限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第48回目)『中国四千年の策略大全(その 48)』

2024-01-28 11:39:57 | 日記
前回

「災転じて福となす」という語句の有名な例として「塞翁が馬」は思いつくが、それ以外の事例と言われてもなかなか思いつかないだろう。つまり、災難をチャンスに変えるのは容易ではないということだ。しかも、一刻を争う戦場の場面ではなおさら難しい。ところが名将ともなれば、とっさの場合でも「災転じて福となす」機転を効かすことができるというのが次の話だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 838 / 劉鄩】(私訳・原文)

さて、兗州城を劉鄩に奪われた朱温は大将の葛従周に城の奪還を命じた。長期にわたる城攻めのために、外からの援助が絶え、食糧危機に陥りそうになった。そこで劉鄩は城内の兵士の内、役に立たない者を選んで、城の外へ追い出し、屈強の兵士と苦楽を共に城の防衛に取り組んだ。しかし、城の陥落も時間の問題だと考えた副将の王彦温はある日、こっそりと城を抜け出して敵陣へと逃走した。それを見た守備兵も続々と逃げ出して止めることができなかった。事態を鎮静するために劉鄩は穏やかな口調で王彦温に次のように呼びかけた「王彦温よ、任務の遂行に役に立たない者は連れて行くでないぞ。」また、守備兵に向かっては「もともと副将に随行を命じた者以外は城から出てはならぬ。もし許可なく出ていけば、家族皆殺しにするぞ。」城の外を取り囲んでいた敵兵は、王彦温は投降してきたのではなく、秘密の任務を受けて出てきたものだと思い、王彦温を即座に斬り殺した。それを見た守備兵たちは、もはや逃亡のことなど考えなくなった。

朱温遣大将葛従周来攻城、良久外援倶絶、鄩料簡城中、凡不足当敵者、悉出之於外、与将士同甘苦。一日、副使王彦温逾城走、守陴者従之、不可止、鄩即遣人従容告彦温曰:「請少将人出、非素遣者、勿帯行。」又揚言於衆曰:「素遣従副使行者、即勿禁、其擅去者、族之。」外軍果疑彦温、即戮於城下、於是守軍遂固。
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籠城に希望を見いだせなくなった王彦温は自分の意志で逃亡した。その状況を知った劉鄩はあたかも、王彦温に秘密のミッションを与えられた工作要員のように思わせるように激励した。このフェイク情報によって王彦温は敵陣に着くや否や、スパイだと思われて殺されてしまった。これを聞いた味方の陣地では、もはやだれも逃亡しようなどとは考えなくなった、というわけだ。脱走を止めないことで、逆に脱走を完全に食い止めた劉鄩の策略には脱帽する。



ところで、日本では、兵法に関して『孫子』に戦略の全てが記載されているように考える人が多いが、『孫子』には理念的で抽象的な言葉が多く、戦場の現場で適用できるには相当に戦争体験を積んでいないと難しいだろうと思う。例えば、《九地編》にある「陷之死地、然後生」(これを死地に陷れて、然る後に生く)という有名な語句も、実地に適用するには、いろいろとしかけがいるというのが次の話だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 841 / 韓信】(私訳・原文)

秦の姚丕が渭橋で晋の軍隊を防御しようとしていた。王鎮悪は渭水を遡っていった。船足の速い小型船の蒙衝に乗っていった。操船する者は全員艦内にいたので、船が自動操縦で動いているように見えて秦の人々はビックリして、神が動かしているか、と思った。渭橋に到着するや、王鎮悪は兵士全員に食事を終えたら皆武器を持って岸に上がれと命じ、遅れた者は容赦なく斬った。全員が船から出たことを確認するや、ひそかに手下のものに船の纜を解かせた。渭水は流れが非常に急なので、船は忽ちのうちに流されてしまい見えなくなった。王鎮悪は兵士たちに向かって「ここは長安の北門だ。故郷から万里も離れている。船も衣服、食糧も全部流れてしまった。今や、進軍して勝てば功名が得られるが、敗ければ骨がここで朽ちるだけだ。」と励ました。そういって、自らが軍の先頭立って進軍したので、兵士たちは勇躍して進軍し、姚丕の軍に大勝した。

