限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第360回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その203)』

2018-05-31 07:17:49 | 日記
前回

【302.往往 】P.4156、AD471年

『往往』(おうおう)とは「くりかえし起こること」。辞海( 1978年版)には「猶云毎毎」(なお、毎毎というがごとし)とある。また、辞源(2015年版)では「常常」とある。つまり、「毎回、なんども」ということだ。中国語では、同じ文字を繰り返す時に「々」は用いず、必ず同じ文字を書く。つまり「往々」とは書かず必ず「往往」と書く。

「往往」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のように、昔(戦国末期)からかなり多く使われていることが分かる。参考までに「常常」と「毎毎」の検索結果も付けたが、あまり使われていないことから「常常」や「毎毎」より「往往」の方が好まれていたことが分かる。
(しかし、頻繁に使われる単語の意味を説明するのに滅多に使われない単語を持ち出してくるのは、果たして語義を説明することになるのであろうか? かつて、イギリスの文人、サミュエル・ジョンソンは独力で英語の辞書を完成した。この時、network という簡単な単語をラテン語をぎしぎしとちりばめて、華麗に説明したが、その意味を理解できる者はほとんどいなかったことを思い出させる。)



資治通鑑で「往往」が使われている場面を見てみよう。宋の明帝(太宗・劉彧)の晩年、かなり精神異常が進行したようで、次々と家臣たちを殺した。

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当初、明帝がまだ帝位に就く前、王であった時には、温和で寛大であるとのもっぱらの評判であった。王族のなかでは、ただ一人、世祖(孝武帝・劉駿)からかわいがられていた。即位の当初、自分に対抗した晋安王(劉子勛)一派の全員を赦し、才能に応じて登用し、あたかも旧臣のような待遇をした。しかし、晩年になると、疑い深くなり、残虐な行為を行うようになった。迷信や占いに凝り、禁止事項が多くなった。宮廷では、しゃべる言葉や書く文書で、敗戦や異常死やそれに類する事態で使ってはいけない用語が千数百あり、ちょっとでも間違うとたちどころに処罰した。「騧」と言う字は禍と紛らわしいといって「𩢍」という字に変更した。お付きの者が少しでも意に逆らえば、往々にして、腹をえぐったり、斬り殺した。

初、上為諸王、寛和有令誉、独為世祖所親。即位之初、義嘉之党多蒙全宥、随才引用、有如旧臣。及晩年、更猜忌忍虐、好鬼神、多忌諱、言語、文書、有禍敗、凶喪及疑似之言応回避者数百千品、有犯必加罪戮。改「騧」字為「𩢍」、以其似禍字故也。左右忤意、往往有刳斮者。
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諸橋の大漢和辞典によると「騧」は「口先の黒い黄馬」とのこと。また、「𩢍」とも書くとある。「𩢍」の項目を見ると宋・明帝が変更したと説明する。どちらの字も「馬」扁であるし、発音も「クワ」(kwa)と同じなので通用するということだ。

ところで、ここでもあるように、帝王の振る舞いに、かなり異常なところが見られる。私の想像するところ、不老長寿の薬、いわゆる「仙薬」を飲用したため、精神異常になったのではなかろうか? 明帝も即位前は、聡明であったし、寛大であったのだが、即位後、 6年も経たない内に34歳で死去しているのも「仙薬」をせいだと考えられる。

『本当に残酷な中国史』(角川新書、P.19-22)では、「中国は晋以降、類が変わった」と述べたが、晋以降の帝王の常軌を逸した振る舞いが世相となり、世の中が一層殺伐となった。後世・明代の凌遅刑の残酷さは筆舌に尽くしがたい。

続く。。。
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百論簇出:(第224回目)『リベラルアーツ道を極めるには(その3・最終回)』

2018-05-27 11:25:37 | 日記
前回

結局、リベラルアーツは「学」(サイエンス)ではなく「術・技」(アーツ)であることから、リベラルアーツには「攻略本」は存在せず、自分の意志で行く方向性を決定することが求められる、ということだ。その意味で、第一回目で述べたように、本当にリベラルアーツを修得しようとするなら、万人共通の教科書ではなく、まず、「自分の力で本を見つけ出す勘」を磨き、自分の性格や才能にフィットする本を見つけることが一番重要だということになる。(後述のチョムスキーの言を参照のこと)

