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限りなき知の探訪

50年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

希羅聚銘:(第27回目)『敗走する者は、斬れ!』

2010-03-31 00:08:50 | 日記
Livy, History of Rome (Livius, Ab urbe condita)

(英訳: "Everyman's Library", Translator: Canon Roberts, 1905)

ラテン語(Latin)と聞かれれば、ローマ人の話していた言葉、と答えるし、ラテン人はローマ人の別名と考えるのが普通だ。しかし、実は、ラテン語というのもローマ人が話していた言葉ではなかったし、ラテン人というのは、厳密な意味ではローマ人ではなかったのだ。ラテン(Latin)というのはローマを含む一帯の地域を指す単語である。つまり日本に置き換えてみると、関東平野(ラテン)に江戸(ローマ)という関係だ。従ってローマ人から見れば、ラテン人というのは近隣の部族ということになる。

さて、ローマは紀元500年にそのラテン人とかつてないほどの激闘を交えることになるのだが、その要因の一つは、例のタルクィニウス王がラテン人の陣営に加わって、祖国のローマを攻めに来たからであった。

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Book2, Section 19

タルクィニウス王がどうやらラテン人の陣営にいるということを聞いたローマ兵は、頭にかーっと血が上り、陣形を整える間もなくすぐさまラテン兵に襲いかかった。この時ほど、激しく、かつ残酷な戦いは未だかつてなかった。というのも、両軍の指揮官たちも号令をかけるだけでなく、自身も体を張って激闘に加わわったのであった。それで、ローマのディクタトールを除き、誰一人として傷を負わずに済んだ者はいなかった。

..., et quia Tarquinios esse in exercitu Latinorum auditum est, sustineri ira non potuit quin extemplo confligerent. Ergo etiam proelium aliquanto quam cetera gravius atque atrocius fuit. Non enim duces ad regendam modo consilio rem adfuere, sed suismet ipsi corporibus dimicantes miscuere certamina, nec quisquam procerum ferme hac aut illa ex acie sine volnere praeter dictatorem Romanum excessit.

【英訳】On hearing that the Tarquins were in the army of the Latins, the passions of the Romans were so roused that they determined to engage at once. The battle that followed was more obstinately and desperately fought than any previous ones had been. For the commanders not only took their part in directing the action, they fought personally against each other, and hardly one of the leaders in either army, with the exception of the Roman Dictator, left the field unwounded.
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一進一退の激闘の中、徐々にラテン軍がローマを押し込んできて、とうとうローマ軍は敗走し始めた。それを見たディクタトールのポストゥミウスは奥の手を出した。

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Book2, Section 20

ディクタトールのポストゥミウスは要の将を失った知らせを受け、さらには敵の猛攻に味方の軍が敗走しだしたのを察知するや、近衛兵たちに怒鳴った。『持ち場を離れて、逃げ出す兵がいれば、そいつは敵とみなし、殺してしまえ!』前には猛攻の敵、後ろには抜き身を構えた近衛兵に囲まれ、進退窮まったローマ兵は、また隊列を組みなおして敵に当たった。その上、それまで静観し、力を温存していたディクタトールの兵隊もこの時始めて戦闘に加わわり、敵をさんざんに打ちのめした。

Dictator Postumius postquam cecidisse talem virum, exsules ferociter citato agmine invehi, suos perculsos cedere animaduertit, cohorti suae, quam delectam manum praesidii causa circa se habebat, dat signum ut quem suorum fugientem viderint, pro hoste habeant. Ita metu ancipiti versi a fuga Romani in hostem et restituta acies. Cohors dictatoris tum primum proelium iniit; integris corporibus animisque fessos adorti exsules caedunt.

【英訳】 When the Dictator Postumius saw that one of his principal officers had fallen, and that the exiles were rushing on furiously in a compact mass whilst his men were shaken and giving ground, he ordered his own cohort - a picked force who formed his bodyguard - to treat any of their own side whom they saw in flight as enemy. Threatened in front and rear the Romans turned and faced the foe, and closed their ranks. The Dictator's cohort, fresh in mind and body, now came into action and attacked the exhausted exiles with great slaughter.
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敗走する者は、味方であろうと斬れ、との命令はこの時は、逆転勝利を呼び込むきっかけとなったのではあるが、これとて、必ずしも毎回成功する作戦でなかったことは後々の歴史が証明している。

沂風詠録:(第48回目)『古代ギリシャのヒッパルコスが求めた1年の長さ』

2010-03-30 00:02:24 | 日記
日本では、科学や歴史は学校の正科で教えることはあっても、『科学史』は教えてくれない。つまり『科学史・技術史』はキワモノ扱い、あるいは知らなくても済ませられるものだ、とでも言うのであろう。しかし、現在の世の中を考えても分かるように、科学技術は政治や経済とは別個に発展するのではなく、元来グローバルな規模で生活全般と密接なつながりを持ちつつ発展するものである。紀元前数千年においては、最新鋭の技術であった農業や青銅器がメソポタミアあたりから全世界に伝播した。また紙や羅針盤は逆に中国から西へ伝播して世界の共有財産となった。

たいていの人は、こういった個別の科学技術の話は知っていても、『科学・技術史』の全体像を理解するために、どの本を読めばよいのか途方にくれているのが現状であろう。私も同じ気持ちであったが、幸運にも数年前にフリードリッヒ・ダンネマン(Friedrich Dannemann)の大作である『大自然科学史・全13巻』(三省堂)(Die naturwissenschaften in ihrer entwicklung und in ihrem zusammenhange)に出合った。私は、以前からギリシャ・ローマの科学技術がイスラムに移り、12世紀あたりからヨーロッパに逆輸入されていた、と断片的には知っていたが、この本(13巻)を読むことで、初めて科学技術の発達に関する国際的な大きなうねりの全貌を把握することができ、大変うれしく思った。



さて、そのダンネマンもギリシャ・ローマの科学技術の歴史に関して参照した本に、『Realencyclopaedie der Classischen Altertumswissenschaft』(通称、Pauly-Wissowa)という83巻もの膨大な百科事典がある。ギリシャ・ローマに関することはこの本に文字通り網羅されていて、他の参考書が不要であるほどだ。この本から単に書き抜きをするだけでも立派な論文が何本も書けそうだ。しかし、逆にいうと、情報が余りにも多すぎて(私のような素人には)手にあまる。それで、その膨大な内容を5巻に縮約したのが『Der Kleine Pauly』と呼ばれる本で、わずか1万5千円で入手できる。

さて、この本の、第4巻のP.271に、『Oktaeteris』という項目がある。Oktaeteris は英語では octaeterid と綴り、OED(Oxford English Dictionary)では次のように説明されている。

In the ancient Greek calendar, a period of eight years, in the course of which three months of 30 days each were intercalated so as to bring the year of 12 lunar months into accord with the solar year.

大意は『古代ギリシャのカレンダーでは、8年を1周期とした。その間に 30日の閏月を3回挿入する。そうすることで、太陰暦を太陽暦に合わせることができる。』

『Der Kleine Pauly』の『Oktaeteris』の項を更に読んでみると、次のような驚くべき記述に出合った。



紀元前二世紀のギリシャのヒッパルコス(Hipparchos)が一年の時間を非常に正確に求めていた。彼の計算によると、 1年は365日5時間55分12秒であった。現在の科学で求めた値との差は、わずか 6分26秒 である。

私はこの記述を読むに至った時、完全に言葉を失ってしまった。

(。。。沈黙。。。)

百論簇出:(第53回目)『書評:漢字と日本人』

2010-03-29 06:26:58 | 日記
『漢字と日本人』(文春文庫)高島俊男(著)の本を読み、感じた点について述べる。

1.明治以降に数多くの同音異義語について

日本では漢文そのものは受容していても漢音は受容していなかった。これは平安文学や徒然草の文章が日本語の本来の抑揚を残していることから明らか。

そうしたら、明治期になってどうして急に増加したか?という点では現在の日本語に入っている外来語をみても分かるように、日本語に置き換える(あるいはかみくだく)時間や抜群の翻訳の才能のある人が居なかったというだけに過ぎない。現在の単語でいうと『インフォームドコンセント』『リボルビング』など日本語の発音としては全く意味不明で背後に英語を思い浮かべないと理解できない単語が全く明治開国当時、大量の単語が出現した時代背景とそっくりである。

これは何も日本語に限った訳ではない。ドイツ語はゲーテの少し前にはかなり(記憶では7割位)フランス語の単語がそのまま流入していた。ドイツの国民的意識の高まりからそれらの単語をゲーテ・シラーを初めとしてドイツ人が必死になってドイツ語訳を普及させたおかげで、ようやくドイツ語における外来語(主にフランス語)の比率が低下した。このあたりの彼らドイツ人の努力は徹底している。

2.日本語が未成熟の途中で漢語が流入したことについて

日本語は既にそれまでに何千年もの間、話言葉の形態では完成の域にあったと私は考える。従って、筆者が言うように、漢語が入ってこなかったら、こういった概念に対応する『やまと言葉』がつくられたか?という問いに対しては私はNOだと言いたい。

つまり、漢民族が作った抽象概念とそれを表現する漢語は何万年たっても日本人は思いつかなかったと思える。それは、テレビの人気ドキュメンタリー番組であったウルルン旅行などで、ボルネオ原住民の取材などを見ても分かるように、彼らの本来の生活ではそういった抽象的概念に思いをはせる必要性がないので、そのような単語をつくりだす必要がない、というのは明かである。

即ち、具象的には同じものを見ていても、世界観がことなるので単語の切り出し方(即ち語彙)が異なる。これは西洋語を翻訳する時あるいは西洋語に翻訳するとき、現在のこの膨大な日本語や英語の語彙をもってしてもまだしっくりいかない思いがするのが、その実証とする所である。



3.旧字体(繁体字)の復活について

これは私も賛成である。仮の音が仮だと分からないが旧字の假だと分かるというのは、漢字の本来の作り方から言って当たりまえのことである。(偏がカテゴリーを表わし、旁が音を表わすとは私も以前から感じていてこのブログにも書いた。想溢筆翔:(第8回目)『ビジュアルカテゴリーとモーションカテゴリー』

現在のJISでは漢文や古典を引用しようとすると(および明治期の文章ですら)かなりの漢字が欠けているのがわかる。どうしようもない事態である。現在のコンピュータ化の社会ではどしどし旧字体や繁体の字を採用すべき。それも日本だけで閉じているのではなく、日中韓の三国共用とすべきである。但し、既に新字体で定着している字まで無理に変える必要は感じない。

4.二文字で落ち着くことについて

これは中国人自身が単語が区別できなくなったという実際面とともに、感情をこめようとして、つまり強意しようとして同じ意味の漢字をつなげたに過ぎないと思う。現代の日本語でも『今度の日曜日来てね、ぜったいよ、きっとよ!』というような重複した言い回しだといえる。

それが証拠に漢代以前の書物はほとんど一字で用が足せているものはたいてい一字で表記されている。しかるに、三国志以降、つまり3世紀あたりから二字や四字が一つの慣用句となっている。宋や明になると口語的表現が文語的表現としても定着して行っている。(例:王陽明の伝習録にはこのような二字熟語が多用されている。)

つまり、我々日本人が目でよむ漢字ではなく、中国人が耳で聞く漢字のもつ抑揚、リズムは知識人が文面で意識する、しないに関わらず自然発生的に調子のよいようなリズム感として普及していったはず、と考える。そもそも四六駢儷体とはそういったリズム感のためだけの文章ではなかったか?この文体も4世紀あたりの六朝に栄えている。

【結論】

筆者(高島俊男)の見識には敬服するところは大いにあるものの、言語全般に関して本を書くのなら、英語やドイツ語の発達史を勉強すべきであると思う。つまり、彼が指摘している日本語と漢語の間の歴史的関連性はなにもこの二つの言語に限ったわけではなく、西洋にも同様なことが起きている。西洋の場合には、各国がそれなりに別々の方法でギリシャ語・ラテン語との共存方法を図ってきたのがよく分かる。

【座右之銘・27】『In magnis et voluisse sat est』

2010-03-28 12:05:06 | 日記
セクストゥス・プロペルティウス(Sextus Aurelius Propertius)というローマの詩人がいる。ローマ時代にはよく知られた詩人であったらしく、ベスビオス火山の噴火(AD79)で埋もれたポンペイの遺跡にもその詩が落書きされていたという。



残された詩集にElegy(『エレギア・挽歌』)4巻があるが、その中に(2巻、10.6)次のような一節がある。

『。。。さて、我がローマ軍の勇ましい戦いぶりや陣営について語ることにしよう。私の力量不足でうまく語りつくせないかも知れないが、それでも、大を為さんと欲するは、それだけでも充分賞賛に値する立派なことだ。(in magnis et voluisse sat est.)』
iam libet et fortis memorare ad proelia turmas
et Romana mei dicere castra ducis.
quod si deficiant vires, audacia certe
laus erit: in magnis et voluisse sat est.

Now I want to talk about squadrons brave in fight, and mention my leader's Roman camp.
But if I lack the power, then surely my courage will be praised:
it's enough simply to have willed great things.
(Translated by A. S. Kline)

この Kline による英訳は、確かにラテン語の文法に忠実ではあるが、英語としてはこなれていない。むしろ、ドイツ語の訳の英語への直訳のような響きがする。
In grossen Dingen genuegt es auch, sie gewollt zu haben.

英語としては、John Holcombe
Wishing great things is enough
の訳文の方がぴったりとしている。
漢文でもありそうなものなのだが、これと同じ趣旨の漢文の語句はまだ見出せないでいる。

通鑑聚銘:(第33回目)『兵は凶器、戰は危事』

2010-03-27 13:46:38 | 日記
臥薪嘗胆とは、よく耳にする故事である。呉王・夫差が苦労しながら、越王・勾践を破るまでが、臥薪のパート。そして、今度は逆に越王・勾践が苦労して呉王・夫差を破るまでが嘗胆のパート、と2パート構成となっている。その最終勝者の越王・勾践を助けたのが、智将・范蠡(はんれい)だ。(なお、勾践は本来は、句踐と書かれることも多いが、日本では勾践が慣用的に使われているので、この字を使う。)

史記の越王句踐世家によると、勾践は呉王・夫差が戦争の準備を整えているという噂を聞き、先制攻撃をしかけようと考えた。それに対して范蠡が次のように諌めた。『不可。臣聞兵者凶器也、戦者逆徳也、争者事之末也』(およしなさい。兵器は凶器であり、戦いは徳に逆らうものであり、争いはいちばん下らないことだというではないか。)

後世の我々にとって都合がよかったのは、ここで勾践が『そうか、それでは我慢しよう』としなかったことだ。范蠡の忠告に逆らって、夫差に戦いをしかけ、敗北したために、臥薪嘗胆という故事がようやく成立したのであった。

さて、ここで、兵者凶器(兵は凶器)という言い方が初めて出来たのだが、戦国時代の戦略家・孫子にこういった言葉が見あたらないのは、ちょっと不思議な気がする。と言うのは、孫子は、戦争をせずに相手を従えるのをベストとした。その意図は次の有名な句からも読み取れる。『不戦而屈人之兵、善之善者也。故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵』(戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり、ゆえに上兵は謀をうつ、その次は交をうつ、その次は兵をうつ。)



さて、勾践から暫く(300年ほど)して漢に晁錯(ちょうそ)という策略家がでた。景帝がまだ太子の時から策略や智恵を絶えず繰り出したので智嚢(ちのう)というあだ名がつけられた。

匈奴がたびたび進入し、民が困りはてたので、帝が軍隊を出して匈奴を討とうと考えた。それに対して、晁錯が反対意見書を提出した。その中で『兵、凶器、戦、危事也』(兵は凶器、戦は危事なり)と述べたのだった。

また、それから暫く(260年)して、後漢の法雄がこの言い回しを引き合いに出して、無益な戦いを諌めた。

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資治通鑑(中華書局):巻49・漢紀41(P.1585)

王宗が刺史や太守を召集して、会議した。皆一様に、出撃して賊を討つべきだといった。法雄がそれに反対していった。「いや、それは間違っている。兵は凶器であり、戰いは危事である。勇は当てにならないし、勝つとは限っていない。。。」

王宗召刺史太守共議,皆以爲當遂撃之法雄曰:「不然。兵凶器,戰危事,勇不可恃,勝不可必。。。」

王宗、刺史・太守を召し、共に議す,皆おもえらく、まさにこれを遂撃すべしと。法雄、曰く:「然らず。兵は凶器,戦は危事,勇は恃むべからず,勝は、必(ひつ)とすべからず。。。」
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振り返ってみると、『兵凶器、戦危事』の句は、延々と600年の長きにも渡り、磨きこまれ、使いこまれてきたのであった。中国の史書を読むと、彼らが過去の事蹟を、それも言葉遣いまで、きっちりと覚えていて、それを引き合いに出して、しばしば過剰なほどまでに現状に適用しようとする姿勢に出会う。そういった彼ら中国人の態度がよい/悪いとか評価するのではなく、そういった思考回路を持っているのが中国人である、という認識を日本人がしっかりと持っておくべきである、と私は考える。