまり難易度)の点からすれば等距離にあり、結構難しい。そこで、ドイツ人は意図的にラテン文明よりギリシャ文明を得意フィールドと設定することで、ラテン語に関するイタリア人、フランス人に感じる劣等感を戦略的に払拭したのではないかと私は想像している。

明治以降、ドイツ学界の影響を強く受けた日本では知らず知らずの内にこのドイツのインテリのギリシャ偏重の影響を受けた。それで、ギリシャ文明を高く見、ローマ文明を低く見る風潮が日本の学界、および文人の世界に定着した。とりわけ、京都大学の学生であった私には、ギリシャ哲学の大御所・田中美知太郎とその直系の弟子の藤沢令夫が率いる京都大学文学部・哲学科が醸すギリシャ偏重の雰囲気を身近に強く感じることができた。しかし、ドイツ留学のおかげでヨーロッパ各地を旅行することで、このような見方は日本に跼蹐した見方であったことを知ることができた。まったく、「井の中の蛙大海を知らず」を身をもって知った訳だ。

続く。。。
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【座右之銘・131】『In illa interiore luce veritatis』

2021-12-12 22:54:24 | 日記
アウグスティヌスは、一般的に西洋では聖アウグスティヌスとSaitの尊称を付けてよばれる教父である。アウグスティヌスの業績はWikipediaなどにも詳しく載っているが、一番有名な著書は『告白』(Confessiones)であろう。今から40数年前の学生時代に一度読んだきりであるが、今でも「やくざ者が聖人になった」という衝撃の事実は、しっかりと記憶に残っている。



アウグスティヌスはキリスト教の教義の確立に非常に重要な役割を果たしたということは理解したものの、キリスト教徒でない私にとってはキリスト教の教義の理解はいささか敷居が高い。文字は理解してもその心情まではとても理解できないもどかしさを感じた。喩えてみれば、男にとっては妊娠から出産にかけての女性の体や心の変化について理解できないようなものだ。正直、私の理解はいささか浅薄であると自認した上で言うと、アウグスティヌスのキリスト教神学の立脚点はプラトン的、さらにはネオプラトニズム(新プラトン主義)である。また、それだけではなく、ストア派の影響も認められる。



アウグスティヌスには主著ともいうべき『神の国』(De civitate Dei)をはじめ数多くの著作がある。数年前にタイトルに興味を惹かれ「De magistro」(教師について)を読み始めたものの、内容はそれほど興味の惹くものではなかった。要点は、キリスト教を広める趣旨から当たり前である「教師と呼べるのはイエス一人であり、イエスを通じて人間は真理を知ることができる」という主張が全編を貫く。敷衍すれば「言葉は単なる指標に過ぎないので、言葉からでは物は分からない。イエスの導きがあって初めて物が分かる。」というところに行きつく。というのは、彼は物事の真理を正しく理解するためには、人間の理性だけでは足りないだと考えているようなのだ。我々人間より優れた権威が言葉の意味を正しく定めることが必要だという。つまり、言葉の役割は、単に記号によって物事に名前づけするだけであるから人間はそのような記号からは何も本質的なことを知ることはできない。結局、人間が得た経験と知識をベースにして、最終的に神の導きよって物の本質を知ることができる、とアウグスティヌスは確信している。

アウグスティヌスのこのような意見の当否の議論はさておき、彼の言葉自体にはキリスト教徒でなくとも、人を真理に導く箴言のような響きの語句がある。それを次に示そう。
【原文】... in illa interiore luce veritatis ...
【私訳】(我々の)心のなかにある真理の光
【英訳】... in that inner light of truth ...
【独訳】... in jenem inneren Licht der Wahrheit ...
【仏訳】... à la lumière intérieure de cette vérité ...
この句の示すところは、真理は外から降ってくるのではなく、人の心の中にすでに真理を照らし出す光があり、その光が当たったところに真理が浮かび出ると、私は理解した。この点において、真理を得るには何もキリスト教徒になり、イエスの導きを得なくてもよいと私は勝手に解釈している。

ちなみに参考のため、この句を含む前後の文を以下にしめしておこう。

【原文】Cum vero de his agitur, quae mente conspicimus, id est intellectu atque ratione, ea quidem loquimur, quae praesentia contuemur in illa interiore luce veritatis, qua ipse, qui dicitur homo interior, illustratur et fruitur ...

【英訳】But when it is a question of thigs which we behold with the mind, namely, with our intellect and reason, we give verbal expression to realities which we directly preceive as present in that inner light of truth by which the inner man, as he is called, is enlightened and made happy.

【独訳】Wenn aber über das gehandelt wird, was wir mit dem Geist erblicken, d.h. mit vernünftiger Einsicht, sprechen wir zwar von dem, was wir in jenem inneren Licht der Wahrheit unmittelbar anschauen, wodurch der sogennnate innere Mensch erleuchtet wird und woran er sich errfreut.

