限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第385回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その228)』

2018-11-29 15:54:05 | 日記
前回

【327.禁断 】P.4276、AD487年

『禁断』とは「ある行為を厳重に差し止めること」という。辞海( 1978年版)と辞源(1987年版)の両方で「禁断」を調べたが、説明は載っていない。諸橋の大漢和には簡単に「禁制」とのみ記すだけなので、「禁断」になぜ「断」が必要なのかは、不明だ。推測するに「禁」の字は「禁止」を意味するのは明らかなので、「断」は「絶対に」という強調の意味ではないかと思う。

「禁断」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。これから分かるように、宋史まではかなり頻繁に使われていたが、それ以降はほとんど使われていないことが分かる。



資治通鑑で「禁断」が使われている場面を見てみよう。北魏では、 AD487年の春から夏にかけて、大旱魃が発生し、多くの餓死者がでた。大胆にも、宮殿の贅沢がその原因の一つだと指弾する上書が提出された。

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北魏では、この年(AD487年)に大旱魃が発生し、代の地がもっともひどかった。その上、牛の病気が広まったので、餓死する人が多くでた。六月、役人はもとより、世間一般に対しても問題があればつつみ隠さずに報告するようにとも詔を出した。それに応えて、斉州刺史の韓麒麟が次のような上表文を提出した。「昔の聖王の時には、飢饉にそなえて九年分の穀物を貯蓄しました。近年、このシステムを復活させ、穀物を上納する者には、戦場で敵の首を取った者と同じ爵位を与え、田を熱心に耕す者は「孝悌」と同じ勲章を与えました。しかるに現在では、都では耕作に励まず、遊んで暮らす「遊食の徒」が2/3にも上ります。我が王朝が始まってから、豊作の年が多かったので、贅沢が蔓延し、遂には習い性となってしまいました。富貴の家では、子どもや妾に至るまで立派な衣装をつけ、職人や商売人の家ですら下男・下女にいたるまで贅沢な食事をさせています。それに引き替え、農家では糟糠(ぬか)でさえ、事欠くありさまで、布を織る農婦は逆に粗末な服さえ着ることができません。このようなありさまなので、農耕する者は日々に少なくなり、田畑は荒れ放題、国庫には穀物や織布は欠乏するのに、財物は民間に溢れ返っています。つまり、貯蓄されるべき穀物や布は少ないにも拘わらず、贅沢品はあふれるばかりに流通しているということです。民が餓死しているのは、こういったことが原因です。私はこのような不要な贅沢品はすべて禁断(禁止)すべきと考えます。世の中の安定はすべて、必需品の備蓄に拠ります。農業と養蚕を奨励し、贅沢には厳罰で臨めば、数年のうちに必ずや国庫が充実することでしょう。

魏春夏大旱、代地尤甚;加以牛疫、民餒死者多。六月、癸未、詔内外之臣極言無隠。斉州刺史韓麒麟上表曰:「古先哲王、儲積九稔;逮於中代、亦崇斯業、入粟者与斬敵同爵、力田者与孝悌均賞。今京師民庶、不田者多、遊食之口、参分居二。自承平日久、豊穣積年、競相矜夸、遂成侈俗。貴富之家、童妾袨服、工商之族、僕隷玉食;而農夫闕糟糠、蚕婦乏短褐。故令耕者日少、田有荒蕪;穀帛罄於府庫、寶貨盈於市里;衣食匱於室、麗服溢於路。飢寒之本、実在於斯。愚謂凡珍異之物、皆宜禁断;吉凶之礼、備為格式;勧課農桑、厳加賞罰。数年之中、必有盈贍。…」
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孝文帝が治めていたこの時代(5世紀後半)は北魏の全盛期と言われているだけあって、街中では贅沢品が溢れ返っていたようだ。しかし、天候不順で旱魃が発生すると、とたんに餓死者が続出するという社会的機能の弱点が露呈したことが分かる。民間だけでなく国庫にも、贅沢品は溢れかえるばかりに蓄えられているが、逆に、民の命を支えるべき生活必需品の穀物や織布は欠乏していたということだ。

