限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

軟財就計:(第6回目)『私のソフトウェア道具箱(その 6)』

2022-03-27 11:56:45 | 日記
前回

本シリーズ《軟財就計》の第2回目からこれまで Britannica 第11版(11th edition)を表示するためのシステムを説明した。つまり、 Web 上に提供されるアクセス方法では、望む形式で表示できないが、自作のプログラムを組むことで、容易に「わがまま」を押し通すことができる実例を示した。このように自分でプログラムを組むことによって随分見やすい表示でBritannica 11th を読むことができ、大変うれしく思っている。

ところで、Britannica には11th 以外にも学術的に高く評価されている版がある。Wikipediaの記載によると、 11thの直前の 9th 版で"high point of scholarship"と高く評価されている。(10th 版は9thのSupplement)


この情報を目にしてから、私の持っているインディアンペーパーの11th 版の使いにくさもあって、9th版を見てみたいという欲求が高まった。そして、遂に格安で購入できた。その顛末については以前のブログ
 沂風詠録:(第339回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その 44)』
で述べた通りだ。

9th を使ってみると予想どおり、私の関心である「ギリシャ・ローマに関する知識」に関して他に見られないほど詳細に記述されていた。それまで、ギリシャ・ローマの事物に関してはドイツ語の Kleine Pauly や Artemisの Lexikon der Alten Welt で調べていたり、英語では The Oxford Classical Dictionary を参照していたことは、以前のブログ
 沂風詠録:(第314回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その 19)』
で紹介した。ただ、残念ながら英語のThe Oxford Classical Dictionary は記述内容が大いに不足しているため、参照することは稀だ。ドイツ語の2冊にはいつも満足しているが、たまに違った角度からもう少し別の情報が欲しいと思う時がある。しかし、いつもそれ以上情報がなく、立ち止まってしまわなければならないことに歯がゆかい思いをすることは一度や二度ではなかった。それで、Britannica 9th を入手した時にこの点の改善を期待したのだが、その期待は裏切られることはなかった。9thのギリシャ・ローマに関連する記述は、11th以上に幅広くかつ専門的なのが、ドンピシャ私が求めていたものであった。

例えば、古代ギリシャの政治家・弁論家であるAeschines(アイスキネス、BC 389 - 314)の項目を見てみよう。当時、アテネの政治的なパワーは落ち、マケドニアのアレクサンドリア大王が昇天の勢いでギリシャ世界を席巻していた。その勢いに呼応してアテネでは、親マケドニア派(アイスキネス)と反マケドニア派(デモステネス、Demosthenes)に別れて激しく争っていた。最終的には、デモステネスの弁論に破れたアイスキネスはロドス島に亡命し、生計のため弁論学校を開いて、弁論術を教えることとなった。 Britannica 9th にはその時の様子を次のように紹介する。

【要約】ロドス島に弁論術の学校を開いた開講の冒頭でアイスキネスは生徒たちに向かって、自分の弁論とデモステネスの弁論の2つを演じてみせた。アイスキネスの弁論に生徒たちは感嘆し、拍手をしたが、アイスキネスがデモステネスの弁論を演じると、生徒たちは総立ちになって拍手した。生徒たちの反応に、アイスキネスは内心、自尊心を傷つけられていたが平静を装い「もし君たちが、その場にいてデモステネスの弁論を聞いたらとても今の興奮どころではないだろうね」とつぶやいた。

Aeschines, after staying some years in Asia Minor, opened aschool of eloquence at Rhodes. He is said to have commenced his lectures by reading to his audience the two orations which had been the cause of his banishment. His own oration received great praise, but that of Demosthenes was heard with boundless applause. In so trying a moment, when vanity must be supposed to have been deeply wounded, he is reported to have said, with a noble generosity of sentiment, "What would you have thought if you had heard him thunder out the words himself !"



Britannica 9thはこのように、デモステネスの弁論の迫力をアイスキネス自身の言葉で表現しているが、残念なことに 11th やそれ以降の版にはこの部分がカットされている。確かに、わざわざアイスキネスの言葉を引用せずともデモステネスの雄弁さを表現することは可能だ。しかし、アッティカの10大弁論家の内の一人のアイスキネスがデモステネスの弁論がダントツであることを実演したこのエピソードこそデモステネスの雄弁さを証拠立てる歴史的価値があると私には思える。ところで、この部分の記述は、その後ローマで弁論術の教師をしていたクインティリアヌス( Quintilianus、Quintilian)が書いた、弁論術の教科書『弁論家の教育』にも引用されている(巻11、7節)。

このように、今回紹介した、アイスキネスの項目に限らず、 Britannica 9th には他の情報源からは知ることができない内容が多く含まれている。それでは、私がこの9thをどのようにして読むことができたかについて次回、説明しよう。

続く。。。
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沂風詠録:(第344回目)『ご用心!「歴史に学ぶ」の落とし穴』

2022-03-20 18:22:16 | 日記
全くうんざりするほど、NHKの大河ドラマは武将ものばかりだ。人気があるので、視聴率に自分の給料と出世がかかっているプロデューサーとしては他に代案がないのであろう。この責任は、なにも製作者ばかりに押し付けるわけにはいかない。視聴者にもある。武将ものを見ると勇気と叡智がもらえると感じるのであろう、結末が分かっているにも拘わらずついつい見入っている。

このようなドラマを好む先にあるのが、歴史探訪だ。歴史、つまり過去を知ることで、未来が読めると考えてしまう。もっとも、人間そのものはここ数万年 ― 低く見積もっても数千年 ― 変わっていないのであるから、歴史の記述から読み取れる人間性も現代にも通じるものがあるという歴史好きの主張も一応納得できる。しかし、今更言うまでもないことだが、「過去は過去、未来は未来」。全く別物だ。たとえ過去に同じことが100回起こったとしても、将来にそのままそっくり同じことが起こるという確証はない。そこが、歴史が物理現象を説明する科学などとは異なる点だ。

つまり、ある結果に至る経緯が一定しているわけではないのだ。科学的用語を使えば、歴史的事象はカオス的(カオス理論)であるのだ。カオス理論とは俗に「ブラジルで蝶が羽ばたけば、テキサスで竜巻を起こる」というような些細なことからでも大きな変化が起こることをいう。これと全く対極にあるのが、線形理論だ。昔、ハワイ出身の関取・高見山大五郎が丸八真綿のCMで「2倍2倍」と言っていたが、入力が倍になれば、出力も倍になるような単純な比例関係のことだ。つまり入力の差が小さいなら当然、出力の差も同じく小さい。要は、歴史はカオス理論まで行かなくとも、線形理論のように、単純な理論化、単純な数式化ができないのである。これは、数十年前の社会主義国崩壊で、マルクス理論が破綻したことを思い出すだけで十分であろう。

ところで、歴史といえば、数ある文明国の中でも中国人の歴史好きは超弩級と言っていいであろう。他の文明国でも歴史書は数多く残されているが、2000年以上にも渡って、国家的事業として公的な歴史書(正史)が連綿と書き継がれてきたのは中国だけと言っていい。その一つの大きな理由は、「何事も正統・権威は過去のものにある」とする中国人の歴史観、尚古趣味にある。極端なことを言えば、2000年前であれ、1000年前であれ、過去に起こったことは昨日起こったことと考慮すべき価値は全く同じだ、ということだ。



この観点に立てば、現在の状況にどう対処するかは、先ずは過去の歴史的事例を探すことから始まる、ことは容易に想像がつく。似た状況の事件の経緯・結末を調べ、現在の状況への対処のしかたを考える。しかし厄介なことに、過去に同じような状況下で同じような言動でも結果が真逆なケースが見つかることが多々ある。例えば、宋の文人・洪邁の『容斎随筆』(巻五)に次のような文が見える。

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 『容斎随筆』(巻五)《上官桀》

漢の上官桀が天子の馬小屋の管理人(未央厩の令)であった。武帝が暫くの間、病気で臥せっていた。治ってから馬を見に来たところ、多くの馬が痩せていた。武帝は大いに怒って「お前は、ワシがもう二度と馬を見れないとでも思っていたのか!」と怒鳴り、処罰しようとした。上官桀は、頓首して(頭を地面にうちつけ)、「私は、主上のお体が心配で日夜、そのことばかり考えていて、馬のことなど頭にのぼりませんでした」と言いながら、涙を流した。武帝はその態度に感じ入り、上官桀を側近に抜擢して信頼した。そしてついには幼い皇帝の昭帝を補佐するようにとの遺言まで賜った。

義縦が右内史(都知事)になった。武帝が鼎湖を行幸した。その後、長らく病気に伏せたが、治ってから甘泉に行幸した。途中の道路が整備不良でがたがた道であったので、怒って「義縦はワシが二度とこの道を行けないとでも思っていたのか!」と根にもった。そしてとうとう、他の事件にかこつけて処刑(棄市)した。

この二人は当初、罪を得たのは同じだった。上官桀は一言言うだけで抜擢され重用されたが、義縦は処刑された。幸、不幸ということだ。

漢上官桀為未央厩令、武帝嘗体不安、及愈、見馬、馬多痩、上大怒:「令以我不復見馬邪?」欲下吏、桀頓首曰:「臣聞聖体不安、日夜憂懼、意誠不在馬。」言未卒、泣数行下。上以為忠、由是親近、至於受遺詔輔少主。

義縦為右内史、上幸鼎湖、病久、已而卒起幸甘泉、道不治、上怒曰:「縦以我為不行此道乎?」銜之、遂坐以他事棄市。二人者其始獲罪一也、桀以一言之故超用、而縦及誅、可謂幸不幸矣。
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洪邁が指摘するように、二人(上官桀と義縦)は共に、漢の武帝の家臣であって、おなじように職務怠慢で叱られたが、一人(上官桀)は処罰されるどころか信任され出世したが、もう一人(義縦)は、命まで取られる始末だ。このように、歴史から教訓を学ぼうとしても必ずしも一筋縄では行かないというのが洪邁が言いたかったことなのだ。

もっとも、「歴史から教訓を学べる」と主張する人は、「二人の運命の差は、その人間性やぞれまでの言動から来ている」と言うであろう。つまり、善因善果、悪因悪果、であるから、義縦は過去に悪果を導くようなことをしているはずだとの論理だ。このような考え方は一見論理的で説得性があるようだが、数年前に起こった「池袋自動車暴走・飯塚幸三事件」を思い出してみれば、瞬時にバカげた理屈だと分かる。 2019年4月に、旧通産省工業技術院の元院長の飯塚幸三氏が車を暴走させ、松永真菜さんと娘の莉子ちゃんをひき殺した。飯塚氏は事故後、すぐに逮捕されなかったため「上級国民」と批判された。さて、この事件の被害者の松永さん親子は悪果を蒙ったのだから、悪因悪果説では二人には隠された悪因があったはずでなければならないが、そうだろうか?あるいは、最近のロシア軍のウクライナ侵攻で、ミサイル攻撃や空爆を受けて殺害されたウクライナ人も何らかの悪因があったのだろうか?

結局、全てにおいてそうだが、歴史を知らないよりは知っているに越したことはないが、前例にこだわり過ぎたり、前例を法則化する愚は避けなければならない。論語にいう「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」(過猶不及)である。
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軟財就計:(第5回目)『私のソフトウェア道具箱(その 5)』

2022-03-13 15:55:59 | 日記
前回

前回、私が自作した検索プログラムの xge を紹介したが、プログラマーの中には「検索が 2行、あるいは 3行にまたがる以外は、普通の grep と対して変わらないのでは?」と思われた方も多いであろう。しかし、うろ覚えの中国の故事成句を検索したい時、次のような状況を考えれば、xge の威力が理解できるであろう。漢文の原文は、 Web上には、例えば Wikisource では、豊富にアップロードされているので、まず、これらを漢文をダウンロードしよう。

例えば、論語は次のサイトから全文がダウンロードできる。(ただし、旧字体)
https://zh.wikisource.org/wiki/論語/

冒頭の有名な句は次の通り。
 子曰:「學而時習之,不亦説乎?有朋自遠方來,不亦樂乎?人不知而不慍,不亦君子乎?」

たとえば「子いわく、学んで時にこれを習う、また、たのしからずや…」という文句を頼りにこの文章をウェブ上に存在する、漢文検索システム、例えば台湾の「寒泉」、で検索するとしよう。


この文を見つけたい時には、次のような単語でヒットすることを期待するであろう。
 「子 学 時 習」(旧字体では、「子 學 時 習」)
残念ながら、寒泉ではこのような入力ではヒットしない。この句を見つけるには、完全な文字列、しかも旧字体で「學而時習之」を入れないといけない(最低限の文字列は、「學而時」)。字体の問題は簡単に解決できるので、さておいても、問題は、日本人が漢文を覚える時は、書き下し文を訓読みで覚えるので「而」のような字は抜け落ちてしまったり、同音異義語が正しく入力できないことだ。さらに都合の悪いことに、漢文では日本語と動詞と名詞の順序が逆転するので、正しい順序で入力することはさらに難しくなる。例えば、徒然草の第238段に出てくる「紫の、朱奪ふことを悪(にく)む」という文句を検索しようとすると
 「紫 朱 奪 悪」
という検索語を入れるであろうが、原文では「悪紫之奪朱也」と順序がかなり違う。つまり、日本語で漢文を覚えている限り、台湾の寒泉のような検索システムは使いこなすことが非常に困難であるということだ。

ところが、私の自作の xge では、訓読みで覚えている順序の検索語でも、順不同の検索をするので、確実にヒットする。更に、新漢字の入力を内部的に旧漢字に変換して検索するので、わざわざ自分で旧漢字に変換する必要はない。

一方、もし語順通りの文章を見つけたい時はどうするか?それは、別の自作プログラム mgrep を使う。 grep で扱える正規表現のような汎用性はないものの、入力の順序通りの文句を検索できる。この時、入力文字列の頭と尾(head, tail)の間の文字数を指定できるようなオプションもある。文字数を指定することで、思い出したい文句の候補を大幅に絞ることができる。それは、Google検索を使っているとわかるが、複数の文句を入れて検索すると、ヒットした文章のなかには、複数の検索語が全く別の場所に出てくるケースが多々ある。確かに、検索自体は正しいのだが、それは自分の意図しなかったような文章であることが多い。

さて、通常の grep では、検索行が画面に出力されるが、肝心の検索語がどこにあるか分かりにくい。それに対して、 Google検索では、太字で表示されるので検索語が文章のどこにあるかが一目で分かる。このような目的を達成するために extwd (Extract Word) という自作プログラムがある。これは、xge や mgrep の出力ファイルと入力として、不要な文字列は削除して、指定文字から以降の文字列だけを表示する。このように、いろいろなプログラムを組合わせることで、非常に効率よく文章検索することができる。

ところで、私は現在までに、本を8冊出版し、その多くに漢文が登場するが、それはここで紹介した各種の検索ソフト(xge、mgrep、extwd)のお陰である。文章そのものは、上で述べたように中国サイトでは溢れるばかりに見つかるし、 Google検索では、Web上すべてのファイルを対象として検索できるが、いかんせん、それだけでは私の目的とする個所はなかなか発見できない。従来、中国文学や中国歴史の研究者はいわゆる『工具書』とよばれる、辞書類や索引類を頼りに検索していたが、それらはかならずしも網羅的ではないし、たとえ見つかったとしても一部である。私のように、原文をダウンロードして検索すると、以前連載していた 想溢筆翔『資治通鑑に見られる現代用語』のように、語句の使用頻度の統計を算出することもできる。つくづく、現代の文系の研究者にとってプログラミングができることの必要性を強く感じる次第だ。

【参照ブログ】
想溢筆翔:(第315回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その158)』

続く。。。
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智嚢聚銘:(第3回目)『中国四千年の策略大全(その3)』

2022-03-06 15:31:37 | 日記
前回

前回述べたように、近年のIT技術の進展やWeb情報によって今から数百年前の明代に出版された『智嚢』を中国文学者でもない私が訳すことができたが、訳しながら「どうしてこの本がいままで翻訳されなかったのか?」と考えていた。もっとも、この本が全く翻訳されていなかった訳ではない。本文でも述べたように、中国清代史の研究者の増井経夫氏がかなり前だが、智嚢の抜粋本を2冊出版している(『「智嚢」 中国人の知恵』、『中国人の知恵とその裏側』)。ただ、これらの本は評判になったとか、重要であると認められたとかいう話は絶えて聞かない。それは、馮夢龍が無名だからというのではない。それどころか、馮夢龍の他の本は今までかなり多く翻訳されている。『笑府』のように岩波文庫にも入っている本もあるほどだ。『醒世恒言』『喩世明言』『警世通言』のシリーズは、「三言」という名で有名ですらある。そうでありながら、「この『智嚢』はどうして中国文学者の興味を惹かなかったのだろうか?」

この疑問に対する私の答えは(とりあえず)「この本には策略を駆使する中国の悪の面が凝縮されているから」と言っておこう。

それでは、どうして「悪の面」が詰まった本を中国文学者たちが翻訳するのを忌避するのだろうか?この疑問は、今回、『智嚢』を訳している時に限らず、以前、3冊出版した資治通鑑を訳している時にも同じく感じた。この疑問に対する答えを私なりに表現したのが、「漢文ファンタジー」(P.18)という文句だ。「漢文ファンタジー」は私の造語であるが、意味は:ディズニーランドの "It's a small world" のように、その世界に入ると一面ファンタジーの世界で、外界の現実のうとましさや騒々しさをすっかり忘れて美しい世界にひたることができる状態を指す。

中国文学者に限らず、外国の文学を研究する人たちは、多少の例外はあるものの、研究対象の国が大好きな人たちだ。好きという気持ちがいわゆる「贔屓の引き倒し」の諺のように、対象の国の政治・文化を理想化する。中国文学(例えば、論語や唐詩)を好きな人たちの場合、漢文ファンタジーに浸っているのだ。高校などの漢文授業では、論語、史記、唐詞、が中心となっているが、このような文章からは本当の中国の姿、現実の醜悪さはほとんど感じられない。中国文学に志す人のほとんどが、このような魅惑的な文章に誘われ、「漢文ファンタジー」に陥った人たちであろう。それゆえ、中国の醜悪な面に対して、意識的・無意識的に顔をそむけてしまうことになる。


