限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第392回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その235)』

2019-02-17 08:08:08 | 日記
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【334.不肖 】P.4440、AD499年

『不肖』とは「才能がなく、愚かであること」という意味で自分をさす謙遜語でもある。元来「肖」とは「肖像画」からも分かるように「似せる」という意味である。従って「不肖」は「似ていない」という一般的な意味を持つが、漢文中では似る対象がほぼ父親に極限されている。つまり「不肖」とは「父親は偉いのに、息子は馬鹿だ」という意味だ。

中国の辞書『説文解字』の「肖」の解説には次のような説明がある:「骨肉相似也。从肉小声。不似其先,故曰“不肖”也」(骨肉、相い似るなり。肉扁で発音は「小」。これから先祖に似ないことを“不肖”という)。

この説明で明らかなように、「不肖」とは元来「容貌が父親に似ていない」という外面的・肉体的なことを指していたのが、外延的に行動・性格が似ていないという意味に拡大したということが分かる。

「不肖」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、下の表のようになる。四書五経(孟子、礼記)にも見える語なので、古くから極めて多く用いられていることが分かる。



さて、資治通鑑で「不肖」が使われている場面を見てみよう。

北魏の賢帝といわれた孝文帝(拓跋宏)が33歳の若さで崩御した。資治通鑑は臨終の様子を描写したのち、次のように孝文帝が親族に対して情愛深かったと褒める。

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孝文帝(高祖)は終生、弟・従弟たちを分け隔てなく慈しんだ。ある時、咸陽王・拓跋禧たちにしみじみと次のように語った。「もし、我が子孫が不肖であったなら前たちが判断して、教え諭し甲斐があるなら補佐してくれ、そうでないならお前たちが代わりに帝位に就いてもいいが、他人には帝位を奪われるようなことはするな。」

孝文帝は賢者や能力のある者を登用し、彼らの忠告を素直に受け入れた。朝から晩まで政務に励み、常に次のように言っていた「人主として難しいのは公平な心を持つことと、わだかまりのない誠心を持つことだ。この二つができたなら蛮族(胡人、越人)たちとも兄弟のようにやっていける。」法律を厳格に適用し、大臣と雖も不法な行いは容赦せずに罰した。その一方で、小さな過ちには目をつぶった。例えば、かつて食事の中に虫が入っていた、別の時には給仕人が熱いスープをこぼしたので、帝の手に軽い火傷ができたが、いづれも笑って済ませた。

高祖友愛諸弟、終始無間。嘗従容謂咸陽王禧等曰:「我後子孫邂逅不肖、汝等観望、可輔則輔之、不可輔則取之、勿為他人有也。」

親任賢能、従善如流、精勤庶務、朝夕不倦。常曰:「人主患不能処心公平、推誠於物。能是二者、則胡、越之人皆可使如兄弟矣。」用法雖厳、於大臣無所容貸、然人有小過、常多闊略。嘗於食中得虫、又左右進羹誤傷帝手、皆笑而赦之。
 +++++++++++++++++++++++++++

中国を政治の最大の問題点は、韓非子の時代から現代に至るまで「人治」ではなく「法治」を行えるかどうかである。

中国には法律書は古くから完備されているものの、資治通鑑を読むとよく分かるが、それらはいわば皇帝や官僚の自己満足の為の書き物に過ぎず、実態は法律が公平に適用されたことは至って少ない。

それ故、賢帝や賢臣の一つメルクマール(目印)は法を厳格に適用できたかどうかだ。ここに書かれているように孝文帝は「用法厳、於大臣無所容貸」、つまり法に違反したものは貴顕といえども厳格に処罰したということだ。こういった文句が臨終後、敢えて誉め言葉として記述されるほど、法を厳格に適用した賢帝・賢臣が少なかったということになる。

続く。。。
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【麻生川語録・47】『ジグゾーパズル式の歴史理解』

2019-02-10 15:16:30 | 日記
これまで何度か書いているように、私は20歳になるまでは歴史が嫌いで、数学・物理(それと英語)が得意な、典型的な理系人間であった。しかし、『徹夜マージャンの果てに』に書いたように、20歳から俄然、人文系にのめり込むようになった。全く勝手の分からない分野の本を乱読したが、まるで迷路に入り込んだような気分であった。

早いもので、それから40年経って、振り返ってみると当初全く駄目であった歴史物が ― 部分的にではあるが ― 手に取るように分かるようになった。とりわけ、中国の歴史は史記や春秋左氏伝という偉大なる史書の日本語訳を読み、大いなる感動を受けてから、とうとう資治通鑑を原文で読み通すにまで至った。それ以外にも中国のものは歴史や哲学・思想だけでなく書道や絵画、陶磁器、彫物などの芸術分野にいたるまで随分幅広く関心があった。

一方、ヨーロッパ文明に関しては20歳代の始めにドイツに一年間留学していた時にヨーロッパ各国を8ヶ月ばかり旅行した。各地に残る歴史的建造物や博物館や公園、町並みや自然の風景を見ることで、その後、ヨーロッパの歴史を読む都度、「あの土地のことを言っているんだな」とか、「あの建物の中で起こったことなんだ!」とか、歴史的な事件をいわばバーチャル体験することも何度かあった。これから振り返ってみると、高校で世界史を習っていた時には、全く頭に残らなかったヨーロッパの歴史の一コマ一コマが易々と記憶できるようになった。

このような体験から、もし私が高校時代の歴史苦手の自分自身に出会って歴史の学び方を教えてあげるとしたら次のような事を言いたいと思っている。(話が拡散するのを避けるため、今回は中国の歴史について語ることにしよう。)

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まず、歴史をきっちりと学ぼうとするな、と言いたい。

「きっちり学ぶ」とはどういうことか? それはあたかも、四角い部屋に四角タイルを端から、きっちりと敷き詰めるようなやり方で、歴史を古代から時代通りにに全ての事柄を網羅的に学ぶようなやり方である。このような試験勉強的なやり方で歴史を学ぶと必ず歴史嫌いになることは間違いない。

私のお勧めは「ジグゾーパズル式の歴史理解」だ。

「ジグゾーパズル」を作るときの事を考えてみよう。誰でも、机の上に積まれたジグゾーパズルの山から適当にどれか一つを取り出し、机の真中に置くだろう。その時、それがどのピースとつながるのか、あるいは、どこに置くのがよいのかは全く見当がつかないであろう。しかし、取り上げたそのピースの形や色、柄は必ず頭にしっかりと残るはずだ。

その後、次々とピースを取り出しては机の上に並べていく。そうすると、徐々に全体の輪郭が見えてくるだろう。新たに手にしたピースと既に置いてあるピースとが意外な結びつきにびっくりする時もあるだろう。あるいは、全く手がかりがつかめず置き所にこまるピースもあるだろう。ジグゾーパズルの面白さは、まさにピースの一つ一つがストーリーを持って全体の図柄を形成していくところにある。



私のいう「ジグゾーパズル式の歴史理解」とはまさしく、歴史の一コマ一コマをあたかもジグゾーパズルのピースのように先ずは前後関係を無視してそのピースが持つストーリーをじっくりと味わうことから始まる。中国の歴史でこのピースに相当するのが、故事成句に見られるような、細切れのストーリーだ。

そこでまず、故事成句を集めている辞典や読み物を手に取ってみよう。例えば『故事 名言 中国編』(主婦と生活社)、『中国の思想 (別巻) 中国の故事名言』(徳間書店)、『中国の歴史と故事』(旺文社文庫)、あるいは『蒙求』(明徳出版社)などがある。これらの本には、ジグゾーパズルのピースのように故事や成句が次々と出てくる。これらの故事や成句は時代順に並んでいないので、一つ一つのピースがどのような関連にあるかは分からない。しかし、時代背景や前後関係は無視して、それぞれのピースの内容を味わって見てほしい。

例えば、以前のブログ
 沂風詠録:(第5回目)『漢文教育の重要性』
では「騎虎の勢い下るべからず」や「間髪をいれず」といった故事成句を紹介したが、いづれも時代背景や前後関係を全く知らなくても充分理解できる話である。

そういったピースが頭の中に数多く入ったら、次はそれらをつなぐために、年代に沿った記述をしている歴史の読み物を繙いてみよう。例えば『新十八史略』(河出書房新社)や陳舜臣氏の歴史読み物(例:『小説十八史略』『中国五千年』『中国の歴史』など)がある。読んでいるうちに、故事成句の時に集めたピースに出会うと、見知らぬ土地で友人に出会ったようなほっとした気分になる。そうすると、そこまで興味の持てなかった事項にも急に関心がわき、さらには今までは単なる一点の知識しかなかったが、それが急に面となって広がっていく。

最後の仕上げは、史記や春秋左氏伝を現代語訳でいいから通読してみよう。この時注意しないといけないのは、勉強モードで、タイルをきちんと敷き詰めるようなやり方で読まないことだ。面白くない所はさっさと飛ばして行こう。先に行って、話の辻褄が合わなかったら、その時は飛ばした場所に戻って読み返せばよいだけの話だ。一回でもいいから史記と春秋左氏伝を最後まで読むと、今までのピースが、面白いように全てつながってくることを実感するだろう。

そうなれば、次のフェーズは本格的に中華書局版の漢文のオリジナル版を買って(例:書虫『史記』)気に入った個所の原文を眺めてみるのも一興だ。。。

とまあ、以上のようなアドバイスを、かつての歴史嫌いであった若造の自分自身にしてあげたいと思っている。。。
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百論簇出:(第242回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その13)』

2019-02-03 12:20:13 | 日記
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テーマ5:検索の柔軟性 ― 検索語の順序や熟語分割

そもそも、私が漢文システムを自作しようと考えたのは、日本語や漢文の本を読んでいた時に原典の文章をチェックしたいためであった。前々回にも少し触れたが、この時、特に日本語の文章に現れる漢字を幾つか拾いだすことで、引用個所が見つかるようにしなければならない。また、前回述べたように難しい漢字は入力を省略しても探せるようにしたいなど、使い勝手のよい柔軟な検索を実現することを目指した。そのためには幾つかのステップを踏んで行った。

ステップ5-1:ダウンロードした原文(大抵は html ファイル)をほぼ同じ長さ(だいたい 30文字)に揃えて格納する。

ステップ5-2:内部的に(メモリー上で)この形式の二行(オプションとして三行も可)を一行に連結し、それに対して複数の検索語を順不同で検索する。

ステップ5-3:(複数の)検索語がヒットしたあと、該当個所の前後の文章を表示する。

ステップ5-4:手持ちの本で該当個所のページを表示する。

これらの点について説明しよう。

ステップ5-1:ダウンロードした原文(大抵は html ファイル)をほぼ同じ長さ(だいたい 30文字)に揃えて格納する。

html ファイルには、基本的に行数という概念が存在せず、節(ブロック)あるいはファイル全体が一単位となる。というのはブラウザーの横幅が自由に変えられるので行番号を振ることができないからである。そのようなファイル形式であるので Google検索のようにファイル全体の検索には向いているが、漢文検索において期待されるのはファイルの中や、大きな文章の塊の中に複数の検索語が存在するというのではなく、検索語同士が限られた近傍に存在するというケースだ。ここでいう「限られた近傍」とは、文章の1行か2行のことで、大体50文字程度を指す。

このテーマをコンピュータシステム的に考えると、検索語がファイルの先頭からどの位置にあるかを見つけ、全部の検索語が一定の範囲に入っているかを見つければいいことになる。しかし、これを本格的に実現しようとすると、テキストデータベースの構築とNamazuなどのテキスト検索システムなど、かなり大がかりなプログラム開発が必要となり、とても片手間ではできない。また、このような大規模なシステム開発で得てして起こる問題は、自分の期待する結果が得られなかった時に、改造の方法が簡単には分からないということである。

このような懸念から、私の「自作漢文検索システム」は簡便に(安直に)行単位の検索をすることにした。この検索エンジンは grep をソースコードから改造したもので、私が欲しいオプションは適宜追加した。しかし、元来が grep であるので、漢文の原文を30文字程度に切って行単位に格納する必要があった。

このシステムの欠点は、検索速度の遅さということになる。実際、十数年前に作った時は、まだハードディスクが玉軸受(ボールベアリング)で回転していて、遅かったので一回の検索に2分近くかかったこともあった。しかし、その後流体軸受けになり回転数も上がったので検索が早くなった。さらに、搭載メモリーが大きくなったので、一回検索すると、かなりのボリュームの原文がメモリー上に載ったままになるので、実質的に SSD(Solid State Drive)のパソコンで検索しているのと同等の速度となる。私の現在のパソコン+データ量の環境では検索がだいたい30秒以内で完了する。

ステップ5-2:内部的に(メモリー上で)この形式の二行(オプションとして三行も可)を一行に連結し、それに対して複数の検索語を順不同で検索する。 

しかし、行単位に区切ると、原文ではつながっている熟語が二行にまたがってしまう場合がある。そうなると、二語以上の熟語は検索にヒットしないことになる。それで、内部的に二行を一行にメモリー上で連結して、その長い行に対して検索をかける。たとえば、1, 2,3,4,5 の5行を検索するときは、内部的には毎回一行をずらして、(1+2),(2+3),(3+4),(4+5)... のような連結行を作ってそれに対して検索する。ただ、時には節の終わりの部分などでは、一行の中に数文字しかないことがある。そういった場合は、連結行も字数が少なくなり、検索がヒットしないこともあり得る。それで内部的に三行を連結して検索するオプションも加えた。



この検索のときに重要なのが「順不同」という点である。

「順不同」つまり検索語の入れる順序と関係なく検索するというのはGoogle検索などでは当たり前であるが、「寒泉」のような漢文検索では出来ないことは以前のブログ記事で述べた。日本語の本を読んでいる時や、うろ覚えの漢文のフレーズのように正しい順序でなくとも検索できるようになっていないと意味がない。

順不同やうろ覚えで字句を入力すると、都合のよいことにしばしば類似の文句が予期せずに見つかることである。いわゆる「あいまい検索」のようなものだ。「あいまい検索」をして分かるのは、昔の人は文章を書くときにいちいち文句を確かめていなくて、暗記していた文句を書いているということだ。根幹の部分は同じでも細部に於いては多少異なる。

たとえば「前事之不忘、後事之師也」(前事の忘れざるは後事の師なり)という言葉があるが、これには下に挙げるようにいくつかのバリエーションがある。
 前事者、後事之師
 前事之不忘、後事之師
 前事之不忘、後代之元亀也
 前事不忘、後事之戒 [*]
 前事不忘、後事之師
 前事不忘、後事之師也
 前鑑之験、後事之師也


このような文句「全て」を検索するには、「前事 忘 後事 師」と入力する。(この時、[*]を付けた「前事不忘、後事之戒」は「師」という文字は含まれていないが、その前の行にたまたま師があるのでヒットした。 )使っている内に実感したのだが、この「あいまい検索」は類似の文章を検出するのに非常に有効で重宝する機能だ。私は今まで資治通鑑関連の本を3冊(角川新書小学館新書河出書房新社)上梓しているが、資治通鑑の元になった文章を見つけるのにこの検索機能が非常に役立っている。

さらに、「あいまい検索」の利点は句点を無視して検索することだ。本やWebサイトによって、句点を打つ場所が微妙に異なることがある。その時、原文通りの句点でなくとも検索できるのは非常にありがたい。

また、普段入力しない(できない)ような難しい漢字はわざわざ打ち込まなくとも探せるのは都合がよい。また、Webサイトでは read-proof されていないことが多く、しばしば間違った字や、異字体が入力されていることがある。(例えば、「いもうと」の字には、「妹」「妺」があるが、たまに後者の「妺」(女扁に末)が入力されている。)そういう文字はだいたい決まっているので、入力して見つからない場合はそのような文字を除外して検索すると見つかることが多い。

文字を順不同で検索した後で、もし検索結果が多すぎたり、語順通りに見つけたい場合は、二段階で検索すれば良い。このような場合、コンピュータ用語でいう正規表現を使っても探すことが可能である。(私の場合は、自作のプログラム mgrep を使う。)要は、一度ざっくり検索してからその結果に対して、細かく分析するという考えればよい。一度の検索で、ばっちり正解を見つけるというしゃちこばった考え方を取らない方が応用範囲が広いということだ。

この機能は、何も漢文だけに限らず西洋語にも有効である。例えば英文やラテン語の文章を検索するとき ― とりわけラテン語は語尾活用が多様なので語尾を省いて入力し ― 幾つかの単語を入れて検索すると探している文句を見つけることができる。

続く。。。
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想溢筆翔:(第391回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その234)』

2019-01-27 09:37:27 | 日記
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【333.無異議 】P.4431、AD498年

『無異議』(異議なし)とは「反対することがない」ということ。現在でも日常的に使われているが、私にとっては学生時代にしばしばキャンパス内で聞いた学生運動家たちの声を思い出す(後述)。

「異議」の類似語に「異論」がある。当然のことながら「無異議」と同じく「無異論」もあると考えられるので、この両方の語句を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。この表から「無異議」の方がかなり多く使われていることが分かる。さらに、調べると「無異議」の前に「人」や「物」を付けて使われる場合もかなり多いことが分かる。それらも合わせて下の表に示した。



さて、資治通鑑で「無異議」が使われている場面を見てみよう。
北魏の孝文帝(拓跋宏)の病状が悪化した。

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北魏の孝文帝の病気が重くなった。何日も臣下に顔を見せなかった。看病したのは、彭城王の拓跋勰ら数人だけであった。拓跋勰は宮殿内では孝文帝の医薬の世話をしながら、宮殿の外では軍事を総括していた。だれもがその勤勉さを敬服し、異議をいう者はいなかった(人無異議)。右軍将軍で丹陽出身の徐謇は良医でもあった。当時、たまたま洛陽に居たので急に呼び出された。宮殿に到着すると、拓跋勰が徐謇の手を取って泣きながら言うには「君卿がもし帝の病気を治すことができれば莫大なご褒美がもらえるだろう、が、もし万が一、治せなかったら首が飛ぶと思ってくれ。名誉だけでなく、命がかかっている重大事だぞ。」

拓跋勰は、また秘かに汝水の岸部に祈りの祭壇をつくり、周公の故事に倣って、天地と前帝の顕祖に向かって「私の命に替えて帝の命を救って下さい」と頼んだ。暫くして、帝(魏主)の病状が少しく回復したので懸瓠を出発して、汝浜に泊り、百官を集めて、徐謇を上席に座らせてその病気を治した功績を褒めたたえて、鴻臚卿に任命し、金郷県伯の領地銭万緡を褒美として取らせた。

魏主得疾甚篤、旬日不見侍臣、左右唯彭城王勰等数人而已。勰内侍医薬、外総軍国之務、遠近粛然、人無異議。右軍将軍丹陽徐謇善医、時在洛陽、急召之。既至、勰涕泣執手謂曰:「君能已至尊之疾、当獲意外之賞;不然、有不測之誅;非但栄辱、乃繋存亡。」

勰又密為壇於汝水之浜、依周公故事、告天地及顕祖、乞以身代魏主。魏主疾有間、丙午、発懸瓠、舎于汝浜、集百官、坐徐謇于上席、称揚其功、除鴻臚卿、封金郷県伯、賜銭万緡
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徐謇は医術で有名であったので、宮殿に呼ばれ、帝の治療に当たらされた。帝の病気が治ったので、莫大な褒美をもらえたが、もし帝の病状が悪化ないしは死亡することにでもなれば、当人は少なくとも死刑は免れなかっただろう。文字通り、命懸けの究極のハイリスク・ハイリターンだ。


【出典】京都新聞

さて冒頭で、「異議な~し」という話をしたが、この文句で私が強烈に思い出すのは大学に入学した翌年(1974年、昭和49年)の初冬の教養部のストライキの時のことだ。

当時、京大の時計台にはでかでかと「竹本処分粉砕」とペンキで書かれていた。聞くところによると、夜中に電灯もつけず暗闇のなかで 20メートルちかくの文字をきっちりと書いた技術レベルの高さに本職のペンキ職人も舌を巻いたとか。大学は一度は綺麗に消したそうが、それでもすぐさま、ある朝、同じ文字が復活していたとのこと。私が見たのはその 2回目の文字でかなり長くそのまま時計台に書かれたままであった。

当時(1973年)、京大にはまだ学生運動の余韻が色濃く残っていて、学内の至るところに立看板が置かれていた。それだけでなく、ヘルメット学生によって授業が妨害されることも何度かあった。そういう騒々しい雰囲気の中、何が原因かは思い出せないが教養部のストライキを決めるための学生集会が開かれた。時計台下の法経1番(だったか?)の大講堂では夕方6時ごろから会場が始まった。私が足を踏みいれたのは夜の 8時ごろであったが、真冬(2月初旬か?)にも拘わらず相当の熱気とタバコの煙でむんむんしていた。400人位は入れる座席だけでは足りず、通路に坐っている学生もかなりいた。出席者のほとんどが赤いヘルメットをかぶっていたが、必ずしも全員が広島ファンであった訳ではない。

演壇には拡声器が数台置かれていて、檀上の弁士は両手からはみ出すほどのマイクを持って、わめいていた。それは言葉というより、ガード下の電車の騒音のようであった。しかし、出席している学生たちにはその声は確かに届いていたらしく時折「異議な~し」という声が上がっていた。私はタバコの煙に 10数分ばかり我慢して聞いていたもののあまりの煙たさに早々に退散した。

翌朝早く大学に行くと、吉田キャンパスの表門も裏門も、すべて教室の机やイスでバリケード封鎖されていた。入口には赤ヘルの学生が学内に入る人間を検問していた。学生は自由に入れるのだが、職員や教官はキャンパスには入れてもらえず、追い返された。結局その年の後期試験は実施できず、流れてしまった。その後、後期試験が実施されたのは年度が変わった5月のことであった。この時の春休みはそれまでの中で(そしてそれ以降も)一番長い春休みであった。

続く。。。
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百論簇出:(第241回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その12)』

2019-01-20 13:12:48 | 日記
前回

前回紹介したように、中国の漢文の検索システム(例:寒泉)は私が期待するような検索ができない。それでは Googleのような全文検索システムではどうだろうか?これもまた不満足だ。というのは、 Google検索では検索語が、同一文書内のどこかに存在していれば、たとえ検索語同志がどんなに離れていようと、文書がヒットしてしまう。この方式は、キーワード検索のように、ざっとしたサーチには適しているが、うろ覚えの漢文の文句を検索するには不適だ。というのは、この場合、複数の検索語が一文の中に存在して欲しいからだが、 Googleの方式ではあまりにも多くの文書がヒットしてしまうのだ。

以上述べたように、専門家用の漢文検索システムも、Googleのような汎用検索システムのどちらも漢文検索には使えないないことが分かった。それで、私は自分がユーザー兼製作者となって、独自の使いやすい漢文検索システムを作ることにした。それについては以前、下記のブログに簡略に書いたが、ここではもう少し詳しく、その後変更した部分も含めて書くことにしよう。
【参照ブログ】
 百論簇出:(第38回目)『自家製漢文検索システム』

漢文検索という特殊な用途を満たすには、いくつかのテーマを解決しないといけない。

テーマ1:正字体(旧漢字)

正字体というのは、通常日本では旧字体と呼ばれている(例:學・学、體・体)。最近、日本でも自分の名前などを正字体で書く人が増えた(渡辺・渡邊、矢沢・矢澤)ので幾つかは目にする機会があろう。この旧字体と呼ばれている漢字は、案外、数が少なく、合計で300程度しかない。しかし、部分的に同じ形をしている漢字なのに、一つは新字体になり、もう一つは旧字体を残しているものがあり、混乱する。例えば、観光の「観」は旧字体では「觀」と書く。概要の「概」は旧字体では「槪」と書く。つまり、真中の部分が「白+ヒ」で構成されている。ところが、灌漑(かんがい)は、今でも旧字体の部分を完全に残している。

このように、新字体と旧字体は現状の日本語の漢字内で混在しているが、すくなくとも新字体と旧字体は一対一対応となっているので、機械的に変換すればよい。私の漢文検索システムでは本文そのものは旧字体のまま残し、検索の入力を内部で新字体から旧字体に変換して本文を検索するようにしている。もっとも、それでは逆にヒットしないこともあるので、無変換形式(AS-IS モード)もできるようになっている。

このテーマは次の異字体とも関連している。

テーマ2:異字体(異体字)

異字体(あるいは、異体字)は、同じ発音・意味なのに書き方が異なっているものだ。例えば「崎・﨑」、「国・圀」、「高・髙」があることはよく知られている。この点は日本語では非常に頭の痛い問題点であるが、漢文に関しては割合軽微な問題である。というのは、日本は古く(室町時代)から整版印刷があったが、活字印刷が普及したのは、明治の中期以降である。(ただし、江戸初期には一部活字印刷があったが、普及しなかった。)それで、手書きで定着してしまった書き方が明治初期の戸籍作成時にそのまま戸籍などに写されてしまったので、その後、変更が難しくなった。一方、中国では、10世紀ごろ(五代末・北宋)から整版・活字印刷と共に科挙用の参考書が爆発的に普及した。その時、科挙受験には正字体で書くことが強制されたおかげで字体が統一され、異字体が淘汰された。次いで、清の康煕字典が誰もが参照できるリファレンスブックとなり、字体の統一が確定的となった。

私の漢文検索システムでは、文意が主目的であるので、字体の差異は無視する。それ故、異字体は本文を読みこんだ時に全て正字体に変換して格納することにしている。このテーマは次の中国の字体とも関連しているので、詳細は次の項で述べる。

テーマ3:中国の字体(フォント)

私の漢文システムでは漢文の本文は中国のサイトからダウンロードしている。当初(2000年ごろ)は、台湾のサイトが多かったので、殆どが BIG5 で書かれていた。ところが、最近では、Wikisourceも含めWeb上のほとんどの漢文データが UTF8 で書かれている。

ちなみに、Webを検索すると、過去10年間のから現在に至るまでの文字コードの利用率で、現在では、UTF8 が完全に de facto (デファクト)スタンダードになっていることが分かる。(下記、テーマ4参照)


 Growth of Unicode on the Web


 Percentages of websites using various character endodings. (2019/01/19)

さて、中国の字体で、日本の字体から見ると異字体のようなものがある。例えば「衆」は「眾」、「内」は「內」と表示される。日本語における異字体と同様、私にとってはこれらの文字を区別することは全く無意味なので、私の漢文検索システムでは原文をダウンロードしたのち、異字体は正字体に変換して格納する。

結局、異字体や日本と字体の異なる中国の文字は原則として日本で使われている文字(正字体)に変換することで、検索を容易にしている。

テーマ4:難字の表現

漢文で扱われている漢字にどのような問題があるのかを知るには、Unicodeというコード体系を理解しておく必要がある。現在、Web上の大抵のドキュメントは上で述べたように、UTF8で書かれているが、これは本来 Unicode のコード体系の一つの表現形態である。 Unicodeのコード体系には大きく分けて、UTF8、UTF16、UTF32の3種類がある。これらはUnicodeでそれぞれの漢字に付けられた番号をコンピュータが内部的に使う値のことで、UTF(Unicode Transformation Format)と呼ばれる。

現在、世界中のたいていの文字はUnicodeで表現できるようになっている。従って、難しい漢字でもUnicodeを知れば表示できる。例えば、論語の巻二は《八佾》(はちいつ)というタイトルであるがこの「佾」はかな漢字変換では出てこないが、Unicode(4F7E)を使えば 佾のように書けば表示できる。

異字体は上述のように、たいした問題ではないが、難字は、文字通り難しい問題である。というのは、現代の日本語で使われる漢字は、「常用漢字」で2300字程度しかなく、また日本のJIS規格(JIS X 0208 (1990))で表せる漢字は、Unicode の中の6300字程度しかない。

漢文では大体4000字程度が使われるが、これらの文字には JIS規格外の文字も多い。それだけでなく、漢文には極めて難解な字も登場することは稀ではない。とりわけ文選の巻1から巻16に載せられている賦にはそういった難字が多く見られる。(ついでに言うと、中国の国家文字規格であるGB2312やその後継の規格、GB18030では通常の Unicode、UTFでは使わないような漢字も登録されているが、今後これらの文字にも順次Unicode に包含されるようになるだろう。)

これらの文字は普段、決して見かけることはない。更には入力するのに普通のカナ漢字変換のようなやり方では不可能である。

私の漢文検索システムでは、これらの文字(具体的には Shift-JIS で表現不可の文字)は全て、#4F7E; のような内部表現で格納している。(以前は、内部表現にBIG5のコード番号を使っていたが、最近はこれをUnicode に変更した。)このようにすることで、日本語 Windows環境で、自由に漢文を検索できるシステムを作ることが可能になる。

しかし、日本語のWindows環境でサクサク使える漢文検索システムには解決しなければいけないテーマがまだいくつかある。

続く。。。
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想溢筆翔:(第390回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その233)』

2019-01-13 17:17:41 | 日記
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【332.時刻 】P.4427、AD498年

『時刻』とは「時の流れのある一点」と国語辞典には説明するが、あまり良い説明とは言えない。そもそも辞源(1987年版)によると「刻」そのものが「計時的単位」との説明があるので、「時」がなくても「刻」だけで「時刻」という意味であるということが分かる。

ついでに、辞源(1987年版)には中国の古代の「刻」の説明が次のように載っている。
 「刻」: 古代以銅漏計時、一昼夜分為一百刻、按節令、昼夜計数不同。冬至昼四十五刻、夜五十五刻、夏至昼六十五刻、夜三十五刻、春分秋分、昼五十五刻半、夜四十五刻半。至清代始用時鐘。以十五分為一刻、四刻為一小時。

この程度の文なら、漢字だけ並べられても意味がとれるだろう。一個所「按節令」は分かりにくいかもしれないが「季節に応じて100という時刻を昼と夜で按分する」という意味だと理解できる。概略は、古くは一日を100刻とし、季節によって昼と夜の配分が異なった、つまり、定時法だったということだ。(ちなみに日本の江戸時代は不定時法)

さて、「時刻」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、下の表のようになる。宋書が初出であるが、宋元以降、近代に至るにつれて一層多く用いられていることが分かる。上で述べたように元来「刻」だけで「時刻」の意味を示しながら、「時刻」という表現が多く用いられるようになったのは、「耳で発音だけを聞いて意味が分かる」ようにするための人為的なものであると私は推測する。



さて、資治通鑑で「時刻」が用いられている場面を見てみよう。南斉の明宗の治世下、王敬則が反乱を起こした。それを聞いた明帝は即刻、王敬則の親族を捕えて全員を処刑した。(上聞王敬則反、収王幼隆及其兄員外郎世雄、記室参軍季哲、其弟太子舎人少安等、皆殺之。長子黄門郎元遷将千人在徐州撃魏、敕徐州刺史徐玄慶殺之。)

毎度のことではあるが、中国では無実の人がいともたやすく殺されてしまうのは全く痛ましいことだ。これも全て中国人の根本的概念である「血族」に由来する弊習だ。

王敬則は自分が帝位に就くというのは、大義名分に欠けるので、形式的に帝室の一員である蕭子恪を明帝の代わりに帝位に就けようとした。反乱の片棒を担がされては、命が危ないと感づいた蕭子恪はすぐさま逃走した。そこから、「走れメロス」もどきのドラマが始まった。

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前の呉郡太守で南康侯の蕭子恪は蕭嶷子である(つまり、蕭子恪は、南斉の建国者・蕭道成の孫)。王敬則は起兵するに当たって蕭子恪を担ぎあげようとしたが、危険を察知した蕭子恪は急いで逃げ隠れた。

乱が勃発した当初、始安王の蕭遙光(明帝の兄)は明帝に、将来の憂いを避けるために高祖(初代皇帝・蕭道成)と武帝(二代皇帝・蕭賾)の子孫を皆殺しにするよう進言した。そこで、宗室の王や妃・子供たちを全て宮廷に呼び寄せた。…途中で逃げられないようにするため、各々の両側に人を1人ずつ付けた。あたかも戦時下のように軍法に従った処置だ。幼子は乳母と共にひっぱってきた。この晩、宮廷の医者に命じて毒薬(椒)を大釜一杯(二斛)煮させた。木工係(都水)に命じて棺桶の材料、数十人分を用意させ、真夜中になれば、全員を殺そうと手筈を整えた。

さて、逃走した蕭子恪は裸足のまま秘かに宮中に駆け付け、夜の11時ごろに建陽門にたどり着き、帝にお目通りを願った。時刻は真夜中を過ぎていたが明帝は疲れて寝ていた。中書舎人の沈徽孚は帝の寵臣の単景雋と相談して、処刑をせずにいた。

そうしている内に、明帝が目を覚ましたので、単景雋が「蕭子恪が宮中に参上しています」と告げた。帝はおどろいて「まだか、まだか?」(処刑はしてしまったのか?)と問うと単景雋は「まだです」と言うと、帝はベッドをなでながらほっとし様子で、「あやうく、遙光のために無実の人を殺すところだったわい!」とつぶやいた。それから、招集した王族たちには食事を振る舞い、翌朝には皆を帰した。

前呉郡太守南康侯子恪、嶷之子也、敬則起兵、以奉子恪為名;子恪亡走、未知所在。

始安王遙光勧上尽誅高、武子孫、於是悉召諸王侯入宮。…敕人各従左右両人、過此依軍法;孩幼者与乳母倶入。其夜、令太医椒二斛、都水辦棺材数十具、須三更、当尽殺之。子恪徒跣自帰、二更達建陽門、刺啓。時刻已至、而上眠不起、中書舎人沈徽孚与上所親左右単景雋共謀少留其事。

須臾、上覚、景雋啓子恪已至。上驚問曰:「未邪、未邪?」景雋具以事対。上撫曰:「遙光幾誤人事!」乃賜王侯供饌、明日、悉遣還第。
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太宰治の小説に「走れメロス」というのがあるが、夕陽が沈む直前にメロスが駆け戻り、友の命を救ったが、まさに蕭子恪は必死の思いで暗闇を駆け抜け宮中の辿りついて、何十人という王族の命を救った。まさに南斉のメロスだ!

ところで、古代ギリシャに「ダモクレスの剣」という言葉がある。玉座というのは、他人から見れば羨ましいかもしれないが、実際に坐ってみると、常に命の危険にびくびくしなければならない、非常に厄介な場所である、ということをシラクサの僭主ディオニュシオス1世は玉座の上に、一本の細い馬の尻尾に剣をつるして示した。

今回の話でも蕭子恪の一族は、なまじっか帝室の一員であるために蕭子恪が反乱軍に祭り上げられたという噂(ガセネタ)だけで、明帝からはすぐさま玉座を狙う反逆者と見なされた。そのため、一族は有無をいわさず即座に処刑されそうになった。つまり、王族というのは、命が一瞬先はどうなるか分からない身分であるということだ。

韓非子は《姦劫弑臣》篇に、当時の諺として「厲憐王」(癩、王を憐む)という言葉を紹介している。癩患者(ハンセン病患者)は自分は不治の業病に侵されているが、その自分よりも王の方がずっと惨めで可哀想だという意味である。実際、『本当に残酷な中国史』(P.64)に書いたように、北朝の宋の皇子の劉子鸞は、父帝亡き後、兄の劉子業から自殺を命じられた(賜死)時、まだ十歳であったが「もう二度と王家などに生まれてきませんように」(願後身不復生王家)と切に願った。庶民から羨まれる高貴な身分は、逆に厭(いと)わしいものだということが分かる。

ちなみに、明帝の叫んだ「未邪、未邪?」(まだか、まだか?)は当年(AD498年)の流行語大賞に選ばれたとか、選ばれなかったとか。。。

続く。。。
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百論簇出:(第240回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その11)』

2019-01-06 17:11:04 | 日記
前回

さて、話は王陽明全集を読んでいる時のことに戻るが、この時に痛感したことがある。それは、陽明が引用している文章の出典を検索しようとすると多大な時間がかかるということである。論語や老子では、一編がかなり短いので、出典が示されると該当箇所は比較的スムーズに探せるが、孟子ではそうはいかない。例えば、《離婁章句》というのは、上・下に分かれているが、それぞれの編は論語の数倍の分量がある。そうなると、《離婁章句・上》にあると分かっても該当箇所を探すのに十数分かかってしまう。これでは、本来の目的である王陽明全集を通読することが阻害されてしまう。

それで、検索を容易にするための方策を考えた。当時(2003年)、すでに中国サイトにはかなり多くの中国古典の原文がアップロードされていたので、これを活用することを考えた。つまり該当の原文のファイルをダウンロードし、これをWindows パソコンで簡単に検索するシステムを構築することにした。

データファイルとしては、大陸中国の文章はたいてい簡体字で書かれていたので古典籍の文としては適切ではない。(というのは、簡体字から繁体字へは必ずしも正しく変換されないからだ。)一方、台湾のサイトでは例外なく、繁体字( BIG5)で書かれていたので、これをダウンロードすることにした。この時、網羅的にダウンロードするためにプログラム(awk, wget)を書いた。

当時はインターネット回線が遅く、とりわけ家庭からアクセスしていた無線回線は現在( 2018年)の 1/10位の速さ(遅さ!)でしかなかった。その上、インターネット(TCP/IP)の特性として、通信が混雑してくると、勝手にパケットがドロップしてしまう。そうなると、ファイルの内容が途中までしかないとか、ファイルアクセスができない、のような状態になる。

当時は現在とは異なり、昼間はビジネス用途にインターネットアクセスが多く、通信が混雑していたので、夜中にパソコンのプログラムを走らせた。朝にチェックすると数千本のデータファイルがダウンロードされていたが、ファイル内容がダメなものをプログラムでチェックして、再度ダウンロードし直した。
(このあたりの事情については、『本当に残酷な中国史』P.31参照)

このようにして、中国の古典籍といわれるものは一通り自分のパソコンにダウンロードすることができた。次は検索システムを構築することだ。

ところで、中国のサイトにはこれら中国古典の検索システムは既に存在している。たとえば「寒泉」が一番有名であり、ウェブ環境でだれでも自由に使うことができる。(正式名称:台灣師大圖書館【寒泉】古典文獻全文檢索資料庫



このサイトを一度でも使ってみると分かるが、我々日本人には非常に使いづらいことが分かる。その上、哀しいことに該当箇所が見つからないことが頻発する。資治通鑑を例にとって、具体的にこのシステムの使いづらさ(難点)を列挙すると:

1.検索すべき個所「紀」をいちいち選択しないといけない。どこにあるか分からなければ、始めの1.周紀から最後の16.後周紀までを選択しないといけない。

2.紙の本(中華書局など)を持っている人(私もそうだが)は紀ではなく、巻数やページ数で選択個所を絞りたいのだが、それはできない。

3.上記1.2.の難点は少々の手間を厭わなければ問題とは言えないレベルである。ところが問題は、これらの典籍全部の横断的検索ができないことだ。

4.Windows環境で使っていて一番面倒くさく感じるのは新漢字を旧漢字(正字体・繁体字)に変換しないといけないことだろう。さらには、通常使っていないような難しい字も正しく入れないと検索できない。例えば、史記の《五帝本紀》の最初に軒轅(黄帝)が炎帝と戦う場面で、軒轅が動物を使って炎帝を打ち破る個所があるが「教熊羆【貔貅貙】虎」という句が見える。これを検索しようとして【貔貅貙】を入力するのは極めて困難だろう。

以上の4点は面倒くさくはあるものの、回避する方策はかろうじて存在しているので、致命的とは言えないが、本当に致命的なのは、検索がヒットしないケースが多いことである。この点を説明しよう。

例えば、資治通鑑・巻136・斉紀2・AD 489年に次のような文が見える。
 「丁亥、魏主如靈泉池、遂如方山;己丑、還宮」
 丁亥(ていがい)、魏主、靈泉池に如(ゆ)き、遂に方山に如く。己丑(きちゅう)、宮に還る。


寒泉に「魏主如靈泉池」という検索語(一句)を入れると確かに8ヶ所、いづれも斉紀に見つかる。

ところが、この句を「魏主 如靈泉池」のように分割して入れると見つからなくなってしまう。

これは検索システムとしては、致命的な欠陥であると私には思える。なぜなら、日本語の本の中で、漢文の引用文があったとすると、例えば上の書き下し文で示したような表記で載っているはずだ。
 魏主、霊泉池に如き、遂に方山に如く。

この文から資治通鑑の該当箇所を見つけようとすると次のような5つの文字列で検索したいことだろう。
 「魏主 霊泉池 如 遂 方山」

寒泉はこのような文字列で検索しても全く何も出てこない。つまり寒泉が対象としているのは、原典の漢文を完全に文字通りに入力して出典を探すケースに限られるのである。

続く。。。
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ブログ連載、3535日を終えて【減筆宣言】

2018-12-30 20:01:16 | 日記
このブログを2009年4月25日に始めてからようやく10年が経過した。

当初の2年間は、ほぼ毎日続けたが、その後、週に2回のペースに落とし、現在までに約1500本のブログを書いてきた。

このブログの目的は一貫して将来の日本を背負って立つ若手リーダーの啓発にある。というのは、平成初期のバブル経済崩壊以降、現在までの30年間、日本は経済力だけでなく、国民活力が残念ながら全体としてかなり低下しているが、これはとりも直さず、日本のあらゆる状況におけるリーダー層の質の低下に起因していると私は考えている。それで、私はささやかながら「蟷螂の斧」ならぬ「蟷螂の弁」を振るって、日本の将来のリーダー層に語りかけている次第だ。

そういった趣旨から本ブログでは、一貫して「リベラルアーツ、および、グローバルリテラシー」を主テーマとした記事を書いてきた。「リベラルアーツ」と言えば従来は大学の文系科目の一つで、高踏的雰囲気をプンプンと漂わせ、なんとなく近寄りがたく思われていたことであろう。しかるに、最近(2018年12月4日)では、経団連が率先して「リベラルアーツを大学教育に取り入れよ」といってリベラルアーツ教育の必要性を大いに煽っている有様だ。経団連のいうリベラルアーツが具体的に何を指すのか、私には明らかではないが、少なくとも従来型の従順なサラリーマンを大量生産する教育から脱皮せよ、という趣旨に私は大いに賛同する。



【減筆宣言】

さて、私のブログ記事が少しでも社会の為になれば、との意気込みでこの10年ずっと書いてきたが、次第に知識の補充の必要性を強く感じるようになってきた。毎月ほどに新刊を出しているような流行作家の本を、たまに書店で立ち読みすることがあるが、正直言って、内容に乏しく、私には非常に薄っぺらく感じられる。

知識のアウトプットという観点から2つの方法がある。それを喩えていうと、器に水を入れて、一つは器の底から漏れる方法で、もう一つは器の上の縁(ふち)から漏れ出る方法だ。底から漏れ出るというのは、人から聞いたことや本で読んだことを、じっくりと咀嚼することなくすぐさま口から出したり、書き物にすることである。

『荀子』の《勧学篇》にいう「小人の学や、耳に入り、口より出(い)ず。口耳の間、則ち四寸のみ。いずくんぞ、もって七尺の身を美にするに足らんや!」(小人之学也、入乎耳、出乎口;口耳之間、則四寸耳、曷足以美七尺之身哉!)

この教戒に従って、これから暫くは知識を蓄え、それが身に満ちて自然と口から溢れ出るようになるよう、精進したいと思っている。それで、本ブログの更新は原則として、週一回、日曜日だけになる。
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想溢筆翔:(第389回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その232)』

2018-12-27 16:03:19 | 日記
前回

【331.高蹈・高踏 】P.4426、AD498年

『高蹈 あるいは 高踏』とは「世俗を離れて気高く身を保っているさま」と言う意味。人はたいてい地位や名利を追い求めるものであるが、そういった世俗的なことには一切執着しないことをいう。現在の日本では、「高踏」と書くが漢文では「高蹈」と書く。(ただし、「蹈」は「踏」の意味なので同じではあるが。)

「高蹈」を辞源(2015年版)では「遠避、謂隠居」と説明する。その元の意味は、辞海( 1978年)に依ると「高蹈とは、足を高く挙げて地面を踏みしめること。それから遠方へ行くこと」(高蹈、高挙足而蹈地、故言猶遠行也)であったという。

「高蹈」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、下の表のようになる。この語句も後漢書・三国志あたりから宋史まで使われて、それ以降は死語となってしまったことが分かる。



さて、資治通鑑で「高蹈」が使われている場面を見てみよう。

王敬則は蕭道成の腹心の家臣で、南斉の建国に多大な貢献をした。それにも拘わらず、蕭道成の甥の明帝は猜疑心が強く、王敬則は殺されるのではないかと恐れ、ついに反乱を起こすに至った。

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王敬則は挙兵して叛逆ののろしをあげ、兵を招集した。兵に鎧を与え、その上に着てカモフラージュするようにと衣も支給し、数日して出陣した。前中書令の何胤は官職を捨てて若邪山に隠居していたが、王敬則は力づくでも呼び出して尚書令につけようとした。長史の王弄璋たちが王敬則を諌めていうには、「何胤は高蹈であるので、命令には絶対に従わないでしょう。従わないと、当然、殺してしまわないといけないでしょう。しかし、今まさに大事を挙げようとしているのに、天下の名賢を殺してしまうと、大事は絶対に成就しないでしょう。」それを聞いて、王敬則は何胤を呼び出すのを止めた。

王敬則挙兵反、招集、配衣、二三日便発。前中書令何胤、棄官隠居若邪山、敬則欲劫以為尚書令。長史王弄璋等諫曰:「何令高蹈、必不従;不従、便応殺之。挙大事先殺名賢、事必不済。」敬則乃止。
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ここで使われている「高蹈・高踏」は隠遁の意味と理解できる。魏晋以降、戦乱が続いたので文人や士大夫は権力闘争に巻き込まれる危険を避けて田舎や山林に隠遁する人が多くいた。何胤もその一人であった。

何胤の家系には隠遁する人が多く、六代前の何準も「高尚不応徴辟」(自らを高尚に保ち、出仕要請に応ぜず)と言われている。何胤の子の何撰も隠棲して生を終えた(子撰亦不仕、有高風)。竹林の賢人という言葉で代表されるように、晋代には役人にならず、政治の世界から逃避して清談が士大夫の間で流行した。しかし、それはあくまでも経済的生活基盤が安定していた社会の上流階級だったという点は忘れてはいけない。ただ、隠棲したといっても自堕落な人も結構いた。そういった人たちの中で「高尚、高風」という形容詞で誉められる人は必ずしも多くない。

続く。。。
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百論簇出:(第239回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その10)』

2018-12-23 17:20:16 | 日記
前回

「訓読をマスターすると漢文が読めるようになる」と言っても、漢文は英語と異なり、会社内の昇格に役立つものでもなければ、ましてや転職に有利な資格でもない「漢文が読めても、得になることがないのなら、無理しても読めるようにならなくてもいいや」と考えている人がいるなら次のように考えて欲しい。

世の中に炭酸飲料は多いが、飲んでもゲップが出るだけで全く栄養にならない。つまり、飲まなくともよい飲み物といえる。しかし、炭酸飲料は、大抵の人にとっては、生活の潤いには欠かせないものであろう。別の観点から、次のようなシチュエーションを考えてみよう。ディナーでステーキを食べた後にアイスクリームを食べる人に向かって、「どうせ胃の中で一緒になるのだから、ステーキとアイスクリームをミキサーに入れてどろどろにしたものを食べても一緒だね」などと言っても、絶対にステーキクリーム・シェイクを食べようとはしないであろう。食事というのは栄養を取るためだけでなく、盛り付けや食器を目で見て楽しむものである。あるいは、部屋の雰囲気や家族・友人との会話を楽しむ、といった栄養以外のものも重要な要素だ。

つまり、人間は動物と異なり、主目的だけを達成すれば満足する、というようにはできていない。本当の目的以外にも付随する目的も得ることは、豊かな人生を送るためには非常に重要な要素である。この意味で漢文や、古典ギリシャ語、ラテン語などのいわゆる「死語」を学ぶことでかつてのクラッシック(原意は「最高級」)な文化を理解ができ、それによって人生観や知的水平面(intellectual horizon)を大幅に広げることができる。

(私の周りだけかも知れないが)「漢文をすらすらと読めるようになりたい」と思っている人は結構多く存在している。しかし、単に、ぼやっと漢文が読めるようになればいいなあ、という淡いあこがれのようなものだけでは、実現は望めない。何事も、「困難を乗り越えてでも達成するぞ」という堅固な意志がないとだめだ。高校生が受験勉強を頑張れるのも、また留学希望者が英語を頑張れるのも、大学合格やTOEFLの100点越えという明確な目標があるからだ。



この意味で、漢文を読めるようになるには、先ずは手近な目標を設定することをお勧めする。私が漢文を読みたいと思ったのは『資治通鑑』を読むという、現実に目に見える目標があったからだ。この意味で、もし、漢文(に限らず語学全般について言えるが)に上達したいと思ったなら、値段は高くとも、読みたい本を先ずは購入して手元に置き、白雪姫の意地悪な妃のように、毎日「私の一番読みたい本はな~に?」とその本に問いかけてみることだ。そうすると、その内にきっとその本が読みたくなる時がきて、その為にはその言語をしっかりしようとする心構えができるはずだ。

漢文を読むという意識が固まった「訓読で漢文が読める」ためには幾つかのポイントを理解しておく必要がある。それらに関しては下記のブログにまとめておいたし、またYouTubeのビデオでは、訓読で読むという実際のやり方を示しておいたので是非参照して頂きたい。

【参照ブログ、ビデオ】
 沂風詠録:(第179回目)『リベラルアーツとしての漢文』
 【漢文を訓読するビデオ】


【韓非子】外儲説右上・第34

漢文訓読の際に重要な要点は次の4点だ。
 1.耳から聞く、
 2.6文字程度をつかむ
 3.標点本を使う。(日本の書き下し文は句読点が少ないし、固有名詞が不明なので読みにくい)
 4.英文法の知識を使う。前置詞、接続詞など。


これらの点の1.から3.は上記のブログやその中に書いてあるリンク先を参照して頂きたい。最後の「4.英文法の知識を使う」という点は『世にも恐ろしい中国人の戦略思考』(小学館新書、P.250―P.253)
「目からウロコの漢文攻略法 ― 英語に置き換えるとぐ~んとよくわかる!」
に書いたので読んで欲しい。結局、漢文訓読には、文法というより、基本的な読みの単語・熟語を幾つか(多分40ヶ程度)と読みなれない漢字を幾つか(多分数十程度)理解することが必須である。これは英語でいうと基本 2000単語を覚えるようなもので、有無を言わさずに丸暗記するしかない。次に、返り点の規則について言えば、高校の漢文で習うような難しい規則や、レ点や一二三、以上の込み入った「上中下、甲乙丙、天地人」は、英語の文法規則(上記4.参照)の知識を活用すると全く不要であることがわかる。

あんなに難しいと感じていた漢文訓読がたかだか100字程度の漢字の意味と使い方が分かるだけで、すんなりと読めてしまうと聞いて何だか拍子抜けしないだろうか?あとは、上記 1.で述べたようにひたすら、自分の吹き込んだ漢文書き下し文を耳から聞いて標点本の文章を眺めるだけでよいのだ。

続く。。。
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