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限りなき知の探訪

50年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第236回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その79)』

2015-12-31 20:41:55 | 日記
前回

【178.顧問 】P.3625、AD409年

『顧問』とは現在では動詞では、「advice」、名詞では「advisor, consultant」の意味で用いる。

二十四史(+資治通鑑、続資治通鑑)では合計で361回とかなり多く見える。用語の使われ方が、時代によってかなり変わっている。まず、昔の用法は、現在のような名詞ではなく動詞として使われている。つまり『顧問』は『顧みて問う』と訓ずる。それは「顧而問」というように『而』が間に入っている例が『晏子春秋』などにも見られることからも分かる。時代が下って、宋代以降では、『備顧問』(顧問に備う)という定型的な使われ方がかなり多い。(下表参照)



ところで、名詞的に使われだしたのは、後漢時代(2世紀)ごろのようである。その例を資治通鑑に見てみよう。状況は前回、登場した拓跋嗣が異母弟の拓跋紹を殺して即位した場面だ。

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拓跋嗣が即位して皇帝になった。…拓跋嗣が旧臣たちに父帝が親信していた家臣は誰かと尋ねた。王洛児が「李先」と答えた。それで、拓跋嗣は李先を召して「貴卿はどのような才能や、功績があって、父帝のめがねにかなったのか?」李先が答えていうには「私は、才能も功績もありませんが、ただ一途の忠心(忠直)が先帝のお目にかなったものだと思います。」それで、李先を安東将軍に任じ、常に宮廷内に泊まらせ、顧問に備えさせた。

嗣即皇帝位…嗣問旧臣為先帝所親信者為誰。王洛児言李先。嗣召問先:「卿以何才何功為先帝所知?」対曰:「臣不才無功,但以忠直為先帝所知耳。」詔以先為安東将軍,常宿於内,以備顧問。
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この状況から分かるように顧問とは、単にアドバイスを与えるという現代的な意味より、用心棒のように常に身近にいる必要のある存在だと分かる。それ故、辞海(1978年版)には『顧問』とは次の意味であると説明する。『左右の侍従の臣をいう。事あれば則ち、諮詢する』(謂左右侍従之臣、有事則諮詢之也)

続く。。。

沂風詠録:(第265回目)『人生の幸福は長寿にあらず』

2015-12-27 22:02:38 | 日記
2007年の統計によると、日本には 112万人の寝たきり老人がいるとのこと。65歳以上の老人人口が約3000万人であるので、率にして約 4%程度となる。この数字は一見少ないように見えるが、スウェーデンと比較すると多いことが分かる。少し古い情報になるが、『国民生活白書』平成6年度版によると、長期ケア施設入所者での寝たきり老人はスウェーデンでは約5%であるの対して日本では約35%もいるとのことだ。つまり、日本はスウェーデンの7倍も寝たきり老人が多い。この差は人種的というより、むしろ老いるということに対する考え方の差に起因するように私には思える。

日本で、寝たきり老人が112万人いると言ったが、虚弱老人まで範囲を広げると、実に400万人もの老人が活力をなくしたまま生活をしているという悲惨な状態が現実には存在している。

先ごろ発表になった、来年度(2016年度)の国家予算は総額、約97兆円であるが、そのうち、社会保障費は32兆円と、約 1/3を占める。介護だけ見ると3兆円であるので、国家予算からみれば、介護にかかる費用は金額的には相対的には小さいといえる。

しかし、虚弱老人が400万人もいるということから分かるように、予算の数字に表れないものがある。私は、現在そして今後の日本の活力がなくなっていく原因の一つが、ここに潜んでいると思う。端的に言えば、生活の質(Qulity of Life)を考えず、「単に長命であればよい」との風潮に煽られて、本人の為にも、また家族の為にならない不必要で重苦しい医療、薬品投与、過保護な介護が至る所に見られる。これは、現在の医療報酬制度で、医者が患者のためではなく、自分達の収入を増やすための便法として延命治療をすることが一つの原因ではなかろうか。ついでに言うと、安楽死を認めず、いたづらに延命だけに専念する医療は、昭和天皇や小渕首相の末路のように、見るも、また、語るも、哀しい悲劇だ。



このような日本のばかげた長寿信仰に頂門の一針を与えるのが、ストア派の哲人セネカの『道徳書簡集』(Epistulae morales)の101-15に次の句であろう。
 【原文】quam bene vivas referre, non quamdiu.
 【私訳】長生きが良いのではない。いかに善く生きるかだ。
 【英訳】The point is, not how long you live, but how nobly you live.
 【独訳】dass es darauf ankommt, wie gut Du lebst, nicht wie lange.

