限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第399回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その242)』

2019-05-26 12:46:03 | 日記
前回

【341.元勲 】P.4472、AD500年

『元勲』とは「国家に大きな功績のある人」と言う意味で、日本ではとりわけ明治維新に功績のあった人を指す場合が多い。「元」には「かしら・大きな」の意味があるので「元勲」とは「とりわけ大きな功績」の意味であることが分かる。

「元勲」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。初出は漢書であるが、漢書でいう「元勲」とは蕭何を指す。蕭何は建国第一の功臣に挙げられたが、戦闘において輝かしい活躍をしたわけでもなく、また華麗な外交手腕があったわけでもない。しかし、劉邦が何度戦争に敗けてもいつも、後方から人員と物資を手ぬかりなく支援した手腕が評価されたのだ。



さて、資治通鑑で「元勲」が出てくる場面を見てみよう。

時は、南斉の末期、残虐な東昏侯が豪奢と殺戮の限りを尽くしたので、世の中だけでなく宮中も大いに乱れた。蕭道成に従って斉建国に貢献し、その後斉の柱石であった崔慧景はいつか自分も際限なき東昏侯の猜疑心に犠牲になるのではないかと恐れた。それで、ついに腹を決めて、東昏侯打倒に立ちあがった。しかし、王室の重鎮である蕭懿に敗れた。崔慧景の乱を鎮めた功績により蕭懿は、いやが上にも高い位についのたが、結局それが命取りになってしまった。

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崔慧景が死んで、蕭懿が尚書令になった。蕭懿には弟が九人いた:敷、衍、暢、融、宏、偉、秀、憺、恢。蕭懿は元勲の故をもって朝廷の一番高位に就き、蕭暢は衞尉となって、財政を握った。当時、東昏侯は宮廷のしきたりを無視して盛んに宮廷を飛び出して荒淫の限りを尽くしていたので、蕭懿に「東昏侯が外出した隙に挙兵して廃帝して、帝位にお就きなさい」と勧める人がいたが、蕭懿は耳を貸さなかった。

一方で、東昏侯の佞臣の茹法珍や王咺之たちは蕭懿が実権を握っているのを恐れて東昏侯に「蕭懿の勢力がますます増し、陛下の命ももはや風前の灯ですよ」を煽り立てた。東昏侯もそうだな、と納得し、蕭懿を始末しようと考え出した。事態は危うい方向に進んでいると察知した徐曜甫は秘かに近くの川縁に船を用意し、蕭懿に西の襄陽へ逃げるよう勧めた。しかし、蕭懿はその提案を断って「昔から人は死ぬと決まっているものだ。尚書令ともあろう者が逃亡するなんてことがあろうか!」蕭懿の弟や甥たちは逃亡の準備を怠らなかった。十月になって東昏侯は蕭懿に宮中で毒薬を下賜した。蕭懿は死に際に「わしの弟・蕭衍は雍にいるが、朝廷に禍をなすであろう」と言い残した。蕭懿の弟や甥たちはすぐさま皆、街中に隠れたが誰一人として密告する者がなかった。ただ、一人、蕭融だけは捕まって殺された。

崔慧景死、懿為尚書令。有弟九人:敷、衍、暢、融、宏、偉、秀、憺、恢。懿以元勲居朝右、暢為衞尉、掌管籥。時帝出入無度、或勧懿因其出門、挙兵廃之;懿不聴。

嬖臣茹法珍、王咺之等憚懿威権、説帝曰:「懿将行隆昌故事、陛下命在晷刻。」帝然之。徐曜甫知之、密具舟江渚、勧懿西奔襄陽。懿曰:「自古皆有死、豈有叛走尚書令邪!」懿弟姪咸為之備。冬、十月、己卯、帝賜懿薬於省中。懿且死、曰:「家弟在雍、深為朝廷憂之。」懿弟姪皆亡匿於里巷、無人発之者;唯融捕得、誅之。
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蕭懿は帝位簒奪の下心が全く無かったにも拘わらず、粛清されたのは、ひとえに猜疑心の強い東昏侯とその猜疑心を煽った佞臣どもである。

蕭懿は賜薬が下されことととっくの前から覚悟していたようだ。死に関して取り乱すことなく、実に達観していた様子だったことがここの記述から分かる。これと同じような人がいた。一時代前の宋朝の王景文も明帝からの賜薬が届いた時に、従容として死に就いた(『資治通鑑に学ぶリーダー論』P.111)。死に際にはその人の死生観だけでなく、人間性が如実に現れる。

