限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第232回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その3)』

2018-10-28 10:06:16 | 日記
前回

こうしている内に私の進路に大きな変化が生じた。それはアメリカ留学である。当初、機械系出身の技術者として入社したが、配属先の仕事(減速機の開発設計)には正直なところ面白みが感じられず、フラストレーションが溜まっていた。私は技術者としてなら、部品単体ではなく、物が動くシステムの設計や製造にかかわりたいと思っていた。当初の配属先ではそれがかなわなかったが、巡り巡って後日その願いはかなうことにはなった。しかし、それは「地獄の特訓」のような環境であったが、それは後の話。。。

さて、仕事にやりがいが見いだせずあせっていたその時、丁度運よく(?)正門の掲示版に社内留学生募集の張り紙を見つけた。展望の見えないままぐずぐずしているよりも、一層のこと未知の冒険の方に賭けようと決め、応募した。途中の経緯は省略するが、結局、社内選考に合格し、アメリカのカーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University, CMU)の電気工学科の大学院に1982年の秋学期に入学することが決まった。

社内選考に合格して、はたと「今後2年間は日本を離れることになる。本はあまり持っていけない、読み残したものはないだろうか?」と考えた時、「そうだ、司馬遷の史記の原文をまだ読み終えていない!」と気付いた。前々回に述べたように、中華書局版の史記は買ったものの部分的にしか読んでいなかった。しかし、資治通鑑を1年半ばかり読んでいて、漢文がかなり読めるようになっていたので、「これなら史記もかなり読めるはずだ」と考え、資治通鑑は中止して、急遽、中華書局版の史記を読みだした。

案の定、ストーリーをほとんど暗記していた史記はかなりスラスラと読めた。当時、留学のために、TOEFLEやGREの準備もしなければいけなかったのだが、今一つ気分が乗らなかったので、英語だけでなく、私にとっては一層重要なドイツ語までもほうり投げて毎日のように、何時間も史記を読んだ。そして、ようやくのこと、留学前までに全巻を読み終えた。読み終えると、一段と大きな衝撃を感じた。「夏目漱石が英文学を頼りなく思った気持ちはこんなものだったのかも」と感じた。

アメリカ留学に際しては、日本語の本はほとんど持っていかなかった。しかし、史記を読んでいるときに、これだけはどうしても読んでおかないといけないと感じた本があった。それは『春秋左氏伝』(左伝)と『韓非子』の2冊だ。留学中には絶対に読もうと日本語訳をトランクに詰めた。それ以外、論語、荘子などの文庫本もいくつか持って行った。

さて、大学(CMU)の授業が始まると、コンピュータ関連の必修授業では予備知識がないため、非常に苦労したが、何人ものクラスメートに助けられて、理解することができた。クラスは 120人いたが、9割がたが白人のアメリカ人で、アジアからの留学生は私を含め10人程度であった。最初の秋セメスターこそ冷や汗ものであったが、春セメスターに入るころにはようやく卒業の見込みも見えてきたので、気持ちにも余裕が出てきた。それで、持ってきた『左伝』と『韓非子』を取り出して読んだ。この2冊とも、史記ほどではないが、私にとっては大きなインパクトを与えてくれた本であった。

『左伝』の内容は史記(特に世家)に書かれている内容なので、概要は知っていたものの、巧みなストーリー展開に引き込まれた。また、中国人が理想とする君子像がすでに論語以前に完成されていたことも知った。『韓非子』は世間では思想書、あるいは哲学書とみなされているが、私にとっては『左伝』同様、魅力あふれるストリーテラーの名作であった。とりわけ《説林》《内儲説》《外儲説》などにみられる逸話の数々の巧みな書きぶりには、舌を巻いた。

さて、一年目が無事終わったので、最初の夏休みにレンタカーを借りて、ピッツバーグからナイアガラの滝を巡り、ニューヨーク、ボストンなど東海岸の大都市へと旅行に出かけた。ニューヨークの中華街を歩いて、たまたま入った本屋の棚にコンパクトな2冊本(全・1400ページ)の欧陽脩全集(香港・広智書局)を見つけた。以前、まだ京都で学生生活を送っていた時、朝日文庫から出版されていた『唐宋八家文』(中国古典選)で欧陽脩を読んでから、悠揚迫らぬおおらかな雰囲気をもった欧陽脩の文章が好きになった。もっと読みたいと思ったので、銀閣寺の朋友書店に行くと「古文観止」という薄い2冊本が目にとまった。その中には欧陽脩の文章がいくつか載ってはいたものの、物足りなかった。その時から欧陽脩全集を欲しいとは思っていたものの、日本にいる時には手にいれることはできなかった。それがニューヨークでばったり出会うとは、何という幸運と、感激したものだ。