韓麒麟は餓死者を放置する政治の間違ったあり方を糾弾し、民を救済すべしとの声を上げた。この意見が取り上げられ、民を救済する処置がとられたと資治通鑑は述べる。ただ、いつもそうであるが、そういった処置が本当に有効だったのか、という検証結果は示されていないので、本当の効果は不明としか言えない。資治通鑑という本の目的から考えると、このような事態に為政者はどういう対応を取るべきかというケーススタディとしては好例といえよう。

続く。。。
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百論簇出:(第235回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その6)』

2018-11-25 16:06:21 | 日記
前回

漢書読了に勢いを得て、すぐさま同じく後漢書人名索引だけを頼りに標点本の後漢書に取り掛かった。私は、高校生の時、歴史は世界史、日本史とも苦手だったが、それでも、多少なりとも覚えていた後漢時代の「党錮の禁」のあたりの記述では、宦官に対する党人のしぶとい粘りや太学生のステューデント・パワーの生々しい実態を後漢書の記述から直接知ることができた。歴史の授業では、わずか数行程度の、それも乾いた説明で済まされていた事件が圧倒的な臨場感をもって迫ってきた。印象深い話は多いが、以前のブログに書いた范滂と母の会話もその一つだ。

【参照ブログ】
 通鑑聚銘:(第55回目)『范滂の母の一言と蘇軾の母』

後漢書は現在(2018年)でこそ、和訳が岩波書店(書き下し文)と汲古書院の両方から出版されているが、当時(1985年)は部分訳(平凡社)しかなかった。つまり、日本では、史記や三国志は有名であるが、後漢書は日本に関する記述のある《東夷伝》を除いては中国史学・文学を専攻している学者以外には全く無名の存在といっていいほどだった。(もっとも、三国志も三国志演義は和訳が山のようにあるが、正史の三国志ですら1991年にようやく筑摩世界古典文学全集(3冊セット)で発売されたに過ぎない。)

また、前漢には、劉邦、武帝、司馬遷、李陵、王莽などキャラの立った人物が多数登場するが、後漢には、光武帝を除いては一般的に知られている人物は極めて少ない。私の後漢に関する知識といえば、従ってゼロに近く、後漢書を読むというのはまるで未知の世界を探検しているようであった。本紀は飛ばして、列伝から読み始めたが、途端に、良く耳にする故事成句が目白押しであった。例えば:「千載一会(千載一遇のこと)」「柔能制剛」「疾風知勁草」「吾不食言」「糟糠之妻、不下堂」「遼東豕」などなど。このような文章の面白さにつられて、ずんずんと読み進むことができた。

後漢の時代と言えば、日本では弥生時代であるが、当時の遺跡(吉野ヶ里遺跡など)をみても分かるように、まだまだ文明化のレベルは低い。それに比べ、当時の中国ではすでに貴族たちが大規模で、豪華な土木建築や贅沢な食事を満喫していた。梁冀の贅沢な様子は、私の最初の本:
 『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(P.129)
に資治通鑑の文章を引用して説明した。しかし、資治通鑑の文章のソースである後漢書には、下に示すように非常に細かな部分まで描写されている。
(原文:中華書局の標本点と藝分印書館を示す。ちなみに、前回述べた都留先生の授業の時に配布された漢書や史記というのは、藝文印書館のような全くの白文であった。)

【中華書局の標本点】

【藝文印書館】

日本の学校教育では、歴史イコール「政治史」であり、ここで示したような生々しい(vivid)「生活史」は教科書にはほとんど出てこない。この点について、『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(P.11)で次のように述べたが、これは後漢書を読んでいる時に非常に強く感じた点である。
 「…歴史書と言えばたいてい政治的あるいは経済的な事柄の記述がメインである。従って、帝王の名前や系図、戦争の記述が大半を占める。それを読んでいると、あたかも人気(ひとけ)が全くない世界で、政治や戦争だけが一人歩きしている観を覚える。しかし、中国人は史書とは人間の体臭がぷんぷんとにおってくるものでなければならないと考えていた。古くは『春秋左氏伝』、『史記』、『漢書』、『後漢書』などがそうであったし、歴代の王朝が編纂した膨大な二十四史はすべて現代人の眼には歴史書というよりむしろ人物伝集成のように思われるであろう。」

