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限りなき知の探訪

50年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第465回目)『凄すぎる!Google NotebookLM の音声要約(その3・最終回)』

2025-06-08 19:00:39 | 日記
前回

前回、説明したように、Google NotebookLM による日本語の音声要約は、フェイクもどきの出来であったので、がっかりした。しかし、気を取り直して、英語で再挑戦した。

先ず、前々回に示した日本語の文章をGoogle翻訳させた。以下にその内【1.アフリカのワニの話】の部分を示す。

【Google翻訳の英文】
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First, I would like you to think about "cultural differences." I first noticed these cultural differences when I went to Germany at the age of 22, and I would like you to feel something similar to that. Imagine a child being eaten by a crocodile in a river in Africa. What would you do? I would like you to think about this. I'd like you to show your hands later, and the options are as follows:

A1. The villagers killed the crocodile so that it was safe to play.
A2. They played in a different river.
A3. They played in the same river without doing anything.

Everyone, please think and raise your hands. If you think "A1. They killed the crocodile," please raise your hand. This means that they killed the crocodile. ... Is there no one here? That's humane. "A2. They played in a different river." It's dangerous, so why don't they just go somewhere else? To avoid danger? ... About half of you would think so. "A3. They played in the same river without doing anything." ... About half of you would think so too. So, I'd like to ask a question. Why do they play in the same river? Won't they be killed by the crocodile again?

[Audience] There is a risk, but it's natural, so there's nothing they can do about it.

So it's natural, so they have no choice but to be eaten by the crocodile. I think half of your answers are A2. and half are A3.

First, regarding Q1, "A3. I played in the same river without doing anything" seems to be the African way. Let's change the situation a little and think about traffic accidents in Japan. Children can die in traffic accidents. If a child dies in a traffic accident, would you avoid using that road and walk a different road after that? We all walk the same path. If we are eaten by a crocodile, we have the choice to kill it or go to another river, but if it is a traffic accident, we don't think about that. Logically, it is the same path. There is a danger and a child dies, the question is how to deal with it. However, even if the framework is the same, as soon as it becomes a crocodile, "emotional reasoning" comes into play. This kind of thing happens often. The point of this question was that it is important to think about the fundamental mechanism.
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この部分は、かなり分かりにくいだろう。というのは、この文章は実際の講演で講師の私が出席者に質問を投げかけて挙手してもらい、その反応までもが文章化されているからだ。この文章をそのまま、全く編集せずに Google NotebookLM にかけた結果を以下に示す。

【英語の Google NotebookLM音声要約】
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【Woman's voice】Let's dive into those examples then. The first one involves, well a pretty vivid scenario , a child and a crocodile in an African river. What was striking about the different reactions people have.

【Man's voice】 It really reveals the contrast, you know, a typical Western reaction might be eliminate the danger, immediately.

【Woman】 Kill the crocodile!

【Man】 Kill the crocodile or find a different river, or avoid it. However, the reported African response is essentially doing nothing.

【Woman】 Doing nothing.

【Man】 Doing nothing and accepting the risk as just a natural part of life that highlights a fundamentally different relationship with the environment. A whole different way of assessing risk actually

【Woman】 Wow!

【Man】 And you can see how for an engineer maybe designing irrigation systems in that region understanding that perspective could be absolutely crucial.

【Woman】 That's a completely different framework for thinking about risk, and then the speaker connects this to something maybe more familiar traffic accidents in Japan. How does that parallel work?

【Man】 Well, the parallel is in the sort of societal acceptance of a certain baseline level of risk.

【Woman】 OK.

【Man】 Just like people in Japan continue using roads despite, you know , the inherent danger of accidents. The villagers and the crocodile scenario might accept the crocodile's presence as just a normal part of their world. It really challenges our default assumption that there's always one universally logical or right response to danger.

【Woman】 That's a really powerful point it just shows how much our cultural background shapes are immediate reactions or assumptions really.
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英語の Google NotebookLM による音声要約は、日本語の音声要約と全く違い、驚異的なほど見事なものだった!

