限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第50回目)『中国四千年の策略大全(その 50)』

2024-02-25 09:30:16 | 日記
前回

日本で「戦国時代」というと、世の中が常に戦争状態で、人々は戦火にみまわれて大変な日々と過ごした悲惨な時代であった、と考えらえるが、中国の歴史を読めば、それこそ戦国時代でない年月はない、といってもいいように紛争・争乱・暴動が多い。共産党政権が強権的に支配している現代の中国においてすら、報道されていないが国内暴動件数は極めて多い(ようだ)。最近の数字は見つけることができないが、ひところは年間18万件ちかく、つまり日々500件ほどの国内暴動が発生したと言われる。それで、例えば、2017年には、国家歳出では、国防費(17兆円)より国内治安維持費(21兆円)の方が2割も多かったとのことだ。そのような時代を長く送っていたので、中国人は平和ボケした日本人には思いつかないような「戦時的知恵」に長けた武将が多い。今回紹介する、達奚武もそのような武将のひとりだ。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 848 / 達奚武】(私訳・原文)

宇文泰が達奚武に敵将・高歓の軍営の様子を調べてこいと命じた。達奚武は部下の騎兵3人と高歓の武将の服に替えて敵陣に近づいた。日が暮れてから、敵の軍営から数百歩離れたところで馬を下りて、合言葉を盗み聞きすると、また馬に乗って軍営に近づいていった。そして、あたかも夜回りの警護の武将のように、規則に違反している者をみつけては、しょっぴいて鞭で打ったりしながら情報をいろいろと入手して、無事に戻ってきた。

宇文泰遣達奚武覘高歓軍。武従三騎、皆効歓将士衣服。日暮、去営数百歩、下馬潜聴、得其軍号、因上馬歴営、若警夜者、有不如法、往往撻之、具知敵之情状而還。
 ***************************

一般兵士にとっては、警護の武将などは神にも思えるような強権的存在なので、易々と威令に服してしまうのであろう。こういった習慣は今なお、続いているようだ。その代表的な例が「城管」とよばれる都市警察隊である。上で述べたような中国の暴動の大きな要因の一つが、これら城管によるきびしい立ち退き要求や、賄賂強要であるといわれる。



中国だけでなく、世界で起こった戦争と日本での戦争の一つの大きな違いは、敗戦時の大将の去就だ。日本では、敗戦の責任をとって、「切腹して詫びる」のが武将の美学とされるが、日本以外では、大将はとことん逃げ延びるものだ。力を溜めてリベンジを狙う、いわゆる「捲土重来」を図るのが大将たる者の務めだ。そういった背景を知っていると次の話もすんなりと理解できる。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 849 / 廚人濮何無忌王世充王守仁】(私訳・原文)

春秋時代、華氏が宋に叛いた。宋公は華氏を討った。華登が呉から援軍を借りて、華氏を救いに来たが、鴻口で宋公の軍に敗れた。しかし、それでも華登まだしぶとく敗残兵を集めて、宋と戦い、今度は勝った。戦いに敗れた宋公は意気消沈して国外へ脱出しようとした。公のコックの濮がいうには「私めは主人の為に死ぬことはできても、逃亡のお供はできません。公、暫くお待ちください。」そう行って、コックは兵士たちに「宋公の旗を高く掲げよ、旗を掲げない者は敵だ!」。兵士たちは皆、旗を高く上げた。華氏の軍は宋の兵士勢いに押されて逃げたが、宋の兵士は後追いした。コックは無造作に落ちている首を一つ風呂敷に包んで背負い、走りながら、「敵の大将、華登を討ち取ったぞ!」と叫んで回ったので、華氏は新里で敗北した。

華氏叛宋、宋公討之。華登以呉師救華氏、敗於鴻口。華登帥其余以敗宋師。公欲出、廚人濮曰:「吾小人、可藉死、而不能送亡、君請待之。」乃徇曰:「揚徽者、公徒也!」衆従之。華氏北、復即之。廚人濮以裳裹首而荷以走、曰:「得華登矣!」遂敗華氏於新里。
 ***************************