と、まあここまで、リベラルアーツを学びたい人を突き放したような物の言い方にはなったが、ここで「リベラルアーツ道を極めるには」という方法論についてちょっぴり助け舟(ヒント)を出そう。それは、私自身もそうだが、杉田玄白や木田氏はいづれも皆、「原典」と格闘したということだ。現代は何でもかんでも「スピード感」が重視されるが、この考えはリベラルアーツ道にはそぐわないと考える。もっとはっきり言うと、「スピード感」重視の考え方はリベラルアーツにとっては「悪魔の囁き」であり、邪道である。

第一回目に水泳の初心者は水の中でもがきながら、手足をばたばたさせていると、ある時、ふっと水に浮く感覚をつかむことで、初めて泳げるようになると説明したが、もし、泳げない人に早く泳げるようにとの配慮から浮き輪をつけてあげるとどうだろう? そうすると確かに最初からすいすいと泳げるようになるが、それはあくまでも浮き輪に助けられて泳げているに過ぎない。そのような状態では、いくら浮き輪を付けて泳ぐ訓練を続けても結局は、自ら泳ぐことはできないであろう。

教科書ではなく「原典」(原語であるのがベストだが、一歩譲って英訳)を読むというのは、時間がかなりかかる上に、内容の理解も今いち不十分な所が残るであろう。つまり、「労多くして功少なし」の感がある。「スピード・効率」を重視する現代的感覚では無駄だと感じられるかもしれない。しかし、以前のブログ
 沂風詠録:(第271回目)『英語力アップは英英辞典から』
では、英語の学習時に英英辞典を使うと、時間はかかるものの、その内に英単語の陰影が非常にくっきりと分かるようになると述べた。それと同じく、原典と時間をかけて格闘すると、その内に自分の軸がどっしりと座ってくるのがよく分かる。こういった観点から言うと、私のリベラルアーツの本『社会人のリベラルアーツ』(祥伝社)や『日本人が知らないアジア人の本質』(ウェッジ)は、どちらもリベラルアーツを懇切丁寧に教える教科書ではない。この2冊の本はリベラルアーツという領域を概観するための本、リベラルアーツ道の主軸を示すポインター、である。


【出典】When Socrates met Plato.

「原典を読む」ひとつの例として、古代のリベラルアーツの華ともいえる「雄弁術・rhetoric」を学ぼうとする場合を考えてみよう。この時、現代人の書いた「弁論に負けない法」や「相手を黙らせる雄弁術」のような教科書的に内容が秩序正しく整頓された本を読むのではなく、歴史上もっとも雄弁術が盛んだった時代に書かれた本を読む事をお勧めしたい。具体的には次の4冊がある。どの本も、弁論術が自由人の知的な武器となっていた時の活劇を見るように活き活きとした内容が満載だ。
 プラトン:『プロタゴラス』『ゴルギアス』
 キケロ:『弁論家について』(De Oratore)
 タキトゥス:『雄弁家についての対話』(邦訳なし、Dialogus de oratoribus)

本筋とは関係ないが、プラトンを挙げたのでついでに言うと、世の中ではプラトンというと主著の『国家』を読むべしと言われるが、政治的な観点はいざしらず、弁論術の観点から言えば、全くの駄作だ。なぜなら、『国家』は実質的にソクラテスの独演会で、対話する人間は、いわば太鼓持ちのような気の抜けた返事しかしていないからだ。『プロタゴラス』や『ゴルギアス』に見られるような、対話者が火花を散らしながら知的格闘をする、といった光景は『国家』では残念ながらほとんど見られない。

さて、ここに4冊の本を挙げたが、もっと多くの本が存在していることは間違いない。しかし、読むべき本のリストをずらずらと挙げることに対して、知の巨人・チョムスキーは次のように反対しているが、私もその意見には全く同感だ。
「一番いいのは、自分で探して、驚くようなこと、予想もしなかったような本を発見することでしょう。リストを提供することは、その予想外の驚きや探し当てる喜びというものを、多少なりとも奪うことにもなる。自分で発見する喜びというのは、指示に従った場合よりも、はるかにエキサイティングで価値の高いものです。」 (『知の逆転』P.126、NHK出版新書)

さて、3回に分けて「リベラルアーツ道を極めるには」という点について述べたが、ここで「教科書的」にまとめると次の2点が私の言いたいことだ。
 1.リベラルアーツに万人向けの教科書はない。
 2.原典との格闘は、一見、効率が悪そうだが、100冊の教科書に優る。

ラテン語に Festina Lente という諺がある。こなれた日本語に訳し難いフレーズであるが、私は「あせらず、あきらめず」と意訳している。焦りも禁物、諦めも禁物だ。成果目標など無視して、地道にやっていると、不思議なことに、いつの間にかゴールに到着していることに気付くはずだ。

(了)
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想溢筆翔:(第359回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その202)』

2018-05-24 22:27:53 | 日記
前回

【301.親善 】P.4154、AD470年

『親善』とは文字通り「親しみ仲良くすること」という意味。辞海(1978年版)にも辞源(1987年版)にも説明はないが、戦国時代から漢代に書かれたといわれる『管子』にも既に使われているので由緒ある語句といえる。

「親善」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。



この表から、「親善」という語句が使われていたのは、だいたい唐の時代までと言っていいだろう。近代(清史稿)の中国では全く使われなくなったことが分かる。日本でこの語句がどのような使われ方をされたのかは、分からないが、現在、日中共につかわれているのは、日本語から中国語に入ったものであろうと考えられる。

資治通鑑の中で「親善」が取り上げられている場面を見てみよう。短い文章ながら、中国人の考え方が非常によく分かる。

 +++++++++++++++++++++++++++
以前、北魏の南部尚書である李敷と儀曹尚書の李訢は子供のころから互いに親善(親しいつきあい)をしていた。中書侍郎の盧度世も含めた、3人はいづれもその才能を買われて世祖(太武帝)と顕祖(献文帝)から寵をうけ、国家の機密事項や財政、さらには詔命にまで関与していた。その後、李訢が地方に転出になり相州の知事(刺史)となったが、賄賂を受けて密告された。李敷はこの件をもみ消そうとしたが、顕祖にばれてしまった。李訢は護送車(檻車)で都にまで連れてこられて、審査を受けた。罪を認めたので死罪となった。この時、李敷の弟の李奕は馮太后の寵愛を受けていた。献文帝はずっとまえから、馮太后と李奕の関係を嫌っていた。獄人が李訢に「李敷兄弟の隠し事を密告すればお前を赦してやるぞ」と、秘かに帝の意図をほのめかした。

李訢は、面会にきた娘婿の裴攸に「私は、李敷とは単に遠い親戚関係にしかないが、子供の頃からの深い恩義がある。今、役人から李敷兄弟の隠し事を密告せよと言われたが、情として忍びない。簪を使って自殺しようとしたり、帯で自分の首を絞めて自殺しようとしたが、とても無理だった。それに、一体全体、どうして私が李敷兄弟の隠し事を知っていようか!どうすればいいだろう?」と相談した。裴攸が答えていうには「どうして、人の身代わりに死ぬようなバカなことがありましょうか!馮闡という者がいますが、以前、李敷に殺されたので、一家はひどく恨んでいます。それで馮闡の弟に聞けば、きっと李敷の隠し事が分かるでしょう。」李訢はその通りにした。一方、それとは別に趙郡の范檦という者が李敷兄弟の隠し事を30件ばかり暴いた書類を提出した。役人から知らせを受けた顕祖は大いに怒って、李敷兄弟を処刑した。お蔭で、李訢は死罪を免れ、鞭打ちされたあと、丸坊主(髡)にされて、辺境での強制労働の刑に就いた。しかし、暫くすると、太倉尚書に復帰し、南部の事を担当した。

初、魏南部尚書李敷、儀曹尚書李訢、少相親善、与中書侍郎盧度世皆以才能為世祖、顕祖所寵任、参予機密、出納詔命。其後訢出為相州刺史、受納貨賂、為人所告、敷掩蔽之。顕祖聞之、檻車徴訢、案験服罪、当死。是時敷弟奕得幸於馮太后、帝意已疏之。有司以中旨諷訢告敷兄弟陰事、可以得免。

訢謂其壻裴攸曰:「吾与敷族世雖遠、恩妃同生、今在事勧吾為此、吾情所不忍。毎引簪自刺、解帯自絞、終不得死。且吾安能知其陰事!将若之何?」攸曰:「何為為人死也!有馮闡者、先為敷所敗、其家深怨之。今詢其弟、敷之陰事可得也。」訢従之。又趙郡范檦条列敷兄弟事状凡三十余条。有司以聞。帝大怒、誅敷兄弟。訢得減死、鞭髡配役。未幾、復為太倉尚書、摂南部事。
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もうすぐすると、日本でも「司法取引」が施行される。「司法取引」とは、犯罪捜査の時に、積極的に自分の罪や他人の暴露することで、罪が軽くなることである。ここに登場する李訢は顕祖から、李敷兄弟の隠し事を暴露すれば、死刑は免れさせてやるとの誘いに悩んだ末、最終的には李敷を売って、自分は助かった。顕祖は李敷を憎んでいたというのではなく、李敷の弟の李奕が馮太后の寵愛を受けていたのが目障りだったのだ。それで、李訢を活かしてやるという餌で、李奕を殺す策を李訢に考えさせたのだった。

と、ここまででもこの一連の事件は、いかにも中国社会ならではの裏ワザが出てくるが、さらに驚きの事実があった。それは、この部分につけられている胡三省の注を読むと分かる。

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このことが原因で、馮太后が顕祖を鴆毒で暗殺することになる。ところで、李敷兄弟を告発した范檦だが、後ほど、李訢を告発して死に陥れたのもやはり、同じ范檦であった。

為馮太后鴆魏主張本。告李敷兄弟者范檦、其後告李訢者亦范檦也。
 +++++++++++++++++++++++++++

馮太后の憎しみを買った顕祖が毒殺され、一度は、死の淵から蘇った李訢も范檦の密告によって十年も経たない内に処刑(AD477年)されてしまうことになった。

今回、取り上げた事件は、胡三省の注も入れてもわずか300字足らずであるが、それでも中国人の行動パターン(文化のコア)がくっきりと見えてくる。それは次の6点にまとめられる。
1.地方官は(巨額)賄賂を取る。
2.司法取引で、友を売る。
3.宮廷内の暗躍する権力闘争 ― 皇帝と雖も命がけ
4.権力闘争では、「将を射んとせば、先ず馬を射よ」(射人先射馬)だ。
5.親しい友人でも裏切る(究極の人間不信の世界)
6.罪は必ず連座 ― 一族は生死を共にする。

当然のことながら、これらの事項には中国以外の国でもあるし、中国人でも必ずしもこの事項に当てはまらない行動をする人がいる。しかし、こういった事件を一つずつ見ていくと、自分の中に大枠ながら、中国文化のコアが浮かんでくることが分かる。

続く。。。
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百論簇出:(第223回目)『リベラルアーツ道を極めるには(その2)』

2018-05-20 19:10:41 | 日記
前回

先ごろ、死去した哲学者の木田元氏は、ハイデッガーの主著『存在と時間』を読んで次のような感想を述べている。
「おもしろかったのですが、肝腎なことは何も分かりません。何もわかっていないということだけはわかりました。この本は一度や二度これだけ読んでわかるような本ではない、ということもわかりました。フッサール、ニーチェ、カント、ヘーゲル、それにプラトンとアリストテレスと、そこで問題にされている哲学者たちの本をちゃんと読んで、まわりを固めてからでなければ、この本は分かりそうもないという見当はつきました。」(『闇屋になりそこねた哲学者』晶文社)

木田氏が原文で読んだ『存在と時間』はハイデッガーの難解な本である。私も以前、ドイツ語の原文を部分的に読んだことがあるが、木田氏とは違って数ページも行かない内に挫折した。それ故、到底、お世辞にも「おもしろい本」だとは思えないが、ここで注目したいのは、木田氏の態度だ。木田氏は、細かいところまでは理解は出来なかったものの、「ハイデッガーを理解するには、関連する本を読まないといけない」という目星を自分でつけることができたという点だ。

ある本を受動的読むのではなく、能動的に「本と格闘する」という経験を通して得られるものは、暗記モノのような本から得られる薄っぺらい、雑多な知識ではなく、「考え方の主軸が据え付けられる」というものだ。そこまで拠り所がなかった自分の考え方の主軸(あるいは重心)が、本との格闘を通して、徐々に(時として突如に)居場所が明確になるのである。感覚的に言うと「この本によって、眼が開かされた」、「別の物の見方ができた」、「自分が従来、何を求めてきたのかようやく分かった」というような印象だ。

私の個人的な話をすると、ドイツ留学時にシュライエルマッハーのドイツ語訳でプラトンを初めて読んだ時は、全く杉田玄白の感想そのもので「誠に艪舵なき船の大海に乗り出だせしが如く、茫洋として寄るべきかたな」き思いがしたものだ。しかし、同時に木田氏の感想にあるようにプラトンにどことなく「おもしろさ」を感じた。と同時に、当時のギリシャ社会や哲学者たちのことを知りたいという強い欲求が湧いてきた。振り返れば、この時にギリシャ・ローマを真剣に知りたいと思ったことが現在に至るまで ― そして多分これからも ― 私の大きな主軸となっている。理解できないままプラトンを読んだことが、受け身的に教わるギリシャ・ローマより遥かに強いインパクトを受けた、ということだ。

こういった態度と反対なのが、以前の2本のブログ
 百論簇出:(第139回目)『チャート式脳の弊害』
 百論簇出:(第187回目)『チャート式脳の弊害(補遺)』

で述べた「チャート式」、つまり要点が分かりやすくまとめらられた教科書や参考書に頼ろうとする態度だ。高校受験あるいは大学受験という、限られた時間の中で、いかに効率よく知識を吸収するかという態度が一旦、身に染みついてしまうと、社会に出ても、ついつい「XX攻略本」スタイルの本を探そうとしてしまう。

私は、企業研修や講演などでリベラルアーツについて話す機会は多いが、研修企画者や受講者から必ず「リベラルアーツを学ぶのに、何かまとまった良い本はありませんか?」と聞かれる。私は自著である『社会人のリベラルアーツ』(祥伝社)を挙げるが、それは質問者の意図ではないと薄々感じる。質問者は「リベラルアーツ攻略本」を求めているのだ。

そもそもリベラルアーツの「アーツ・Arts」が示すようにリベラルアーツは学校で学ぶような「学」ではなく、芸道の徒弟やスポーツ選手が自分の体験を通じて会得する「術・技」である。「学」というのは、例えば「数学」を考えてみても分かるように、問題を解く時に、セオリー(攻略法)が存在する。つまり、いくつかの公式・定理を理解し、暗記すると、(原理的には)応用問題を解くことは可能だ。その上、「学」の方法は万人共通である。「学」というのは人によって早く理解出来る/出来ないという差はあっても、修得すること自体には属人性は関係しない、という特徴がある。一方「術・技」というのは、例えば絵画や料理を考えても分かるように、同じ指導を受けても、全く出来栄えが異なる。それは、指導者が悪いのではなく、受講者の生まれ持ったもの(性質、才能)が異なるのが原因だ。それ故、「術・技」においては受講者の才能を見極めて延ばすには、画一的な講義ではダメで、かならず「人それぞれに応じて」(ad hoc)に指導しないといけない。



「学」と「術・技」の違いについて、別の比喩を使って説明しよう。

たとえば、医者からもっとビタミンCと食物繊維を取りなさい、と言われたとしよう。手っ取り早くは、ファイブミニのような栄養ドリンクを飲むことだろう。このような栄養ドリンクはきちっとした品質管理がされているので、過不足のない量のビタミンCと食物繊維が含まれている。それで、確かに即効性はあるかもしれないが、長期的視点でみると、― 医学的根拠はないが ― 体質改善にはならないであろうと思われる。やはり、自分の歯と顎でしっかりと野菜や果物をかんで胃できちんと消化することが、体には必要だと私は思う。野菜や果物を食べると、主たる栄養素だけでなく、いわば余計と見なされる夾雑物から、人間の体には不可欠な微量元素も摂取することができる。つまり、栄養ドリンクではなく、自然の食物からの栄養摂取に手間暇をかけることは、一見無駄な作業をするように見えて、実は体には断然良いのだ。
(注:微量元素とは、コバルト、亜鉛、セレン銅、クロム、マンガン、ニッケル、モリブデなど)

これと同様、リベラルアーツを学ぶ時に、教科書スタイルのような本は、栄養ドリンクのようにエッセンスがきっちりと詰まっていて、消化するのに好都合な形式知となっているので、誰もが既定の手段で必要な情報を手に入れることができる。一方、「術」は無駄な手順も踏むので、回り道かもしれないが、最終的には体(五感)に「技」が染みこんでくる。私の経験から、リベラルアーツにはこの方法の方が遥かにディープな所まで攻略できると言える。

続く。。。
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想溢筆翔:(第358回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その201)』

2018-05-17 17:29:31 | 日記
前回

【300.標榜 】P.4152、AD470年

『標榜』とは現在では「主義・主張などを公然と掲げあらわすこと」のように、どちらかというと「主張を明確にする」という行為を抽象的に表現する意味で用いられることが多いように思う。

辞源(1987年版)をチェックすると、次の3つの意味が挙げられている。
 1.掲示、品評
 2.宣揚、誇耀
 3.題額

現代日本語で使われている意味と完全にぴったりと一致する意味はここにはないことが分かる。また、「ひょうぼう」には同じ発音、同じ意味で次の3つの書き方があるとも説明する。
 摽榜、標搒、標牓

なぜ、このように3つもの字があるかと言えば、それぞれの字(標、榜)に同音・同義の字が存在することが原因だ。
 ひょう=標、摽
 ぼう=榜、搒、牓

これから分かるように、漢字というのは、本質的に一般的に考えられているような表意文字ではなく「ちょっと難しい発音記号」と考えると分かりやすい。つまり大半の漢字は表音文字(形声)であるのだ。

「標榜」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。『南斉書』が初出ということはかなり新しい語句だといえる。しかし、歴代、あまり使われることのない単語であることもわかる。また、辞源には3つの書き方があるとの説明があったが、実際に二十四史で見つかったのは摽榜と標牓だけである。



さて、資治通鑑で「標榜」が使われている場面を見てみよう。

その南斉の初代皇帝・蕭道成が宋の明帝に簒奪の志を抱いているのではないかと疑われたのを、機智で乗り切った場面。

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南兗州の刺史(長官)の蕭道成は長らく、戦場にいた。それで、都では蕭道成の異様な人相からすると皇帝になるに違いないとの噂が流れた。明帝は噂に惑わされて、蕭道成を宮廷に呼んで黄門侍郎に任命し、越騎校尉を兼ねさせようとした。

蕭道成は自分が疑われているので、宮廷に戻りたくないと思ったが、軍中に留まる口実を思いつかなかった。その時、部下の冠軍參軍で広陵出身の荀伯玉が蕭道成に、騎兵数十人を、北魏の国境に送り、標榜を設置するように勧めた。北魏は案の定、敵(宋)の騎兵が何をしたのかを確認するためにすぐさま、騎兵数百人を国境沿いに派遣した。蕭道成は「敵兵が国境沿いに出現しました」と上奏したので、明帝は、蕭道成を前職に戻した。

南兗州刺史蕭道成在軍中久、民間或言道成有異相、当為天子。上疑之、徴為黄門侍郎、越騎校尉。

道成懼、不欲内遷、而無計得留。冠軍參軍広陵荀伯玉勧道成遣数十騎入魏境、安置標榜、魏果遣遊騎数百履行境上;道成以聞、上使道成復本任。
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中国に「上有政策、下有対策」(上に政策あれば下に対策あり)という諺があるそうだ。ここに見る荀伯玉の対策などはこの諺を地でいく。

日本の国会では、野党が評決に反対する時に「牛歩作戦」を行う。昔はしばしばあったし、最近でもたま~に見かけるが、これなど実効の伴わない、全く徒労するだけの愚策であると私には思える。(そのうち、目端の利いた中国のベンチャーは日本の国会向けに「牛歩ロボット」を開発し売り出すだろう!)野党議員に言いたい、「たわいもない牛歩作戦より、荀伯玉のように人の心理の奥を読んだ実効ある対策案を考えよ!」

続く。。。
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