限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

軟財就計:(第10回目)『私のソフトウェア道具箱(その 10)』

2022-05-22 21:06:21 | 日記
前回

前々回から Britannica 9th のデータにアクセスするためのプログラミングに関して話をしている。私の欲しい情報が、百数十年前に編纂・出版されたこの百科事典にはある。ただ、百年以上も前の百科事典にどれほどの価値があるか納得できない人も多いことだろう。ここでは、中世のある文法学者に関する情報量を比較して、9thの特徴を見てみよう。

ところで、現在 Rhetoric(弁論術・雄弁術)についていろいろ調べているが、たまたまPriscian(プリスキアヌス)という中世の文法学者の本が広く読まれた、という記述に遭遇した。("Encyclopedia of Rhetoric", by Thomas Sloane, P.480-482)

Priscianという人物は知らなかったので、とりあえず、Wikipediaでチェックすると、英語("Priscian" )でも日本語(「カエサレアのプリスキアヌス」)でも説明がある。

この英語および日本語のWikipediaの記述をよむと、参考文献の項に次のような但し書きがついていた。
 この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Priscian". Encyclopadia Britannica (英語). 22 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 360.

つまり、記事の本体は Britannica 11thから取られているということだ。それで、Priscian について、3つの Britannicaの記事を読んだが、各版は内容的にかなり異なっている。それらを比較することで時代背景や各時代に重要視されたことがかなりはっきりと分かった。以下、Priscianの記述を3つの版で比較してみよう。
【1】Britannica 11th
【2】Britannica 9th
【3】Britannica 最新のWeb版

【1】Britannica 11th

現在のWikipediaのPriscian に関する記事のソースは、Britannica 11thの次のサイトに原文がある
 https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Priscian

出だしの部分と最後の部分だけを取り出すと次のようになる。
ーーーーーー

Encyclopaedia Britannica, Volume 22 ― Priscian

PRISCIAN [Priscianus Caesariensis], the celebrated Latin grammarian, lived
about A.D. 500, i.e. somewhat before Justinian. This is shown by the facts
that he addressed to Anastasius, emperor of the East (491-518), a laudatory
poem, and that the MSS. of his Institutiones grammoticae contain a
subscription to the effect that the work was copied (526, 527) by Flavius
Theodorus, a clerk in the imperial secretariat. Three minor treatises are
dedicated to Symmachus (the father-in-law of Boetius). Cassiodorus, writing
in the ninety-third year of his age (560? 573?), heads some extracts from
Priscian with the statement that he taught at Constantinople in his
(Cassiodorus's) time (Keil, Gr. Lat. vii. 207).

...(中略)...


The best edition of the grammatical works is by Hertz and Keil, in Keil's
Grammatici latini, vols. ii., iii.; poems in E. Bahrens' Poetae latini
minores, the "Periegesis” also, in C. W. Muller Geographi graeci minores,
vol. ii. See J. E. Sandys, History of Classical Scholarship (ed. 1906), pp.
272 sqq.
ーーーーーー


11thでは、Priscianの出生を述べたあとに、彼の主著である『文法学教程』(Institutiones grammaticae)に関してざっくり説明し、記述の不備について述べる。とりわけ語源の説明が乱暴(wild)であることを非難する。この記述は、約1000語(ワード)程度に収まっている。

【2】Britannica 9th

Britannica 9thのPriscian の記述は次のサイトに原文がある。(Vol 19)
 https://digital.nls.uk/encyclopaedia-britannica/archive/190218840

11thでは主著である『文法学教程』について、わずかしか説明されていなかったが、9thでは全18巻のそれぞれの巻について、細かいフォントであるが、かなり詳しい記述がある。この本は、中世ヨーロッパで最もよく読まれたというラテン語の文法書と言われるが、どういうことが書かれていたかの概要を知ることができる。これだけ詳しく書かれているということで、『文法学教程』は19世紀の人間にとって、ラテン語文法に関する重要参考書であったことが分かる。

内容はともかく、分量的には11thの4倍(4400語)もあることに驚く。つまり、9thから11thに至る段階で、記事内容が大幅に削除されたということだ。実際、WikipediaのBritannica 11thの項には、9thとの比較で
 "more articles than the 9th, but shorter and simpler;"
と書かれているが、その実態をこのPriscianの記事で検証することができる。

9thと11thとの差はそれだけでなく、9thではギリシャ文字が使われているが、11thでは極力使うのを避けているようだ。また、9thではラテン語やギリシャ語の文章が英訳なしでそのまま記載されているが、 11thでは、英訳がついている。この事情を推察するに、11thになって(20世紀に入って)ギリシャ語やラテン語が読めない人たちにも Britannicaが利用されるようになったためであろう。 9thまでは、読者は暗黙の了解で、高等教育を受けた人、すなわちギリシャ語やラテン語が読める人、ということであった。この現象は、日本でも同じく、かつての辞書(例:諸橋の大漢和)では漢文が読み下し文なしで掲載されていた。



【3】Britannica 最新のWeb版

最新のBritannicaは、ウェブで無料公開されている。課金無しであるは結構だが、内容的にはギリシャ・ローマの古典文学にたいしてはかなり冷たい。Priscianに関する記述文は、約360語程度しかない。つまり、現在ではPriscianは特定の専門家を除いて、全く関心の持たれない人であるということが分かる。つまり、中世のラテン語文法書に関して、一般人は知る必要がないということになる。

 ****************

このように、英語圏における、Priscianという人物の価値、及び中世のラテン語文法書が重要視されたのは19世紀までであるということが分かった。他のヨーロッパ諸国ではどうであったかということを知るためにフランス語とドイツ語の百科事典で Priscianについて調べてみよう。この2つの言語では、1900年前後に膨大な百科事典が出版されていて、現在 Web上で内容がPDF および テキストデータ(一部 OCRデータ)で公開されている。

フランス語では La Grande Encyclopédie がある。全31巻で、それぞれが1000ページを超える大部なものである。ただ、下記に示すように、Priscianに関する情報は、約350語と至って簡便である。



また、ドイツ語ではMeyers Konversationslexikon がある。全16巻で、それぞれ1000ページを超える。ただ、下記に示すように、Priscianに関する情報は、更に少なく、わずか約140語しかない。



このように、百年以上前の百科事典を参照することで、時代時代でどういう内容が重要視されたかという痕跡を辿ることができる。内容的にみて、現代の百科事典が必ずしも、過去のものより優れていると言えないと同時に、現在の百科事典からは窺い知ることのできない当時の知的水準の様子がリアリティを伴って分かる。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沂風詠録:(第345回目)『ドイツ語にもある諺「髭の塵を払う」』

2022-05-15 16:09:38 | 日記
ずっと以前のブログ
 沂風詠録:(第5回目)『漢文教育の重要性』
で「間一髪」(um ein Haar)という日本語の表現と全く同じものがドイツ語にもあると紹介した。民族が変わっても同じような発想をする例をさらに一つ紹介しよう。今回の例は漢文とドイツ語の言い回しだ。

