限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

惑鴻醸危:(第67回目)『非科学的な現代の医療技術(続)』

2023-10-01 08:59:33 | 日記
ずっと以前(2016年9月)、私が「坐骨神経痛」に悩んでいる時に次の記事を書いた。
 惑鴻醸危:(第56回目)『非科学的な現代の医療技術』
先日、たまたま昔のブログを読み返していて、その後の経緯を全く報告していないことに気づいた。それで、証文の出し遅れを承知で、その後の経緯を簡単に述べておきたい。

結論は、あれから数ヶ月して完治した。それも、医者にもかからず全く自力で治すことができた。奇蹟のように聞こえるかもしれないが、実話だ。

記事から数ヶ月経過した、2016年9月の時点では、歩くとまだ痛みが出ていたが、それでも歩けないことはないので、夕方など休み休みに少しずつ散歩していたが、数百メートル置きに休まないといけない体が情けなかった。さて、年が変わって2017年の1月ごろ、「坐骨神経痛」には体を丸めたり伸ばしたりすることがよい、という記事を読んだので、早速、床に手をついて足を胸元まで引き上げたり、また、急にのばしたりしていたところ、突然、背骨に「ぐきっ」という音がした。音に驚いたものの、全く痛みはなかった。それどころか、何だかどこかの椎骨がソケットにびたっと嵌ったような感覚がした。それから、すーっと痛みが引いていくのを感じた。結局、今まで痛かったのは椎骨のどこかがソケットの縁に当たっていたために、神経がひっぱられて(あるいは圧迫されて)痛みが出ていたためだ、と考えられる。

こうして、半年にもわたる腰痛は治ったが、その後、ときたま腰がすこし痛くなることがある。椎骨がきちんと嵌っていないことが分かっているので、柔軟体操を何度か繰り返すと、いつも完璧に治ることを経験した。



これから逆算して、一番初め(2016年春ごろ)なぜ突然、腰や足が痛くなったのかを考えてみると、当時、夏であったので、たまたまスプリングが強いベッドに直に寝たことがあった。翌日、歩くと、足が少し痛くなっていた。これは、夜中に、強いスプリングのために椎骨が押されてソケットを少しだけ外れてしまったせいであると考えられる。整形外科に行って、レントゲン写真を撮ってもらったが、どこも悪い所がないと言われた。つまり、椎骨のわずかなずれは、現在のレベルのレントゲン写真では写らないということだ。

以前のブログにも書いたが、座骨神経痛というのは「無理しない範囲で体を動かすことで自然と治る」というのが常識らしいが、これは、体を動かすことで椎骨がソケットの正しい位置に戻ったり、あるいは、飛び出た軟骨が時間と共に、消滅していくという自然治癒作用である。つまり、整形クリニックでのマッサージなどや、薬で治るのはないということだ。

さて、腰の痛みが全くなくなったが、数日すると、痛かった左足の腿のところに手のひらほどの面積一面に、ニキビのような吹き出物が出てきた。痛くも痒くもなかったので、病院には行かなかったが、想像するに、それまで痛かった神経から出ていた何らかの毒性物質が一挙にでてきたのだと思う。ニキビは化膿するでもなく、数ヶ月するうちに自然と治っていった。

当初、腰や足が痛かったときは、痛みを取れないのなら、いっそ足の付け根から切断して欲しいと願ったほどだったが、「早まらなかったよかった~」、と思った。そして、つくづく運動とストレッチの重要さを理解した。中国の公園で、多くの中国人が気功体操、あるいは太極拳体操をしている風景がテレビやウェブで見かけるが、これは十分理屈に適ったことであると理解できた。安直に薬に頼らないことが肝要ということだ。

ただ、言うまでもなく、座骨神経痛の症状や原因は様々で、私のような椎骨のずれによって生じるものだけではない。従って、私の素人療法は必ずしも万人に適用できるものではないことをお断りしておく。
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智嚢聚銘:(第39回目)『中国四千年の策略大全(その 39)』

2023-09-24 10:53:55 | 日記
前回

前回と同じく、今回も古典の教養のありなしが運命を分けたお話。

明・嘉靖帝(世宗)は性格(大阪弁では「いらち」という)であったようだが、どうやら本来の性格ではなく、不老長寿の仙薬(丹薬)を長期間、服していたための中毒症状であったように私には思える。仙薬とはあたかも、仙人になれる聖薬のようだが、実は、水銀、ヒ素など多くの重金属を含む全くの毒薬である。過去、この仙薬で暴死している皇帝は何十人といる。このような皇帝の機嫌を損なうと、まさに韓非子がいう「逆鱗に触れ」、極刑は免れがたい。世慣れた処世術が問われる。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 769 / 楊廷和顧鼎臣】(私訳・原文)

また別の時、嘉靖帝が宦官に科挙の試験である郷試の問題を読み上げさせていた所、《論語》の中の「仁以為己任、不亦重乎」(仁、もって己が任となす。また、重からずや)という句があった。それを聞いた帝が「この下の文は何といった?」と尋ねると、宦官は機転を利かせて「この下の文は『興於詩』(詩に興こる)云云です」、と答えた。この宦官は智恵が回るというべき人だ。

又命内侍読郷試録、題是「仁以為己任、不亦重乎」、上忽問:「下文云何?」内侍対曰:「下文是『興於詩』云云。」此内侍亦有智。

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これも、論語の句を知らないと意味が分からない。

《論語》の巻4に「仁以為己任、不亦重乎」の句が見える。これは孔子の弟子の曾子が述べた言葉で、「士人(教養人)は強くなければいけない。なぜなら、重責をずっと背負っていかねばならないからだ。仁愛(人に対する愛情)を施すことを己の任務とする。至って大変なことだ。」」」( 曾子曰:「士不可以不弘毅、任重而道遠。仁以為己任、不亦重乎」)とある。

