限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第199回目)『リベラルアーツとしての哲学(その11)』

2013-02-10 22:18:50 | 日記
前回から続く。。。

【相対論や量子力学を無視する現代哲学】

現代の哲学の難解な語句や、文体の晦渋さに付け加えて、もう一つの欠点は、存在論(ontology)を議論する上で、時間や空間の概念がニュートン力学から一歩も前進していないことである。 20世紀に入って、相対性理論や量子力学の登場で、時間や空間だけでなく物質の根源に関する認識がそれ以前とは決定的に異なった。つまり、時間や空間は独立して存在しているのではなく、重力場や観察者の移動速度に大きく依存していることが分かった。さらにアインシュタインの有名な式

によって、物質の質量とエネルギーは等価だということが明らかになった。また量子力学によると、(素粒子レベルの)物質の存在は(現段階の人間には)確率論的にしかとらえることしかできないことが明らかにされた。つまり、 21世紀の現代の我々にとって、ニュートン力学が描いた世界や物質のあり方がもはや、かつての天動説のように古臭いものとなった。つまり、哲学的に存在論を論じる時に、相対性理論や量子力学に基づかない存在論は意味を失ったと言ってよい。

一方、存在論を観察者(つまり人間)から見た場合、物をどう認識するかは心(つまり脳)の問題である。感覚を通して脳に入った信号は脳内で情報処理を行なわれて初めて人間にとって認識される。その情報処理のには心理学的要素もあれば、神経科学、脳科学、遺伝子など近年に発達した生物学的要素もある。つまり、存在論を議論するというのは、今までのように哲学者が個人のレベルな感覚的・経験的に基づいた恣意的な言葉遊びであってはならないのだ。

近代科学の発達が、人間の営みの全ての点において大きな意識変革を迫ったにも関わらず、現代の多くの哲学者達は、相変わらずニュートン力学の枠組みの中で、難解な言葉をつらね、世の中の一般読者を煙に巻くだけに止まらず、自分自身も言葉遊びの袋小路から抜け出せないでいる。結局、世の哲学者と呼ばれている人たちの大多数は哲学をしているのではなく、『昔の哲学者の言ったことを後生大事に調べる』だけの考証学者にすぎない。自分の頭で考える事を放棄し、いつまでも過去の言説にしがみついている。それは、子供がいつまでたっても補助輪付きの自転車にしか乗れないでいるようなものだ。そのような『哲学屋』の唱える近代の哲学は、結局、現代の文化に全く寄与していない。このような『哲学屋』の書き散らした文章を理解しようとするのは『労多くして功少なし』である。それを、ラテン語で Nugae Difficiles という。
"Nugae Difficiles" -- matters of trifling importance over which a disproportionate amount of time may be taken owing to their difficulty.  (Source: Oxford English Dictionary)

【参照ブログ】
 百論簇出:(第100回目)『哲学者と哲学屋』



【私の独断と偏見で勧める中国の哲学書】

中国の哲学書・思想書と言えば、たいていは『論語』が挙がる。私は論語自体を否定する訳ではないが、論語を生み出した時代背景を知ることを勧めたい。具体的には、春秋・戦国時代の諸子百家の書を幾つか読んでみてほしい。中国人であるから、どの思想家も幾分かの儒的要素(古代中国人の共通観念)を分有しているのは確かだが、非常に自由な発想をしている。それも皆、人まねにでない、自分の言葉を持っている。その思想の泉に直(じか)に触れてリズム、レトリック、論理を学び取って欲しい。

中国人の考え方の基本は、我々日本人とは比較にならない位、前歴主義である。つまり、過去の『史実』に基づいた発想をする。『過去の、この事象はこのように解釈すべし』との世間の大多数が了解すれば、それが史実として定着してしまう。一旦、歴史的に断定されてしまえば、それが真実である必要はない。真実より既成事実を重視する、中国人のこの考え方が理解できると、『尭舜聖人説』や『桀紂暴君説』などが納得できる。つまり、これらの説は真実だと納得できなくとも、それに反論することは社会的な反逆児としての烙印を押されることになるから、誰も真実を突き止めようとしなかった。その結果、何千年もの間、『無誤謬真理』だと受け止められてきたのだ。同じ発想で、『青史に名を残す』ことに対して、我々日本人には信じられない位の情熱を燃やしたのが中国人である。総じて彼ら中国人の倫理観や考え方は哲学書より歴史書を読む方がよく分かるのだ。