この有名な例は京大教授であった吉川幸次郎であろう。以前のブログ 
 沂風詠録:(第45回目)『吉川幸次郎と漱石の漢詩バトル』
でも紹介したように、彼が弟子や学生に向かって『君達の国はなっとらん、わしの国では。。。』と言うときの君達というのは日本であり、「わしの国」というのは中国であったという。彼の中国文学の博識に関しては、誰もが一目置くが、その博識は決して中国という国を正しく理解することにはならなかった。端的には文化大革命を大いに持ち上げたことでも分かる。例えば、彼のあきれるばかりの中国崇拝のノー天気ぶりは、「訪中印象三則」に明かだ。

中国文学者だけに限らない。批判精神旺盛な人種であるはずのジャーナリストにもそういう人がいる。本多勝一は『中国の旅』で戦後数十年経って、中国本土を訪問し、そこで中国人の一人が「日本兵に殴られたと」説明した傷をみせられたという。その傷痕が生々しいと描写しているが、数十年経った傷が生々しいはずがない。当時、文化大革命のさ中であったので、その時の傷である可能性が高いと考えるべきだが、中国崇拝にとりつかれた彼には想到しなかったようだ。

さらに言えば、つい最近終了したNHKの大河ドラマ『青天を衝け』では渋沢栄一が取り上げられたが、渋沢は『論語』は儒教の理想形であり、まったく現実離れしていることに全く気付いていない。渋沢に限らず、一般的に日本人が考える「漢文ファンタジー」的、論語・儒教は、中国の現実の猥雑な環境から遊離して、理念だけを純粋培養したものなのだ。実際の中国では庶民は一体どのように生活しているのか、という実証的見地が全く欠落している。当時(明治期から昭和初期)の中国を見れば、各地に匪賊あったはずなのに、渋沢や吉川が出会った士人の物腰の柔らかさしか評価していない。明治期以降の日本人のこの考えは、すでに江戸期からの伝統で、地続きの朝鮮とは大きな差だ。

ついでに言うと、隣国の韓国に関していえば、現在では、K-Popブームで若者の間では韓国文化が人気であるようだが、これも一種の情報操作による「ハングル・ファンタジー」ともいえよう。「ハングル・ファンタジー」に気づいてもらうために、韓国併合以前の李氏朝鮮で起こった一つの事件を紹介しよう。

時は1636年。後に清と呼ばれることになる後金のホンタイジが李氏朝鮮に侵入した(丙子の乱)。国王の仁祖は以前、高麗の時にモンゴルが攻めて来た時のように江華島に避難しようとしたが、ホンタイジの電撃的な侵攻に、江華島に行く道を塞がれてしまった。それで、止む無くソウルの南漢山城に籠ったが、籠城準備が不十分であったため、すぐに準備食料も燃料も尽き果てた。難局を打開しようと、李朝政府の高官たちは日々協議した。そして、その会話や行動は逐一記録に残された。この漢文の原文、『丙子日記』は大正末期、日本語に翻訳されて出版された。現在、国会図書館デジタルコレクションで読むことができるし、ダウンロードも可能だ(永続的識別子 info:ndljp/pid/968126)
 『丙子日記』 朝鮮研究叢書第2巻

私はそれを読み全く呆れかえった。そこには、李朝の朝廷の高官たちのお粗末な対応や、国難でも止めない醜い内部抗争のありさまが赤裸々に書かれていた。これは何も私だけの感想ではないようで、訳者の清水鍵吉氏も序文に次のような辛辣な言葉を記している。(一部、現代かな使いに修正)
「本書は読んで面白いものではない。…全巻、ことごとく取るに足らぬくだらぬ評定を繰り返していると思わるる節もあろう。そのくだらぬ問答を吟味して、自問自答して行くと、そこに朝鮮の民族性が瞭然と展開される。ここが本書の価値の存する所である。…」

結局、2ヶ月近く抵抗したものの、寒さと飢えで困憊した李朝は全面降伏し、仁祖はホンタイジに三跪九叩頭した。その屈辱的な姿を彫った銅版「大清皇帝功徳碑」がソウル近郊の三田渡にあるようだが、一枚の銅版では窺いしれない、醜い李朝の朝廷の姿がこの本には書かれている。

続く。。。
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