限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第256回目)『クインティリアヌスの「弁論家の教育」(その2)』

2020-05-31 22:05:02 | 日記
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クインティリアヌス(Marcus Fabius Quintilianus)はローマ帝政の初期に、教育熱心な父親がいる家庭に生まれた(AD 35 - 96)。当時のローマの支配者階級の子弟の教育において読み書きは必ずギリシャ語とラテン語のバイリンガルで行われた。ローマは政治的・経済的にもギリシャを圧倒していたが、文化面においてはギリシャの後塵を拝していた。弁論術においても、キケロがラテン語で立派な演説をしてギリシャと肩を並べたのは間違いないが、それでもキケロ没後 100年経っても尚、弁論術の本場はギリシャであり、それ故ギリシャ語に上達しないと弁論術においては大成できないようなありさまだった。

その証拠に、クインティリアヌスの『弁論家の教育』(Institutio Oratoria)には弁論術の述語(technical term)に多くのギリシャ語が登場する。大抵はラテン語の訳語がついているが、中には訳語がないものもある。彼らにとってはギリシャ語でも全く問題なく分かったのだろう。あたかも、現在、オペラを習う人がイタリア語の単語をそのまま使っているようなものだ。

ところで、この『弁論家の教育』という本は、古代から中世末まで断片だけしか知られていなかった。ところが、ルネサンス期の1416年、イタリアの文人・ブラッチョリーニがスイスのガレン修道院の書庫でほこりまみれになっている原本をほぼ損傷のない形で全文を発見した。ブラッチョリーニは狂喜した。ブラッチョリーニはこの本だけでなく、精力的にヨーロッパ各地を巡り、古代の貴重な写本の数々を掘り起こしては刊行した。ブラッチョリーニのおかげで全文が発見された『弁論家の教育』は修辞学の古典としてその後のヨーロッパ社会に大きな影響を与えた。ルネサンス期の巨匠・エラスムスもこの本から影響を受けたといわれる。ブラッチョリーニはルネッサンス期の人文主義の興隆に非常に大きな貢献をした人だ。
(2022/11/27 記:クインティリアヌスの『弁論家の教育』をガレン修道院で発見したのは、ペトラルカではなく、ポッジョ・ブラッチョリーニ(Gian Francesco Poggio Bracciolini)だ。ペトラルカは、キケロの友人宛ての書簡などを発見した。イタリアの文豪・ダンテはラテン語ではなくイタリア語で傑作『神曲』を書いてイタリア文学の魁となったが、ペトラルカはイタリア語(俗語)より純粋なラテン語に執心した。)

私は『弁論家の教育』を故・柳沼先生の旧蔵書 Helmut Rahnのドイツ語訳 "Ausbildung des Redners" で読んだが、非常に詳しい注がついていた。この注によると、『弁論家の教育』には弁論術の技術的な話だけにとどまらず、子供の教育、文芸批評、倫理観などについても当時のローマの教養階級の暮らしに関する実態がかなり詳細に書き込まれているという。例えば、子供の文章力増強のために、イソップの童話を読み聞かせて、子供たちが意味を理解したあとで、話を自分なりに再構成させよという。そうすることで、どのようにすれば文章が盛り上がるかを自得できるという話などは、当時の幼児教育のありかたを彷彿とさせる。

さて、この本は全体が12巻から構成されていて、それぞれの巻で特定の話題が取り上げられている。ただ、巻順を追って説明するのは平板的になるので、全体を通して読んで得た私の総合的な印象をトピック的に選んで述べようと思う。(テーマは順不同)



〇ギリシャ最大の弁論家・デモステネス

デモステネスは数多いギリシャの弁論家の中でも最高の評価を受けている。現在、デモステネスの演説が60数本が伝えられているが、この内で偽作が半分もあるという。それでも 30本近くの本物の弁論を知ることができる。クインティリアヌスはデモステネスの最大の特徴は、国を思う熱誠と力強さにあるという。所謂「国士」であるということだ。

クインティリアヌスに限らず、デモステネスはギリシャ最大の雄弁家であり、キケロはローマ最大という評価は、昔から変わることがない。ただ、この2人の弁論のやり方は全く正反対だった。デモステネスは「これ以上何も削ることがない」(つまり、最も簡潔な話しぶり)であると言われ、キケロは「これ以上何も付け加えることがない」(つまり、最も多弁な話しぶり)と評された(illic nihil detrahi potest, hic nihil adici)。言い換えれば、デモステネスの弁論には、修辞的要素がないということだ。

当時、ギリシャには有名な弁論家が多くいて、それぞれ独特の風格があった。アンティフォンは尊厳、リュシアスは簡素で優美、イソクラテスは物事に拘泥せず、流麗な口調と中庸で穏やかな物腰。伝えられるところによると、デモステネスはこれらすべての特性を備えていて、しかも、これら3人のそれぞれの特徴においてデモステネスの方が優っていたと言われる。観衆は、デモステネスの明解な論理と熱誠とをとりまぜた滔々たる演説に陶酔した。

デモステネスの演説はとにかく気迫に満ち溢れていたという。デモステネスがクテシフォンの弁護で好敵手のアイスキネスを打ち負かしたので、アイスキネスが引退し、ロドス島へ籠り、弁論術の教師として余生を送った。余興に、この時の自分の弁論を披露すると観客はみごとな弁論に感心した。しかし、その後でデモステネスの弁論を披露すると、観客は賞賛を惜しまなかった。アイスキネスは「当日のデモステネスの演説は、とてもこの程度のものではなかったよ!」と興奮する観客をたしなめた。あたかも円熟した落語家のように、デモステネスは口先三寸で観客を興奮のるつぼに巻き込んでしまう名人芸の持ち主だったのだ。(Quintilianus 11-3-7, Cicero "De Oratore" 3-213)

続く。。。

 **********

ところで、前回、「死ぬまでに読みたい本」という言葉を持ち出したが、このような本に対する私の基本方針は、極力「原語」で読むことだ。確かに、日本語で読む方が時間的に早いし、内容の理解も深まる。しかし、味読するべき本は、多少時間がかかっても、また、多少分からないところがあっても、原著者がどのような表現をしたかに興味がある。今回のクインティリアヌスのようなラテン語やギリシャ語のものは、さすがに直接読んでも分からない箇所が多いので、ドイツ語訳(Reclam、Sammlung Tusculum)あるいは英語訳(Loeb)で読むことにしている。対訳なので、いつでも原語をチェックできるというメリットがある。日本語の翻訳で読むと、原語を知りたいと思っても、探すのに非常に時間がかかるので、つい億劫になって飛ばしてしまう。しかし、本講でも述べたように、ラテン語の本文に、ギリシャ語がどの程度使われているか、ということを知るには原文を参照しないと不可能である。
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想溢筆翔:(第425回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その268)』

2020-05-24 23:15:57 | 日記
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【367.知遇 】P.4659、AD520年

『知遇』とは「人の才能や人格をすぐれたものとして認めて、その人を優遇すること」との意味。

「知遇」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。



資治通鑑で「知遇」が使われている場面を見てみよう。

 +++++++++++++++++++++++++++
魏の相州の刺史、中山文荘王の元熙は元英の息子である。弟の給事黄門侍郎の元略や司徒祭酒の元纂とともに、、清河王・元懌の恩恵を厚く受けていたが、元懌が宦官の劉騰に殺されたのに怒り、元叉、劉騰を誅殺すべしと上表して、鄴で挙兵した。元纂は鄴に逃亡した。その後十日、長史の柳元章たちが鄴に兵士を率いて太鼓を打ち鳴らして突撃して、守備兵を殺して、元熙、元纂たちを子供たちも併せて捕らえて高楼に閉じ込めた。八月、元叉が尚書左丞の盧同を派遣して元熙を鄴の街路上で息子や弟たちと共に処刑した。

元熙は文学を好み、風流なところがあったので、多くの名士が遊び集った。処刑される直前に、友人に宛てて次のような手紙を送った。
「私は、弟ともども皇太后の知遇を得た。私は大州の知事に任命され、弟は皇太后の近臣として仕えた。皇太后はとても丁重に接してくれ、その恩は慈母の如くである。しかるに今、皇太后が位をはく奪され北宮に閉じ込められ、太傅で清河王の元懌がむごく処刑されてしまった。孝明帝はまだ年若く、誰にも助けてもらえず朝廷にいる。君主がこのような状態ではとても心安らかにいられない。それゆえ、兵士や庶民を率いて大義を天下に明らかにしようと思った次第だ。ただ、智力が足りず、逆に囚われてしまった。朝廷に申し訳なく、また友人たちには情けない思いがする。本来であれば、名・義を求めていたのに、実現させることが出来なかった。腹を割き、頭を砕いても何のたしにもならぬ!世の君子諸君よ、各々の義を真剣に考え、国のため、己の身のために名節を尽されんことを!」元熙の処刑を聞いた者は皆、その不遇を憐れんだ。元熙の首が洛陽に届くと、親戚・友人の誰もが災いが降りかかるのを恐れて見に行く者がいなかったが、ただ一人、前驍騎将軍の刁整だけが元熙の死体を収容して埋葬した。刁整は刁雍の孫である。

魏相州刺史中山文荘王熙、英之子也、与弟給事黄門侍郎略、司徒祭酒纂、皆為清河王懌所厚、聞懌死、起兵於鄴、上表欲誅元叉、劉騰。纂亡奔鄴。後十日、長史柳元章等帥城人鼓譟而入、殺其左右、執熙、纂并諸子置於高楼。八月、甲寅、元叉遣尚書左丞盧同就斬熙於鄴街、并其子弟。

熙好文学、有風義、名士多与之遊、将死、与故知書曰:「吾与弟倶蒙皇太后知遇、兄拠大州、弟則入侍、殷勤言色、恩同慈母。今皇太后見廃北宮、太傅清河王橫受屠酷、主上幼年、独在前殿。君親如此、無以自安、故帥兵民欲建大義於天下。但智力浅短、旋見囚執、上慚朝廷、下愧相知。本以名義干心、不得不爾、流腸砕首、復何言哉!凡百君子、各敬爾儀、為国為身、善勗名節!」聞者憐之。熙首至洛陽、親故莫敢視、前驍騎将軍刁整独収其尸而蔵之。整、雍之孫也。
 +++++++++++++++++++++++++++

元熙は皇太后の「知遇」を受けていた。宦官の劉騰が皇太后を幽閉したために怒り、皇太后から受けた厚恩に報いるために挙兵した。しかし、おそらくは兵力は挙兵前から分かっていたことであろうが、だからといって、皇太后の窮状を黙視するわけにはいかなかった。任侠映画の世界で、よく言われる「一宿一飯の恩義」に報いるのと同じ心情から出た行為と言える。

もし事態を客観的に判断し理性的な行動をとったとしたら、つまり「だんまり」を決め込んだとしたら、中国の精神風土では、元熙は人でなしとみなされてしまうことであろう。

ハムレットは「To be or not to be」の名セリフで自分の迷いを吐露したが、元熙の場合は取る道は一つ、迷うことは許されなかった。自分自身は覚悟を決めて、行動することができるが、巻き込まれて処刑される運命の親族はやるせない気持ちでいっぱいであろう。このような状況は古今東西、世界中至る所にあったとはいえ、中国の状況は三族、九族、と称されるように巻き込まれて非命に倒れる人がけた違いに多い。

続く。。。
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百論簇出:(第255回目)『クインティリアヌスの「弁論家の教育」(その1)』

2020-05-17 17:42:34 | 日記
芝居では時たま「これをしなきゃ、死んでも死に切れぬ」と科白(セリフ)を聞くことがある。よほど、怨念のこもった対象がある時に使う言葉だ。そこまで思い込まなくても「死ぬまでに是非とも読んでおきたい本」は誰にでもあろう。既に読んでしまった本も含め、私にもこの類の本はいくつかある。思いつくままに列挙すると、東洋の歴史書としては、史記、漢書、晋書、資治通鑑などの中国のもの、朝鮮の高麗史節要、ベトナムの大越史記全書、日本の吾妻鏡など。西洋のものは、まず、哲学書としては、プラトン全集、カントの純粋理性批判、歴史書としては、リウィウスのローマ建国史、モムゼンのローマ史、ブルックハルトのギリシャ文化史、などがある。文学書としてはシェークスピア全集が挙げられる。これらの内にはまだ読み残しているのが数冊ある。この世に怨念を残さないためにも、是非とも死ぬまでに読んでしまいたいと思っている。

さて、そこまでの思い入れはないものの、先日ようやく長年の懸案であった本を読み終えた。それは古代ローマの弁論家・クインティリアヌス(Marcus Fabius Quintilianus、英:Quintilian)が書いた『弁論家の教育』( Institutio Oratoria)である。初めてこの本に出合ったのは、まだ20代のはじめのころ、ドイツ留学中であった。当時、私は自分の話し方に論理性がなく、思ったこともうまく表現できなかった。ましてや人を説得するのも至って下手であることに気づき(正直にいうと、嫌気がさし)『雄弁・弁論術』に興味を持ち始めた。その後、西洋および中国の弁論術について随分いろいろな本を読んだ。

西洋の弁論術はギリシャ哲学の黄金期(ソクラテス、プラトン、アリストテレス)とほぼ同じ時代、紀元前4世紀のデモステネス(Δημοσθενησ、デーモステネース)によって極められた。当然のことながら、デモステネス以前にもすでにギリシャには数多くの弁論家の達人がいた。デモステネスはそれら先人の弁論を学びとり、そこに自らの発案を加味してギリシャ弁論術を完成させた。その後もギリシャは数多くの弁論家や雄弁な哲学者を輩出し、文化の後進国ローマがギリシャを征服するに及んで、ギリシャ文明が怒涛の如くローマに流入し、弁論術がローマでも知識階級の教育の最重要課題となった。

そのような文化背景からヨーロッパ最高の雄弁家・キケロ(Marcus Tullius Cicero)が誕生した。キケロは、青年時代、ロドス島に留学し、哲学と弁論術を学んだ。キケロの煌めく天分に、いたく感嘆したギリシャ人の教師、アポロニウス・モロンは「もはや弁論術においてもローマはギリシャを超えた」と嘆いた。その前後、ローマでも雄弁家と言われる人が幾多も現れたが、結局、ヨーロッパ圏では誰もキケロを超えることはできず、Orator(雄弁家)はキケロの代名詞ともなった。



さて、私はドイツ留学中、キケロの本はかなり多く買ったが、キケロ以外の雄弁術や弁論術に関する本は、私の探し方が悪かったせいか、あまり見かけなかった。ただ、タキトゥスの "Dialogus de ortoribus"(雄弁家についての対話)とクインティリアヌスの『弁論家の教育』はレクラムに入っていたので、買って帰国した。レクラム版クインティリアヌスは残念ながら第10巻だけの抜粋であった。それで、数年後、アメリカ留学時に、Loeb版で4冊本で、12巻全部を購入した。帰国後は仕事が忙しく時間がなかったが 10数年経ってようやく時間的余裕ができたのでLoeb版を読み始めた。

ローマの弁論術に興味があった私は、それ以前にドイツで買ったレクラム版のキケロの "De Oratore"(弁論家について)を読み、流麗な文体に魅せられた。それで、クインティリアヌスこの本も期待して読み始めたのであるが、まったく面白くなかった。弁論家育成の指南書として過不足のない情報が盛り込まれているはずなのだが、正直なところ、逸話も少なく読ませるような山場も見当たらず、教科書風の冗長な記述が続くばかりであった。それで、2冊目の中頃あたり(第5巻)でとうとう根気が尽きてしまった。この有名な本を完読できなかったことが残念で 10年後に再度挑戦したが、今度は 1冊目を終えるまでもなく沈没した。このように、つい最近までこの本の全貌を知らずにきた。

ところが、3年ほどまえ、某社から「ギリシャ・ローマの古典を読む」という内容の講演をビデオ撮りして放映したいという要望を受けた。全部で6回( 6時間)シリーズで、その4回目は弁論術であった。弁論術に関しては上で述べたキケロ以外、アリストテレス、イソクラテスなどのギリシャ人のものや、セネカ、タキトゥスなどのローマ人のものはあらかた読んでしまっていたので、講演資料を作成するのに苦労はしなかった。ただ、その中でクインティリアヌスだけはまだ原典を読破することなく参考書ベースで資料作りをしなければならなかった。本来なら『弁論家の教育』を読むべきであるのだが、どんなに頑張っても、到底、講演の収録までに読めそうもないので、放映後も内心忸怩たるものを感じ続けていた。

このように、クインティリアヌスのこの本は喉ぼとけに刺さった小骨のように常にちくちくと刺していた。ところが、最近になって、ギリシャ・ローマの弁論術について調べ物をしているうちに、たまたま、クインティリアヌスの『弁論家の教育』のドイツ語訳本を日本の古本屋というサイトで見つけた。レクラム本は抜粋だったが、これは完本なので、ためらうことなく早速、購入した。




数日して、届いたが扉のところに前の所有者のサインと日付が
 S. Yaginuma  Sept. 11, 1975
と書き込まれてあった。ローマ字は見ただけでは分からなかったので、声を出して読んでみて初めて「あのヤギヌマさんだ!」と分かりびっくりした。 S. Yaginuma とは、間違いなく柳沼重剛(やぎぬま・しげたけ)氏だ。柳沼先生はギリシャ・ローマ古典の小気味よい名訳でファンも多いが、私もその一人だ。先生の本は単行本や文庫本で何冊か出版されたもののがありどれも精神的滋養に富む本だ。例えば、『西洋文学における古典の伝統 上・下』(筑摩叢書)という本がある。これは碩学・ギルバート・ハイエットの非常にコンテンツリッチな本で、西洋文学だけにとどまらず、哲学・宗教・社会について深い洞察があふれた好著である。読みとおすのに1ヶ月以上かかることを覚悟しないといけないが、読み終えると世界が違って見えてくること間違いない。

また、京都大学学術出版会の西洋古典叢書からアテナイオスの『食卓の賢人たち』(全5冊)という名訳も出された。これは、あるローマの貴紳たちが集ったわずか1日か2日の宴会との想定であるが、とても数日では読み終えることのできない膨大な内容だ。食事にまつわる話を主軸としながら、逸話満載で、ラブレーの『ガルガンチュワ物語』にも勝るとも劣らない、まさに奇書の名に恥じない本だ。その話題の広汎さに、並みの西洋古典学者はたじたじと尻込みしてしまうところを、先生は持ち前の洒脱さを振り絞って見事な日本語訳を完成させた下さった。 ただ、内容が内容だけに、日本語でも読むのもかなりの苦行で、途中で何度か放り投げようとした。しかし、途中で止めては精魂込めて翻訳された先生に対して失礼だと思い返して、とうとう最後まで読み通した。

先生には、直接お目にかかったことはないが、以上のような経緯で私淑している。先生はこの本を1975年購入されたと由であるが、中は至って綺麗なもので、ほとんど読んだ形跡が見られない。ぱらぱらはめくってみられたのかもしれないが、なかなかの難物であると敬して遠ざけられたのかもしれない。それで、今回、ドイツ語訳のクインティリアヌスの『弁論家の教育』を先生から譲って頂いたと思い、先生が果たせなかった読破を果たすべく、今度こそは是が非でも完読しようと胆を決めてとりかかった。しかし、予想に違わず、やはり面白くない箇所も多く、そのうえドイツ語の訳文も極めて分かりにくく、毎日苦行を続けたが、2ヶ月かけてようやく 40年越しの念願を果たすことができた。

それで記憶が新鮮なうちにこの本に関する感想をまとめてみようと思った次第である。次回からクインティリアヌスの『弁論家の教育』の内容について述べよう。

【参照ブログ】
百論簇出:(第9回目)『さんじゅつを極める』
沂風詠録:(第40回目)『弁論上達の極意は落語家を見習うにあり』
沂風詠録:(第88回目)『私の語学学習(その22)』

続く。。。
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想溢筆翔:(第424回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その267)』

2020-05-10 21:47:57 | 日記
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【366.制作 】P.3554、AD403年

『制作』とは説明するまでもなく「物を作ること」という意味。類似の単語に「製作」があるが、この差は分かりにくい。中国の辞書である辞海(1978年版)や辞源(1987年版)には「制」と「製」のどちらにも、動詞としての意味は「裁断」と載っている。ただ、名詞としては「制」には「制止、成法」などの意味があるが「製」には「撰写、著述」などの意味があり、差がみられる。しかし、辞源(1987年版)には熟語としての「制作」には「制度」の他に「著作、撰述」の意味があると説く。これだけでも結構紛らわしいのだが、さらに「制作」には「製造」の意味もあるとの説明も挙げられている。これから、「制作と製作には差がない」とも言える。

「制作」と「製作」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。この表から「制作」の方が古くから使われていて、頻度も「製作」よりも高いことが分かる。



さて、資治通鑑で「制作」が用いられている場面を見てみよう。

東晋の末期、一代の姦雄・桓温が帝位簒奪を企てたが、名臣の謝安などの機知により、野望を果たせずに世を去った。庶子の桓玄は父の無念を果たすべく、朝政を牛耳り、着々と帝位簒奪の準備を進めた。思いついたまた制度をころころと変更したが、制度は「制作」と呼ばれている。

 +++++++++++++++++++++++++++
冬・十月に楚王の桓玄がわざと自分の領地に戻りたいと上表して、安帝に慰留の詔書を書かせ(て、自分の力を誇示し)た。また「銭塘の臨平湖はいつもは草や葦が生い茂っていましたが、皆、枯れてしまいました。また江州にも甘露が降りました。これらは天下泰平の吉兆です」と、わざとニセの噂を広め、官僚たちに朝廷に出てきて参賀せよとの命令を下した。皆がおとなしく集まったことで、自分が天命を受けているのだと言いふらした。いつも天命が降りた人には隠士が集まるのに、自分には誰も近寄ってこないことを恥じて、次のような細工をした。まず、北魏の安定というところには皇甫謐という有名な隠士が住んでいたが、その六世の孫である皇甫希之に資金を提供してわざと山林に隠居させた。そしておもむろに呼び寄せて著作郎という官位を与えて、都に呼び寄せた。その裏で、皇甫希之にはその要請を固辞せよと命じた。計略どおり、皇甫希之は山林から出てこないので、今度は大げさに旌礼という特例で皇甫希之を迎えにやり、「高士」という称号で呼ぶことにした。世間の人は、この桓玄の見え見えの計略を「充隠」と呼んだ。

さらに、桓玄は銭を用いることを廃止して、穀物や絹や綿布を通貨として、過酷な刑罰を復活させた。制度(制作)が二転三転してまったく方針が一定しない。変更してはまたもとに戻し、挙句の果ては全く何も変わらずじまいだった。それだけでなく、桓玄はケチで貪欲な性格をしていた。誰かが図書や素晴らしい書画を持っていたり、立派な邸宅や庭園があると聞けば、必ずいかさま賭博を仕掛けて無理やり掠め取った。そういったなかでも、宝石類(珠玉)が何よりも好きで、常に手から離さなかった。

冬、十月、楚王玄上表請帰藩、使帝作手詔固留之。又詐言銭塘臨平湖開、江州甘露降、使百僚集賀、用為己受命之符。又以前世皆有隠士、恥於己時独無、求得西朝隠士安定皇甫謐六世孫希之、給其資用、使隠居山林;徴為著作郎、使希之固辞不就、然後下詔旌礼、号曰高士。時人謂之「充隠。」

又欲廃銭用穀、帛及復肉刑、制作紛紜、志無一定、変更回復、卒無所施行。性復貪鄙、人士有法書、好画及佳園宅、必仮蒲博而取之;尤愛珠玉、未嘗離手。
 +++++++++++++++++++++++++++

うぬぼれ強い父親・桓温の嫌な面だけでなく、子供のころから何不自由することなくわがままな育ちをした桓玄は、確固たる方針もないまま思いつくままなんでもやってみようとするが、結局は何も完遂することができずじまいであった。

これだけでも、政治家としては失格であるが、それに輪をかけて欺瞞と貪欲さによってますます人心が離れた。ここに見るように、資治通鑑はどのように欺瞞的であり、貪欲でであったかを抽象論ではなく、具体的に記述する。私は、以前から中国の歴史書が日本の歴史書に比べて格段に面白いと思っているが、その一端がこの部分に見るような具体的描写のうまさにある。

「自分では見事の騙してやった、だれにもばれることはあるまい」と自信満々に思っていても、世間にはいつかしら、そのからくりが漏れ聞こえてしまい、千古の記録に残ってしまうのが中国社会なのだ。現在の中国は共産党政権下では強力な報道制限がされているため、真実を知ることは非常に難しい。それで、世間ではあれこれと邪推するが、多分、的外れのことが多いのだろうと推測される。しかし、いつになるかは分からないが、現在の共産党政権が倒されたあと、すべての真実が明らかななると、きっと驚くような話がいくつも出てくることであろう。

さて、桓玄であるが、東晋の安帝から禅譲されて、新王朝を建てたのであるが、結局は、わずか3ヶ月で劉裕に滅ぼされてしまった。

続く。。。
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沂風詠録:(第325回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その30)』

2020-05-03 19:32:41 | 日記
前回

C-3.英語・その他の辞書

C-3-2 Samuel Hayakawa, "Modern Guide to Synonyms and Related Words"

私は1982年にアメリカのCMU(Carnegie-Mellon University)に留学したが、秋学期が始まる前の1か月半の夏休みをユタ州のソルトレーク市にある語学学校に通った。前半の3週間はモルモン教徒の家に、後半は非モルモン教徒の家にホームステイした。この時、よく聞いたのが "gentile"(ジェンタイル)という単語であった。はじめは発音が似ているので gentle かと思ったが、何度か聞くうちに、形容詞ではなく、名詞として用いているので別の単語だと分かった。そこで辞書を引くと、「異邦人、異教徒」という意味だと分かった。しかし、この意味では heathen という単語があることは知っていた。gentile との差が今一つよく分からなかった。ただ、ユタ州のようにモルモン教徒が多いところでは非モルモン教徒を gentile と呼んでいると知った。その後、 pagan という単語も「異教徒」を表すことを知った。

英文を書くのは慣れてきてもなかなかすんなりとはいかないものだ。文章は文体にこだわらないのであれば、多少文法ミスがあってもべたっと並べていけば少なくとも意味は通じるが、単語だけはそういうわけにはいかない。日本語だとすぅーっと頭に浮かんでくるような単語でも、英語ともなると脳みそが金縛りにあったごとく、まったく単語が浮かんでこないことが多々ある。そのうえ輪をかけて厄介なのが、上に挙げたように似ている単語、いわゆる類義語を選択する場合だ。



前回)紹介したように、英語にはいろいろな系統から来た単語がかなり乱雑に蓄積されている。このため、和英辞典で見つけた単語をそのまま使うのは良くない、このような時には Thesaurus をチェックすべきだと前回述べた。しかし、Thesaurus では細かい差までは分からない。そこで登場するのが今回紹介する Synonym(同義語)を解説してくれる辞書だ。

Samuel Hayakawa という日系アメリカ人が編纂した "Modern Guide to Synonyms and Related Words" という辞書がある。初版が1968年に出版されているから半世紀までになるが、現在でも Amazon.co.jpだけでなく、Amazon.com や AbeBooks.com でも古本としてかなり多く出品されている。それも、一社だけでなく数社から出されているのでかつては相当人気の辞書であったことが分かる。それを裏付けているのが、Amazon.com (ISBN: 978-0895770257)や GoodRead.com に見られる高評価の書評だ。

私がこの辞書を知ったのは最近のことであるが、早速購入して上に述べた、gentile、heathen、pagan の3つの単語の意味の差を調べた。下に示すように、噂にたがわず、非常に詳しい説明が載っていた。元来は heathen と pagan は混用されて(つまり、意味に差なし)キリスト教徒やユダヤ教徒以外の異教徒を指す言葉であったという。gentile は特にユダヤ教徒以外を指すという。その説明に加えて、この3つの単語には、類義語として、 barbarian と infidel という単語があることも分かった。



この辞書の説明は上に見るように確かに詳しいが、残念ながら収録されている単語数はそれほど多くない。例えば complex と complicated の差を知りたいと思っても、このどちらも収録されていない。この点についてはAmazon.comの書評にも失望を表している人がいる。

それで、類義語に関しては、私はたいていは以前紹介した Funk & Wagnallsの "Standard College Dictionary" をまずチェックする。今回調べた3つの単語も、下に示すように簡単ではあるが、差を的確に説明してくれている。ついでに言うと、上で挙げた complex と complicated の差の説明もちゃんと載っている。



ついでであるので、前回紹介した "Roget's International Thesaurus" の関連ページも見てみることにしよう。



このように、英語(だけでなく、一般的に西洋語)の単語の本当の意味を知ろうと思うなら、英和辞典のように日本語の枠組み内で考えても舌足らずとなる。「英単語の森」に分け入って、そして望むらくは語源まで遡って、その単語の意味や類義語との関連をしらべないと本当の意味は分からないということだ。思い返せば、中学生になって英語を習い初めてすでに50年経ったが、このごろようやくようやく英語の単語のニュアンス差が実感としてつかめるようになってきたと思えている。英語を足掛かりとして、西洋語の単語の意味を探るのは、私にとっては脳を活性化する一つの知的探検である。

【参照ブログ】
沂風詠録:(第92回目)『私の語学学習(その26)』

続く。。。
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