唐の太宗は、漢の武帝や清の康煕帝と並んで中国史上最高の名君の一人といわれる。太宗は唐の実質的な創建者であり、かつ貞観の治と言われる平和で豊かな時代を築いた。その政治は後世から鑑(かがみ)とされたが、その内容を記したのが『貞観政要』で、古来、帝王学の書として崇められた。その中でも有名なのが太宗の座右の銘ともいうべき「三鏡」の話であろう。
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『貞観政要』 (巻2)
「銅鏡を見れば衣冠を正すことができる。歴史を鏡とすれば政権の交替の原因がわかる。人を鏡とすれば、自分の利点、欠点が分かる。ワシは常にこの3つの鏡を見ることで過ちに陥らずにすんだ。ところが今、魏徴 を亡くしたことで、大切な鏡の一つを失ってしまった」
「夫以銅爲鏡、可以正衣冠;以古爲鏡、可以知興替;以人爲鏡、可以明得失。朕常保此三鏡,以防己過。今魏徴徴逝,遂亡一鏡矣!」
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唐の建国当時には、ここに挙げられている魏徴を始め、房杜と併称された房玄齢と杜如晦など多くの名臣たちが補佐した。その中でも、太宗がもっとも信頼していた魏徴が逝去した折、太宗は「自分は魏徴の諫言を多く聞き入れたので良治を行うことができたのだ」と回顧したのであった。こういった背景もあって、この太宗の三鏡のエピソードが有名になった。

ところが、このような名句にはだいたい出所があると考えて間違いない。つまり、三鏡の話は太宗が始めて考えついた言葉ではないのである。
まず、銅鏡と人鏡の対比に関していえば、中国の古典中の古典である『尚書』(書経ともいう)の)《周書・酒誥》にすでに「古人言えるあり」として「人無於水監。当於民監」(人は水において鑑みる無かれ、まさに民において鑑みるべし)との言葉が見える。当時は、姿見としての銅鏡はあまり普及せず、姿はもっぱら静水を鏡としていたということだ。この話は、春秋時代の各国の史的エピソードを集めた『国語』《巻19・呉語》にも引き継がれた。呉王・夫差が越王・句践を打ち破ったあと、有頂天になって驕りたかぶり、一挙に中原を制しようと意気込んだ。臣下の申胥は、「王其盍亦鑑於人、無鑑於水」(王、それ何ぞ人に鑑みざる。水に鑑みるなかれ)と呉王の無謀を諫めた。つまり、自分の驕った姿は、水ではなく人を観察することによって分かると説いたのであった。
「古鏡」に関していえば、『後漢紀』に「向使能瞻前顧後、援鏡自戒」(さきに、よく前をみて後ろを顧みしむるに、鏡をとりて自ら戒めとす)という句が見える。意味は「歴史的事実を鑑みて行いを正せ」ということだ。さらに『韓詩外伝』には「明鏡所以照形、往古所以知今」(明鏡は形を照らすゆえん、往古は今を知るゆえん)との言葉が見える。さらに歴史書に止まらず文学や哲学書にも「古鏡」の句は形を変えて現れる。楚の詩人・屈原は『楚辞』《離騷》に「瞻前而顧後兮」(前を見て、後を顧みる)という言葉を残した。
極め付きは、太宗のもっとも重要視した「人鏡」の出典は、中国古代に現れた人道主義者の墨子に現れる。
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『墨子』《非攻・中》
墨子がいうには古くかの言葉に「君子は水を鏡とするのではなく、人を鏡とせよという。水の鏡では姿を映すだけだが、人を鏡とすれば、物事の吉凶の推移を知ることができる」。戦いにおいて攻めることが利益をもたらすとかんがえたなら、かつて、そのように考えて滅びてしまった晋の智伯の故事に思いを馳せてみてはいかがか?
子墨子言曰:古者有語曰:「君子不鏡於水、而鏡於人。鏡於水見面之容、鏡於人則知吉与凶。」今以功戦為利、則蓋嘗鑒之於智伯之事乎?
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中国は、昔の方が今より良かったという尚古思想が過去から今に至るまで脈々と続いている。したがって、名句を聞いた時には、その名句に典拠がないかどうかを調べることが肝要だ。一句を知るというのは、点に過ぎないが、その点を手掛かりとして古典籍を調べていくと、次第に点同士がつながり、線、面と広がり中国の更なる奥深さを知ることができる。そういったことを実現するには、私が使っている「自作漢文検索システム」ようなものが必須であるが、残念ながら誰でも使える簡便なものは市販されていない。
【参照ブログ】
百論簇出:(第38回目)『自家製漢文検索システム』
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『貞観政要』 (巻2)
「銅鏡を見れば衣冠を正すことができる。歴史を鏡とすれば政権の交替の原因がわかる。人を鏡とすれば、自分の利点、欠点が分かる。ワシは常にこの3つの鏡を見ることで過ちに陥らずにすんだ。ところが今、魏徴 を亡くしたことで、大切な鏡の一つを失ってしまった」
「夫以銅爲鏡、可以正衣冠;以古爲鏡、可以知興替;以人爲鏡、可以明得失。朕常保此三鏡,以防己過。今魏徴徴逝,遂亡一鏡矣!」
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唐の建国当時には、ここに挙げられている魏徴を始め、房杜と併称された房玄齢と杜如晦など多くの名臣たちが補佐した。その中でも、太宗がもっとも信頼していた魏徴が逝去した折、太宗は「自分は魏徴の諫言を多く聞き入れたので良治を行うことができたのだ」と回顧したのであった。こういった背景もあって、この太宗の三鏡のエピソードが有名になった。

ところが、このような名句にはだいたい出所があると考えて間違いない。つまり、三鏡の話は太宗が始めて考えついた言葉ではないのである。
まず、銅鏡と人鏡の対比に関していえば、中国の古典中の古典である『尚書』(書経ともいう)の)《周書・酒誥》にすでに「古人言えるあり」として「人無於水監。当於民監」(人は水において鑑みる無かれ、まさに民において鑑みるべし)との言葉が見える。当時は、姿見としての銅鏡はあまり普及せず、姿はもっぱら静水を鏡としていたということだ。この話は、春秋時代の各国の史的エピソードを集めた『国語』《巻19・呉語》にも引き継がれた。呉王・夫差が越王・句践を打ち破ったあと、有頂天になって驕りたかぶり、一挙に中原を制しようと意気込んだ。臣下の申胥は、「王其盍亦鑑於人、無鑑於水」(王、それ何ぞ人に鑑みざる。水に鑑みるなかれ)と呉王の無謀を諫めた。つまり、自分の驕った姿は、水ではなく人を観察することによって分かると説いたのであった。
「古鏡」に関していえば、『後漢紀』に「向使能瞻前顧後、援鏡自戒」(さきに、よく前をみて後ろを顧みしむるに、鏡をとりて自ら戒めとす)という句が見える。意味は「歴史的事実を鑑みて行いを正せ」ということだ。さらに『韓詩外伝』には「明鏡所以照形、往古所以知今」(明鏡は形を照らすゆえん、往古は今を知るゆえん)との言葉が見える。さらに歴史書に止まらず文学や哲学書にも「古鏡」の句は形を変えて現れる。楚の詩人・屈原は『楚辞』《離騷》に「瞻前而顧後兮」(前を見て、後を顧みる)という言葉を残した。
極め付きは、太宗のもっとも重要視した「人鏡」の出典は、中国古代に現れた人道主義者の墨子に現れる。
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『墨子』《非攻・中》
墨子がいうには古くかの言葉に「君子は水を鏡とするのではなく、人を鏡とせよという。水の鏡では姿を映すだけだが、人を鏡とすれば、物事の吉凶の推移を知ることができる」。戦いにおいて攻めることが利益をもたらすとかんがえたなら、かつて、そのように考えて滅びてしまった晋の智伯の故事に思いを馳せてみてはいかがか?
子墨子言曰:古者有語曰:「君子不鏡於水、而鏡於人。鏡於水見面之容、鏡於人則知吉与凶。」今以功戦為利、則蓋嘗鑒之於智伯之事乎?
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中国は、昔の方が今より良かったという尚古思想が過去から今に至るまで脈々と続いている。したがって、名句を聞いた時には、その名句に典拠がないかどうかを調べることが肝要だ。一句を知るというのは、点に過ぎないが、その点を手掛かりとして古典籍を調べていくと、次第に点同士がつながり、線、面と広がり中国の更なる奥深さを知ることができる。そういったことを実現するには、私が使っている「自作漢文検索システム」ようなものが必須であるが、残念ながら誰でも使える簡便なものは市販されていない。
【参照ブログ】
百論簇出:(第38回目)『自家製漢文検索システム』