Google翻訳の分かりにくい英文を意味的に完全に正しく理解していて、それを本物の人間が会話しているような音声要約を作ってくれた。ワニの話は、日本語の音声要約では、AI意味が理解できず要約飛ばされた。簡単に処理された。この部分だけでなく、【2.過去と現在のオリンピック競技の比較】も含め、元の文章全体を要約させたの出来ばえは、全く非の打ちどころのない完璧なものであった。

私は思わず唸った、「この差は一体何だ!」

同じ Google NotebookLM といっても、日本語と英語のそれぞれの言語による音声要約は、いってみれば、小学生と大学院生の差がある。日本語の文章では理解できなかった部分が、英語だと完璧に意味理解しているのだ。Google NotebookLM で2割落胆したのはまさにこの部分であった。現在の自然言語解析のAIはひとえに、巨大なコンピュータパワーを武器として、大量の文書データをひたすら取り込み、意味関係の理解精度を確率論的に高めていくというやり方で発展している。この点において、日本語と英語のデータボリュームの差は軽く見積もっても20倍はあるだろう。

以前のブログ
【麻生川語録・14】『20倍違うと世界が違って見える』
で述べたように、量が20倍異なると、質的にも全く違った世界になる。言語関連のAIツールに関しては、いくらツール自体が進展しようとも、もはや日本語だけの文章データでは、英語のツールには敵わないことは明らかだ。今後の日本(だけでなく、世界の全ての国々)は必然的にAIのツールを借りて、母国語と英語の両方を常にそつなく行き来できるような社会システムを構築していかなければならないだろう。

<完>

想溢筆翔:(第464回目)『凄すぎる!Google NotebookLM の音声要約(その2)』

2025-06-01 09:47:48 | 日記
前回

前回、Google NotebookLM で自動音声要約させてみた結果は、「8割の衝撃と、2割の落胆が入り混じったものであった」と述べた。8割の衝撃とは言うまでもなく、男女2人の掛け合いが本当に人間が実際に話しているような音調で、文法的にも正しく、不自然さやぎこちなさは全くなかった。もしこれに、画像データで2人がしゃべっているのが付け加わったなら、講演会そのもののビデオだと思うことだろう。



さて、その音声を今後はリバースエンジニアリングの要領で、逆に Google Document に文字起こしさせてみた。その文章の一部を以下に示す。ただし、文章は一部、修正した。というのは、私のPCの性能が低いせいか、文字起こしされた文章には音声の一部が欠落していたり、句読点や話者の区別はつかない、漢字への変換が不正確など、読める文章にするには手直しする必要があったからだ。しかしながら内容は自動音声要約そのものである。

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【女性の声】えーと 今回はですね お預かりした資料AA 1テキストの抜粋をちょっと見ていきたいんですが。

【男性の声】はい。

【女性の声】テーマは リベラルアーツです これよく一般教養とか言われますけど、なんか、この資料を読むと、「うーん、それだけじゃないぞと」。もっと奥深い意味がありそうでそうですね。

【男性の声】(リベラルアーツというと)幅広く、いろんなことを知ってるとか、文化的なことかな みたいなイメージありますよね ありますあります。そもそも何のためなのっていう、もっと根本的な問いを投げかけてる感じがします。

【女性の声】そうなんですよ もう最初から目的のない知識集めじゃないぞって釘を刺してきますよね。単に、物知りになることじゃないと言っています。ここが結構大事なポイントかなと思うんですけど。あなたはこの指摘どうです。はっきりした目的があるんだってことですよね。

【男性の声】目的ですか?

【女性の声】野球でボールを投げるとかそういう例えを出して、リベラルアーツも何かを目指すゴールがあるんだと言っています。

【男性の声】面白い例えですね。

【女性の声】その目的とか必要性について、資料では必要だからとにかくやってみろやればわかる、みたいな、なんかちょっと禅問答っぽい言葉も出てきますよね。

【男性の声】ああ、ありましたね。特に社会が大きく変わる時に、これが重要になるんだとも言っていますね。これはどういうことなんでしょうかね?

【女性の声】そこを考える上ですごく示唆的だなと思っていると、パウロの例えがでてきます。

【男性の声】パウロですか?!

【女性の声】パウロは劇的な体験をしてその後、選択を迫られるわけです。

【男性の声】はいはい

【女性の声】(キリスト教を)広めるか、それとも全然文化の違う異邦人の世界に出ていくかっていう選択ですね。ここで資料の解釈が面白いのは、パウロが異邦人を選んだのは、単に その布教する場所を変えたっていう地理的な話じゃなくて、場所じゃなくて 伝え方そのものを根本的に変える、つまり相手に合わせたアプローチをガラッと変えるっていうその方法論の選択だったということ。これこそがリベラルアーツの本質だと主張しているんです。

【男性の声】選びじゃなくて、どう伝えるかっていう方法論ですか。なるほど、それは深いですね。

(以下略)

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これを、リベラルアーツを全く知らない人がリベラルアーツの概論として聞いたとすると、なかなか適切な内容だと感心するのではないだろうか。特に最初に女性の声でリベラルアーツが一般教養と違うという点を『この資料を読むと、「うーん、それだけじゃないぞと」』と感じると述べているあたり、本当に人間的感情がこもって聞こえるので、とてもAIで作られた音声だとは思えず、思わず唸ってしまった。さらに、パウロの伝道の例を持ち出して、リベラルアーツは方法論という点において単なる教養とは違う、と述べているくだりも、なかなかやるわい、と思わせてくれた。それ故、この音声要約に驚嘆した、とうのが8割であった。

しかし、残念、あるいは遺憾な点がある。それは、この音声要約は、前回のブログで示した、私がアップロードした文章とはかなりかけ離れたものであったからだ。パウロの話は私のもともとの文章には全くかけらもなかったが、完全にAIの方で勝手に創作している。逆に、私が出した2つの例、【1.アフリカのワニの話】、【2.過去と現在のオリンピック競技の比較】は完全に無視され、一言も言及されていなかった。つまり、 Google NotebookLM で作られた音声要約は全くのフェイク音声であるということであるのだ!

いくら、日本語音声が文法的にミスなく自然に聞こえようと、内容が元の文章と異なるフェイクに近いものであれば、Google NotebookLM などは全く使い物にならない!、と私は絶望的な気持ちになった。しかし、暫くして気を取り直して、それでは英語ではどうだろうと、元の日本語の文章をGoogle翻訳を使って英訳し、それを Google NotebookLM にかけてみた。なんと、そこから聞こえてきた英語の音声要約は、また別の意味で衝撃的であった。

続く。。。

想溢筆翔:(第463回目)『凄すぎる!Google NotebookLM の音声要約(その1)』

2025-05-25 20:10:58 | 日記
連日のごとくAI技術の新しい話題がニュースにでるが、ニュースを他人事として聞くのと、実際に自分で試してみると、衝撃が百倍も違う。私はまだChatGPTを試したことはないが、つい先日、音声要約を自動的に作成してくれるという Google NotebookLM を試してみて、その衝撃的なレベルに驚いた。まるで、もうAIではなく、生の人間がそのままに話しかけているような感じなのである。

そもそも、 Google NotebookLM を知ったのは、かれこれ15年の付き合になる、楠浦崇央(くすうら・たかひさ)さんの最新のメルマガであった。楠浦さんは、企業の知的財産に関する啓発事業をしているTechnoProducer株式会社の社長で、毎週「発明塾」のメルマガを発信している。最近(2025年5月19日)のメルマガには
(発明塾:音声配信 6分)「Patent Information For Victory」を音声・対話形式で読む~知財から企業の可能性を知る
というタイトルで内容を紹介する音声ファイルへのリンクが張ってあった。

ここで驚くのは、この音声ファイルは楠浦さんがアップロードしたテキストファイルからGoogle のAIが自動的に音声要約を作成したとのことである。それも単にAIがテキストファイルを読み上げるのではなく、男女2人の掛け合で説明が進行していくのである。それもアップロードされたテキストの内容を理解した上であたかも、内容を咀嚼して分かりやすく説明しているとのことだ。AIがテキストの読み上げしたYouTubeの動画など見ても、一人が淡々と説明していると余りの単調さにいらいらさせられることが多いものだが、この男女2人の掛け合いの音声は、すーっと引き込まれてしまう。

実際に、次の音声ファイルを聞いてみて頂きたい。6分33秒もの長さがあるが、聞き入っている内に、あっという間に終わってしまう。

AI音声要約:特許情報による”株式投資”の新・成功方程式 Patent Information For Victory ~「知財」から、企業の“未来”を手に入れる!~




楠浦さんのご厚意により、教えて頂いた、この素晴らしい音声ファイルを作成するGoogle NotebookLM を実際に試せるサイトは次の通りだ。
https://www.businessinsider.jp/article/2505-google-notebooklm-audio-overviews/

