(前回)
クインティリアヌス(Marcus Fabius Quintilianus)はローマ帝政の初期に、教育熱心な父親がいる家庭に生まれた(AD 35 - 96)。当時のローマの支配者階級の子弟の教育において読み書きは必ずギリシャ語とラテン語のバイリンガルで行われた。ローマは政治的・経済的にもギリシャを圧倒していたが、文化面においてはギリシャの後塵を拝していた。弁論術においても、キケロがラテン語で立派な演説をしてギリシャと肩を並べたのは間違いないが、それでもキケロ没後 100年経っても尚、弁論術の本場はギリシャであり、それ故ギリシャ語に上達しないと弁論術においては大成できないようなありさまだった。
その証拠に、クインティリアヌスの『弁論家の教育』(Institutio Oratoria)には弁論術の述語(technical term)に多くのギリシャ語が登場する。大抵はラテン語の訳語がついているが、中には訳語がないものもある。彼らにとってはギリシャ語でも全く問題なく分かったのだろう。あたかも、現在、オペラを習う人がイタリア語の単語をそのまま使っているようなものだ。
ところで、この『弁論家の教育』という本は、古代から中世末まで断片だけしか知られていなかった。ところが、ルネサンス期の1416年、イタリアの文人・ブラッチョリーニがスイスのガレン修道院の書庫でほこりまみれになっている原本をほぼ損傷のない形で全文を発見した。ブラッチョリーニは狂喜した。ブラッチョリーニはこの本だけでなく、精力的にヨーロッパ各地を巡り、古代の貴重な写本の数々を掘り起こしては刊行した。ブラッチョリーニのおかげで全文が発見された『弁論家の教育』は修辞学の古典としてその後のヨーロッパ社会に大きな影響を与えた。ルネサンス期の巨匠・エラスムスもこの本から影響を受けたといわれる。ブラッチョリーニはルネッサンス期の人文主義の興隆に非常に大きな貢献をした人だ。
(2022/11/27 記:クインティリアヌスの『弁論家の教育』をガレン修道院で発見したのは、ペトラルカではなく、ポッジョ・ブラッチョリーニ(Gian Francesco Poggio Bracciolini)だ。ペトラルカは、キケロの友人宛ての書簡などを発見した。イタリアの文豪・ダンテはラテン語ではなくイタリア語で傑作『神曲』を書いてイタリア文学の魁となったが、ペトラルカはイタリア語(俗語)より純粋なラテン語に執心した。)
私は『弁論家の教育』を故・柳沼先生の旧蔵書 Helmut Rahnのドイツ語訳 "Ausbildung des Redners" で読んだが、非常に詳しい注がついていた。この注によると、『弁論家の教育』には弁論術の技術的な話だけにとどまらず、子供の教育、文芸批評、倫理観などについても当時のローマの教養階級の暮らしに関する実態がかなり詳細に書き込まれているという。例えば、子供の文章力増強のために、イソップの童話を読み聞かせて、子供たちが意味を理解したあとで、話を自分なりに再構成させよという。そうすることで、どのようにすれば文章が盛り上がるかを自得できるという話などは、当時の幼児教育のありかたを彷彿とさせる。
さて、この本は全体が12巻から構成されていて、それぞれの巻で特定の話題が取り上げられている。ただ、巻順を追って説明するのは平板的になるので、全体を通して読んで得た私の総合的な印象をトピック的に選んで述べようと思う。(テーマは順不同)
〇ギリシャ最大の弁論家・デモステネス
デモステネスは数多いギリシャの弁論家の中でも最高の評価を受けている。現在、デモステネスの演説が60数本が伝えられているが、この内で偽作が半分もあるという。それでも 30本近くの本物の弁論を知ることができる。クインティリアヌスはデモステネスの最大の特徴は、国を思う熱誠と力強さにあるという。所謂「国士」であるということだ。
クインティリアヌスに限らず、デモステネスはギリシャ最大の雄弁家であり、キケロはローマ最大という評価は、昔から変わることがない。ただ、この2人の弁論のやり方は全く正反対だった。デモステネスは「これ以上何も削ることがない」(つまり、最も簡潔な話しぶり)であると言われ、キケロは「これ以上何も付け加えることがない」(つまり、最も多弁な話しぶり)と評された(illic nihil detrahi potest, hic nihil adici)。言い換えれば、デモステネスの弁論には、修辞的要素がないということだ。