上に欧陽脩の散文の傑作といわれる《酔翁亭記》の全文を挙げるが、御覧のように、この全集本には原文に句点が付いているだけの非常にシンプルな内容で、わずか1ページである。日本で出版されているものは、大抵において「原文―読み下し文―現代語訳―語釈―解説」などがついて、この何倍(何十倍?)もの分量になる。それで、高いものとなると、明治書院の有名な新釈漢文大系のように一冊が一万円にもなってしまう。このような形式で、欧陽脩全集を出版すると10万円近くになるであろう。それに反して、香港、大陸中国、台湾などの本場中国人と、シンガポールや欧米に住む華僑を対象として制作されたこの簡易な欧陽脩全集は(1983年で)わずか6ドルであった。この本の読者層は中国文学の専門家でなく、一般大衆であることはシンプルな内容から明らかだ。しかし、これが大量に売れているという点から判断すると、中国人の古典籍に対する愛着の深さは日本人の想像以上だと分かる。

このように書くと、アメリカでは中国古典ばかりを読んでいたように思われるかもしれないが、普段は授業の予習・復習は当然英語であるし、その合間に Byte Magazine や IEEE Electronicsなどのコンピュータ関連雑誌、さらには、趣味で、Loeb Classical Libraryのようなギリシャ・ローマの古典書を読んでいた。毎日、横文字の洪水の中で暮らしていると、漢文や漢詩に触れることは私にとっては、あたかも池の魚が水中から空中に飛び跳ねるような自由を感じる、新鮮な息抜きの時間であった。(後日、資治通鑑を通読してみて、この時に私自身がイメージしていた中国というのはまさしく「漢文ファンタジー」の世界であった。この点については後日述べたい。)

さて、CMUでの2年間の学生生活も無事終了し、めでたく修士号を取ることができた。卒業式(Commencement)には当時、若手ベンチャーの旗手として絶頂を極めていたアップル社長のスティーブ・ジョブス(Steve Jobs)が来賓として招かれた。式は屋外の芝生の上にテントを張った場所で行われたのだが、ジョブスが登壇すると、皆が足で地面を踏み鳴らしたため、それが地響となって会場の空気を揺るがした。

1984年5月に2年振りに日本に戻ってきたが、その当日の晩から『資治通鑑』通読につらなる新たな漢文遍歴が続くのであった。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想溢筆翔:(第380回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その223)』

2018-10-25 10:56:10 | 日記
前回

【322.臨時 】P.4316、AD491年

『臨時』とは「その時時の必要に応じておこなうこと」で「その場かぎり、非恒久的」というニュアンスが付きまとう。辞源(2015年版)には2つの意味が載せられている。「到事情発生之時」(事柄が発生したとき)と「一時、暫時」とある。

「臨時」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、下の表のようになる。史書での初出は史記であるが、晋書以降かなり多く用いられていることが分かる。



さて「臨時」が資治通鑑で用いられている場面を見てみよう。

蕭道成が建国した南斉の二代皇帝の武帝(蕭賾)は即位後、国力の充実に力を注いだ。その一つが法律の改定であった。以下の文に見るように、法というのは本来は人々の権利を護るためにあるものなのに、却って人々を圧迫する道具となっていたからだ。

 +++++++++++++++++++++++++++
昔、晋の張斐と杜預が人々が理解できるようにと、法律の条文に各々の解釈で註釈をつけた。それが30巻にものぼったが泰始(AD265年 -274年)から用いられていた。しかし、法律の条文は極めて簡約なので、意味が不明な個所が多かった。ひどい場合には、同じ条文に対して二人(張斐と杜預)の解釈が死刑とそうでないと正反対の結論を出すこともあった。実務担当の下級役人(胥吏)たちは適宜(臨時)、条文を都合よく解釈して不正を働いていた。武帝はこれを糺すべく、裁判担当の役人たちに、これらの注釈を整理し直すよう命じた。永明7年(AD489年)に尚書・刪定郎の王植が二人の解釈をまとめ直して提出した。そこで帝は公卿八座を招集して、議論するよう命じた。竟陵王の蕭子良が議長となって意見をとりまとめた。ただ、参加者たちの意見が分かれた時は、帝の裁断を仰いだ。こうして、2年かけ今年(AD491年)になってようやく法律の解釈が一本化した。

