(前回)
こうしている内に私の進路に大きな変化が生じた。それはアメリカ留学である。当初、機械系出身の技術者として入社したが、配属先の仕事(減速機の開発設計)には正直なところ面白みが感じられず、フラストレーションが溜まっていた。私は技術者としてなら、部品単体ではなく、物が動くシステムの設計や製造にかかわりたいと思っていた。当初の配属先ではそれがかなわなかったが、巡り巡って後日その願いはかなうことにはなった。しかし、それは「地獄の特訓」のような環境であったが、それは後の話。。。
さて、仕事にやりがいが見いだせずあせっていたその時、丁度運よく(?)正門の掲示版に社内留学生募集の張り紙を見つけた。展望の見えないままぐずぐずしているよりも、一層のこと未知の冒険の方に賭けようと決め、応募した。途中の経緯は省略するが、結局、社内選考に合格し、アメリカのカーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University, CMU)の電気工学科の大学院に1982年の秋学期に入学することが決まった。
社内選考に合格して、はたと「今後2年間は日本を離れることになる。本はあまり持っていけない、読み残したものはないだろうか?」と考えた時、「そうだ、司馬遷の史記の原文をまだ読み終えていない!」と気付いた。前々回に述べたように、中華書局版の史記は買ったものの部分的にしか読んでいなかった。しかし、資治通鑑を1年半ばかり読んでいて、漢文がかなり読めるようになっていたので、「これなら史記もかなり読めるはずだ」と考え、資治通鑑は中止して、急遽、中華書局版の史記を読みだした。
案の定、ストーリーをほとんど暗記していた史記はかなりスラスラと読めた。当時、留学のために、TOEFLEやGREの準備もしなければいけなかったのだが、今一つ気分が乗らなかったので、英語だけでなく、私にとっては一層重要なドイツ語までもほうり投げて毎日のように、何時間も史記を読んだ。そして、ようやくのこと、留学前までに全巻を読み終えた。読み終えると、一段と大きな衝撃を感じた。「夏目漱石が英文学を頼りなく思った気持ちはこんなものだったのかも」と感じた。
アメリカ留学に際しては、日本語の本はほとんど持っていかなかった。しかし、史記を読んでいるときに、これだけはどうしても読んでおかないといけないと感じた本があった。それは『春秋左氏伝』(左伝)と『韓非子』の2冊だ。留学中には絶対に読もうと日本語訳をトランクに詰めた。それ以外、論語、荘子などの文庫本もいくつか持って行った。
さて、大学(CMU)の授業が始まると、コンピュータ関連の必修授業では予備知識がないため、非常に苦労したが、何人ものクラスメートに助けられて、理解することができた。クラスは 120人いたが、9割がたが白人のアメリカ人で、アジアからの留学生は私を含め10人程度であった。最初の秋セメスターこそ冷や汗ものであったが、春セメスターに入るころにはようやく卒業の見込みも見えてきたので、気持ちにも余裕が出てきた。それで、持ってきた『左伝』と『韓非子』を取り出して読んだ。この2冊とも、史記ほどではないが、私にとっては大きなインパクトを与えてくれた本であった。
『左伝』の内容は史記(特に世家)に書かれている内容なので、概要は知っていたものの、巧みなストーリー展開に引き込まれた。また、中国人が理想とする君子像がすでに論語以前に完成されていたことも知った。『韓非子』は世間では思想書、あるいは哲学書とみなされているが、私にとっては『左伝』同様、魅力あふれるストリーテラーの名作であった。とりわけ《説林》《内儲説》《外儲説》などにみられる逸話の数々の巧みな書きぶりには、舌を巻いた。
さて、一年目が無事終わったので、最初の夏休みにレンタカーを借りて、ピッツバーグからナイアガラの滝を巡り、ニューヨーク、ボストンなど東海岸の大都市へと旅行に出かけた。ニューヨークの中華街を歩いて、たまたま入った本屋の棚にコンパクトな2冊本(全・1400ページ)の欧陽脩全集(香港・広智書局)を見つけた。以前、まだ京都で学生生活を送っていた時、朝日文庫から出版されていた『唐宋八家文』(中国古典選)で欧陽脩を読んでから、悠揚迫らぬおおらかな雰囲気をもった欧陽脩の文章が好きになった。もっと読みたいと思ったので、銀閣寺の朋友書店に行くと「古文観止」という薄い2冊本が目にとまった。その中には欧陽脩の文章がいくつか載ってはいたものの、物足りなかった。その時から欧陽脩全集を欲しいとは思っていたものの、日本にいる時には手にいれることはできなかった。それがニューヨークでばったり出会うとは、何という幸運と、感激したものだ。