生命の価値は、時間ではなく、生き方にあるとセネカは述べる。これは司馬遷の次の言葉と符合する。

『人、もとより一死あり。死は泰山より重きあり、あるいは鴻毛より軽きあり、これを用い、趨くところ異なればなり』
 (人固有一死,死有重於泰山,或軽於鴻毛,用之所趨異也)

セネカは上の言葉に、更に続けて次のように言う。
 【原文】saepe autem in hoc esse bene, ne diu.
 【私訳】長生きしない方が善き人生であることも稀ではない。
 【英訳】And often this living nobly means that you cannot live long.
 【独訳】dass aber oft ein gutes Leben darin beruht, nicht lange zu leben.

人生の価値は生き方にあると述べたセネカはここで、長生きしたために価値が減ずるような人生だってある、との感慨を述べる。セネカの主旨は冒頭で述べた、スウェーデンの寝たきり老人が日本より遥かに少ないことを想起させる。日本人もいたずらに数字の上だけの長命を誇る愚を考え直した方がよい。
 (ところで、この部分の英訳(Loeb版, And often ...)は原文のニュアンスを正しく伝えていない。ドイツ語訳の方がはるかに正しく訳している。英語だけしか分からないと、頓珍漢な結論の導きかねない、ということだ。)

【参照ブログ】
 【麻生川語録・23】『死ぬ価値のある人しか死ねない(その4)』

想溢筆翔:(第235回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その78)』

2015-12-24 23:20:11 | 日記
前回

【177.無頼 】P.3623、AD409年

『無頼』とは「ごろつき」の意味で、通常『無頼漢』として使われる。古くは史記に見えるが、劉邦が漢を建国して、父に「どうだオレを見直したか」と嫌味をいう場面である。

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史記(中華書局):巻8(P.386)

長安の都に未央宮が完成した。劉邦は宮廷に多くの諸侯や群臣を集め、未央宮の前殿に酒樽を置いた。劉邦が酒杯を挙げて父の太上皇を寿(ことほいで)言った:「昔、父上は私が無頼で、生業につかないし、弟(仲)にも足元にも及ばないと言いましたね。今、私の功績と弟とどちらが立派なんでしょうね?」殿上にいる群臣たちは皆、万歳をあげ、大笑いした。

未央宮成。高祖大朝諸侯群臣,置酒未央前殿。高祖奉玉卮,起為太上皇寿,曰:「始大人常以臣無頼,不能治産業,不如仲力。今某之業所就孰与仲多?」殿上群臣皆呼万歳,大笑為楽。
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この部分について晋灼が次のような注を付けている。「許慎の解釈によると『頼は利である』。つまり、家に利益をもたらさない者を「無頼」という。あるいは、江淮地方では、ずるがしっこい子供を『無頼』と言う」と。いずれにしろ、『無頼』はぐうたらで、生業についていないやくざものを指す言葉だ。



『無頼』は資治通鑑では36回使われているが、北魏の建国者、拓跋珪が息子の拓跋紹に弑される場面を見てみよう。

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昔、拓跋珪が賀蘭部に行った時、母(献明賀太后)の妹の美貌に一目ぼれした。帰ってから母(賀太后)に叔母を妻に欲しいと言ったが、母は:「ダメだ。妹は美人すぎる。必ずや善からぬことが起こるだろう。それにすでに有夫の身ではないか。娶ることはならぬ。」拓跋珪は密かに人をやってその夫を暗殺させ、妻とした。その後、清河王の拓跋紹が生まれた。拓跋紹は残忍な性格で無頼であった。繁華街に繰り出すのが好きで、通行人を脅しては物を奪うのを楽しんでいた。それを聞いた拓跋珪は怒って、拓跋紹を井戸の中に逆さに吊るした。紹はあやうく死ぬところであったが、ようやく出してもらえた。異母兄で斉王の拓跋嗣はたびたび弟の拓跋紹に叱りつけたので、拓跋紹は兄と仲違いした。そんなある時、拓跋珪が賀夫人に腹をたて、捕えて、まさに殺そうとしたが、日が暮れたので、処刑せずにいた。夫人はこっそり、息子の拓跋紹に使いをやり「お前は私を見殺しにするつもりか?」と言った。周りの者たちは拓跋珪の残忍さを知っているので恐ろしいことが起こるのではないかと慄いた。拓跋紹は16歳であった。夜中にこっそりと配下の者たち(帳下)や宦官、宮人ら数人と示し合わせ、宮殿の塀を乗り越えて天安殿に忍び込んだ。警護に当たっていた者たちが「賊が侵入したぞ!」を叫んだので拓跋珪は驚いて飛び起き、弓と刀を探したが間に合わず、遂に殺されてしまった。

初,珪如賀蘭部,見献明賀太后之妹美,言於賀太后,請納之。賀太后曰:「不可。是過美,必有不善。且已有夫,不可奪也。」珪密令人殺其夫而納之,生清河王紹。紹兇很無,好軽遊里巷,劫剥行人以為楽。珪怒之,嘗倒懸井中,垂死,乃出之。斉王嗣屡誨責之,紹由是与嗣不協。戊辰,珪譴責賀夫人,囚,将殺之,会日暮,未決。夫人密使告紹曰:「汝何以救我?」左右以珪残忍,人人危懼。紹年十六,夜,与帳下及宦者宮人数人通謀,踰垣入宮,至天安殿。左右呼曰:「賊至!」珪驚起,求弓刀不獲,遂弑之。
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拓跋紹は父・拓跋珪を殺したものの、すぐさま異母兄の拓跋嗣に攻め殺されてしまった。拓跋紹だけでなく、母の賀氏や拓跋紹に従って拓跋珪の暗殺に参加したものたち十数人も捕まって皆殺しにされた。とりわけ、拓跋珪をまっ先に切りつけた者は、群臣たちが臠食(肉そぎの刑)した。

春秋左氏伝の昭公28年に次のような話が載せられている。叔向が申公巫臣の美人を娶りたいと言ったが、母は『甚美必有甚悪』(はなはだ美は必ず、はなはだ悪あり)と反対した。それで叔向は母の言葉に恐れて、美人を娶るのをためらったが、主君の平公から無理に娶らされることとなった。その後、その美人妻が男子を産んだが、結局その男が一家を滅ぼすこととなった。拓跋珪も同じく美人を妻にしたため、左伝や献明賀太后の予言どおり、不吉な結末を招いた。

続く。。。

【座右之銘・89】『酌而飲貪泉水』

2015-12-20 21:43:32 | 日記
晋の陸機の詩、『猛虎行』に有名な一句がある。
 渇不飲盗泉水、熱不息悪木陰
 (渇すれども、盗泉の水を飲まず、熱すれども、悪木の陰に息(いこ)わず)

「盗泉」も「悪木」もどちらも単に名前だけが悪いのだが、君子は、微塵の悪にも染まらないようにしないといけないと説く。つまり、この句は「苦しい境遇になっても、不正はしない」という陸機の心情を代弁したものと言える。潔癖性を誇るのも、時によりけり、と私などは考える。実際、同時代の呉隠之もそう考えた。

晋書・巻90によると、呉隠之という人は「容貌が立派で、弁舌が素晴らしい。幅広く読書し、雅な振る舞いの儒者として有名であった。」(美姿容,善談論,博渉文史,以儒雅標名)と評されていた。

呉隠之は役人としてかなりの高い地位にあったので、収入も多かったが、得たものは全て親族に分け与え、自分は質素な生活をしていた。冬のコートを持たないほどの清貧ぶりであった。さらに、服の生地も庶民と同じく粗末な布(絮)であったのが、洗濯していてばれたほどだ。(雖居清顕,禄賜皆班親族,冬月無被,嘗澣衣,乃披絮,勤苦同於貧庶)また呉隠之だけでなく、妻も下男や下女を使わず、自ら薪を集めていた。(在郡清倹,妻自負薪)



さて、当時(4世紀)東晋の領土であった広州では賄賂政治が盛んであった。東晋の朝廷は、腐敗撲滅のために広州に呉隠之を州知事として送り込んだ。(何ともまあ、習近平の「反腐敗キャンペーン」そっくりではないか!)

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晋書(中華書局):巻90(P.2341)

広州の手前、10キロに石門という所があり、「貪泉」という湧水があった。この水を飲めば際限なき欲望の虜になってしまうという言い伝えがあった。呉隠之がここに着いて、付き人にこういった。「欲しい物を見なければ、心が惑うことがないはずだ。広州にくると、貪欲になると言われているようだね。」そう言って、湧水の水を酌んで飲んだ。そこで、一句。

 古人云此水  (この水をひとたび飲めば)
 一歃懐千金  (金の亡者になると言われるが、)
 試使夷斉飲  (ためしに、古代の隠者の伯夷と叔斉に飲ましてみても)
 終当不易心  (二人の節操は変わりはしないだろうよ。)


未至州二十里,地名石門,有水曰貪泉,飲者懐無厭之欲。隠之既至,語其親人曰:「不見可欲,使心不乱。越嶺喪清,吾知之矣。」乃至泉所,酌而飲之,因賦詩曰:
 古人云此水,
 一歃懐千金
 試使夷斉飲
 終当不易心
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習近平が腐敗撲滅キャンペーンをしたところで、中国には金まみれ、欲まみれの悪徳官僚が絶えることはない。過去にも数えきれないほどいたし、現在も、さらにはこれからも、腐敗官僚は絶滅することはない。しかし、「地大物博」の中国では、古来、呉隠之のような清廉な官吏もまた数多くいた。一筋縄でくくれないのが中国の懐の深さだ。

想溢筆翔:(第234回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その77)』

2015-12-17 00:01:02 | 日記
前回

【176.平生 】P.369、BC201年

『平生』とは『ふだん、日ごろ』の意味だが、『平』というからには、辞書には説明がないが、私には普段は普段でも、騒乱のない穏やかな日々のことをいうように思える。

この単語は論語の『憲問編』にも「平生の言を忘れず、またもって成人となすべし」(不忘平生之言、亦可以爲成人矣)と見える位、古いことばである。



二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)の出現回数を見ると、577回と非常に多い。しかし、宋史以降(明以降)ではあまり使われていない単語であることも分かる。つまり、平生は少し古風な言い回しということが分かる。平生だけでなく、中国の古代の言い回しは中国よりも日本でより多く保存されていると言える。この現象は何も漢字だけに限らず、日本語の言い回しにしても、長らく日本文化の中心地であった京都から遠い地域に日本語の古い形態が残っているのと同じである。

さて、資治通鑑で平生が使われている箇所は60ヶ所と多いがその中でも有名な箇所を取り上げてみよう。漢楚の熾烈な戦いに勝利した劉邦が漢帝国を創立してから暫く経って功臣たちの間に不穏な空気が流れた。

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劉邦(漢の高祖)が大きな手柄を立てた功臣、20人ばかりを諸侯に任命しようとしたが、功臣たちが互いに自分の手柄を言いたてたので、なかなかだれを諸侯に封ずるか決定できなかった。そんなある日、劉邦が洛陽南宮の高楼から下を見下ろしていると、将軍たちがところどころに集まり、坐って話し合ったいるのが見えた。劉邦が張良に「あいつらは何を話しているのか?」と聞いたところ、張良は「陛下はご存知ないですか?謀叛を企んでいるのですよ!」と答えた。劉邦が驚いて、「天下が安定したのにどうして謀叛などしようと思うのか?」張良が答えていうには「陛下は、一介の庶民から立って仲間とともに天下を取り、いまや天子となられました。ただ、諸侯になれたのは、旧友や同郷人ばかりなのに対し、処罰で殺されたのは平生から仇ばかりです。今、軍吏が戦での働き具合を評価していますが、皆を諸侯に封じるには土地がたりません。それで、これら将軍が考えるに、陛下が土地の足りないのを知っているので、将軍たちの過去の過失にかこつけて殺されはしまいかと心配しているのです。それで、殺されるぐらいならいっそのこと皆で蜂起して反乱を起こそうかと考えている、と言ったわけです。」それを聞いて劉邦は困惑して、「どうすればいいのだろう?」と張良に聞いた。張良は「名案があります。陛下が平生から一番憎たらしいと思っていて、そのことを誰もが知っている人は一体誰ですか?」「そりゃ、雍歯だな。やつは、昔からワシと因縁の間柄である上に、何度もヤツのために痛い目にあっている。何度も殺してしまおうと思ったが、大きな戦功があるので、殺さずにいたヤツだ。」張良が「そうしたら、急いで真っ先に雍歯を諸侯に封字てください。そうすれば、諸将は皆安心することでしょう。」そこで、劉邦は宴会を設け、雍歯を什方侯に任じだ。そして、丞相や御史をせかせて、雍歯の昇進の儀式を執りおこなわせた。諸将は宴会を終え、皆よろこんで「あの一番憎まれていた雍歯ですら侯に任命されたのだ。ワシの命も心配ないぞ!」

上已封大功臣二十余人,其余日夜争功不決,未得行封。上在洛陽南宮,従複道望見諸将,往往相与坐沙中語。上曰:「此何語?」留侯曰:「陛下不知乎?此謀反耳!」上曰:「天下属安定,何故反乎?」留侯曰:「陛下起布衣,以此属取天下;今陛下為天子,而所封皆故人所親愛,所誅皆生平所仇怨。今軍吏計功,以天下不足*81D4封;此属畏陛下不能尽封,恐又見疑平生過失及誅,故即相聚謀反耳。」上乃憂曰:「為之*CF55何?」留侯曰:「上平生所憎、群臣所共知,誰最甚者?」上曰:「雍歯与我有故怨,数嘗窘辱我;我欲殺之,為其功多,故不忍。」留侯曰:「今急先封雍歯,則群臣人人自堅矣。」於是上乃置酒,封雍歯為什方侯;而急趨丞相、御史定功行封。群臣罷酒,皆喜,曰:「雍歯尚為侯,我属無患矣!」
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この場面で分かるのは、劉邦が、強敵の項羽と戦っている時に漢のために死力を尽くした将軍も、一旦、平和時になれば、取るに足らない理由で殺されることを恐れていたということだ。つまり、そういう事例はこの時(紀元前3世紀)までにしばしばあったということだ。実際、劉邦が天下を取るのに一番貢献した韓信が呂后のわなにかけられて殺される時に『狡兎、死して、走狗、烹らる』(狡兎死、走狗烹)とつぶやいたと言われる。

私の『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(角川新書)に、
 「資治通鑑を読まずして中国は語れない、そして、中国人を理解することも不可能である」
と述べたが、類似の事件はその後も頻繁に発生している。もっとも凄惨で大規模な粛清を行ったのは、明の建国者・洪武帝(朱元璋)で十数万人もの犠牲者が出たというが、多分大半は無実の人だったであろうと私には思える。

さて、劉邦と張良のこの会話に関して、司馬光が次のような評をつけている。

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司馬光の評:張良は高帝(劉邦)が全幅の信頼を置いていた謀臣である。それ点から考えると、もし、諸将の反乱を察知していたら劉邦に告げずにいないはずがない。つまり、知っていながら劉邦が諸将たちが集まって話し合っているのを目撃する機会を待って、話そうと考えていたに違いない。というのは、劉邦が天下を取ってから、しばしば好悪の感情に任せて賞罰を行ったために、公平さを欠いたこともあったに違いない。それで、諸将や群臣たちは、怨みを抱いたり、不安に駆られたりしたはずだ。張良は、ベストタイミングを見計らって劉邦に忠告をして、公平な処遇を実現させた。つまり、支配者である劉邦にはえこひいきを止めさせ、臣下には無用の不安感を取り除いた。これによって国家は安泰となり、その恩沢は後世にながく残った。張良のような人こそ、諫言上手というべきであろう。

臣光曰:張良為高帝謀臣,委以心腹,宜其知無不言;安有聞諸将謀反,必待高帝目見偶語,然後乃言之邪!蓋以高帝初得天下,数用愛憎行誅賞,或時害至公,群臣往往有*D7C6望自危之心;故良因事納忠以変移帝意,使上無阿私之失,下無猜懼之謀,国家無虞,利及後世。若良者,可謂善諌矣。
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司馬光が言うのももっともで、ちょっと考えても分かるが、本当に反乱を企むやつが、見通しのよい道路の道端で謀議をするはずなどないはずだ。暗闇あるいは密室でこそこそ行ってこそ謀議というものであろう。従って、劉邦が高台から見た景色は、単に将軍たちの愚痴の交換会に過ぎなかった。しかし、張良はこの機会をとらえて本題である『諸将・群臣に対する公平な処遇』を進言したのであった。中国では正面きって、正直になにもかも話すのは必ずしも評価されなかったと言う訳だ。孔子が「吾は、それ諷諌に従わんか」(孔子曰:「吾其従諷諌乎」)と言った主旨がこれである。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第39回目)『細君にローストビーフをプレゼント』
 想溢筆翔:(第137回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その 72)』

続く。。。