(前回)
【341.元勲 】P.4472、AD500年
『元勲』とは「国家に大きな功績のある人」と言う意味で、日本ではとりわけ明治維新に功績のあった人を指す場合が多い。「元」には「かしら・大きな」の意味があるので「元勲」とは「とりわけ大きな功績」の意味であることが分かる。
「元勲」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。初出は漢書であるが、漢書でいう「元勲」とは蕭何を指す。蕭何は建国第一の功臣に挙げられたが、戦闘において輝かしい活躍をしたわけでもなく、また華麗な外交手腕があったわけでもない。しかし、劉邦が何度戦争に敗けてもいつも、後方から人員と物資を手ぬかりなく支援した手腕が評価されたのだ。
さて、資治通鑑で「元勲」が出てくる場面を見てみよう。
時は、南斉の末期、残虐な東昏侯が豪奢と殺戮の限りを尽くしたので、世の中だけでなく宮中も大いに乱れた。蕭道成に従って斉建国に貢献し、その後斉の柱石であった崔慧景はいつか自分も際限なき東昏侯の猜疑心に犠牲になるのではないかと恐れた。それで、ついに腹を決めて、東昏侯打倒に立ちあがった。しかし、王室の重鎮である蕭懿に敗れた。崔慧景の乱を鎮めた功績により蕭懿は、いやが上にも高い位についのたが、結局それが命取りになってしまった。
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崔慧景が死んで、蕭懿が尚書令になった。蕭懿には弟が九人いた:敷、衍、暢、融、宏、偉、秀、憺、恢。蕭懿は元勲の故をもって朝廷の一番高位に就き、蕭暢は衞尉となって、財政を握った。当時、東昏侯は宮廷のしきたりを無視して盛んに宮廷を飛び出して荒淫の限りを尽くしていたので、蕭懿に「東昏侯が外出した隙に挙兵して廃帝して、帝位にお就きなさい」と勧める人がいたが、蕭懿は耳を貸さなかった。
一方で、東昏侯の佞臣の茹法珍や王咺之たちは蕭懿が実権を握っているのを恐れて東昏侯に「蕭懿の勢力がますます増し、陛下の命ももはや風前の灯ですよ」を煽り立てた。東昏侯もそうだな、と納得し、蕭懿を始末しようと考え出した。事態は危うい方向に進んでいると察知した徐曜甫は秘かに近くの川縁に船を用意し、蕭懿に西の襄陽へ逃げるよう勧めた。しかし、蕭懿はその提案を断って「昔から人は死ぬと決まっているものだ。尚書令ともあろう者が逃亡するなんてことがあろうか!」蕭懿の弟や甥たちは逃亡の準備を怠らなかった。十月になって東昏侯は蕭懿に宮中で毒薬を下賜した。蕭懿は死に際に「わしの弟・蕭衍は雍にいるが、朝廷に禍をなすであろう」と言い残した。蕭懿の弟や甥たちはすぐさま皆、街中に隠れたが誰一人として密告する者がなかった。ただ、一人、蕭融だけは捕まって殺された。
崔慧景死、懿為尚書令。有弟九人:敷、衍、暢、融、宏、偉、秀、憺、恢。懿以元勲居朝右、暢為衞尉、掌管籥。時帝出入無度、或勧懿因其出門、挙兵廃之;懿不聴。
嬖臣茹法珍、王咺之等憚懿威権、説帝曰:「懿将行隆昌故事、陛下命在晷刻。」帝然之。徐曜甫知之、密具舟江渚、勧懿西奔襄陽。懿曰:「自古皆有死、豈有叛走尚書令邪!」懿弟姪咸為之備。冬、十月、己卯、帝賜懿薬於省中。懿且死、曰:「家弟在雍、深為朝廷憂之。」懿弟姪皆亡匿於里巷、無人発之者;唯融捕得、誅之。
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蕭懿は帝位簒奪の下心が全く無かったにも拘わらず、粛清されたのは、ひとえに猜疑心の強い東昏侯とその猜疑心を煽った佞臣どもである。
蕭懿は賜薬が下されことととっくの前から覚悟していたようだ。死に関して取り乱すことなく、実に達観していた様子だったことがここの記述から分かる。これと同じような人がいた。一時代前の宋朝の王景文も明帝からの賜薬が届いた時に、従容として死に就いた(『資治通鑑に学ぶリーダー論』P.111)。死に際にはその人の死生観だけでなく、人間性が如実に現れる。
(続く。。。)