コックの機転で、敵の大将の首を討ち取ったというデマが味方を勇気づけ、敵を消沈させた。現在で、これをすれば「フェイクニュース」を流したと罰せられるが、反面から見れば、それほどフェイクニュースの威力は凄いということになる。世間では、フェイクニュースは悪だとの認識が一般化しているが、そもそも戦争は大悪であるから、人情はべつとして、純粋に論理的に考えると、小悪で大悪を終わらせることができれば、「フェイクニュースのような小悪も一概に悪いとは言えない」、との主張もあり得よう。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想溢筆翔:(第446回目)『YouTube大学に見る中田敦彦の独学術(後編)』

2024-02-18 09:16:33 | 日記
前回

前回でも述べた様に、本稿は中田氏のYouTube大学の宣伝ではなく、彼のYouTube動画作成過程で、参考にすべき独学術についての話だ。

参考すべき点というのは「読んだことを人に話す」という点である。いくら記憶力が良い人でも、読書しただけだとなると、時間の経緯と共に記憶が薄れていくものだが、読んだ本の内容を人に話をすると、長い間頭に残るものである。ましてや、YouTubeにアップする動画のように、話した内容が長く残ってしまう場合、話す内容に対して責任感が伴うので、しっかり理解した上で話すので猶更、記憶に残る。

「読んだことを人に話す」ということの重要性に私が始めて気づいたのは京都大学の1回生の時であった。京都大学は、徒然草で有名な吉田兼好ゆかりの吉田神社の麓にあり、例年2月3日の吉田節分祭では多くの出店が東一条の通りを埋めつくす。当日、いつものように学食で夕飯を食べたあと、正門をでると驚くほど多くの人で通りが埋まり、カンテンで夜店があかあかと照らされていた。その人込みに京都という伝統をしみじみと感じた。



しばらく佇んだあと、ふらりと正門のすぐ近くにるナカニシヤ書店に入った。ぶらぶらと本棚を眺めていて、たまたまレーニン著の岩波文庫の『国家と革命』が目に入った。本のタイトルだけは知っていたものの、内容はまるで知らなかったのだが、買って下宿に戻った。節分祭の興奮もあって、寝付かれなかったので、早速読み始めた。当時は、まだ日本に吹き荒れた学生運動の余韻が残っていて、京大でも教養部で全学ストライキが決行されたこともあって、社会制度について考えることが多くあった。それで、この『国家と革命』の内容にも惹かれて読み進め、とうとう徹夜して読了した。早速、翌日の昼、学食で同級生に出会ったので、私は多少興奮気味にこの本の内容をしゃべった。同級生はあまり興味を示さなかったが、それでも私は話し続けた。たった一度『国家と革命』を読んで、話しただけだが、本の内容は長く記憶に残った。こういう経験があるので、私は中田氏が実践している、一冊の本を読んだ後で人に話すというのは、非常に良い方法であると賛同するのである。

もっとも、中田氏のやりかたに非難が多い。曰く「一冊の本だけから解説している。」「漫画本から解説している。」「広く浅く、興味を持たせるだけで、間違いも多いし、内容も深くない。」たしかに、この指摘は当たっている面がある。しかし、逆に学者の話はいつも傾聴に値するのだろうか?ある時、日本史の学者の卵と話をしていて驚いたことがあった。彼は、「室町時代の荘園について、研究している」と、言ったので私は「室町時代の前の平安や鎌倉時代も研究するのですか、また、世界の荘園の制度との比較もするのですか」と聞くと、「いえ、室町時代の荘園だけです。」との返事だったので、私は「何と狭い! こういう世界観もあるのか!」とびっくりしてしまった。こういう狭い分野しか知識のない専門家の話を聞いても面白くないのはいうまでもない。もっとも、専門家の中には幅広い人もいるのもまた事実だ。

中田氏のYouTube大学でしばしば枕詞のように口にしているのが「自分は大学受験の時、日本史を取ったので、世界史を習っていない。それで世界のニュースを聴いても理解できなかった。これではいけないと思って、(社会人になってから、自分で)世界史を勉強した。そうすると世界史が面白いことに気づいた。自分が学んでいて楽しいから、人にもその楽しさを伝えるのを目的としている。」と述べる。彼のこの言葉は、文科省の愚策である「ゆとり教育」の被害者の境遇を代弁している。昭和30年生まれの私の高校時代は全てが必修だったので、社会科目や理科科目は文系・理系問わず、一通り勉強した。世間では「詰め込み教育」と非難されるが、こういった教育は私はよいと感じる。この点を考えるきっかけとなったのは、以前のブログ
 百論簇出:(第87回目)『京大生の知識レベルは中卒並み?』
に書いたが、2009年から京都大学の一般教養科目を教えていた時に受けた衝撃であった。

残念ながら、「個性を大切にする」との掛け声で、必修科目を減らしたため、穴ぼこだらけの基礎知識しか持たない人間を粗製乱造している現代の日本の教育の質はかつてより、かなり低下している。この点を少なくとも気づかせ、中高時代に学んでこなかった科目を自分で学ぼうとする時の敷居の高さを取り払ってくれ、未知の科目を学ぶ道筋の露払い的役割を果たしてくれるYouTube大学のようなWeb上の教育コンテンツは、存在意義はあると、私は考える。

続く
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

智嚢聚銘:(第49回目)『中国四千年の策略大全(その 49)』

2024-02-11 10:06:35 | 日記
前回

韓信の「背水の陣」は孫子の兵法のいう「陷之死地、然後生」の一つの成功事例だ。しかし、これがあまりにも成功したため、孫子の言葉を実践するには必ず「水」がなければならないと思い込んでしまってはいないだろうか?しかし、原点に立ち返ってみると「死地」という言葉に重心があることが分かる。「死地」の一つが「背水」であった訳だが、果たしてそれ以外の「死地」はないのだろう? 武将の中には別の「死地」を考えついた者もいた。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 841 / 韓信】(私訳・原文)

李復が反乱を起こした時、宣撫使は韓世忠に反乱を鎮圧するよう命じた。韓世忠にはわずか1000人足らずの兵士しかいなかった。韓世忠はそれを四隊に分け、鉄菱を道一杯に撒いて、帰り路を塞いだ。そうして兵士たちに「前に進めば勝てるが、退却すれば死だ。それでも逃げるものは、後続部隊が刺し殺すからな。」と言ったので、兵士の中に敢えて後ろを見るものはいなくなり、全員必死で戦ったので、敵に勝ち、李復を斬ることができた。これらは皆「背水の陣」の故智に倣ったものだ。

李復乱、宣撫使檄韓世忠追撃、所部不満千人。乃分為四隊、布鉄蒺藜、自塞帰路、令曰:「進則勝、退則死、走者命後隊剿殺。」於是莫敢反顧、皆死戦、大敗之。斬復。此皆背水陣之故智也。
 ***************************

進軍中、道路に鉄菱をばら撒いていったため、兵隊たちは退却が出来なくなり、前進して相手を倒すしか生き延びる道が無くなった。死にもの狂いで襲ってくる軍隊ほど恐いものはないというのは、古今東西の戦争の鉄則で、ハンニバルにしたって、唐の太宗にしたって、敵を囲むときには、必ず一ヶ所だけ、わざと逃げ道を残していた。



戦力が相手より劣っている時に、いかにして兵士たちに死力を尽くさせることができるか、これが将軍の智略の見せ所だ。上に挙げた背水の陣のようないわば、剛球のような戦法もあるが、山なりのスローボールのような戦法もある、というのが次の話だ。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 843 / 勾践柴紹】(私訳・原文)

葉谷渾が洮州と岷州とに侵入してきたので、柴紹を救援に送ったが、逆に敵に囲まれてしまった。敵は小高い所から矢を雨の如く射かけてきた。柴紹は敵の気をそらすため、胡琵琶を伴奏に二人の女ダンサーに踊らせた。敵は何事か、と怪しみながらも、皆集まってダンスを見ていた。柴紹は敵がダンスに気を取られている隙に、秘かに精鋭の騎兵に敵陣の後方から攻撃させ、大勝した。

葉谷渾寇洮、岷二州。遣柴紹救之、為其所囲。虜乗高射之、矢如雨下、紹遣人弾胡琵琶、二女子対舞。虜怪之、相与聚観。紹察其無備、潜遣精騎、出虜陣後、撃之、虜衆大潰。
 ***************************

まったく戦場では一瞬たりとも油断は禁物だということが痛いほど分かる例だ。日本武尊が熊襲をやっつけたのも、女装の兵士たちではなかっただろうか。歴史上、男たちは女に気をとられたため、さんざん痛い目に遭っているにも拘わらず、一向にその性癖は止む気配がない。この性癖は因果な宿命で、きっと死ぬまで直らないないのだろう。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想溢筆翔:(第445回目)『YouTube大学に見る中田敦彦の独学術(前編)』

2024-02-04 10:01:50 | 日記
中田敦彦氏のYouTube大学は登録者数が500万人を越える巨大なサイトだ。私が中田敦彦氏のことを知ったのは、数年前に人から彼のYouTube大学のことを教えられてからだ。早速チェックしてみると流石に元芸人だけあって、アップされていた教育動画はお笑いの要素が満載であった。ただ、昨年あたりから、スタイルや話題をかなり変えて、バージョンアップした、いわゆる「2.0化」ともいうべき進化を遂げている。

もっとも、世の中には、彼のしゃべる内容が「薄っぺらい」「誤解を与える発言がある」と批判する人も多い。確かに、その指摘も納得できる。たとえば、彼自身も韓国・朝鮮事情に関して以下に示すように動画を何本かアップしているが、続編のビデオでは、視聴者から発言内容の間違いをいくつも指摘されたと率直に述べている。
 日韓関係①】日本と韓国の歴史【한일 관계 ①】일본과 한국의 역사
 【韓国&北朝鮮①】朝鮮半島の歴史と反日感情の理由



中田氏の知識に間違いがあると指摘する人に言いたいが、世の中の所謂、識者や大学者と呼ばれている人でさえ、臆面もなく間違った意見を堂々と述べていることだってあるということだ。一番有名なのが、日本の文化人にとって最高の栄誉である文化勲章を授与された江上波夫の「騎馬民族征服説」であろう。この説に対しては、彼の存命中でさえ多くの疑念が出されていたが、彼は自説を信じ切っていたため、まったく撤回することなく死去した。それから数十年経った今では、彼の論説はほぼ完全に否定されている。

私は以前に「騎馬民族征服説」そのものも読み、また反対意見も読んで、反対意見の方に納得を覚えたので、江上波夫の見識に対して長らく否定的に考えてきた。ところが、最近彼の『学問の探検』(佼成出版社)という回想記を入手して読んだところ、彼の学問探求の情熱や方法論に感心した。とりわけ、世間の著名人の意見や学界の常識にとらわれることなく、自分で原典や現地調査から推論を重ねていくというその方法論は私のやりかたとそっくりであると知った。それで、彼の「騎馬民族征服説」に対しては今でも否定的ではあるものの、学者としての学問探求姿勢に対しては称賛を惜しまないものである。

江上波夫だけでなく、大家で間違った意見を堂々と述べていたもう一つの例としては、和辻哲郎が挙げられる。和辻の有名な本『風土』は、しばしば高校の国語の教科書などに取り上げられるが、この本の内容に関しては私の以前のブログ
 百論簇出:(第144回目)『リベラルアーツを極めるための読書法』
でも指摘したように、全くもって実証主義精神の欠落を露呈するものである、と私には思える。ところが、彼自身は自説に大いに自信をもっていたようで、この本をわざわざドイツ語に翻訳して出版した。自己の見識の浅はかさを、頼まれもしないのに自分から世界に対して吹聴したのである。こういった大家の例に比べると、現時点の中田氏の知識の足りない点があるなどというのは、ほんのかすり傷程度であると言えよう。

初めから完全であるものは何もない。電話が初めて開通した時、エジソンの第一声は「ワトソン君、ちょっとこっちに来てくれないか」 ではなかっただろうか? 年月をかけて、失敗を経験したり読書を積み重ねていくことで人は成長するものだ。

さて、私が中田氏のYouTube動画について語りたいのは彼の知識の欠陥や間違いを弁護をするためでなく、彼のYouTuberとしての仕事ぶりから、ロールモデルとなり得る「独学術」を学んでほしいからだ。つまり、物事の理解の浅さや間違った発言・記述などを気にしていると知識レベルは高まらない。そんなことより、どのようにして知識レベルを高める方法を身につけるかである。彼のYouTube動画の作成の方法から、独学術のポイントをつかみとることができる。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする