限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第423回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その266)』

2020-04-26 22:21:13 | 日記
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【365.研鑽・鑽研 】P.4653、AD519年

『研鑽』とは「学問などを深く究めること」。一字づつはそれぞれ「研」は「みがく」、「鑽」は「(きりで)穴をあける」という意味がある。つまり「研鑽」は元来「職人が宝石に穴をあけて、丁寧に磨く」ことを意味した。その物理的な意味から抽象的な意味になった。意味は同じであるものの、漢文の文脈では「研鑽」よりも逆順の「鑽研」の方が多く使われている。中国の辞書には「研鑽」は載っていないが「鑽研」は載っている。辞海(1978年版)には「鑽研」を「謂精究其義也」(その義を精究する也)と説明する。また辞源(1987年版)では「鑽堅研微」の句を見だしとして挙げ、出典は晋書・《虞喜伝》という。、その意味は「研究事理、深入底細」であると説明する。

「研鑽」と「鑽研」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。



この表からわかるように、「研鑽」も「鑽研」も中国ではほとんど使われていない単語であるが、強いて言えば、「鑽研」の方が多く使われていることが分かる。(もっとも「鑽研」の4回のカウントは、同じ個所の記事が別の史書に載せられているため、実質2回ということではある。)

さて、資治通鑑で「鑽研」が使われている唯一の場面を見てみよう。資治通鑑は、普通の歴史書のように政治・経済だけでなく、文化から庶民生活に至るまで余すところなく記述されていて、まさしく大著という名に恥じない名著である。今回取り上げた記事はそのことがよくわかる部分である。

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北魏の陳仲儒が前漢の京房が策定した音階に従って八音を調整したいと願い出た。官僚がいうには「確かに京房が制定した音律は、今その其器は伝来しているが、音律に関する理論を知っている者はほとんどいない。お前は一体誰に学んだというのだ?根拠とする典籍は何だ?」と詰問した。それに対して、陳仲儒が答えていうには「私は幼いころから琴が大好きでした。それに又、司馬彪が編纂した続漢書を読んでそこに書かれている京房の準の理論を読みました。そしてそれを尽く理解しました。それから自分自身で熟考し、長らく研鑽(鑽研)を積み、納得するに至りました。

魏人陳仲儒請依京房立準以調八音。有司詰仲儒:「京房律準、今雖有其器、暁之者鮮。仲儒所受何師、出何典籍?」仲儒対言:「性頗愛琴、又嘗読司馬彪続漢書、見京房準術、成数昞然。遂竭愚思、鑽研甚久、頗有所得。
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この部分は、北魏の孝明帝の時代に、陳仲儒が宮廷音楽の音律を整理しなおした、という記事である。上に紹介した部分に継いで、約 1ページにもわたり、それぞれの調で曲の雰囲気どのように異なるのかについて説明している。

ここで感心するのは、司馬光の本文はわずか 1ページ足らずなのに対して、胡三省の注はびっしり5ページも細字で埋め尽くされている。字数もさることながら、引用文献も多いことに驚かされる。私には分からないが、胡三省は引用すべき箇所を正確に理解していたのであろうと思われる。司馬光に負けず劣らず、博学な人だ。

資治通鑑は元の史書の10パーセント程度しか引用していない。つまり、司馬光が重要でないと判断した部分はカットされている。音楽に関するこの部分が収録されていることから考えると、当時の知識人(文人・士大夫)にとって、音楽に関する情報は文化を理解するうえで重要であったことが逆算できる。

続く。。。
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沂風詠録:(第324回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その29)』

2020-04-19 22:43:24 | 日記
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C-3.英語・その他の辞書

C-3-1 Peter Roget, "Roget's International Thesaurus, "

英文を書くとき、和英辞典を使ってそれまでに一度も見たこともないような難しい単語や熟語を自分の文章の中に埋め込んでいる人がたまにいる。和英辞典を使うのは何も悪いことではないが、ただ単語力が足りないので、その人には難解な単語と他の単語とのちぐはぐ感が全くつかめていないことが問題だ。

そのような状況に陥る最大の原因は、英語には出生が異なる4種類の単語があることを知らない点にある。4種類の単語はどのように異なっているのか、わかりやすくするために日本語のケースを併記するので見てほしい。(==> で示す)
1.ゲルマン語系(英語本来の土着語) 
 ==> やまと言葉(ひらがなで書ける単語) 例:room
2.古フランス語系(ノルマン・コンクエストによってもたらされた外来語) 
 ==> 古代に伝来した漢語(平安以前) 例:chamber
3.ギリシャ語・ラテン語系(ルネサンス以降の近代になって系統的に取り入れられた古典語)
 ==> 近代(宋・鎌倉以降)に流入した漢語、欧米からの借用語(カタカナ表記)例:camera
4.その他の外来語 
 ==> カタカナ語(一般的な外来語) 例:salon、saloon

日本人であれば、だれでもこれらの差は、簡単に納得できる。これらの識別は(ひらがな・漢字・カタカナ)という視覚的要素があることは否定できないが、耳から聞いてもたいてい区別がつくものだ。パロディ的になるが、低学年の小学生が次のような文を書いたとしたらどう思うだろうか?

「きのう、みんなで一緒にえんそくにいきました。おべんとうを食べようとして、しばふに座ったら、きゅうにヘビが出てきたので驚愕しました。」

最後に突如として「驚愕」という、小学生にしては難しい単語が出てくると誰もが「びっくり」することであろう。この原因は、小学生であれば「びっくり、おどろく」というやまと言葉で表現するはずと思っているにも拘わらず、ここだけ突如として「驚愕」という難しい漢語が使われているからだ。

日本語の枠組みでこのような文章を目にすれば、だれもが違和感を感じ、「ちょっとこの使い方はおかしい!」と指摘するだろう。ところが、英語の枠組みでおなじような現象が起こってもおいそれと批判できない。それは、英語の単語の持つ色合い(1.から4.)が分からないことが原因だ。英語がネイティブではない日本人にとっては単語の色合いを知ることはなかなか難しい。この点を克服する方法は2つある。一つは語源を知ること、もう一つはシソーラス辞典を使うことだ。

語源は英単語を増強する手段としてよく言われるが、たいていの場合、意味を覚えるためという目的だろう。それゆえ、上に示したような由来の区別にまで意を払っている人は少ないのではないか。確かに、語源欄からこの4つの区分を知るのは、はじめは苦労する。しかし、私の経験から言えば、注意して見ていれば1年も経たないうちに、英語の単語に対する語感が磨かれてきて、新しい単語を見たとたんに4つのどれかがだいたい分かるようになる。そうなると、上のパロディで示したような小学生の「吃驚」するような「奇態」な文章は書くことはない。皆さんも語源の説明が詳しい辞書を使って、常に語源をチェックすることで、是非、自らその効果を確かめてほしい。

さて、次にシソーラス辞書について説明しよう。

シソーラス辞典とは日本語でいうと「類語辞典」のことだ。英語や日本語には、もとからの土着語に加えて、外来語が数多く入っている。反対に歴史的にみて外来語が少ない言語といえば、古典ギリシャ語や漢語が挙げられる。(もっとも、現代のギリシャ語や中国語はかなり多くの外来語が入っている。)外来語を取り入れた時、本来の土着語と全く同じ意味の単語があるが、それに対して、次の2つの対処の仕方がある。
 A.土着語を抹消する
 B.土着語と外来語の両方を残す


例えば、日本語では「やま、かわ」という土着語と全く同じ単語が漢語では「山(サン)、河(ガ)」という。日本人がこれらの漢語を取り入れたとき、この両方を残した。一方、朝鮮にも漢語が流入する前に同じように土着語があった。ところが漢語を取り入れた後で、土着後を抹消してしまった。かつての朝鮮ではどのような土着語を使っていたかは現在ではもうわからなくなっているようだ。

西欧でも同様の対処が見られた。イギリスは日本風、フランスは朝鮮風だ。日本とイギリスは土着語を残したという点において同じだけでなく、外来語が流入するままに未整理状態のまま残した点でも共通している。日本語でいえば、呉音、漢音、唐音の3つの音韻のそのまま残している。英語では、古代フランス方言(ノルマン・コンクエストがもたらしたフランス語)以降の流入語を未整理のまま残したので、フランス語に比べて doublet が多いという特徴があり、さらには語彙そのものがフランス語よりかなり多い(実数は未確認だが、2倍程度あるものと想像される)。

ルネサンス以降、ラテン語だけでなくギリシャ語由来の外来語も大量に英語に流入したので、語彙に関して改めて綴り字の統一的な修正が行われた。この結果、従来のフランス語経由のラテン語(2.)に加えて、古典の正統的なラテン語やギリシャ語(3.)もかなり日常的に使われるようになった。

このように、英語の単語と一口に言っても、 1.から4.までが混在している状況なのだ。シソーラス辞書を見ると、嫌というほど、多くの同義語・類義語が目につく。つくづく、英語とは外来語と本来語が「ゴミ屋敷」状態の言語だとわかる。このような状況には、ネイティブスピーカーの英米人も手を焼いたのであろう、それぞれの類義語にはどのように意味の差があるか、をまとめたシソーラス辞典が作られた。



英語の辞典ではOEDが権威であるのと同様、シソーラスでは今回紹介する、Roget's Thesaurus が揺るぎない地位を保っている。初版が1852年というから、すでに150年もの長きにわたり、継続的に出版されている。それだけでなく、何代にもわたり別々の編集者によって改定が繰り返されている。私の所有するのは、ここで示すように第6版である。最新バージョンは第8版であるが、Amazon.com の書評によるとインデックス部分が情報不足のため、第7版以前のものが良いとのことだ。確かに第8版の「試し読み」でインデックス部を見ると、単語に複数の意味があるときに、ニュアンスの差を示すことなく、関連する項目番号が単にずらずらと列挙されているだけで、これだと非常に使いにくいとわかる。

ということで、必ずしも最新版が良いというわけではない。私は第 7版は知らないので、どうとも言えないが第8版は避けた方がよいと考える。(ちなみに、欧米の辞書類・百科事典類にはこのように、版が変わると、内容や体裁ががらりと変わって評価が落ちることがしばしば発生する。例えば、 1961年に出版されたWebsterの第3版がそうだ。)

いづれにせよ、英語は日本語同様、単語にはかなり明確な色合いの差があるので、状況に応じた単語を選択して使う必要がある。その為には、単に単語の意味を知っているだけでなく、語源や由来にも注意を払って語彙力を増やして、適切な語彙選択を心がけてほしい。

【参照ブログ】
百論簇出:(第226回目)『英借文を卒業し、本格的な英文を書こう』
沂風詠録:(第315回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その 20)』
【参考図書】
『英語のなかの歴史』(中公文庫)、オウエン・バーフィールド(渡部昇一・訳)
『英語発達小史』(岩波文庫)、H・ブラッドリ(寺澤芳雄・訳)
続く。。。
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想溢筆翔:(第422回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その265)』

2020-04-12 15:48:09 | 日記
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【364.沙汰 】P4037、AD458年

『沙汰』は、現代においてはたいていの場合「ご無沙汰」という慣用句で用いられる。この場合「沙汰」とは「たより・知らせ」という意味だ。しかしこれはどうやら日本固有の言い方であるようだ。中国の辞書、辞海(1978年版)には「沙汰」は「淘汰」とあるので「沙汰」とは「えらぶ・select」という意味であることが分かる。この説明の後に「沙汰=たより」の説明が次のようにされている「按沙汰、日本用作問訊或消息之意」(日本では、沙汰を消息を問う、の意味で用いる)。ここで「日本」と断り書きをいれていることから、「沙汰=たより」は日本独自の言い方であることが分かる。

さて、「沙汰」と「淘汰」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。「沙汰」の初出は後漢書であるので、かなり新しい単語であることがわかる。「沙汰」は全体で93回出現しているので、かなり多い部類であるが、明史以降、ほとんど使われていない。つまり、現代の中国では「沙汰」という語は死語となっているのである。一方、辞書には「沙汰」は「淘汰」と言い換えることができるといわれているものの、この表からわかるように「淘汰」という文字の出現率が極めて低い。これから、辞書的には「沙汰」は「淘汰」と同意義だというものの「淘汰」という言葉自体が使われていないことから、沙汰の意味は辞書を引いてもわからなかったのではないかと推測される。



普通辞書を引くのは難しい単語や熟語の意味を知るためであるが、この「沙汰」のケースのように辞書を引いても意味が分からないことがある。この点で有名な例はイギリスの学者、サミュエル・ジョンソン博士の辞書(1755年)に Networkを次のように定義したのがある。

"Any thing reticulated or decussated, at equal distances, with interstices between the intersections."
(等距離で網目状、あるいはX字型になっているもの、交点の間に隙間があるもの)

ジョンソン博士の定義そのものは間違っていないとはいうものの、この文章を読んでNetworkが分かった人は、多分いなかったことであろう。

さて、資治通鑑で「沙汰」が使われている場面を見てみよう。上で述べたように、漢文脈では「沙汰」は「select」の意味である。

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南彭城の人・高闍と僧侶の曇標が妖術を使ってお互いに煽てあげ、殿中将軍の苗允と陰謀して闍を担いで帝位につけようとした。しかし、事前にばれてしまい捕らわれた。処刑されたものが数十人にもなった。この件に僧侶が関係していたことを重視した朝廷は、僧侶たちを選別(沙汰)するよう詔を発した。規則を厳しくし、違反者を罰した。戒律を守らないぐうたらの僧侶は軒並みに還俗させた。しかるに、多くの尼僧が朝廷や宮廷の有力者たちに訴えたので、結局、うやむやになってしまった。

南彭城民高闍、沙門曇標以妖妄相扇、与殿中将軍苗允等謀作乱、立闍為帝。事覚、甲辰、皆伏誅、死者数十人。於是下詔沙汰諸沙門、設諸科禁、厳其誅坐;自非戒行精苦、並使還俗。而諸尼多出入宮掖、此制竟不能行。
 +++++++++++++++++++++++++++

僧侶の曇標が陰謀に加担したことをきっかけとして、以前から問題となっていた風紀の乱れた僧侶や尼僧を一掃したいと皇帝は考えたに違いない。それで、詔勅を発令したのだが、尼僧たちがひいきの大臣や高官たちに陳情したために結局は皇帝の思いが踏みにじられたということだ。

現代もしばしばみられる、「上に政策あれば、下に対策あり」の中国風の狡猾な処世術をまざまざと見せつけられる思いがする。

続く。。。
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【座右之銘・122】『magis offendit nimium quam parum』

2020-04-05 21:59:57 | 日記
人間の叡智は古今東西問わず、共通のものが多くある。よく知られているように、イエスの言葉に
Et prout vultis ut faciant vobis homines, et vos facite illis similiter.
『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』

という言葉がある(新約聖書、ルカ6-31、マタイ7-12 )。言い方は少し異なるが、論語の中にも類似の言葉がある(顔淵編、衛霊公編)
『己の欲ぜざるところを人に施すなかれ』(己所不欲,勿施於人)

これ以外にも、意外と新約聖書の中には中国や日本の古典に出てくるような文句に近いものが多い。いくつか、思いつくものを挙げると:
1.歎異抄:『善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや』
〇マタイ伝・21‐31:「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう」

2.中庸:『隠れたるより見(あらわれ)たるなし』(莫見乎隠)
〇マルコ伝・4-22:「隠れているもので、あらわにならないものはない」

3.春秋左氏伝:『瑕(きず)なき者、もって人を戮すべし』(無瑕者可以戮人)
〇ヨハネ伝・8-7:「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい」

もっとも、これらから、単純に「イエスの教えも中国や日本古来の教えと同じだ」と結論づけるわけにはいかない。


「キケロ・全集」 Oeuvres Completes de M. T. Cicéron en 30 Tomes -1821-1825-

さて、今回取り上げる言葉は、ローマきっての雄弁家、キケロのその名もずばり『弁論家』(Orator)と本に見える。キケロには雄弁術の本が3冊あり、もっとも有名な本が『弁論家について』(De Oratore)である。話題が豊富な上に、語り口も、非常になだらかで周りの風景を楽しみながら山道を登っていうような味わい深い内容で、私の愛読書の一つでもある。しかし、今回取り上げる『弁論家』も同じテーマを取り扱いながらもさらに話題の間口が広がっている。

その中の一節に、論語の文句とぴったり一致する句が見える。
【原文】(tamen) magis offendit nimium quam parum [73]
【漢文】過ぎたるは猶及ばざるが如し(過猶不及)
【英訳】(yet in general) too much is more offensive than too little.
【独訳】(doch) richtet ein Zuviel mehr Schaden an als ein Zuwenig.
【仏訳】(mais) le trop choque toujours plus que le trop peu.

上の訳文で、英語、フランス語、ドイツ語をそれぞれ比べてみると、英語やドイツ語の訳は漢文を直訳したのではないかと錯覚するほどに似通っている。フランス語では3語(冠詞+形容詞+名詞)で表現されている単語(多いこと、少ないこと)が英語やドイツ語ではそれぞれ2語(冠詞+名詞)で表現されているからではないだろうか。もっとも、ラテン語の原文ではさらに1語というこれ以上ない簡潔な表現が用いられている。

いづれにせよ、賢人の考えるところに古今東西、人間としての生き方の本質を衝いた点が多いということが言えるだろう。
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