ところで、私はこれまでに中国関係の本を幾つか書いた。出版の時代順に並べると:
『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』 (角川SSC新書)
『世にも恐ろしい中国人の戦略思考』(小学館新書)
『資治通鑑に学ぶリーダー論: 人と組織を動かすための35の逸話』(河出書房新社)
『中国四千年の策略大全』(ビジネス社)

これ以外にも、次の本では、部分的に中国を取り上げている。

『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社)
『旅行記・滞在記500冊から学ぶ 日本人が知らないアジア人の本質』 (ウェッジ社)

これらの本の内では、最初に出版した『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』 が櫻井よしこさんから賞賛されたので大変売れ行きがよかった。ただ、タイトルなどから私は「嫌中論・反中論」者とみなされたようだが、『資治通鑑に学ぶリーダー論』や『教養を極める読書術』を読んで頂くとわかるように、中国の良き面も認めて高く評価している。

とりわけ、若い頃に『宋名臣言行録』を読んで以来、儒者の鑑ともいえる「宋代士大夫」の潔い生き方に共感できる点を多々感じている。宋代の代表的な士大夫(文人政治家)と言えば東京の「後楽園」の由来ともなった「後楽」という名句を作った范仲淹が挙げられる。また、蘇軾は、王羲之の端正な書体とは異なった奔放で斬新な書風を開拓しただけでなく、文章家としては唐宋八大家の一人として有名であるが、東坡肉(トンポーロウ)のという料理名に読み込まれていることでも広く庶民にも愛されている。



この2人に比べると知名度は低いものの、寇準(こうじゅん)も気骨のある文人政治家だ。宋の二代目皇帝の太宗に召された時、臆せず、自分の信じる所見を堂々と述べた。寇準が退席した後、太宗は「唐の太宗が魏徴を得た時のようにうれしい」と絶賛した。魏徴もそうであったが、寇準も信念を曲げない硬骨の臣であったのだが、それが災いした。

 ****************************
宋名臣言行録:巻4

寇準は、士と友好関係を結ぶことを楽しんだ。後に高官となった丁謂や种放という人たちも皆、寇準公の門下生であった。あるとき、寇準公は信頼できる人にこっそりと「丁謂は奇材ともいうべき人材だが、安心して重責を任すことはできない」と打ち明けた。

さて、寇準が大臣(宰相)で、丁謂が副大臣(参政)の時、、役所のレストランで会食した際に寇準の鬚(ひげ)がスープにつかった。丁謂は早速立ち上がって、寇準の鬚の汚れをぬぐった。寇準はその所作に怒り「君は副大臣という高い位にいるにも拘わらず、あたかも下役のように自ら大臣の鬚を拭くのか?」と叱責したので、丁謂は非常に恥じ(、恨みを抱いた)。寇準は正直を信条として、おべっか者などは気にかけなかった為に、最後にはその者のために陥られてしまった。

公好士、楽善、不倦。丁謂・种放之徒、皆出其門。嘗語所親曰、「丁生誠奇材、惟不堪重任。」公為相、謂参政。嘗会食都堂。羮染公鬚。謂起払之。公正色曰「身為執政、而親為宰相払鬚耶。」謂慙不勝。公恃正直、而不虞巧佞。故卒為所陥。
 ****************************

寇準は愛弟子の丁謂のためを思えばこそ注意したのであるが、中国によくあるパターンで、逆恨みされて、陥れられることになった。この話は、正史の『宋史』(巻281)の《寇準伝》にほぼ同じ内容の文章が見える。
(初、丁謂出寇準門至参政、事準甚謹。嘗会食中書、羹準鬚、謂起、徐払之。準笑曰:「参政国之大臣、乃為官長払鬚邪?」謂甚愧之、由是傾構日深。)


この寇準と丁謂の話から「髭の塵を払う」という諺ができて、「おべっかを使う」という意味で使われるようになった。

ところで、以前、セネカの「怒りについて」(De Ira、3-8-8)を Reclam文庫のドイツ語で読んでいた時にこれと同じ表現に出くわして驚いたことがある。原文、私訳、ドイツ語訳を以下に示す。
【原文】nihil asperum territumque palpanti est.
【私訳】お世辞を言われて怒ったり落ち込む人はいない。
【独訳】Wer anderen um den Bart streicht, hat nichts Raues und abweisend Strenges an sich.

ここに示した、「お世辞をいう」という表現はドイツ語訳では「um den Bart streichen」(直訳すると:髭の周りをなでる)と「髭」という直接的表現が出てくる。元のラテン語では palpanti と表現されている。これは palpoの分詞(verbal participle)で「撫でる」という原義だが、そこから「へつらう」という意味が派生している。このSenacaの文では「へつらう」の意味だが、調べた限りの英訳、フランス語訳ではいづれも「撫でる」と訳している。ラテン語の辞書(Lewis & Short や Oxford のラテン語辞典)をチェックすると、palpoの 2番目の語義 flatter にこのセネカの個所が例文として挙げられていることから判断すると、英訳、仏訳はいづれも誤訳と言える。
【英訳1】no creature is savage and frightened if you stroke it.
【英訳2】no creature continues either angry or frightened if you pat him.
【仏訳】il n'en est point de rude et d'intraitable pour une main légère.



話は変わるが、私は現在、インプレス社のウェブ雑誌、IT Leadersに
 『麻生川静男の欧州ビジネスITトレンド』
という連載記事を書いている。主としてドイツ語のウェブサイトからドイツおよびヨーロッパのIT事情に関する記事を月に一回のペースで選び出して、翻訳している。 IT記事のドイツ語というのは、私が普段接しているギリシャ・ラテン古典を翻訳したドイツ語に比べると構文や単語が易しいので理解しやすい。しかし、それでもどのように訳すればよいのか、迷うことがある。とりわけ、今回紹介したケースのように直接的な意味と間接的な意味がある時は、十分注意しないといけないと改めて感じる次第だ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

智嚢聚銘:(第6回目)『中国四千年の策略大全(その6)』

2022-05-08 10:00:26 | 日記
前回

日本は古墳時代から奈良・平安にかけて積極的に中国文化の取り入れ、強い影響を受けてきた。その後、894年の遣唐使の廃止以降、国風文化が栄えた、と言われる。遣唐使の廃止は、菅原道真の提言ではあるが、当時、中国では黄巣の乱で大いに乱れていたことは日本にも商人たちを通じて知られていたことであろう。最終的に黄巣の乱で唐の王朝の命脈が絶たれてしまうのであるが、それより百年遡った安史の乱でもあわや、という場面があった。この時、亡国の淵にあった唐王朝を救ったのが名将・郭子儀であった。



「文」尊重(というより、「文」偏重)の中国では、「武」は卑しいものと見られていたが、それでも、平安末期から中世、そして江戸初期にまでいたる日本の武将たちと比べるとはるかに「文」の素養に長けていた。中国の武将の中には「儒将」という文人顔負けの教養と見識を備えている武人が何人かがいるが、郭子儀もその一人であろう。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻 2 / 109 / 郭子儀】(私訳・原文)

