限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第395回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その238)』

2019-03-31 11:01:49 | 日記
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【337.要衝】P.4461、AD500年

『要衝』とは「必ず通過すべき肝要な所」。「衝」は辞海(1978年版)では簡単に「交道」と説明するが、辞源(2015年版)では「縦横相交的大道」と説明する。結局「要衝」は物理的に大きな幹道の交差点で、しかも重要な地点のことだと分かる。「要衝」の逆の並びの「衝要」も同じ意味である。その2つを二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。私の経験では日本語で「衝要」は見たことがないが、中国では「衝要」の方が使われる頻度が高いようだ。推測するに、中国人にとって発音(イントネーション)の響きがこちら(衝要)の方が良いのだろう。



資治通鑑で「要衝」が使われている場面を見てみよう。東晋から南北朝時代(4c.から6c.)にかけては中国では北の王朝と南の王朝が対立し、しばしば大戦争が勃発した。

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魏奚康生が城の防御に務めた。籠城して一ヶ月してようやく援軍が到着した。それで、援軍と共に彭城王の元勰や王粛と一緒になって胡松や陳伯之と合戦し大勝した。勢いに乗って合肥を責め、李叔献を捕まえた。統軍の宇文福が元勰に言うには「建安は淮南の重要拠点で、敵と味方のどちらにとっても要衝の地です。ここを占拠できれば義陽も征服可能ですが、もしここを占拠できなければ寿陽も確保が難しいことでしょう。」元勰はその通りだと思い、宇文福に建安を攻撃するよう命じた。建安は守りきれず、城主の胡景略は面縛して城門を出て降伏した。

魏奚康生防禦内外、閉城一月、援軍乃至。丙申、彭城王勰、王粛撃松、伯之等、大破之、進攻合肥、生擒叔献。統軍宇文福言於勰曰:「建安、淮南重鎮、彼此要衝、得之、則義陽可図;不得、則寿陽難保。」勰然之、使福攻建安、建安戍主胡景略面縛出降。
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城を守りきれずに降伏する時、城主は「面縛」して城門を出る。「面縛」とは両手を後ろ手に縛り、顔を伏せずにさらすことをいう。降伏の時は、それだけでなく「肉袒面縛」あるいは「肉袒牽羊」する場合も多い。「肉袒」とは「肌脱ぎ」つまり「上半身を脱ぎ、裸に」なることだ。真冬だとさぞかし身にこたえたことだろうと想像する。(もっとも、ヨーロッパでは神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世はローマ教皇グレゴリウス7世に破門を解いてもらうために大雪のなか裸足で3日も立ち続けたのだから、「肉袒」ならまだ楽勝の部類かもしれない。。。)

ところで、この「面縛」という語は春秋時代の歴史書である『春秋左氏伝』に2回使われている(僖公・ 6年、昭公・4年)。いづれの場合も降伏した城主が「面縛銜璧」した姿で城門を出た。「銜璧」とは璧(Jade、貴重な宝石)を口にくわえることで、当時は葬式の際、璧を死者の口に入れたことから、「降伏し、死も受け入れる」ということを比喩的に表現している。南北朝は春秋時代から千年も経過しているので、戦争の仕方や道具に関しては格段に進歩しているはずだが、降伏の仕方は春秋時代そっくりそのまま、というのはいかにも伝統の慣性力の強い中国ならでは、の感を覚える。

続く。。。
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百論簇出:(第244回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その15)』

2019-03-24 10:00:56 | 日記
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以上述べたように、中国のサイトに存在する漢文検索システムでは私の要望するような検索ができなかった。それで、自作の漢文検索システムを作り、ようやく資治通鑑を読む準備が整った。(ただし、ここで説明した検索システムの仕様は現時点のもので、当初はいろいろと不足部分や不具合が多かった。)

検索システムが機能するためには、まず資治通鑑の本文をダウンロードする必要がある。

現在(2019年)ではWikisourceを始めとして、数多くの中国サイトで漢文の原文が無料で公開されているが当時(2004年)はかなり少なかった。その上、旧字体(繁体字)で書かれているものはたいてい台湾の文字コードであるBIG5であった。その一例を下に示す(『資治通鑑』の巻一冒頭部分)



