限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

翠滴残照:(第6回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その5)』

2021-03-28 19:58:02 | 日記
前回

〇「プラトンとセネカに魅了される」(『教養を極める読書術』 P.22)

プラトンの対話篇を読むことの重要性については前回のブログだけでなくすでに何度も取り上げているが、再度(懲りもせず)なぜそれほどまでプラトンに魅了されたかについて述べよう。

よく「学生時代によむ100冊」「古典的名著」など、名著を紹介した特集でプラトンが言及されるときは、決まって『ソクラテスの弁明』『パイドン』『饗宴』『国家』が挙がる。確かに最初の2作、『ソクラテスの弁明』『パイドン』にはソクラテスの高い倫理観が凝縮されているのでヨーロッパの徳の理想を知るには最適の書といえよう。次に『饗宴』はシェークスピアの喜劇『十二夜』『お気に召すまま』のようなエンターテイメント・ドラマとして楽しめる傑作であるといえる。最後の『国家』はギリシャの教育や行政のあり方(現実と理想)がよくわかる、充実した内容だ。



しかし、私がプラトンに魅了されたのは別の観点だ。

プラトンから大いなる刺激を受けたのは話し方、学術的にいうと、レトリックである。レトリックはたいていは修辞学と訳されるが、ここでは「弁論術・雄弁術」という意味だ。人は訓練を受けなくともしゃべることはできるが、それは単なる「だべり」に過ぎない。あるいは、歩くことは誰でもできるが、競歩のように「速く、長く」歩けるには訓練が必要だ。それと同じく「だべり」ではなく、「聞かせる話し方」ができるようになるには訓練が必要だ。話し方の訓練といえば、アナウンサーや落語家のような特殊な職業に就く人だけに必要だと考えるかもしれないが、一般の社会人・ビジネスパーソンにも必要だ。

西洋では伝統的に「弁論術・雄弁術」のカリキュラムが用意されているが、その基本部分を教えてくれるのがプラトンの初期対話篇である。具体的には『イオン』『メノン』『ラケス』だ。これらを読むといわゆる「ソクラテス・メソッド」のからくりがよく分かる。ソクラテス・メソッドの要点(キモ)は「一文で話すことは一つのこと」に絞ることである。文章でいうと「、」(句点)で話しを続けずに、「。」(読点)で文を完結することだ。つまり、述べる内容をレゴのようなかっちりとしたブロックを積むように構築することだ。それができるには、頭のなかでいうべきことの全体図が見えていないといけない。

この点に関しては、以前のブログ
『外国語会話上達にもつながる弁論術のポイント』
で頭の中の整理法を述べたのでそれを参照して頂きたい。要は、だべり会話をしている限り、頭のなかを整理して話すことはできない。その状況を生き生きと示してくれるのが、上に挙げたプラトンの初期対話篇の数々である。もっとも、これらの対話篇は哲学的観点から言えば、当初設定された問題を解決できず、aporia に陥った失敗作とみなされている。しかし、弁論術の観点からいえば、これら失敗作こそに価値があるのだ。その理由は「論理のからくり」を見せてくれるからである。例えば、手品師が手品をしているところを見ても、そのからくりが分からない。ところが、失敗して道具をポトンと落としてしまったりすると、カラクリが一遍に分かる。または、前から見ていると分からなくても、手品師の背後から見ると、カラクリが簡単に分かる。プラトンの失敗作といわれる『イオン』『メノン』『ラケス』は、舞台裏やカラクリがよく分かる作品である。論理的に話していても、最終的には間違った結論に達することもあるという好例だ。これから逆に、正しい結論に至るにはどうすればいいのかということも見えてくる。

一方、プラトンの初期の力作『プロタゴラス』『ゴルギアス』からは、本格的な弁論の仕方を学ぶことができる。この2つの作品には当時の超一流のソフィストである、プロタゴラスとゴルギアスがそれぞれ登場する。どの程度、本物の弁論かという歴史的詮索はさておき、この作品はあたかも録音の書き起こしのように当時のディベートのライブの興奮をじかに感じることができる。

これらの対話篇にあって、ソクラテスはいつものごとく論理をワンステップ、ワンステップをきちんとチェックしながら話を進める(ソクラテス・メソッド)。それに対して、ソフィストは多少の論理矛盾はあっても滔々とした弁舌で相手を言葉で酔わせてしまう。しかし、その場の雰囲気の中では納得できても、後で冷静になって振り返って見ると納得できないことが多々見つかる。これから、本当の意味の論理(ロジカル・シンキング)とは、必ずソクラテスのように、短答式の問いを重ねる方法しかないことが分かる。

