限りなき知の探訪

50年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第460回目)『ノンアルコールビールのような日本の儒教』

2025-03-30 11:08:03 | 日記
古代日本は朝鮮半島を経由して中国文化を受け取った、とりわけ仏教はその後の日本に文化的、思想的、政治的に多大な影響を与えた。しかし、ほぼ同時期(応神天皇の時代)に儒教も百済の王仁によって伝えられた。儒教は室町以降、とりわけ江戸時代に入ってからは徳川家康の政治的意向から大きな影響を与えることにはなったとはいうものの、当時の日本には、仏教ほどの大きな影響を与えなかった。何故だろうか? 仏教といえば、白鳳時代以降、数多くの仏教寺院が建築されたが、それに反して、儒教の建物は建てられなかったのではなかろうか。あるいは建てられたにしても保存努力がなされなかったので歴史に残らないのは、なぜだろうか?

こういった点を考える時、学者はえてして、仏教と儒教の教義のような理念的・形而上学的観点から理由を考えようとする。しかし、こういった観点からは人を納得させられる理由が導き出されることは稀だ。地に足のついた議論が必要だと私は考える。確かに、仏教と儒教は知的営みではあるとはいうものの、漢字など全く読めなかった当時の人々にとっては、教義などの、ちまちました形而上学的な議論は無縁であったはずだ。これは、戦後の日本でアメリカのポップミュージックやビートルズなどが若者の間で大流行した時の様子を思い浮かべれば容易に理解できる。つまり、当時の若者にとっては歌詞の内容や政治的メッセージ性よりも、激しいビートに満ちたエレキギターの響やリズムに合わせて体全体で歌う姿に遥かに強くしびれたのだ。これと同様に、当時の仏教がもたらしたものは、豪壮な寺院建築やきらびやかな服や行事に惹きつけられた。例えば天平勝宝四年(752年)に挙行された盧舎那大仏の開眼式の華やかなイベント風景は続日本紀には次のように記されている。

久米舞。楯伏。踏歌。袍袴等哥舞。東西發聲。分庭而奏。所作奇偉不可勝記。佛法東歸。齋會之儀。未嘗有如此之盛也。
(大意:フォークダンスを踊るグループもあれば、クラシックバレーも上演された。コーラス隊が東西に分かれて、演奏を競った。仏法がようやく日本に到来して、このような素晴らしいイベントが開催されたことはかつてなかった。。)




出典:東大寺金堂(大仏殿)昭和大修理

このように、大衆受けするような派手派手イベントを開催して勢力を拡大した仏教に対して、儒教には綺羅びらかさが全くなかった。ひき付けるものといえば、中国の律儀なモラルだけであった。また仏教は、日頃の苦しいい生活を強いられている大衆に、「今世がダメでも素晴らしい来世がある」と麻薬的な幻惑をふりまいたが、儒教は専ら現世を正しく生きよとの教えを広めようとした。しかし、そのアピールは日本人には届かなかった。というのは、日本人は当時も今も現世的な考えが浸透しているため、儒教の堅苦しい教えだけでは日本人の土着的な現世思想を置換するだけの魅力を示すことが出来なかった。

さらには、儒教は日本古来の伝統との衝突があった。例えば、近親結婚に対する禁忌は中国では非常に厳しかったが、その思想は日本にはフィットしなかった。日本書記などに書かれているように、天皇家ですらいとこ婚や異母の兄妹婚がタブー視されていない。つまり、儒教の根本理念である「血統」は日本人には全く理解できなかったのである。

結局このような経緯で、日本では古代から現在に至るまで、儒教が大衆意識に浸透していないと言っていいだろう。その一番の証拠が、日本には儒教由来の祭りが存在しないことである。元旦から始まって、除夜の鐘に至るまで、伝統的な祭りや行事というのは、
 1.土着的(つまり神道)なもの
 2.仏教のもの(盆踊り)
 3.中国伝来の宮中の年中行事(ひな祭り)
のいずれかであって儒教由来のものは、私の調べた限りでは見つからなかった。

このように見ると、日本が儒教的といわれるが、私は疑問に思う。儒教は確かに日本の知的伝統の一部であるものの、決して日本人の心の奥底にまでは浸透していなかった、そして現在もなお浸透していないと思う。多少諧謔的に表現すると、「日本儒教とはノンアルコールのビール」、つまりそれらしい味がするが、全く酔えないものだ、ということだ。
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沂風詠録:(第369回目)『かつてのヨーロッパの低い識字率について』

2025-03-23 09:38:06 | 日記
以前から疑問に思っていたことがある。それは、近世(18、19世紀)の日本は高い識字率を誇っていたのに対して、同じ頃のヨーロッパでは非常に低い識字率であったことだ。この疑問は、文字数の差と逆比例しているところからくる。ヨーロッパ諸国の文字数は、大文字、小文字といくつかの記号を合わせてもたかだか100字に過ぎない。一方、日本語には、ひらがな、かたかなだけでもすでに100字がある。それに加えて日常生活で必須とする基礎的な漢字は数百文字もある。、文字数からすると日本の方が遥かに多いにも拘わらず、どうして日本の識字率はヨーロッパより高かったのだろうか?

この疑問は、江戸期に日本を訪れた西洋人も感じていたようだ。具体的には、日本では庶民も本を読むことを間近にみて大変驚いている。例えば、ロシアの軍人、ゴローニン(Golovnin、1776‐1831)は1811年に千島列島を調査中、幕府の役人に捕らえられて、2年ほど牢獄に閉じ込められていた。その間、牢獄の見張り番が常に本を読んでいたと次のように証言する。

日本人は殊のほか、読書を好む。平の兵卒さえも、見張りのときもほとんど休みなしに本を読んでいる。しかし彼らの読み方はいつも、歌うように声を伸ばして音読し、我が国(ロシア)で葬式のとき、聖書の詩編を唱えるに似ているので、大変に耳障りで不愉快であった。 『日本俘虜実記』徳力真太郎・訳 講談社学術文庫(下、P.17)

日本では民間の教育機関である寺子屋で庶民の子供に読み・書き・算盤を教えていたので、門番ですら本が読めたということだ。



しかし、どうして当時、産業革命によって国力が拡大していた西洋より日本の方が遥かに高い識字率だったのだろうか。以前から抱いていたこの疑問に関して、いろいろと調べると3つのほどの理由が浮かんできた。