さて、後漢書を半分程度読んだところで、急に仕事が忙しくなった。文字通り平日は「セブン―イレブン」で、休日も半分以上は、プログラムの設計やコード書きをしなければならず、とても漢文に時間が割く余裕がなくなった(下記ブログ参照)。その内に結婚、子供の誕生と家庭環境も変わった。また、留学から帰国以降、ずっとドイツ語をなおざりにしていたので、かなり錆びついていたことに危機感をもった。私は、ドイツ語には特別な思い入れがあり、ずっとハイレベルをキープしたかったので、再度ドイツ語に時間を割き、セネカ、プルタークなどを読みだした。このような事情で、後漢書を読むのは途中でストップし、1985年から10年間は、漢文に関しては当面、閉店状態となった。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第158回目)『IT時代の知的生産の方法(その6)』

この10年間、仕事をこなしている中で OSやプログラミング(主としてCとawk)に関する知識を大幅に向上させることができた。というのは、CMU(カーネギーメロン大学)の環境では UNIXを使い慣れていたが、私が担当したシステムのOS(RSX-11M、OS/2)は UNIXではなかったので、非常に不便に感じた。それで、部分的にUNIXのツールをC言語で書いて移植したが、こういったツールの制作はその後、私が漢文検索システムなどを作成するための、いわば準備体操となった。

CMUでは、工学系の大学院生はC言語ができることが必須であったので、私も頑張ってC言語をマスターしたが、それでもやはり、実際に仕事上で必要とされる技術水準にはとても足りなかった。しかし、ハードな仕事をこなすうちに徐々に技術レベルが向上した。例えば、自動倉庫やタイヤの自動仕分け装置などのリアルタイムのデータ管理システムでは高速のデータベースが必要となるが、当時(1985年から1990年)のミニコンやPCのハードディスクの性能は遅く、とても使い物にならなかった。それで、メモリー上で動く簡易データベースを私自身が設計し、コーディングした。データベースを設計してみるとそれまで単なる知識として覚えていた doubly-linked list(双方向リンク)や、ハッシュの使い方などが非常によく理解できた。

結局、10年間プログラマー兼プロジェクト・リーダーとして幾つかのリアルタイムシステムのプロジェクトを遂行する過程で、百万行近くのCソースコードを読み書きし、さらにUNIX流のツール制作と、オンメモリーのデータベース制作を経験して、私はようやくコンピュータシステムに関してはプロとして十分通用するレベルに到達したと感じた。このような経験があったからこそ、後日、漢文検索システムを難なく作成することができたのだと感じている。それ故、この10年間は、確かに漢文は殆ど読まなかったのだが、漢文上達の下準備期間だったといえる。

さて、このように10年ちかく漢文から離れていたが、再度、漢文に熱中するのは1995年からだったが、それはある事がきっかけで、その後の私の人生を大きく変える出来事であった。

続く。。。
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想溢筆翔:(第384回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その227)』

2018-11-22 22:37:00 | 日記
前回

【326.憮然 】P.3709、AD417年

『憮然』とは「がっかりと失望するさま」である。辞海(1978年版)には「憮」は「失意貌」(失意の貌)と説明し、「憮然」は「猶帳然」(なお帳然のごとし)「茫然自失之貌」(茫然自失の貌)と説明する。私は「憮然」は「失望して肩を落とす」というような縮こまった態度というより、「ふてくされて不満げな表情をする」という、苛立ちと恨みを心の奥底に抱いている、そのようなニュアンスを「憮然」には感じる。

「憮然」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。全体で63回というのは、決して少なくない回数であるが、出現がほとんど宋以前に偏っている。清史稿での出現がゼロというのは、現代の中国では全く使われていないことを表している。



資治通鑑で「憮然」が使われている場面を見てみよう。五胡十六国時代、南には東晋が、北には後秦があったが、 417年に東晋の武将・劉裕(後に劉宋を建国した)が部下の王鎮悪と攻め込んできた。

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王鎮悪は渭水を遡り、小さな軍艦に乗り込んだ。船の漕ぎ手は皆、船室に身を隠していたので、岸から見ていた後秦の人たちは、無人の船が勝手に動いているかのように思い、誰もが「神ではないか!」と驚いた。王鎮悪は渭橋にたどり着くと、兵士に食事が終われば皆、荷物を持って岸に上がるように命じ、遅れる者は斬るぞと脅した。兵士が全員船から上陸すると、渭水の急な流れに、船が全部流れ去ってしまい、たちどころに見えなくなってしまった。(さて、この時、後秦の姚泓の軍にはまだ数万人もの兵がいた。)王鎮悪が兵士に向かっていうには「我らの家は江南にあるが、ここは、長安の北門で、家から何万里も離れている。その上、船や衣服、食糧も全部、流れた。今や敵との戦いに勝てば功名ともに得ることができるが、敗ければ、ここに朽ち果て、骨も故郷にもどらない。勝つしか道はないのだ。皆のもの、奮闘せよ!」そういって、王鎮悪は先頭に立って進んだので、兵士たちも、われ先にと突進した。渭橋で姚丕の軍と戦い、大勝した。姚泓は兵を率いて姚丕を救いに来たが、姚丕の敗残兵たちに踏みつけられ、戦わずして総崩れとなった。王族の姚諶たちも皆、戦死したので姚泓はただひとり馬にのり王宮へ逃げ戻った。

王鎮悪は平朔門から城内に入った。姚泓は姚裕たち数百騎と共に馬に乗り石橋へと逃げた。東平公の姚讚は姚泓が敗れたと聞くや兵を率いて駆け付けたが、皆、壊滅してしまった。胡翼度は大尉の劉裕に降伏した。姚泓も降伏しようと考えた。当時、姚泓の息子の仏念は11歳であったが父に向かい「晋人は我が国を滅ぼそうとしています。たとえ降伏しても殺されるに決まっています。自決しましょう。」姚泓は憮然として返事をしなかった。仏念は宮殿の塀に登り、飛び降り自殺して果てた。

鎮悪泝渭而上、乗蒙衝小艦、行船者皆在艦内;秦人見艦進而無行船者、皆驚以為神。壬戌旦、鎮悪至渭橋、令軍士食畢、皆持仗登岸、後登者斬。衆既登、渭水迅急、艦皆随流、絛忽不知所在。時泓所将尚数万人。鎮悪諭士卒曰:「吾属並家在江南、此為長安北門、去家万里、舟楫、衣糧皆已随流。今進戦而勝、則功名倶顕;不勝、則骸骨不返、無他岐矣。卿等勉之!」乃身先士卒、衆騰踊争進、大破姚丕於渭橋。泓引兵救之、為丕敗卒所蹂践、不戦而潰;姚諶等皆死、泓単馬還宮。

王鎮悪入自平朔門、泓与姚裕等数百騎逃奔石橋。東平公讚聞泓敗、引兵赴之、衆皆潰去;胡翼度降於太尉裕。泓将出降、其子仏念、年十一、言於泓曰:「晋人将逞其欲、雖降必不免、不如引決。」泓憮然不応。仏念登宮牆自投而死。
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最後の攻防戦で、全軍が壊滅したのに、後秦の王である姚泓は自決する勇気がなく、降伏してなんとか生き延びようと考えた。しかし、わずか11歳の息子の仏念はすでに後秦の命運が尽きたことを悟り、自殺の道を選んだ。

最近(2018年10月)出版した『資治通鑑に学ぶリーダー論』(河出書房新社、P.151)には「人の器量は危機の時にこそ」と題したエピソードを幾つか載せた。社会的に高い地位にいる人が必ずしもしっかりとした考え(哲学、人生観)を持っていない例には事欠かない。

続く。。。
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百論簇出:(第234回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その5)』

2018-11-18 17:25:22 | 日記
前回

前回では、帰国当日の夜に『戦国策』と『晋書』を購入したことを述べたが、まずは『戦国策』のような史記以前の書物を読むことから始めた。戦国策は、以前に平凡社の中国古典文学大系の日本語訳で一通り読んだことがあった。つまらない話も少なくはなかったが、サビの効いたきらりと光る話も多いとの印象をもった。現代とは異なり、一歩間違えば、殺されることを承知で、帝王を説得(たぶらかす?)して大金と名誉を手に収める遊説家の機転、バイタリティ、度胸は、善し/悪しは別にして感嘆した。現在とは比べものにならない、文字通り、命がけの究極のハイリスク、ハイリターンの世界だ!

それ以外、漢文に登場する諸子百家のものをこの時に集中して読んだ。『論語』や『老子』『荘子』などは一部は暗記するほどまで既に何度も読んでいたので、飛ばして、それ以外の諸子を中国で出版されている標点本で次々と読んでいった。一度、標点本になれてしまうと、返り点(レ点、一二三、上下)の付いた文は、むしろ読むのに邪魔で、うっとうしくなってくる。これはあたかも、自転車に上手に乗れるようになると、補助輪がむしろ邪魔になってくるのと同じだ。(下に、評点本と通常の返り点がついた史記の文章《李斯列伝》を掲げるので確認して頂きたい。)



標点本の読みやすさは、西洋式の punctuation(句読点)がフルについていることにある。「、。」の句読点はいうまでもなく、会話の引用符「」や?!なども付いている。さらに、固有名詞には必ず横に線が付けられている。この時、人名や地名には棒線が、書名、編名には波線と区別されている。これらの記号があるとないとでは、理解の精度や読むスピードが体感的には数倍から十倍は違う。

私はこの標点本で、通常の漢文の授業によく登場する諸子百家の本、例えば『孟子』『荀子』『墨子』『列子』などを読んだが、格段に読みやすく、意味もよく分かった。

『孟子』はこの時は、あまり感銘を受けなかったが、後日、王陽明全集を読んでいる時に「耳から読んだ」ことが最終的に、資治通鑑を通読することに連なるのだが、それは稿を改めて述べたい。

『荀子』は文章の論理が非常に鋭角で、それまで論語から受けていた「けだるい儒教」のイメージが吹き飛んだ。世間では荀子を孟子と比較して、性悪説を唱えたと否定的に視られているが、人間本来の性格はどうであれ、修行によって完成に導くという点に於いては孔子や孟子と同じ路線だと感じた。例えば、富士山の頂上を目指すに、静岡側から登るのと山梨側から登るように、単に出発点や経路が異なるだけで、両者の最終目標は同じということだ。

『墨子』は以前、中国古典文学大系の日本語で読んだ時には、「だるい内容だ」と思っていたが、漢文で読んでみると、なかなかメリハリの効いた巧みな弁論術に感心した。それと同時に、理性的に考えてみると私には非常に納得性の高い主張が多くみられた。中国では、墨子の死後、墨子の唱えた兼愛は一貫して否定的にみられていた、という点に儒教に毒された中国社会のひずみを知ることができると感じた。

標点本にかなり慣れたことを確信したので、今度は史記以降の史書、具体的には漢書と後漢書に取り掛かった。

漢書に関して言えば、その昔、京大の教養部で都留春雄先生の漢文の授業をとったがそこで史記と漢書の比較を教えて頂いた。それは、司馬遷の人生に大きく関連する李陵が匈奴と戦った場面を、史記と漢書の原文を比較した説明であった。とりわけ「漢書には上奏文が多い」との一言がなぜかしら記憶に強く残った。その他は事はあまり思い出せないが、ある時、先生が原文の一節を現代中国語の発音で読みだすと、学生が一斉に笑ったことが非常に印象強く記憶に残っている。私も含め漢文とは日本語の発音で書き下し文を読むものだと思っていたのが、突然中国音が飛び出してきたので、皆、戸惑ったのだ。先生も照れ笑いをし、その後 2,3回、中国音で読まれることはあったが、やはり慣習通りの書き下し文形式で読まれた。

漢書というのが史記とどのように異なるのか、また「上奏文が多い」というのは具体的にどういうことを指すのか、と言う点が気にかかっていた私は、ある程度漢文が自力で読めるようになったので、史記と同じく中華書局の標点本で漢書を読みだした。当時(1985年)、漢書の和訳(全訳)が筑摩書房から既に出版されていたが、3冊で4万円近くもするので、とても高くて買えなかった。それで漢書人名索引(中華書局)だけを頼りに、史記の続き、つまり武帝の所から、紀と伝の部分を読み始めた(《志》は省略)。

読み進んで行くと、列伝の第30巻(巻60)以降には数多くの名臣が登場する。彼らが皇帝宛てに書いた政策提案書(いわゆる上奏文)の全文がそのまま載せられているところが次々と出てきた。そこでようやく「都留先生はこのことを言っていたのか」と納得した。中国の文明を歴史順に「漢文、唐詩、宋詞、元曲」というが、まさしく「漢文」と呼ぶにふさわしい堂々たる文章の金脈にぶつかった思いがした。