秦姚丕守渭橋以拒晋師。王鎮悪溯渭而上、乗蒙衝小艦、行船者皆在艦内。秦人但見艦進、驚以為神。至渭橋、鎮悪令軍士食畢、皆持仗登岸、後者斬。既登、即密使人解放舟艦、渭水迅急、倏忽不見。乃諭士卒曰:「此為長安北門、去家万里、舟楫衣糧、皆已随流、今進戦而勝、則功名倶顕;不勝、則骸骨不返矣。」乃身先士卒、衆騰踴争進、大破丕軍。
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ビール片手にTVの野球中継を見ている人は、だれもが一流の野球評論家だ。野手がエラーをすると「なんてやつだ! もうちょっと左に守っていれば簡単に捕れていたのに!」と批評することができる。しかし、自分が代わって守備をさせられていて、果たしてどれほどうまくできるだろうか?口より、実際の方が数千倍も難しいはずだ。

ところで、今回の話でいう、王鎮悪の戦法はまさしく『史記』の巻32の《淮陰侯列伝》に登場する「背水の陣」だ。すでに前例があるとはいえ、いくら『孫子』や『史記』を熟読したとしても王鎮悪の立場で、彼のような策略を実行できるとは限らない。それだからこそ、晋代の王鎮悪のこの話がずっと語り継がれてきたのだ。

続く。。。
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【座右之銘・141】『庖人雖不治庖、尸祝不越樽俎而代之矣』

2024-01-21 10:09:57 | 日記
高校時代、漢文は苦手であった。漢文につけられた返り点というもの読み方があまりよく分からなかったからだ。レ点や一、二、程度ならまだしも、上下、甲乙丙、天地人などになると全く判じ物であった。それだけでない、「不常」「常不」のどちらが部分否定で、どちらが全否定か、という問題も、解釈のしかたが分からず、「適当に答えても1/2の確率で当たる」と気楽に考えていたが、ある時、授業中に当てられ、運悪く逆の目に出たため、老教師からこっぴどく叱られた苦い経験がある。

こういう私であったが、学校を卒業してからずっと後になるが、あることときっかけにして漢文が(ほぼ)完全に読めるようになった。そのきっかけとは、『王陽明全集』を読んでいた時に孟子の文章が頻出するが、いちいち参照するのが面倒なので、孟子の全編を理解しようとした。しかし、読むのではなく、孟子の書き下し文を音読し、MDに録音して、耳から学んでいくことにした。不思議なことに、何度か録音を聞いている数ヶ月の内に全く労せず漢文がすらすらと読めるようになった。この時ついでに分かったのは、英語式に読めば ― つまり、主語+動詞+目的語、前置詞+名詞 など ― 漢文の返り点はほぼ「レ点や一、二」で十分ということであった。上下、甲乙丙、天地人などというややこしい規則を作ったのは、無理やり完全に日本語に読もうとしたからだと分かった。

さて、このように漢文は全くの苦手科目ではあったものの、教科書で見知った荘子の文章には最初から強く惹かれた。荘子の言葉から、彼の強烈な自由精神がにじみ出てくるのを感じた。大学に入ってから、自分で中国古典を読み始めた時も、荘子の文章は、不思議とよく理解でき、気に入った文句をいくつも見出すことができた。たとえば外編の《秋水》に「曳尾於塗中」(塗中に尾を曳く)という句がある。これはある時、楚王の使いの者が荘子を高官に任命しようと呼びにきたが、荘子はその話を受けず、「ちょうど亀が殺されて宮殿で甲羅が大切にされるより、泥の中を這いまわっていてでも、生きていたいように、私も社会的に高い地位に就くより、貧乏でもいいから自由の身でいたい」と答えたことによる。

なまじっか高官に任命されると、雑用に忙殺されるだけだけでなく、運悪ければ、政争に巻き込まれて横死しかねない。それよりも、社会の底辺にいてもいいから、自分自身の思い通りに生きることが望ましいという。荘子は、このような自由精神の持ち主であったため、自分事でない世間の雑事に好き好んで首をつっこまない方がよいと考えた。



『内篇』《逍遙遊》には「庖人雖不治庖、尸祝不越樽俎而代之矣」(庖人、包を治めずといえども、尸祝、樽俎を越えてこれに代らず)と述べる。尸祝(ししゅく)とは、神主のような役割の人だ。この句の意味は、たとえ料理人が料理を作ることを放棄しても、尸祝が自分の役割を越えて、代わりに料理をするようなことはするな、という戒めである。これは、何も自分の仕事だけに邁進せよというような意味ではなく、知識も経験もないのに、他人の仕事に余計な口出しをするなという busy body に対する訓戒だ。

西洋にもこれと相通ずる言葉がプリニウスの『博物誌』巻35に見える。
【ラテン語】ne supra crepidam sutor iudicaret.
【私訳】靴屋は靴に関すること以外には口を出すな。
【英語】a shoemaker should give no opinion beyond the shoes
【独語】Was uber dem Schuh ist, kann der Schuster nicht beurteilen.

この言葉は、古代ギリシャの絵画の名人であるアぺレス(Apelles)にまつわる。あるとき、彼が描いた絵で靴の片方の紐が短すぎたのを靴屋が指摘した。アペレスが早速その助言を受け入れ描き直した。翌日、靴屋は自分の忠告が受け入れられたことを得意になって、さらに、足の描き方もおかしいと、指摘した。その言いぐさに腹を立てたアペレスが上のように怒り、「自分の専門外のことについては、発言を慎むべし」と厳命した。つまらなコメンテーターが多い昨今に適切な箴言といえるだろう。
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智嚢聚銘:(第47回目)『中国四千年の策略大全(その 47)』

2024-01-14 11:08:20 | 日記
前回

中国だけでなく、世界の歴史書を読むと、一国の指導者たる者は人格が優れているよりも、冷徹に(あるいは冷酷に)いろいろな策略・謀略を編み出せる人だ、との印象を強く受ける。(ここでいう「歴史書」とは学校でならうような事績を羅列しただけの歴史の教科書ではなく、古代人が書いた、当時の人々の生活や思想が活き活きと読み取れる一級の歴史書、例えば史記やヘロドトスの『歴史』などを指す。)つまり、リーダーには、「雄弁、しぶとさ、カリスマ性、非情・冷酷」が必要ということだ。

次に紹介するのは、南宋の名将軍・岳飛の策略である。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 836 / 韋孝寬岳飛種世衡】(私訳・原文)

傀儡国家・斉の皇帝である劉予が金の粘没喝(粘罕)と秘かに提携していることを岳飛はかぎつけた。さらに、金の宗室の一員である金兀術(完顔宗弼)が劉予を嫌っている情報も得た。これらの情報を利用して敵国の金を弱めようと策略を巡らした。たまたまこの時、金兀術のスパイが捕えられていた。岳飛は、スパイをわざと次のように叱った「お前は、我々の軍にいた張斌ではないか?わしはお前を斉に行って、4人の太子をこちらに来るように説得してこいと送っただろう。それなのにお前は、行ったきり戻ってこなかった。しかた無いので、別の人を斉に送ってこちらの計画をつたえた。つまり、『今年の冬に力を合わせて江州に攻め入って名を挙げようと。そして、4太子を清河にお迎えしよう』といった。お前はそれに対する返事をもらってこなかった。わしに従わないつもりか?」と脅すとスパイは「もう一度チャンスを下さい」と懇願した。

そこで、岳飛は蝋(ろう)を引いた紙で密書を作った。内容は、劉予と共謀して金兀術を謀殺しようというものであった。スパイには「今、もう一度チャンスを与えてやろう。必ずや斉に行って劉予から挙兵の時期を確認してこい」と命令して、密書をスパイの股を割いてその中に埋め込んだ。くれぐれも秘密をもらすなと口止めした。スパイは金に戻ると、密書を取り出して金兀術に差し出したところ、金兀術は大層驚いて、急いで金主に報告した。こういう事があってから、劉予は斉の帝位を追われることになった。

岳飛知劉予結粘罕、而兀術悪劉予、可以間而動。会軍中得兀術諜者、飛陽責之曰:「汝非吾軍中人張斌耶、吾向遣汝至斉、約誘致四太子、汝往不復来、吾継遣人問斉、已許我今冬以会合寇江為名、致四太子於清河、汝所持書竟不至、何背我耶?」諜冀緩死、即詭服。

乃作蝋書、言与劉予同謀誅兀術事、因謂諜曰:「吾今貸汝、復遣至斉、問挙兵期。」刲股納書、戒勿泄。諜帰、以書示兀術。兀術大驚、馳白其主、遂廃予。
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岳飛といえば、中国南宋の悲劇の武将で、中国では関羽と並び、民衆の間では絶大な人気を誇る。しかし、ここで見られるように岳飛は随分と人倫に反するあくどい策略を弄するものだとうならされる。敵のスパイを使って、敵国の人々の間を仲違いさせることで、南宋の防衛に質した。



次も同じく、激しい戦闘をすることなく、策略で敵城を陥落させた話。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 838 / 劉鄩】(私訳・原文)

劉鄩は安丘の出身。初め青州の王師範の部下となった。唐の昭宗が鳳翔に行幸するというので、朱温が軍を率いて岐下に皇帝を迎えようとした。王師範はこの機会兗州を乗っ取ろうと考えた。その意図を聞いた劉鄩は先ず兗州城の様子を探るために、部下の者を油売り商人の恰好をさせて城に入らせ城内の様子を偵察させた。城の下に水路があって、城中に通じていることをつきとめた。劉鄩は戻ってから王師範に事情を説明し、歩兵500人を率いて秘かに水路から潜入する計画を話した。この方法で、劉鄩は一晩にして兗州城に潜入し守備兵を殺して占領した。市民は混乱もなく、無事に済んだのを喜んだ。

劉鄩、安丘人、初事青州王師範。唐昭宗幸鳳翔、朱温率師迎於岐下。師範欲乗虚拠兗州、鄩先遣人詐為鬻油者、覘城内虚実及出入所。視羅城下一水竇、可引衆而入、遂志之。鄩乃告師範、請歩兵五百、自水竇銜枚而入。〔辺批:不虞之道。〕一夕而定、軍城宴然、市民無憂。
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劉鄩は『資治通鑑』(巻269)には「一歩百計」と言われているほど、策略・謀略の天才であるようだ。水路を潜入して城を陥とすという戦法は、ヘロドトスの歴史に書かれているが、バビロンの鉄壁の城塞が陥落させれらたのと同じ戦法だ。

続く。。。
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沂風詠録:(第359回目)『立花隆の読書について(後編)』

2024-01-07 09:58:24 | 日記
前編

立花隆の読書分野の幅広さは確かに、驚異的ではあるが、私にはいくつか残念に感じられる点がある。もっとも、それは彼の欠点というのではなく、私の嗜好と彼の嗜好が異なっていたということに由来する。しかしながら、彼が田中角栄問題に多大な労力を費やしたことは、本人も後悔しているように、実りのすくない知的活動であったといっていいだろう。当初、文藝春秋に田中角栄の金権問題についての文を発表し、追及したところまでは、ジャーナリストとしての職責範囲といって良いだろうが、その後、裁判にまでとことん付き合ったのはかなり意義が薄いと思える。同様に、共産党の活動に対する告発記事も、その後の共産党からの反撃にいちいち対応せざるを得なくなったのも、現在視点からいえば意義が薄い、と私には思える。人間の時間は有限だから、無駄なことに時間を費やすことは有意義なことに使う時間が少なくなるということだ。

私は、以前のブログ
 【麻生川語録・38】『新聞の逆さ読み』
にも書いたが「ジャーナリズムに振り回されない」のを信条としているが、この意味で、立花隆の時間の無駄をした失敗を他山の石としたい。

さて、本論の立花隆の読書領域であるが、彼はギリシャやローマにかなり興味を持ち、地中海から小アジアにかけて数多くの遺跡を訪れている。未読ではあるが『エーゲ 永遠回帰の海』は「古代ギリシア文明・思索紀行」という内容であるようだ。文藝春秋を退社して東大の哲学科に学士入学して、古典ギリシャ語やラテン語も修得したようだから、ギリシャ・ローマへの傾倒は相当のものだ。しかし、そのわりには、ギリシャ・ローマの書物は、ヘロドトスやプラトンのようない、いわば誰もが読む、いわば通り一遍のものしか読んでいない(ように思われる。)

もっとも、彼は『ぼくはこんな本を読んできた』にもあるように、小学校から文藝春秋に入社するまでは、小説や教養書を山のように読んでいた。ところが、文藝春秋で先輩からの一言で、ノンフィクションの面白さにのめりこみ、その後は一切、小説や教養書を読まなくなったと書いている。つまり、小説や教養書については、自分の言葉として何かを書く意味を感じないということなのだろう。



私は、小説はある程度読んだと言えるが、所謂、教養書はいまでも人間の成長には不可欠な書物だと思っている。というのもドイツ留学以来、私はギリシャ・ローマに魅入られた一人であり、かなり多くの物を読んできた。プラトンは別格として、プルタークの『比較人物伝』やディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシャ哲学者列伝』といった人物伝が気に入った。現代の欧米人にも見られる倫理観の原型が全てここに網羅されていると言っていいように感じる。この点に関しては、小著の『教養を極める読書術 哲学・宗教・歴史・人物伝をこう読む』(ビジネス社)に詳しく書いた。

このようにギリシャ・ローマの人物伝をひいき目に見ている私なので、立花隆が人物伝に関する話題が極めて少ないのは物足りなく感じる。彼は、キリスト教信者であるためか、ギリシャ哲学関連の話は多く登場する。私が考えるに、ギリシャ・ローマの哲学と人物伝はいわば、鏡の両面、つまり一方は理念・理論であり、もう一方は実際論であり、この両面が合わさって、全体像が分かると思っている。これは何も西洋に限らず、中国に関しても同様だ。『教養を極める読書術』に書いたように、私はギリシャ・ローマと中国の人物伝は、かなり多く読んだ。それは自分自身の生き方に悩んだことが多かったためだが、立花隆は人物伝を読む必要性を感じなかったというのは、自分の生き方が正しいとかなり自信を持っていたせいなのかもしれないと想像される。

さて、立花隆の蔵書は立花ネコビルだけでなく、三丁目や立教大学にも書籍があり、総計10万冊以上と言われる。何故そのように多くの本が必要かといえば、渡部昇一も『知的生活の方法』(講談社現代新書 P.100-102)にも同じような趣旨で「手元に本がないと知的生産はできない」と述べている。この点に関していえば、現在ではインターネットや電子媒体が進展しているので、紙の本がなくとも大丈夫だと考える人は多い。しかし、私の経験からいうと、どこに書いてあったのかを思い出す手がかりは本のタイトルというより、物理的な本の体裁、例えば、文庫本か新書か、ハードカバーかソフトカバーか、添えられていた写真や図などを手がかりに思い出すことが多い。とりわけ似たようなタイトルが並ぶ「世界の歴史」のようなシリーズものでは、本の表紙の写真がキーになる。この意味で、後世はいざ知らず、少なくとも私は、置き場所に四苦八苦しながらも、これからも紙の書物を読んでいくことになるだろう。

(了)
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