限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

杜漢漫策:(第3回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その3)』

2024-09-08 07:00:58 | 日記
前回

本連載のタイトルである「杜漢漫策」の「杜漢」とはデュエム(Pierre Maurice Marie Duhem)であることは、既に述べたが、後半の「漫策」とは、「きままにだらだらと散策すること」との意味だ。

物事の研究には、集中的に成し遂げる方がよい場合と、散漫的にする方がよい場合の2通りがある。受験勉強や資格試験の勉強などは、前者であろう。時間を効率的に使い、なるべく脇道に逸れることなく、決められた内容をきっちりと覚えこむことが成果を生む。しかし、それとは逆に新しい企画を練る場合のように、調べることが明確になっていないような場合はなるべく間口を広げていろいろな所に寄り道するのがよいだろう。

日本では中学、あるいは高校から大学受験のために、受験勉強の仕方以外の勉強の方法を知らないので、どのような場合でも効率を重視して、脇目もふらず進むことをよしと考えている人が多い。リベラルアーツ道においてはこのような直線的な方法ではうまくいかない。それとは真逆の、至るところで寄り道をしたり、脇道に逸れるのがよい。今回、デュエムの分厚い本(全10巻、総ページ数、5000ページ超)を読み進めているが、今まで以上に積極的に寄り道をしながら読んでいる。



それは、いままで諸般の事情で参照することが困難であったヨーロッパの権威ある百科事典や辞書を活用できることになったのが一つの理由だ。現在、毎日のごとく参照している百科事典について説明しよう(番号は前回からの通し番号)

6.フランス語:La Grand Encyclopédie (1886年)

先ず、フランス語の百科事典だが、これは前回紹介した5.Larousseのものと異なり、私の好きな「大項目」の事典で、次に紹介するBritannicaに匹敵する。とにかく、フランス語の書物を読むのであるから、人名などはフランス語の百科事典の方が調べやすい。私がデュエムの『宇宙の体系』をフランス語で読んでみようと踏み出したきっかけの一つは、この百科事典を ― PDF版ではあるが― を入手できたことにある。しかし、紙と違って、PDFというのは、項目の該当のページが分からないと、探す手間が非常にかかる。それだと話にならないので、かなりの時間をかけて、PDFの検索システムを自作した。

自作したのは、検索項目がPDFの何ページ目(あたり)にあるかを割り出し、その該当ページを指定した倍率で表示するシステムである。このようなことは、いとも簡単にできるように思えるが、どっこい、数々の困難があった。例えば、地図や図、写真などがあると、該当ページには番号が振られないので、PDFのページ数と元の百科事典のページ数が食い違う。また、PDFからOCR解析した文字情報は、3と8や小文字のl(エル)と1(数字の一)を読み間違えるなど、実に様々な問題にぶつかった。しかし、苦労して検索システムを完成させたおかげで、人名など調べたいことがあると即座に該当ページを見ることができる。実にスムーズに情報にアクセスできる。このシステムは汎用的で、今回紹介するPDFの百科事典だけでなく辞書など、数多くの検索システムを作った。ちなみに、私は今回のデュエムのような学術書を読むときには、Wikipediaよりは、圧倒的に紙の事典類を信頼する。
【参照ブログ】
 百論簇出:(第280回目)『シニア・エンジニアのPython事始(その6)』

7.英語-1: Encyclopedia Britannica, 9th version(1875-1889 出版)
8.英語-2: Encyclopedia Britannica, 11th version(1910-1911 出版)

前回紹介した、2.Encyclopedia Britannicaよりずっと古いが、今まで出版されたBritannicaで、いずれの版も学術的見地から最高峰との評価を受けている。Britannicaには中学生の時に始めて出会って以来、常に憧れ、いくつかの版を入手した。この2つのBritannicaもそれぞれ紙の物は所有している。ただ、11版は最近になって、ドイツ人の友人の昇進祝いに贈呈したので手元にない。しかし、幸いなことにこれらの版のPDFとOCR化されたテキストをインターネットからダウンロードすることができた。そして、上で述べた方法で、インデックス化して、検索項目のページにすばやくアクセスできる環境を整えた。
【参照ブログ】
 沂風詠録:(第304回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その9)』

9.ドイツ語:Meyers Konversationslexikon(1885-1892 出版)

ドイツ語の百科事典は前回紹介した4.Brockhausより古く、上に紹介した、6.7.とほぼ同時代に出版された。ドイツ語の百科事典は私の見た限りでは、どれも小項目主義のため説明が短く物足りないので、滅多に参照しない。

10.ドイツ語:Der Kleine Pauly (1964-1975 出版)

このKleine Paulyはギリシャ・ローマの文献や事蹟に特化した百科事典だ。こと、古代のギリシャ・ローマに関することであれば、普通の百科事典に載っていないようなマイナーな人物や事柄も知ることができる。

 ==================

デュエム(杜漢)を読みながら、気にかかった事項は、その都度、これらの百科事典をチェックするので、なかなか進展は遅い。学術的に高いレベルの優れた百科事典類を使いながら、寄り道ばかりの漫策を楽しんでいる。

続く。。。
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想溢筆翔:(第451回目)『「先端教育」のリベラルアーツ関連記事紹介』

2024-09-01 09:57:51 | 日記
気づいてみれば(とは、多少大げさだが)早くも来年に古稀を迎える歳になった(嗚呼已矣哉!)。振り返れば、20代の初めに「徹夜マージャンの果てに」で奮起して「リベラルアーツ道」を極めようと志したのであった。
【参照ブログ】想溢筆翔:(第1回目)『徹夜マージャンの果てに』

その後すぐにドイツに留学したことで、本格的にめざすべき「リベラルアーツ道」の輪郭が見えてきた。というのは、このブログで何度も述べているように、ドイツ留学中に読みだしたシュライヤーマハ ーが訳したプラトンの対話編によって、私は始めて自分で納得する考えつくりあげる重要性に眼を開かされた。当初は、10年ぐらいかければリベラルアーツ道の全容がつかめるだろうと高をくくっていたが、どっこいそれはとてつもない見込み違いであった。50年も学び続けて、日本も含め世界の歴史や思想、それに科学技術の事など、数多くのことを学んだはずだが、まだまだ奥の院には辿り着いていない。しかし、最近ようやく極めたかった本丸の場所が明らかになってきた、と実感している。



これまで、中国、朝鮮など漢文歴史書の翻訳本やアジアの旅行記・滞在記の解説本など、数冊出版する過程で、日本も含めアジアのことに関して、とりあえず自分自身納得できる考えが出来あがってきた。科学史技術史に関しては、ここ20年ぐらいかけて十分納得のいく理解を得た。今、過去の経緯を振り返ってみるに、最終的に、もっとつっこんで調べてみたいのが、ヨーロッパ、それも古代と中世にかけてであることに思い至った。これは学生時代にドイツ語で読んだプラトン、セネカ、キケロの影響が今なお強く残っていることが最大の理由だ。それで、現在、ヨーロッパ古代・中世思想を科学技術面もからめて攻略しようととりかかっている。具体的には、Pierre Duhem の10巻にもなる大冊 " Le Système du Monde. Histoire des Doctrines Cosmologiques de Platon à Copernic"をフランス語で読み始めている。このブログの連載記事:杜漢漫策:『デュエムの世界体系・読書メモ』でその様子は公開している。

現在の様子は追々、ブログの中で述べていこうと思っている。デュエムの本は私のあまり得意でないフランス語の本ではあるが、幸運なことに最近のAI翻訳の助けを借りると、思いの外、かなり確実に内容把握がでる。それに加えてWeb環境やプログラミング技術(Python、AWK環境)を駆使して、大部の英仏独の百科事典を素早くアクセスする環境を整えた。これら現代の技術の進歩がなければ、とうてい私が望むような読み方はできなかったと感じ、現代に生きていることに感謝している。

長々とひっぱたが、本稿のテーマは、タイトルにもあるように、昨日発刊された『先端教育』10月号の紹介である。
2014年10月の特集 「混迷の時代を生き抜く知性 実務家に求められるリベラルアーツ」に記事を掲載して頂いた。
『リーダーにはリベラルアーツが不可欠  確固たる世界観、人生観を確立せよ』

この記事は、これから1週間(2024年9/7日まで)の期間限定で、全文を読むことができる。リベラルアーツやリーダー育成に関心のある方々にも知らせて頂ければ大変ありがたい。
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杜漢漫策:(第2回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その2)』

2024-08-25 14:16:35 | 日記
紹介が遅れたが、この読書メモで取り上げるピエール・デュエム(Pierre Duhem, 1861 - 1916)について説明しよう。

前回も述べたように、私がデュエムのことを知ったのは矢島祐利氏の『科学史とともに五十年』(中公文庫)である。この本のP.131~146にかけて『先駆者ピエル・デュエム』という一節があり、その中にデュエムの経歴がかなり詳しく書かれている。ざっといえば、フランスの科学者(専門は物理)であり、同時に科学史家でもある。年代的には夏目漱石(1867 - 1916)とほぼ同じであり、55歳で亡くなっている。

Pierre Duhemの経歴は、Wikipediaにも載っている。そのような場合でも私はたいてい、自分の持っている百科事典でチェックしている。今回、下記の百科事典で調べた。
1.日本語:平凡社・大百科事典(1972年版)
2.英語-1: Encyclopedia Britannica (1969年版)
3.英語-2: Encyclopedia Americana (1968年版)
4.ドイツ語:Brockhaus Enzyklopädie(1968年版)
5.フランス語:Grand Dictionnaire Encyclopédique Larousse(1983年)

年代が古い理由は、これらは古本で格安になったものを買ったからであるが、本質的には、私は辞書類や事典類はかならずしも最新のものがベストとは考えていないからである。これはかつての連載記事『良質の情報源を手にいれるには?』でも述べているように、かつての欧文の辞書・事典の方に私の求める情報が多く記載されているからである。というのは、かつての欧文の辞書・事典類は基本的には高等教育を受けた人間を対象にした知識を書くというのが暗黙の了解になっていたように思えるからだ。具体的には、かつての辞書の語源欄にはギリシャ語由来であれば、ギリシャ文字で語原が記載されていた。また、百科事典にはギリシャ語やラテン語の単語や句が、時には現代語への翻訳文なしに記載されていることも間々見られる。

今回、Pierre Duhemを調べると1~3は記載なしであった。Britannicaに記載なしとは、少し驚いたが最新版には載っているのかもしれない。

4.ドイツ語と5.フランス語には以下に示すような簡単な説明があった。それぞれの百科事典に記載されている原文と、Google翻訳の英文を掲げる。

4.ドイツ語:Brockhaus Enzyklopädie(1968年版)


Duhem [dy'ɛm], Pierre Maurice Marie, French physicist, philosopher, * Paris 10.6.1861, † Ca- brespine (Aude) 14.9.1916, Jesuit, professor of theoretical physics in Bordeaux, representative of classical thermodynamics, developed a scientific theory that became particularly influential in the Vienna Circle. According to this, the laws of physics are nothing but symbolic constructions that reflect reality neither completely nor true nor false. Philosophy serves to develop metaphysical hypotheses for a provisional understanding of the world. Through his well-founded research into the history of science, he paved the way for a new and better understanding of scholastic physics.

Works. La mixte et la combinaison chimique. Essai sur l'evolution d'une idee (1902); L'evolution de la mecanique (1903; German The Changes in Mechanics and the Mechanical Explanation of Nature, 1912); Les origines de la statique, 2 vols. (1905-07); La theorie physique, son objet et sa structure, 2 vols. (1905-06, 1914; German aim and structure of physical theories, 1908); Essai sur la notion de theorie physique de Plato and Galilee (1909); Etudes sur Leonard de Vinci, 3 vols. (1906-13, 21955); Le systeme du monde (5 vols. 1913-17, 10 vols. 1954-59). P. HUMBERT: P. D. (Paris 1937); Ph. FRANK: Modern science and its philosophy (Cambridge 1949).

5.フランス語:Grand Dictionnaire Encyclopédique Larousse(1983年)


DUHEM (Pierre), French physicist and philosopher (Paris 1861-Cabrespine, Aude, 1916). Lecturer at the Faculty of Sciences of Lille (1887), then at that of Rennes (1893), finally professor at the Faculty of Sciences of Bordeaux (1894), he was elected to the Academy of Sciences in 1913. He brought together theoretical works in his Treatise on Energy or General Thermodynamics. A historian of science, he began in 1913 the publication of the System of the World, History of Cosmological Doctrines from Plato to Copernicus, of which five volumes appeared before the Second World War; the last five having been published between 1954 and 1959. ( Bibliography)

この2つを比べて、ドイツ語のBrockhausの方がフランス語のLarousseより文章分量が多いことには意外な感じがした。
ドイツ語の百科事典は、たいていにおいて形容詞の語尾部分が省略されている。例えば3行目から4行目にかけての「der theoret. Physik」とは「der theoretischen Physik」(理論物理学の)と意味である。これはいやしくもドイツ語の百科事典を読もうとする人間であれば、この程度の省略は何も言わなくても正しく読めるはずという前提で書かれているといえる。それに比べて、フランス語の百科事典は語の省略はかなり少なく、よく出会うのは c.-à-d. (即ち)程度である。

それにしても、このGoogle翻訳の英文を見る限り、フランス語原文の意味が正確に読み取れる。2020年代以降の自動翻訳のレベルの高さはセミプロ的とさえいえる。とりわけ、数年前に彗星のように現れたドイツの DeepL との競争でGoogle 翻訳のレベルも一層高まったことは良いことだ。私のDuhem、全10巻読破挑戦もこのような最新のITテクノロジーの助けを借りながら進めていこうとしている。

続く。。。
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沂風詠録:(第364回目)『漢字は哲学するのに不向き?(前編)』

2024-08-18 11:21:14 | 日記
私は中学時代に英語を学んでから、ずっと外国語関心をもってきた。外国語といっても、別に外国語を専門にしていなかったので、1970年代に学生時代の私にとっては、外国語とは西洋語と同義語であった。中高校では、英語はかなりできた方だが、受験英語で求められるような、発音や細かい文法規則などは覚える気がしなかったので、学内の試験はともかく、一般の模擬テストはさほど良くなかったが、英文読解の力は時間をかければ独力でも伸ばすことができた。

大学に入ってすぐに、第二外国語のドイツ語は当初まったく手を抜いていたので、簡単な名詞の変化形が全く言えず『鬼の高木』にこっぴどく怒鳴られた。それから一念発起してドイツ語文法を完全にマスターしたので、学生時代、工学部に属しながらドイツ語の本ばかり読んでいた。3回生になり専門課程に進学してからも、道路をまたいで教養部に行き、フランス語の授業にも出席して単位を取った。ついでに、ひやかしに取っていたドイツ語会話のクラスが私の運命を大きく変えた。
詳細は:沂風詠録:(第72回目)『私の語学学習(その6)』

その後、幸いなことにドイツに留学でき、プラトンやセネカに強くひかれるようになりドイツ語の本をまとめて数多く購入した。プラトンやセネカをドイツ語で読んでいる時に、文章表現が極めて現代的であることに驚いた。2000年も前の文章でありながら、文章の組み立てや論旨の展開が現代の文章と比べてもまったく遜色ない立派な出来栄えであったからだ。この点は特に、ローマ最大の雄弁家・キケロの文章を読んでいる時に強く感じた。ドイツ留学直後だったので、ドイツ語の読解力は十分あったものの、ラテン語はほんの少ししか分からず、ギリシャ語に至っては「It's Greek to me」のありさまだったので、キケロ(やプラトン、セネカ)の文章表現が素晴らしいのは、もともとの文章がよいのか、それとも現代ドイツの訳者が、現代風に意訳しているためかの判断ができなかった。

ともかく、ドイツ語を通じて知った、西洋古典の名著、とりわけプラトン、セネカ、キケロの原書から著者たちの生の声を聴くと同時にこの疑問を解決したいと強く思うようになった。その思いが実現したのは、それから20年ほど経てからであった。数ヶ月、古典ギリシャ語とラテン語を独習して原書をある程度、読めるようになってからこの疑問が解決できた。それは、私が読んでいるのはたいてい古典ギリシャ語とドイツ語、あるいはラテン語とドイツ語の対訳本であるので、ドイツ語の部分の翻訳を理解してから、原文の対応部を見ると、元の文章がすでに立派な文章であることが納得できたからであった。つまり、西洋語は2000年前にすでに現在でも十分通用する込み入った内容の文章表現を可能としていたのである。



話は変わって中国古典。

私は、ドイツ留学後、工学研究科に進学していたが、ほぼ毎日ドイツ語の本を読んでいた。(とはいっても、誤解のないように言っておきたいが、学期末のテストやレポートを提出し、修士論文作成のために計測器の制作や理論式も導き出していた)ところが、ある時に司馬遷の史記の現代語訳をよみ、中国古典にもはまっていった。荘子は高校時代から好きではあったが、本格的に中国古典を読みだしたのは大学院に入ってからであった。それからドイツ語と漢文で、東西両方の古典を読むことに力を注いぎ、後になって漢文訓読を耳から学ぶことで、たいていの漢文は読めるようになった。
詳細は:沂風詠録:(第90回目)『私の語学学習(その24)』