漢書の掉尾を飾る《王莽伝》は一人の伝としては、分量が他を圧倒していた。ざっと見、他人の3倍以上あった。当時、「なぜ、極悪人にこれだけのページを割くのだろうか?」と不思議であったが、「善以為式、悪以為戒」(善はもって式となし、悪はもって戒めとなす)をモットーとする史書では、悪人や悪行といえども、きっちりと記録に残して、後世の鑑とすべきものである、ということを後日知った。

漢書を読み終えた段階で、留学前の史記と合わせ、漢文を約5000ページ読んだことになる。私の持論は「語学はだいたい5000ページ読むと自信がつく」であるが、この時点で、漢文に対する恐怖心は全くなくなった。後から振り返ると、この時点では、漢文理解力はまだまだ不十分ではあったものの、漢文の読み方や鑑賞力はこの時に出来上がったように感じる。

続く。。。
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想溢筆翔:(第383回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その226)』

2018-11-15 16:11:02 | 日記
前回

【325.以和為貴 】P.4354、AD494年

『以和為貴(和をもってたっとしと為す)』とは、日本では聖徳太子の十七条憲法の冒頭の句としてあまりにも有名である。これは、五経の一つ、『礼記(らいき)』から来ている。日本でポピュラーな句であるからと言って、必ずしも中国でもそうであるとは限らない。それは二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると明らかだ。



上の表を見ても分かるように、全体で4000万文字近くもある史書の中にわずか6回しか現われていない。それも、その内3回は今回挙げた同じ文面が3つの史書(資治通鑑、魏書、北史)に書かれているのである。その個所を説明しよう。

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北魏が兼員外散騎常侍の盧昶と兼員外散騎侍郎の王清石を派遣して南朝(斉)を訪問した。盧昶とは盧度世の息子である。王清石は先祖ずっと江南の王朝に仕えていた家系である。北魏の孝文帝は王清石に次のように忠告した「貴卿は先祖代々南人であるが、向うにいっても遠慮することはない。知人もたくさんいることだろうから、会いたいと思えば会ってよろしい。言いたいことがあれば、遠慮せずに言ってこい。使節というのは、本来「以和為貴」というのが目的であるから相手を軽蔑するような態度が言動の端々に現れたなら、使節の役目を果たしたことにはならない。」

魏遣兼員外散騎常侍盧昶、兼員外散騎侍郎王清石来聘。昶、度世之子也。清石世仕江南、魏主謂清石曰:「卿勿以南人自嫌。彼有知識、欲見則見、欲言則言。凡使人以和為貴、勿迭相矜夸、見於辞色、失将命之体也。」
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南北朝は5世紀半ばから6世紀末までの約150年ほど続いた分裂王朝時代をいうが、頻繁に交流のあった。中国では、春秋戦国時代もそうだが、戦争もするが、友好的な外交使節が頻繁に行き来する ― なんとも、私には微妙と感じられる ― 関係が続いている。中国にかぎらず、ヨーロッパ諸国もそうだが、「握手をしながら、テーブルの下では足で蹴りあいする」のが、外交のグローバルスタンダードなのであろう。単に日本だけがこういったやり方に、いまだに慣れていないだけかもしれない。

さて、「以和為貴」とは元来は、礼記(らいき)《儒行》の「礼之以和為貴」(礼は和をもってたっとしと為す)から来ている。つまり、「和が貴い」という「和」をべた誉めする言葉でもなく、「和」の尊厳性を称える抽象的な語句ではなく、「礼」の最終目的は「和」にある、言い換えれば、「和」を得るために礼を学び、実践するのだ、ということを明確に示している言葉だ。私には日本での理解は、礼記本来の「以和為貴」の文句が表現したかった目的と手段を取り違えているように思える。

ついでにいうと、「以和為貴」が十七条憲法の冒頭に載せられていると言って、十七条憲法を持ち上げる人がいるが、実際に十七条憲法の条文を読むとそれほど立派な理念が書かれているわけでもないことが容易に分かる。どちらかというと筆者(聖徳太子)が当時の官僚の強欲と、だらけ振りにブチ切れた怒りの表現が並んでいる。この意味で、十七条憲法は自分で原典をチェックすることの重要性がよ~く分かる好例といえよう。

続く。。。
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