春秋・戦国時代の諸子百家の書としては、まずは『荘子』を挙げたい。巧みな比喩を用いて、人為や欲を捨て生きることを説く。儒教であれば、短いスローガンの羅列のような『論語』より、『孟子』を勧めたい。儒者の中では孟子は荀子と並んで弁論家の最右翼である。荀子が諄々と説くのに対して、孟子は、骨太の論理で押しまくる舌論の闘士である。孟子の『公孫丑章句・上』には、『自らかえりみて縮(なお)くんば、千万人といえども吾は往かん!』(自反而縮,雖千萬人,吾往矣)という語がある。『自分の考え方が正しいと確信したなら、たとえ反対者が千万人いても実行すべし』という強い決意がここに現れている。孟子を読むと、中国や朝鮮の儒者たちが命を懸けてまで持論を押し通した、何ものをも恐れない気概が理解できる。王陽明や吉田松陰は孟子を愛読したと言われているが、彼らの言動をみると孟子の影響を強く感じる。また、儒学と言えば、英語で Neo-Confucianism と称される朱子学や陽明学があるが、これらについては、内容そのものより、後世への影響の観点から日本人としては知っておく必要あると私は思っている。

諸子百家の中では、『墨子』は今では全く注目されないが、私は、墨子は韓非子や孟子と共に、弁論では並ぶ者がないと思っている。しかし、現代人として墨子を読む必要性は彼の進歩的、人類愛的思想と、それを受け入れることができなかった中国社会との関連を考えるところにある。

墨子(墨翟)は古来、賢人として認められてきた。

例えば、史記の『秦始皇本紀』には賈誼の言葉として『陳渉は孔子や墨子の才能もない平凡な人だった。。。』(才能不及中人,非有仲尼、墨翟之賢)と言い、墨子は孔子(仲尼)と賢を並び称されている。
さらに、司馬遷は『太史公自序』で諸子百家について短いコメントを述べているが、墨子に関しては次のように好意的に記述している。

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墨者亦尚尭舜道,言其徳行曰:「堂高三尺,土階三等,茅茨不翦,采椽不刮.食土簋,啜土刑,糲粱之食,藜霍之羮.夏日葛衣,冬日鹿裘.」其送死,桐棺三寸,舉音不盡其哀.教喪禮,必以此爲萬民之率.使天下法若此,則尊卑無別也.夫世異時移,事業不必同,故曰「儉而難遵」.要曰彊本節用,則人給家足之道也.此墨子之所長,雖百長弗能廢也.

(大意:墨子は尭舜の教えを尊び、贅沢を戒め、粗衣・粗食を実践した。葬式も形式ではなく本心からの哀悼を尊んだ。墨子の教えが本当に世間に受け入れられたなら尊卑の区別がなくなったに違いない。しかし、残念ながらそうはならなかった。倹約することで生活レベルを揚げると言うのが墨子の眼目である。何人たりとも、これに異を唱えることはできないであろう。)
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墨子は世間では、『兼愛』(隣人愛)『非攻』(非戦主義)『節葬』(厚葬を否定)『非楽』(音楽を否定)などのさまざまな意見の持ち主のように言われている。また『非儒』では儒教を激しく攻撃している。しかし、全体をみれば、墨子の根本的な主張は『民に平和で豊かな暮らしをもたらす』ものであった。つまり、非攻や節葬などの言葉ではなく、本質的にどういった社会を築きたいと考えていたかという点からみれば墨子の主張は、庶民の福利厚生であった。墨子は真摯な社会改革派であったのだ。