このように私はプラトンから話し方、つまり弁論術の学ぶという観点で勧めるのだが、そのような意見は今まであまり言った人はいないだろう。なぜ、今までこういうことをが言われなかったのかといえば、プラトンを哲学的観点、つまり倫理、政治、形而上学、認識論の観点からしか見なかったからだ。哲学的観点からは、上に挙げた『イオン』『メノン』『ラケス』などの失敗作はほとんど評価されず、もっぱら重厚感のある『国家』やソクラテスの倫理観の結晶である『ソクラテスの弁明』を畏敬して取り上げる、という姿勢であった。

私は、活き活きとした弁論術の実例を、それも人類の歴史上で最高傑作ともいえる実例を知ることのできる書としてプラトンの対話篇を読むことを強く勧める。

【参照ブログ】
想溢筆翔:(第21回目)『粘土言語とレンガ言語』
想溢筆翔:(第14回目)『外国語会話上達にもつながる弁論術のポイント』

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沂風詠録:(第335回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その40)』

2021-03-21 15:02:24 | 日記
前回

F-1.フランス語辞書

F-1-3 Jean Girodet, "LOGOS -- Grand Dictionnaire de la langue française"

フランス語の仏仏辞書では、前々回に紹介した"Le Petit Robert"がほぼ寡占状態と言っていいだろう。調査した訳ではないので、私の個人的な感覚からしかいうことができないが、寡占状態は日本だけでなくフランスも含め世界全体でもそうではないだろうか。確かに"Le Petit Robert"は素晴らしいとは思うものの、競争がないと向上しないものだ。その意味で、今回とりあげる LOGOSの仏仏辞書は、"Le Petit Robert"の強力なライバルとなり得る存在だと思う。



元来は、Bordasという会社から3冊本で出版されたが、 1984年に駿河台出版社が『ロゴス仏仏大辞典』という1冊本で出版した。3000ページを超える大冊で、厚さは20cm 近くあり、重量も3.3Kgもある。流石に、Unabridged Webster の6Kgには及ばないものの、一冊本としては、最重量級の辞書の一つと言える。

この辞書(以下、LOGOS)は隅々にまで気配りが見られる。その中には他の辞書には見られないような特徴的な項目もある。それらを網羅的に挙げることはできないが、気づいた点を挙げてみよう。

1.語源欄

すでに述べたように、フランス語の辞書には語源欄はないか、あるいはあっても非常に簡単なものが多い。LOGOSも例外ではなく、語源欄は英語のものより簡素である。それでも "Le Petit Robert"よりは充実していると言える。ただ、わずかに不満なのは ― 現代の辞書に共通ではあるが ― ギリシャ語をローマ字で書いていることだ。ギリシャ文字はわずか20数文字であるが、それでも読めない西洋人が多いので、ローマ字表記にしているのだ。ローマ字で書かれた日本語を読むほどの違和感は感じられないが、それでもローマ字で書かれたギリシャ語は読みにくい。

2.分野の指示

同じ単語でも使われる分野でニュアンスが異なる場合がある。
例えば、connaissance では9項目に分けて意味が説明されているが、そのいくつかには分野を示す指示語がついている。具体的には、1. (philosophie)、 2. (dans le langage courant)、 3. (souvent au pluriel) 、 5. (droit) など。単語の意味の説明の前に、少しでもこのように分野が分かると、理解度合いがぐ~んと高まる。

3.歴史的背景の説明

言葉の辞書というのは、百科事典的な説明は極力簡単にしか載せないものだが、LOGOSでは、かなり詳細に説明する。例えば、croisade(十字軍)では200語程度のかなり詳しい説明が見られる。これによって、ちょっとした知識を得たいのであれば、わざわざ百科事典を見なくてもよい。

4.語句の豊富な説明

上で述べたような百科事典的な説明だけでなく、単語に関する説明も詳しい。例えば、chèque(小切手)の説明では、800語ほどを費やして、フランスにおけるchèque使われかたが英国と異なっている、などについて述べる。

それだけでなく、例えば、N.B. という項目をつけた説明があり、そこでは通常の辞書では見ることのできない事項を見いだせる。例えば、horloge(時計)の項では、「この単語は現在は、女性名詞であるが、元来は語源であるラテン語やギリシャ語での性(中性名詞)を考慮して男性名詞であった」と述べる。私の推測では、現在、女性名詞として horloge が用いられているのは、単にフランス語としてのつづり字が女性名詞に多い -e の形式であるからだというのではないだろうか。


