限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第173回目)『幻のタイトル 「リベラルアーツ ルネッサンス」(その1)』

2015-09-27 23:23:54 | 日記
先頃(2015/9/25)私の2番目の本
 『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』 (祥伝社)
が刊行された。同社から出版のオファーがあってから約1年半かけてようやく出版が完了した。いろいろな事情が重なり出版がかなり遅れてしまったが、実際に手にとってみるとそういった事を全て忘れてしまうほど、フレンドリーな雰囲気の本に出来上がっている。なるべく多くの若い人(自己推薦で若い人も歓迎!)に読んでもらいたいと期待している。

この本には、後書きがないので、このブログでは裏話や書き足りなかったことなどを紹介したい。

さて、タイトルであるが、前回の
 『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(角川SSC新書)
でもそうであったが、私の考えていたタイトルは出版社の採用するところとはならなかった。考えてみれば当然で、家を建てる時に建築士より依頼者の意向が優先される。出版社としては、良い本であることはもちろんだが、売れないと意味がない。その意味で、売れるためのタイトル『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』は出版社が幾つもの候補の中から、これぞと選んでつけたものだ。

この『本物の知性を磨く』と言うタイトルは、なかなか強烈なインパクトがある。「いったいどういう内容なのだろうか?」(大阪弁でいうと、どんなんやろ~?)と好奇心をくすぐる反面、「スノビッシュ!」(大阪弁でいうと、ええかっこしい!)と、中を読むさきから反発を招く危険性も考えられる。さらに、帯の「すべてのビジネスパーソン必読!」とあるから、対象読者数は少なく見積もっても 5000万人ということになる。この0.1パーセントが読んだとしても、5万部が売れるということになるのだが。。。



さらに、表紙のレイアウトであるが、ごちゃごちゃと沢山の文字が形や大きさの異なるタイル状に並んでいる。このような表紙は今までになかった斬新なもので、デザイナーの方のアイデアが光る。また文字フォントやページのレイアウトも親しみやすい。(と、親バカならぬ、著者バカぶりかもしれないが。。。)

さて、裏話というのは、私がこの本につけたタイトルは元来は『リベラルアーツ ルネッサンス』であった。 Renaissance とは言うまでもなく文芸復興のことである。ちなみに、Renaissance はフランス語では粋に「ルネサーンス」と「サーンス」を鼻にかけて発音するが、「ルネサンス」と書くのが一般的だ。英語では素っ気なく綴りどおり「ルネッサンス」と発音する。このように、全く同じものに対して、2通りの言い方があるのは、日本では珍しくはない。例えば、カップとコップ、グラスとガラス、ガムとグミ、カルテとカルタなどがある。

閑話休題

普通、歴史の授業で習うルネッサンスとは 15世紀にイタリアの北部を中心としたルネッサンスである。(ただし、ヨーロッパにはその前に12世紀ルネッサンスと呼ばれるものもあった。) Renaissance とは元来、re-born という意味なので revival とも通ずる。この観点から私はこの本のタイトルを『リベラルアーツ ルネッサンス』としたかった。つまり、従来の文系のそれも、文学、宗教、哲学という狭い分野に跼蹐(きょくせき)した、紋きり型の、かび臭いリベラルアーツ観を振り切って、自由広大で、伸び伸びとした、全方位的なリベラルアーツ観を示す本である、という意味だ。

従来、リベラルアーツといえば、一体何を教えてくれるのか、つかみどころがなかった。その上、社会人(ビジネスパーソン)の忙しい生活に必要なのか、という点が提示できていなかった。これらの点が明確に提示できていなかったために、リベラルアーツといえば、衒学的な「大正教養主義」やうすっぺらい「雑学教養」と同じ穴のムジナとみなされ、世間一般からは胡散くさいものと疎んじられてきた。ただ、近年(2011年)アップル創業者のスティーブ・ジョブズが新しい製品を作るには、技術だけでは不十分で、技術とリベラルアーツが融合しないとダメだと述べたことで、リベラルアーツが注目されるキーワードとして再浮上した。

ジョブズがリベラルアーツという言葉で言いたかったことは、人間工学的あるいは美術工芸的な観点をIT製品に取り込まないといけないということであると考えられる。それに対して、私がリベラルアーツの本質と考えるポイントは次の3つである。
 1.各文化圏のコアをつかむこと。
 2.「暗記する、覚える」のではなく「考える」もの。
 3.最終的に、自分なりの世界観、人生観をつくること。


これらについては、本の中で説明しているので、ここでは省略するが、言いたいのは、従来のリベラルアーツの教育ではこういった目標(着地点)が明確ではなかったがために、ただ単にあれもこれもと無目的に、際限なくいろいろなことを機械的に見聞きし、覚え込んでいたのが実情だということである。そのような教育では、初めのうちこそ、見聞きするものが目新しいために、興味が涌いて次々と知識を吸収するが、その内、気が付いてみると、「はて一体、自分は何のためにこういったことを学んでいるのだろうか?」と疑問を感じるようになるだろう。

学習意欲を継続するには、モチベーションと達成感という2つの刺激が必要だ。

リベラルアーツを学ぼうとする人は、まずはモチベーションが高い人であるので、最初の点は問題にならないが、2番目の『達成感』は問題だろう。今までのリベラルアーツの教育はこの点について、まったく沈黙していた。私の唱えるリベラルアーツは、この点について解決案を提示している。つまり、上で述べたようにリベラルアーツを学ぶとは、『各文化圏のコアをつかみ』そこから『最終的に、自分なりの世界観、人生観をつくる』ことを目標としている。ある文化圏のコアが理解できたというのは本書のP.54のコラム「本物の教養とは何か」にも書いたように自分で「腹落ち」する考えが出来たという確実な自覚ができたときということだ。

しかし、そもそも、なぜリベラルアーツにルネッサンスが必要か、という点について、時を遡って私の経験からお話ししてみよう。

続く。。。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第106回目)『猛獣と仲良く暮らすには』
コメント (1)
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