このようにして、哲学に関しては万全とは言えないまでも、西洋と東洋(中国のこと)の両方のものをそれぞれ原語で読めるようになった。

そこで、哲学そのもの関してではなく、哲学表現に関して東西の古典籍をつらつら比べてみるに、正直なところ中国の思想書・哲学書で使われている哲学表現はかなり曖昧なように思われる。それは、漢文のSyntax(統辞法)が古典ギリシャ語に比べて粗いためである。端的にいえば、単語に時制がなく、複雑な文章を作るには必須の形容詞句がなく、関係代名詞も単純な構造でしかないことがいえる。確かに、漢字は概念を綺麗な語句・表現にまとめあげることはできるが、それは必ずしも概念の内容が明確になっている訳ではないということだ。つまり概念定義をあいまいなまなかっちりとした漢語表現を使うことができるのである。それに反し、ギリシャ語では、とりわけソクラテスでは意味不明の表現などは至って少なく、文法規則に従って語句の明確な意味を理解することができる。

これを思うと、どうしてギリシャで哲学が発達したのかが次のように推察できる。彼らが思想表現に駆使した古典ギリシャ語では指示内容の明確な文章表現が可能であるので、間違いない論理展開が可能となる。それに反し、漢語では多少意味不明や意味曖昧でも、巧みに組合せることによって内容豊富(コンテンツ・リッチ)な文章に仕上げることができてしまうのではなかろうか。

後編では、この推察の是非を実際の文章で確認して見よう。!』

続く。。。
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杜漢漫策:(第1回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その1)』

2024-08-11 12:03:03 | 日記
私は現在、「リベラルアーツ研究家」と自称しているが、そもそもリベラルアーツを極めてみたいと思った根源は、ドイツに留学してヨーロッパ文明・文化が、それまで日本に居るときには感じられなかった大きな衝撃を受けたところにある。この衝撃は俗にいう「カルチャーショック」というような生易しい、表層的なものではなく、ヨーロッパ人の思考体系は我々日本人と根本的に全く異なる、という感覚であった。その差が一体何に起因するのか、その理由が知りたくて、自力でさがし探し出そうとしたことがリベラルアーツ道にはまり込むきっかけであった。

当初はヨーロッパ古代から近代にかけての哲学・宗教などの思想書に集中していたが、読んでいる内に徐々に不満が溜まってくるのを感じた。それは思想書は必ずしも、一般人の生活実感を表しているものではないということだ。例えば、私にとっては読破した中では最大の哲学書といえるカントの『純粋理性批判』を考えてみよう。カントは、大学の教授として安定した生活を送っていた。理性を自分の指導原理とした振舞いをしていたが、独身ではあったものの豊かな社交性を身につけ、知的にも社会的にも上流社会の一員であった。『教養を極める読書術』にも述べたように、このカントの哲学書から大いなる知的恩恵を受けた。しかし、一方では18・19世紀当時の庶民はカントのような高踏的思考など無縁の生活を送っていたことも知った。



カンドの時代より少し古いが、中世ドイツの生活実態はオットー・ボルストの『中世ヨーロッパ生活誌』やアルノ ボルストの『中世の巷にて―環境・共同体・生活形式』に書かれているが、同じドイツ人といってもまったく別世界に住む別人種のような生活を送っていたことが分かる。例えば、中世人にとって着物は貴重で、貴族せすら13世紀には下着をつけていなかった。家は木造がほとんどで、石は礎石のみ。また、庶民の家はわずか一部屋で、家族全員が暮らしていたという。カントより後の時代では、19世紀イギリスの庶民生活を描いたメイヒューの『ロンドン路地裏の生活誌』やリーダーの『英国生活物語』がある。それによると、19世紀初頭に産業革命で世界の覇者になったイギリスですら、庶民は普段は肉など食べることができず、日曜にようやく一切れの肉にありつけるというありさまだった。そういった栄養状態なので、平均年齢はわずか25歳だったという。

思想書を中心とした、20代に始まったリベラルアーツの探訪は早くも数十年が経ち、西洋だけでなく対象範囲が広がり、イスラム、インド、中国、朝鮮、東南アジアにも手をひろげ、数多くの本を読んだ。そうして45歳を過ぎるころに漸く自分なりに世界の各文化圏のコア概念がわかるようになった。しかし、これらはいずれもいわゆる人文・社会系からの知識がベースとなっている。

ところが、20年ほど前にふとしたきっかけで科学技術史への興味がわき、大冊の『ダンネマン大自然科学史』(安田徳太郎・訳)、Rene Taton(ルネ・タトン)の "Histoire générale des Sciences"、チャールズ・シンガーの『技術の歴史』(高木純一・他訳)などを次々と読了した。この間に、科学技術史に関する数多くの著作も読んだ。とりわけ、私の知見を大いに広げてくれた日本人の科学技術史家では(順不同で挙げると)三枝博音、中山茂、矢島祐利、薮内清、平田寛、吉田光邦、伊藤俊太郎、山本義隆の諸氏だ。これらの諸氏はいずれも、科学技術に関するだけでなく、広く基底文化を深く理解している。また、多文化圏との比較においても鋭い考察を放っている。このような明敏な先達をもったことに感謝したい気持ちで一杯だ。