続く。。。
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百論簇出:(第247回目)『これから哲学を学ぼうとする若者に(前編)』

2019-05-19 17:48:35 | 日記
人間の体というのは外観上、同じように見えても、機能上はかなり異なっているものだ。ここで言う「機能差」とは何も男女の性差を指すのではなく、体の中の話だ。一番分かりやすい例は、アルコールであろう。体内にアルコールを分解する酵素が少ない人は少しのアルコールですぐに真っ赤になったり、頭が痛くなったりする。

その一方で、俗称「うわばみ」のようにいくら飲んでも平気な人もいる。中国の歴史書『資治通鑑』には背は低いが、大酒豪の周維岳の話が載せられている。

閩王(王曦)の宴会で皆が酔っぱらって帰っていったが、周維岳・一人だけが残っていた。王は「周維岳は体が小さいのにどうして酒を多く飲んでも酔わないのだろう?」と不思議がった。お付きの者が「酒に別腸あり、といいまして、酒量は体の大きさとは関係ありません」と耳打ちした。王は面白がって、周維岳の体を解剖してその別腸とやらを見てみたいものだ、と言った。お付きの者は、慌てて「もし、周維岳を殺してしまえば、陛下の酒に付き合える者はいなくなりますよ」と言ったので、王も「そうなれば、わしも困るなあ」と反省したので、周維岳の腹を割く件は取りやめになった。

中国のたいていの諺・故事成句はいろいろな書物に載っているが、「酒に別腸あり」は私が調べた限り、ここ(資治通鑑・巻283)にしか載っていない。

酒だけでなく、牛乳も人によってかなり差が見られる。日本には、縄文の昔から牧畜文化がなかったためかもしれないが、日本人の中の1割から2割の人が牛乳を飲むと、下痢やお腹が張るようだ。そのような人には牛乳に含まれる乳糖を分解する酵素(ラクターゼ)が欠落しているのが原因だそうだ。牛乳がいくら良い栄養素をもっているといっても、消化することができなければ、体にとってはよい食物ではない。これと同じく、本も自分の知力不足で書かれている内容を消化できないのなら、良い本とは言えない。

この観点から、世の中で喧伝されている「哲学を学ぼう」という点に関して私は若干の懸念を感じる。物質的なもの、世俗的なもの、を超越したものを志向すること自体は悪いことではないが、自分の興味や知力の及ばない哲学書を無理して読むことは、あたかも酵素が無いために牛乳を飲んでも下痢してしまうのと同様の結果を招く。哲学に限らず、本というのは、自分の考えを構築するための原材料に過ぎない。本に書かれている文章を自分自身で分析できないことには、いくら時間をかけたところで、結果的には頭にも残らないし、ましてや自分なりの深い考えをつくることもできない。

しかし残念なことに世の中の「哲学の勧め」的な本で紹介されている哲学者の文章はほとんどの場合、非常に難解な言葉遣いがなされている。その一例として、哲学の最高峰と言われるカントと近代哲学の巨頭のハイデッガーの一節を見てみよう。

カントの主著『純粋理性批判』は哲学を学ぼうとする者にとっては登山家なら誰しもエベレストの登頂を夢見るが如く、一度は自分自身の力で読破したいと思う本であろう。下に日本語訳(高峰一愚)とドイツ語の原文を掲げる。日本語訳では生硬で晦渋な文章が延々と続くが、ドイツ文ではカンマ毎に部分的なコンセプトが小出しに示されているので、始めは戸惑うが、慣れてくるとドイツ語の文章は ― 単語の意味や概念は別として ― それほど難しくない文章であることが分かる。ドイツ留学から帰った年にドイツ語で通読したことは以前のブログ
 沂風詠録:(第190回目)『リベラルアーツとしての哲学(その2)』
に書いた。その後、この本の日本語訳をいくつか見たが、どれ一つとして1ページも読み通す気力がもたなかった。

図1a:カントの『純粋理性批判』先験的論理学について


図1b:カントの『純粋理性批判』先験的論理学について(ドイツ語)

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Von der Transscendentalen Logik.