さて、実際にこのサイトに私自身の文章をアップロードして試してみて、いろいろと知見を得たので、それを紹介してみたい。

私は、以前 NEDOの技術者に、リベラルアーツに関して数時間にも及ぶ講演をしたことがあった。その時の音声を基にして、文章を書き起こしたものが残っていた。今回はその文章の一部をアップロードして男女2人の掛け合いによる音声要約を作成させた。

アップロードした文章は、6000字もあるので全文は紹介できないので、このブログで説明したい部分と関係のある個所のみを以下に示す。なお、この文章は講演を書き起こししているので、講演の様子がそのまま残っている文章もある。

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【1.アフリカのワニの話】

まず、皆さんに考えて頂きたいのは「文化の差」についてです。私はこの文化の差というものに、22歳の時にドイツに行って初めて気が付いたのですが、それに類したことを感じてもらうために、皆さんに質問します。アフリカの川で子供がワニに食われたとします。それでどうしたか?ということを皆さんに考えてもらいたいのです。後で挙手してもらいたいのですが、選択肢は以下の通りです。
A1.村人がワニを殺して安全に遊べる様にした。
A2.別の川で遊んだ。
A3.何もせずに同じ川で遊んだ。

この答えは「A3.何もせずに同じ川で遊んだ」がアフリカのやり方らしいのです。

少しシチュエーションを変えて、日本の交通事故のことを考えてみましょう。交通事故に遭えば子供が死ぬことがあります。交通事故で子供が死んだとすると、その後はその道を使わない様にして別の道を歩きますか?やはり同じ道を歩きますね。ワニに食われると殺すとか、別の川に行くとか、チョイスがあるのですが、交通事故だとそれを考えないのです。論理的には同じ道筋です。危険性があって子供が死ぬ、問題はそれに対してどういった対処をするかです。ところが枠組が一緒でもワニになった途端に「感情論」が入ってしまうのです。こういったことはよくあることです。根本的なメカニズムを考えることが重要だというのが、この質問のポイントでした。
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このように、講演の冒頭では、リベラルアーツの必要性は「文化の差を理解する」ことであることを説明するため、聴衆に文化差とは何かを具体的にイメージしてもらうためのテーマを提示した。結論をいうと、A3.が選択されるのだが、これを日本で交通事故で子供が死亡することと比較すると文化差がよくわかる。つまり、日本では児童の交通事故が発生するとすぐさま原因を追及し、事故再発防止策の策定などさまざまな対応策策が練られるがアフリカではそういうことを一切しないということで、日本人の常識が通用しないことが痛いほどよくわかる。

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【2.過去と現在のオリンピック競技の比較】

先ほど1500年前のリベラルアーツの話をしました。現在でも過去のままのリベラルアーツを教えていていいのか、考えてみてください。過去と現在のリベラルアーツを直接理解することは難しいので、オリンピックを例として取り上げてみましょう。オリンピックとは、紀元前500年ぐらいに既にギリシャで始まっているわけです。その頃の競技は、7~8つぐらいしかありませんでした。その競技をマッピングしてみます。それらを「個人競技と団体競技」、そして「室内競技と室外競技」という軸で並べます。当時のオリンピックは室外でやるものなので、室内競技はなかったのですが、現代風に解釈すればボクシングやレスリングは室内競技になりますので、この様にマッピングしました。当時はこういうものでした。それでは、これは現代でもこうですか?違いますよね?現代はもっともっと競技が増えて、ボクシング・柔道・陸上・水泳・ボブスレー・ビーチバレー、当時から比べると競技種目はダーッと広がっています。すなわち、ここ千年か二千年の間に、元々個人種目しかなかったオリンピックの競技種目は、団体競技を含めてこれだけ広がっているということです。

これと同じ様にリベラルアーツの「3学+4科」をマッピングしてみるとどうなるかです。まず右側は文科系です。論理学・文法学・修辞学とあります。そして左側に理科系のものがあります。算術・幾何学・天文学です。音楽は芸術系ということで右側としています。これらを、「経験的」と「思弁的」(考える事)という軸で並べます。全部がそうというわけではありません。音楽などは経験的な面も多いです。こういう風に1500年前のリベラルアーツをマッピングして行くと、こういう形となって非常に偏っていることが分かります。

それが現代はどうなっているかです。哲学・言語学・歴史・文学、いわゆる一般的に「教養」と考えられていたものは右上になります。こういう教養辺りをやると人格形成に役立ちますというのが普通のリベラルアーツの定義です。すると、先ほど数学とか算術とか天文学がありましたが、全然入っていない様に見えます。それは現代のリベラルアーツの定義が理科系をほとんど無視しているからです。

過去には入っていたものが、今は勝手に落ちているのです。私はそれは逆だと思います。現在は寧ろ、左上(理科系・思弁的)の方がどんどん進化しています。これらはみな哲学がどんどん分化して広がって、自然科学になって行ったものです。この様に全体的に捉えることが重要です。これが私の考える現代のリベラルアーツです。

しかし、この様にたくさん並べていると見づらいので、もう少し纏めて見たのが次の図です。これに私は「リベラルアーツの四大分野」と名付けています。これは先ほどの枠組です。文科系・芸術系が右側で、理科系が左側です。上を考えるものである「思弁的」、下を「経験的」としています。一般的に言われている世の中のリベラルアーツは、右上の辺り(文科系+芸術系・思弁的)です。「人間の心の仕組み」や「人間社会の仕組み」をいろいろと解き明かそうとするわけです。
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アップロードした文章には、これ以外にもかなり多くのリベラルアーツとは何か、何故必要か、という内容が含まれていたが、AIで自動音声要約された結果は、正直なところ、8割の衝撃と、2割の落胆が入り混じったものであった。

続く。。。

【参考】
「発明塾」のTechnoProducer株式会社 (楠浦崇央社長)

惑鴻醸危:(第67回目)『トランプのアメリカ製造業復活宣言はブラフ』

2025-05-11 11:11:49 | 日記
2025年1月にトランプ氏が大統領に就任して以来、世界はアメリカのトランプ大統領の掲げる大幅な関税のせいで国際物流に大混乱を起こしている。また、ウクライナ戦争、ガザ紛争に仲介役を買ってでるにも拘わらず好転しない現状に流石のアメリカ市民も苛立っている。こと日本に限定していえば、関税政策の根底にある、「アメリカ製造業復活の思惑」に政界、財界とも戸惑っている。

識者曰く:「アメリカの製造業の空洞化はアメリカが意図したことではなかったか? かつて、アメリカが自主的に製造業の主導権を放棄したため、その欠損を補うべく、世界は新たな製造業のサプライチェーンを構築した。この時たまたま中国の改革開放政策の時期に当たっていたので、サプライチェーンの要として中国がのし上がってきた。40年にわたるこの間の成果をアメリカが取り戻すには同じぐらいの時間がかかるだろう。つまりトランプの政策には短期的には全く成果が見込めないものだ。」

確かに、トランプの言葉を真にうければ、この通りの事態を招くことは、多少なりとも優秀な小学生程度でも理解できるだろう。しかし、果たしてトランプは、誰にも欠陥がバレバレの政策を本心から掲げているのだろうか? 本当にそれほどのバカか?また、優秀なはずの大統領側近もトランプの政策を支持するようなボンクラばかりなのだろうか?

このような疑問を抱かないだろうか?



私は、トランプはバカではないし、トランプの側近もボンクラではないと考える。つまり、トランプの「アメリカ製造業復活宣言」は実は全くうらはらの「アメリカ製造業敗北宣言」だと考えている。
どういう意味か、「惑鴻醸危」的な説明を試みてみよう。

そもそも昨年の大統領選時点に戻って考えてみよう。トランプは支持率向上のためにどの州に力を入れていたか?主に、ラストベルト(Rust Belt)と呼ばれている中西部(ミシガン、ペンシルべニア)のかつての自動車や製鉄業が盛んだった工業地帯ではなかったか?この地域には失業状態の白人労働者が多くいて、トランプはその層にターゲットを絞っていた。彼らの多くはアメリカの産業が製造業からサービス業に推移していく潮流についていけなかった、つまり職種変換の出来なかった人たちだ。しかも、数十年前にはアメリカの屋台骨を支えていたという誇りと自負心を持ち続けていた人たちだ。彼らの支持を得るためにトランプは「アメリカ製造業復活宣言」をした、ということになる。

その作戦が功を奏して大統領に当選したものの、トランプはのっけからアメリカ製造業復活など実現できないことは分かっていた。しかし、彼は本心では「アメリカはもはや製造業ではやっていけない国なのだ」と考えていたが、国民全体に納得してもらうために、大がかりな芝居をうつ必要があった。彼は、「実際にアメリカに製造業を取り戻すに必要な案は全て机上ではうまくいくかもしれないが、実際にやってみたら、ご覧の通り全くダメですよ」を見せる必要がある。ラストベルトをはじめとする労働者階級に理屈ではなく現実を見せることで納得さして、今後のアメリカに必要なのは先端技術を駆使した産業構造であることを示そうとしている。

アメリカの自動車産業はここ数十年衰退し続けているにも拘わらず、依然としてアメリカの自動車労働組合の傲慢な姿勢は微塵も揺らぐことがなかった。トランプはこの荒治療で、今まで誰一人として成功したことがなかったアメリカの自動車労働組合の傲慢な鼻をへしゃぐことができると自信を持っているに違いない。これがトランプの「アメリカ製造業復活宣言」に隠された真の狙い、つまり真逆の「アメリカ製造業敗北宣言」なのだ。世界中がトランプの真の意図を読めずに、ハラハラしているのをトランプとその側近たちは、あたかも自分たちが仕掛けたどっきりカメラを見ているように、楽しんでいる、というのが私の見立てだ。

【座右之銘・148】『先憂事者後楽、先傲事者後憂』

2025-04-27 12:29:12 | 日記
以前、人口に膾炙している語句には典拠があることを述べた。
【座右之銘・147】『少而好学、壮而好学、老而好学』
今回もそれと同様、よく知られている語句「後楽園」の基になった『先憂後楽』にも先行する文献があったことの説明である。

私は、ひところ、かなり熱心に中国古典に親しんでいた時期があった。その時には、日本で知られているような漢文のほとんどに眼を通していた。そのなかでも私のお気に入りは、先秦時代の諸子百家であり、とりわけ荘子、墨子、韓非子などの思想家と、説苑、戦国策、淮南子、呂氏春秋などの雄弁の粋がつまった論説集であった。現代の日本で人気の高い論語、孫子、漢詩などは読んではみたものの、大きな感銘をうけることは残念ながらがなかった。



本題の「先憂事者後楽、先傲事者後憂」は、東京の後楽園の名前の由来ともなっているが、宋の范仲淹の『岳陽楼記』にある「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽歟!」(天下の憂に先んじて憂え、天下の楽におくれて楽しむ!)の名句に見える。しかし、この句は范仲淹の創作ではなく、それよりもさらに千数百年前の『説苑』の巻16に次の句が見える。
 「先憂事者後楽、先傲事者後憂」
(先ず、事を憂うる者は後れて楽しみ、先ず、事を傲る者は後れて憂う)

この句の前半は、范仲淹の句と同じなので、説明する必要はなかろうと思うが後半の句は多少説明を必要とするであろう。「事を傲る者」というのは「物事をあなどっている者」と解釈できる。「後れて憂う」とは「後におおきなしっぺ返しをくらう」という意味と理解される。我々の日々の生活や、現在の激変する国際政治の様子を見るとこの語句の後半部が適合するケースが極めて多いことがよくあると実感されるだろう。

さて、今回、この文を書いた意図はタイトルの「先憂後楽」を説くためではなく、説苑のこの句の少し前にある次の句を説明したいためであった。その句とは:
「毒智者莫甚於酒、留事者莫甚於楽」
(智を毒するものは、酒より甚しきはなく、事を留むるものは、楽より甚しきはなし)

この句の前半は、説明する必要があるまい。後半の句は「物事の処理をじゃまくさいと、ほったらかしにしておくのはもっとも良くない」の意味に解釈できる。1990年代に始まった「喪なわれたXX年」はすでに30年を越えている。このような日本の政治経済が全般的に不振に陥っている原因を探っていくと、女系天皇制や夫婦別姓などの問題ですら全く議論の進展が見られず、放置されていることに根源的な問題点が見いだせる。「留事者莫甚於楽」とは短い句でありながら、本質をずばり衝いている。いつもながら、古代中国人の類まれな語感に感嘆させられる。