さて、矢島祐利氏は現在では知る人は少ないだろう。私が氏を知ったのは、イスラム科学を調べていたときに出会った『アラビア科学の話』と『アラビア科学史序説』の本である。日本では、イスラム学者は数多くいるが、ほとんど全てが思想・宗教・政治・生活史がらみで、イスラム科学(アラビア科学)に関連する成書は至って少ない。矢島祐利氏はそういったなか、戦前にすでにイスラム科学史に関心を深め、戦後になって成果を発表した。アラビア科学の2冊の本を読み、矢島祐利氏の学究的関心がどこにあったのかを知りたくて、自叙伝である『科学史とともに五十年』を読んだ。

その内容はともかくとして、この本の一節『先駆者ピエル・デュエム』に、中世科学史の泰斗であるサートンが、「デュエムの本は気をつけて読まないといけない。気をつけてよめば宝庫である」との言葉が私の心に刺さった。ピエル・デュエム(皮耶・杜漢)は科学者としても優れていて、物理学の本も残しているが、注力したのがヨーロッパ中世の科学史であったという。科学というとガリレオやニュートン以降のいわゆる17世紀科学革命後の近代科学しか思いつかない人がほとんどだが、私は学生時代のドイツ滞在中にヨーロッパ各地を旅行して、現代ヨーロッパにおいても根幹の思想は中世ヨーロッパだと確信した。それゆえ、中世ヨーロッパの科学技術を知る必要性を強く感じている。それで、サートンの大著『古代中世科学文化史』を読んだ。確かに、古代中世の科学に関する事項に関してサートンの博学には敬服するものの、アリストテレス哲学を軸としたキリスト教との関連など、いわば科学史を逸脱した話は至ってすくなかった。

矢島祐利氏が推奨するデュエム(杜漢)のこの本には私の関心に応えてくれる、科学や技術を越えたもっと幅広い話があるものと期待して、全10巻(推定・5500ページ)もあるこのフランス語の
  Le Système du Monde(『世界体系』)
に最近とりかかったところである。本稿はこの本を読みつつ、ざっくばらんに感じたところをメモ書き程度に書き留めるものである。

続く。。。
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想溢筆翔:(第450回目)『古代から延々と続く中国人の巨大願望』

2024-08-04 08:50:40 | 日記
中国で何らかの事件が報道されると決まって、建国の父「毛沢東」の肖像画が掲げられている北京の天安門広場が映る。いつ見ても広場の広さには溜息がつく。この広場は何も、中国共産党が作ったものでなく、明の成祖・永楽帝が都を南京から移した時にすでに概要が備わっていたといわれる。

ところで、日本は2000年前から中国から哲学、宗教などの精神面だけでなく、多くの文物を取り入れている。その影響は計り知れないはずだが、しかし、『地大物博』を誇る中国とは全てのスケールが違う。とりわけ、建築や船などの大型建造物にたいする感覚がまるで異なっている。一番有名な例は隋の煬帝が開削させた大運河と完成の暁にそこを下って南方まで巡遊した時の大型船のスケールには度肝を抜かれる。(興味のある方は、『本当に残酷な中国史』P.157-159 を参照頂きたい。)



隋の煬帝の巡行は7世紀の話であるが、それより800年も前の前漢にもすでに、大規模な苑園があったと、『西京雑記』(せいけいざっき)が伝える。もっともこの記事の内容はどの程度信用できるか、疑問視する専門家もいるとのことだが、話半分でも聞いて頂きたい。

 ***************************
 西京雑記 巻3-73 《袁広漢園林之侈》

茂陵に袁広漢という大富豪がいた。蔵には巨万の銭が蓄えられ、下僕が九百人ほども住み込んでいた。北邙山の麓に東西が2Km、南北が2.5Kmもの大庭園を築いた。園内には川から大量の流水を引き込み、石を積み重ねて高さ30メートル、長さは数キロにもおよぶ丘を築いた。白オウムや、紫色の鴛鴛、ヤク、青サイ、などの珍獣・猛獣を飼育していた。砂浜を積み上げて、池に岸を作り、風で波が打ち寄せた。池にはカモメや海鳥が棲みつき、雛が繁殖し、池一杯にあふれた。見たこともないような珍しい草木で満ちていた。建物の廊下は長く連らなり、ぶらぶらと歩き回ることができるが、とれも一日では巡りきれない。

しかし、袁広漢が有罪になって、財産が没収されたあと、これらの珍しい珍獣や草木はすべて漢の宮廷の上林苑に移し植えられた。

茂陵富人袁広漢、蔵鏹巨万、家僮八九百人。於北邙山下築園、東西四里、南北五里、激流水注其內。構石為山、高十余丈、連延数里。養白鸚鵡、紫鴛鴛、氂牛、青兕、奇獣怪禽、委積其間。積沙為洲嶼、激水為波潮、其中致江鷗海鶴、孕雛產鷇、延漫林池。奇樹異草、靡不具植。屋皆徘徊連属、重閣修廊、行之、移晷不能徧也。広漢後有罪誅、沒入官園、鳥獣草木、皆移植上林苑中。
 ***************************

袁広漢が贅を尽くして作り上げたみごとな苑庭も没落後は、全ての珍獣嘉木が国家に召し上げられて王宮の庭園である上林苑に移されたという。中国での高官の地位の危うさ、儚さを象徴する一駒だ。

ところで、隋の煬帝が大運河を完成の暁に、そこを下って南方まで巡遊した時の大型船のスケールには度肝を抜かれる。そもそも、私が本格的に資治通鑑を読もうとしたのは、30歳のころ、煬帝の巡行を紹介する一文を新聞で読み、その出典が資治通鑑にあると知り、早速該当部分を見つけて、そのあまりの豪華さ、巨大さに度肝を抜かれたことが一因となっている。(興味のある方は、ぜひ『本当に残酷な中国史』P.157-159 をご参照を!)
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沂風詠録:(第363回目)『素人の特権』

2024-07-28 08:37:18 | 日記
私の処女作の『本当に残酷な中国史 ― 大著「資治通鑑」を読み解く』が出版されたのは10年前のことであった。初めての出版であったので、いろいろなことに驚かされた。一例として、タイトルが作者が付けるのではなく、出版社、それも営業サイドが決めるというがよくあることを知った。それまで私は、著作の内容や訴えたいことを一番よく知っているは著者自身であるので、当然のことながらタイトルは著者が決めるものだとばかり思っていた。しかし、角川のこのタイトルは角川の一存で決められてしまい、私の本来の趣旨とはかなり外れるものであった。詮無き繰り言をいってもしかたのないことだが、このタイトルによって、私は嫌中的傾向を持った人間であるかのような印象を世間に与えてしまった。

ところが、怪我の功名というべきか、このようなタイトルであったためであろうか、中国に対して批判的言動の多いジャーナリスト・櫻井よしこさんの目にとまり、産経新聞にコメントを頂いた。わずか十数行の文章であったが、驚くことに反響は甚大で、その後、数ヶ月にわたりアマゾンでは中国史や角川SSC新書部門では第1位であることもおおく、少なくともトップ5クラスのベストセラー挙げられていた。多くの人が読まれたため、批評もプラス、マイナス面いずれも多く寄せられた。自分の本に対して投げかけられた批評を読み、世の中の評価は必ずしも著者の言いたいことに対してのものではないことが分かった。言い換えれば、著者の言いたいことを正しく理解できる読者というのはほんの一握りであり、たいていは的外れの批評をしているということだった。

誰であるかは記憶が定かではないが、私の本に対して「素人が口出しするな」との批判をする人がいた。これは、中国歴史書の古典中の古典である資治通鑑について、中国史学の素人である私のような人間が、とやかくいうことは図々しいという意味と理解される。中国古典は難しいので専門家以外の人間は正しく理解できるはずがないのであるから、素人の書くことは間違っているはずだ、との考えのようだ。

私は、同書でも率直に認めているように、文献的に正確な解釈を述べようとしているわけではない。資治通鑑の文章をすなおに漢文読解して、そこから読み取れる中国人および中国社会の断面を示しているだけである。つまり、資治通鑑の本文に記述されていることがらに対して、史的に正しいかどうかの客観的検証する歴史学の立場ではなく、書かれていることから我々は何を学びとることができるか、という極めて主観的な立場からの記述を私は意図したのである。



この2つの立場(客観的、主観的)を、例えば、新種の魚が釣った時にどう処理するかという例え話で考えてみよう。

まず、客観性を重視する専門の生物学者であれば、その魚が新種の魚であるかどうか、生態やDNAなどいろいろな面から調査するであろう。一方、釣った魚を料理人が入手したとすると、さっそく、捌いておいしい料理を作るであろう。そして、それを食べた人は「うーん、こんな美味しい魚は今まで食べたことがなかった!」を感嘆をあげるかもしれない。一方、学者に渡った珍しい魚は、細切れにされてDNA検査をされ、骨格の構造などは正確に写し取られるはしても、一向にどのような味かはわからないだろう。

これまで数多くの中国古典やギリシャ・ローマの書物を読んできた私だが、いつも人生を考える上で有意義な情報や智恵をそこから汲み取ってきた。この意味で、資治通鑑も主観的に読んできたし、そこで得たものを読者と共有したいと思っている。学者でなく、素人であることの特権はこのような自由な読み方が許されていることではないか、と私は考える。
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【座右之銘・143】『Omne, quod est honestum, id quattuor partium oritur ex aliqua』

2024-07-21 11:20:26 | 日記
『有徳の人』という言葉は耳にした時、どういった人物像を想像するだろうか?謙虚、優しさ、正直、廉直、などいろいろだろう。言うまでもなく、徳は物理の法則のように、全時代、全世界を通じて不変であるようなものではなく、時代、場所によって変わる。つまり文化背景依存である。

今なお欧米では、今から遡ること2000数百年前の、古代ギリシャ・ローマの著名な人物が行動規範(モデル)となっている。具体的には、『プルターク英雄伝』に取り上げられている、カエサル、スキピオ、アリステーデースなどが敬仰されている。



古代ローマの雄弁家キケロに「De Officiis」(義務について)という著作があり、その中に当時の人々が抱いていた有徳の具体的内容が書かれている場所がある(巻1-15)。次の文で言われているように、徳の基本は四つであるということだ。

【原文】(Sed) omne, quod est honestum, id quattuor partium oritur ex aliqua.
【私訳】徳と呼ばれるものはとりも直さず次の四つのものから出てくる。
【英訳】But all that is morally right rises from some one of four sources
【独訳】Aber alles, was ehrenhaft ist, geht aus einem der vier Teilbereiche hervor.
【仏訳】Mais tout ce qui est honnêtte vient de l'une de ces quatre sources principales :

この個所で指摘されている四つとは『賢明、正直、勇気、寛大』だ。日本で好まれている有徳の人物像といえば、理不尽に怒ることなく、愚痴ることのない好々爺のような人物を想像しがちだが、ヨーロッパでは積極的に行動する、逞しいリーダー像が浮かんでくる。こういった基準から判断すると、アメリカのトランプ前大統領は有徳人物とみなすことも、アメリカ人にとっては可能だといえよう。
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智嚢聚銘:(第60回目)『中国四千年の策略大全(その60 )・最終回』

2024-07-14 10:16:54 | 日記
前回

馮夢龍『智嚢』の最後は、『雑智』というタイトルで、《狡黠》《小慧》という2巻がある。馮夢龍は智恵のランキングは不要と考えていたようで、この『雑智』も別に智恵が劣るというカテゴリーではなく、素晴らしい智恵だが、分類しにくいものというだけの意味で、「人は小賢しい策略をバカにするが、それによって苦しめられることも多い。どんな些細な智恵も取り柄はあるものだ」と評している。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻27 / 999 / 郭純王燧】(私訳・原文)

東海に郭純という大変孝行な息子がいた。母が亡くなったが、泣く都度、鳥や大がたくさん集まってくるという。役所から人を出して調査させたところ本当だったので、その家と村の入り口に旗を立てて顕彰した。ところがその後調べてみると、その息子は泣く都度、地面に餅を撒いたので、鳥が争って集まってくることが分かった。たびたびそういう事をしたので、鳥は息子の泣き声を聞くだけで競って舞い降りてくるようになった。何も霊験のある話ではなかった。

東海孝子郭純喪母、毎哭則群鳥大集。使検有実、旌表門閭。復訊、乃是毎哭即撒餅於地、群鳥争来食之。其後数数如此、鳥聞哭声、莫不競湊、非有霊也。
 ***************************

この、親孝行を騙って世評を高めた狡賢い息子の話に対して馮夢龍は次のようなコメントを残している。

戦国時代の昔、田単が考えだしたトリックをちょっと利用しただけだ。餅を撒くのは、多少の善事になるのは確かだが、それを孝というのはどうかと思う。(田単妙計、可惜小用。然撒餅亦資冥福、称孝可矣!)

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 馮夢龍『智嚢』【巻28 / 1047 / 黠豎子】(私訳・原文)

西嶺のおばさんの家の李(すもも)は非常に甘いのでよく盗まれる。それに腹を立てたおばさんが、李の囲いの下に穴を掘り、その中に糞尿を溜めておいた。いたずら小僧が3人で李を盗みに来て、一人が垣をよじ登って入ったが、糞尿の穴にぽとりと落ちてしまった。かろうじて首だけは糞尿に浸かっていないので、残りの二人に「おお~い、この李はうまいぞ~」と呼びかけた。また一人が垣を越えたが同じように糞尿の穴に落ちてしまった。「わあ~」と泣きそうになったので、始めの小僧が慌ててその口を押えて黙らせ、残りの一人に「早く来いよ~」と何度も呼びかけたので、最後の一人も垣を越えたがこれも穴に落ちた。二人の小僧は最初の小僧をなじると「もし、3人の内、だれか一人でも穴に落ちなかったら、一生笑い者にされてしまうじゃないか」と反論した。

西嶺母有好李、苦窺園者、設穽牆下、置糞穢其中。黠豎子呼類窃李、登垣、陥穽間、穢及其衣領、猶仰首於其曹、曰:「来、此有佳李。」其一人復墜、方発口、黠豎子遽掩其両唇、呼「来!来!」不已。俄一人又墜、二子相与詬病、黠豎子曰:「仮令三子者有一人不墜穽中、其笑我終無已時。」
 ***************************

これは西嶺のおばさんの落とし穴にはまった3人の悪ガキの話で、サブタイトルがズバリ「黠豎子」とついている。

この話に対して馮夢龍は次のようなコメントを残す。

悪者が「拖人下渾水」(人を水にひきずりこむ)というのはこういうことを言うのだろう。相手にも共通の弱みがあるから裏切れないという仕掛けだ。(小人拖人下渾水、使開口不得、皆用此術、或伝此為唐伯虎事、恐未然。)

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻28 / 1054 / 敖陶孫】(私訳・原文)

南宋では、派閥争いが熾烈で、韓侂冑と趙汝愚が対立していた。

しかし、とうとう韓侂冑が趙汝愚を死に追いやった。太学生の敖陶孫は酒楼の三元楼に登り、趙汝愚の死を悼んで詩を作り襖に書いた。書き終わって筆をおいてからまだ酒を一、二杯も飲んでいないのに、襖は誰かに盗まれてなくなっていた。敖陶孫は韓侂冑の仕業と気づき、急いで服を替えると徳利をもって下に降りていった。その時ちょうど敖陶孫を捕縛しにきた者たちと鉢合わせになった。捕縛者たちが「敖陶孫はまだ上にいるか?」と聞いたので、敖陶孫は素知らぬ顔をして「ああ、まだ飲んでいるよ」と答えた。捕縛者たちが二階へ駆け上がると、敖陶孫は外に逃げ出し、南方へ逃亡した。韓侂冑が殺害されると、敖陶孫は都に戻ってきて科挙を受験し、トップ合格した。

韓侂冑既逐趙汝愚至死、太学生敖陶孫賦詩於三元楼壁弔之。方投筆、飲未一二行、壁已舁去矣。敖知必為韓所廉、急更衣持酒具下楼、正逢捕者、問:「敖上舎在否?」対曰:「方酣飲。」亟亡命走閩。韓敗、乃登第一。

 ***************************

敖陶孫は科挙をトップ合格するぐらいであるから、文人中の文人と言えるであろう。しかるに、ここで見られるような武人にも劣らない機敏さを備えている。1989年の天安門事件のあと、何人もの学生運動家が機敏に国外逃亡したが、それを彷彿させるようなエピソードだ。



さて、60回にわたり、馮夢龍『智嚢』の話を連載したが、今回で最終回となる。ここに掲載した話は、2022年の初旬にビジネス社から上梓した『中国四千年の策略大全』の原稿として書いたものの、出版社の意向による枚数制限のため、出版できなかった話である。本とこのWeb連載を合わせると、『智嚢』(正式名称:『智嚢補』あるいは『智嚢全集』)の短い話の(ほぼ)全てを訳したし、『智嚢』全体としても、7割程度は訳した。『智嚢』にはかなりの長文の話もあるが、律儀に訳すと、Web連載では10本ほどの分量にもなるが、ほとんどた明時代の政争関連で、とりたててきらりと光る智恵が発揮されているわけでもない話が多い。それで、本でもこのWebでも長文を除いた。

今から400年ほどにかかれた『智嚢』を読むと、いかに中国人の言動が策略的であるか、また、それとの対比で、日本人の言動がいかに策略に乏しいものであるかが痛烈に思い知らされる。この点から、手前みそにはなるが『中国四千年の策略大全』は現代日本人、とりわけ中国人と関係をもたざるを得ない人々にとって必読書だと確信している。

(了)
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百論簇出:(第281回目)『シニア・エンジニアのPython事始(その7)』

2024-07-07 10:03:10 | 日記
前回
さて、前回紹介したフランスの百科事典"Grand Dictionnaire Encyclopedique" をダウンロードして、見ようとすると、該当ページを探すのには、幾つもの難関をクリアしなければならない。まず、探し出す項目が何巻の何ページにあるかを突き止めないといけない。索引がないので、各巻に含まれる最初の項目目と最後の項目名から大体どこらあたりにあるかを推測する必要がある。このためにPDFファイルを調べていくとすると、僅か一つの項目を探すのに多大な時間を要する。

問題はそれだけに止まらず、元の紙ベースのページ番号は、テキストページだけに振られていて、図や白紙のページは番号が振られていないことだ。それで、図版などが入っていると、PDFのページと紙ベースのページ数がずれて生じてしまう。これらのことから、紙のページ数とPDFページとの対応表をつくる必要があり、ようやくここでPythonの出番となる。

この作業の概略の手順は以下の通りだ。
1.PDFファイルを各ページ毎に個別のファイルに展開する。 (pdftk の burst 機能を使用)
2. 各ページのPDFファイルを画像(jpg)ファイルに変換する。 (pdfimages で変換)
3.各ページの画像ファイルの上部、つまり、エントリー項目名とページ数が印刷されている部分の画像を切り出す。 (Imagemagick の "convert 機能を使用) (あるいは、pdftoppm を使用しても同等の結果が得られる。)
4.3.で切り出された部分画像をOCR(文字認識)解析して、各PDFページ毎に(ページ数+エントリー項目)の対応リストを作る。 (python の OCR 機能を使用 -- 詳細説明は下記)


これら一連の作業で、1.から3.までは、Web上に存在する既存のソフトをダウンロードして簡単に対応できる。難関は4.のOCRだ。



以前から欧文のOCRには、FreeOCRというソフトを使っていたが、速度の点はともかくも、文字判定精度がかなり低いのには困っていた。とりわけ、今回のような古い時代の印刷物で、PDF用紙に多少歪みがあったり、文字が不鮮明な場合、判定精度はかなり落ちる。しかたないので、以前はオンラインのOCR(https://www.onlineocr.net/ja/、https://ezocr.net/OCR)などを使っていたが、いずれも枚数制限がある上に、判定精度もそれほど高くなかった。

しかし、Pythonでプログラミングが出来るようになって、OCR関連のWeb情報を調べると、Pythonのモジュールにはかなりの精度のものもあることがわかった。とりわけ、Google のVision AI がベストだとの情報があったので、早速試してみると、確かに格段の判定精度で、人間と遜色のないレベルで、逆に非常におどろいてしまった。しかし残念ながら、枚数に制限があるのがネックだ(月間、1000回までは無料)。

以下のコードは、下記サイトを参考にして作成した。
https://qiita.com/ku_a_i/items/93fdbd75edacb34ec610

====================

# -*- coding: Shift-JIS -*-

import pyocr, sys
from PIL import Image, ImageEnhance
import os, re
import glob

global tool;
global builder;
global counter;

def init():
global tool, builder;

#Path
TESSERACT_PATH = 'C:\\Program Files\\Tesseract-OCR' #
TESSDATA_PATH = 'C:\\Program Files\\Tesseract-OCR\\tessdata' #tessdataのpath

os.environ["PATH"] += os.pathsep + TESSERACT_PATH
os.environ["TESSDATA_PREFIX"] = TESSDATA_PATH

#OCR
tools = pyocr.get_available_tools()
tool = tools[0]

#OCR
builder = pyocr.builders.TextBuilder(tesseract_layout=6)

def ocr_image(ff_image, ff_txt):
global tool, builder;

img = Image.open(ff_image);
img_g = img.convert('L') #Gray
enhancer= ImageEnhance.Contrast(img_g) #
img_con = enhancer.enhance(2.0) #

txt_pyocr = tool.image_to_string(img, lang='eng', builder=builder)
ff_out = open(ff_txt, 'w', encoding='utf-8')
ff_out.write(txt_pyocr)
ff_out.close()

def usage():
print("Usage: py -B ocr_mult.py [image*.jpg] [txt prefix]");

def exe_ocr_mult(fname_image, out_prefix):
global counter

img_files = glob.glob(fname_image);
for ffile in img_files:
counter += 1;
tmp = ffile.split(".");
fbase = tmp[0];
outf = str("%s_%s.txt" %(out_prefix, fbase));
print("[%d] [%s] outf[%s]: " %(counter, ffile, outf));
ocr_image(ffile, outf);

#################################
def main():
global counter

counter = 0;
args = sys.argv
len_args = len(args);
fname_image = args[1];

out_prefix = "jj";
if len_args < 2:
usage();
return();

if len_args >= 2:
fname_img = args[1];
if len_args == 3:
out_prefix = args[2];

init();
exe_ocr_mult(fname_image, out_prefix);

if __name__== "__main__":
main();
====================


当然これだけでは、できなくて、見出し文字のインデックスを正しく作るにはまだまだ越えなければいけない山がある。

続く。。。
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