Die allgemeine Logik abstrahirt, wie wir gewiesen, von allem Inhalt der Erkentniß, d.i. von aller Beziehung derselben auf das Obiect und betrachtet nur die logische Form im Verhältnisse der Erkentnisse auf einander, d.i. die Form des Denkens überhaupt. Weil es nun aber sowohl reine, als empirische Anschauungen gibt, (wie die transscendentale Aesthetik dartut), so könte auch wohl ein Unterschied zwischen reinem und empirischem Denken der Gegenstände angetroffen werden. In diesem Falle würde es eine Logik geben, in der man nicht von allem Inhalt der Erkentniß abstrahirte; denn dieienige, welche bloß die Regeln des reinen Denkens eines Gegenstandes enthielte, würde alle dieienige Erkentnisse ausschließen, welche von empirischem Inhalte wären. Sie würde auch auf den Ursprung unserer Erkentnisse von Gegenständen gehen,[56]| so fern er nicht den Gegenständen zugeschrieben werden kan; da hingegen die allgemeine Logik mit diesem Ursprunge der Erkentniß nichts zu tun hat, sondern die Vorstellungen, sie mögen uranfänglich a priori in uns selbst, oder nur empirisch gegeben sein, bloß nach den Gesetzen betrachtet, nach welchen der Verstand sie im Verhältniß gegen einander braucht, wenn er denkt und also nur von der Verstandesform handelt, die den Vorstellungen verschaft werden kan, woher sie auch sonst entsprungen sein mögen.

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次にハイデッガーの主著『存在と時間』を見てみよう。ここに示した文章は一文ごとにつっこみたくなるだろう。

「存在論的問題提起を存在的探究から形式的に区別することが、どんなに容易におこなわれたとしても、現存在の実存論的分析論の実行、とくにその開始は、困難なしではすまされません。」


Q1:存在論的問題提起、とはどういった問題を提起するのだろうか?
Q2:存在的探究とは?
Q3:存在論的問題提起を存在的探究から形式的に区別する、とは具体的にどのように区別するころだろうか?
Q4:この2つの区別の区別だけが容易でないというのはどういう理由か?
Q5:現存在の実存論的分析論、とはどういう行為なのだろうか?
Q6:「実行」の開始が難しいというが実行そのものは難しくないのだろうか?
Q7:この「実行」はどういう点が難しいのだろうか?

このように、ハイデッガーは、彼独自の特殊用語の多用もさることながら、このような文体に私はなじめず、彼の本は一冊も完読したことが無い。


図2:ハイデッガーの『存在と時間』原始的な現存在の解釈など

これら2つを見ても分かるが、日本語は近代哲学を学ぶに相応しいだけの語彙と文章構成(syntax)が不完全だと私は思っている。これは何も日本語が言語として劣っている、という訳でなく、単に向き/不向きの問題だ。例えば、俳句は日本語では簡単に作れるが、西洋語では難しい。西洋語は俳句の5-7-5基調のリズムに合致する音韻構造をもっていないことが原因だ。イスラムではアラビア語以外のコーランを認めていないが、それも同じ理由で、アラビア語以外のリズムでコーランの音律が載らないためだ。

哲学上の最大の難関は、哲学の淵源であるギリシャ哲学から綿々と続いてきた「存在・有」を解明することにある。このテーマは神の存在ともからみ、哲学だけでなく、宗教も深く関係している。長年、世界でも最高の英智をもつ(と自負している)哲学者たちが取り組んできたにも拘わらず、このテーマに関して最終的な結論はまだ出ていない。現在でもこのテーマに取り組む哲学者は多い。学者たちはここに挙げたような文章の一文づつ正確に解釈することで、先人の辿ってきた思考を細部に至るまで学びとろうとしている。そして、我こそは「存在」解明の一番乗りになろうと躍起になっている。しかし、一歩下がって、哲学の素人である我々は、必ずしも哲学の専門家と同じような姿勢をとる必要はない。「そもそも論」として、素人がこれら先人の哲学から何を得ることができるか、とゼロベースで考える必要がある。

その状況を解剖学に喩えてみよう。現代の外科医は、手足の細部の筋肉や神経の名称を知っているし、それぞれがどのように協調的に働くかも知っている。現代の医学は、今より一段と細部の筋肉や神経、血管などについての新しい知見を求めている。しかし、我々のような医学の素人はそのような細かな知識を必要とはしていない。確かに、現代の外科医学の知識は体全体の動きの解明に役立つことは否定しないが、素人にとって必要な知識とは、健康であるためには体全体をどのように保てばよいのかという、もっと根源的な所にある。その為には、やはり哲学の淵源のギリシャにまで立ち戻る必要がある。

続く。。。
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想溢筆翔:(第398回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その241)』

2019-05-12 20:54:58 | 日記
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【340.装飾 】P.4471、AD500年

『服飾』とは本来は「衣服と装身具」と意味であるが、「衣服のかざり」という意味もあるようだ。中国の辞書、辞源(2015年版)には「衣服及装飾」との定義が挙げられている。一方、辞海(1978年版)では「衣服之飾也」との説明がまず挙げられ、次いで「薦玉之飾亦曰服飾」(玉を薦むるの飾は、また服飾という)と説明する。どうやら「服飾」というのは服そのものより装飾品の方に重点があるといえそうだ。

「服飾」と「装飾」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。どちらも漢代以降に使われだした単語だと分かる。つまり先秦時代には単に「飾」という一字で表していた、ということだ。



さて、資治通鑑で「服飾」が使われている場面を見てみよう。

戦乱の南北朝時代、南朝・斉の第六代皇帝・蕭宝巻は淫乱・残忍な君主であった。それで、帝位には就いたものの、後に臣下から廃されたため、後世、東昏侯と呼ばれる。ある晩、東昏侯がいつものように寝静まった城内を ― 多分、美女を漁って ― 徘徊していたが、運悪く後宮で火事が発生した。後宮には美女(+不美人)が何千人も住んでいるが、門番は自分の判断で門を開けてしまっては美女が逃亡する。その責任を問われれば首が飛ぶので、美女たちが大声で叫んだにも構わず、門を開けなかった。翌朝になって火事が収まってから門を開けてみると、何百人もの女が重なりあって死んでいたという(資治通鑑、巻143)。

無念を抱いて焼死した女たちの怨念を祓うには豪華な宮殿を建てるのが最善の供養だと勧める者があり、東昏侯が「Good, nice idea!」と膝を打って、大々的な建築が始まった。

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東昏侯はそこで、大規模な宮殿建設に取り掛かった。芳楽殿、玉寿殿など、新しい宮殿には高価な麝香を壁に塗りこめ、さらには壁には画を彫り、装飾し、綺麗を極めた。作業員は、夜もぶっとうしで作業させられたが、それでも遅いと怒鳴られた。後宮の宮人たちの服はこの上なく豪華で、今まで見たこともないファッションであった。費用調達のため、宮中の蔵で保管してあった不要な物を売って金に換えたが、それでもまだ足りなかった。新設の宮殿の装飾のため、金銀を買い漁ったので、市中の金銀宝石の値段がたちどころに従来の数倍に跳ねあがった。都・建康(現在の南京市)の酒税は全て金(Gold)で納めさせたが、それでもまだ金(Gold)が不足した。

帝乃大起芳楽、玉寿等諸殿、以麝香塗壁、刻画装飾、窮極綺麗。役者自夜達暁、猶不副速。後宮服御、極選珍奇、府庫旧物、不復周用。貴市民間金寶、価皆数倍。建康酒租皆折使輸金、猶不能足。
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「死者の冥福を祈るには、豪華な宮殿を建てるのがよい」との発想は中国ならではの「こじつけ論」であるが、贅沢を旨とする東昏侯はこのアイデアに飛びついた。当然のことながら、そういった費用を負担するのはいつも庶民である。「むちゃくちゃな重税に庶民は号泣した」(百姓困尽、号泣道路)と資治通鑑は素っ気なく述べるが、この一行だけで、 1500年前の民の苦しみが痛いほど感じられる。いつもながら、資治通鑑のインパクトある文章は年月を越えてヴァーチャル体験をさせてくれる。

ところで、上に示した文のすぐ後に、金(Gold)で蓮華の葉を作って、その上を後宮の美女ナンバーワンの潘妃がなよなよと歩いたという「歩歩生蓮華」(歩歩、蓮華を生ず)の故事がさりげなく嵌め込まれている。表面には華やかな宮殿、艶しい美女が登場するが、裏面では苦しみあえぐ庶民が号泣していたという、強烈なコントラストがいかにも中国的である。

続く。。。
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【座右之銘・118】『志不可満、楽不可極』

2019-05-05 19:20:30 | 日記
中国の2大思想といえば、儒教と道教の2つが挙がる。一般的には儒教は厳格な礼を実践し、体制支持派であり、老荘をベースとした道教は人間の自由精神を発揮し、政治などの制約はむしろ害があると考える、と言われる。