5.意味の多い語の一覧表

英語では、have、set など意味が非常に多い。そのような時、説明を一つ一つ見ていくのは、非常に根気がいる。LOGOSでは、そのような単語には一覧表を掲げ、その単語の意味の全体像を一目でつかめるようになっている。



6.同じ語根の単語

同じ語根から出て、品詞や綴りが少しことなる単語を一ヶ所にまとめている。そうすると、厳密なアルファベット順にはならないが、互いの関連が明確になる。例えば、 cuisine(料理)では cuisiné(形容詞)、 cuisiner(動詞)、cuisinier(料理人)、cuisinière(レンジ)、 cuistance(料理)、cuistot(軍の炊事当番)、などがまとめられている。

このように様々な長所を持つLOGOSであるが、残念ながら本国のフランスのみならず日本でも絶版である。日本の古本市場で、ときたま 1冊本のものを見ることができるが、人気は至って低調だ。しかし、世間の人気はともかくも、内容は素晴らしい。私は数年前にLOGOSを入手してから、ずっと使っているが、非常に気に入っている。たまに、饒舌ともいえる説明にうんざりすることはあるが、説明文を物足りなく思ったことは一度もない。非常に満足しているが、語彙が多少くないかな、と思うこともある。しかし、たいていはそのような難解語彙は英語と共通なことが多いので、OEDなり Webster を引くことで解決することが多い。もっと、世に知られてよい辞書だと思う。ただ、発刊後半世紀を経過しているので、望むらくは改定して頂ければと思う。

【参照ブログ】
沂風詠録:(第280回目)『弘法に非ざれば、筆を選ぶべし』

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翠滴残照:(第5回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その4)』

2021-03-14 14:27:55 | 日記
前回

〇「ギリシャ・ローマの哲学にたどりつく」(『教養を極める読書術』 P.20)

私のリベラルアーツ道は、人生に対する認識の甘さを痛感させられた衝撃的な「徹夜マージャンの果てに」から始まった。普通であれば、そのような時には、先生や先輩など、いわば人生の先達に教えを受けようという殊勝なことを考えるであろうが、私は子供のころから自己流的に解決する性分であるので、この時も、まずは手探りで「人生の意義とは何か」という課題に取り組もうと考えた。

このテーマについては全く知識がなかったわけではなかった。ある程度目星を付けて読んだ本からギリシャ・ローマの哲学に向かう道を示された。しかしこれは幸運だったと思う。下手な鉄砲を何発か撃ったら、思いがけず金賞を射止めたようなものだ。それと同時に、私にとってラッキーだったのは、この時にドイツ語に熱中していたことだ。というのは、ドイツに留学したことで、ドイツ語をかなり正しく読むことができるようになったので、プラトン、アリストテレス、キケロ、セネカなどのギリシャ・ローマの哲学をドイツ語で十分理解することができたことだ。当然のことながら、原文は古典ギリシャ語やラテン語で書かれているが、どれも英語、ドイツ語、フランス語などの翻訳が数多く存在するので、専門家でなければ、普通は英語で読むだろうが、私の場合はドイツ語で読んだのが幸運であった。

なぜドイツ語で読んだのが幸運だったか、その理由を説明しよう。

ドイツから帰国してから数年後、今度はアメリカ留学中に、同じ書(プラトン、セネカなど)を英語で読んだ。英語は本来のヨーロッパ語(インド・ヨーロッパ語族)が持っていた格変化をほとんど喪失しているため、古典ギリシャ語やラテン語の原文のニュアンスを活かす訳文は原理的に作れない。喩えて言えば、クラシック音楽のバイオリン音楽を三味線、あるいは胡弓で演奏しているような、ぎこちなさを感じる文章があちこちに見られる。それに反し、今だに格変化(と冠飾語)を残しているドイツ語では、原文にかなり忠実に訳すことが可能である。この「忠実に訳された」ドイツ文は思わぬ恩恵を私にもたらした。

