限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第170回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その1)』

2012-07-08 15:41:01 | 日記
このブログ『限りなき知の探訪』ではグローバルリテラシーやリベラルアーツ、教養などに関するテーマが多い。ところが、困ったことにこれらの語句について人によって定義が違う。例えば、リベラルアーツと教養が同じだと考えている人もいれば、グローバルリテラシーとは英語で自分の意見を発信することだ、と考えている人もいる。つまり、これらの語句についてはだれもが共有する定義がなされていないのが現状だ。それで、人と話していて、どうも私の考えている内容が伝わらない。

そこで、今回、これらの単語について、私なりの定義を紹介しようと思う。当然のことながら、これらの定義は私の個人的な考えの反映であり、世の中の定義と一致しない点もあることは承知されたい。



さて、これらの3つ(グローバルリテラシー、リベラルアーツ、教養)の関係を鷲づかみすると上図のようになる。

この図から分かるように、包含関係から言うと、これら3つの単語はグローバルリテラシーはリベラルアーツを含み、そのリベラルアーツは教養を含む。数学記号を使えば、
 グローバルリテラシー ⊃ リベラルアーツ ⊃ 教養
のようになる。

もう少し細かくみると、グローバルリテラシーはグローバル視点・グローバル思考とリベラルアーツの2つのコンポーネントから成り立つ。そしてリベラルアーツはリベラル(自由精神)と教養の2つのコンポーネントから成り立つ。そして最後に、教養は多様な分野の知識を横断的に横串を通しながら収集し、それらをぎゅっと集約して、各文化のコアとなる概念をつかみとるのが教養と呼ばれる。

以上の説明でこの2つの語句の関連性が理解されたとして、次は個々の語句について補足的な説明を加えたい。

まず、グローバルリテラシーであるが、私が今年の春(2012年3月)まで京都大学で行っていた授業に『国際人のグローバル・リテラシー』というのがあった。グローバルというタイトルを掲げたのは、当然のことながら、今後の日本および日本人は一層、国際的な視点で考えていかなくてはならないからである。日本だけで通用する考えは捨てて地球規模の視点(グローバル視点)で物事を考える(グローバル思考)必要があるということを強調したかったためだ。グローバルを強調すると、つい、日本の文化や伝統をないがしろにしていると反発する人がいるが、私の趣旨は、国際社会で日本の立場を理解して、納得してもらえるような議論ができる人を育てる必要がある言っているだけだ。

グローバル視点・グローバル思考といった時、一番重要なのは、物事を根本から考えるということである、と私は考えている。単に情報や知識が豊富だというのではなく、相手が納得しない時に、とことん話をして相手の理解を得ることができるかが、問われている。その為には、普段から次のようなことを心掛けている必要がある。つまり、人から聞いただけのことを深く考えもせずにしゃべっていないか?あるいは、『何故そう考えたか?』と聞かれて説明できるか?また『本当に、それ以外の考え方はないのか?前提条件が間違っていたらどうなるのか?』と視点や立場を変えて考えたかどうか、が問われる。この時、気をつけないといけないのは、我々は無意識のうちに日本の伝統的な考え方に囚われてしまっている、ということだ。世界を見渡してみると、我々の考えとは随分異なった考え方をする人達がいるものだ。

例えば、ユダヤ人には『全員が賛成の案件は却下する』という不文律があるそうだ。つまり、全員が賛成するというのは、どこかに見落としがあるはず、と考えるのだ。何も危険も不安材料もそんなうまい話が、易々ところがっているはずはないと彼らは逆に用心して却下するのだ。一方、日本人だと全員賛成と言うとこれ以上良い案件はないと大喜びしてとびつくところであろう。この例で私が言いたいのは、日本人の考え方が全ての文化圏に通用するという思い込みは捨てないといけないということである。
(但し、上のユダヤ人の不文律は山本七平の『日本人とユダヤ人』の文句であるので、本当かどうか不明ではある。)

物事を根本から考えるくせがついたら、次に重要なのは、自分の考えを、相手に理解してもらえるように話す(deliver)ことである。世間では、『人に理解してもらえるように話す=ロジカルシンキング』と短絡的に考えるかもしれないが私はこのような考えには賛成しない。ロジック(論理)というのは、確かに話し方の一つの要素ではあるが、全部ではない。話し方全体をを包括した概念が、レトリック(rhetoric)である。残念ながら、レトリックは『修辞学』と訳されているため、あたかも華麗な修飾語句を過剰に使った文を作ることレトリックの本質であるような感があるが、それは一面的な見方だ。

レトリックが誕生した過程を歴史的に検証すると、紀元前のギリシャ・ローマでは市民中心の政治・文化が花咲き、政治家や弁論家たちは議論に勝つための武器として弁証法 (dialectic) とレトリック(rhetoric)の2つを編み出した。とりわけ民主政治において大衆を自分の味方に惹き付けるための演説の手法としてレトリックが磨かれていった。彼らが磨いたレトリックと言えばまるで役者の独演会さながらに大衆を沸かせた。話しぶりもさることながら、彼らは大衆を自分の議論にひきこむために巧妙な喩えを次々と繰り出した。喩えというのは、ロジック(論理)と比べると厳密性においては欠ける。つまり近似解にしか過ぎないのだ。しかし、荒削りな近似解であっても的確な比喩は相手の想像力を刺激して演者の言いたい核心をずばり言い表す。

さらに比喩と共に彼らがよく用いたテクニックは自分の意見を述べる時に、さらりと複数案提示するのだ。これらの案は大抵は上策、中策、下策と名付けられる。現代用語で言うと、ハイリスク・ハイリターン策、ローリスク・ローリターン策ということになるだろう。演者は、大衆の反応を見ながら、巧みに自分の意図する方向へ操っていくことで、自分の人気を確保し、更には政敵を蹴落としていったのだ。

このように、ヨーロッパではギリシャ・ローマ以来、2000年の長きの伝統をもつレトリックは、現在では単に政治家だけでなく一般庶民もそのテクニックを身に着けている。それで、欧米の人たちと議論するときには、彼らのもつレトリックにたじろがないだけのものを我々も身につける必要がある。

さて、レトリックは何もヨーロッパの独占物ではない。ヨーロッパ以外でも、イスラム圏、インド、中国など古来からレトリックや弁論術を重要視する文化圏は多い。言い換えれば、日本だけが伝統的にレトリックや弁論術を軽視してきた。いや、軽視どころか巧みなレトリックを操るのは、忌まわしい口舌の徒であると、非常な嫌悪感を示してきたに過ぎない。一歩、国際社会にでると、拙いレトリックしか操ることができないのでは人を指導する資格はないと考えられている、と思ってよさそうだ。

以上の理由から、実践的見地から、私はグローバル視点・グローバル思考を養うにおいては、情報・知識のようなコンテンツもさることながら、表現法(delivery、レトリック)も磨く必要がある、と強調しておきたい。

続く。。。
コメント (1)
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