初、晋張斐、杜預共註律三十巻、自泰始以来用之、律文簡約、或一章之中、両家所処、生殺頓異、臨時斟酌、吏得為姦。上留心法令、詔獄官詳正旧註。七年、尚書刪定郎王植集定二註、表奏之。詔公卿八座、参議考正、竟陵王子良総其事;衆議異同不能壱者、制旨平決。是歳、書成。
 +++++++++++++++++++++++++++

中国には古来、法律が多くあった。しかし、いかにも中国的ではあるが、これら数多い条文には整合性が欠落していた。その上、条文があまりにも漠然と書かれているためいろいろと恣意的に解釈できる余地があった。こうした法律の不備を熟知している吏(地元の役人たち)は、法の抜け穴や矛盾を有効活用(!)合法的に不正を行っていた。つまり、法は存在しながらも実質的にはいわば無法状態にも等しき状態だったということになる。

想像するに、武帝は即位以前から、このような悪弊をたびたび耳にしていたので、何とかしたいという強い信念をもっていたに違いない。それで即位するや早速、条文の解釈を全部見直すよう指示した。その作業が終わるや「やれやれ、これで民も救われることだわい」と思ったことだろう。

しかし上の文に継いで、資治通鑑には「このような形式的な統一だけでは事は解決しない」との意見が廷尉の孔稚珪から提出されたと述べられている。孔稚珪の主張は、事態の改善のためには、あくどき「吏」に実務を一任せず、清廉な士にも法律の実務を担当させよ、というものであった。そのためには、高級官僚である士にも法律実務を学ばせないといけないと述べた。

ここで、「官吏」という言葉について説明しよう。日本では「官吏」は「役人」と同義に用いられているが、中国では「官吏」とは伝統的に「官」と「吏」という2つの別々のグループを指す。「官」とは中央で採用され中央官庁に勤務する、あるいは地方の出先機関に派遣された、いわばキャリア組である。一方、「吏」とは、地方で採用されたノンキャリア組であるが、大抵において、先祖代々いわば家業としての役人だ。親から譲り受けた権益と、網目状に張り巡らされた膨大な裏情報を活用して地方政治を実質的に牛耳っていたのはこれら「吏」であるようだ。(宮崎市定氏の説明

つまり、裁判などの判決には当然「官」が関与するが、獄中の待遇などや実際の法の執行は「吏」が担当していた。ここが不正の温床で、このような点に対しても「官」が目を光らせない限り不正はなくならない。この孔稚珪の提案は武帝によって裁可されたものの、残念ながら実行に移されることはなかった(詔従其請、事竟不行)。

「上に政策あれば、下に対策あり」の中国の諺通り、「吏」たちは、一致団結し、自分たちの不利になることをあの手この手で無効化してしまったに違いない。残念ながら、何年もかけて行った武帝の高邁な裁判浄化運動は全くの水泡に帰した。巷では京大生を揶揄して「イカキョウ」(いかにも、京大)という言葉があるが、武帝のこの失敗もいかにも「河清百年を俟つ」(俟河之清、人寿幾何)の中国らしい結末だ(イカチュウ)。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百論簇出:(第231回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その2)』

2018-10-21 18:29:13 | 日記
前回

資治通鑑を入手したあと、無事に大学院を卒業でき、 1980年、4月から会社員となった。新入社員研修を終えて、(多分)5月から名古屋のすぐ南の大府市にある社員寮に入った。当初2人部屋であったがその内、 1人部屋になった。部屋の中は、がらんどうだったが、本だなを一つだけ置き、プラトンやセネカ、キケロなどのドイツ語の本などとともに資治通鑑を並べた。

始めは飾りの積りで置いたのだが、毎日背表紙を眺めている内に、「一体どんなことが書いてあるのだろうか」と中身が気にかかりだした。新入社員のこととて、仕事もなく会社(工場)からはいつも早く戻っていた。(終業が 4時45分で、それから自転車で急いで帰ると5時には寮に到着できた。)とりあえず、資治通鑑の最初のページから読みだすことにした。



中華書局版の史記は既に部分的には読んでいたので、漢字だらけのページに対してはある程度の免疫があったものの、流石に細かな文字が最初のページからぎっしりと詰まっている資治通鑑には異様な圧迫感を受けた。司馬光の書いた本文は胡三省の細かな注の中に埋もれているのだ!注の方が文字数が多いものと言えば文選が最右翼であろうが、胡三省の注もそれには決して引けをとらないだけの分量と内容の濃さがある。

もっとも、最初のあたりの文章は、春秋時代の晋が趙・魏・韓の三国に分裂した戦国時代からなので、すでに史記で馴染みの文章であったため、理解するには何ら問題はなかった。ただ、史記は世家にしろ、列伝にしろ焦点が絞られているので分かりやすいが、資治通鑑は編年体なので、話があちこちに飛ぶので非常に読みづらい。大雑把にいって、史記の本紀・世家・列伝をごちゃっと一個所にまとめて、再度、一年単位に切り刻んで並べ直したような、読みにくさだった。

それに輪をかけて通読しにくくしているのが、この胡三省の膨大な注だ。(概略、本文が 4.5Mバイト、つまり220万文字。注は6.5Mバイト、つまり320万文字)。その中身と言えば、昔の注の引用、地理、天文、制度に関する説明、発音など、ありとあらゆることが書いてある。史記の場合は、注は段落の終わりにまとめられているが、資治通鑑の場合は、本文に組み込まれているので、飛ばし読みしにくくなっている。もっとも、新入社員当時は、時間がたっぷりとあったので、注の部分も丹念に読んでいった。

注には、言わずもがな(needless to say)のような文章もあれば、本文を理解する上で欠かせない情報を提供している個所もある。

例えば、巻5・周紀5(BC266, P.162)を見てみよう。魏斉によって簀巻きにされて半殺しの目に遭った范睢が辛うじて魏から脱出し、秦の大臣になったが、そこへ魏からの使者がやって来た。范睢は使者に向かって、怨み骨髄に徹する憎っくき「魏斉の首を持ってこい、そうでないと魏の都、大梁に攻め入って皆殺しにするぞ」と脅す場面がある。この場面、原文と注は次のように書かれている。

「速斬魏斉頭来!不然、且屠大梁!」

「屠、殺也。自古以来、以攻下城而尽殺城中人為屠城、亦曰洗城」
(屠とは殺すことである。昔から城を攻め落として城中の人を皆殺しにすること屠城という。または、洗城ともいう)


このような説明を読むことで、「屠」が「洗城」と同じ意味だと分かる。注によって辞書を引くよりもはるかに多くの知識を得ることができる。言わば世界のトップクラスの中国古典の教授からプライベートレッスンを受けているようなものだ。

注には、それだけでなく紙面の都合上、司馬光がわざと省略した部分に関する補足的説明も載せられている。たとえば、次のような注がある。
1.「穣侯援立昭王、除其災害」【事見三巻十年】
2.「薦白起為将」【見上巻二十三年】
3.「秦王以子安国君為太子」【為安国君立子異人為嗣張本】


1.の部分は、「秦の穣侯(魏冉)が昭王を助けて即位させ、災害を除いた」との記事は、前の巻3・赧王10年に見える、との説明だ。

2.の部分は「秦の穣侯が白起を将軍として推薦した」との記事は、前の巻4・赧王23年に見える、との説明だ。

3.の部分は「秦王が安国君を太子とした」という短い文章に対して、「安国君の息子の異人が後に太子となった」との説明が付け加えられている。異人というのは、秦の始皇帝の父・荘襄王のことであるが、何十人もの皇子の中で無名の存在であった。しかし、たまたまラッキーなことに、太っ腹の巨商・呂不韋の目にとまり「奇貨居くべし」と大事にされたのでとうとう流浪の身から一転、秦王にまで昇りつめることができた。このようなことがなければ、始皇帝も生まれてはいなかったという運命的な出来事がこの説明から読み取ることができる。

このような文章をえっちらおっちらと追っかけて、初めの一年半ぐらいかけてようやく全体の1/3(3000ページ)分をざっと読み終えた。読んだのは、戦国時代の初めから三国志までの部分と、隋から唐の始めにかけての2つの部分だ。結局、本来三国志を買いに行ったはずなのだが、「正史 三国志」の方は読まずに、資治通鑑の三国志を読んだのだった。

こうして、この大著を読んでいていろいろと問題点を感じた。これは当時(1980年代)の私には解決できなような課題であった。しかしこの時に感じた困難はコンピュータが発達した2000年以降になってみると、以外に簡単と解決できた。私は2004年から2008年に掛けて(ただし、実質は1年で)資治通鑑を通読したが、Web上のデータの充実とコンピュータの発達がなければ不可能であった。(この点については、稿を改めて述べたい。)

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想溢筆翔:(第379回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その222)』

2018-10-18 07:30:58 | 日記
前回

【321.執筆 】P.4309、AD491年

『執筆』とは通常「文芸作品(本)や論文を書く」という意味で用いられるが、元来は「筆を執(と)る」という物理的な動作を表わすに過ぎない語であった。辞源(2015年版)には「執」は「持」と説明する。熟語にしてはあまりにも簡単すぎるのであろう、辞海、辞源のいづれにも「執筆」の項はない。

「執筆」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。筆は古代からあったはずなのに「執筆」という語が表われるのは、後漢書からだ。(私の漢文検索システムでは)史書以外では「孔子家語」が一番古い。結局、「執筆」という句は紀元後から使われるようになったと分かる。また、時代が下って、宋まではかなり頻繁に使われてはいるものの、明や清になるとあまり使われなくなっていることも分かる。

また、「筆を執る」(執筆)の反対語は、現在では「筆を擱(お)く」(擱筆)というが、歴史的には「擱筆」よりも「韜筆」という言葉の方が用いられたようだ。(すくなくとも、二十四史には擱筆は一度も見えない)。「韜」とは「つつむ」という意味で、文章を書き上げたあとに、筆の墨をぬぐって筆を布で巻いて仕舞うという情景が目に浮かぶ。



さて、資治通鑑で執筆が使われている場面を見てみよう。北魏の孝文帝(資治通鑑では、魏主)が自ら筆をとり裁判の判決文を書いたという場面。

 +++++++++++++++++++++++++++
魏主は律令を改定した。東明観で、帝自らが難しい事案(疑獄)に対して判決を下した。李沖に判決の妥当性を検討させ、判決文を練らせた。そして、帝が筆を執(と)って、紙に書いた。李沖は任務に忠実で、判断も正しかった。その上、手抜かりがなかったので、帝は満幅の信頼を置いた。帝と李沖は何でも腹蔵なく話し合った。旧臣や貴族たちも心服しない者はなく、だれもが帝と李沖のコンビを信頼した。

魏主更定律令於東明観、親決疑獄;命李沖議定軽重、潤色辞旨、帝執筆書之。李沖忠勤明断、加以慎密、為帝所委、情義無間;旧臣貴戚、莫不心服、中外推之。
 +++++++++++++++++++++++++++

前回までは、北魏の孝文帝が孝心に篤い人だという人格面を長所を述べたが、今回は、孝文帝は聡明で公平な人であったという理性面の長所を記述している。

このように孝文帝は人品優れた賢帝で、文句のつけようがないようだが、明治時代の鴻儒、那珂通世(なか・みちよ)は『支那通史』において、孝文帝にたいしては次のような評価を下している。

「蓋し、帝は文学に優れ、深く華風を慕い、文治を興し、以って隆を三代に比せんと欲す。故に、恒北に僻処するを欲ぜざるなり。しかれども南遷の後、武事、ようやく弛み、俗、粉華に趨る。国勢のおとろえるは実にここに始まる。」(語句は適宜、現代風に改めた)

孝文帝は、493年に、都を平城(現代の大同)から洛陽に移した。さらには、先祖伝来の鮮卑の風俗を全面的に中国風(華風)に変更し、強制した。旧臣の中には反発する者もいたが、断固許さなかった。

極め付きは、実子である太子が鮮卑風を好んだので処刑したことだ。太子の恂は、太っちょであったので、夏の洛陽の暑さに耐え切れず、父の意向に反してこっそりと鮮卑の服を着ていた。それだけでなく、平城に戻ろうと脱走したが、連れ戻されて百回ばかり杖で打たれたあと、監禁された。その後、謀反の嫌疑をかけられて処刑(賜薬)された。まだわずか16歳の少年だった。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百論簇出:(第230回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その1)』

2018-10-14 19:45:03 | 日記
先頃(2018/10/13)、河出書房新社から、『資治通鑑に学ぶリーダー論: 人と組織を動かすための35の逸話』が発刊された。この本は私にとっては第6冊目となるが、資治通鑑に関する本としては第3冊目である。(もっとも、『社会人のリベラルアーツ』にも部分的には資治通鑑のことも書いているので、出版した6冊の内、4冊までもが何らかの形で資治通鑑を取り扱っていることになる。)他の2冊は:
1.『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(角川新書)
2.『世にも恐ろしい中国人の戦略思考』(小学館新書)

2番目の本には『資治通鑑』という言葉が入っていないが、全編、資治通鑑の記事である。

このように見ると、読者には私が出版した順序に従って書いたように思われるかもしれないが、実は今回の本が一番最初に構想したものであった。その由来とこの本の特徴を説明しようと思うが、その前に、そもそも私がなぜ資治通鑑を読むようになり、素人にも拘わらず中国史の本を出版に至ったのかという経緯を紹介したい。



2014年に出版した『本当に残酷な中国史』(角川新書)の序章にも書いたように、私が資治通鑑を手に入れたのは、偶然の出来事であった。当時(1980年2月8日)、私は大学院修了直前で、就職も決まっていて、残るは修士論文だけであった。毎日、修士論文の原稿を書くのに大忙しであった。何時間も実験データの整理や、数式展開の見直しなどしていると、脳細胞が凝り固まってくるのを感じ始めた。私は、高校の時からそうだが、試験勉強など、あまり好きでもないことに頭を使っていると、脳細胞が凝り固まってくる。そうなるとある時、突然、それ以上継続して勉強する気が全く失せてしまう癖があった。そういう時には気分転換に、数時間、まるまる全く関係のないことをして頭をほぐす必要があった。

多分この時もそういうムードであった。ぼおーっと考え事をしている時に、急に『三国志』の中の一節の事が気にかかりだした。どういうテーマであったか思い出せないが、調べたいと思ったが手元に『三国志』の原文がない。それで、翌朝早く、早速買いにいくことにした。

私が読みたかったのは『三国志』と言っても邦訳の三国志演義ではなく、『三国志』、つまり二十四史の一つである、漢文だらけの正史だ。このような漢文の本は、普通の書店では絶対に手に入らないが、中国書専門店では、簡単に入手できる。以前、銀閣寺の近くに下宿している時には、朋友書店が近くにあったので中国書はそこで買っていたが、当時は下鴨に下宿していたので近場である、寺町二条の東方書店行くことにした。(今から思うと、この何気ない選択が私のその後の人生に大きな変化をもたらしたのだった。)

しかし、理科系の私がそもそもなぜ漢文の本を購入しようと思ったのか、と不思議に思われる方も多いことだろう。そこに至るまでにも一つのストーリーがある。

大学を卒業して、大学院に入る直前、何かのきっかけで平凡社の中国の古典シリーズの『史記』を買って読みだしたところ、ぐいぐいと引き込まれた。当時、私はサンケイスカラシップというドイツ留学試験のため、工学部に居ながら、ドイツ語漬けの毎日を過ごしていた。しかし、史記の面白さにひかれて、1ヶ月という間は、ドイツ語はもちろん他のことは全く手につかず、ひたすら史記を読んでいた。全巻を読み終わって、魂がぶち抜かれたような強烈な衝撃を味わった。とても、2000年以上前に書かれたとは思えない程、司馬遷の文章は大迫力だった。あたかも2000年をタイムスリップして3DのIMAXシアターで当時の中国を見ているような気分であった。

史記に俄然興味が湧いたので、早速、大学からの帰り道に、吉田山の裏手にある朋友書店に立ち寄った。棚には、中華書局版の二十四史がずらりと並んでいた。史記は 10冊で、定価は 10元と書いてはあるものの、日本円では何と 5050円であった!今から40年も前の5000円なので、結構高い買い物ではあったが、奮発して購入することにした。(想像するに、当時、大陸からの中国書の輸入は中国政府の統制下にあったので、値段も中国政府の指値であったのであろう。)こうして、始めて全ページ漢字だらけの『史記』(中華書局)を手にいれたのは、1977年3月のことであった。

下宿に戻ってから、いくつかの巻を拾い読みしてみた。とりわけ、高校の漢文の教科書に載っていた「刺客列伝」の豫譲の部分は感慨深かった。というのは、高校時代、私は漢文は苦手だったが、故事成句は好きで、豫譲の名せりふ「士為知己者死、女為説己者容」(士は己を知る者のために死し、女は己を悦ぶ者ために容づくる)は暗記していた。この部分を中華書局の『史記』の中に見出した時は、ようやく本物に出会えた、との思いがした。しかし、正直なところ、当時の私の漢文力はまだまだ低く、とても漢文を完全に理解することはできなかった。ただ、史記は日本語で読んだので内容はきっちりと覚えていたため、文章の意味を理解するのにさほど困難を感じなかった。

このようにして、ともかくも中国書で漢文を読み始めたことが『三国志』を漢文で読みたいという思いにつながった。そして、ひいては『資治通鑑』の購入、および今回の出版へとつながっていくのである。

続く。。。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする