古代日本は朝鮮半島を経由して中国文化を受け取った、とりわけ仏教はその後の日本に文化的、思想的、政治的に多大な影響を与えた。しかし、ほぼ同時期(応神天皇の時代)に儒教も百済の王仁によって伝えられた。儒教は室町以降、とりわけ江戸時代に入ってからは徳川家康の政治的意向から大きな影響を与えることにはなったとはいうものの、当時の日本には、仏教ほどの大きな影響を与えなかった。何故だろうか? 仏教といえば、白鳳時代以降、数多くの仏教寺院が建築されたが、それに反して、儒教の建物は建てられなかったのではなかろうか。あるいは建てられたにしても保存努力がなされなかったので歴史に残らないのは、なぜだろうか?
こういった点を考える時、学者はえてして、仏教と儒教の教義のような理念的・形而上学的観点から理由を考えようとする。しかし、こういった観点からは人を納得させられる理由が導き出されることは稀だ。地に足のついた議論が必要だと私は考える。確かに、仏教と儒教は知的営みではあるとはいうものの、漢字など全く読めなかった当時の人々にとっては、教義などの、ちまちました形而上学的な議論は無縁であったはずだ。これは、戦後の日本でアメリカのポップミュージックやビートルズなどが若者の間で大流行した時の様子を思い浮かべれば容易に理解できる。つまり、当時の若者にとっては歌詞の内容や政治的メッセージ性よりも、激しいビートに満ちたエレキギターの響やリズムに合わせて体全体で歌う姿に遥かに強くしびれたのだ。これと同様に、当時の仏教がもたらしたものは、豪壮な寺院建築やきらびやかな服や行事に惹きつけられた。例えば天平勝宝四年(752年)に挙行された盧舎那大仏の開眼式の華やかなイベント風景は続日本紀には次のように記されている。
久米舞。楯伏。踏歌。袍袴等哥舞。東西發聲。分庭而奏。所作奇偉不可勝記。佛法東歸。齋會之儀。未嘗有如此之盛也。
(大意:フォークダンスを踊るグループもあれば、クラシックバレーも上演された。コーラス隊が東西に分かれて、演奏を競った。仏法がようやく日本に到来して、このような素晴らしいイベントが開催されたことはかつてなかった。。)

出典:東大寺金堂(大仏殿)昭和大修理
このように、大衆受けするような派手派手イベントを開催して勢力を拡大した仏教に対して、儒教には綺羅びらかさが全くなかった。ひき付けるものといえば、中国の律儀なモラルだけであった。また仏教は、日頃の苦しいい生活を強いられている大衆に、「今世がダメでも素晴らしい来世がある」と麻薬的な幻惑をふりまいたが、儒教は専ら現世を正しく生きよとの教えを広めようとした。しかし、そのアピールは日本人には届かなかった。というのは、日本人は当時も今も現世的な考えが浸透しているため、儒教の堅苦しい教えだけでは日本人の土着的な現世思想を置換するだけの魅力を示すことが出来なかった。
さらには、儒教は日本古来の伝統との衝突があった。例えば、近親結婚に対する禁忌は中国では非常に厳しかったが、その思想は日本にはフィットしなかった。日本書記などに書かれているように、天皇家ですらいとこ婚や異母の兄妹婚がタブー視されていない。つまり、儒教の根本理念である「血統」は日本人には全く理解できなかったのである。
結局このような経緯で、日本では古代から現在に至るまで、儒教が大衆意識に浸透していないと言っていいだろう。その一番の証拠が、日本には儒教由来の祭りが存在しないことである。元旦から始まって、除夜の鐘に至るまで、伝統的な祭りや行事というのは、
1.土着的(つまり神道)なもの
2.仏教のもの(盆踊り)
3.中国伝来の宮中の年中行事(ひな祭り)
のいずれかであって儒教由来のものは、私の調べた限りでは見つからなかった。
このように見ると、日本が儒教的といわれるが、私は疑問に思う。儒教は確かに日本の知的伝統の一部であるものの、決して日本人の心の奥底にまでは浸透していなかった、そして現在もなお浸透していないと思う。多少諧謔的に表現すると、「日本儒教とはノンアルコールのビール」、つまりそれらしい味がするが、全く酔えないものだ、ということだ。
こういった点を考える時、学者はえてして、仏教と儒教の教義のような理念的・形而上学的観点から理由を考えようとする。しかし、こういった観点からは人を納得させられる理由が導き出されることは稀だ。地に足のついた議論が必要だと私は考える。確かに、仏教と儒教は知的営みではあるとはいうものの、漢字など全く読めなかった当時の人々にとっては、教義などの、ちまちました形而上学的な議論は無縁であったはずだ。これは、戦後の日本でアメリカのポップミュージックやビートルズなどが若者の間で大流行した時の様子を思い浮かべれば容易に理解できる。つまり、当時の若者にとっては歌詞の内容や政治的メッセージ性よりも、激しいビートに満ちたエレキギターの響やリズムに合わせて体全体で歌う姿に遥かに強くしびれたのだ。これと同様に、当時の仏教がもたらしたものは、豪壮な寺院建築やきらびやかな服や行事に惹きつけられた。例えば天平勝宝四年(752年)に挙行された盧舎那大仏の開眼式の華やかなイベント風景は続日本紀には次のように記されている。
久米舞。楯伏。踏歌。袍袴等哥舞。東西發聲。分庭而奏。所作奇偉不可勝記。佛法東歸。齋會之儀。未嘗有如此之盛也。
(大意:フォークダンスを踊るグループもあれば、クラシックバレーも上演された。コーラス隊が東西に分かれて、演奏を競った。仏法がようやく日本に到来して、このような素晴らしいイベントが開催されたことはかつてなかった。。)

出典:東大寺金堂(大仏殿)昭和大修理
このように、大衆受けするような派手派手イベントを開催して勢力を拡大した仏教に対して、儒教には綺羅びらかさが全くなかった。ひき付けるものといえば、中国の律儀なモラルだけであった。また仏教は、日頃の苦しいい生活を強いられている大衆に、「今世がダメでも素晴らしい来世がある」と麻薬的な幻惑をふりまいたが、儒教は専ら現世を正しく生きよとの教えを広めようとした。しかし、そのアピールは日本人には届かなかった。というのは、日本人は当時も今も現世的な考えが浸透しているため、儒教の堅苦しい教えだけでは日本人の土着的な現世思想を置換するだけの魅力を示すことが出来なかった。
さらには、儒教は日本古来の伝統との衝突があった。例えば、近親結婚に対する禁忌は中国では非常に厳しかったが、その思想は日本にはフィットしなかった。日本書記などに書かれているように、天皇家ですらいとこ婚や異母の兄妹婚がタブー視されていない。つまり、儒教の根本理念である「血統」は日本人には全く理解できなかったのである。
結局このような経緯で、日本では古代から現在に至るまで、儒教が大衆意識に浸透していないと言っていいだろう。その一番の証拠が、日本には儒教由来の祭りが存在しないことである。元旦から始まって、除夜の鐘に至るまで、伝統的な祭りや行事というのは、
1.土着的(つまり神道)なもの
2.仏教のもの(盆踊り)
3.中国伝来の宮中の年中行事(ひな祭り)
のいずれかであって儒教由来のものは、私の調べた限りでは見つからなかった。
このように見ると、日本が儒教的といわれるが、私は疑問に思う。儒教は確かに日本の知的伝統の一部であるものの、決して日本人の心の奥底にまでは浸透していなかった、そして現在もなお浸透していないと思う。多少諧謔的に表現すると、「日本儒教とはノンアルコールのビール」、つまりそれらしい味がするが、全く酔えないものだ、ということだ。