【仏訳】Quand il s'agit de ce que voit l'esprit, c'est-à-dire l'entendement et la raison , nous exprimons, il est vrai, ce que nous voyons en nous, à la lumière intérieure de cette vérité qui répand ses rayons et sa douce sérénité dans l'homme intérieur;
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翠滴残照:(第22回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その21)』

2021-12-05 20:38:43 | 日記
前回

〇「人間中心の宗教でいう神はすべて空想に過ぎない」」(『教養を極める読書術』P.150)

「神様、仏様」というと慈悲深く、悩みや苦しみから人間を救ってくれる神々しくも優しい存在であるかのように教えられる。そして熱心に祈れば祈るほど、願いが叶うという。つまり祈りも因果応報の法則に支配されているという理屈だ。それも、心の中だけで祈っているのではなく、自分の身を苦しめたり、多額の布施をしたりと、目に見える形での行為が神様の心を動かすとされる。不思議なことに、どれほど多くの祈りを捧げる人がいようとも、それら全ての行為が神様によって見届けられているのだ。現在、中国には2億台ともいわれる監視カメラのあるが、神様の監視は、それ以上のまさに水も漏らさぬ完璧な監視システムだ。

「全能の神だから、これぐらいのことは朝飯前」というのだろうが、本当にそのような神、あるいは仏、はいるのだろうか?私は、子供のころからずーっと疑問に思ってきた。本文のP.115にも書いたように、イギリスとアルゼンチンが対立したフォークランド紛争で、あっさりと「祈りは虚しい」ことが証明され、それ以降、私は祈りや、その逆の神の罰については信用しないことにしている。しかし、これはまだ神の存在自身の有無についての証明にはなっていない。神の存在に関しては、古くは古典ギリシャ時代から多くの哲学者たちの関心を集めた。彼等の議論のあらすじはディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシャ哲学者列伝』に数多く載せられているが、なにしろ断片であるため、明確な論旨が掴みづらいる。

ギリシャの哲学者の中では、万学の祖と崇め奉られるアリストテレスは神の存在証明を普通の哲学者がやるように単に形而上学的観点からだけでなく、自然科学的観点も加味して考察している。中世の大哲学者のトマス・アクィナス(以下、トマス)はアリストテレス哲学を援用して、大著『神学大全』で神の属性や存在に関して網羅的な議論を展開した。もっとも、『神学大全』は膨大な著作なので、日本語の全訳はあるものの、とても私の手に負えるものではない。それで、以下の議論は中央公論の『世界の名著 20 トマス・アクィナス』に則って、全知全能の神が存在するとの証明を2通り、取り上げてみよう。以下の文面で()内は私のコメントを示す。

神の存在証明(その1)

先ず、世界には動いているものがある、という自明のファクトを述べる。そして、動いているものはすべて他者によって動かされている、という。(トマスは意志のない物体が自分自身の力で動き出すことはないと考えているのだ。)そうすると、動かすものと動かされる物の間には動力の伝達のチェーンが成立しているはずという。(動力が伝わって初めて物が動くという理屈である。)ところが、この動力チェーンは無限ではなく、必ず有限であるはずだ。そうすると、動力チェーンの初めに位置していて、物を動かす者、すなわち第一動者が神である、ということになる。

神の存在証明(その2)

自然界に起こるものにはすべて秩序がある。(トマスは自然界に理性的な秩序構造があると考えていたようだ。しかし、自然界を見渡してみると、人間が考えるような理性的秩序のない状態があったはずだが、それは単純に無視している。)そして、それらは全体としてある目的を目指して動く。(つまり、自然界の物事は勝手に活動しているのではないということ。)その秩序は誰かによって与えられていなければならない。よって、秩序を与えているものが存在していなければならず、それが神である。




トマスの意見によると、結局、神は全知全能で、生きとし生けるものに恩寵を与えてくれる、ということになる。しかし、本文のP.151に書いたように、最近のカメラ技術が進歩したおかげで生物界の本当の姿を映像で見ることができるようになると「恵みぶかき神の恩寵」という言葉が全く白々しく聞こえるような、厳しく、酷い動物たちの生存闘争が見えてくる。凄絶な生存競争を見るときっと「このような酷い生存競争をさせている神は冷酷非情の心情の持ち主に違いない」と考えることだろう。つまり、自然の姿が神のありのままの姿だとすると、人間の考える神の姿が間違った想像、そう空想や妄想に過ぎない。神は人間が考えるほど恵みぶかくはない。

さらに言えば、全知全能という点においても疑問符がつく。歴史上、しばしば神と会話をしている人がいたことが記されている。それもモーゼやイエス、あるいはムハンマドといった預言者だけでなく、一般の庶民でも神の声を聞いたという人がいる。彼らが対話した相手が本当に神であったとするなら、非常に理解しがたいことがある。それは、15世紀末になるまで、誰も神からアメリカ大陸の話を聞かなかったことだ。さらに、誰も神から万有引力や相対性理論について聞かされなかった。当時、力学の観点でいえば、アリストテレスが主張した「重いものほど早く落ちる」といった似非理論がまかり通っていた。天体の観点でいえば天動説が正しいとされた。神はこのような状況を知りながらも一言も「お前たちの考えは間違っているぞ!」と忠告してくれなかった。そのせいで、人類は長年間違った理論を信じこんでいた。もし、神がこれらの理論が間違っているということを知っていたなら、神は非情であり、もし間違っていることを知らなかったなら、全知ではない。いづれにせよ、神の属性である「全知全能で慈悲深い」というのは否定されることになる。

こういった考察の結果、私は「人間中心、あるいは人間世界のことしか考えていない既存の宗教は宇宙の真理とはまったく縁もゆかりもない人間の勝手な空想に過ぎないということだ」と自信を持っていえる。

続く。。。
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