当時、ギリシャには有名な弁論家が多くいて、それぞれ独特の風格があった。アンティフォンは尊厳、リュシアスは簡素で優美、イソクラテスは物事に拘泥せず、流麗な口調と中庸で穏やかな物腰。伝えられるところによると、デモステネスはこれらすべての特性を備えていて、しかも、これら3人のそれぞれの特徴においてデモステネスの方が優っていたと言われる。観衆は、デモステネスの明解な論理と熱誠とをとりまぜた滔々たる演説に陶酔した。
デモステネスの演説はとにかく気迫に満ち溢れていたという。デモステネスがクテシフォンの弁護で好敵手のアイスキネスを打ち負かしたので、アイスキネスが引退し、ロドス島へ籠り、弁論術の教師として余生を送った。余興に、この時の自分の弁論を披露すると観客はみごとな弁論に感心した。しかし、その後でデモステネスの弁論を披露すると、観客は賞賛を惜しまなかった。アイスキネスは「当日のデモステネスの演説は、とてもこの程度のものではなかったよ!」と興奮する観客をたしなめた。あたかも円熟した落語家のように、デモステネスは口先三寸で観客を興奮のるつぼに巻き込んでしまう名人芸の持ち主だったのだ。(Quintilianus 11-3-7, Cicero "De Oratore" 3-213)
(続く。。。)
**********
ところで、前回、「死ぬまでに読みたい本」という言葉を持ち出したが、このような本に対する私の基本方針は、極力「原語」で読むことだ。確かに、日本語で読む方が時間的に早いし、内容の理解も深まる。しかし、味読するべき本は、多少時間がかかっても、また、多少分からないところがあっても、原著者がどのような表現をしたかに興味がある。今回のクインティリアヌスのようなラテン語やギリシャ語のものは、さすがに直接読んでも分からない箇所が多いので、ドイツ語訳(Reclam、Sammlung Tusculum)あるいは英語訳(Loeb)で読むことにしている。対訳なので、いつでも原語をチェックできるというメリットがある。日本語の翻訳で読むと、原語を知りたいと思っても、探すのに非常に時間がかかるので、つい億劫になって飛ばしてしまう。しかし、本講でも述べたように、ラテン語の本文に、ギリシャ語がどの程度使われているか、ということを知るには原文を参照しないと不可能である。
クインティリアヌス(Marcus Fabius Quintilianus)はローマ帝政の初期に、教育熱心な父親がいる家庭に生まれた(AD 35 - 96)。当時のローマの支配者階級の子弟の教育において読み書きは必ずギリシャ語とラテン語のバイリンガルで行われた。ローマは政治的・経済的にもギリシャを圧倒していたが、文化面においてはギリシャの後塵を拝していた。弁論術においても、キケロがラテン語で立派な演説をしてギリシャと肩を並べたのは間違いないが、それでもキケロ没後 100年経っても尚、弁論術の本場はギリシャであり、それ故ギリシャ語に上達しないと弁論術においては大成できないようなありさまだった。
その証拠に、クインティリアヌスの『弁論家の教育』(Institutio Oratoria)には弁論術の述語(technical term)に多くのギリシャ語が登場する。大抵はラテン語の訳語がついているが、中には訳語がないものもある。彼らにとってはギリシャ語でも全く問題なく分かったのだろう。あたかも、現在、オペラを習う人がイタリア語の単語をそのまま使っているようなものだ。
ところで、この『弁論家の教育』という本は、古代から中世末まで断片だけしか知られていなかった。ところが、ルネサンス期の1416年、イタリアの文人・ブラッチョリーニがスイスのガレン修道院の書庫でほこりまみれになっている原本をほぼ損傷のない形で全文を発見した。ブラッチョリーニは狂喜した。ブラッチョリーニはこの本だけでなく、精力的にヨーロッパ各地を巡り、古代の貴重な写本の数々を掘り起こしては刊行した。ブラッチョリーニのおかげで全文が発見された『弁論家の教育』は修辞学の古典としてその後のヨーロッパ社会に大きな影響を与えた。ルネサンス期の巨匠・エラスムスもこの本から影響を受けたといわれる。ブラッチョリーニはルネッサンス期の人文主義の興隆に非常に大きな貢献をした人だ。
(2022/11/27 記:クインティリアヌスの『弁論家の教育』をガレン修道院で発見したのは、ペトラルカではなく、ポッジョ・ブラッチョリーニ(Gian Francesco Poggio Bracciolini)だ。ペトラルカは、キケロの友人宛ての書簡などを発見した。イタリアの文豪・ダンテはラテン語ではなくイタリア語で傑作『神曲』を書いてイタリア文学の魁となったが、ペトラルカはイタリア語(俗語)より純粋なラテン語に執心した。)
