限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第263回目)『バッドの中のベストチョイス』

2021-07-25 14:06:41 | 日記
かつて、ローマはカルタゴと3次にわたり熾烈な戦争を繰り返した。とりわけ第二次ポエニ戦争では、智将・ハンニバルがアルプスを越えてイタリア半島に攻め込んできた時は、ローマは破局寸前にまで追い詰められた。というのは、カンナエの戦いで、ローマの主力軍が完膚なきまで叩きのめされた上に、ハンニバルがローマの近郊数十Kmまで攻め寄せてきたからだ。国家の存亡が掛かっているこの時にファビウス・マクシムス(Fabius Maximus)は国家の全権を一手に握るディクタトールに任命された。

智恵の塊であるようなハンニバルに対してファビウス・マクシムスがとった作戦は三国志にも例がある戦法だった。蜀の諸葛孔明が攻めてきた時、魏の司馬懿はわざと戦闘を回避して逃げ回った。故国を遠く離れて敵地で、あちこちと軍隊を移動させることを余儀なくされた孔明はほとほと疲れてしまった。司馬懿は戦うことなく、結果的に孔明に勝ったのだ。ハンニバルに対するファビウス・マクシムスの取った作戦はまさにこれであった。カルタゴ軍がイタリア半島南部のローマの同盟都市を攻撃するのをローマ軍は救援をすることなく、ただ遠くから傍観しているだけであった。この戦略は、ローマ市民の怒りをかい、ファビウス・マクシムスはクンクタトール(Cunctator、グズ)という軽蔑的なあだ名を奉られた。しかし、最終的には勢い込んで攻め込んできたカルタゴ軍は、何らなすすべなく祖国に引き返さざるを得なくなり、ザマの戦いでスキピオが率いるローマ軍に敗北した。

それから2000年ばかり経って、ナポレオンがモスクワ侵攻したとき(1812年)にもロシアも同様の作戦をとった。ロシア軍は逃げ回るだけでなく、自らモスクワの町に火を放って焦土にした。それゆえ、フランス軍と同盟軍は寒さが迫りくる秋のモスクワで、宿も食糧もなく疲労困憊した。止む無く退却したが、その途上でも寒さと飢えのため、多数の死者をだした。

この2つの事例が示すように、それぞれの市民(ローマ、およびモスクワ)にとっては、ファビウスの傍観やモスクワ炎上によって多大な被害を蒙った、バッド・チョイスであったのは間違いないが、その犠牲のおかげで強力な敵に勝ったという点ではベスト・チョイスであったと言えよう。

さて、話は変わるが、私は以前(2015年)『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』を上梓して以来、いくつかの中国史関連の著作を出版した。しかし、それらは出版社の意向によって、無理やり「嫌中論、反中論」を煽るようなタイトルを付けられたため、そのような思想を持っている人物と思われてしまったのは、心外でもあり、私の本当の気持ちが伝わらず残念に思っている。というのは、私は確かに中国(国家、民族)に対しては批判的な意見を持つが、それは何も中国だけに対して厳しいのではない。我が日本や欧米などに対しても、常に是々非々の立場で、非難すべきは非難している。


Chinese cartoonist Rebel Pepper finds artistic freedom in US


このような露払いの言葉を述べないといけないのは、現在の日本では(従来からそうであるが)多少なりとも中国の政治について好意的な評価をすると、途端に「中国寄り」と見られて「人権抑圧政府に加担する」と思われるからである。私は、現在の中国政府のウイグル、チベットに関する人権抑圧に関しては賛同しないが、大局的に見て共産党政権は中国をうまく統治していると私は評価している。

こういうと必ず反発が出るのは火を見るより明らかだが、混乱が常態であり、安定が非常事態であった中国4000年の長い歴史から見れば、現在の共産党政権下の中国は稀にみる安定した時代である。つまり、現在の中国の状態を世界と比べることがおかしいのだ。日本のような、事実上、単一民族、単一言語の小国と比べると、想像を絶するような過酷な過去を生き抜いてきた中国は、今なお過去の思いしがらみにがんじがらめになっていると、私は考える。

