(前回)
【363.著名 】P.4640、AD518年
『著名』とは「名が良く知られていること、有名なこと」という。そもそも「著」の原義は幾つもの意味があるがその内の一つに「顕明、明顕、顕露」という意味が挙げられている。また、「著」には「著作、著者」のように「撰述」(書物を書く)という意味がある。
「著名」と同じ意味の単語として「有名」「高名」がある。また反対の意味の言葉に「無名」がある。これら4つの単語を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。やはり「有名」の方が「著名」より遥かに多く使われていることがわかる。興味深いのは、「高名」が続資治通鑑には全く表われないことだ。続資治通鑑は宋から元にかけての歴史記述なので、この時代には、「高名」がほとんど使われなかったということが分かる。よく見ると、「有名」が新唐書に非常に多く使われている半面、「高名」が新唐書以降、ほとんど使われていないことから famous の意味が「有名」という単語に集約されたと推測される。
さて、資治通鑑で著名が使われている場面を見てみよう。北魏では幼い孝明帝の実母の胡太后が実権を握っていた。
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北魏の宦官の劉騰は、本は読めないがずる賢い策謀を企むことが得意な上に、人の気持ちを読み取るのが上手であった。以前から胡太后の味方になって助けたので、太后はその褒美に侍中兼右光禄大夫に昇格させた。それで政治にも容喙するようになった。賄賂を持ってくるものには、必ず官職を斡旋してやったので、誰もが喜んだ。河間王の元琛は元簡の息子で、定州の刺史となったが、強欲と放縦で著名となった。任期を終えて定州から都に戻るにあたって、太后が次のような詔を発した「元琛が定州に居た時、誰にも劣らない贅沢三昧をしたが、ただ後燕が建てたような中山宮のような立派な宮殿だけ立てなかっただけだ。それ以外の贅沢はきりがなかった。今後は一切任用しない方針だ!」とうとう元琛は家に閉じ込められてしまった。
魏宦者劉騰、手不解書、而多姦謀、善揣人意。胡太后以其保護之功、累遷至侍中、右光禄大夫、遂干預政事、納賂為人求官、無不効者。河間王琛、簡之子也、為定州刺史、以貪縦著名、及罷州還、太后詔曰:「琛在定州、唯不将中山宮来、自余無所不致、何可更復叙用!」遂廃于家。
+++++++++++++++++++++++++++
北魏の皇族の元琛は、父親の元簡の血を受け継いで、任地の定州では贅沢三昧の生活を送った。元琛の贅沢は著名であったと言われるので、任地の定州から都までその悪名は鳴り響いていたのであろう。
それで、胡太后は元琛の所業があまりにもひどいと考えて二度と知事(刺史)には任命しないように厳命した。しかるに、上の文に続けて記述されている所によると、元琛は宦官の劉騰に相当な額の賄賂を贈り、まんまと秦州の刺史のポジションを手にいれて、堂々と任地へ向かった。中国の歴史を読むときに注意しないといけないのは、詔のような正式な文章に書かれているからといって必ずしもその通りに実施されたとは限らないということだ。金や人脈しだいでそのような命令などは、どうにでもなるのがかつての、― そして、多分現在、および将来の ― 中国という国なのだ。
(続く。。。)
【363.著名 】P.4640、AD518年
『著名』とは「名が良く知られていること、有名なこと」という。そもそも「著」の原義は幾つもの意味があるがその内の一つに「顕明、明顕、顕露」という意味が挙げられている。また、「著」には「著作、著者」のように「撰述」(書物を書く)という意味がある。
「著名」と同じ意味の単語として「有名」「高名」がある。また反対の意味の言葉に「無名」がある。これら4つの単語を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。やはり「有名」の方が「著名」より遥かに多く使われていることがわかる。興味深いのは、「高名」が続資治通鑑には全く表われないことだ。続資治通鑑は宋から元にかけての歴史記述なので、この時代には、「高名」がほとんど使われなかったということが分かる。よく見ると、「有名」が新唐書に非常に多く使われている半面、「高名」が新唐書以降、ほとんど使われていないことから famous の意味が「有名」という単語に集約されたと推測される。
さて、資治通鑑で著名が使われている場面を見てみよう。北魏では幼い孝明帝の実母の胡太后が実権を握っていた。
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北魏の宦官の劉騰は、本は読めないがずる賢い策謀を企むことが得意な上に、人の気持ちを読み取るのが上手であった。以前から胡太后の味方になって助けたので、太后はその褒美に侍中兼右光禄大夫に昇格させた。それで政治にも容喙するようになった。賄賂を持ってくるものには、必ず官職を斡旋してやったので、誰もが喜んだ。河間王の元琛は元簡の息子で、定州の刺史となったが、強欲と放縦で著名となった。任期を終えて定州から都に戻るにあたって、太后が次のような詔を発した「元琛が定州に居た時、誰にも劣らない贅沢三昧をしたが、ただ後燕が建てたような中山宮のような立派な宮殿だけ立てなかっただけだ。それ以外の贅沢はきりがなかった。今後は一切任用しない方針だ!」とうとう元琛は家に閉じ込められてしまった。
魏宦者劉騰、手不解書、而多姦謀、善揣人意。胡太后以其保護之功、累遷至侍中、右光禄大夫、遂干預政事、納賂為人求官、無不効者。河間王琛、簡之子也、為定州刺史、以貪縦著名、及罷州還、太后詔曰:「琛在定州、唯不将中山宮来、自余無所不致、何可更復叙用!」遂廃于家。
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北魏の皇族の元琛は、父親の元簡の血を受け継いで、任地の定州では贅沢三昧の生活を送った。元琛の贅沢は著名であったと言われるので、任地の定州から都までその悪名は鳴り響いていたのであろう。
それで、胡太后は元琛の所業があまりにもひどいと考えて二度と知事(刺史)には任命しないように厳命した。しかるに、上の文に続けて記述されている所によると、元琛は宦官の劉騰に相当な額の賄賂を贈り、まんまと秦州の刺史のポジションを手にいれて、堂々と任地へ向かった。中国の歴史を読むときに注意しないといけないのは、詔のような正式な文章に書かれているからといって必ずしもその通りに実施されたとは限らないということだ。金や人脈しだいでそのような命令などは、どうにでもなるのがかつての、― そして、多分現在、および将来の ― 中国という国なのだ。
(続く。。。)