司馬光--資治通鑒--●卷第一
後一頁回目録●卷第一
    【周紀一】 起著雍攝提格,盡玄**困敦,凡三十五年。
    威烈王二十三年(戊寅,公元前四零三年)
  初命晉大夫魏斯、趙籍、韓虔爲諸侯。
  臣光曰:臣聞天子之職莫大於禮,禮莫大於分,分莫大於名。何謂禮?紀
綱是也;何謂分?君臣是也;何謂名?公、侯、卿、大夫是也。夫以四海之廣,
兆民之衆,受制於一人,雖有絶倫之力,高世之智,莫敢不奔走而服役者,豈非
以禮爲之綱紀哉!是故天子統三公,三公率諸侯,諸侯制卿大夫,卿大夫治士庶
人。貴以臨賎,賎以承貴。上之使下,猶心腹之運手足,根本之制支葉;下之事
上,猶手足之衛心腹,支葉之庇本根。然後能上下相保而國家


ご覧のように巻ごとに1ファイルとなっているので、これをダウンロードして BIG5 ==> Shift-JIS へ変換した。当初は、Web上で見つけた b2j.exe (by Chiiwen Lin) で文字コードを変換したが、Shift-JISで表せない文字は "**" のように表示されていた。(上の例では3行目の「盡玄**困敦」)これだと、元の文字が分からないが、とりあえず分かる文字の範囲内で検索が可能なように検索用のインデックスファイルを作成した。

インデックスファイルとは前回説明したようが検索行と本のページの対応表のことである。厳密に一ページ毎の対応表ではなく、巻ごとの表なので資治通鑑の場合、294巻あるので、合計294行ある。ただ、困ったことにダウンロードしたファイルは胡三省の注がついていないバージョンであったため、字数でページを按分すると、注の部分が勘定されないため、私の見ている注付の本とかなり食い違ったページ数が出てくる。当初は、しかたなくこれを使っていたが、やはりあまりにも使いづらいので胡三省の注がついている原文を探した。

すると、台湾の中央研究院(Academia Sinica)に注付の原文が見つかった。おまけに都合のよいことに、この原文は私のもっている中華書局の資治通鑑のページ毎に一つのhtmlファイルに収められていた。おまけに、このサイトでは資治通鑑だけでなく、他の正史(二十四史)だけでなく、数多くの漢文の原文が無料で公開されていた。(残念ながら現在では僅かの部分を除いてかなりの部分が有料会員にならないと閲覧できない。)

早速、この中央研究院の二十四史+資治通鑑+続資治通鑑をダウンロードして、検索用のインデックスファイルを作った。 2004年当時のインターネット環境は現在と比べてかなり悪く、ダウンロードが遅い(20kバイトで15秒)だけでなく、回線が込み合ってくると接続が途中で切れてしまうような事態がしょっちゅう発生した。晩にダウンロードのバッチファイルを走らせておいて、朝になるとダウンロードしたファイルが正常かどうかをチェックするプログラムを走らせ、正常でないファイルは再度ダウンロードするような仕組みを作った。

このようにして、資治通鑑の原文の全文をダウンロードし、インデックスファイルもつくり、該当ページが正確に表示できるようになった。ただ、このファイルの文字コードがBIG5であるので、現在( 2019年)のWindows7上表示すると一部文字コードが化けるところがある。(下記参照)



このように、多少の不便はあるものの、とりあえず検索システムができたおかげで資治通鑑を読むのが随分楽になった。

一例を示そう。

前漢は最後に王莽に政権を奪われてしまうが、そのきっかけは王賀の孫娘の政君が元帝に嫁ぎ、成帝の母后となったことだ。資治通鑑、巻27にはその部分は次のように書かれている。
 
帝乃令皇后択後宮家人子可以娯侍太子者、得元城王政君、送太子宮。

(元帝はそこで皇后に命じて後宮にいる人の親戚の娘で皇太子にふさわしい人を選ぶように命じたところ、元城の王政君が推挙されたので、太子の妃とした)

【胡三省の注】「政君、故繍衣御史賀之孫女也、王賀事見二十一卷武帝天漢二年。」(政君は、もとの繍衣御史・王賀の孫娘である。王賀が仕えたことは巻21・武帝の天漢2年の記事に見える)

つまり、王政君のことを理解しようとすれば王賀のことを知る必要があるが、この点に関して司馬光による説明は全くなく、胡三省の注が頼りになる。胡三省の注はここでは律儀なことに、巻数とともに年代も書いてくれているので探すにはあまり手間がかからない。しかし、資治通鑑の後半になると、流石に胡三省も面倒くさくなったのだろう、巻数だけしか書かれていない場合がかなり多くなる。やってみれば分かるが、一巻が30ページ近くあるので、その中から該当個所を探すのは結構手間がかかる。こういった時に私の検索システムでは巻数とちょっとした情報(ここでは「王賀」という人名)だけですぐに該当個所が次のように分かる。
(実行プログラム:gh 0 -z21 王賀)
 h_tugan.jpn:15151 :: 名、樹、立也。永終天祿。」勝之深納其戒;及還、表薦不疑
、上召拜不疑爲青州刺吏。濟南王賀亦爲#7E61;衣御史、濟、子禮翻。逐捕魏郡
==> [Vol 21,  Page 718 ] [67%]  [ 1/4冊目 ] 

これによって、巻21、718ページの後半部分(前から67%)に該当の文があることが分かる。私の漢文検索システムには史書だけでなく、通常参照される経書や諸子百家のほとんどが蓄積されているので、大抵の文章はインターネットにアクセスすることなく、私自身の PC内で検索ができる。以前はHDに 1Gバイトものデータを蓄えることはかなり困難であったが、現在では何百ギガものデータを蓄えることができる。それゆえ、文字データだけが対象の漢文検索システムにとってはデータ蓄積に関しては事実上無限大の容量を持っていると考えられる。

続く。。。
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想溢筆翔:(第394回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その237)』

2019-03-17 14:47:56 | 日記
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【336.危険 】P.4442、AD499年

『危険』とは「あぶないこと」と説明するが、それではたんに「危」を訓読みしただけのように私には思える。そもそも「危」の意味は辞海(1978年版)によると「在高而懼也」(高きにありておそれること)であり、「殆」(あやうい)と同じ意味だと説明する。辞源(1987年版)には「危」は「凶険、不安」という意味であると説明する。次に「険」とは辞海(1978年版)、辞源(1987年版)は共に「阻難」(障害があり、困難なこと)と説明する。

「危険」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。史書では漢書が初出ではあるが、荀子や列子などにも使われているので、かなり古い語であることが分かる。



資治通鑑で「危険」が使われている場面を見てみよう。北魏の孝文帝が崩御し、その息子で太子の元恪(宣武帝)が即位した。後代の我々が習う歴史ではさらりと書かれる事態でも、当時の皇室関係者にとっては皇帝の崩御は、各個人にとっては生死のかかる大事件であった。

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彭城王の元勰が跪(ひざまず)いて亡帝の遺敕を数枚受け取った。太子のお付きの者たち(東宮官属)の多くは叔父の元勰が秘かに皇帝位を狙っているのではないかと疑い用心して反乱に備えた。ところが元勰は本心から礼を尽くして反乱の素振りを全く見せなかった。元勰の兄に当たる咸陽王の元禧が魯陽に到着したが、直ちに入城せず、城外にとどまり宮廷の動向を窺っていた。しばらく様子を見ていたが、謀略がないことを確かめてから城内に入った。そうして弟の元勰に「お前は帝の崩御後のいろいろな事をテキパキと処理をしてくれたようだが、それが人々に、お前は危険人物だと思わせたようだな」と声をかけた。元勰は「兄上は歳を取っている上に、見識も高いので、物事の判断は正しいでしょうが、私はいわば」『蛇を握り、虎に騎(のっ)て』いるようなものです。危ないことをしているとはちっとも思ってもいませんでした。」

彭城王勰跪授遺敕数紙。東宮官属多疑勰有異志、密防之、而勰推誠尽礼、卒無間隙。咸陽王禧至魯陽、留城外以察其変。久之、乃入、謂勰曰:「汝此行不唯勤労、亦実危険。」勰曰:「兄年長識高、故知有夷険;彦和握蛇騎虎、不覚艱難。」
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崩御した孝文帝には何人もの異母弟がいたが、いずれも実力がありかつ野心家であったようだ。彭城王の元勰は孝文帝が崩御した時に近くにいたので、皆は、元勰が甥である太子の元恪を殺して帝位を奪うのではないかと懼れていた。また、兄・咸陽王の元禧も迂闊に宮廷に入ると元勰の手下に暗殺されるのではないかと懼れ、都に到着しても暫くは城外に滞在して様子を見ていた。

このように、中国では帝や王の相続に際しては昔からずっと疑念と陰謀が入り混じっていた。皇室の男子が皆、最も緊張する時である。それだけでなく相続に直接関係しない皇室の女性たちも、命が危ない時でもあった。

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元勰たちは孝文帝(高祖)の遺詔だと称して馮后に死を命じた。北海王の元詳が(馮后の邸に行き)長秋卿の白整に馮后に毒薬を与えるよう命じた。馮后は「嫌だ!」と逃げ回り、毒薬を飲もうとしなかった。「亡帝がどうしてこのような酷いことを遺言するものか、これは諸王が私を殺そうと図っているのだ!」と叫んだ。白整は馮后を抑え込み、無理やりに口に毒薬を注ぎ込んだので、馮后はとうとう死んでしまった。馮后の喪列が洛城の南に到達した時、咸陽王の元禧たちが馮后の死にざまを聞いて、お互い顔を見合わせて「たとえ、亡帝の遺言がなくても我ら兄弟で馮后を殺すつもりであった。どうして淫乱な馮后に天下を任せて、みすみす殺されるような真似をしようぞ!」と言いあった。馮后は幽皇后と諡(おくり名)された。

勰等以高祖遺詔賜馮后死。北海王詳使長秋卿白整入授后薬、后走呼、不肯飲、曰:「官豈有此、是諸王輩殺我耳!」整執持強之、乃飲薬而卒。喪至洛城南、咸陽王禧等知后審死、相視曰:「設無遺詔、我兄弟亦当決策去之;豈可令失行婦人宰制天下、殺我輩也!」諡曰幽皇后。
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北魏には有名な馮太后(文成文明皇后)がいるが、ここでいう馮后とはその姪に当たる人だ。帝の生前から淫乱が度を越していたので、王族たちから憎しみをかっていた。それで、夫の孝文帝が崩御すると帝室の総意で毒殺された。このことから分かるように、皇后の位にあっても、本当の権力を持たないことには、自分の身すら守れないということだ。資治通鑑のように事件や人の心のの背面・内面を詳細に記述している歴史書を読むと、通り一遍の歴史的解釈には実態とはかけ離れたでたらめな観念論が多いことが痛いほど分かる。


続く。。。
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【麻生川語録・48】『補助輪なしの哲学』

2019-03-10 14:43:45 | 日記
私は現在、リベラルアーツの講演や研修を行っているが、以前はライフネット生命を創業されてから立命館アジア太平洋大学(APU)の学長に就任された出口治明さんと一緒にリベラルアーツ・フォーラム(正式名称:リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム)を20回開催した。現在は、某ネット教育会社で私のグロバール・リテラシー講義(合計20時間弱)の動画配信が行なわれている。これら、さまざまな機会を通じて、数多くの受講生に接してきた。ほとんどの方はリベラルアーツやグローバル・リテラシーの修得に熱意をもち、種々な本を読んで知識や見識を深めている。その熱心さには敬服するものの、なかには熱心さが却って裏目に出ている人もいる。

その典型的な例は、哲学や思想関係の本ばかりに集中する人だ。西洋の哲学の本流であるプラトン、アリストテレスからはじまり中世のトマス・アクィナス、近世のスピノザ、デカルト、カント、ヘーゲルなどの著名な大哲学者の本を読みその内容に熟知している人もいる。私事で恐縮だが、学生時代は私と同じ下宿に京大の文学部哲学科の先輩がいたので、ハイデッガーを始めとする大哲学者や大学の哲学科の様子などについて多くのことを教えて頂いた。また、東洋思想の中核をなす中国の思想(儒家、諸子百家、朱子学、陽明学)や仏教学や禅などに心酔する人も多い。とりわけ日本のビジネス界では陽明学の人気が高い。私も40年ほど前に社会人になった当初、陽明学者・安岡正篤師の本はかなりの冊数を読み、教えられるところが多くあった。

私自身の経験から哲学や思想の本を読むことを否定している訳ではない。むしろ、人間の思想的骨格を形成するには、これら大哲学者や大思想家の本を少なくとも一度は目を通すことは必須だと考えている。これらの本を読むと自分では思いつかないような物の考え方を知ることができる。しかし、論語にいう「過猶不及」(すぎたるは、なお及ばざるがごとし)のように何事も行きすぎはいけない、のである。この点について説明しよう。

人間が日常生活している上で、心がくつろぎ、安心感を得ることのできる「コンフォート・ゾーン」(快適な領域、comfort zone)なるものがある。人間は朝起きてから晩に寝るまでの間、朝食にはじまり、通勤、仕事上のミーティングなどいろいろな事を行うが、行うことが普段と同じであればあまりストレスを感じなくて済む。ところが、職場を変わったり、あるいは上司、住居が変わると慣れないことが次々と起こり、ストレスを感じ、つい元の状態に戻りたいと思うことがある。つまり人間というのは一面では新規性を求めるものの、心に負担を感じずに惰性で生きていく方にやすらぎを感じるようになっている。

さて、思想面でもこのコンフォート・ゾーンに陥りやすい。大哲学者や大思想家の文章というのは、最初に内は文章の意味を理解できなくて敷居を高く感じられるが、慣れてしまうとその独特の言い回しに魅了されてしまう。その状態というのは彼らの思想を理解できた、というのではなく、むしろ「表現のスマートさ」に酔いしれるという表現が当てはまる。例えば、カントの主著の『純粋理性批判』では先験的観念性(transzendentale Idealitaet)という概念が定義されている。それは、人間にとって時間や空間(時空)は改めて定義できるものではなく、生まれつきそれらが分かるようになっているということだ。ここで考えないといけないのは、カントの定義した「先験的観念性」なる概念が本当に存在しうるのか、ということを確認することだ。残念ながら、このような本質的な疑念についての考察を一切省略して、まずはこのような単語を使ってカントの口真似をすることに自己陶酔してしまうこと人があまりにも多い。

私が哲学や思想に耽溺するのを非難するのは、リベラルアーツを熱心に学ぶ人の中にこういった事態に陥る人がかなりいるからだ。大哲学者や大思想家の本ばかりを読んでいると、たとえ彼らの使っている用語や表現が完全に理解できていなくても知らず知らずの内に自分の表現として沈着してしまう。それはあたかも「如入鮑魚之肆、久而自臭也」、つまり「知らず知らずの内に悪臭に染まってしまう」のだ(『顔氏家訓』)。元の大哲学者や大思想家は長年考えた末に到達した結論であるので、自分が何を話しているのかが分かっている(可能性が大である。ただし、中にはそうでもない人もいる)が、彼らの本をさらりと読んだ読者にとっては彼らの思想、表現は借り物に過ぎない。それにも拘わらず大哲学者、大思想家の表現を使うと、あたかも水戸黄門の印籠を高々と掲げると周りの人々が「ヘーへ―」っと平伏するごとく、周りの人を納得させる威厳が自分にはあると錯覚してしまうからだ。周りからみると滑稽なマンガであるが本人はそれには全く気付いていない。


【出典】GLORIA MUNDI: The lasting influence of Schopenhauer

ここで注意を喚起したいのは、大哲学者・大思想家の議論・主張が果たして正しいのかどうか、という点について健全な懐疑心で検証して欲しいということだ。なぜ、懐疑心をもつことがリベラルアーツの修得に必要か、一例を挙げよう。

フランスの大哲学者ルネ・デカルトは宇宙や神の存在についてさまざまに考えた末に、不朽の名言「Cogito, ergo sum」(我思う、故に我あり)を述べ、「全ての事柄は疑わしいが自分が考えているという事実だけは疑う余地のない真理だ」に辿りついた。デカルトはこの確信から人間は方法的懐疑を通して初めて真理に到達できるということを『方法序説』で主張した。この方法的懐疑を駆使して彼は神の存在を証明することに成功した(と彼は考えた)。

ここまで読むと、神の存在証明に成功したデカルトの思考の深さに圧倒されることだろう。デカルトの知性は一般人を遥かに越えるレベルで、彼に従っていけばそのうちに真理に到達できると思い込む人もでてくることだろう。しかしそのような高い知性をもったデカルトも一面では非常に稚拙な意見を述べていることを知ると愕然とするであろう。彼の『哲学原理』の中で世界・宇宙の構造を論じた部分があり、宇宙は渦構造をしているという「渦動説」を展開した。現代の物理学・天文学を知っている我々からみれば、彼の考える宇宙の構造は、かぐや姫や火星人のような「おとぎ話」かタワゴトにしか聞こえない。これから分かることは神の存在まで証明できたデカルトの知性も実際は完璧でなく、部分的には「張子の虎」でもあったということだ。

私は20代の始めにショーペンハウアーの Selbstdenken (自ら考える)という言葉に出会い、健全なる懐疑心をもって自分なりの意見を作り上げることが西欧思想の柱、それも骨太の柱、であることを教えられた。確かに自分なりの考えを持つには幅広い読書が必要なのは改めて言うまでもない。それは喩えていえば、自転車に乗るときに二輪車では倒れてしまうので、始めは補助輪のついた自転車で練習するようなものだ。読書という補助輪なしには自分なりの思想も出来ない。しかし慣れてくると補助輪を外して自由に乗るように、本来であれば、大哲学者や大思想家の本を読むというのは過渡期の「補助輪」であるにも拘わらず、いつまでたっても自分自身の考えを構築できず「補助輪」付の読書から抜け切れない人がいる。これはいみじくもショーペンハウアーが指摘したように自分で考えるより人の思想、表現に乗っかかるほうがコンフォートゾーンであるからだ。

昔、ドイツ語を勉強している時に「涙なしのドイツ語」という本を見たことがあった。それをもじっていうと、リベラルアーツを修得するときに重要なのは「補助輪なしの哲学」を構築しようという心構えであるとつくづく思う。この気構えが無いと何年リベラルアーツを学んだとしても最終的にリベラルアーツの終着点である「文化のコアをつかんだ上での自分なりの世界観・人生観」を構築することは不可能であろうと私は思っている。
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想溢筆翔:(第393回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その236)』

2019-03-03 14:06:07 | 日記
前回

【335.命中 】P.4441、AD499年

『命中』とは「目あてとする所(的)にあたること」という意味で当てる前に、目的とすべき所が明確であることが必要である。

辞書の説明ではなく、顔師古が漢書に付けた注を見てみると、
 「命中者、所指名処即中之也」
(命中とは、指名した場所にあてること)と説明する。

さらに、資治通鑑に胡三省がつけた「命中」についての注は次のように説明する。
 「先命其処而後射中之、謂之命中」
(先にその所を命じ、而して後にこれに中(あ)つ。これを命中という)

いずれも「狙った所に当てる」ことを意味することが分かる。

「命中」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表の様になる。


『史記』(巻11)で一回使われているように見えるが、これは
 「更命中大夫令為衛尉」(更に中大夫令を命じて衛尉と為す)
という意味なので「命中」という意味で用いられているのではない。「命中」という意味で用いられているのは『漢書』(巻54)からだ。

(以前も述べたように、検索結果表は全てのデータを必ずしも綿密にチェックしているのでないので、今回の史記のケースのように正しい意味で使われていない場合も含むことを了承されたい。)

さて、資治通鑑で「命中」が使われている場面を見てみよう。

前回紹介した場面(北魏の孝文帝の崩御)の続きで孝文帝がいかに仁愛深かったかという紹介である。

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敵の領土である淮南を行軍したときも、あたかも自分の領地内を進軍するするようであった。というのは、兵士に田畑の作物を踏み荒らすのを禁じた。また、やむなく民間の木を切り倒した場合には必ず代償として絹布を残していった。宮殿もやむを得ない事情でなければ修理や新築工事はしなかった。服は汚れたら洗って着た。馬の鞍は金銀などで飾らず、鉄と木で質素な物を用いた。

帝は幼いころから弓が上手であり、また指で押して羊の骨を折ることができるぐらいに筋力もあった。狩りに行って動物に命中しないことはなかった。しかし15歳になってから二度と狩猟をしなくなった。そして歴史の記録係にいつもこういっていた。「記録は正確につけよ。君主は権力があるから誰もその行いを止めさせることはできない。もし歴史に君主の悪が残らないようであれば、君主は何もおそれず悪事をするに違いない!」

在淮南行兵、如在境内。禁士卒無得践傷粟稲;或伐民樹以供軍用、皆留絹償之。宮室非不得已不脩、衣弊、浣濯而服之、鞍勒用鉄木而已。

幼多力善射、能以指弾砕羊骨、射禽獣無不命中;及年十五、遂不復畋猟。常謂史官曰:「時事不可以不直書。人君威福在己、無能制之者;若史策復不書其悪、将何所畏忌邪!」
 +++++++++++++++++++++++++++

司馬光が資治通鑑を編纂したのは皇帝に君主にたるべき人のあり方、正しい政治のあり方を教えるためであった。それ故、孝文帝が本当にここで述べられているような仁愛溢れた人であったか、という近代の歴史家が行うような細かな詮索は資治通鑑ではあまり積極的に行われていない。

そういった点で、もし適切な詮索が必要な場合には胡三省が何らかの発言をしている。しかし、この個所につけられた胡三省の注は
 「自此以上、史言魏孝文徳美」(ここまで、史官が魏・孝文帝の徳美を述べた)

とだけなので、孝文帝は当時においては仁徳の君主であったとの認識が広く文人の間に共有されていたと考えられる。

続く。。。
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