限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

杜漢漫策:(第7回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その7)』

2024-11-03 07:11:01 | 日記
前回

Duhemの本には、思った以上に、ギリシャ語やギリシャ文が多くでてくる。主体は、アリストテレスで、プラトンは脇役といったところだ。私のギリシャ語は掛値なしにあまり高くない。TOEICでいえば、500点台相当のレベルだ。それで、訳文無しで、原文を読むのはなかなか難しいが、Duhemは親切にも、ギリシャ語の引用文に、ほとんどの場合、フランス語の訳文をつけてくれている。

しかし、Duhemの文章は訳文に限らず一般的にかなり込み入った書き方をしている。これは、推察するにあまりにもギリシャ語に堪能だったので、ギリシャ語風の言いかたになってしまったのだろう。というのは、Oxford大学で本場のギリシャ語を修めてきた、故・高津春繁氏は、『基礎ギリシア語文法読本編』に、ギリシャ語の文章の特徴について次のように述べる。
『(ギリシャ語では)文を最初にちょっと言いかけておいて、その次に従属文を重ね重ねて、最後に主動詞をもって来て、初めに言いかけていた文を結び,全体で一つのまとまった思考をあらわす方法をペリオドス periodos といい、この方法は特にアッティカの雄弁家の好んで用いたもので、後に Cicero などローマの散文家の模倣する所となり、ルネサンスの散文家を経て、現代の西欧の散文の形成に大きな影響を及ぼすに至っている。』

Duhemも、複文や関係節を重ね合わせて長い文章を作る、それで、Duhemの訳文で理解できない時は、次の2つの方法がある。

【1.】フランス語文をGoogle翻訳で英語(あるいはドイツ語)に翻訳する。
このごろのGoogle翻訳は、非常に出来がよい。なまじっか人に頼んで訳してもらうより余程正しく解釈している。AI翻訳ではDeepLもある。DeepLは、ドイツ語==>日本語の訳は、Googleより数等上であるが、フランス語==>英語は、Googleの訳と大差はない。ただ、Googleの方が処理が速いので、私はGoogleを使っている。

【2.】該当するギリシャ語原文の個所を見つけ、Loebから英訳の部分を読む。
アリストテレスに限らず、西洋古典の原文(ギリシャ語、ラテン語)はほとんどといっていいほど多くのサイトに原文や訳文が掲載されている。ギリシャ語やラテン語に関しては、Tufts大学(タフツ)が運営しているPerseusという有名なサイトがある。(https://www.perseus.tufts.edu/hopper/)ここには原文と英訳がアップロードされている。素人が読む文章であれば、たいていここで用が足りる。(もっとも、専門家はこれだけでは足りないが、同大学が提供する有料サービスに加入すると、膨大な資料に自由にアクセスできるらしい。)

たしかにPerseusは原文にアクセスできるのだが、ダウンロードするのに少し難点がある。本一冊まるごとのダウンロードが出来ないことがあり、セクション、あるいは巻ごとにダウンロードしなければいけない。また、各単語ごとにリンクが張られているので、意味や文法的な面を知るには便利だが、通読には大変不便である。それで、私は原文はもっぱら、ギリシャ語のWikisourceからダウンロードしている。例えばアリストテレスの原文をアクセスするには、まずWikipediaの英語版をアクセスすると、下段の右側に 
Greek Wikisource has
original works by or  
about: Ἀριστοτέλης



という案内サイトがあり、ここの赤い部分をクリックすると、古典ギリシャ語の原文サイトに誘導される。

ここからは全てギリシャ語なので、ギリシャ文字を知らないとそれこそ「It's Greek to me」で途方に暮れてしまうだろう。ギリシャ文字はアルファベット26文字より、2つ少ない、24文字しかないので、気合をいれれば、2日ほどで文字自体は読めるようになる。

私は、Wikisouceのサイトから必要部分をダウンロードして、自作の『ギリシャ文検索システム』で検索している。なぜ、ギリシャ語の検索システムが必要か、と、どのようにして作っているか、については次回以降説明しよう。

続く。。。
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沂風詠録:(第365回目)『漢字は哲学するのに不向き?(後編)』

2024-10-27 09:30:21 | 日記
前編では、漢字が哲学をするのに不向きな理由として「多少意味不明や意味曖昧でも、巧みに組合せることによって内容豊富(コンテンツ・リッチ)な文章に仕上げることができてしまう」点を挙げた。この点に関して、今回は実例を使って説明しよう。

比較のために取り出す哲学はギリシャ哲学だ。哲学といえば、決まってソクラテス、プラトン、アリストテレスがの名前が挙がるが、正直な所、学生時代の私はなぜギリシャ哲学がなぜそれほど重要視されるか分かったいなかった。それどころか「哲学を学ぶ者たちが、自分の知識に箔をつけるために衒学的(きどって)古代の賢者の名前をもちだしているのだろう」とさえ思っていた。

しかし、ドイツ留学時に、プラトンの対話編をシュライヤーマハーのドイツ語訳で読んで、このような疑念は晴れたものの、あらたに一つの疑念が起こってきた。それは、ところどころに、非常に不自然ないい方をするドイツ文・ドイツ語節が登場するのである。その時は、「なぜわざわざ、このような分かりにくい表現をするのだろうか?」と感じた。この疑念が晴れたのは、それから20年程して、古典ギリシャ語を独習した時であった。

話を端折って、結論だけ述べると、ギリシャ哲学をまなんで私が納得できたのは、「深い思想を練るためには、それ相応の深い思想表現が可能な言語を修得しなければいけない」というものであった。言い方を変えれば、「粗雑な言語では深い思想には到達できない」ということだ。こういう事を言えば、反発する人もいるだろうが上の文でいう「思想」を「物理現象」という言葉で置き換えればすぐ納得できるだろう。つまり、複雑な物理現象を解明するには、高度な数学概念や数式を自由自在に操ることができなければいけないのは、今更言うまでもないことだ。

結局、ギリシャ哲学を支えている古典ギリシャ語が高度な思想を支えることができる言語であったということである。
以前のブログ
 沂風詠録:(第107回目)『私の語学学習(その41)』
でも説明したが、「落下物注意」の意味を考えてみると漢字の持つ欠陥がよく分かる。そもそも、漢字には時制がないので、落下物はいつ落ちたものかは分からない。通常は「未来に落下するだろう物」であって「既に落下しているもの」でも「現在落下しつつあるもの」でもない、と判断される。しかし同じ「落下物」でも「落下物をどける」という文における落下物とは「既に落下したもの」を指す。つまり、時制という概念を欠落した漢語では物事や概念を正確に表現する手段が全くないということだ。

一方、西洋語では、動詞の活用形の一種に分詞というのがある。動詞から派生した分詞を形容詞的につかうことができ、冠詞を付けると主語や目的語として使うことも可能だ。英語の分詞には、現在分詞過去分詞の2種類しかないが、古典ギリシャ語ではそれだけにとどまらず、現在、過去、完了と3時制揃っているだけでなく、能動態、中・受動態も揃っている。動詞にこのような多彩な機能をもたせている。さらにどの言語にも名詞には抽象名詞と具体名詞があるが、この2つの区別がギリシャ語では語尾でかなり明確に判別できる。つまり、文章の意味を分析的に理解するための機能が言語自体に備わっている。

一例として、『事物の「本質」』という単語を考えてみよう。「本質」を英語では essence という単語が思い浮かぶであろう。しかし、この漢語「本質」とは一体どういう意味なのだろうか?中国の『辞源』では「1.本来的形態、2.指人的本性」と説明し、諸橋の大漢和では「本来のたち、根本の性質」と説明する。この語に限らず、中国の辞書は、語句の内容を説明するのではなく、単なる単語の置き換え、いわば類似語の羅列に過ぎないことが多い。すなわち、熟語の場合、それぞれ単独の字の意味を知らないと意味が分からないということだ。



それに反して、西洋語の辞書では単語の内容を説明しようとする意図が強くでている。例えば、英語の場合、
Webster's New International Dictionary (second edition, 1934) の essence の説明(項目 2.):
The constituent quality or qualities which belong to any object, or class of objects, or on which they depend for being what they are (distinguished as real essence); the real being, divested of all logical accidents; that quality which constitutes or marks the true nature of anything; distinctive character; hence, virtue or quality of a thing, separated from its grosser parts.

これの原語(というより、essence 言葉の由来)はギリシャ語で τὸ τί ἦν εἶναι というがこれが、essence の意味を深く説明している。

下記のサイト参照(Wikipedia EN

The concept originates rigorously with Aristotle (although it can also be found in Plato), who used the Greek expression to ti ên einai (τὸ τί ἦν εἶναι, literally meaning "the what it was to be" and corresponding to the scholastic term quiddity) or sometimes the shorter phrase to ti esti (τὸ τί ἐστι, literally meaning "the what it is" and corresponding to the scholastic term haecceity) for the same idea. This phrase presented such difficulties for its Latin translators that they coined the word essentia (English "essence") to represent the whole expression. For Aristotle and his scholastic followers, the notion of essence is closely linked to that of definition (ὁρισμός).

ところで、現代フランスの哲学者、フランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』(講談社現代新書)は基本路線としては、孟子の説く道徳を西洋哲学の本流であるカントやニーチェ、およびルソーなどから批判的に解釈した本である。この主題からすこし外れるが、著者(フランソワ・ジュリアン)はこの本では孟子だけが対象だとしているが中国哲学全般の欠陥と次のように指摘する。
●「孟子の分析には、アリストテレスが明らかにする手続きが全く働いていない。」(P.167)
●「孟子の定式は自己完結していて、全体的であり決定的であるために、最初から議論を降りている。それは金言のようにことばが磨かきぬかれていて、対話の余地がなく、テーゼとして役に立つのでもなく、論証として有効なわけではない。」(P.267-268)
●「中国に、本来的な意味での「形而上学」は認められない。」(P.268)
●「孟子の定式化は、中国の伝統において、道徳から超越への接近を基礎づけるものだが、カント的な証明と同じようには読めない。ここにあるのは、根本的な直観の解明であり、事分けた論証ではないからだ。」(P.268)


ひとことでいうと、フランソワ・ジュリアンは中国には哲学(形而上学)的思考は存在しないと断言している。この原因としては、社会システムや個人の自由の概念の欠如が挙げられているが、私はこれに加えて、漢文・中国文の言語的(シンタックス、および語彙)な欠陥を挙げて、この稿を終えたい。
(了)
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杜漢漫策:(第6回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その6)』

2024-10-20 13:50:09 | 日記
前回

Duhemの本を今年の6月から読み始めて、4ヶ月半が経過した。内容が豊かな上に、本文に引用されている、アリストテレスやプラトンの原文を都度、チェックしながら読んでいることもあり遅々として進んでいない。それで、いま読んでいる個所はまだ古代ギリシャの天文学の話だが、その昔、ギリシャ人たちが、昼の太陽、夜の月、恒星、惑星、を見上げながらどういった世界観を思い描いていたのかがよくわかる。

ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシャ哲学者列伝』をにも読む都度、ギリシャ人の発想がいかに豊かでかつ個性的、と感心させられる。宇宙体系に関していえば、世間ではしばしば誤解されていることであるが、コペルニクスが地動説を唱えるまでは、古代から中世にかけてずっと天動説が支配していたと思われている。しかし、実証性を重ずるギリシャの科学者たちは必ずしも天動説だけを支持していた訳ではなかった。

たとえば、アリスタルコスは、日食や月食の現象から、太陽や月の大きさや、それぞれへの地球からの距離(の比)を求めた。その結果、太陽は地球よりずっと大きいということを確信し、地球より大きい太陽が地球の周りを巡るのは不都合であるとし、結果的に地球が太陽の周りを巡るという太陽中心説(いわゆる、地動説)の考えに至った。

一方、常識的な感覚からアリストテレスは地球は宇宙の中心に静止しているという天動説を緻密な論理で構築してみせた。アリストテレスの哲学の分野における絶対的権威から、彼の唱えた天動説はその後1800年もの間、信奉されるに至った。ただ、彼の唱えた理論と、惑星の位置、大きさや明かるさの観察結果と明かな矛盾があることは誰の目にもあきらかであった。また、プトレマイオスは天動説理論に基づき、惑星の軌道をかなり正確に記述できる幾何学モデルを構築した。ただ、プトレマイオスの幾何学モデルにも、アリストテレス同様、観察結果との明かな矛盾をがあった。これらの問題を最終的に解決したのが、ケプラーが唱えた地動説ベースの天体理論であった。


西洋の天文学の歴史をざっくりまとめるとこのようになるだろう。せいぜい20ページぐらいで話が完結する短さだ。ところが、Duhemの本は、150ページに至っても、まだアリストテレス理論の詳細な説明すら登場してこない、至って緩慢な進行が続く。というのは、アリストテレス以前の著名な古代ギリシャの科学者であるピタゴラスとピタゴラス派の考えた宇宙体系の説明が横たわっているからだ。

ピタゴラスとその一派は、基本的に地球は動くとの立場なので、地動説ともいえるが、太陽もまた動いていると考えていた。どういうことかと言えば、宇宙の中心には大きな火があり、地球や他の惑星もや全ての星だけでなく、太陽すらその周りを回転していると考えていたからだ。そして太陽は自ら燃えているのではなく、ガラスのように中心の火を通過させているのだという。これだけでも、かなりぶっ飛んだ発想だが、さらに驚くのは、その中心火の向こう側にはもう一つ地球があるというのだ。これがあるので、日食(あるいは月食?)が見られると考えていた。

このような話は、現在読んでいるDuhemの本に書かれているが、なにしろ彼の込み入った文章からは、イメージがなかなかつかみにくかった。しかし、幸運なことにこれらの点については、次の2冊に、かなり詳しく書かれている。
『世界の見方の転換』山本義隆(みすず書房)
『ピュタゴラスの音楽』キティ ファーガソン(白水社)


この2冊、いずれも私は良書と思う。というのは、内容が豊富な上に、固有名詞(人名、場所、書籍名)がふんだんに登場するので、百科事典を参照できるので、内容の理解が深まるからだ。事実、私はこれらの本を適宜参照しながら、マイペースでDuhemを読んでいる。

続く。。。
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【座右之銘・145】『不若貧賤之肆志』

2024-10-13 09:34:40 | 日記
『古詩源』という本がある。編者は、清の沈徳潜である。沈徳潜といえば、日本では『唐宋八家文』(正式名称:唐宋八家文読本)の編者として有名だ。もっとも、『唐宋八家文』は日本だけで有名なようで、中国本国では俗本として全く顧みられていない。事実、中国版のWikisourceには数多くの古典の名作の原文が所狭しと載せられているにも拘わらず、この『唐宋八家文』の原文は皆目見つからない!

それだけでなく、編者・沈徳潜に関する情報も見つけるのもなかなか困難である。中国の歴史に関することであればたいていの項目が載せられている大部の『アジア歴史事典』ですら載っていない。また、私が愛用する平凡社の旧版(1972年)『世界大百科辞典』にも見つからない。もっとも、コトバンクで確認できるが、改訂新版の『世界大百科事典』には載せられているし、現代の大百科辞典であるWikipedia には、内容の精粗は別にして、項目自体は見つかる。

一番信頼できる情報として、私の手元にある参考書(中国関係では「工具書」という)の中に、戦前(昭和13年)刊行され、戦後、復刻版が出された『東洋歴史大辞典』(3巻)では次のような説明が見える(中巻、P.553)。

=======================

沈德潛 (シントクセン、1673 ―1769) 清朝
の學者。字は確士、 號は歸愚。 江蘇長洲の人。乾隆三
十四年卒。 年九十七。 乾隆四年の進士、年七十に近し。
高宗稱して老名士となし、召して歴代の詩の源流升降
を論じ、大に之を賞す。 部侍郎に擢でたるも、年力
へたるを以て、告歸を許す。德潛は 錢陳羣と竝に
香山九老會に與り、大老と稱す。 高宗の懐舊詩に徳潛
と陳羣とを以て並べ稱して「東南の二老」と爲す。 卒
するに及んで太子太師を贈る。諡は文愨。 其詩は格律
を嚴にするを主とし、王士禎の神韻説、袁枚の性靈説
と共に、當時の詩壇上に在つて各一勢力を占めた。著
竹嘯軒詩鈔・歸愚詩文鈔・五朝時別裁集・古詩源・
西湖志纂等あり、並に世に傳行さる。 (加藤大)

=======================


ただ、ここの説明においても『唐宋八家文』は言及されていない。ことから、江戸時代あれほどの人気を誇った『唐宋八家文』は全く価値がなかったかのような扱いであることがわかる。もっとも、ここの説明から沈徳潜は詩作に優れていたことがわかる。



さて、冒頭で紹介した沈徳潜の『古詩源』には、朱虚侯章の「紫芝の歌」という詩が載せられている。作者の朱虚侯章とは、本名を劉章という、即ち、劉邦が建国した前漢の王族の一人である。『史記』に、劉章(朱虚侯)の伝が見える。

 ***************************
史記(中華書局):巻52(P.2000)

朱虚侯年二十、有気力、忿劉氏不得職。嘗入待高后燕飲、高后令朱虚侯劉章為酒吏。章自請曰:「臣、将種也、請得以軍法行酒。」高后曰:「可。」

酒酣、章進飲歌舞。已而曰:「請為太后言耕田歌。」高后兒子畜之、笑曰:「顧而父知田耳。若生而為王子、安知田乎?」章曰:「臣知之。」太后曰:「試為我言田。」章曰:「深耕穊種、立苗欲疏、非其種者、鉏而去之。」呂后黙然。

頃之、諸呂有一人酔、亡酒、章追、抜剣斬之、而還報曰:「有亡酒一人、臣謹行法斬之。」太后左右皆大驚。業已許其軍法、無以罪也。因罷。自是之後、諸呂憚朱虚侯、雖大臣皆依朱虚侯、劉氏為益彊。

【大意】朱虚侯(劉章)は、気力横溢した若者であった。劉氏が王族であるにも拘わらず官職に就けなかったことを常々、不満に思っていた。あるとき、呂后の宴会の席で、酒を注ぐ係を命ぜられた。劉章は自分は軍属であるので、今日は軍のしきたりでやらせて欲しいといったところ、呂后が了承した。

宴もたけなわになったころ、劉章は耕田の歌を披露したいと申し出た。呂后は笑いながら「お前は生れながらの王子なので、田を耕したことなどないだろう」と言ったが、劉章は構わず歌い始めた。
 田にイネでない雑草がはえていたなら、引き抜いてしまおう
呂后はその歌詞の意味をさとり、ぎくりとして黙ってしまった。

暫くして、宴席の一人が酒を飲みすぎて、こっそりと抜け出した。劉章は目ざとく見つけると、追いかけて行って切り捨てた。そして「軍法通りの処置をしました」と呂后に報告をした。軍法通りにしてよい、との許可を出してあったので、呂后は何も言えなかった。
 ***************************

この事件があってから、呂后の一族は劉章を恐れ、大臣たちも劉章を頼りにしたという。当時、だれもが飛ぶ鳥を落とす勢いの呂后の権力に恐れをなしていたが、劉章だけは勇気を持って打倒呂氏の旗幟を鮮明にしていた。

冒頭に述べた『古詩源』に、このように気概あふれる劉章(朱虚侯章)の詩、「紫芝歌」が載せられている。古詩というだけあって、五言でも七言でもなく、四言詩で、最後だけが六言になっている。

莫莫高山、深谷逶迤。  莫莫たる高山、深谷、逶迤(いい)たり。
曄曄紫芝、可以療飢。  曄曄たる紫芝、以って飢を療(いや)すべし。
唐虞世遠、吾將何歸!  唐虞の世、遠し、吾、將た何くにか歸せn!
駟馬高蓋、其憂甚大。  駟馬、高蓋、その憂、甚だ大。
富貴之畏人兮、不若貧賤之肆志。

最後の行の「富貴之畏人兮、不若貧賤之肆志」は、
 富貴の人を畏れんは、貧賤の志を肆(ほしいまま)にするにしかず」
と読み、意味は:
「高官や金持ちになっても上役をおそれて暮らすような人生はまっぴらだ。役職がなくても、貧乏でも、自由気ままに過ごすほうがよい!」

晋の詩人・陶淵明は、「五斗米のために若僧に挨拶などばかばかしくてできるか!」(吾不能爲五斗米折腰)と啖呵を切って、官職を辞した。中国には荘子をはじめとして、こういった自由人の気質が古代から脈々と続いている。
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杜漢漫策:(第5回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その5)』

2024-10-06 14:09:03 | 日記
前回

本稿では、フランスの科学史家・デュエムの『宇宙の体系』(Le système du monde)について、私の感想を述べているが、歴史学者でもあり、また科学史家としても素晴らしい著作を残している伊東俊太郎氏の『近代科学の源流』(中央公論社、P.22-24)からデュエムを読む価値についての文を転載しよう。尚、伊東俊太郎氏は惜しくも昨年(2023年)93歳にて逝去された。

====================

序章 西欧科学の源流としての中世

「(前略) 十三世紀のヨルダヌス・ネモラリウス Jordanus Nemorarius らのテ トをも分析して、この方面での中世科学の発展を初めて世に示した。これらの先駆的業績ののちに、中世科学そのものを対象とする本格的著作を公にしたのは、ボルド大学の教授で、物理学でも科学哲学でもすぐれた業績のあったピエール・デュエムである。彼のこの方面の最初の著作は『静力学の起源』 Les origines de la statique, 2 tomes, Paris 1905-06 と名づけられており、前二者と同じ領域に関するものであった。デュエムは、この著において、ヨルダヌス・ネモラリウスやサクソニアのアルベルト Albert von Sachsen の貢献を写本研究に基づいて詳細に叙述し、これら中世の静力学研究の伝統が、 レオナルドやタルタリア Niccolò Tartaglia からトリチェリに至る近代の力学研究とどのようにつながっているかを明らかにした。この第一巻の序文で彼は言っている。「近代が当然のこととして誇っている力学的および物理的科学は、じつは、ほとんど気づかれないような改良の、連続した一連の過程によって、中世学派の内部で公にされた教説から流れ出ている。いわゆる知的な革命 révolution とは、最もしばしば、ゆっくりと長い期間にわたって準備された進化évolution にほかならないのだ」さらにデュエムは、前著で静力学について論じたことをさらに動力学や運動学に及ぼし、十四世紀のオックスフォードやパリのスコラ学者、特にジャン・ビュリダンやニコール・オレムらの「ガリレオの先駆者たち」の業績を明るみに出し、彼らの「インペトゥス理論」をはじめとする諸概念のもつ近代力学形成に対する意義を強調した。 それが彼の画期的な書物『レオナルド・ダ・ヴィンチの研究』 Etudes sur Léonard da Vinci, 3 tomes, Paris 1906-13 である。



(中略)
彼はさらに畢生の大作『宇宙の体系』 Le système du monde, 10 tomes, Paris 1913-16, 1954-57の完成にとりかかり、プラトンからコペルニクスに至る宇宙論の歴史を詳細に追究して、中世の科学的伝統の全貌をわれわれに与えた。彼の死後、ユネスコの援助で出版されたこの浩瀚な著作は、中世科学研究にかけた彼の文字どおりのライフワークで、この方面の研究を志す者がゆっくりと味読すべき記念碑的業績である。また彼の小品『現象を救う』 Ne rà Pawópeva, Paris 1908 は、この大作の予備的ミニアチュールとも言うべき密度の高い良著である。その後の中世科学の研究は、このデュエムによって敷かれた路線の上にそのテーゼを拡張してゆく方向に向けられた。ヤンセン、デイクステルホイス、ボルヒェルトなどの研究がそれである。

(中略)
デュエムをはじめこれらの研究が主として十三世紀、 十四世紀の後期スコラの自然学理論を取り扱ったのに対し、十二世紀を中心とする中期のラテン科学の状況を、一次史料に基づく厳密な写本研究によって初めて明らかにした業績として、ハスキンズ Charles H. Haskins の書物『中世科学史研究』Studies in Medieval Science, 2nd ed. Cambridge, Mass. 1927 がある。さらにプリニウスから十七世紀までの科学を、魔術と実験科学の問題を中心に、やはり一次史料に即して克明に追究したソーンダイク Lynn A. Thorndike の浩瀚な著作『魔術と実験科学の歴史』 A History of Magic and Experimental 1923-58も中世科学の貴重なソースである。以上が、中世西欧科学史研究の、いわば第一期と称してよいであろう。(後略)
====================


続く。。。
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想溢筆翔:(第452回目)『日本では全訳を読めない、『資治通鑑』から読み解く』

2024-09-29 09:09:09 | 日記
私は、今まで単著で8冊、共著で1冊の合計9冊の本を出版したが、単著はいずれも出版エージェントの アップルシード・エージェンシー社のお世話になった。始めて、アップルシード・エージェンシー社の社長から出版の可能性について聞かれた時に、「是非、資治通鑑を出版したい」というと、社長は眉をひそめ「中国の歴史書では史記は聞くが、資治通鑑など聞いたことがない。果たして、資治通鑑に読者が付くのだろうか?」と疑問を呈した。しかし、私は資治通鑑の面白さを重ねて説明したが、納得してもらうには至らなかった。ただ、ともかくも書籍企画書を作成して、出版各社に配布してもらえることにはなった。

暫くすると、10数社ほどに配布した中で、カドカワが出版に興味を示しているとの連絡を頂いた。半分諦めていた私は小躍りして喜んだ。数日後、カドカワの新書担当のNさんにお目にかかると、資治通鑑という題名より、書籍企画書の内容そのものをしっかりと読んだ上で、是非進めたいとの返事を頂いた。

ともかくも、こういった経緯で資治通鑑の出版が決まったので、それまで書き溜めていた原稿をまとめ直して最初の章をアップルシード社に提出すると、それまで資治通鑑の出版に懐疑的であった社長が一変、非常におもしろいと評してくれた。数ヶ月後『本当に残酷な中国史』というタイトルで出版されてから暫くすると櫻井よしこさんが産経新聞紙上のコラムにこの本について数行のコメントを載せた途端に、Amazonの売れ行きが非常に伸び、連日中国史部門ではトップにランクされた。この本が売れたことはうれしいのではあるが、本のタイトルや2014年当時のぎくしゃくした日中関係から、私は、反中論者の人間と目されてしまったようだった。確かに『本当に残酷な中国史』には中国の悪の部分の記述がかなり多いが、私は中国には良い部分も多いと評価している。中国に限らず、すべての文明に対しては是々非々の姿勢である。私の思想信条に関しては後日ビジネス社から出版した『教養を極める読書術』にかなり詳しく書いた。



このように資治通鑑は私にとっては思い出深い本であるので、このブログでもまたいろいろな講演会・企業研修の場でも何度も言及してきた。ただ、資治通鑑の現代語訳は極めて少ない上に、私の本でしばしば取り上げているような度肝を抜くような場面の描写を取り上げていないため、世間では、資治通鑑は退屈な本だと認識されているように感じる。ところが、昨年(2023年)経営科学/ダイレクト出版社から『本当に残酷な中国史』の内容、つまり資治通鑑をビデオで解説してほしいとの依頼があった。私は一人でも多くの日本人に『資治通鑑』を知ってもらうためによろこんでお引き受けることにした。ただ、このビデオは一般公開するのではなく、同社の会員向けの限定販売であるので、残念ながらアクセスは難しい。しかし、最近そのビデオの一部が『月刊歴史塾』公式チャンネルから約20分もある紹介ビデオがYouTubeにアップされていることを見つけたのでお知らせしたい。

タイトルは:
 日本では全訳を読めない…『資治通鑑』から読み解く
 4000年変わらない中国人の本質とは? リベラル・アーツ研究家 麻生川静男



このビデオでも述べているが、歴史書『資治通鑑』の政治以外の記述から、庶民の生活を知り、中国社会の実態、正しい姿、を知って頂きたい。
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杜漢漫策:(第4回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その4)』

2024-09-22 09:39:52 | 日記
本論で取り上げているデュエム(ピエール・デュエム、Pierre Duhem)に関する情報は日本では極めて少ない。Amazonで探しても、私が居る大阪市立図書館でさがしても、わずかに『物理理論の目的と構造』小林道夫、熊谷陽1、安孫子信訳(勁草書房)しか見つからない。本論の対象書籍の『宇宙の体系』などは影も形も見当たらない。それほどのレアである本をなぜ読んでいるのかについては、この読書メモに追々と書いていくこととして、とりあえず、デュエムの人となりについて、この『物理理論の目的と構造』に詳しく書かれているのをそれを以下に掲載する。(一部、字句修正)

======== 『物理理論の目的と構造』P.511 からP.515引用 ========
ピエール・デュエムは、1861年6月9日、パリで、ピエール ジョゼフ・デュエム (Pierre-Josephe Duhem)を父とし、マリー・アレクサンドリンヌ・デュエム (Marie-Alexandrine Duhem) を母として生まれた。デュエム家は、織物工業に携わる比較的裕福な商家で、保守的カトリックの気風の一家であった。デュエムは生涯、彼が生まれ育ったデュエム家の保守的カトリックの伝統を堅持した。1872年、デュエムはパリのスタニスラス校に入学し、ここで10年間、学園生活を送る。そこでデュエムは、物理学の教師ジュール・ムーティエの授業に魅せられ、彼の感化を受けて、早くも物理学、特に熱力学への関心を強める。デュエムによると、ムーティエは機械論的物理学の卓越性を強固に信じる物理学者で、デュエムが物理学の勉強を推進したのは、まずは機械論への賛同者としてであった。



1882年、デュエムは、当時のフランスにおける、理工科学校(エコール・ポリテクニック)と並ぶ最高学府、高等師範学校(エコール・ノルマル スュペリュール)の理科に首席で入学し、そこで3年間学生生活を送る。この学校では、1年下にポール・パンルヴェ (Paul Painlevé、後の理工科学校教授。著名な数学・物理学者で、また、政界で戦争大臣、空軍大臣などの要職を占めた人物)がおり、また2年下に、ジャック・アダマール (Jacques Hadamard、後に、20世紀前半の数学界を代表する大数学者となる)がいて、デュエムは彼等と交友を深めた。この後デュエムは、パンルヴェとは、第3共和政下のフランスの国論を二分することになった、有名なドレフュス事件(1894~1906)で相敵対する陣営に属し、2人の交友関係に亀裂が入ることになるが、アダマールとは、社会的政治的立場が違うことになっても、生涯変らぬ友情関係を保ち続けた。アダマールは、1953年、93歳になってなお、ある友人宛の手紙でデュエムの事を回想し、「心気高い、私の大の親友」と呼んでなつかしがっている。この高等師範学校における物理学の教授たちは、実験を唯1の知識の源泉とし、物質の内的構造に関する仮説というものに懐疑的な経験論者であった。デュエムは、そこで、これらの教授の影響を受け、ムーティエから教え込まれた機械論の立場から身を引くことになる。同時に、数学教授であったジュール・タンヌリ(Jules Tanneryデカルト全集の校訂者ポール・タンヌリの弟)から、科学における論理的厳密さの重要性を教えられる。こうして、デュエムが物理学の研究に本格的に邁進しようとした時に奉じていた方法論とは、実験的帰納主義と論理的厳密さというものに依拠するものであった。

さて、この高等師範学校時代に、デュエムの学者としての経歴を方向づける大きな事件が起こる。 デュエムは、在学中に----極めて稀なることなのであるが----早くも博士論文を提出した。ところが、これが審査員によって受理されなかったのである。彼の博士論文の題名は「熱力学ポテンシャルについて」というものであった。この論文原稿は現在残っていないので、受理されなかった理由は完全には分らないが、この2年後、デュエムがエルマン社より出版した『熱力学ポテンシャルとそれの化学力学と電気現象理論への応用』という書物から察せられるに、その理由は、デュエムが、その論文で、最初に触れた学会の大御所で共和主義者ベルトゥローの理論の支柱の1つ、「最大仕事の法則」なるものを、ギブズの熱力学を発展させて批判し、その誤りを大胆に指摘したことにあると思われる。こうして、デュエムの科学者としての生涯は、その当初から、当時のフランスの学会の大勢と対立関係に入ることから始まり、この抗争が以後も続いて、これがデュエムの学者としての公的生涯を左右することにもなるのである。

デュエムは、このような思いもかけぬ事態に遭遇するのであるが、その非凡さは変らず、1885年に大学教授資格試験(アグレガシオン)にこれも首席で通る。1888年には、博士論文を今度は「誘電磁化について」という主題で物理数学部門のものとして提出し、ポアンカレを1員とする審査員の下で博士号を取得する。これに先立ち、1887年、デュエムはリール大学理学部講師に就任、大学での物理学の教育の任務に携わることになる。ここで物理学の教育を実践するにつれて、デュエムは、自分が奉じていた論理的厳密さとニュートトン的帰納主義の方法というものが、実際には実践しえないということを悟る。そこでデュエムは、研究と平行して、物理学の本性と目的について真剣に反省するところとなる。これを契機としてそれ以後、重ねられた物理理論というものに対する反省の成果が本書に他ならない。

1890年、デュエムはアデル・シャイエ (Adèle Chayet)と結婚し、一女エレーヌ (Hélène) をもうける(エレーヌ・デュエムは、父の死後1936年に、『フランスの一科学者、ピエール・デュエム』という本をプロン社より出版している。これはデュエムの生涯を知る貴重な文献である)。しかしアデルとの結婚生活は、2年後、アデルの急死という悲劇的な結末をもって終わった。以後デュエムは、生涯、独身を貫いている。デュエムはまた、この頃、『化学力学入門』という本を著わすが、当時のフランス化学界の状況から、フランス国内において出版の引き受け手を見つけることができず、これをやむなくベルギーのゲントのホスト社から公刊している。1893年には、デュエムはささいな誤解からリール大学の学部長と喧嘩をし、リールを去ってレンヌ大学理学部に移る。デュエムは、気質的には、信念の強い、直情型で怒りっぽい人物であったようである。ドレフュス事件では、保守的カトリシズムに対する信念から、反ドレフュス側の知識人の先頭に立ち、これが機縁となって、前述のように、パンルヴェとの仲が険悪化した。また1908年には、デュエムは共和国から申し出られたレジオン・ドヌール勲章の授与を拒否している。デュエムの死(狭心症)も彼の気質と無関係ではないと見られる。彼の死の1ヵ月半ばかり前、ある学生が彼の下で物理学史を勉強したいとして送られてきた。この学生が後になって共和主義系の日刊紙の編集長の子息であることが判明する。 デュエムは激怒し、この学生に対して拒否的態度に出た。ところが、このことが当の日刊紙で取りあげられて、デュエムは批判されることになる。この1連の事件がデュエムの死を誘発したものと憶測されるのである。

さて、デュエムは、リールからレンヌに移る時期、パリのポストを希望したが、これも、ベルトェローに支配されているパリの学会の情勢からかなえられなかった。デュエムは結局、 レンヌを経て、1894年、ボルドー大学理学部教授に就任し、そこで翌年、理論物理学の講座を開く。デュエムは、この地で死ぬまで研究活動を続け、下記のリストに見られるような膨大な著作を世に問うた。また、長い間、学会から冷遇されていたのであるが、1913年にはおそまきながら、中央の学会から1応認められるところとなり、フランス学士院 (非在住)会員に選出される。 その3年後、1916年9月14日、デュエムは、上述のような事件の後、キャブレピーヌの別荘で狭心症のために娘エレーヌに見取られて死ぬ。享年55であった。

======== 以上引用 ========


デュエムは「高等師範学校(エコール・ノルマル スュペリュール)の理科に首席で入学し」という記述から分かるように、早熟で非常な天才であった。しかし、鋭角的な性格が禍となり、人と衝突することが多々あった。それゆえ、必ずしも恵まれた人生ではなかった。そして、55歳という若さで惜しくも逝った。驚くのは、その短い生涯のにもかかわらず、膨大な書き物を残してくれたことだ。単に知能指数が高いというだけでなく、勤勉家であった。知識の量といい、書物の多さといい、中世の大神学者、トマス・アクィナスと双璧だといえよう。。

続く。。。
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【座右之銘・144】『quanto antestaret eloquentia innocentiae』

2024-09-15 10:38:05 | 日記
現在、世の中は自民党や立憲民主党の党首の選挙で騒がしいが、残念ながら、どちらの政党の候補者にしろ清廉な政治家は至って少ない。どの時代もそうだったが、かつて、ギリシャにアリステーデスという極めて清廉な政治家がいたとローマのネポスが『英雄伝』に書き残している。数ある名誉ある称号の中で「Iustus」(正義)というあだ名が付けられたのはアリステーデスただ一人だけであった。
(アリステーデスについては下記のブログにも既にかなり詳しく述べてある。)

【参照ブログ】
想溢筆翔:(第45回目)『日本に民主主義はない』
希羅聚銘:(第33回目)『ギリシャ・ローマにもあった武士道精神』
翠滴残照:(第10回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その9)』

さて、当時アテネは名だたる政治家を多数輩出したがアリステーデスのライバルとも目されたのが、ペルシャ戦争でアテネ海軍を率いてペルシャ王クセルクセス1世が率いる大軍をサラミスの海戦で打ち破ったテミストクレスであった。

この2人は生れた境遇がまるで正反対であった。アリステーデスは裕福の家、テミストクレスは下級階層であった。アリステーデスは生れの良さだけでなく、人格的にも優れて高潔であった。一方のテミストクレスは、貧しい生活の中で生き延びるための智恵が優れていたが、時にそれはずる賢い奸計ともいえるようなものであった。



さて、ネポスの『英雄伝』ではこの2人のライバル関係を次の言葉で批評した。
【原文】In his autem cognitum est, quanto antestaret eloquentia innocentiae.
【私訳】これからも分かることであるが、正直より雄弁の方が遥かに威力がある。
【英訳】It was seen in their case how much eloquence could prevail over integrity.
【独訳】Das Beispiel dieser beiden hat gelehrt, um wieviel maechtiger Beredsamkeit ist als Integritaet.
【仏訳】On vit, dans leur rivalite, combien l'eloquence a d'avantage sur la vertu.

アテネがペルシャ戦争に勝利できたのは、まさしくこの両人の功績ではあったが、その功績の大きさを比べると、正直なアリステーデスよりも弁論と策略に優るテミストクレスに軍配が挙がることは否定できない。雄弁術(弁論術、レトリーク)の発祥の地、アテネでは雄弁が政治家の資質として何よりも重視されたということだ。翻って日本では事情は真逆ともいえるほど弁論の評価は低い。現在の党首の立候補者たちの主張を聞いていても、心に響くような言い方の人は少ない。残念ながら、我々はこういった人のなかで最悪でない人を選ぶという選択肢しかないのである。「弁論貧困国」日本が選ぶ党首たちはグローバルな観点からすると、なんとも対話のし甲斐のない人だと推察される。
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杜漢漫策:(第3回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その3)』

2024-09-08 07:00:58 | 日記
前回

本連載のタイトルである「杜漢漫策」の「杜漢」とはデュエム(Pierre Maurice Marie Duhem)であることは、既に述べたが、後半の「漫策」とは、「きままにだらだらと散策すること」との意味だ。

物事の研究には、集中的に成し遂げる方がよい場合と、散漫的にする方がよい場合の2通りがある。受験勉強や資格試験の勉強などは、前者であろう。時間を効率的に使い、なるべく脇道に逸れることなく、決められた内容をきっちりと覚えこむことが成果を生む。しかし、それとは逆に新しい企画を練る場合のように、調べることが明確になっていないような場合はなるべく間口を広げていろいろな所に寄り道するのがよいだろう。

日本では中学、あるいは高校から大学受験のために、受験勉強の仕方以外の勉強の方法を知らないので、どのような場合でも効率を重視して、脇目もふらず進むことをよしと考えている人が多い。リベラルアーツ道においてはこのような直線的な方法ではうまくいかない。それとは真逆の、至るところで寄り道をしたり、脇道に逸れるのがよい。今回、デュエムの分厚い本(全10巻、総ページ数、5000ページ超)を読み進めているが、今まで以上に積極的に寄り道をしながら読んでいる。



それは、いままで諸般の事情で参照することが困難であったヨーロッパの権威ある百科事典や辞書を活用できることになったのが一つの理由だ。現在、毎日のごとく参照している百科事典について説明しよう(番号は前回からの通し番号)

6.フランス語:La Grand Encyclopédie (1886年)

先ず、フランス語の百科事典だが、これは前回紹介した5.Larousseのものと異なり、私の好きな「大項目」の事典で、次に紹介するBritannicaに匹敵する。とにかく、フランス語の書物を読むのであるから、人名などはフランス語の百科事典の方が調べやすい。私がデュエムの『宇宙の体系』をフランス語で読んでみようと踏み出したきっかけの一つは、この百科事典を ― PDF版ではあるが― を入手できたことにある。しかし、紙と違って、PDFというのは、項目の該当のページが分からないと、探す手間が非常にかかる。それだと話にならないので、かなりの時間をかけて、PDFの検索システムを自作した。

自作したのは、検索項目がPDFの何ページ目(あたり)にあるかを割り出し、その該当ページを指定した倍率で表示するシステムである。このようなことは、いとも簡単にできるように思えるが、どっこい、数々の困難があった。例えば、地図や図、写真などがあると、該当ページには番号が振られないので、PDFのページ数と元の百科事典のページ数が食い違う。また、PDFからOCR解析した文字情報は、3と8や小文字のl(エル)と1(数字の一)を読み間違えるなど、実に様々な問題にぶつかった。しかし、苦労して検索システムを完成させたおかげで、人名など調べたいことがあると即座に該当ページを見ることができる。実にスムーズに情報にアクセスできる。このシステムは汎用的で、今回紹介するPDFの百科事典だけでなく辞書など、数多くの検索システムを作った。ちなみに、私は今回のデュエムのような学術書を読むときには、Wikipediaよりは、圧倒的に紙の事典類を信頼する。
【参照ブログ】
 百論簇出:(第280回目)『シニア・エンジニアのPython事始(その6)』

7.英語-1: Encyclopedia Britannica, 9th version(1875-1889 出版)
8.英語-2: Encyclopedia Britannica, 11th version(1910-1911 出版)

前回紹介した、2.Encyclopedia Britannicaよりずっと古いが、今まで出版されたBritannicaで、いずれの版も学術的見地から最高峰との評価を受けている。Britannicaには中学生の時に始めて出会って以来、常に憧れ、いくつかの版を入手した。この2つのBritannicaもそれぞれ紙の物は所有している。ただ、11版は最近になって、ドイツ人の友人の昇進祝いに贈呈したので手元にない。しかし、幸いなことにこれらの版のPDFとOCR化されたテキストをインターネットからダウンロードすることができた。そして、上で述べた方法で、インデックス化して、検索項目のページにすばやくアクセスできる環境を整えた。
【参照ブログ】
 沂風詠録:(第304回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その9)』

9.ドイツ語:Meyers Konversationslexikon(1885-1892 出版)

ドイツ語の百科事典は前回紹介した4.Brockhausより古く、上に紹介した、6.7.とほぼ同時代に出版された。ドイツ語の百科事典は私の見た限りでは、どれも小項目主義のため説明が短く物足りないので、滅多に参照しない。

10.ドイツ語:Der Kleine Pauly (1964-1975 出版)

このKleine Paulyはギリシャ・ローマの文献や事蹟に特化した百科事典だ。こと、古代のギリシャ・ローマに関することであれば、普通の百科事典に載っていないようなマイナーな人物や事柄も知ることができる。

 ==================

デュエム(杜漢)を読みながら、気にかかった事項は、その都度、これらの百科事典をチェックするので、なかなか進展は遅い。学術的に高いレベルの優れた百科事典類を使いながら、寄り道ばかりの漫策を楽しんでいる。

続く。。。
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想溢筆翔:(第451回目)『「先端教育」のリベラルアーツ関連記事紹介』

2024-09-01 09:57:51 | 日記
気づいてみれば(とは、多少大げさだが)早くも来年に古稀を迎える歳になった(嗚呼已矣哉!)。振り返れば、20代の初めに「徹夜マージャンの果てに」で奮起して「リベラルアーツ道」を極めようと志したのであった。
【参照ブログ】想溢筆翔:(第1回目)『徹夜マージャンの果てに』

その後すぐにドイツに留学したことで、本格的にめざすべき「リベラルアーツ道」の輪郭が見えてきた。というのは、このブログで何度も述べているように、ドイツ留学中に読みだしたシュライヤーマハ ーが訳したプラトンの対話編によって、私は始めて自分で納得する考えつくりあげる重要性に眼を開かされた。当初は、10年ぐらいかければリベラルアーツ道の全容がつかめるだろうと高をくくっていたが、どっこいそれはとてつもない見込み違いであった。50年も学び続けて、日本も含め世界の歴史や思想、それに科学技術の事など、数多くのことを学んだはずだが、まだまだ奥の院には辿り着いていない。しかし、最近ようやく極めたかった本丸の場所が明らかになってきた、と実感している。



これまで、中国、朝鮮など漢文歴史書の翻訳本やアジアの旅行記・滞在記の解説本など、数冊出版する過程で、日本も含めアジアのことに関して、とりあえず自分自身納得できる考えが出来あがってきた。科学史技術史に関しては、ここ20年ぐらいかけて十分納得のいく理解を得た。今、過去の経緯を振り返ってみるに、最終的に、もっとつっこんで調べてみたいのが、ヨーロッパ、それも古代と中世にかけてであることに思い至った。これは学生時代にドイツ語で読んだプラトン、セネカ、キケロの影響が今なお強く残っていることが最大の理由だ。それで、現在、ヨーロッパ古代・中世思想を科学技術面もからめて攻略しようととりかかっている。具体的には、Pierre Duhem の10巻にもなる大冊 " Le Système du Monde. Histoire des Doctrines Cosmologiques de Platon à Copernic"をフランス語で読み始めている。このブログの連載記事:杜漢漫策:『デュエムの世界体系・読書メモ』でその様子は公開している。

現在の様子は追々、ブログの中で述べていこうと思っている。デュエムの本は私のあまり得意でないフランス語の本ではあるが、幸運なことに最近のAI翻訳の助けを借りると、思いの外、かなり確実に内容把握がでる。それに加えてWeb環境やプログラミング技術(Python、AWK環境)を駆使して、大部の英仏独の百科事典を素早くアクセスする環境を整えた。これら現代の技術の進歩がなければ、とうてい私が望むような読み方はできなかったと感じ、現代に生きていることに感謝している。

長々とひっぱたが、本稿のテーマは、タイトルにもあるように、昨日発刊された『先端教育』10月号の紹介である。
2014年10月の特集 「混迷の時代を生き抜く知性 実務家に求められるリベラルアーツ」に記事を掲載して頂いた。
『リーダーにはリベラルアーツが不可欠  確固たる世界観、人生観を確立せよ』

この記事は、これから1週間(2024年9/7日まで)の期間限定で、全文を読むことができる。リベラルアーツやリーダー育成に関心のある方々にも知らせて頂ければ大変ありがたい。
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