1.経済的余裕のなさ

江戸時代から識字率が高いといわれていたのは都市やその近郊部分であって、やはり山奥などの農村では、イギリス人旅行家のイザベラ・バードの証言にあるように、識字率はかなり低かったようだ。つまり経済的に余裕のない世帯では子供に十分な教育を施すことはできないということは明らかだ。この点では国力が伸張していた18世紀の西欧においてすら、労働者階級は経済的余裕は全くなかったことは、出口保夫の『私の英国読本』の次の記述からも分かる。

ジェイムズ・ラットキンという、のちに十八世紀の大出版社を築いた立志伝中の人物がいるが、この人の自伝によると、生家は貧しい農家だったらしいが、両親は朝から晩まで働きどおしで、家には兄弟が七人あって、食事はブロスというおかゆを食べさせてもらうのが精一杯、じゃがいもはご馳走だったと書いている。服は着たきりすずめ、靴は破れたままである。(中略)イギリスというと、昔からたいそう豊かな社会であったように思いがちなのは、われわれの一方的誤解である。十八世紀ではまだ、貧乏の子だくさんは、ごく普通の話だったのだ。朝から晩まで働きどおしでは、子供の面倒などろくに見ているひまはない。(中公文庫、P.207)

このような状況では子供に教育などつけられるはずがない。ヨーロッパの中でも文化レベルで進んでいたイギリスですらこのような状況ならましてや東欧や南欧の教育レベルは推して知るべしである。

2.ラテン語の混入

ヨーロッパでは中世から近世にかけて教育といえば、ラテン語を読み書きすることと等価であった。つまり、話し言葉は土着語、書き言葉はラテン語と、完全に別個の2言語体系が1500年以上も続いた。文人たちの書き言葉ではギリシャ語やラテン語の単語を多用した。それで、たとえ文字自身が読めたにしても意味は理解できないのが西洋の文章だったのである。また、西洋ではは社会階層によって使う語彙が大幅に異なるので、庶民には知らないことばが頻出する書物の内容に興味がもてないのは論を待たない。一方、日本では、確かに中国古典や仏教書などは漢文で書かれていたものも多くあったが、庶民レベルの話し言葉で書かれた本も数多く出版されていた。世にいう黄表紙や通俗本である。ゴローニンが「大変、耳障り」と不平を漏らしたのがこういった本であろう。つまり、ある程度の文字が読めると、内容は分かりやすいので、たとえ読めない文字がいくつかあっても、文章自体は読んで理解することが可能であった。

3.綴り字の判読困難

日本では、江戸時代に板に文字を彫る整版で、大量の本が印刷されていたが、かなり読みやすい字体で彫られている。実際、江戸期の版本を見ると、庶民向けの本はひらながと少数の漢字 ― 推計で総計100字程度 ー で書かれているので、少し訓練すれば、庶民でも読めるようになるのは難しくはなさそうだ。

それでは、30文字程度でしかない、ヨーロッパでも事情は同じではないかと、私はずっと思っていたが、暫く前にロシアについて調べていた時、インターネット検索でロシアの手書き文字を見て、その判読の困難さに腰を抜かしてしまった。




今から200年ほど前の時代の教育環境を考えてみると、先生の手書きから文字を習うのであるからこのような判読困難な文字を習わされたら、相当専門的な訓練を受けないと文字が読めないはずだ。このような文字をベースに教育されたら、文字が読めるようにならないのも無理はないと感じる。ロシアの後進性が今に至るまで西欧や東欧よりずっと長引いたのも、この手書き文字の判読困難性も一因であるように私には思える。
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想溢筆翔:(第461回目)『仏陀のおしえに開眼』

2025-03-16 11:35:45 | 日記
最近、たまたま手に取った一冊の本から、再度、仏教について考えなおすきっかけを得た。というのは、いろいろな本で示される仏教とは、諸行無常、空、業、因縁などの形而上学的な文句を多用して説明されるが、庶民にとっては、それらの語句の意味が判然としない。もう少し、親切な説明はないかと捜すと、「四聖諦」という語句で、世の中の枠組みを段階的に次のような説明される。
 1.この世は苦で満ちている。
 2.苦は欲望が原因
 3.欲望を捨てるのが魂を救済する道
 4.救済には八正道を実践せよ

この最後に八正道、別名「中道」が示される。これは自己の魂を救済するという目的を達成するための最終手段という位置づけになる。その8つとは

 正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定 

これら8つは平たくいえば、通常道徳の実践に他ならない。とすると、仏教の教えは、図式化すると次のようにまとめられることになる。
 1.世の中の実態は、四聖諦でしめされる。
 2.この苦しい娑婆(シャバ)から脱出するために八正道を実践する。
 3.そうすると、苦からの救済つまり、解脱し涅槃に至る。
 4.解脱するともう二度とこの苦しい娑婆に生まれてこなくてよくなる。

つまり、八正道をまじめに実践すれば、いつか最終到達目標である、「業を滅し、輪廻を断ち切る」ことができる、と示唆する。これが仏教の本筋とすると、付随的に、インドの固有風土に由来する「非暴力、非殺生」という概念が仏教には付随するが、これは輪廻転生との関連で考えられた理念であるのは明白だろう。


さて、仏教をこのように考えて納得していた私であったが、先日本棚を整理していたら、たまたま40年ほど前に読んだ友松圓諦『仏陀のおしえ』(講談社学術文庫)が出てきた。当時は、仏教のなんたるかを理解していなかったので、この本なら疑問が解けるだろうと、期待して読んだ(と思う)。ところが本の後ろページに書かれていた読後感は「案に反して、仏教とはなにか、を解説してくれている個所が見当たらない」とある。つまり、当時の私には肩透かしをくった内容であったということだ。それで、今回もあまり期待せずに再読したのであったが、読み進むうちに、仏教の本質や、日本の伝統的な仏教のだらしなさを忌憚なく鋭く指摘している非常に立派な本だと分かった。そして上に述べた私の仏教理解は、実は仏陀が本来目指したものではなかったことも分かった。