プラトンの対話篇をシュライヤーマハーが訳したドイツ語で読んでいると、ときどき非常に奇妙な(大阪弁でいう「けったいな」)文章に出会った。当時、古典ギリシャ語を全く知らなかった私は、「これは、シュライヤーマハーが原文を理解せずに訳したか、あるいは、元来プラトンがこのように書いたのかをシュライヤーマハーがプラトンの文章を構文通りに律儀に訳した、かのどちらかだ」と思ったが、どちらであるかを決めることができなかった。それまでに、ドイツ語の文章はかなり読み込んでいたので、ドイツ語の読解力にはかなり自信がついていたので、理解できないようなドイツ文には出会って非常にショックであった。後に、アメリカ留学中では英語でプラトン全集を読んだが、どこにも「けったいな」文章に出会うことはなかった。つまり、格変化を喪失した英語ではギリシャ語の構文を律儀に訳すことは、原理的に不可能なので、意訳せざるを得ないので、ごつごつした文章も「すらり」とした普通の文章になってしまうのである。結局、この時の衝撃が 20年後に古典ギリシャ語を真剣に学び始める端緒となり、シュライヤーマハーがプラトンの原文を律儀に訳したためにごつごつとしたドイツ文になったと突き止めることができた。



さて、西洋哲学を学ぶのに、近代の哲学者や思想家ではなく、最初からプラトンに取り組んだことは、ヨーロッパ精神の本質をつかむ上では非常に幸運だったと感じる。よくプロの料理家は「素材を味わう」料理がよいというが、プラトン、つまりソクラテス、が取り上げたテーマこそが西洋哲学の素材であり、近代哲学者の思想はどちらかといえば、ソースで勝負していることに該当する。料理も同じだが、素材の味を知らずに料理を味わっても、味が素材から来ているのか、ソースなのからか理解できない。まずは、素材をきっちりと知る必要がある。プラトンの描くソクラテスは西洋哲学だけでなく、人間ならだれでも疑問に思うテーマについて対話している。そこには、小難しい単語や概念は一切なく、むき出しの真剣な議論を見ることができる。結局、加工されていない素材を上手に使い切ったのがプラトンであるということだ。

さらにプラトンの対話篇には哲学の初心者(だけでなく、哲学を真剣に学ぼうとするすべての人)にとって道しるべとなることがある。

普通、哲学書には、哲学者のたどり着いた結論だけが説明されている。絵画で言えば、完成された絵のようなものだ。完成図ではデッサンの時に書かれていた線は消されているので、画家が当初どういった構想を抱いていたのかは分からない。ところが、デッサンから完成画に至るまでの全工程が録画されていれば、どのようなイメージを抱いていたかが分かる。絵画を学ぼうとする者にとっては、その動画をみることで、絵とはどのように描けばよいかが理解できる。ちょうどそのような動画と同じく、プラトンの描くソクラテスの対話篇では、「哲学の道」をソクラテスが付き添いで導いてくれている。もっとも中には、終わりに至らず議論が途中でぽきっと折れてしまったようなものもいくつかあるが、それでも、本当の意味で哲学をするというプロセスを得心することができる。

いずれにせよ、私は初めにプラトンをシュライヤーマハーのドイツ文で読んだことに偶然とはいえ、二重の幸運を感じる。

【参照ブログ】
 【座右之銘・120】『Nusquam est, qui ubique est』


続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想溢筆翔:(第441回目)『書は4次元芸術』

2021-03-07 10:41:23 | 日記
確か有名な音楽家だったと思うが「音楽を聴くと色が浮かんでくる」という。音という聴覚で感じる次元(時間軸)にプラスして、別の視覚次元をその音楽家は感じるのだ。私も音楽は好きだがそのような感覚を味わったことはない。しかし、別の芸術で表現されている次元以上のものを感じることはある。具体的には書(書道)だ。書は、紙という2次元(つまり平面)に表現する芸術でありながら、それに加えて2次元、合計で4次元の芸術として私には感じられる。その話をしよう。

昭和30年生まれの私たちは小学校で書道の時間があった。手本を見ながら筆を運んでもなかなか、手本通りにはいかず、いつも自分の字を見るたびに嫌気がさしていたものだ。それで、高校を卒業するまで、私は自分の字には劣等感を抱いていた。それで大学の教養部の図書館で中央公論の『書道全集』を見て習字ではなく、本物の「書の美」に惹かれた。それまで、書とは手本通りに丁寧に書くことだという観念に縛られていたのだが、本物の書は自由にのびのびと書かれていた。「このような自由に書いてもいいなら、自分でも試してみたい」と思い、独学ではあるが随分と練習した。残念ながら、いまだに満足するレベルではないが、墨をすり、筆を持ち、自分の腕で書いたおかげで、書を鑑賞する力はついた。

鑑賞と言っても刊本が主流であるが、上野の国立博物館はじめ、世界各地(イギリス、アメリカ、台北)で数多くの本物の名品を目にすることができた。立派な書を 鑑賞していると、無意識の内に自分の腕に筆があり、筆跡をなぞって動くような感じになる。つまり、書を鑑賞するというのは、私には「見る・see」のではなく、筆の動きがバーチャル(仮想的)ではあるが実感できる。そのような感覚から「書は4次元芸術」であると考えるようになった。

言うまでもなく、彫刻は3次元の芸術であるが、絵画は2次元の芸術である。それは、彫刻は立体的であるが、絵画は平面のキャンパスに描くからだ。書も紙に書くので一見、2次元の芸術のように見えるが、実際に筆で書くとわかるが、実は4次元の動きをする。紙という2次元に、さらに筆の高さ方向と筆運時間という2つの次元が加わるのである。

先ほど、書を鑑賞すると自分の腕が動くような錯覚を感じると言ったが、それは2次元の画像から、墨の濃さやかすれで筆の縦方向の動き(深さ方向)と筆運びの速度が逆算できるのである。工学的にはこれを逆問題という。例えば、車の塗装ロボットを考えてみよう。時々刻々の腕の動きを xyz の3次元で指定して塗装するのは順問題という。これは誰でもプログラミングすることができる簡単な問題だ。しかし、これだと曲部や隅部に腕が滞留しすぎて、塗装が厚くなりすぎたり、逆に、大きなカーブでは塗装がかすれてしまったりする。それで、塗装厚さを一定にする、という結果を指定して、腕をどう動かせばよいのかを計算するのが逆問題だ。書道にある程度上達すると、出来上がった書から筆の動きを逆に推測する ― つまり逆問題を解く ― ことができる。博物館で名人の本物の書を見ると、私は無意識の内にこの逆問題を解いて、腕が動くように感じるのである。

それから分かったのが、中国の書と日本の書の大きな差は、形というより、筆運びの「ボラティリティ」の差だ。ボラティリティとは、金融の世界で使われている単語で、ざっくり言えば変化分のことだ。例えば、株価は朝から晩まで刻々と変動するが、一日の終わりで振れ幅を見て、高値と安値の幅の大きい時は「ボラティリティが大きい」といい、小さい時は「ボラティリティが小さい」と言う。

中国の書というのは、概してボラティリティが大きく、日本の書は逆にボラティリティが小さい。つまり、中国の書は一字の中でも、あるいは書全体においても、線の太さ、運筆の緩急、の差が激しいということだ。さらに、特に草書や行書において甚だしいのは、字の形の歪みだ。歪みというとネガティブイメージを与えるが、「創造的な形」と言えばいいだろう。楷書の形からかなり外れていることが、躍動感のあふれる字形をしている。

このような例をいくつか挙げてみよう。(黄庭堅、米芾、毛沢東)


黄庭堅「花氣薰人帖」,2012年獲文化部指定為國寶。 圖/故宮提供


『呉江舟中詩巻』(部分)米芾書(メトロポリタン美術館蔵)


毛沢東の書

ボラティリティの大きさは、草書や行書に顕著であるが、一般的にはボラティリティが小さいと思われている楷書にもみることができる。唐の名手、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」に見られる冠という字などは、その一例と思える。


欧陽詢 九成宮醴泉銘

ボラティリティの大きいこれら中国の書は、日本人には至って馴染みにくいだろう。実際、初めてこれらの書を目にしたとき、私にはとても立派な書だとは思えなかった。つまり、あまりにも筆の大きな動きに、仮想的に動くはずの私の腕が追随できなかったのである。というのは、日本人にはひらがなは言うまでもなく、日本流の漢字の穏やかな流れが書だという感覚があるからであろう。とりわけ、江戸時代には官庁の文書がすべてお家流に統一されたため、庶民が目にするものまですべてがお家流となった。その元祖というべき書が藤原行成の書だ。


藤原行成 お家流の源流


絵入文章 日本往来 御家流

中国と日本の書を比べてみると、明確な差が感じられる。中国の書の動きの激しさに対して、日本の書は穏やかだ。敷衍すれば、この差は何も書だけに見られるのではなく、社会全般に見られる両国の庶民の気質の差でもある。私は、以前からリベラルアーツとは、「各文化圏のコアをつかみ、そこから最終的に、自分なりの世界観、人生観をつくることである」と主張している。その一つの良い方法が「物(ブツ)から文化のコアをつかむ」ことだと述べているが、その一端が日中の書道の差にも歴然と現れている。

【参照ブログ】
想溢筆翔:(第20回目)『その時歴史が、ズッコケた』
百論簇出:(第201回目)『物(ブツ)からつかむ文化のコア』
百論簇出:(第207回目)『物(ブツ)と比較から修得するリベラルアーツ』
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする