限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第80回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その15)』

2012-07-19 13:37:51 | 日記
 『1.15 リーダーには強運も必要』

日本人は『潔い』という徳目を重んじる傾向にある。それで、負け戦の武将は、負けは仕方のないものとして、最後を綺麗に散ることに心を砕いた。楠正成しかり、柴田勝家しかり、西郷隆盛しかり。。。その反面、往生際悪い武将に対する評価は極めて低い。関ヶ原の敗戦の後、捕囚の辱めをうけても、首を刎ねられる直前まで、健康に留意し、しぶとく再起を考えていた石田光成の生き方に賛同する日本人は少ない。

中国の武将はこれに反する。とことんしぶとく生き延びて再起を志すのが将たるものの大いなる責任と考えていたようだ。漢の劉邦、魏の曹操、蜀の劉備。。。いづれも戦争に何度も負けながらも一度たりとも散り際の潔さなど考えようとはしなかった。

考えてみればこれらの武将が数多くの負け戦を経験しながらも生き延びたのは強運であったと考えるかもしれない。しかし、私はこれらの武将の伝を読んでみて、単に運では片づけられない、いや、運を遥かに越えた『天意』を感じた。そして私の到達した結論が
 『死ぬ価値のある人しか死ねない』
と言うものであった。こういう考えを抱くきっかけとなったのが資治通鑑で唐の太宗(李世民)のことを読んだ時のことであった。

【参照ブログ】
 【麻生川語録・23】『死ぬ価値のある人しか死ねない』


 【出典】颯露紫

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資治通鑑(中華書局):巻190・唐紀6(P.5957)

李世民は起兵して以来、数十回もの戦闘では常に兵隊の先頭に立って、僅かの騎兵と共に敵陣の奥深くまで突入した。たびたび危ない目に遭ってはいるが、一度も怪我をしなかった。

世民自起兵以來,前後數十戰,常身先士卒。輕騎深入,雖屡危殆而未嘗爲矢刃所傷。

世民、兵を起こして以来,前後、数十戦,常に身は士卒に先んず。軽騎にて深く入り,しばしば危殆(あやうし)といえどもいまだ嘗て矢刃の傷つくところにあらず。
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多少の誇張はあるにしても、数十回もの戦闘において、大怪我をしなかったというのだから奇跡としか言いようがない。

ただ、李世民といえども何度も非常に危ない目に遭っている。

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資治通鑑(中華書局):巻188・唐紀4(P.5902)

李世民は軍を青城宮に移動させたが、まだ陣地は完全ではなかった。王世充は二万の兵を率いて方諸門から撃って出て,もとの馬坊の垣塹を占拠し、穀水を頼りとして李世民の軍を迎えうった。李世民の将軍たちは皆、敵の勢いに恐れをなした。李世民は精騎を率いて北邙に布陣し、北魏の宣武帝の陵に登って敵陣を見渡し、周りの者にこういった。『敵は弱っている。全軍出動せよ。幸いにもここで打ち破ることができたら、今後は二度と刃向うことはないだろう。』屈突通に歩兵5000人を率いて川を渡って攻撃するよう命じた。その際、『敵兵と刃を交えるまで近づいたら煙に従って行動せよ。』そして自分は騎兵の先頭となって煙を挙げながら南下した。屈突通と兵力を合わせて戦った。李世民は王世充の布陣を調べようと精鋭の騎兵数十人とともに敵陣をつききって駆け抜けた。敵の兵は皆なびくように倒れ、死傷するものがはなはだ多かった。長い堤防のところに出たが、味方の騎兵と離ればなれになり、ただ、将軍の丘行恭だけが付いていた。王世充はこれを見つけ、数騎の騎兵と追いかけてきた。李世民の馬が矢に当たって倒れた。丘行恭が向きを変えて、敵の騎兵を弓で射たが、百発百中当たるので、敵兵は恐れて近寄ろうとはしなかった。丘行恭は自分の馬を下りて李世民に与えて、倒れた馬を曳きながら歩き、長刀を手にしてジャンプしながら大声を張り上げて数人を切った。囲みを突破してようやくのことで自陣にたどり着いた。

世民移軍青城宮,壁壘未立,王世充帥衆二萬自方諸門出,憑故馬坊垣塹,臨穀水以拒唐兵,諸將皆懼。世民以精騎陳於北邙,登魏宣武陵以望之,謂左右曰:「賊勢窘矣,悉衆而出,徼幸一戰,今日破之,後不敢復出矣!」命屈突通帥歩卒五千渡水撃之,戒通曰:「兵交則縱煙。」煙作,世民引騎南下,身先士卒,與通合勢力戰。世民欲知世充陳厚薄,與精騎數十衝之,直出其背,衆皆披靡,殺傷甚衆。既而限以長堤,與諸騎相失,將軍丘行恭獨從世民,世充數騎追及之,世民馬中流矢而斃。行恭回騎射追者,發無不中,追者不敢前。乃下馬以授世民,行恭於馬前歩執長刀,距躍大呼,斬數人,突陳而出,得入大軍。

世民、軍を青城宮に移す。壁塁、いまだ立たず。王世充、衆、二万を帥いて方諸門より出ず。故・馬坊の垣塹に憑り,穀水に臨み、もって唐兵を拒がんとす。諸将、皆懼る。世民、精騎をもって北邙に陣し,魏の宣武陵に登り、以ってこれを望み、左右に謂いて曰く:「賊の勢、窘めり。悉衆にて出、徼幸に一戦して,今日、これを破れば,後、また敢えて出でざらんや!」屈突通に歩卒五千を帥いて、水を渡りこれを撃つを命じ、通を戒めて曰く:「兵、交わらば則ち、煙に縦え。」煙を作り,世民、騎を引いて南下す。身は士卒に先んず。通と勢力を合わせ戦う。世民、世充の陳の厚薄を知らんと欲し,精騎、数十をこれを衝き,直ちにその背に出ず。衆、皆な披靡す。殺傷するところ甚だ衆し。既にして長堤をもって限る。諸騎と相い失う。将軍・丘行恭、ひとり世民に従う。世充、数騎とこれを追い及ぶ。世民の馬、流矢にあたり斃る。行恭、騎を回して追う者を射る。発してあたらざるはなし。追う者、敢えて前せず。乃ち馬をおり、もって世民に授く。行恭、馬の前を歩み、長刀を執り、距躍して大呼し、数人を斬る。陳を突して出で,大軍に入るを得る。
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敵にぐるりを囲まれただ一人の味方の武将、丘行恭がいたおかげで李世民は命拾いをした。矢刃のいづれにも優れていた丘行恭の奮闘がなかったら李世民はどうなっていたことだろう。

ちなみに、矢を受けて倒れた馬(李世民が乗っていた馬)は丘行恭が自陣まで曳いていってが矢を抜いた途端に死んでしまったという。李世民は後年(貞観年間)この馬(颯露紫)を顕彰するために、丘行恭が矢を抜いている像を作らせ自分の墓(昭陵)の前に立てさせたという。
 【旧唐書、巻59】 『貞觀中,有詔刻石爲人馬以象行恭拔箭之状,立於昭陵闕前。』

また翌年も同じく危ない目に遭っている。

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資治通鑑(中華書局):巻190・唐紀6(P.5948)

劉黒闥と2ヶ月もの間にらみ合いを続けていた。劉黒闥がひそかに軍を率いて李世勣の陣地を急襲したので、李世民が自ら兵を率いて後方支援したが、逆に劉黒闥に囲まれてしまった。尉遅敬徳が決死の壮士とともに敵の囲みを破って救出にかけつけた。それで、李世民は略陽公の李道宗の馬に乗って漸くのこと脱出することができた。

秦王世民與劉黒闥相持六十餘日。黒闥潛師襲李世勣營,世民引兵掩其後以救之,爲黒闥所圍,尉遲敬徳帥壯士犯圍而入。世民與略陽公道宗乘之得出。

秦王・世民、劉黒闥とあい持すこと六十余日。黒闥、ひそかに師をして李世勣の営を襲う。世民、兵を引き、その後を掩いもってこれを救わんとするも、黒闥の囲まる所となる。尉遅敬徳、壮士を帥いて囲みを犯し入る。世民、略陽公・道宗とこれに乗り、出ずるを得。
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このような李世民の運の強さを単に偶然(fluke)と見るか、必然と見るか。中国人は必然と見たようだ。胡三省の注は史官の感慨を伝える。
 史言、秦王有天命(李世民には天命があった)

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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