【341.元勲 】P.4472、AD500年
『元勲』とは「国家に大きな功績のある人」と言う意味で、日本ではとりわけ明治維新に功績のあった人を指す場合が多い。「元」には「かしら・大きな」の意味があるので「元勲」とは「とりわけ大きな功績」の意味であることが分かる。
「元勲」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。初出は漢書であるが、漢書でいう「元勲」とは蕭何を指す。蕭何は建国第一の功臣に挙げられたが、戦闘において輝かしい活躍をしたわけでもなく、また華麗な外交手腕があったわけでもない。しかし、劉邦が何度戦争に敗けてもいつも、後方から人員と物資を手ぬかりなく支援した手腕が評価されたのだ。
さて、資治通鑑で「元勲」が出てくる場面を見てみよう。
時は、南斉の末期、残虐な東昏侯が豪奢と殺戮の限りを尽くしたので、世の中だけでなく宮中も大いに乱れた。蕭道成に従って斉建国に貢献し、その後斉の柱石であった崔慧景はいつか自分も際限なき東昏侯の猜疑心に犠牲になるのではないかと恐れた。それで、ついに腹を決めて、東昏侯打倒に立ちあがった。しかし、王室の重鎮である蕭懿に敗れた。崔慧景の乱を鎮めた功績により蕭懿は、いやが上にも高い位についのたが、結局それが命取りになってしまった。
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崔慧景が死んで、蕭懿が尚書令になった。蕭懿には弟が九人いた:敷、衍、暢、融、宏、偉、秀、憺、恢。蕭懿は元勲の故をもって朝廷の一番高位に就き、蕭暢は衞尉となって、財政を握った。当時、東昏侯は宮廷のしきたりを無視して盛んに宮廷を飛び出して荒淫の限りを尽くしていたので、蕭懿に「東昏侯が外出した隙に挙兵して廃帝して、帝位にお就きなさい」と勧める人がいたが、蕭懿は耳を貸さなかった。
一方で、東昏侯の佞臣の茹法珍や王咺之たちは蕭懿が実権を握っているのを恐れて東昏侯に「蕭懿の勢力がますます増し、陛下の命ももはや風前の灯ですよ」を煽り立てた。東昏侯もそうだな、と納得し、蕭懿を始末しようと考え出した。事態は危うい方向に進んでいると察知した徐曜甫は秘かに近くの川縁に船を用意し、蕭懿に西の襄陽へ逃げるよう勧めた。しかし、蕭懿はその提案を断って「昔から人は死ぬと決まっているものだ。尚書令ともあろう者が逃亡するなんてことがあろうか!」蕭懿の弟や甥たちは逃亡の準備を怠らなかった。十月になって東昏侯は蕭懿に宮中で毒薬を下賜した。蕭懿は死に際に「わしの弟・蕭衍は雍にいるが、朝廷に禍をなすであろう」と言い残した。蕭懿の弟や甥たちはすぐさま皆、街中に隠れたが誰一人として密告する者がなかった。ただ、一人、蕭融だけは捕まって殺された。
崔慧景死、懿為尚書令。有弟九人:敷、衍、暢、融、宏、偉、秀、憺、恢。懿以元勲居朝右、暢為衞尉、掌管籥。時帝出入無度、或勧懿因其出門、挙兵廃之;懿不聴。
嬖臣茹法珍、王咺之等憚懿威権、説帝曰:「懿将行隆昌故事、陛下命在晷刻。」帝然之。徐曜甫知之、密具舟江渚、勧懿西奔襄陽。懿曰:「自古皆有死、豈有叛走尚書令邪!」懿弟姪咸為之備。冬、十月、己卯、帝賜懿薬於省中。懿且死、曰:「家弟在雍、深為朝廷憂之。」懿弟姪皆亡匿於里巷、無人発之者;唯融捕得、誅之。
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蕭懿は帝位簒奪の下心が全く無かったにも拘わらず、粛清されたのは、ひとえに猜疑心の強い東昏侯とその猜疑心を煽った佞臣どもである。
蕭懿は賜薬が下されことととっくの前から覚悟していたようだ。死に関して取り乱すことなく、実に達観していた様子だったことがここの記述から分かる。これと同じような人がいた。一時代前の宋朝の王景文も明帝からの賜薬が届いた時に、従容として死に就いた(『資治通鑑に学ぶリーダー論』P.111)。死に際にはその人の死生観だけでなく、人間性が如実に現れる。
(続く。。。)