墨子の生きた時代の現状はと言えば、戦争や権力者・富豪者の略奪が止まない日はなかった。それは根本のところ、兼愛、つまり隣人愛が欠けているからだ、と墨子は指摘する。それは、西方でイエスが唱えた隣人愛と同じ趣旨であると私には思える。ただ、墨子とイエスのそれぞれの伝統的な文化を背負っているため、二人は完全に同じ主張をしている訳ではない。墨子は中国の伝統である賢人登用による政治の安定、つまりプラトンが理想とした賢人王政治を唱えた。つまり墨子はイエスと異なりあくまでも現世での庶民の福利向上を図ろうとした。墨子のカリスマ的言動に中国人は熱狂的に惹き付けられたが、それは必ずしも墨子の思想に共感した訳ではなかったことは、墨子の没後、墨子派の勢力が急落し、湮滅してしまったことからも分かる。残念ながら墨子の思想は中国文化が浸潤したといわれる朝鮮や日本には影も形もない。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第10回目)『日本のマザーテレサ、中国のキリスト』

さて、最後に荘子の鋭い指摘に耳を傾けてみよう。

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莊子見魯哀公,哀公曰:「魯多儒士,少爲先生方者。」莊子曰:「魯少儒。」哀公曰:「舉魯國而儒服,何謂少乎?」莊子曰:「周聞之:儒者冠圜冠者,知天時,履句屨者,知地形,緩佩玦者,事至而斷。君子有其道者,未必爲其服也;爲其服者,未必知其道也。公固以爲不然,何不號於國中曰:‘無此道而爲此服者,其罪死!’」於是哀公號之五日,而魯國無敢儒服者。獨有一丈夫儒服而立乎公門。公即召而問以國事,千轉萬變而不窮。莊子曰:「以魯國而儒者一人耳,可謂多乎?」(荘子・外篇・田子方)

(大意:魯の哀公が『我が国には儒者が多い』と自慢したことに対して、荘子は『それは、外見だけ儒者の恰好をしているだけで、本物の儒者はほとんどいないはずだ。』と答えた。それを検証するために、国中に『儒者でないのに儒者の服装をした者は処刑する』とお触れをだした。数日の間に国中に儒服を着るものがたった一人しかいなくなった。その者にいろいろと質問してみると、確かに立派な儒者であった。魯に儒者は一人しかいなかったということだ。)
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この連載の(その3)で荘子が『逆相の世界観』を持っていると述べた。一例がこの話のように、世の中では儒者が多いと考えているが、荘子に言わせれば、儒者の服装をした人が多いだけで本物は少ないのだ。我々も見かけの哲学者、つまり哲学屋、に惑わされることなく、本物の哲学者の思想をじっくり辿り、人の生き方、社会のありかたについて自分なりの哲学を構築していきたいものだ。

【参考図書】 西洋哲学の流れを知るための参考図書。

○『ギリシア哲学者列伝』(上・中・下)、ディオゲネス・ラエルティオス(加来彰俊訳)岩波文庫
 ギリシャの哲学者の逸話集。中国の諸子百家よりも、もっと自由な言動が見られる。

○『哲学人』(上・下) ブライアン・マギー(須田朗監訳、近藤隆文訳)NHK出版
 (上)P.116 哲学の原初の疑問は、ほぼその歴史を通じて、「存在とは、結局のところなんであるのか?」でありつづけている。
 (下)P.38-39 カントは極めて解読し難い。『純粋理性批判』、この一冊を読む手段としても哲学を学ぶ価値はある。

『西洋哲学物語』(上・下) ウィル・デューラント(村松正俊訳)講談社学術文庫
 古代ギリシャから現代アメリカの哲学者まで網羅している読み物。

『「生きる意味」を求めて』 ヴィクトール・フランクル、諸富祥彦監訳、上嶋洋一・松岡世利子訳
 どのような状況においても、人生の意味を求めつづけるのが人の人たる所以(ゆえん)。人間の存在意義は、その人が社会に役だっているかどうかとは無関係である。

 
(了)


【参照ブログ】
 沂風詠録:(第200回目)『リベラルアーツとしての哲学(補遺)』
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1 コメント

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神はサイコロ遊びをする (ああいえばこういう熱力学)
2024-04-03 01:12:36
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。

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