私は『弁論家の教育』を故・柳沼先生の旧蔵書 Helmut Rahnのドイツ語訳 "Ausbildung des Redners" で読んだが、非常に詳しい注がついていた。この注によると、『弁論家の教育』には弁論術の技術的な話だけにとどまらず、子供の教育、文芸批評、倫理観などについても当時のローマの教養階級の暮らしに関する実態がかなり詳細に書き込まれているという。例えば、子供の文章力増強のために、イソップの童話を読み聞かせて、子供たちが意味を理解したあとで、話を自分なりに再構成させよという。そうすることで、どのようにすれば文章が盛り上がるかを自得できるという話などは、当時の幼児教育のありかたを彷彿とさせる。
さて、この本は全体が12巻から構成されていて、それぞれの巻で特定の話題が取り上げられている。ただ、巻順を追って説明するのは平板的になるので、全体を通して読んで得た私の総合的な印象をトピック的に選んで述べようと思う。(テーマは順不同)
〇ギリシャ最大の弁論家・デモステネス
デモステネスは数多いギリシャの弁論家の中でも最高の評価を受けている。現在、デモステネスの演説が60数本が伝えられているが、この内で偽作が半分もあるという。それでも 30本近くの本物の弁論を知ることができる。クインティリアヌスはデモステネスの最大の特徴は、国を思う熱誠と力強さにあるという。所謂「国士」であるということだ。
クインティリアヌスに限らず、デモステネスはギリシャ最大の雄弁家であり、キケロはローマ最大という評価は、昔から変わることがない。ただ、この2人の弁論のやり方は全く正反対だった。デモステネスは「これ以上何も削ることがない」(つまり、最も簡潔な話しぶり)であると言われ、キケロは「これ以上何も付け加えることがない」(つまり、最も多弁な話しぶり)と評された(illic nihil detrahi potest, hic nihil adici)。言い換えれば、デモステネスの弁論には、修辞的要素がないということだ。
当時、ギリシャには有名な弁論家が多くいて、それぞれ独特の風格があった。アンティフォンは尊厳、リュシアスは簡素で優美、イソクラテスは物事に拘泥せず、流麗な口調と中庸で穏やかな物腰。伝えられるところによると、デモステネスはこれらすべての特性を備えていて、しかも、これら3人のそれぞれの特徴においてデモステネスの方が優っていたと言われる。観衆は、デモステネスの明解な論理と熱誠とをとりまぜた滔々たる演説に陶酔した。
デモステネスの演説はとにかく気迫に満ち溢れていたという。デモステネスがクテシフォンの弁護で好敵手のアイスキネスを打ち負かしたので、アイスキネスが引退し、ロドス島へ籠り、弁論術の教師として余生を送った。余興に、この時の自分の弁論を披露すると観客はみごとな弁論に感心した。しかし、その後でデモステネスの弁論を披露すると、観客は賞賛を惜しまなかった。アイスキネスは「当日のデモステネスの演説は、とてもこの程度のものではなかったよ!」と興奮する観客をたしなめた。あたかも円熟した落語家のように、デモステネスは口先三寸で観客を興奮のるつぼに巻き込んでしまう名人芸の持ち主だったのだ。(Quintilianus 11-3-7, Cicero "De Oratore" 3-213)
(続く。。。)
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ところで、前回、「死ぬまでに読みたい本」という言葉を持ち出したが、このような本に対する私の基本方針は、極力「原語」で読むことだ。確かに、日本語で読む方が時間的に早いし、内容の理解も深まる。しかし、味読するべき本は、多少時間がかかっても、また、多少分からないところがあっても、原著者がどのような表現をしたかに興味がある。今回のクインティリアヌスのようなラテン語やギリシャ語のものは、さすがに直接読んでも分からない箇所が多いので、ドイツ語訳(Reclam、Sammlung Tusculum)あるいは英語訳(Loeb)で読むことにしている。対訳なので、いつでも原語をチェックできるというメリットがある。日本語の翻訳で読むと、原語を知りたいと思っても、探すのに非常に時間がかかるので、つい億劫になって飛ばしてしまう。しかし、本講でも述べたように、ラテン語の本文に、ギリシャ語がどの程度使われているか、ということを知るには原文を参照しないと不可能である。