しかし、儒教思想の代表的な書物である『論語』を読んでみると一面では老荘に近い面も見えることに驚くだろう。例えば、巻9の《微子》に「長沮、桀溺、耦して耕す。孔子、これを過ぐ。。。」という文では、聖人・孔子が逆に隠者(市井の老人)である長沮や桀溺に逆に諭されているとも読める文章が見える。確かに、孔子はそれに対して人倫重視の立場から反論を加えているものの、一節全体の調子はむしろ、二人の隠者の方に軍配を上げているように私には思える。

春秋時代からの儒教的精神は前漢の武帝の時代に初めて確立したものとなった。その際、主導的役割を果たしたのが鴻儒・董仲舒であった。董仲舒の発案で五経博士がおかれ、経学(儒教)の各分野における専門的教授が始まった。経学の中心は「礼」であった。後に宋代になると《十三経》と称する13種類の経書が確定されたが、その中には礼と名のつく書が、実に3冊(『周礼』『儀礼』『礼記』)も入っている。つまり、儒学の1/4は礼についての議論であるということになる。

その一つ、『礼記』の《曲礼》には
「敖不可長、欲不可従、志不可満、楽不可極」
(敖は長ずべからず、欲は従うべからず、志は満すべからず、楽は極むべからず)
という句が見える。

「不可」という字は「。。。できない」という意味(can not)と「。。。すべきでない」という意味(should not)の両方の意味があるが、ここでは後者(should not)であると解釈できよう。そうすると前の2句「敖不可長、欲不可従」(驕り高ぶってはいけない、我がまま言ってはいけない)は「その通り」と首肯できるものの、その次の句「志不可満」は「志は満たしてはならない」と解釈しなければならないが、普通に考えれば志(目的)は達成したいものだから、達成することを否定するのは道理に合わないのではないか、と考えるだろう。

この句「志不可満」は私は次のように解釈したい。

目的達成のために努力することは結構だが、目的を達成したあともはや何物に対しても意欲が無くなることは望ましいことではない。常に何かまだ未達成の目標があり、日々努力するような環境に身を置くことのほうが望ましいのではないかと、いうことだ。

「不完全なものの方が望ましい」というのは徒然草の82段にも次のように言っている。
 「すべて、何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず、作り果てぬ所を残す事なり」と、或人申し侍りしなり。先賢の作れる内外の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。


普通は「何不自由なく満足に暮らす」が目指すべき理想と思われているが、逆説的ではあるが「満ち足りないことがよい」とは幸せを感じるためには必要な条件かもしれない。

未確認ではあるが、中国の兵法書の『六韜』の逸文に「器満則傾、志満則覆」(器満つれば則ち傾き、志満つれば則ち覆がえる)との句が見えるという。



礼記の4つの句の最後「楽不可極」について述べよう。

漢の武帝の詩・《秋風辞》がある。
秋風起兮白雲飛   秋風 起こりて 白雲 飛び
草木黄落兮雁南帰  草木 黄落して 雁 南に帰る
蘭有秀兮菊有芳   蘭に秀有り 菊に芳有り
懐佳人兮不能忘   佳人を懐(おも)ひて忘る能はず
泛楼船兮済汾河   楼船を泛(うか)べて 汾河(ふんが)を済(わた)り
横中流兮揚素波   中流に横(よこた)はりて 素波を揚ぐ
簫鼓鳴兮発棹歌   簫鼓 鳴りて 棹歌を発す
歓楽極兮哀情多   歓楽 極まりて 哀情 多し
少壮幾時兮奈老何  少壮 幾時(いくとき)ぞ 老いを奈何(いかん)せん


武帝は、歴史的な評価としては前漢の全盛期の絶対君主であるので、不満足な点など少ないように思えるが、帝王としては息子の戻太子・劉拠と不本意な内戦で失うという哀しい出来事があった。しかし、一人の男として老境に入って人生を返りみると、「歓楽極兮哀情多」(歓楽は極まるが、哀情は多い)という心境であったようだ。

このようにみると、礼記の「志不可満、楽不可極」の句のいう心は「志も、楽しみも満たされない時が至福」と言えそうだ。卑俗な言い方になるが「宝くじは当たるまでがわくわくする」というのが近い感じなのかも。。。
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