すぐ下に「死而後已、不亦遠乎」(「(仁愛は)死ぬまでつづけないといけない。」)という句が続く。ここには「死」という不吉な字が見える。宦官は機転を利かせて、わざとこの句を飛ばして、次の節の「興於詩、立於礼、成於楽」(詩に興こり、礼に立ち、楽に成る)を続けて読んだ。



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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 770 / 宗沢】(私訳・原文)

北宋の徽宗の政和時代(1110年ごろ)、宗沢が莱州の掖県の知事であった。戸部省が都の恵民和剤局に薬を作らせるため、提挙司に命じて牛黄を全国から集めさせた。あまりに急な催促なので、在庫がたりなくなり、仕方なく方々で牛を殺して牛黄を取った。牛黄を用意できない人たちは役人に賄賂を贈って供出を免れようとした。宗沢だけは提挙司に堂々と次のような文を送った。「牛というのは病気が蔓延した歳には牛黄を多く出しますが、今は長年にわたって天下泰平で病気の牛がいないので、残念ながら牛黄を取ることはできません。」牛黄を取り立てにきた役人は返す言葉がなかった。これによって掖県は牛黄の供出は免除されたので、皆大喜びであった。

宗汝霖沢政和初知莱州掖県時、戸部著提挙司科買牛黄、以供在京恵民和剤局合薬用、督責急如星火。州県百姓競屠牛以取黄。既不登所科之数、則相与斂銭以賂吏胥祈免。〔辺批:弊所必至。〕汝霖独以状申提挙司、言「牛遇歳疫則多病有黄、今太平日久、和気充塞、県境牛皆充腯、無黄可取。」使者不能詰、一県獲免、無不歓戴。

 ***************************

中国には昔から「上に政策あれば下に対策あり」という諺があるようだが、その恰好の実例がこの話だ。

牛黄とは牛の胆嚢にできる結石で、昔から漢方薬として、解熱作用、精神安定作用、降血圧作用、造血作用、強心作用、などがある薬として知られている。ただ、牛黄を持つ牛は千頭に一頭程度といわれているので、無駄に多くの牛を殺さないといけないことになる。そこで、宗沢は、「牛黄は牛が病気にならないと取れない」という理屈をでっちあげ、「政治がうまく行っている我が県では牛は至って健康である。よって牛黄はとれない」とさかねじを食らわせた。中国の歴史には、正義心が強く、厚顔で、自前のでっち上げ理論で堂々とお上に楯突く硬骨漢がしばしば登場する。

続く。。。
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百論簇出:(第276回目)『シニア・エンジニアのPython事始(その2)』

2023-09-17 08:19:43 | 日記
前回

前回述べたように、私がしたいのは、
 「コンピュータに自動で、複数のフォルダーを横断的に検索して、所望の複数の検索ワードにヒットするファイルを探し出す」
ことである。ここで対象とするのはテキストファイル以外のファイル、具体的にはマイクロソフトのOffice 製品の doc(docx) xls(xlsx) ppt(pptx) およびPDFファイルである。

これら全ての種類のファイルを検索するプログラムはすでに xgf という名で作っているが、今回、Python を使ったのは、PPTX ファイルに特化した検索だ。というのは、従来、xdoc2txt.exe を内部的に使っていて(Web上に存在するMiGrepも同様に内部的にxdoc2txt.exe を使っている)、PPTではこれで、曲がりなりにも十分検索できたのだが、PPTXではノート部が検索できなかった。(もっとも、xdoc2txt.exe では、本文とノート部は別々の場所にテキスト化されているので、チェックするのに不便ではあるが。。。)

ノート部のテキストも含めて検索できるようにするために、Webで「Python PPT テキスト化」のようなキーワードで検索して所望のPython コードを発見できた、それも、数種類見つかった。



余談になるが、これらのコードはどれも数十行程度で、簡単にコピペをして run させてみることができる。いくつか調べてみて、私はようやく「何故 Python が人気があるか?」理解することができた。というのは、以前から Python はライブラリーが豊富だとは聞いていたが「それなら、C言語にもあるのになあ」と、Pythonが人気の秘密が分からずにいたのだが、実際に使ってみると、Pythonのライブラリーでは、呼び手側の関数でのパラメータ宣言が全く不要だと分かった。この差は非常に大きい。つまり、Pythonでは単に必要なライブラリーを import するだけでよく、これは、C言語と比べると、全く信じられないような簡便さだ。その上、C言語のように、実行環境ごとに微妙に異なる修正が不要だ。(もっとも、その代わりにライブラリー関数の実行速度はC言語よりかなり遅いのは、欠点といえば欠点だが。。。)

さて、本論にもどって、私が今回作成したPPTXのテキスト部抽出のプログラム pptx2txt では、WindowsのDOSプロンプトのbatchファイル、Python、そしてAWK の3つのプログラムを組み合わせて使っている。ソフトウェア業界では、暗黙の了解として、プロの作るプログラムは、極力一つのプログラミング言語で作業を行うことになっているが、これは、バグつぶしのメンテナンスのしやすさやなどから考えて、そうなったものであろう。しかし、実世界において異種の混淆はあたりまえだ。たとえば、家具を作る場合を考えてみると、木材、鉄鋼、プラスチックなど多くの異種材料が使われている。材料はそれぞれ得意分野が異なるので、適材を適所に使うのは当然のことだ。また、プロのプログラムでは、処理途中では余計なファイルは極力作らずに、メモリー内で処理しようとするが、これがバグ検出や改造を難しくしている。実行途中で、一時的なファイルを作っておくと、多少処理速度は遅くなるが、バグつぶしが格段に易しくなる。こういう考えに基づき、私のプログラムは速度より、バグ検出、改造の容易さを主眼にしている。

結局、私の所望する、PPTXからの文字抽出ソフト [pptx_text.py] は、下記のサイトを参考にして作った。
https://1upnoob.blogspot.com/2022/03/python-pptx-text-mining.html
----------------
# -*- coding: Shift-JIS -*-

## pptx の中の text を全て抽出する

import collections
import collections.abc
from pptx import Presentation
import pptx
import sys

def pptx2text(inf, outf):
  text_runs = [] # 抽出したテキストデータを格納する空リスト
  prs = pptx.Presentation(inf)
  # スライドごとにテキストデータを抽出する

  ipage = 0;
  for sld in prs.slides:
    ipage += 1;
    text_runs.append("[Page:%02d]" %ipage)
    for shape in sld.shapes:
      # shapeに含まれるテキストデータを抽出
      if shape.has_text_frame:
        for text in shape.text.splitlines():
          text_runs.append(text + ' ')
      # tableに含まれるテキストデータを抽出
      if shape.has_table: 
        for cell in shape.table.iter_cells():
          for text in cell.text.splitlines():
            text_runs.append(text + ' ')

    text_runs.append('\n');
    text_runs.append("[Note:%02d]" %ipage);
    text_runs.append(sld.notes_slide.notes_text_frame.text + '\n')

  fout = open(outf, 'w', encoding='utf-8');
  fout.writelines(text_runs);
  fout.close(); 

def main():
  args = sys.argv;
  xx1 = len(args);
  if xx1 < 2:
    print("Usage: py pptx_best_text.py infile [outfile]");
    exit();
  else:
    inf = args[1];

  if xx1 >= 3:
    outf = args[2];
  else:
    outf = "jj.txt";
  pptx2text(inf, outf);

if __name__== "__main__":
 main();
----------------

ここで説明した、Pythonのプログラムでは入力PPTXファイルから本文とノート部のテキスト部をUTF8で取り出す。私は、テキストは、従来からの蓄積ファイルとの互換性を考えていまだにShift-JIS形式で保管している。それで、UTF8からShift-JISに変換するために rtfconv を使い、UTF8の文字でShift-JISで表現できないものは、#xxxx; のようなアルファニューメリックで表現している。

以上のような観点で、作る検索システムの骨格部は次のようになる。
1: py -B pptx_text.py inf.pptx tmpf1.txt
==> PPTXからテキスト(UTF8形式)を取り出すPythonプログラム(上掲)
2: rtfconv.com -h -cUTF8 -cJ -mK -mU tmpf1.txt > tmpf2.txt
==> UTF8をShift-JIS形式に変換。変換できない文字は、&#x□□□□;で表記される。
3: jgawk -f sub_cnv_ppt.awk -v OUTLEN=60 tmpf3.txt > outf.txt
==>&#x□□□□;形式は扱い難いので、#□□□□;に変更し、テキストとして見やすくしたり、検索した時に行数を知るために、横幅60バイト程度で折り返す。

続く。。。
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智嚢聚銘:(第38回目)『中国四千年の策略大全(その 38)』

2023-09-10 09:32:22 | 日記
前回

徒然草の第238段に「紫の、朱を奪ふを悪む」という論語の文句が登場する。これは、堀川大納言(源具親)が皇太子(後の後醍醐天皇)からこの句の出典を尋ねられたので、探していたが見つからずに困っていた所、たまたまその場に来た兼好法師が教えてあげたという話だ。この話で、日本の朝廷でも論語は読まれていたことが分かるが、孟子は「易姓革命」理論が禍してか、日本では好まれなかったので、朝廷で読まれることはなかっただろう、と考えられる。

中国では、科挙に合格したような高級官僚は四書五経全部をすらすらと暗記していたので、本をひっくり返して調べることなく、頭の中から即座に関連する情報を取り出すことができた。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 769 / 楊廷和顧鼎臣】(私訳・原文)

明の時代、嘉靖(1525年ごろ)の初めごろ、講官の顧鼎臣が《孟子》を嘉靖帝の御前で講じていたところ「咸丘蒙」の章で「放勛殂落」(放勛(聖王の尭)が死んだ)という語が出てきた。嘉靖帝と共に講義を聞いていた臣下の者たちは皆、色を失った。顧鼎臣は落ち着いて「堯はこの時、すでに御年120歳を越えておられました」と述べたので、聞いていた人たちは、ほっと一安心した。

嘉靖初、講官顧鼎臣講《孟子》「咸丘蒙」章、至「放勛殂落」語、侍臣皆驚、顧徐云:「堯是時已百有二十歳矣。」衆心始安。
 ***************************

明の嘉靖帝(世宗)は疑り深い性質であったため、些細な事で処刑されることが多かった。そういったぴりぴりした雰囲気が伝わってくるような話だ。

講官の顧鼎臣はたまたま不吉な単語の文章に出会ったが、そのまま講読したのであるが、帝の機嫌によっては厳罰もありうる。それで、一瞬、だれもが顧鼎臣の身の上を心配したが、顧鼎臣は、すらすらと堯の歳を述べたので、皆、胸をなでおろしたという次第。古典の教養が身を救ったということだ。




このケースは、たまたま何事も起こらなかったのであるが、近年の文化大革命時には『海瑞罷官』という京劇の台本がきっかけとなって大騒動になったことが想起される。

ところで、世の中には「放送禁止用語集」なるものがあり、放送の台本だけでなく、出版物に関しても、使う用語に縛りがかかっている。私は以前のブログ 
 百論簇出:(第112回目)『目に余る、単語の魔女狩り』
で述べたように現代日本のこのような傾向は行き過ぎと考えている。しかし、例えば以下のような中国の字句弾圧に比べると「なんとかわいいものか!」と思ってしまう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 769 / 楊廷和顧鼎臣】(私訳・原文)

嘉靖帝(世宗)の時代には禁止用語が数多くあった。ある時、科挙の出題で、めでたい句を選ばないといけないのに、《論語》から「無為而治」(何もしないのによく治まる)といった節や、あるいは《孟子》の「我非堯、舜之道」(私は堯、舜の道でなければ。。。)の二句が出題されたことがあり、いずれの場合も出題者は処罰された。というのは、嘉靖帝にはそれぞれの句が政治批判のように思われたからだ。「無為」というのは「何もしないで」ととらえ、「我非堯舜」の四字は、嘉靖帝は聖王ではない、と誹謗していると邪推したからだ。

世宗多忌諱、是時科場出題、務択佳語、如《論語》「無為而治」節、《孟子》「我非堯、舜之道」二句題、主司皆獲遣。疑「無為」非有為、「我非堯、舜」四字似謗語也。
 ***************************

嘉靖帝は、儒教の聖典の文句を自己流に解釈をして、官僚を処罰したが、明らかに断章取義もここに極まれり、という気がする。根本原因は嘉靖帝が論語や孟子の文章を正しく理解していなかったことに由来する。バカな君主を頂いたかわいそうな時代だった。

続く。。。
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沂風詠録:(第356回目)『まんまとプーチンの罠にハメられたプリゴジン』

2023-09-03 09:04:18 | 日記
周知のように、先日(8/23日)ロシアのロシアの民間軍事会社「ワグネル」の創設者・プリゴジン氏のビジネスジェット機が墜落し、搭乗者全員が死亡した。墜落原因は不明だが、巷間ではプーチン大統領の暗殺説が有望だ。多分その推測が正しいだろう。この事件は、『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(P.194からP.197)に書いた、かつて唐の末期に王珂が陥った悲劇を彷彿とさせる。猜疑心の強い中国人でも、役者顔負けの見事な演技に見事に嵌められてしまった事件だ。

朱全忠は唐末に黄巣の乱で大混乱に陥った天下を平定するのに貢献し、後梁を建てた一代の英雄である。しかし朱全忠(朱温)はそもそも黄巣に従って唐政府の節度使である王重栄と戦って敗れ投降した人物である。王重栄の部下は朱全忠を殺せと言ったが、王重栄は朱全忠には見所があると言って殺さなかった。この処置に恩義を感じた朱全忠は王重栄と義理の甥舅(甥と伯父)という関係を結んだ。その上、『自分が高位に就いたら王氏みんなに恩返しをする』(我得志,凡氏王者皆事之)と、太陽と月に誓った。さて、王重栄には子供が無かったので、兄の子である王珂を養子とした。王珂は李克用の娘を妻とした。さて、時は移り、李克用が朱全忠と天敵の間柄になるに至って、王珂は朱全忠に攻められた。

++++++++++++++++++++++++++++
資治通鑑(中華書局):巻262・唐紀78・AD901年(P.8548)

朱全忠の部下の張存敬は軍隊を率いて晋州を出発し、河中に着き、王珂の軍を取り囲んだ。王珂は乏しい兵力では持ちこたえられないと考え、抜け出して都に向おうと考えたが、部下に説得され、城にとどまり、朝になると、城の四隅に白旗を立て、印章を持たせて、降伏の交渉をする使いを張存敬のもとに送った。張存敬はこの申し入れを受けて、開城するよう命じた。王珂は「私は昔から朱公(朱全忠)に我が家の事を相談してきた。貴卿(あなた)ではなく、朱公の到着をまって城を引き渡したい。」と答えた。張存敬はこの言い分を聞き入れて、朱全忠に使いを出した。

暫くして、朱全忠が洛陽に到着し、王珂が降伏したいとの意向を聞いて喜び、河中に向かった。朱全忠は虞郷に着くとまっさきに王重栄の墓に詣で、哭礼の儀式に則って哀悼した。籠城していた人達はこれを聞いて、ほっと安心した。朱全忠が城の前に到着したので、王珂は降伏の儀式どおり、手を縛り、羊を引いて城から出てきたが、朱全忠はその姿をみるや慌ててかけより「私の命を救ってくれた舅(王重栄)の恩をどうして忘れましょうか。若君にこのような恰好をさせたら、あの世で舅に会った時に会わせる顔がないではありませんか!」。こう言って、今まで通り、親しい間柄で王珂を出迎え、手を握って声をあげて泣いた。そして二人して馬に乗って並んで城の中に入った。

暫くして、朱全忠は王珂に、都に上り天子に面会するよう勧めた。その一方でこっそりと人を遣わして華州で王珂の一行を待ち伏せさせて殺した。
++++++++++++++++++++++++++++

朱全忠は腹の底では、既に王重栄の恩など忘れ、王珂を殺す予定であった。しかし、そういった悪だくみは露ほども見せずに、王重栄の墓に参り哭礼をし涙を見せた。それを聞いて王珂は疑いつつも、ほっと安心して投降した。朱全忠は王珂の手をとるやまたもや涙にくれた。こういった態度を見て王珂は完全に朱全忠に赦されたものだと安心した。それで上京するようにとの指示に何らの疑いも持たなかった。しかし、朱全忠は当初の予定通り、道中で王珂を暗殺させた。



以上の話を今回の配役で表現すると次のようになる:

ベラルーシの大統領のルカシェンコの説得でプリゴジンはプーチンの表面ばかりの言葉を真に受けてしまい、心の奥底を読めなかった。自家用ジェットであれば安心だと考えたプリゴジンは浅はかにも、信頼する部下もろともに、王珂の悲劇の二番煎じを演じてしまった。
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智嚢聚銘:(第37回目)『中国四千年の策略大全(その 37)』

2023-08-27 10:01:10 | 日記
前回

日本人にとって漢字はいわば「修得言語」である。つまり、生れながらにして漢字Nativeの人は存在せず、誰もが子供の頃に(そしてその後も!)苦労して漢字を修得するのである。修得言語という意味は、日本人にとって本来的に漢字は発音だけでは意味をなさないためである。比較の為に、和語(やまとことば)を考えてみよう。日本の民謡などの歌詞はほとんど全ての場合、和語で綴られているために、耳で聞くだけでも意味がとれる。この点からいえば、日本人の魂に響くことばは和語で、それは肌に直接触れるが、漢字はガーゼ一枚はさんで肌に触れているような他人行儀のような感覚がする。

中国人にとっては漢字の字自体は修得言語であるものの、日本人と異なり、生れた時から漢字の発音を聞いているため、漢字の音韻は耳の奥底にまで到達しているため、漢字は肌に同化しているといえる。今回紹介する話を読むとこのあたりの事情がよく分かる。

以下の話を理解するための、前知識として中国人の子供の名前の付け方について知っておこう。兄弟が同じ偏旁を使う習慣があり、これを輩行という。劉表の2人の子(劉琦・劉琮)が輩行の最も早い例として挙げられている。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 768 / 裴楷王份王景文崔光】(私訳・原文)

北魏の孝文帝(高祖・元宏)は息子をそれぞれ、恂、愉、悦、懌、と名付けた。臣下の崔光は劭、勗、勉と名付けた。孝文帝がいうには「私の息子の名前の旁は全部「心」だ。貴卿のは全部「力」がついている」。崔光が答えていうには「これが、所謂『君子は心を労し、小人は力を労す』ということです。」

元魏高祖名子恂、愉、悦、懌、崔光名子劭、勗、勉。高祖曰:「我児名旁皆有心、卿児名旁皆有力。」対曰:「所謂君子労心、小人労力。」
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崔光の言葉は、『春秋左氏伝』の襄公9年(BC 563)に載せられている、「君子労心、小人労力、先王之制也」の引用だ。古典の文句を適切に引用して自分の論点を補強したり明確化できることが、中国人の考える「教養人」である。



偏差値重視による、最近の日本の知識偏重の風潮に行き過ぎを感じる。「出刃包丁で人殺しもできれば、魚を捌くこともできる」という言葉があるように、単に古典の文句を知っているだけでは、教養人の資格があるわけでない。つまり知識は無条件に知恵に転換できる訳ではないのだ。次の話はそれがよく分かる好例といえよう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 768 / 裴楷王份王景文崔光】(私訳・原文)

梁・武帝が即位した年、虎が都・建康の城郭に侵入しただけでなく、象も江陵の城内に入ってきたことが起きた。武帝は不吉なことが起こると思い、臣下たちにどう思うかと尋ねた。誰も答える者がいないなか、王瑩が答えた。「昔の本に『撃石拊石、百獣率舞』(石を撃ち、石を拊てば、百獣、率い舞う)とあります。陛下が帝位に就かれたのを祝って、虎や象もやってきたのです」。言辞は極めてりっぱであるが、あまりに度のすぎた媚び、諂いに聞く者はヘドを催した。

武帝即位、有猛虎入建康郭、象入江陵、上意不悦、以問群臣、無敢対者。王瑩曰:「昔『撃石拊石、百獣率舞。』陛下膺籙御図、虎象来格。」縦極贍辞、不能不令人嘔穢。楊廷和顧鼎臣
 ***************************

王瑩は儒教の聖典である『書経』(尚書) の次の句を引用した。

《虞書・舜典》夔(き)曰く「ああ、予(われ)石を撃ち石を拊(て)ば、百獣、率い舞う」
(夔曰「於予撃石拊石、百獸率舞」)

帝・舜の部下である夔が「石琴を私が叩いて演奏すれば、ありとあらゆる動物が踊りだす」と述べたが、動物たちが集ってきたのは楽器演奏の名手である夔が石琴をみごとに奏でたからである。その句を踏まえ、王瑩は野獣が街中に現れたのを武帝の徳を慕ったからわざと捻じ曲げてへつらった。

続く。。。
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百論簇出:(第275回目)『シニア・エンジニアのPython事始(その1)』

2023-08-20 13:26:41 | 日記
ちょうど一週間前からプログラミング言語で超人気のPythonを独習し始めた。まだまだ、深いところまで理解できた訳ではないが、大体様子が分かったので簡単にまとめてみたいと思う。
以前のブログ、
 百論簇出:(第158回目)『IT時代の知的生産の方法(その6)』

に書いたように、私はそもそもプロのプログラマーとして生活をしていた。当時は、かなりの規模(C言語で30万行程度のソースコード)のシステムを幾つも設計、製作、バグつぶし、メンテナンス等、ソフト開発の現場を網羅的に経験した。現在でも、いろいろな些細なデータ変換なのために小さなプログラム(Windows上の batch、 AWK)であれば、毎日のように書いている。たまにかつてC言語で書いたかなり複雑な処理のバージョンアップやバグ取りをすることもある。

そういった経歴があるので、現在では、C言語やJavaより高くなったPythonの人気に「一体Pythonのどういった点が人気の原因なんだろうか?」と、ここ数年ずっと関心を持ってきた。しかし、WebのPython紹介記事や、本屋で立ち読みするPython入門本をパラパラとめくっただけでは、私の疑問に答えてくれる記述に出会わなかった。しかし、たまたま来春から某大学でプログラミングを教えるので、ようやく重い腰をあげてPythonを本格的に調べ出した次第だ。



一週間経って、ある程度Pythonの書き方が分かったので、腕試しにある程度実用的なプログラムを書いてみることにした。それは、PPTXフォーマットのパワーポイントから文字列を抽出するプログラムである。文字列を抽出したあとは、当然のことながら、検索できるようにしたいということだ。(以下Windows システムに絞って話を進める。)通常、自分のパソコン内を検索するといえば、たいていWindowsの検索ツールを使うであろう。検索語を入れると、時間はかかるが結果は表示される。(【1】はエクスプローラーを使う方法、【2】はPowerShellを使う方法)
【1】Windows 10 の検索でファイル内の文字も検索する方法
【2】Windowsでテキストファイルの内容をPowerShellで検索する方法

さて、日常業務で作成する書類と言えば、Microsoft Officeで作る、 doc(docx)、xls(xlsx)、ppt(pptx)やテキスト(text)ファイルであろう。

当然のことながら、これら作成したファイルから情報を検索することが必要だ。こういうと、「Microsoft Officeで作成したファイルはそれぞれのアプリケーション(ワード、エクセル、パワーポイント)でできるから十分だ」と考える人がほとんどだろう。しかし、1個のファイルならともかく、多くのフォルダーにまたがり、数十個のファイルに対して横断的に検索するのは、人手ではとてもじゃないが、無理であろう。そこで必要なのが、このような状況で使える検索ソフトだ。以前(2011年まで)は、「Google デスクトップ」というソフトでこのようなことが可能であったが、現在はサービス修了となっている。

このような状況に対して、無料か有料は別として、自分の目的に合ったWindows上で動く検索アプリケーションを見つけて導入しようとするだろう。見つかるソフトはたいていはユーザー受けするGUIソフトである。つまり、マウスで操作する画面のついた一般的なソフトだが、これはプロの目からみれば極めて「かったるい」ソフトだ。現在、プロのプログラマーで

UNIXを使った経験のない人は少ないであろうが、UNIXの大きな特徴は、現在のWindowsや(多分)Macにも導入されているパイプという概念である。一つのプログラムの出力が、次のプログラムの入力ともなるので、プラモデルのレゴのように次々と部品を連結して連続技で、自動的に大規模な処理をすることが可能となる。残念なことにGUIではこのような連続技をすることが出来ないのである!つまり、一つの処理が終わる都度、出力ファイルを手動で次の処理の入力ファイルとして別のプログラムに投入するしかないのである。大規模な処理が自動的にはできなく、常に人間がちょこまかとプログラムの処理のための下働きをしないといけないのである。つまり、コンピュータが主人で、あなたが奴隷であるわけだ。

私の実現したいのは「コンピュータに自動で、複数のフォルダーを横断的に検索して、所望の複数の検索ワードにヒットするファイルを探し出す」ことである。テキストファイルに対しては、UNIXのツールである grep を改造すればすんなりいくが(といっても、これはこれで一苦労なのだが!)、Microsoft Officeで作成したファイルはそれなりのソフトが必要だ。今回、このソフトをPythonでプログラミングしたのである。

続く。。。
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智嚢聚銘:(第36回目)『中国四千年の策略大全(その 36)』

2023-08-13 09:27:05 | 日記
前回

本編では、馮夢龍『智嚢』から引用して、中国人の「策略」について述べているが、日本では「策略」というと、とかくネガティブにとらえられがちである。しかし、「策略を考える」というのは、見方を変えれば「機転を効かす」「別の視点からみることができる」ときわめてフレクシビリティの高いというポジティブな評価も可能であろう。たとえば、次の裴楷の説明なども、ちょっとした機転で、凍り付いた場面が和らいだという話だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 768 / 裴楷王份王景文崔光】(私訳・原文)

晋の武帝(司馬炎)が始めて帝位に就いた時、籤を引いて「一」を得た。これは王家の歴数を示すが、一番小さな数字だったので、非常に機嫌が悪くなった。群臣は真っ青になったが、侍中の裴楷が進みでて祝賀を述べた「私の聞いているところでは、天は一を得て清浄、地は一を得て安寧、王侯は一を得て、天下がまるく治まる、と申します」。武帝はこれを聞いて、大満足し、群臣も喜んだ。

晋武始登阼、彩策得一、王者世数、視此多少;帝既不悦、君臣失色。侍中裴楷進曰:「臣聞:天得一以清、地得一以寧、侯王得一以為天下貞。」帝悦、君臣歎服。
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このように、中国(に限らず、どこの世界)の宮廷では雑多な知識を多く知っていることが非常に重要だ。知識の量が時に、自分の命を救うことにもなるからだ。ところで、この句は老子 十九章にある次の文句から来ている。「昔之得一者:天得一以清、地得一以寧、神得一以霊、谷得一以盈、万物得一以生、侯王得一以為天下貞。」

当時の博学な文人でもとっさに思いだせなかったのを裴楷はさっと思い出し、てぎわよく老子の智のエッセンスを取り出して武帝を安堵させた、という次第。

帝王というのは、「逆鱗に触れる」(韓非子)という句にもあるように、ちょっとしたことでも機嫌を損ねると、手のつけられない状態にもなりかねない。老子を持ち出した裴楷は、ごますりというより、頓智を効かした功労者と評価すべきであろう。



同じく、頓智で、帝王の機嫌を直した王景文の話。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 768 / 裴楷王份王景文崔光】(私訳・原文)

宋の文帝(劉義隆)が天泉池で釣りをした。釣り糸を垂れても、さっぱりつれない。それを見ていた王景文が「帝は清い心で釣り糸を垂れているので、それに引きずられて魚も餌を貪らないのです」。

宋文帝釣天泉池、垂綸不獲、王景文曰:「良由垂綸者清、故不獲貪餌。」
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ここに登場する王景文は、シャープな切れ味で、頭の回転が早い上に、度胸もある一級の政治家であった。ところが、その才能が逆にあだとなって、帝位を奪ってしまうのではないかと恐れられ、最後は明帝から賜薬が届けられた。王景文は以前からそういった事態を予想していたようで、明帝からの賜薬が届いた時、取り乱さず、従容として死に就いた。死に際にはその人の死生観だけでなく、人間性が如実に現れる。

続く。。。
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百論簇出:(第274回目)『多面的な観点から考える自然科学論の授業』

2023-08-06 09:50:49 | 日記
前回述べたように、この9月の秋学期から某大学でリモートで2科目を教えるようになった。国際関係論については前回述べたので、今回は現在の自然科学の授業について述べよう。

「国際関係論」同様、自然科学論について他大学のシラバスをウェブ検索してみたところ、2通りの構成案があることが分かった。一つは自然科学とは言い条、視野をかなり限定した形式だ。もう一つは、複数の教官がオムニバス形式で、それぞれ自分の専門の分野について輪番に話す形式だ。これら両方とも、かなり予想された結果だ。その理由について説明しよう。

先日のブログでも触れたが、昨年(2022年)私は日立評論のWebサイトに科学技術史の記事を合計17本連載して頂いた。そこでも述べたように、私が科学技術史に興味を持ったのは今から20数年も前に遡る。

私は小学生のころから工作が大好きであった。高校では物理が一番得意で、二番目が数学と英語であった。そのまま大学の工学部に入学し、物理現象について多く学ぶことができた。ただ、当時の工学部の授業には科学史がなかったので、私の得た自然科学の知識は、今から考えると自然科学の中でかなり偏っていたといえる。いわば広大無辺の自然科学のごく一部だけを詳しく知っているに過ぎなかった。もっとも、社会人となって技術者として立っていくにはそれでも不都合は全く感じなかった。

ところが、20数年にたまたまルネ・タトンが編纂したフランス語の科学技術史の大著『一般科学史』"L’Histoire Générale des Sciences"の端本を古本屋の軒先で見つけてから事情が変わった。この時、同時に、『ダンネマン 大自然科学史』(安田徳太郎・訳,三省堂)も入手し、遅まきながら「科学史ことはじめ」を始めたのであった。これら2冊は大部で、読むのに1年以上かかった。

とりわけ、ルネ・タトンの方は、フランス語で3000ページ以上もあるので、てこずった。しかし、苦労の甲斐あって、この2冊を通読することで初めて、西洋だけの自然科学ではなく、全世界的な自然科学の発展の経緯の全貌をつかむことができた。

ところが、読んでいるうちに気づいたのであるが、これだけでは科学技術史のうち半分の「科学史」でしかなく「技術史」がないのだ。そこで技術史の本を探してみて分かったのは、技術史の本は科学史に比べて個別性が高いせいもあり、技術史全体を通鑑した本がなかなか見つからなかった。それでもしつこく探していると、チャールズ・シンガーが編纂した『技術の歴史』(筑摩書房)という全14巻の大部の本に巡り合うことができた。日本語訳もでているが、技術の専門用語の原語を知りたいと思い、英語版をアメリカから取り寄せた。私の学生時代と異なり、インターネットの発達した現在、この本のように数十年前の古書でもいとも簡単に入手することができた。

さて、数ヶ月かけてこのシンガーの大著をあらかた読み終え、私はようやく、エンジニアとして備えておくべき、基礎教養としての科学史・技術史の全貌を把握することができた。そして、感じたのは、科学史、技術史のどちらにしても、数学的、理学的、科学的な専門的訓練を受けていない一般の素人がとても手を出せるものではないなあ、ということだった。私はともかくも工学部の授業や卒論・修論などで専門分野の論文をかなり読み込んできた。それで専門分野と多少異なる分野でも専門的な探求方法論は理解できる。しかし、そういう訓練を受けていなければ、たとえ大学を卒業しました、といっても、文科系であれば、科学史や技術史の記述法についていくのはとても難しいのではないか、と感じた次第だ。

一方で、理科系を卒業したといっても、関心がなければ、科学や技術に関しても、自分の専門外の分野についてはほとんど知識は蓄積されないだろう。残念ながら、現在の理科系の大学の研究体制は、特定の狭い領域の問題を扱っているため、大学の教官といえども「自然科学全般」について語ることは難しいのではないだろうか。

これから分かるように、「自然科学についての講義」のシラバスは冒頭でも述べたように、一人の教官が担当するとなると、その人の専門分野に限定された話となる。それでは、学生にとって面白くないだろうからと、分野をひろげると数人の教官がオムニバス形式で担当することになる。



私は自分自身の内なる好奇心から科学・技術のかなり幅広い分野について、いろいろな本を読んできた。学生時代には、工学や数学に関しては専門書を読むことがほとんどであったが、社会人となってからは、特に近年は、新書から科学・技術に関する知識を得ることが多い。学生時代、新書といえば、講談社のブルーバックスや一部の岩波新書を除いては、ほぼ人文・社会系しかなかったが、近年は特に科学に関してはかなり高度な内容の良質の本が数多く出版されている。

現在、これらの新書の情報とともに、ウェブから得られる文字情報や画像情報を統合することで、自然科学全般に渡ってかなり突っ込んだ内容を知ることができる。そういう訳で、私の自然科学の授業に対しては、イギリスの詩人、アレクサンダー・ポープの有名な句
 Fools rush in where angels fear to tread.
(天使も踏みこまぬ所に愚者なればこそ)

にあるように、良心的な教官であればしり込みするような分野に敢えて、無謀にも踏み込んでみようという心意気である。
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智嚢聚銘:(第35回目)『中国四千年の策略大全(その 35)』

2023-07-30 08:32:27 | 日記
前回

日本人は外交ベタといわれるが、外交関係というのは、言ってみれば譲れるところは譲ってお互いに納得できる利益(ウィン)で妥協を目指すのであって、筋を通すだけが能ではない。外交のように、人の交渉では当意即妙な機転を効かせ、無用な混乱、誤解を避けることを心がけるべきだ。つまり、「筋を通す」などという小さな節義に律儀にこだわらず『大行不顧細謹、大礼不辞小譲』(大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞さず)というおおらかな心構えが肝要ということだ。

そういった例を2つ取り上げよう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 764 / 韓億】(私訳・原文)

韓億が契丹に使者に出た。この時、副使は太后の外戚で、太后の内輪の訓戒を勝手に契丹に伝えて、次のように言った「宋と契丹は仲良くしないといけない。これを子孫に伝えたい」と。韓億は副使がそういった話を契丹にばらしたのを知らなかった。

宴会の席で契丹の帝が韓億に尋ねた「宋の皇太后は契丹と婚戚関係を結びたいと言っているそうだが、何故、大使である貴卿がそのことを言いださないのだ?」韓億が答えていうには「我が国では遣使の都度、皇太后が皆を呼んで、契丹と仲良くせよと訓戒しますが、その意図が間違って契丹に伝わると困るのでそういった話は絶対にするな、と言われています」と答えた。契丹の帝は「それでこそ、両方の王朝が安泰であるのだ」と喜んだ。この時、副使は話をとりつくろうことができず、黙っていた。世間では、副使の失言で、逆に韓億はよい答弁をしたと誉めた。

億奉使契丹、時副使者為章献外姻、妄伝太后旨於契丹、諭以南北歓好、伝示子孫之意。億初不知也。

契丹主問億曰:「皇太后即有旨、大使何不言?」億対曰:「本朝毎遣使、皇太后必以此戒約、非欲達之北朝也。」契丹主大喜曰:「此両朝生霊之福。」是時副使方失詞、而億反用以為徳、時推其善対。
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契丹の帝はどうして宋と婚戚関係になるのが嫌だったのだろうか?

推測するに、大国・宋からの皇女が来ると、契丹の宮廷で、親宋派と反宋派の対立が起こるに違いない。そうなれば、国が乱れてしまう。契丹の帝は、宋の皇太后が婚戚関係を望んでいると聞かされて、実は内心困っていたはずだが、宋の使節には面と向かって言い出しにくい。それを察した韓億は咄嗟の判断で「仲良くする、という意味は婚戚関係になるということではない」と説明し、契丹の帝の心配を取り除いてあげた。

皇太后の本当の意図や、副使が本当はどのように伝えたのかは分からないが、ここで述べられているのは韓億の当意即妙の言い返しで、契丹も宋も両方のメンツが立ったということだ。韓億のような人が論語にいう「使於四方、不辱君命」(四方に使いして、君命を辱めず)と言えるだろう。



次は、司馬光の話。司馬光とは資治通鑑の編者として有名なので、現代的表現では「歴史学者」となるが、本職は、科挙に合格した高級官僚である。儒者は策略など弄せず正々堂々を事を運ぶが、やはり正攻法ではうまくいかない時もある。その時、どうするかが見ものだ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 766 / 邵雍】(私訳・原文)

司馬公一日見康節曰:「明日僧顒修開堂説法。富公、呂晦叔欲偕往聴之、晦叔貪仏、已不可勧;富公果往、於理未便。某後進、不敢言、先生曷止之?」康節唯唯。

明日康節往見富公、曰:「聞上欲用裴晋公礼起公。」公笑曰:「先生謂某衰病能起否?」康節曰:「固也,或人言『上命公、公不起;僧開堂、公即出』、無乃不可乎?」公驚曰:「某未之思也!」〈〔時富公請告。〕〉

司馬光がある時、邵雍(字は康節)に次のように言った。「明日、僧侶の顒が新しくお堂を開き、説法をします。そこに富弼公や呂晦叔など、大臣たちが皆一緒に行って説法を聞くようです。呂晦叔は仏教に凝っているので止めようがないのですが、富弼公が出席するとなると厄介なことになります。私は、若輩ものなので直接、富弼公をお止め立てする訳にはいきません。先生なら止めて頂けるでしょうか?」邵雍は「うんうん」と頷いた。

翌日、邵雍が富弼に会いに行って言うには「聞くところによると、帝が裴度を新たに設置する官職に起用して、貴公をその後釜に据えようと考えているそうだ」。富弼は笑って「先生は私が病気をおして職に就けとでもおっしゃるのでしょうか?」と尋ねた。邵雍は「その通り。世間の人は『帝が富弼公を起用しようとすると、公は病気だと言って出てこない。しかし、僧侶の説法には喜んで出かけて行った』と言うことでしょう。それでもいいですか?」富弼はあわてて「そこまで智恵が回りませんでした!」と謝った。
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この物語の背景には、儒者と仏者の対立がある。

宋代は、いわゆる「士大夫」といわれる文人・儒者が輩出した時代である。科挙に合格して高級官僚になった文人たちは、白居易や蘇軾のように仏教に傾倒した人たちもいるが、概してアンチ仏教派であった。一時代前の唐の韓愈は徹底したアンチ仏教派で、時の皇帝の憲宗が仏骨をうやうやしく戴くのを徹底的に非難したため、あやうく殺されそうになったほどだ。

司馬光は韓愈ほどではないにしろ、儒者の立場から、国の高級官僚たちが仏教に染まることを嫌っていた。それで、富弼が仏教の儀式に参加するのを阻止するために邵雍に説得させたという話だ。見事、帝の命令をだしにして、富弼が仏教の式典にでることを阻止した。正論ではうまくいかないが、策略を使うことで、見事に目的を達成した。

続く。。。
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