唐の名将、郭子儀は来客があるときはいつも多くの侍女たちに出迎えさせていたが、盧杞(徳宗の時の大臣)が来ると聞くと侍女たちをいつもシャットアウトして、出迎えさせなかった。息子たちはその意味が分からず父の郭子儀に尋ねると諭すような調子で次のように答えた。「盧杞は容貌が醜いので、侍女たちが見ると、つい笑ってしまうかもしれない。もし将来、盧杞が権力を握ったなら我ら一族は皆殺しの目に遭うからだ。」

【馮夢龍の批評】
そういえば、春秋時代の成公元年(紀元前590年)に斉の頃公の母が晋からの使者である郤克を見て笑ったため、殆ど国が亡びそうになった。この事件を知っていた郭子儀は些細なことで大きな禍になるのを予め防いだのだ。

郭令公毎見客、姫侍満前。乃聞盧杞至、悉屏去。諸子不解。公曰:「杞貌陋、婦女見之、未必不笑。他日杞得志、我属無噍類矣!」

〔馮述評〕
斉頃以婦人笑客、幾至亡国。令公防微之慮遠矣。
 ***************************

人治の国、中国では、昔は(そして多分、現在でも?)権力者のちょっとした気分次第で、罪もないのに迫害されるケースがしばしば見受けられる。郭子儀はそのような難癖をつけられるのを予防したわけだ。

ところで、ここの部分に見られる馮夢龍の評論にあるのは、史記の巻39《晋世家》に記載されている次の話である。ちなみに、巻32《斉太公世家》にも同様の記載があるし、《春秋穀梁伝・成公元年》にはもう少し詳しく載せられている。
(以下の和訳部分には現在では差別用語とみなされる語句があるが、平凡社の文のまま掲載する。ただし()内の語句は私が補った。)

 ***************************
(晋の景公)八年に、(晋は)郤克を使者として斉に送った。斉の頃公の母が楼上から見て嘲笑した。というのは、郤克はせむし(僂)であり、魯の使者はびっこ(蹇)であり、衛の使者は片目(眇)であったので、斉もまた、そのような不具者をだして客をみちびかせたからである。郤克は怒り、帰途、黄河にいたってからいった。「必ず斉に報復して見せます。黄河の神もご照覧ください!」(平凡社・中国古典シリーズ 『史記』)

八年、使郤克於斉。斉頃公母従楼上観而笑之。所以然者、郤克僂、而魯使蹇、衛使眇、故斉亦令人如之以導客。郤克怒、帰至河上、曰:「不報斉者、河伯視之!」
 ***************************

郤克はその後、2年にして、魯の救援に赴き、斉軍を破り、この時に受けた屈辱の怨みを晴らした。(春秋左氏伝、成公2年)

日本では、魏蜀呉の抗争が描かれている『三国志』の時代、紀元3世紀が人気であるが、私は個人的には、その次の時代、つまり晋(西晋+東晋)の時代の方が好きだ。この時代には、老荘思想や仏教が普及し、文人たちが儒教の縛りを離れてかなり自由に振舞っているからだ。その例は『世説新語』におびただしいほど見ることができる。しかし、その一方で、現実の政治は三国時代以上に乱れ、貴族・高官といえども安閑とはしていられなかった。当時の名門貴族であった何曾もそのような兆候を敏感に感じていた。

 ***************************
何曾は晋の高官で、いつも武帝(司馬炎)の宴席に列席していた。ある日、家にもどって子供たちに次のように話した「主上は中国を統一して晋という王朝を創業した。ワシはいつも宴席にいるが、いまだかつて国家運営に関する展望を聞いたことがない。話はいつも日常の些細なことばかりだ。これでは王朝の将来が危うい。王朝ばかりではなく、我が一族も危ういぞ。お前たちも没落は免れまい。」そう言って孫たちを指さし「この孫たちの代になると必ず国が大いに乱れるだろうよ!」後になって孫の何綏が東海王・司馬越に関連して処刑されると何綏の兄である何嵩が泣きながら「祖父はなんという大聖であったのか?」と叫んだ。

 馮夢龍『智嚢』【巻 5 / 208 / 何曾】(私訳・原文)

何曾、字穎考、常侍武帝宴、退語諸子曰:「主上創業垂統、而吾毎宴、乃未聞経国遠図、唯説平生常事、後嗣其殆乎?及身而已、此子孫之憂也!汝等猶可獲沒。」指諸孫曰:「此輩必及於乱!」及綏被誅於東海王越、嵩哭曰:「吾祖其大聖乎?」嵩、綏皆邵子、曾之孫也。
 ***************************

何曾は新たに誕生した晋の朝廷で国家運営に関する政治の話が全くなされなくなったことで、晋の滅亡を予感した。これからすると、現在の日本の国会討論などでは日本国としてのありかたなど国家の大計を議論せず、ひたすら大臣の発言の言葉じりを捕まえて「首相の任命責任を問う」などという枝葉末節な話に終始している。このぶざまな低落はまさしく、何曾が憂えた状況を同じではないか!ウクライナのように、国家の危機存亡の事態にもしっかりと対処できる国との差は大きい。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軟財就計:(第9回目)『私のソフトウェア道具箱(その 9)』

2022-05-01 19:09:50 | 日記
前回

前回、Britannica 9th の情報取得の処理プログラム(バッチファイル)を掲載したが、プログラミングのプロの眼からみれば、非常に素人っぽい書き方にあきれた人もいるだろう。その驚きはもっともで、私自身も以前ならそういう評価を下したに違いない。というのは、以前のブログ記事
 百論簇出:(第158回目)『IT時代の知的生産の方法(その6)』
に書いたように、私は以前、SE(システムエンジニア―)兼プログラマーとして、C言語で数十万行レベルのシステムプログラムを書いていた。それゆえ、プロの眼から見た今回のプログラムのような素人のプログラムのまずさは自覚している。しかし、プロのレベルのプログラムというのは、過剰なプロ意識に急き立てられ、得てして凝った書き方をするため、非常にメンテナンスしにくい。というのは、凝縮したコードなので、後から読んで、一体何を目的にしたのかが分かりにくいのである。それを防止するため、プロはきっちりしたドキュメント(解説書、説明書)を残す。ところが、現在の私にはそういう時間がない。それで、ドキュメントを残す代わり、わざとダサい、素人っぽいコードにして、読めば直ぐに分かるようにしているのだ。

 **********************

ところで、過去の印刷文化遺産は、現在、急ピッチで電子化され、一部は公開されている。一番有名なのは、1971年に開始したプロジェクト・グーテンベルクだ。ここには、英語だけでなく、他の言語の作品が多数掲載されている。一方で、Wikipediaの姉妹サイトの Wikisource にもグーテンベルクと勝るとも劣らない程の点数が掲載されている。とりわけ、私の興味中心である、ギリシャ・ローマの古典、および中国古典の充実ぶりはグーテンベルクを遥かにしのぐ。
また、タフツ大学(Tufts University)が運営しているギリシャ・ローマの古典に特化した Perseusというサイトもある。



これらのサイトのデータは、近年では、出版物から画像データなども埋め込んでいることはあるが、基本はテキスト形式(あるいはhtml 形式)で提供される文字情報である。特定の出版物にこだわらないので、原則的にページ数はついていない。一方で、著作権の切れた出版物そのものを電子化したサイトもいくつかある。有名なところでは、Google ブックスがあるが、私がよく参照するのはインターネットアーカイブ(Internet Archive)だ。

これらのサイトの多くは欧米の図書であるが、中国の書物に関しては上で紹介したWikisource以外にも中国哲学書電子化計画というサイトがある。これらと比較すると日本の図書の電子化は非常にみすぼらしい!確かに、日本の電子図書館として、青空文庫は有名ではあるが、内容はかなり文芸作品に偏っている。それは許せるとしても、文字コードがJIS規格であるため、ちょっと古い書物ともなると例外文字が頻出して見苦しいことおびただしい。例外文字はイメージデータ、あるいはとして埋め込まれているため、検索には全く役にたたない。
例えば、次のような一節がある(青空文庫、内藤湖南『尚書稽疑』)
「幼嘗受其義於葆琛先生」
この一節はブラウザーでは全く問題なく字は表示されてはいるものの、埋め込まれている文章は次の通りである。
「幼嘗受其義於葆※(「王+深のつくり」、第 3水準1-88-4)先生」

つまり、「葆琛」が検索できないのである。これはなにも中国古典文に限らず、日本の古典に関しても見られる。また、図書をPDF化するプロジェクトでは国立国会図書館デジタルコレクション( https://dl.ndl.go.jp/)はあるが、PDF化の作業が粗雑なため、読むに堪えないような図書もけっこう多い。また、Google Booksでは、たまにテキストファイルがある程度だが、インターネットアーカイブではほとんど場合、かなり精度の高い OCRでテキスト化されたファイルがついている。それと比較すると、国立国会図書館デジタルコレクションでは雑なPDFデータなので、テキスト化は望めない。先ごろの印鑑廃止騒動や、これらの事実から分かるように、日本はDXにとりかかるどころか、インターネット時代、つまりデジタル化に完全に乗り遅れている。これが、日本の哀しき現状なのだ!

つくづく、日本の先人たちが築きあげた印刷文化遺産が十分に活用されていないことを残念に感じる。たとえば、塙保己一が編纂した『群書類従』『続群書類従』や、物集高見(もずめ たかみ)個人の超人的な努力で完成された『広文庫』などはさすがに国立国会図書館デジタルコレクションにはPDFデータでは収められてはいるものの、テキスト化されていないので情報アクセスが困難なので、せっかくの宝も持ち腐れとなっている。

一方、世界の先進諸国では過去の印刷文化遺産が急ピッチで電子化され無料でデータ公開されている。それゆえ、前回までに説明したように Britannica 9thの PDFデータを容易にアクセスするために、自分でプログラミングできることは、知的平面(intellectual horizon)を広げる上でも欠かすことのできない技術であるのだ。この意味で私は、理系研究者はもちろん、文系研究者だけでなく一般人も、すくなくとも一年、望むらくは数年程度はプログラミングとコンピュータシステムを真剣に学ぶべきだと考える。インターネットからデータを取得し、自分の望む形式に集計・変形できる技能を身につけることは、今や100年ともいわれる長い人生を知的に生きる上で欠かせないと考える。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軟財就計:(第8回目)『私のソフトウェア道具箱(その 8)』

2022-04-24 20:24:35 | 日記
前回

前回紹介したオンラインOCRのサイト、onlineocr.net の変換は非常に精度が高い。ありがたいことに、このサイトは無料で使えるが、一日に変換できるページ数やドキュメント本数には制約がある。それで、分量が多い場合は、全部を変換するのにかなり日数がかかる。(もっとも、インターネットやコンピュータシステムのからくりが分かっている人なら、「一日に」という文句が何を意味しているのか、簡単に推測がつくはずだし、同時に、この制約を回避する方法も分かるはずだ。同社の営業妨害になるので、これ以上の説明は省略する。)

さて、サイトを使って、Britannica 9th の index 部分を全て OCRでテキスト化した。例えば、 Plato(プラトン)の部分のページ(画像データ)は次のようにテキスト化できる。


#348-32770: 
PLATO : , Greek philosopher, xix. 194;
 his method of analysis, I. 793; in 
relation to Aristotle, II. 510; on astro-
nomy, II. 747; on the beautiful, I. 
215 ; on communism, vi. 212; econo-
mic ideas of, xix. 349; his ethics, 
VIII. 579; on evolution, VIII. 756; on 
the fine arts, IX. 199; his logic, xiv. 
785; his metaphysics, xvi. 90; on the 
Mysteries, xvii. 125; on Socrates, XXII. 
232; in relation to Socrates's teaching, 
xxii. 237; on sophistry, XXII. 266; 
on transmigration of the soul, xvi. 
106; his place in Greek literature, XI. 
142; Ast's translations and comment-
aries on, II. 735; Trendelenburg on, 
XXIII. 542.


テキストデータを見ると、いくつかの個所で、大文字、小文字の誤変換はあるものの、内容的にはほぼ完璧だといえる高い精度の変換がなされていることが分かる。

このOCRデータをもとにして、インデックスページ数と、変換データの行数、の2つの情報を追加したインデックスファイルを作った。ここまでくれば、以前紹介した xge でインデックスファイル検索すれば、検索項目が掲載されている該当ページが分かる。例えば、Plato を検索すれば、上で示したような結果が得られる。該当ページは 19巻の194ページ(xix. 194)であることが瞬時に分かる。この情報を元にして、ダウンロードした19巻のPDFファイルの 194ページにアクセスすればよいのだが、ここでもちょっとしたプログラムが組めるか組めないかで、効率が大幅に異なる。

プログラムが組めない場合、たいていの人は、 Explorerで該当フォルダーのPDFファイルをクリックして、ファイルが開き、該当のページ数を打ち込むだろう。これだけでも大層だが、それにも増して手間のかかることがある。それは、PDF内のページ数と、PDFファイルのページ数が一致しないことだ。例えば、Platoの場合、PDF内のページ数は194ページであるが、 PDFファイルではそれに差分の10ページを足した、204ページとなる。厄介なことに、この差分のページ数は、巻数ごとに異なる。いちいち計算するのは面倒だ!しかし、プログラムを組んでこの差分を自動的に計算して直ちに目的のページに飛んでいくことはいともたやすい。さらに、PDF閲覧で厄介なのはページ数の問題だけではない。自分にとって、見やすいフォントサイズや画面サイズにいちいちセットするのは面倒だ。結局これらすべてを以下に示すように、バッチファイル(pg.bat)でやらせることで Britannica 9thのデータを直ぐ閲覧することを可能にした。

===============================================

@echo off
REM Britannica 9th --  指定された巻とページ数を開く

if '%1' == ''  goto MSG

set /A baseoffset=10
set /A entvol=%1

set /A entpg=%2
echo  pg [vol %entvol% ] [page %entpg%] -- Britannica 9th version