以前、イラクのフセイン大統領が政権を握っていた時、アメリカはクルド人虐待や大量の化学兵器の貯蔵を理由にフセイン政府を倒して、イラクを民主化させようとした。しかし、結局はイラクの人々はアメリカのこの政治介入によって得るところは全くなく、民情が一層混乱し、悲劇だけが増大した。イラクの例を持ち出すまでもなく、西欧型民主主義が良い政治体制であるというのは、あくまで人々の考え方や民度などがあるレベルにある国々に対してだけである。現在の中国は、海岸べりの都市部を除いては、全体的にはまだまだそのレベルに達していない。そういった状況では、フルセットの人権の付与よりも、生活の安寧が優先される。

私が現在の中国共産党政権を限定条件付きで評価しているのはまさにこの点である。

この意見に反対であるなら、次のような仮想実験を考えてみてほしい。現在の中国の政治を担当している政治家・官僚など上部の1万人を、日本の同等クラスの政治家・官僚と交換してみよう。中国の政治家・官僚が日本に来ても、かつての進駐軍のように、何ら深刻な問題は生じないであろう。それに反し中国に渡った日本の政治家・官僚たちは複雑な中国の実情を正しく理解できず、右往左往するうちに、各地で革命前夜のような暴動が頻発することであろう。日本や欧米のような、法治国家の政治家・官僚などは中国社会においては政治力に欠ける「でくの坊」に等しい。

確かに、現在の中国共産党は、国際的には南シナ海占有問題、発展途上国の資源確保、一帯一路にかこつけた実質的な植民地確保、など国際秩序を著しく損なう行動が多い。これは中国共産党の問題というより、中国の政治思想が元来自己中心的であり、メンツを重視するという、中国の伝統的思考を堅持しているという問題である。つまり、政治体制が習近平から替わろうと、あるいは共産党が倒れて別の組織が政権を握っても、本質的な部分は変化がないということだ。これは何も推測で言っているのではなく、史記や資治通鑑などの中国の歴史書を繙くと実例が累々と見つかる。結局、現在の中国共産党の体制下の彼等の言動の大部分は、現体制の問題というより、国家としての中国の問題であるということだ。

こういった観点に立つと、現体制(だけでなく、結党以降の中国共産党)は共産主義などは単なるスローガン・看板に過ぎず、本質は旧体制の皇帝を(たいては名目上の)頂点とした中国伝来の中華独裁政治であるということが分かる。かつては、常に腐敗政治で身動きがとれない状態に陥っていたことを考えると、曲がりなりにも(みかけだけは)安定な社会を保ち、(地球環境に多大な悪影響を及ぼしながらも)経済発展を続けている現在の共産党政権は評価すべきだと私は考える。

『後漢書』に「鉄中錚錚」という句が見える。樊崇に率いられた赤眉の乱は光武帝に鎮圧されたが、降参した樊崇を光武帝は、「卿所謂鉄中錚錚、傭中佼佼者也」(卿は所謂、鉄中錚錚、傭中の佼佼なる者なり)と評した。意味は、「お前は、クズ人間どもの中ではましな部類だなぁ」と半ば貶し、半ば褒めたのであった。これと同じ意味で、私は現在の中国の共産党政権は「バッドの中のベストチョイス」と評しているのである。

【参照ブログ】
百論簇出:(第264回目)『バッドの中のベストチョイス(続編)』
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翠滴残照:(第14回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その13)』

2021-07-18 20:26:04 | 日記
前回

〇「隠れストア派」(『教養を極める読書術』 P.55)

留学先のドイツでSchleiermacher訳のプラトンを読んで以来、ギリシャの哲学の重要性を知ることができた私は、生き方を考える上で、プラトンの対話篇、とりわけソクラテスの活き活きとした姿を描いた初期対話篇は金字塔であった。ソクラテスの崇高な倫理面だけでなく、後世、ソクラテスメソッドと呼ばれる弁償術、弁論術の面からもプラトン哲学は私を惹きつけた。プラトンを読んで以降は暫くの間、ギリシャ哲学、とりわけプラトンとアリストテレスに沈潜していた。ただ、その合間合間に読んでいたモンテーニュからセネカの「切れ味するどい警句」に何度か出会ってから、ギリシャ一辺倒からローマ(つまりはヘレニズム)哲学にも興味が湧いてきた。



幸いなことに、ドイツで購入したレクラム文庫にはセネカの著作(道徳論、道徳書簡集)がほとんど入っていた。その中で、一番手短かな
 Vom glückseligen Leben und andere Schriften
を読んだところ、数ページも進まない内に、魂が吸い込まれるような強力な魅力を感じた。その力強さに「今まで読んできた本と一体何が違うので、このように迫ってくるのか?」という疑問が強く残った。この疑問が心の奥底に突き刺さった。それを解こうとして、その後、私は「Rhetoric」(弁論術、あるいは雄弁術とも言う)にのめりこむことになるのであった。

人は誰しも言葉を使って生活をする。眼も見えず、耳も聞こえず、話すこともできなかった、かのヘレンケラーにしてもサリバン先生の手引きによって言葉というものを知ってから言葉を使って生活した。つまり、人間であるかぎり誰でも当たり前のごとく言葉を使うが、必ずしも「言葉の達人」ではない。それは誰もが歌は歌えるがプロの歌手でないのと同様だ。

ところで、私は子供のころからずっと話し方が下手であり、文章を書くことも随分苦手であった。話したいことがあるにも拘わらず、いうべきことがどうも頭の中でうまくまとまらないのである。それだけでなく、頭の中で文章がまとまらない内に意図せず口から言葉がでてしまうので、それに引きずられて話していると、いつしか本当に話したいことからずれた話しになってしまうことがしばしばあった。

セネカに感心したのは、セネカの弁論(文章)にはそれがないのだ。いつも、中心軸がぶれず、骨太の主張が次々と繰り出される。一文一文がかなり断定的な物言いであるのだ。断定的に言えるというのはそれだけはっきりと物が見えているからに他ならない。囲碁や将棋でもそうだが、ものが見えている人の打つ手(指手)は揺るがない。下手な人は、目先数手の損得によって手が揺れる。あるいは、彫刻家を例にとると、上手な彫刻家というのは石や木を彫る前からすでに頭の中に完成図ができているのだ。そのように、セネカは文章を書き始める前から文章全体が見えていたのだ。

セネカの著作は主に『道徳論集』『道徳書簡集』『悲劇+1本の喜劇』の3部から成り立つが、分量的にはそれほど多くないので、全部読むにに数ヶ月ほど時間をかければ余裕で読みとおすことができる。私は『悲劇』は興味が無かったので、飛ばして最初の2部を Reclam 版のドイツ語訳で ― 時には Loeb 版の英語で ― 何度も読みかえした。セネカを読んだといっても、この時はドイツ語訳から切れ味のするどい力強さを感じた。以前のブログ
 【座右之銘・120】『Nusquam est, qui ubique est』
でも書いたように、ドイツ文学者の故・中野孝次氏が図らずも的確な言葉でセネカの魅力を次のように述べている。

「…セネカの文章をきわだたせる特徴の一つなのだが、論を展開するところどころ、ちょうど曲がり角に当たるようなところに、セネカは必ずおそろしく切れ味のいい、一度聞いたら忘れられぬ、堅固に構築された格言、ないし箴言を要石(かなめいし)として据えておく…」



たまに、Loeb 版の英訳でセネカを読んだが、残念ながらドイツ語訳ほどの力強さは感じられなかった。これは、ドイツ語はセネカのような文体を表現するのに適している言語的な特性を備えているためと私には思える。後になって私がラテン語を独習したのは、いくらドイツ語でセネカの文章に感動を得たといっても、所詮は間接的な言葉に過ぎない。どうしても「直接セネカの言葉を聞きたい」という願望したからだ。ラテン語独習を初めてから2, 3ヶ月、文法の基本項目を押さえた後、すぐさまセネカにとりかかったが、彼のラテン語の切れ味の鋭さは期待を裏切らなかった。その意味で、セネカの片言隻句を味わうだけでもラテン語を学ぶのは価値は十分にある、と私は思っている。

いずれにせよ、セネカの文章に魅了された私は、ストア派の主知主義的で「感情を理性でコントロールする」という考え方に共感するようになった。ただ、ストア派の思想の核である宿命論と「動物には理性がない」などの考え方には未だに賛同できずにいる。さらに、セネカの影響を受け、セネカ同様、エピクロスの考え方にも同調する部分がある。その意味で「隠れストア派」と名乗るのに多少の躊躇(ためらい)があるのが偽らざる気持ちだ。

続く。。。
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百論簇出:(第262回目)『リベラルアーツ修得阻害の大敵』

2021-07-11 20:33:45 | 日記
論語の有名な句に「故(ふる)きを温めて、新しきを知る、もって師たるべし」(「温故而知新、可以為師矣)というのがある。冷えたスープを温めて飲むという動作を使って、古い知識を再度見直すという観念的な学びの方法をビジュアルに表現した。この句によって、読む人が瞬時に意味するところを理解することができる。

中国の成句にはこのような切れ味のよい比喩を使った文章が数多くある。この手法の名手の一人が荘子だ。『荘子』みずから《寓言編》で「文章の 90%は寓言である」と認めている。私だけでなく、多くの荘子に惹かれる人にとっては、荘子の魅力は何といっても、自由闊達で、切れ味の鋭い警句が次々と繰り出される点にあるといえよう。ただ、ヘタに真似ると「虎を画いて成らず、かえって狗に類する」(画虎不成反類狗)のごとく、惨めな結果を招くことになるだろう。



そのような危険性を承知ではあるが、リベラルアーツ修得の際に表れる阻害要因を比喩を使って説明してみよう。

分厚いスキヤキ鍋でスキヤキをしたとしよう。鍋をコンロで炊くと、時間がたってもなかなか鍋が熱くならない。鍋が分厚い分、温まるまで時間がかかるのであるが、もし辛抱しきれなくなって、止めてしまうと鍋には生煮えのスキヤキしか残らない。蛇足ながら物理学で説明すると、分厚い鍋は熱容量が大きいので、温度上昇が遅いのである。

ところで、企業でリベラルアーツの研修をするときによく感じるのだが、企業は研修の成果が数ヶ月のような短期間に表れてくることを期待していることだ。それとともに、研修効果を数値で測定できることだ。つまり、「リベラルアーツ研修にこれだけの投資をしたのであるから、成果はこれこれ」という実績が欲しいのだ。人の育成をあたかも、1年草である穀物の栽培するかのような感覚で即席で計量可能な効果を求めているのだが、人の育成には時間がかかりその成果は計量化できないという事は、すでに 2500年近くまえ、斉の政治家・管仲の名前で伝わる『管子』《権修》に次のように書かれている。
一年の計、穀を樹(う)うるにしくはなし。十年の計、木を樹うるにしくはなし。終身の計、人を樹うるにしくはなし。(一年之計、莫如樹穀。十年之計、莫如樹木。終身之計、莫如樹人)

この最後の句を私なりにの解釈をすると「人材育成は数十年かかり、その成果は不確実だが、それでも人の育成から力を抜いてはいけない」という意味だ。
人の知的な面の成長にはもともと時間が掛かるものであるのだが、リベラルアーツの修得にはそれにもまして長い時間を必要とする。というのも、多くの知識や情報に触れる必要がある上に、知が智に変化するのは、あたかも新酒が芳醇な古酒に変化するように長い期間が必要だ。この観点から「リベラルアーツ修得阻害の大敵」とは実は短期間で成果をもとめる「あせり」であると言っていいだろう。
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翠滴残照:(第13回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その12)』

2021-07-04 21:25:43 | 日記
前回

〇「ドグマの主体的な選択」(『教養を極める読書術』 P.55)

西洋哲学と言えば、常にギリシャの三大哲学者である、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの名が挙がる。日本人であれば、たいてい高校生の倫理社会の時間などで、この3人の名前は耳にするものの、「一体、何を話したのか?」と実体が不明なことに不安を感じるだろう。それにも増して「なぜ、今も名声が衰えないのか? 2000年以上前の彼らの思想は今もって有効なのか?」など少しでも深く彼らのことを知ろうとすると疑問がいくつも湧いてくる。釈迦であれば、現代の日本でも仏教の寺院を眼にするので、無縁の感じはしない。また、孔子は論語の「子曰く、…」の語句のいくつかは知っているので、これまた親近感は湧く。

ところが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの3人に関しては、日本で普通の生活をしている限りそういった手がかりは全くない。たまに、大学の新入生向けの「大学生に勧める100冊」のような読書案内には、例外なく(と言っていいほど)プラトンの『ソクラテスの弁明』や『饗宴』あるいは『国家』が必読書として挙げられる。アリストテレスでは主著の『形而上学』が挙げられることは少ないが『二コマコス倫理学』はたいていの場合、入っているだろう。これらの本は、著者が西洋哲学の頂点に君臨する三人 ― ただしソクラテスは自著ではないが ―だけに、読む前からすでに畏れ多い本だと権威に飲まれてしまっていることだろう。



幸いなことに、私は大学生になったころは、三人の名前だけはかろうじて知っていたものの、その業績に関しては全くの無知であったので、権威に圧倒されることなく、自分の感性のまま読み進めることができた。これら3人の著書を読んだのは、大学を卒業後、ドイル留学時にプラトンの Schleiermacher のドイツ語訳をRowohltsのペーパーバック(以下、Rororo版)で読み始めたが最初であった。この時は、留学していたこともあって、ドイツ語の読解力は十分であったので、文章自体の意味が理解できないということは無かったものの、正直なところ、コンテンツを理解できない所が多かった。それで、同じ個所を何度も読み返すことが多かった。結果的に、このように足踏みを繰り返しながらプラトンを読み進めたおかげで、ソクラテスの弁論のしかた(レトリック)、つまりソクラテスメソッドが非常によく理解できた。もし、最初に日本語でプラトンを読んでいたら、分からない個所やくどい個所は適当に飛ばして読んでいたであろうから、ソクラテスメソッドの凄さを知らずに通りすごしていた事だろうと想像する。この経験があるので、私はプラトンは日本語ではなく、英語(あるいは他のヨーロッパ語)で読むことを勧めている。

たまたま、この時幸運だったのは、このRororo版では第一巻には、有名な『ソクラテスの弁明』の他、プロタゴラス(Protagoras)、ゴルギアス(Gorgias)、イオン(Ion)、ラケス(Laches)などが入っていたため、いわばソクラテスメソッドの本丸に最初から、直接乗り込んでいくことができたことであった。世間ではプラトンというと『饗宴』と『国家』が代表作として挙げられ推奨されるが、私はこの意見には賛成しない。この2作は、ソクラテスではなくプラトンの文学的才能と思想が見事に表現されていて、その意味では「プラトンの傑作」であるとは評価するものの、ソクラテスメソッドの醍醐味を味わうことは難しい。

私がプラトンを推奨するのはなにもプラトンの思想、具体的にはイデア論や輪廻転生をベースとした記憶の想起、という考え方を知ることを目的としているのではない。プラトンを通じて、日本人に一番欠けているソクラテスメソッドを修得するためだ。プラトンの思想そのものに対して「歴史的に西洋の思想に大きな影響を与えた」という観点では評価するものの、現代でもなおかつプラトンの思想を必ずしも参考にすべき、とは考えていない。その意味で、本書のP.55に書いたように、「私はプラトンにしろ、ストア派にしろ、彼らのドグマを私自身の視点で主体的に選択している」ということだ。



実際、『プロタゴラス』+『ゴルギアス』と『国家』を比べてみると、明らかに前2著では、ソクラテスの弁舌が精彩を放っている。それは、これらの編に於ける対談相手がしっかりとした論拠をベースに強烈に反論しているからだ。それに反し、『国家』における議論は確かに哲人王統治という理想が煌々と輝いている、というのはあるにしても、ソクラテスの一方通行の議論だ。議論の相手をしているトラシュマコスやグラウコンの主張や反論はいわば気の抜けたビール程度のものだ。多少、非難めいてはいるが俗な言い方をすれば、ソクラテスの意見に「よいしょ」の合いの手を入れているだけのことだ。政治思想史の観点では、プラトンの『国家』はアリストレスの『政治学』とならんで不朽の名著との名声を恣(ほしいまま)にしているが、私の主観的評価は『プロタゴラス』や『ゴルギアス』に遠く及ばない。

結局、プラトンは、私にとっては2つの意味で重要だ。一つは、ソクラテスの信念に満ちた生き方から強靭な倫理観を学ぶ哲学書であり、もう一つはソクラテスメソッドという弁論術の根本を実例ベースで学ぶ(イオン、メノン、ラケス、なども含めて)ことができることだ。この二点において、プラトンは今後とも「まともな生き方を考えようとする人にとってはかけがえのない本である」との私の確信は揺るぐことはない。

続く。。。
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