つまり、最終目標である「現世の苦しみから解脱し涅槃に至る」という思想は有閑階級のたわごとだというというのが友松氏の指摘だ。つまり、仏教は現世逃避の教えではなく、利他行を実践することを推し進める現世救済の思想であるということだ。この観点に立つと、念仏や写経、法要などの伝統的な仏教行事は、空疎で無意味だ、ということになる。結局、このような空疎な仏事だけに堕したため、日本仏教は現在のように全く精彩を喪失したという指摘だ。私は、友松氏のこと指摘にようやく「仏陀のおしえに開眼」させられた。

内村鑑三は、日本のキリスト教伝道において無協会主義を唱えたため孤高の立場に追いやられた。仏教における友松氏は内村と同じような立場だと私には感じられる。たとえ、世間一般常識とは異なっていても、本質をえぐりだす鋭敏な思考力とそれを主張する勇気に満ち溢れたこの『仏陀のおしえ』は現代日本人に必読の書といえる。
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【座右之銘・147】『少而好学、壮而好学、老而好学』

2025-03-09 09:57:34 | 日記
漢文に興味のある人なら、一度ならずとも『言志四録』という本の名前を聞いたことがあるだろう。この本には幕末の儒者である佐藤一斎が長年書き溜めた箴言の数々が収められている。昌平黌の儒官である佐藤一斎は表向きは朱子学者であるものの、心情的には陽明学者であったと言われている。それもあってか、幕末に名を成した多くの弟子(山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山など)が参集した。

この『言志四録』の中でも最も有名なのが、『言志晩録』(第60条)の次の文句であろう。
「少而学,則壮而有為。壮而学,則老而不衰。老而学,則死而不朽」
(少にして学べば壮にして為すあり、壮にして学べば老いて衰えず、老いて学べば死して朽ちず)



私は社会人になって暫くして佐藤一斎や『言志四録』のこの言葉を安岡正篤の書で知った。始め、『言志四録』は高名な儒者の書であるから近づき難い文句が多いのか、と思ったが、案に反して、個人的な弱さも隠さずに書いてあったのには驚いた。『言志四録』のどこに書いてあったか思いだせないが、佐藤一斎は、幼年時代から数多くの書を読み、記憶したが後年になって、かつて読んだ本を開いてみても忘れていることが多く、呆然としたと悔恨をにじませた告白をしている。私は、長らく口調のよいこのことば「少而学。。。」は佐藤一斎が個人的な感想に基づいたものだと思い込んでいたが、あるきっかけで、それが中国古典の言葉を改変したものであるということを発見した。

ある時、国訳漢文大成の経子史部で、中国古典を読んでいる時、『説苑』(巻3)の次の句に出会った。

===============

(原文)晋平公問於師曠曰:「吾年七十欲学、恐已暮矣。」師曠曰:「何不炳燭乎?」平公曰:「安有為人臣而戯其君乎?」師曠曰:「盲臣安敢戯其君乎?臣聞之、『少而好学、如日出之陽;壮而好学、如日中之光;老而好学、如炳燭之明。』炳燭之明、孰与昧行乎?」平公曰:「善哉!」

(大意)晋の平公が師曠に問うた:「ワシは70歳になった。これから学問したいと思うが、もう遅いだろうか?」師曠が答えていうには「燭(松明)でもいいのではないでしょうか?」平公は、問いをはぐらかされたと思い、怒って「人の臣下が君主に対してからかっていいのか?」となじると、師曠は平然として「どうして君主をからかいましょうか? 私は次のように聞いております。『少にして学を好むは、朝日のごとし。壮にして学を好むは、日中の太陽のごとし。老にして学を好むは、燭の明るさのごとし。』燭の明るさは、真暗と比べるどうでしょうか?」この答えに平公は「よーし!」と喝采を挙げた。
===============


晋の平公は、70歳になった。当時としては非常な高齢で、明日にでも死んでもおかしくないが、それでも学問をしても無駄にならないか、と楽師である師曠に問うた。それに対して、師曠は老境に至ってもなお、学び、知を増すのはいいことだ、と答えて平公の不安を解消し、勉学を励ました、というのがこの一節である。私は、『言志四録』のように単なる口調のよい言葉を唱えるのでなく、文句の背景までvividに叙述した『説苑』の方を好む。

この一句こそリベラルアーツ道のスローガンそのもの、と言っていいだろう。
また、師曠の言葉は、さきごろ平公と同じく70歳になった私個人への励ましでもある。
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想溢筆翔:(第459回目)『世紀の大失策 ― 間に合わせの共産党が居座る!(後編)』

2025-03-02 10:34:48 | 日記
前編

【2.中国共産党の取った具体的な政権奪取の方法とは?】

第二次大戦後、ソ連が社会主義を世界にばらまいた。しかし、その発展はマルクスが予測したような資本主義が発達した国とは真逆の資本主義が未発達の国ばかりであった。その一つが中国で、1949年に毛沢東が建国した国名は「中華人民共和国」といい、あたかも人民が国家の主体であるような幻惑を抱かせる名前だが、実際は、共産党が国を主導することを国是とした国である。その後、1980年代後半から1990年代前半にかけて社会主義国が次々と崩壊する中にあっても、中国は依然として共産党の支配が揺らぐことがなく、現在に至っている。

このため、世間では中国は共産主義国家だという認識が定着しているが、これは誤解も甚だしい。中国社会の本質は「社会格差を是とし、他人に対する思いやりを欠如した」点にある。社会格差を是とすることで、支配者の権益を護ることを「社会秩序を護る」という美名にすりかえて社会秩序の安定に全力を尽くしてきた。つまり、中国は大昔から、現在に至るまで共産主義の理念である「経済的平等観」など全く持ち合わせていない国柄であるのだ。その見せかけの秩序が崩壊する時が大動乱を伴う王朝交替であった。

毛沢東は、中国の歴史書からこのような時にどうすれば良いかを学んでいた。『風暴十年』(P.107)には次のような記述が見える。
「...毛沢東の中国に関する知識は、政治方面では主として資治通鑑からである。この書物は帝王に統治の方法を教えるもので、歴代の帝王の得失を比較論評して、正確な統治術を指示している。彼の私生活に接近している人の話によると、彼は資治通鑑を手離したことがないという。」

このブログでも何度も触れているように私は『資治通鑑』を通読したことがあるので、毛沢東が資治通鑑から動乱を制する戦術を会得した、という点は非常に納得感がある。つまり、毛沢東は社会に動乱を引き起こす最大の原動力が一般大衆であることを確信していた。その上、一般大衆を動かす、最大の要点は「腹いっぱいに食わせてやる」という釣り文句であることも熟知していた。つまり、食うや食わずで、明日の食い扶持にも困っている大衆には、革命ごっこに必要な大義はや正邪の議論は全く不要であるということだ。



そうすると、問題の最大のポイントは
「どのようにして大衆を食わせることができるか?」
である。

この時、目をつけたのが、社会の上部1割の地主階級であった。従来、中国社会の安定を曲りなりにも保ってきたのはこの地主階級が社会動乱に際して重しの役割を果たしてきたからに他ならない。階級闘争理論から言えば、地主階級は確かに搾取階級であるが、社会制度上では、たとえ幾分かの偽善を含むとはいえ、彼らが道徳的な指導的役割を果たしていたことは間違いない。それ故、地主階級は地元の名士であるだけでなく、全員とはいわないが、かなりのパーセンテージが地元民から頼りにされる政治家でもあったわけだ。

それでも、収奪ターゲットとして地主階級を解体しようという方針を定めた共産党は、無理やりにでもそういった善良な地主でも悪者にしたて挙げる必要があった。その奸計が『風暴十年』(P.123)には次のように記述されている。
「その土地で農民たちに悪く思われていない地主は、別の郷村に送る。顔見知りでもなく、その経歴も知らない群衆は、個人的感情はないし事実も知らないから、台の上にあげられた地主の罪状をきいても、それほど同情心は湧かない。」

このようにして、共産党は次々と郷村の頭脳部分を叩き潰していって、その財産を根こそぎ取り上げて、大衆を「腹いっぱい食わせて」鉄砲の弾除けとして、勢力を拡大していった。これが中国共産党が天下をとった方策だった、と『風暴十年』の著者の周鯨文は述べる。

私は『本当に残酷な中国史』ではこの点を指摘して次のように述べた。
*****************
毛沢東の読み方から分かるように、中国における史書(資治通鑑や二十四史)とは過去にあったできごとを書き留めた備忘録ではなく、また日本人の考える歴史――つまり政治体制の時代的変化を知ることや学術論文を書くための資料――ではなく、行動の指針となる人生の指南書であるのだ。もっとも私たちにとって、資治通鑑を読むというのは政敵を倒すという実用(?)的な目的ではなく、中国の隠された政治力学を読み取るという目的がふさわしい。中国の政治や社会は表面だけをみて、近代民主主義的な価値観から判断しても正しく理解できない。中国の政治や社会を動かしている根本理念は彼らの伝統的な価値観であるのだ。
 《資治通鑑から何を学び得るのか?》(P.25-26)
*****************

『風暴十年』は邦訳で400ページにもなる本であるが、全編、これ現代版資治通鑑といっても過言でないほど中国の伝統的な奸計のかずかずが、具体的事例を伴って活写されている。中国共産党の真の姿を知るには必読の書である。

《了》
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想溢筆翔:(第458回目)『世紀の大失策 ― 間に合わせの共産党が居座る!(前編)』

2025-02-23 14:51:27 | 日記
現在日本では全く名が知られていないが、中国共産党の真の姿 ―それはとりも直さず、悲惨な実態であるが ― を知るために必須の本がある。それは、元中国民主同盟副秘書長であった周鯨文が書いた『風暴十年』(時事通信社)である。

数年前にこの本を知り、早速購入して読んだがまさしく私が求めていた内容がぎっしり詰まっていた。つまり、この本には次の2点が史実により克明に記述され、その内容も誇張や妄想がないように私には思われる。

1.「何故、中国共産党が政権奪取に成功したか?」 裏返せば、「なぜ、中国人は国民党を見捨てたのか?」
2.「中国共産党の取った具体的な政権奪取の方法とは?」


筆者の筆運びは、事実を淡々と記述しているようには見えても、中国共産党に対する激烈な反感、憎しみは行間に溢れでている。



【1. 何故、中国共産党が政権奪取に成功したか?】

上記の1.に関して、当時の政治指導者層の共産党に関する意見について驚いたのは、国民党があまりにだらしない(賄賂政治)ので、間に合わせに共産党に政権を取らせて、お手並みを拝見してみようか、と考えて、国民党への積極的支持をとりやめ、中国共産党への消極的支持に回ったというくだり(P.397)であった。

この考えの根本には、中国伝来の考え方が反映されているように私には思える。ここでいう「中国伝来の考え」というのは、《春秋公羊伝》「黄河は千里に一回ぐらいは曲がっている」(河千里而一曲)の思想だ。つまり、世の中は常に正道が正しいという訳ではなく、正道から外れることもあるが、それは、「革命思想」と危険思想ではあるとはいうものの、社会発展過程においては許容の範囲内であるという柔軟な考えかただ。

ただ、このような、「間に合わせの共産党政権容認」という気まぐれな政治判断が、案に反して、強固な居座りを許してしまい、現在の中華人民共和国の悲惨な実態を生んでしまった。このことは当の共産党員も含め、当時の誰もが予見できなかったということだった。

続く。。。
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沂風詠録:(第368回目)『極上の知識庫 ― Britannica 9th と 11th』

2025-02-16 10:08:41 | 日記
このブログでも既に何度か紹介しているが、Encyclopedia Britannicaは英語でかかれた最高の百科事典であるが、その中でもとりわけ第9版(9th)と第11版(11th)が頭抜けている。

Wikipediaの項には9thには"high point of scholarship"(学識の極点)という名辞が献ぜられている。また、11thには "Another high point of scholarship and writing" と称されている。つまり、9thと11thは、内容の素晴らしさは甲乙つけ難い、ということだ。ただ、11thには "more articles than the 9th, but shorter and simpler" との語句が続く。つまり、11thは意図的に説明を簡潔にしたという。その意図は、推察するに全体のページ数を増加させることなく、9thより、多くの項目を掲載したということだろう。

この点は、中国の24史の『旧唐書』と『新唐書』の関係を彷彿とさせる。というのは、新唐書は、旧唐書の古い文体(四六駢儷体)を欧陽脩が主導する古文で書き換えたのであるが、『新唐書』には「記述は旧唐書より増やして充実させたが、一方では文章簡略にして読みやすくした」(其事則増于前、其文則省于旧)と誇らしげに述べている。(曾公亮の『進唐書表』)ただ、私の好みからいうと、新唐書の記述は、素っ気なく平板な感じがする一方、旧唐書の文章は情緒豊かであると感じる。



具体的な例を挙げてみよう。

ギリシャにディノクラティスという建築家がいた。アレクサンドロスの命で、エジプトのアレクサンドリアに碁盤目状の都市を計画したことで有名だ。ディノクラティスの行状をBritannicaの9thと11thのそれぞれの記述を比べてみよう。先ず、11thでは次のように書かれている。

********** Britannica 11th、8巻 P. 277 **********
DINOCRATES, a great and original Greek architect, of the age of Alexander theGreat. He tried to captivate the ambitious fancy of that king with a designfor carving Mount Athos into a gigantic seated statue. This plan was notcarried out, but Dinocrates designed for Alexander the plan of the new city ofAlexandria, and constructed the vast funeral pyre of Hephaestion. Alexandriawas, like Peiraeus and Rhodes (see Hippodamus), built on a regular plan;

【大意】ディノクラティスはギリシャの建築家で、アレクサンドロス大王の時代に生きた。アトス山の彫刻を大王に勧めたが、実現せず。ピレウスやロドスのような計画都市のアレクサンドリアを設計した。
****************************************

ここにはディノクラティスの建築家としての業績は十分に説明されているものの、人物像が彷彿としない。一方9thの記述はまるで講談話聴いているようだ。

********** Britannica 9th、7巻 P.243 **********
DINOCRATES (called by Pliny Dinochares), a Greek architect, who lived in the reign of Alexander the Great.

He applied to that king's courtiers for an introduction to the Macedonian king, but was put off from time to time with vain promises. Impatient at the delay, he is said to have laid aside his usual dress, besmeared his body with oil in the manner of an athlete, thrown a lion's skin over his shoulders, and, with his head adorned with a wreath of palm branches, and a club in his hand, made his way through a dense crowd which surrounded the royal tribunal to the place where the king was dispensing justice.

【大意】ディノクラティスはギリシャの建築家、アレクサンドロス大王の時代に生きた。何度も大王へのお目通りを願ったがかなえられず。とうとう、待ちきれず作業服を脱ぎ捨て、拳闘家のように全身をオリーブオイルで塗りたくり、ライオンの皮を身に着け、棍棒を手にしたて派手な格好で大王の面前に進みでた。

Amazed at the strange sight, Alexander asked him who he was. He replied that he had come into the royal presence to make known a scheme which would be worthy of the consideration of the greatest monarch in the world. Out of Mount Athos, a mountain rising like a pyramid to a height of 6780 feet topped with a cone of white limestone, he proposed to construct the gigantic figure of a man, holding a large city in his right hand, while in his left he held a gigantic tank large enough to contain all the water from the brooks in the peninsula.

大王は、その奇妙な姿に驚いて、誰だと問うた。ディノクラティスは、大王に相応しい計画たあると言って、アトス山の削ってピラミッド並みの巨大な像を作ることを提案した。

The story goes that the king was not displeased with the idea, but, as he thought it chimerical, it came to nothing. Alexander, however, was so delighted with the man, and with his bold and daring conceptions, that he carried Dinocrates with him when he went on his campaigns against Darius. He was employed by the king to design and lay out the city of Alexandria.

大王はまんざらでもない案だと誉めたものの、絵空事とみなしたが、ディノクラティスの大胆な気性を気に入り、ペルシャ侵攻に伴っていった。そして、アレクサンドリアの都市計画を任じた。
****************************************

ディノクラティスは、長い間アレクサンドロス大王に近づく機会が得られず、しびれをきらした。そこで、一計を案じてわざと奇抜な恰好をして現れたので、大王の目で止まった。それで、早速、大王の派手好みに合わせたアトス山の大改造のホラ話で、見事、大王の琴線を掴んだ、ということだ。確かにこのような話は、無くとも別段ディノクラティスの歴史上の業績の評価には無関係であるが、それでもこのような話を載せておくことが必要と9thの編者は考えた。

歴史書では、司馬遷の『史記』にはこのようなあっても無かってもよいような話がふんだんに盛り込まれている。歴史から、人の生き方とか、言動のパターンを知るにはこのような話は欠くべからざる要素と私は考える。この意味で、11thは世評では学術的には9thより優れているかもしれないが、私個人としては、素っ気ない記述の11thより、文化的な馥郁とした香りが漂う、一見、冗長な記述を厭わない9thの方を一層高く評価するのである。

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【参考】DeepLによる和訳を下に掲げる。現在の機械翻訳(AI翻訳)は普通の人間より遥かに上手に翻訳できる。

【11th】ディノクラテス(DINOCRATES)は、アレクサンドロス大王の時代の、偉大で独創的なギリシャの建築家である。彼は、アトス山を巨大な座像に彫り上げる設計で、その王の野心的な心を魅了しようとした。この計画は実現しなかったが、ディノクラテスはアレクサンダーのためにアレクサンドリアの新都市の設計を行い、ヘファエスティオンの巨大な葬儀用の火葬場を建設した。アレクサンドリアは、ペイラエウスやロードス島(ヒッポダマスの項を参照)と同様、規則正しい計画に基づいて建設された;

【9th】ディノクラテス(プリニウスはディノチャレスと呼んだ)は、アレクサンダー大王の治世に生きたギリシャの建築家。

アレクサンドロス大王の廷臣たちにマケドニア王への紹介を申し込んだが、何度も約束を反故にされた。その遅れに業を煮やしたアレクサンドロスは、普段の服装を脱ぎ捨て、スポーツ選手のように体に油を塗り、ライオンの皮を肩にかけ、頭には椰子の枝の花輪を飾り、手には棍棒を持って、王が裁きを下している場所まで、王宮を取り囲む群衆の中を進んだと言われている。

その異様な光景に驚いたアレクサンダーは、彼に何者かと尋ねた。彼は、世界で最も偉大な君主の検討に値するであろう計画を知らせるために、王の前に現れたと答えた。彼は、白い石灰岩の円錐形の頂上にピラミッドのようにそびえ立つ高さ6780フィートのアトス山から、右手に大きな都市を持ち、左手には半島の小川の水がすべて入るほどの巨大な水槽を持った人間の巨大な姿を建造することを提案した。

国王はその考えを快く思わなかったが、空想的なものだと考えたため、実現しなかったという話である。しかし、アレクサンダーはディノクラテスの大胆な構想を気に入り、ダリウスとの戦いに赴く際にはディノクラテスを同行させた。ディノクラテスは王に雇われ、アレクサンドリアの都市を設計した。
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想溢筆翔:(第457回目)『日本人にはとうてい歯がたたぬ中国人の策略』

2025-02-09 10:14:38 | 日記
トランプがアメリカ大統領に返り咲いてから再び、米中対立が先鋭化しそうな気配が濃厚になってきた。ただ、トランプの大言壮語は相手を無理やりにでも交渉の場にひきずりだす戦略としては、なかなか有効な手段で、中国にとっては厄介この上ない。もっとも中国で発明されたボードゲームの囲碁では、「石の音のする反対側を打て」という格言が昔からある。この言葉の意味は「相手の本当の狙いはたった今、石を置いた場所ではない」ということだ。もっとも囲碁は基本的に獲得した陣地の広さを競うゲームであるので、相手が石を置いた所はすでに陣地獲得のメリットが少ないという所だということは言える。囲碁の場合は少しぐらい相手のいいなりになったところで、挽回できるチャンスはいくらでもあるが、国際関係ではそうは行かない。近代以降、日本は中国側の発言や政策を真に受けて腹立たしいほどの損害を受けている。『孫子』に代表されるように、中国人が重視するのは、正攻法で相手を攻めるのではなく、策略や奇策を用いて、労せずして相手を弱らせ、利を得ることである。

このような策略思考の中国と付き合うにはどうすればよいのだろうか?それは中国の策略の伝統を、概念的ではなく実例ベースでしっかりと知ることにある。この時、正攻法の策略への対応だけでは不十分だ。囲碁や将棋ではハメ手という手段がある。おとりの餌におびき寄せて陥れるのだ。ハメ手を知るのは、人を陥れるためでなく陥れないよう自衛するためだが、中国との付き合いでは正攻法の策略だけでなく、ハメ手のような汚い策略まで知っておくことが肝要である。そういった目的にふさわしい書『智嚢』を紹介しよう。

今から400年前の明末に、文人の馮夢龍は身近に見聞きした話や歴史書の中からえりすぐった策略を集めて『智嚢』という本を出版したが、すぐさまベストセラーとなった。次の清の時代になってからは爲政者にも読まれた。清の康熙帝などはあまりにもすばらしい内容に逆に恐れを抱き「このような策略が世間の人に知られてはまずい」(国之利器、不可示人)とばかり、出版を禁止したほどだ。最近では、毛沢東や習近平も読んでいることでも有名な本である。『智嚢』は江戸時代にすでに日本国内にも輸入されたものの、現在では全く見向きもされなくなり、一般に入手できる関連図書もわずか2冊しか存在しない。しかし、康熙帝が懸念するように智恵の粋が詰まっているこの書を読めば中国人の策略の裏まで知ることができる。私は『智嚢』の原文を読み、「まさしく、これは中国策略大全!」だと悟った。そして、中国の策略に翻弄され続けている日本人は是非とも読むべきと考え、興味深い部分を抜粋して訳して、2022年にビジネス社から次の本を出版した。
『中国四千年の策略大全 ― 『智嚢』(ルビ・ちのう)を読まずに中国人が分かるか!』

【参照ブログ】
  智嚢聚銘:(第1回目)『中国四千年の策略大全(その1)』



さて、『智嚢』から日本人にはとうてい思いつかないような奇抜な策略を幾つか紹介しよう。初めは後漢の策士、虞詡。

虞詡が武郡の太守として赴任した時、遊牧民の羌族が攻めてきた。味方の兵はわずか3000人に過ぎず、敵の羌族の兵は1万人を超えていた。そこで、城の兵を全部集めて、東門から出て城壁を巡って北門から入るよう命じた。そして、北門から入ってくるとすぐさま服を替えさせて東門から出て城壁を巡らせた。何度か、このようなデモンストレーションを行ったので、羌族は城の中に大勢の兵がいるように錯覚し、非常に怖れた。虞詡は敵が退却する頃合いを見計らって、500人ばかりの兵士に浅瀬で待ち伏せさせた。退却する敵を襲うと、敵は虞詡が予測した道を逃げていったので、待ち伏せしていた兵士と共に挟撃して、大勝した。【兵智/832】

少ない兵隊の服を何度も替えさせて、とてつもない人数がいるように見せかけた策略は一度しか使えない手かもしれないが、相手を怖気づけさせるに十分な効果を発揮した。

次は戦乱が絶えない五代十国(10世紀)の話。

劉鄩が守っていた兗州城は敵に包囲され、外からの援助が絶えた。城の陥落も時間の問題だと考えた副将の王彦温はある日、こっそりと城を抜け出して敵陣へと逃走した。それを見た守備兵もパニックになり続々と逃げ出した。それを見た劉鄩は城壁の上からわざと穏やかな口調で「王彦温よ、任務の遂行に役に立たない者は連れて行くでないぞ!」と大声で呼びかけた。城を取り囲んでいた敵兵は、王彦温は投降してきたのではなく、秘密の任務を受けて出てきたものと思い、王彦温を即座に斬り殺した。それを見た守備兵たちは、もはや逃亡のことなど考えなくなった。【兵智/838】

このような策略は軍人や悪人なら考えそうなことでも、まさか仁の理念を身に着けた儒者は悪辣な策略は考えないものだ、と考えるかもしれないが、どっこい中国ではそういった甘い考えは通用しない。科挙に合格し、政治の第一線に立って国家を主導した立派な儒者とて例外ではない。蘇軾は宋代の詩人・書家として有名であるが高級官僚として活躍した。おおらかな性格で現代に至るまで信奉者が絶えない。しかし、そのような温厚な人でも次のようなえげつない策略を考え出した。

蘇軾が密郡の司法長官であった時、盗難が発生したが、犯人が捕まらなかった。それで、警部に屈強な警官数十人をつけて捜査させたところ、警官たちは目に余る乱暴な振る舞いをした。ある民家に目をつけ、朝廷が禁じている物が隠されていると、ありもしない言いがかりをつけて押し入った。とうとう、一人の警官が言い争いのあげく家人を殺してしまったが、とんでもないことをしたと恐くなって逃走した。被害にあった家が書面で蘇軾に訴えたが、蘇軾はその訴えの紙をほうり投げて「こんなことはあるはずがない」と取り合わなかった。逃走していた警察官はそれを聞いてほっとして職場に戻った。ころあいをみて蘇軾はその警察官を秘かに呼び出して殺した。【上智/138】

蘇軾のような人徳のある儒者でも世間を欺いた、というこの話はかなりショッキングだろう。警官の殺人にしても、言い争いの末に偶発的に起こったことで、けっして凶悪な犯罪ではない。警官にはそれ相応の言い分もあったことだろう。蘇軾が被害者の家の主張を無視したということを知った警官は自分の罪は重くないと考え、自発的に職場に戻り、まんまと蘇軾の策略にハメられた。相手を油断させて捕らえて物事を丸く納めるのが中国式の政治の常套手段だ。とすれば、1989年の天安門事件で学生たちが民主化を求めて騒動を起こしたときに、すぐさま退治しなかったため、学生たちは「政府はくみ易し」と誤解し、とどんどんと集結した。そうして、集団の規模が最高潮に達した瞬間を目がけて、鄧小平は一挙に戦車を突入させて地面に座りこんでいた学生たちを踏みつぶさせた。このような解決策は中国では「あり」なのだ。

ところで、近年の中国ドラマは製作費に数十億円をかけた大作が次々と放映されている。『如懿伝』、『瓔珞』、『明蘭』、『宮廷の諍い女』などは本物の宮廷と見まがうばかりの豪華なセットで、出演俳優もスター揃いである。それはさておき、いずれのドラマも善人も悪人も関係なく、巧妙な策略をめぐらす。それも、我々日本人には想像もつかないようなトリックで相手をハメる。たわいもない会話や恋愛もののドラマでは中国の観客は満足しないのであろう。国民性の違いを如実に感じる。

私は今までに論語を幾度となく読んでいるのだが、《顔淵編》に出てくる
「浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣」(浸潤の譖、膚受の愬え、行われざる、明というべき。)
の文句にある「浸潤之譖」という意味がどうも実感を伴わず、大したことを言っていないような気がしていた。しかし、中国ドラマを見ていると、シェークスピアのオセロに登場する策略師のイアーゴのように、少しずつ疑念を膨らませて、相手を陥れていく策略が鮮やかに演じられている。「なるほど、こういうふうに人を誘導していくの技を『浸潤之譖』いうのか!」と始めて納得したのであった。日本では、少なくとも私の近辺では、一生涯経験することのないような巧妙な奸計が中国ドラマには次々と出現するが、ドラマならまだしも、実際にこのような奸計にかかってしまうと絶望的になるだろうなあ、と同情に堪えない。

聞いた話だが、日本に留学していた中国人は、たまに中国に戻ると「騙されないかと日本にいる時より緊張する」とため息をついていたという。中国で生まれ育った中国人でも日本の生活環境に慣れてしまうと、中国に戻った時、つい日本の流儀で油断して同国人の策略にころりとひっかかってしまうのだ。社会が安定し、人々が互いに信用できるベースが確立されている日本は、経済的指標では計れない豊かさがある。

中国人と政治・経済・文化で何らかの関係を持たざるを得ない日本人は、是非とも中国四千年の策略を集大成した明代の奇書『智嚢』のエッセンシャル版である『中国四千年の策略大全』を読み、中国人の策略に備えてはいかがだろう。この書は中国ビジネスに携わる人の必見の書と僭越ながら自信をもってお勧めする次第である。

【参考文献】
『智嚢 ― 中国人の知恵』増井経夫、朝日新聞出版
『中国人の知恵とその裏側』増井経夫、講談社
『中国四千年の策略大全 ― 『智嚢』(ルビ・ちのう)を読まずに中国人が分かるか!』麻生川静男、ビジネス社
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【座右之銘・146】『ubi solitudinem faciunt, pacem appelant』

2025-02-02 21:18:14 | 日記
3年前に始まったロシアのウクライナ急襲から始まったウクライナ戦争と、1年4ヶ月前にハマスの急襲で始まったガザでの戦争が、トランプの返り咲きでようやく停戦、そして平和の到来の希望が出てきた。しかし、ガザ全土が瓦礫の山のような様子をみると、平和を得るためにこれだけの人的、物的損失が必要だったのかと哀しくなる。

このような状況を的確に表わしたのが次の言葉だ。
【原文】(atque) ubi solitudinem faciunt, pacem appelant.
【私訳】(我々の土地を)荒廃しておいて、平和と呼ぶ
【英訳】they make a desolution and they call it peace
【独訳】(und) wo sie Einöde schaffen, nennen sie ds Frieden
【仏訳】(et) où ils font une solitude, ils appellent cela la paix.



この文は、ローマの歴史家・タキトゥスの書いた『アグリコラ』(第30節)に出てくる。状況としては、ローマがガリア(現在のフランス)やブリタニア(現在のイギリス)を侵略し、戦争を繰り返してきた。ブリタニア原住民たちも、常にローマ軍に負かされていたが、勇将・カルガクス(Calgacus)が反ローマを掲げて他部族に一致団結を呼びかけて立ち上がった時に発した言葉だ。

とても2000年前の言葉とは思えないぐらいに現在のウクライナ、ガザの状況、さらには太平洋戦争後の日本の様子を的確に表している。現在、我々は進歩史観にとらわれ、人間は時代と共に進歩すると考えがちであるが、このような歴史の証言を聞くと、本質の部分では全く変わっていないことを痛感させられる。
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沂風詠録:(第352回目)『帝王に逆らったが故に誉められる』

2025-01-26 10:22:40 | 日記
年初から、芸能界の某有名人のセクハラ問題で持ち切りだ。原因は本人の品性は言うまでもないことだが、根源的には人間社会に普遍的にみられる上位者の理不尽な要求には逆らえないという点にあるといえる。この点においては、アメリカでも「Me too」運動があったように、芸能界においては世界的に慣習化していたといえる。それで一概に某氏や日本の芸能界だけを責めるわけにはいかないが、中国の史書には、上位者の命令に逆らって逆に誉められた例があることを知ると驚くだろう。なぜなら中国といえば、儒教の影響で他の文化圏以上に上位者を他の文化圏以上に重視する傾向にあると思われているからだ。

まずは、春秋戦国時代の斉の暗君・景公のお話から。

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晏子春秋(内篇_第十二)

【大意】景公が酒を飲み、夜になって晏子に会いたくなって、晏子の家に行った。先ぶれの者が晏子の家の門を叩き「景公が来られた!」と告げたところ、晏子は朝服に着替えて門に立ち、「諸侯の秘密情報でも入手されたのでしょうか? それとも、国家の重大な要件でしょうか? 一体、上様はなぜこんな夜遅くにわざわざ来られたのでしょうか?」と問うと、景公は(照れ笑いしながら)「貴公と一緒に妙なる音楽でも聞きながらこの美酒を酌み交わそうと思っているのだが」と言うと、晏子は「宴席のお供する者は、臣ではなく別におります」とそっけなく答えた。景公はしかたなく「それでは、将軍の司馬穣苴の家に行け」と命じた。先ぶれの者が司馬穣苴の家の門を叩き「景公が来られた!」と告げたところ、司馬穣苴は甲冑に身につけ武具を持って門に立ち、「諸侯の軍事機密情報でも入手されたのでしょうか? それとも、大臣の反乱情報を得られたのでしょうか? 一体、上様はなぜこんな夜遅くにわざわざ来られたのでしょうか?」と問うと景公は「貴公と一緒に妙なる音楽でも聞きながらこの美酒を酌み交わそうと思っているのだが」と言うと、司馬穣苴は「宴席のお供する者は、臣ではなく別におります」とそっけなく答えた。景公はしかたなく「それでは、梁丘拠の家に行け」と命じた。先ぶれの者が梁丘拠の家の門を叩き「景公が来られた!」と告げたところ、梁丘拠は楽器を左右に抱え、歌を歌いながら景公を出迎えた。景公はすっかり上機嫌になり「何と愉快じゃやないか!先の2貴卿がいなければ国は治まらない。といって、この一臣ががいなければ、我が身が楽しくない。」

【原文】景公飲酒、夜移于晏子、前駆款門曰:「君至!」晏子被元端、立于門曰:「諸侯得微有故乎?国家得微有事乎?君何為非時而夜辱?」公曰:「酒醴之味、金石之声、願与夫子楽之。」晏子対曰:「夫布薦席、陳簠簋者、有人、臣不敢与焉。」公曰:「移于司馬穣苴之家。」前駆款門、曰:「君至!」穣苴介冑操戟立于門曰:「諸侯得微有兵乎?大臣得微有叛者乎?君何為非時而夜辱?」公曰:「酒醴之味、金石之声、願与将軍楽之。」穣苴対曰:「夫布薦席、陳簠簋者、有人、臣不敢与焉。」公曰:「移于梁丘拠之家。」前駆款門、曰:「君至!」梁丘拠左操瑟、右挈竽、行歌而出。公曰:「楽哉!今夕吾飲也。微此二子者、何以治吾国;微此一臣者、何以楽吾身。」
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晏子も司馬穣苴もどちらの景公の臣下でありながら、景公の機嫌取りを拒絶した。秦の始皇帝であれば、たちどころに処刑したであろうが、景公は怒るどころか、この2人に一層の信頼を寄せた。景公は歴史的には暗君(うすらバカ)と評されているが、やはり政治の要諦はしっかりと掴んでいた、というのがこのエピソードの本質ではないだろうか。



次の話は、後漢の名君・光武帝の身体警護の甘さを鋭く指摘した守衛の話。

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後漢書(中華書局):巻29(P.1031)

【大意】光武帝が守猟に出かけた。夜遅くなって宮殿に戻ってきたが、守衛の郅惲は閉門の時間が過ぎたといって、門を開けなかった。光武帝は従者を門の小窓から見える所に立たせたが、郅惲は「松明が暗くて顔が確認できない」といってそれでも門を開けなかった。しかたないので、光武帝は東の中門を通って宮殿に入った。

翌日、郅惲は次の文面を上書した。「昔、文王は狩猟をしなかったので、逆に人民は文王の健康を心配した。ところが、現今、陛下は夜昼なく遠くに狩猟に出かけます。万が一、陛下の身に災難が降りかかったらどうしますか?臣はこの点を心配します」。光武帝は、この書面を読んで郅惲に褒美を与え、逆に東中門の守衛を降格させた。

【原文】帝嘗出猟、車駕夜還、惲拒関不開。帝令従者見面於門閒。惲曰:「火明遼遠。」遂不受詔。帝乃迴従東中門入。明日、惲上書諌曰:「昔文王不敢槃于游田、以万人惟憂。而陛下遠猟山林、夜以継昼、其如社稷宗廟何?暴虎馮河、未至之戒、誠小臣所窃憂也。」書奏、賜布百匹、貶東中門候為参封尉。
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郅惲は、光武帝と分かっていたにも拘わらず門を開けなかった。そしてこの機会を捉えて早速、上書して皇帝の命を狙う暗殺者にもっと注意をしないといけないと、光武帝の頻繁な出猟を戒めた。光武帝は、その上書を読んで怒るどころか、逆に郅惲を褒賞した。その一方で、権力に媚びて法を蔑ろにした東中門の守衛を降格した。これによって、法は君主の威光より尊いことを万民に知らしめたのである。

「硬骨の臣」ということばがあるが、まさしく、晏子、司馬穣苴、郅惲の3人はその言葉にふさわしい人物といえよう。
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