上に欧陽脩の散文の傑作といわれる《酔翁亭記》の全文を挙げるが、御覧のように、この全集本には原文に句点が付いているだけの非常にシンプルな内容で、わずか1ページである。日本で出版されているものは、大抵において「原文―読み下し文―現代語訳―語釈―解説」などがついて、この何倍(何十倍?)もの分量になる。それで、高いものとなると、明治書院の有名な新釈漢文大系のように一冊が一万円にもなってしまう。このような形式で、欧陽脩全集を出版すると10万円近くになるであろう。それに反して、香港、大陸中国、台湾などの本場中国人と、シンガポールや欧米に住む華僑を対象として制作されたこの簡易な欧陽脩全集は(1983年で)わずか6ドルであった。この本の読者層は中国文学の専門家でなく、一般大衆であることはシンプルな内容から明らかだ。しかし、これが大量に売れているという点から判断すると、中国人の古典籍に対する愛着の深さは日本人の想像以上だと分かる。
このように書くと、アメリカでは中国古典ばかりを読んでいたように思われるかもしれないが、普段は授業の予習・復習は当然英語であるし、その合間に Byte Magazine や IEEE Electronicsなどのコンピュータ関連雑誌、さらには、趣味で、Loeb Classical Libraryのようなギリシャ・ローマの古典書を読んでいた。毎日、横文字の洪水の中で暮らしていると、漢文や漢詩に触れることは私にとっては、あたかも池の魚が水中から空中に飛び跳ねるような自由を感じる、新鮮な息抜きの時間であった。(後日、資治通鑑を通読してみて、この時に私自身がイメージしていた中国というのはまさしく「漢文ファンタジー」の世界であった。この点については後日述べたい。)
さて、CMUでの2年間の学生生活も無事終了し、めでたく修士号を取ることができた。卒業式(Commencement)には当時、若手ベンチャーの旗手として絶頂を極めていたアップル社長のスティーブ・ジョブス(Steve Jobs)が来賓として招かれた。式は屋外の芝生の上にテントを張った場所で行われたのだが、ジョブスが登壇すると、皆が足で地面を踏み鳴らしたため、それが地響となって会場の空気を揺るがした。
1984年5月に2年振りに日本に戻ってきたが、その当日の晩から『資治通鑑』通読につらなる新たな漢文遍歴が続くのであった。
(続く。。。)
こうしている内に私の進路に大きな変化が生じた。それはアメリカ留学である。当初、機械系出身の技術者として入社したが、配属先の仕事(減速機の開発設計)には正直なところ面白みが感じられず、フラストレーションが溜まっていた。私は技術者としてなら、部品単体ではなく、物が動くシステムの設計や製造にかかわりたいと思っていた。当初の配属先ではそれがかなわなかったが、巡り巡って後日その願いはかなうことにはなった。しかし、それは「地獄の特訓」のような環境であったが、それは後の話。。。
さて、仕事にやりがいが見いだせずあせっていたその時、丁度運よく(?)正門の掲示版に社内留学生募集の張り紙を見つけた。展望の見えないままぐずぐずしているよりも、一層のこと未知の冒険の方に賭けようと決め、応募した。途中の経緯は省略するが、結局、社内選考に合格し、アメリカのカーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University, CMU)の電気工学科の大学院に1982年の秋学期に入学することが決まった。
社内選考に合格して、はたと「今後2年間は日本を離れることになる。本はあまり持っていけない、読み残したものはないだろうか?」と考えた時、「そうだ、司馬遷の史記の原文をまだ読み終えていない!」と気付いた。前々回に述べたように、中華書局版の史記は買ったものの部分的にしか読んでいなかった。しかし、資治通鑑を1年半ばかり読んでいて、漢文がかなり読めるようになっていたので、「これなら史記もかなり読めるはずだ」と考え、資治通鑑は中止して、急遽、中華書局版の史記を読みだした。
案の定、ストーリーをほとんど暗記していた史記はかなりスラスラと読めた。当時、留学のために、TOEFLEやGREの準備もしなければいけなかったのだが、今一つ気分が乗らなかったので、英語だけでなく、私にとっては一層重要なドイツ語までもほうり投げて毎日のように、何時間も史記を読んだ。そして、ようやくのこと、留学前までに全巻を読み終えた。読み終えると、一段と大きな衝撃を感じた。「夏目漱石が英文学を頼りなく思った気持ちはこんなものだったのかも」と感じた。
アメリカ留学に際しては、日本語の本はほとんど持っていかなかった。しかし、史記を読んでいるときに、これだけはどうしても読んでおかないといけないと感じた本があった。それは『春秋左氏伝』(左伝)と『韓非子』の2冊だ。留学中には絶対に読もうと日本語訳をトランクに詰めた。それ以外、論語、荘子などの文庫本もいくつか持って行った。
さて、大学(CMU)の授業が始まると、コンピュータ関連の必修授業では予備知識がないため、非常に苦労したが、何人ものクラスメートに助けられて、理解することができた。クラスは 120人いたが、9割がたが白人のアメリカ人で、アジアからの留学生は私を含め10人程度であった。最初の秋セメスターこそ冷や汗ものであったが、春セメスターに入るころにはようやく卒業の見込みも見えてきたので、気持ちにも余裕が出てきた。それで、持ってきた『左伝』と『韓非子』を取り出して読んだ。この2冊とも、史記ほどではないが、私にとっては大きなインパクトを与えてくれた本であった。
『左伝』の内容は史記(特に世家)に書かれている内容なので、概要は知っていたものの、巧みなストーリー展開に引き込まれた。また、中国人が理想とする君子像がすでに論語以前に完成されていたことも知った。『韓非子』は世間では思想書、あるいは哲学書とみなされているが、私にとっては『左伝』同様、魅力あふれるストリーテラーの名作であった。とりわけ《説林》《内儲説》《外儲説》などにみられる逸話の数々の巧みな書きぶりには、舌を巻いた。
さて、一年目が無事終わったので、最初の夏休みにレンタカーを借りて、ピッツバーグからナイアガラの滝を巡り、ニューヨーク、ボストンなど東海岸の大都市へと旅行に出かけた。ニューヨークの中華街を歩いて、たまたま入った本屋の棚にコンパクトな2冊本(全・1400ページ)の欧陽脩全集(香港・広智書局)を見つけた。以前、まだ京都で学生生活を送っていた時、朝日文庫から出版されていた『唐宋八家文』(中国古典選)で欧陽脩を読んでから、悠揚迫らぬおおらかな雰囲気をもった欧陽脩の文章が好きになった。もっと読みたいと思ったので、銀閣寺の朋友書店に行くと「古文観止」という薄い2冊本が目にとまった。その中には欧陽脩の文章がいくつか載ってはいたものの、物足りなかった。その時から欧陽脩全集を欲しいとは思っていたものの、日本にいる時には手にいれることはできなかった。それがニューヨークでばったり出会うとは、何という幸運と、感激したものだ。
上に欧陽脩の散文の傑作といわれる《酔翁亭記》の全文を挙げるが、御覧のように、この全集本には原文に句点が付いているだけの非常にシンプルな内容で、わずか1ページである。日本で出版されているものは、大抵において「原文―読み下し文―現代語訳―語釈―解説」などがついて、この何倍(何十倍?)もの分量になる。それで、高いものとなると、明治書院の有名な新釈漢文大系のように一冊が一万円にもなってしまう。このような形式で、欧陽脩全集を出版すると10万円近くになるであろう。それに反して、香港、大陸中国、台湾などの本場中国人と、シンガポールや欧米に住む華僑を対象として制作されたこの簡易な欧陽脩全集は(1983年で)わずか6ドルであった。この本の読者層は中国文学の専門家でなく、一般大衆であることはシンプルな内容から明らかだ。しかし、これが大量に売れているという点から判断すると、中国人の古典籍に対する愛着の深さは日本人の想像以上だと分かる。
このように書くと、アメリカでは中国古典ばかりを読んでいたように思われるかもしれないが、普段は授業の予習・復習は当然英語であるし、その合間に Byte Magazine や IEEE Electronicsなどのコンピュータ関連雑誌、さらには、趣味で、Loeb Classical Libraryのようなギリシャ・ローマの古典書を読んでいた。毎日、横文字の洪水の中で暮らしていると、漢文や漢詩に触れることは私にとっては、あたかも池の魚が水中から空中に飛び跳ねるような自由を感じる、新鮮な息抜きの時間であった。(後日、資治通鑑を通読してみて、この時に私自身がイメージしていた中国というのはまさしく「漢文ファンタジー」の世界であった。この点については後日述べたい。)
さて、CMUでの2年間の学生生活も無事終了し、めでたく修士号を取ることができた。卒業式(Commencement)には当時、若手ベンチャーの旗手として絶頂を極めていたアップル社長のスティーブ・ジョブス(Steve Jobs)が来賓として招かれた。式は屋外の芝生の上にテントを張った場所で行われたのだが、ジョブスが登壇すると、皆が足で地面を踏み鳴らしたため、それが地響となって会場の空気を揺るがした。
1984年5月に2年振りに日本に戻ってきたが、その当日の晩から『資治通鑑』通読につらなる新たな漢文遍歴が続くのであった。
(続く。。。)