(前回)
【302.往往 】P.4156、AD471年
『往往』(おうおう)とは「くりかえし起こること」。辞海( 1978年版)には「猶云毎毎」(なお、毎毎というがごとし)とある。また、辞源(2015年版)では「常常」とある。つまり、「毎回、なんども」ということだ。中国語では、同じ文字を繰り返す時に「々」は用いず、必ず同じ文字を書く。つまり「往々」とは書かず必ず「往往」と書く。
「往往」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のように、昔(戦国末期)からかなり多く使われていることが分かる。参考までに「常常」と「毎毎」の検索結果も付けたが、あまり使われていないことから「常常」や「毎毎」より「往往」の方が好まれていたことが分かる。
(しかし、頻繁に使われる単語の意味を説明するのに滅多に使われない単語を持ち出してくるのは、果たして語義を説明することになるのであろうか? かつて、イギリスの文人、サミュエル・ジョンソンは独力で英語の辞書を完成した。この時、network という簡単な単語をラテン語をぎしぎしとちりばめて、華麗に説明したが、その意味を理解できる者はほとんどいなかったことを思い出させる。)
資治通鑑で「往往」が使われている場面を見てみよう。宋の明帝(太宗・劉彧)の晩年、かなり精神異常が進行したようで、次々と家臣たちを殺した。
+++++++++++++++++++++++++++
当初、明帝がまだ帝位に就く前、王であった時には、温和で寛大であるとのもっぱらの評判であった。王族のなかでは、ただ一人、世祖(孝武帝・劉駿)からかわいがられていた。即位の当初、自分に対抗した晋安王(劉子勛)一派の全員を赦し、才能に応じて登用し、あたかも旧臣のような待遇をした。しかし、晩年になると、疑い深くなり、残虐な行為を行うようになった。迷信や占いに凝り、禁止事項が多くなった。宮廷では、しゃべる言葉や書く文書で、敗戦や異常死やそれに類する事態で使ってはいけない用語が千数百あり、ちょっとでも間違うとたちどころに処罰した。「騧」と言う字は禍と紛らわしいといって「𩢍」という字に変更した。お付きの者が少しでも意に逆らえば、往々にして、腹をえぐったり、斬り殺した。
初、上為諸王、寛和有令誉、独為世祖所親。即位之初、義嘉之党多蒙全宥、随才引用、有如旧臣。及晩年、更猜忌忍虐、好鬼神、多忌諱、言語、文書、有禍敗、凶喪及疑似之言応回避者数百千品、有犯必加罪戮。改「騧」字為「𩢍」、以其似禍字故也。左右忤意、往往有刳斮者。
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諸橋の大漢和辞典によると「騧」は「口先の黒い黄馬」とのこと。また、「𩢍」とも書くとある。「𩢍」の項目を見ると宋・明帝が変更したと説明する。どちらの字も「馬」扁であるし、発音も「クワ」(kwa)と同じなので通用するということだ。
ところで、ここでもあるように、帝王の振る舞いに、かなり異常なところが見られる。私の想像するところ、不老長寿の薬、いわゆる「仙薬」を飲用したため、精神異常になったのではなかろうか? 明帝も即位前は、聡明であったし、寛大であったのだが、即位後、 6年も経たない内に34歳で死去しているのも「仙薬」をせいだと考えられる。
『本当に残酷な中国史』(角川新書、P.19-22)では、「中国は晋以降、類が変わった」と述べたが、晋以降の帝王の常軌を逸した振る舞いが世相となり、世の中が一層殺伐となった。後世・明代の凌遅刑の残酷さは筆舌に尽くしがたい。
(続く。。。)
【302.往往 】P.4156、AD471年
『往往』(おうおう)とは「くりかえし起こること」。辞海( 1978年版)には「猶云毎毎」(なお、毎毎というがごとし)とある。また、辞源(2015年版)では「常常」とある。つまり、「毎回、なんども」ということだ。中国語では、同じ文字を繰り返す時に「々」は用いず、必ず同じ文字を書く。つまり「往々」とは書かず必ず「往往」と書く。
「往往」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のように、昔(戦国末期)からかなり多く使われていることが分かる。参考までに「常常」と「毎毎」の検索結果も付けたが、あまり使われていないことから「常常」や「毎毎」より「往往」の方が好まれていたことが分かる。
(しかし、頻繁に使われる単語の意味を説明するのに滅多に使われない単語を持ち出してくるのは、果たして語義を説明することになるのであろうか? かつて、イギリスの文人、サミュエル・ジョンソンは独力で英語の辞書を完成した。この時、network という簡単な単語をラテン語をぎしぎしとちりばめて、華麗に説明したが、その意味を理解できる者はほとんどいなかったことを思い出させる。)
資治通鑑で「往往」が使われている場面を見てみよう。宋の明帝(太宗・劉彧)の晩年、かなり精神異常が進行したようで、次々と家臣たちを殺した。
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当初、明帝がまだ帝位に就く前、王であった時には、温和で寛大であるとのもっぱらの評判であった。王族のなかでは、ただ一人、世祖(孝武帝・劉駿)からかわいがられていた。即位の当初、自分に対抗した晋安王(劉子勛)一派の全員を赦し、才能に応じて登用し、あたかも旧臣のような待遇をした。しかし、晩年になると、疑い深くなり、残虐な行為を行うようになった。迷信や占いに凝り、禁止事項が多くなった。宮廷では、しゃべる言葉や書く文書で、敗戦や異常死やそれに類する事態で使ってはいけない用語が千数百あり、ちょっとでも間違うとたちどころに処罰した。「騧」と言う字は禍と紛らわしいといって「𩢍」という字に変更した。お付きの者が少しでも意に逆らえば、往々にして、腹をえぐったり、斬り殺した。
初、上為諸王、寛和有令誉、独為世祖所親。即位之初、義嘉之党多蒙全宥、随才引用、有如旧臣。及晩年、更猜忌忍虐、好鬼神、多忌諱、言語、文書、有禍敗、凶喪及疑似之言応回避者数百千品、有犯必加罪戮。改「騧」字為「𩢍」、以其似禍字故也。左右忤意、往往有刳斮者。
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諸橋の大漢和辞典によると「騧」は「口先の黒い黄馬」とのこと。また、「𩢍」とも書くとある。「𩢍」の項目を見ると宋・明帝が変更したと説明する。どちらの字も「馬」扁であるし、発音も「クワ」(kwa)と同じなので通用するということだ。
ところで、ここでもあるように、帝王の振る舞いに、かなり異常なところが見られる。私の想像するところ、不老長寿の薬、いわゆる「仙薬」を飲用したため、精神異常になったのではなかろうか? 明帝も即位前は、聡明であったし、寛大であったのだが、即位後、 6年も経たない内に34歳で死去しているのも「仙薬」をせいだと考えられる。
『本当に残酷な中国史』(角川新書、P.19-22)では、「中国は晋以降、類が変わった」と述べたが、晋以降の帝王の常軌を逸した振る舞いが世相となり、世の中が一層殺伐となった。後世・明代の凌遅刑の残酷さは筆舌に尽くしがたい。
(続く。。。)