REM 以下の offset の値、差が 12 であれば、2 をセットする

if %entvol% GTR 24 goto ERR_GTR

if %entvol% EQU  1 set offset=4 & goto DO_CONT1
if %entvol% EQU  2 set offset=2 & goto DO_CONT1
if %entvol% EQU  3 set offset=2 & goto DO_CONT1
if %entvol% EQU  4 set offset=6 & goto DO_CONT1
if %entvol% EQU  5 set offset=0 & goto DO_CONT1
if %entvol% EQU  6 set offset=0 & goto DO_CONT1
if %entvol% EQU  7 set offset=0 & goto DO_CONT1
if %entvol% EQU  8 set offset=0 & goto DO_CONT1
if %entvol% EQU  9 set offset=2 & goto DO_CONT1
if %entvol% EQU 10 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 11 set offset=2 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 12 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 13 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 14 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 15 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 16 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 17 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 18 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 19 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 20 set offset=4 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 21 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 22 set offset=2 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 23 set offset=0 & goto DO_CONT2
if %entvol% EQU 24 set offset=2 & goto DO_CONT2

:DO_CONT1
set myfile0=eb0%entvol%.pdf & goto DO_CONT

:DO_CONT2
set myfile0=eb%entvol%.pdf & goto DO_CONT

:DO_CONT
set /A mypage=%baseoffset% + %entpg% + %offset%
REM echo  myfile [ %myfile% ] mypage[ %mypage% ] offset[ %offset% ]

set mycmd="X:Adobe\Reader 9.0\Reader\AcroRd32.exe"
set myfile=X:\xxx\brit09\%myfile0%

if exist %myfile% goto CONT
goto ERR

:CONT
start /B "" /max %mycmd% /A " page=%mypage%&zoom=200&pagemode=none&view=Fit"  %myfile%
goto END

:ERR_GTR 
echo ERROR Vol #[ %entvol% ] must be ( 1 -- 24 )
goto END

:MSG
echo Usage :  pg [vol #] [page #] -- Britannica 9th version
goto END

:END

===============================================


さて、今回は150年近く前の Britannica 9th の内容にアクセスする方法を紹介したが、ウェブ上にはこれ(Britannica)以外にもPDF形式でしか見ることのできない有用な情報がたくさん存在している。上で述べたように、PDF形式のファイルを閲覧する時にはいくつか厄介な操作が必要だが、プログラムが組めるとそれらの操作を自動化することができる。あるいは、そこまでいかなくとも操作を極めて簡略化することができるようになる。私の場合、Windows10環境での作業であるので、Dos Promptのバッチファイル、awk ファイル、それと自作あるいはネットからダウンロードした exe ファイルを組み合わせて処理している。商用のプログラムではないので、わざわざ無理して一気通貫な処理をする必要はない。幾つもの小さなプログラムを重ね合わせることで、短時間でほぼほぼ目的を達成するプログラムを組むことができる。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

智嚢聚銘:(第5回目)『中国四千年の策略大全(その5)』

2022-04-17 13:55:00 | 日記
前回

前回に書いたように、今回出版した『中国四千年の策略大全』は全体の1/5程度(約230条)の抄訳である。ただ、用意した原稿はさらに 100条近くあった。諸般の事情で出版できなかったが、これから暫くの間、これらの項目を紹介しようと思う。なお、出版した本では、ページ数の関係上、原文を載せることはできなかったが、ウェブではそういった制約もないので、原文も掲載しよう。ところどころに馮夢龍の活躍した明の時代の文語文ならではの言い回しも混じっているものの、学校で習う漢文と多少の違いはあるが決して難解ではない。

尚、巻数は、馮夢龍の『智嚢』(正式名称:『智嚢補』あるいは『智嚢全集』)を示し、それに続く番号やタイトルは、ウェブからダウンロードしたWikisourceの原文に載せられている名称を参考のために示す。
(原文サイト: https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%BA%E5%9B%8A

最初は、唐の官僚・劉晏のすぐれたビジネス感覚の話だ。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻 2 / 95 / 劉晏】(私訳・原文)

唐の時代、劉晏が揚州に造船所を造り、一隻あたりの建造費に千緡(1億円程度)を払った。ある人が「実際の費用はこの半分ぐらいですから支払を減らしてはどうか?」と提言した。劉晏は「それはよくない、大きな事を成そうとするなら、こまかい所をけちってはいけない。およそ、事を為すには恒久的な観点が必要だ。今、造船所を作ったので、造船業者が多くできたが、初期費用がかなりかかっているはずだ。まず為すべきことは、業者が資金的に困らないようにして、丈夫な官製の船を造らせることだ。もしこまごまとした計算でぎりぎりの支払いしかしなかったらどうして事業が長続きしようか。必ず、後になって支払を半分にしようと提案する者がでてくるであろう。支払を半分にしても、かつかつにやっていけるかも知れないが、それ以下になると到底むりだ。」

その後、50年経ち、果たして劉晏の予想通り、支払を半額にしようと提議する官僚が出てきた。そして遂には、懿宗の咸通年間になると、製造コストぎりぎりにしか支払をしなかったので、官製の船は板が薄く壊れやすくなって、とうとう揚州の造船所は廃止された。

劉晏於揚子置場造船、艘給千緡。或言所用実不及半、請損之。晏曰:「不然。論大計者不可惜小費、凡事必為永久之慮。今始置船場、執事者至多、当先使之私用無窘、則官物堅完矣。若遽与之屑屑較計、安能久行乎?異日必有減之者、減半以下猶可也、過此則不能運矣。」後五十年、有司果減其半。及咸通中、有司計費而給之、無復羨余、船益脆薄易壊、漕運遂廃。〔辺批:惜小妨大。〕
 ***************************

ビジネス原理からいえば、コストカットすることは利益向上に直結するので、善い施策だといえよう。しかし、劉晏が指摘するように下請け業者の経営が成り立たなくなるほどの低い価格で発注すれば当然、どこかに手抜きが出てくる。そうなれば、回り回って結局は発注者に不利益のつけがやってくる。かつて、日産では、カルロス・ゴーンがコストカットで急激なV字回復をしたというが、その結末はどうであったであろうか?



次は、中国のどろどろした政争まみれの宮廷でのスパイ映画もどきの策略の話。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻 2 / 98 / 羊馬因劉慶祖】(私訳・原文)

南宋の初期、趙汝愚と韓侂冑が光宗を退位させて太上皇にし、寧宗に帝位を譲らせようとした。その譲位計画を実行するに当たって、趙汝愚は近衛隊長の郭杲に言い含めて、兵士500人を祥禧殿の前に集めて御璽を取り立てようとした。郭杲が殿内に入って御璽を要求した時、御璽の保管を担当していた宦官の羊馬因と劉慶祖の二人はひそかに話し合った「今、宮殿の外ではいろいろと不穏な空気が流れている。もし万一、この御璽が曲者の手に渡ってしまったならどういう不測の事態になるやもしれぬ。」

それで、二人は共謀して、郭杲には空箱を封印して渡した。一方、本物の御璽は秘密の通路を通ってこっそりと徳寿宮に居る憲聖太后のところに運んだ。趙汝愚が御璽の箱の封印を開いて御璽を取り出そうとした時、憲聖太后は隠し持っていた本物の御璽をこっそりと袖から出して、趙汝愚に渡した。

趙汝愚与韓侂冑既定策、欲立寧宗、尊光宗為太上皇。汝愚諭殿帥郭杲、以軍五百至祥禧殿前祈請御宝。杲入、索於職掌内侍羊馬因、劉慶祖。二人私議曰:「今外議洶洶如此、万一璽入其手、或以他授、豈不利害?」〔辺批:也慮得是。〕於是封識空函授杲。二璫取璽従間道詣徳寿宮、納之憲聖。及汝愚開函奉璽之際、憲聖自内出璽与之。
********

御璽が盗まれてしまうと、政権が転覆する恐れがある。それで、郭杲には空の御璽箱を渡して、万が一、運搬途中で盗まれてもよいようにした。そして、御璽そのものは秘かに別ルートで運んだ。まるで、007のサスペンス映画のような情景だ!『智嚢』には、ここだけではなく、何度も登場してくる「敵の作戦の裏の裏まで読む」策略だ。ここまでしないと、安心できないというのが中国社会であったし、多分、今もそうだろう。。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軟財就計:(第7回目)『私のソフトウェア道具箱(その 7)』

2022-04-10 17:42:15 | 日記
前回

ブリタニカの第9版(Britannica 9th)は学術的に評価の高いが、いかんせん100年以上も前の出版(1875年から1899年)であるため、現代人にとっての価値は極めて低い。それゆえ、Web上でもいささかぞんざいに扱われている。具体的に言えば、Britannica 11th はウェブ上の幾つかのサイトで全文がテキスト化されていて、検索もできるようになっている。さらに、文字だけでなく、図版も埋め込んだフルセットの次のようなサイトも存在する。
 Wikisource:WikiProject 1911 Encyclopadia Britannica

このようなサイトを利用することで、1910年発行の Britannica 11th をあたかも現在の百科事典のように気軽に利用することが可能だ。実際、英語版の Wikipedia では Britannica 11th から文章をそのまま引用している個所が数多くある。

それに反し、Britannica 9th を参照するのは大事(おおごと)だ。まず第一、紙の本を買おうと思っても日本では入手は、不可能とは言わないにしても、非常に困難だ。それではと、外国の古本屋から輸入すると本体は10万円から20万円の価格帯だが、それに送料の数万円が上乗せされるので、よほど意思を固めないことには注文できないであろう。


従って、9th を本の形態で読むのは、私の場合のようによほど幸運に恵まれない限りは現状、日本国内では不可能なので、 Web上の電子化データをチェックすることになる。幸運なことに、本文は全て PDF形式で公開されているが、立ちはだかるのが検索の不便さだ。この難関を解消するには、自分でプログラムを書く必要がある。

順序として先ず、本文のPDFを入手することから始めよう。

Britannica発祥の地であるスコットランドのサイト、 National Library of Scotland に 9thの全巻(24巻+インデックス)の PDF データが公開されている。単純に考えれば、これを全てダウンロードして、探したい項目のページを開けばいいということになる。とはいえ紙と違い、PDF の電子データは目的の項目に飛ぶにはひと苦労だ。まず、インデックスの PDF を開いて該当のページを見つけ、それから目的の巻のページにアクセスしないといけない。つまり、常に二重手間がかかるわけだ。あるいは直接、該当項目のページに飛ぶにも、PDFは紙のようにぱらぱらとめくることができないので、該当ページに辿りつくまで何ページもめくらないといけない。

この手間を簡略化するプログラムの説明が本稿の目的だ。そのためには、インデックス巻の PDFデータをテキスト化し、検索することで、該当項目の巻数、ページ数を瞬時に表示できるようにしたい。それには2つの方法がある。

1.Archive.org のデータを取得する
2.PDF をOCRで文字化する


それぞれの説明をしよう。

1.Archive.org のデータを取得する

欧米で著作権の切れている図書は近年続々と電子データ化されている。有名なところでは、Google Booksがある。その以外には Microsoft も電子化に積極的だが、私がもっぱら利用しているのは Archive.org である。ここには、英語の図書だけでなく、ドイツ語やフランス語の古い書籍も数多く電子化されている。私が Google Booksよりこちらを利用している理由は、図書の電子化データとしてページの画像データをPDF形式にしただけでなくほとんどの場合、テキストデータも載せられているからである。もっとも、そのテキストデータはOCRで作成されたデータなので、変換の間違いも多いのも事実だ。それでも大体の内容を知るにはテキストデータの方が便利な場合も多い。例えば、9th のインデックス情報は次のような検索語でググれば見つけることができる。
 Encyclopedia Britannica 9th index site:archive.org
今回、9th のインデックス情報をテキスト化したものをダウンロードしたが、残念ながら、OCRの精度が悪く、誤読が多く、使い物にならないことが判明した。

2.PDF をOCRで文字化する

それでは、新たにOCRで解読しないといけない。Web上のオンラインで無料でOCRしてくれるサイトを探して、試してみたところ、onlineocr.netの変換が一番正確であった。フリーで使うにはページ数や回数の制限はあるものの、非常に精度の高いテキストを得ることができた。次はいよいよこのインデックスファイルを使って項目を検索して、目的のページを表示させるプログラムを作ることになる。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

智嚢聚銘:(第4回目)『中国四千年の策略大全(その4)』

2022-04-03 16:27:18 | 日記
前回

本書『中国四千年の策略大全』は明の文人の馮夢龍が書いた『智嚢』の抄訳である。私がなぜ、この本の名前を知り、興味をもったのは増井経夫氏の抄訳本『智嚢 ― 中国人の知恵』がきっかけだった。(その後の経緯などについては本書のP.37からP.39に書いたので、ご参照頂きたい。)増井氏の本は『智嚢』の1/7程度の抄訳であるので元の構成がどうなっているのか分からなかった。本文にも書いたように、それから40年近く経過して、ようやく漢文の全文をウェブ上で発見して、ダウンロードしてようやく全貌を掴むことができた。

ちなみに全文はWeb上で幾つかのサイトでみることができる。たとえば、中国版 Wikisource の https://zh.wikisource.org/wiki/智嚢 にある。困ったことに、サイト間で多少の食い違いがある。例えば、複数の話が一つのタイトルの下にまとめられている場合、それぞれを別の話と見るか同じ範疇の話と見るかによって、番号付けが異なる。いづれにせよ、概略 1060条の話が『智嚢』には載せられている。

原文がデータとして入手できると、紙媒体では得られない情報を得ることができる。一つの例は語数の統計分布だ。馮夢龍が『智嚢』を書いた主目的は策略のバリエーションを網羅的に記すことであったので、歴史書では重要な人物の思想・経歴や事件の背景の説明は極力簡略化して、ツボにはまった策略が際立つようにしている。それで、基本的には文章は星新一流のショートショートになっている。
語数をカウントした表を下に示す。(語数のカウントには句読点や括弧などは含めず。)



この図から分かるように、語数が400語以下の話が全体の8割にもなり、500語以下で9割となる。500語は、簡単なメール文程度の極めて短い文章となる。この中に話の起承転結が詰まっているということは、いかに馮夢龍の文章編纂が優れていたかという証拠となる。

さて、この本には1000条にものぼる中国人の策略が紹介されている。本書『中国四千年の策略大全』ではその内、1/5ほど紹介してある。増井氏の本とのダブりは極力避けるようにした。それは、『智嚢』という本の幅広さと中国人の策略の凄さを知ってもらいたいと思ったからあった。ところで、これは私の勝手な推測だが、中国文学者の増井氏は中国人のいや~な面を如実に示すような薄汚い話をあまり選んでいない。私が『智嚢』を読んで一番感心したのは、第 5章の《雑智》策略に「賢い」も「ずる賢い」もない、の部分だ。この章を読めば、本書の帯に書いてあるように:
「詐」の中国、「誠」の日本。両国の文化の差を表わすのにこれほど適切なことばはない。詐の根源を辿れば春秋時代の孫子が力説する策略に行きつく。もっとも、詐と誠というのは必ずしも善/悪の対比ではなく、策略のあり/なしと理解すべきだ。

という文句が十分納得できるであろう。私が《雑智》(本書第5章)でとりわけ感心したのは、《孫三 真赤な猫で大儲けした老人の策略》(P.270)、《京邸の仮宦官 大金を借りようとして手土産をかすめ取られる》(P.272)、《京師の騙子 都の一流の詐欺師の腕前》( P.274)のような中国の策略の粋が詰まっている話だ。もっとも、増井氏も流石にこの中からは《狡訟師 依頼人の耳を噛みちぎって無罪を勝ち取る》(P.265)を取り上げているのは、日本人には到底考えつくことすらできない策略に思わず膝を打ったからであろう。

ところで、世間で有名な識者のいうことは真理だと考える人は多いが、私の今までの読書体験からいうと、中には「トンでも論」も間々見受けられる。たとえば、近代資本主義の勃興に関しても、元来商売が盛んであった中国ではなく、ヨーロッパだけに近代資本主義が発達した理由をキリスト教の教義に関連づける識者は多い。一例として小室直樹氏は『イスラム原論』(P.395)で「利益を得るのが悪いというキリスト教があったから、それにカルヴァン派が猛反発し、それが資本主義の発展につながった」との趣旨を述べている。しかしこれは、一面の真理でしかないと思う。というのは、資本主義の発展のためには、「見知らぬ人から資本を集め、利益が出れば適切に配分する」ということが正しく履行されないといけない。つまり、見知らぬ人の間で、公正な倫理観が共有され、信頼関係が構築されないといけない。この点から資本主義を見てみると、資本を集めた人は出資者から信頼されていなければいけない。英語の単語でいうと、sincerety、integrity、trust が見知らぬ人達の間で確立されている社会の存在が資本主義発展の大前提となる。本書『中国四千年の策略大全』を読むとそういった社会は中国にはかつては(そして、多分現在も?)存在していない。これが結局、世界中の富を多く集めた宋以降の中国に近代資本主義が成立しなかった根本原因であることが分かる。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軟財就計:(第6回目)『私のソフトウェア道具箱(その 6)』

2022-03-27 11:56:45 | 日記
前回

本シリーズ《軟財就計》の第2回目からこれまで Britannica 第11版(11th edition)を表示するためのシステムを説明した。つまり、 Web 上に提供されるアクセス方法では、望む形式で表示できないが、自作のプログラムを組むことで、容易に「わがまま」を押し通すことができる実例を示した。このように自分でプログラムを組むことによって随分見やすい表示でBritannica 11th を読むことができ、大変うれしく思っている。

ところで、Britannica には11th 以外にも学術的に高く評価されている版がある。Wikipediaの記載によると、 11thの直前の 9th 版で"high point of scholarship"と高く評価されている。(10th 版は9thのSupplement)


この情報を目にしてから、私の持っているインディアンペーパーの11th 版の使いにくさもあって、9th版を見てみたいという欲求が高まった。そして、遂に格安で購入できた。その顛末については以前のブログ
 沂風詠録:(第339回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その 44)』
で述べた通りだ。

9th を使ってみると予想どおり、私の関心である「ギリシャ・ローマに関する知識」に関して他に見られないほど詳細に記述されていた。それまで、ギリシャ・ローマの事物に関してはドイツ語の Kleine Pauly や Artemisの Lexikon der Alten Welt で調べていたり、英語では The Oxford Classical Dictionary を参照していたことは、以前のブログ
 沂風詠録:(第314回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その 19)』
で紹介した。ただ、残念ながら英語のThe Oxford Classical Dictionary は記述内容が大いに不足しているため、参照することは稀だ。ドイツ語の2冊にはいつも満足しているが、たまに違った角度からもう少し別の情報が欲しいと思う時がある。しかし、いつもそれ以上情報がなく、立ち止まってしまわなければならないことに歯がゆかい思いをすることは一度や二度ではなかった。それで、Britannica 9th を入手した時にこの点の改善を期待したのだが、その期待は裏切られることはなかった。9thのギリシャ・ローマに関連する記述は、11th以上に幅広くかつ専門的なのが、ドンピシャ私が求めていたものであった。

例えば、古代ギリシャの政治家・弁論家であるAeschines(アイスキネス、BC 389 - 314)の項目を見てみよう。当時、アテネの政治的なパワーは落ち、マケドニアのアレクサンドリア大王が昇天の勢いでギリシャ世界を席巻していた。その勢いに呼応してアテネでは、親マケドニア派(アイスキネス)と反マケドニア派(デモステネス、Demosthenes)に別れて激しく争っていた。最終的には、デモステネスの弁論に破れたアイスキネスはロドス島に亡命し、生計のため弁論学校を開いて、弁論術を教えることとなった。 Britannica 9th にはその時の様子を次のように紹介する。

【要約】ロドス島に弁論術の学校を開いた開講の冒頭でアイスキネスは生徒たちに向かって、自分の弁論とデモステネスの弁論の2つを演じてみせた。アイスキネスの弁論に生徒たちは感嘆し、拍手をしたが、アイスキネスがデモステネスの弁論を演じると、生徒たちは総立ちになって拍手した。生徒たちの反応に、アイスキネスは内心、自尊心を傷つけられていたが平静を装い「もし君たちが、その場にいてデモステネスの弁論を聞いたらとても今の興奮どころではないだろうね」とつぶやいた。

Aeschines, after staying some years in Asia Minor, opened aschool of eloquence at Rhodes. He is said to have commenced his lectures by reading to his audience the two orations which had been the cause of his banishment. His own oration received great praise, but that of Demosthenes was heard with boundless applause. In so trying a moment, when vanity must be supposed to have been deeply wounded, he is reported to have said, with a noble generosity of sentiment, "What would you have thought if you had heard him thunder out the words himself !"



Britannica 9thはこのように、デモステネスの弁論の迫力をアイスキネス自身の言葉で表現しているが、残念なことに 11th やそれ以降の版にはこの部分がカットされている。確かに、わざわざアイスキネスの言葉を引用せずともデモステネスの雄弁さを表現することは可能だ。しかし、アッティカの10大弁論家の内の一人のアイスキネスがデモステネスの弁論がダントツであることを実演したこのエピソードこそデモステネスの雄弁さを証拠立てる歴史的価値があると私には思える。ところで、この部分の記述は、その後ローマで弁論術の教師をしていたクインティリアヌス( Quintilianus、Quintilian)が書いた、弁論術の教科書『弁論家の教育』にも引用されている(巻11、7節)。

このように、今回紹介した、アイスキネスの項目に限らず、 Britannica 9th には他の情報源からは知ることができない内容が多く含まれている。それでは、私がこの9thをどのようにして読むことができたかについて次回、説明しよう。

続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沂風詠録:(第344回目)『ご用心!「歴史に学ぶ」の落とし穴』

2022-03-20 18:22:16 | 日記
全くうんざりするほど、NHKの大河ドラマは武将ものばかりだ。人気があるので、視聴率に自分の給料と出世がかかっているプロデューサーとしては他に代案がないのであろう。この責任は、なにも製作者ばかりに押し付けるわけにはいかない。視聴者にもある。武将ものを見ると勇気と叡智がもらえると感じるのであろう、結末が分かっているにも拘わらずついつい見入っている。

このようなドラマを好む先にあるのが、歴史探訪だ。歴史、つまり過去を知ることで、未来が読めると考えてしまう。もっとも、人間そのものはここ数万年 ― 低く見積もっても数千年 ― 変わっていないのであるから、歴史の記述から読み取れる人間性も現代にも通じるものがあるという歴史好きの主張も一応納得できる。しかし、今更言うまでもないことだが、「過去は過去、未来は未来」。全く別物だ。たとえ過去に同じことが100回起こったとしても、将来にそのままそっくり同じことが起こるという確証はない。そこが、歴史が物理現象を説明する科学などとは異なる点だ。

つまり、ある結果に至る経緯が一定しているわけではないのだ。科学的用語を使えば、歴史的事象はカオス的(カオス理論)であるのだ。カオス理論とは俗に「ブラジルで蝶が羽ばたけば、テキサスで竜巻を起こる」というような些細なことからでも大きな変化が起こることをいう。これと全く対極にあるのが、線形理論だ。昔、ハワイ出身の関取・高見山大五郎が丸八真綿のCMで「2倍2倍」と言っていたが、入力が倍になれば、出力も倍になるような単純な比例関係のことだ。つまり入力の差が小さいなら当然、出力の差も同じく小さい。要は、歴史はカオス理論まで行かなくとも、線形理論のように、単純な理論化、単純な数式化ができないのである。これは、数十年前の社会主義国崩壊で、マルクス理論が破綻したことを思い出すだけで十分であろう。

ところで、歴史といえば、数ある文明国の中でも中国人の歴史好きは超弩級と言っていいであろう。他の文明国でも歴史書は数多く残されているが、2000年以上にも渡って、国家的事業として公的な歴史書(正史)が連綿と書き継がれてきたのは中国だけと言っていい。その一つの大きな理由は、「何事も正統・権威は過去のものにある」とする中国人の歴史観、尚古趣味にある。極端なことを言えば、2000年前であれ、1000年前であれ、過去に起こったことは昨日起こったことと考慮すべき価値は全く同じだ、ということだ。



この観点に立てば、現在の状況にどう対処するかは、先ずは過去の歴史的事例を探すことから始まる、ことは容易に想像がつく。似た状況の事件の経緯・結末を調べ、現在の状況への対処のしかたを考える。しかし厄介なことに、過去に同じような状況下で同じような言動でも結果が真逆なケースが見つかることが多々ある。例えば、宋の文人・洪邁の『容斎随筆』(巻五)に次のような文が見える。

 ***************************
 『容斎随筆』(巻五)《上官桀》

漢の上官桀が天子の馬小屋の管理人(未央厩の令)であった。武帝が暫くの間、病気で臥せっていた。治ってから馬を見に来たところ、多くの馬が痩せていた。武帝は大いに怒って「お前は、ワシがもう二度と馬を見れないとでも思っていたのか!」と怒鳴り、処罰しようとした。上官桀は、頓首して(頭を地面にうちつけ)、「私は、主上のお体が心配で日夜、そのことばかり考えていて、馬のことなど頭にのぼりませんでした」と言いながら、涙を流した。武帝はその態度に感じ入り、上官桀を側近に抜擢して信頼した。そしてついには幼い皇帝の昭帝を補佐するようにとの遺言まで賜った。

義縦が右内史(都知事)になった。武帝が鼎湖を行幸した。その後、長らく病気に伏せたが、治ってから甘泉に行幸した。途中の道路が整備不良でがたがた道であったので、怒って「義縦はワシが二度とこの道を行けないとでも思っていたのか!」と根にもった。そしてとうとう、他の事件にかこつけて処刑(棄市)した。

この二人は当初、罪を得たのは同じだった。上官桀は一言言うだけで抜擢され重用されたが、義縦は処刑された。幸、不幸ということだ。

漢上官桀為未央厩令、武帝嘗体不安、及愈、見馬、馬多痩、上大怒:「令以我不復見馬邪?」欲下吏、桀頓首曰:「臣聞聖体不安、日夜憂懼、意誠不在馬。」言未卒、泣数行下。上以為忠、由是親近、至於受遺詔輔少主。

義縦為右内史、上幸鼎湖、病久、已而卒起幸甘泉、道不治、上怒曰:「縦以我為不行此道乎?」銜之、遂坐以他事棄市。二人者其始獲罪一也、桀以一言之故超用、而縦及誅、可謂幸不幸矣。
 ***************************

洪邁が指摘するように、二人(上官桀と義縦)は共に、漢の武帝の家臣であって、おなじように職務怠慢で叱られたが、一人(上官桀)は処罰されるどころか信任され出世したが、もう一人(義縦)は、命まで取られる始末だ。このように、歴史から教訓を学ぼうとしても必ずしも一筋縄では行かないというのが洪邁が言いたかったことなのだ。

もっとも、「歴史から教訓を学べる」と主張する人は、「二人の運命の差は、その人間性やぞれまでの言動から来ている」と言うであろう。つまり、善因善果、悪因悪果、であるから、義縦は過去に悪果を導くようなことをしているはずだとの論理だ。このような考え方は一見論理的で説得性があるようだが、数年前に起こった「池袋自動車暴走・飯塚幸三事件」を思い出してみれば、瞬時にバカげた理屈だと分かる。 2019年4月に、旧通産省工業技術院の元院長の飯塚幸三氏が車を暴走させ、松永真菜さんと娘の莉子ちゃんをひき殺した。飯塚氏は事故後、すぐに逮捕されなかったため「上級国民」と批判された。さて、この事件の被害者の松永さん親子は悪果を蒙ったのだから、悪因悪果説では二人には隠された悪因があったはずでなければならないが、そうだろうか?あるいは、最近のロシア軍のウクライナ侵攻で、ミサイル攻撃や空爆を受けて殺害されたウクライナ人も何らかの悪因があったのだろうか?

結局、全てにおいてそうだが、歴史を知らないよりは知っているに越したことはないが、前例にこだわり過ぎたり、前例を法則化する愚は避けなければならない。論語にいう「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」(過猶不及)である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする