(前回)
前回と同じく、今回も古典の教養のありなしが運命を分けたお話。
明・嘉靖帝(世宗)は性格(大阪弁では「いらち」という)であったようだが、どうやら本来の性格ではなく、不老長寿の仙薬(丹薬)を長期間、服していたための中毒症状であったように私には思える。仙薬とはあたかも、仙人になれる聖薬のようだが、実は、水銀、ヒ素など多くの重金属を含む全くの毒薬である。過去、この仙薬で暴死している皇帝は何十人といる。このような皇帝の機嫌を損なうと、まさに韓非子がいう「逆鱗に触れ」、極刑は免れがたい。世慣れた処世術が問われる。
***************************
馮夢龍『智嚢』【巻20 / 769 / 楊廷和顧鼎臣】(私訳・原文)
また別の時、嘉靖帝が宦官に科挙の試験である郷試の問題を読み上げさせていた所、《論語》の中の「仁以為己任、不亦重乎」(仁、もって己が任となす。また、重からずや)という句があった。それを聞いた帝が「この下の文は何といった?」と尋ねると、宦官は機転を利かせて「この下の文は『興於詩』(詩に興こる)云云です」、と答えた。この宦官は智恵が回るというべき人だ。
又命内侍読郷試録、題是「仁以為己任、不亦重乎」、上忽問:「下文云何?」内侍対曰:「下文是『興於詩』云云。」此内侍亦有智。
***************************
これも、論語の句を知らないと意味が分からない。
《論語》の巻4に「仁以為己任、不亦重乎」の句が見える。これは孔子の弟子の曾子が述べた言葉で、「士人(教養人)は強くなければいけない。なぜなら、重責をずっと背負っていかねばならないからだ。仁愛(人に対する愛情)を施すことを己の任務とする。至って大変なことだ。」」」( 曾子曰:「士不可以不弘毅、任重而道遠。仁以為己任、不亦重乎」)とある。
すぐ下に「死而後已、不亦遠乎」(「(仁愛は)死ぬまでつづけないといけない。」)という句が続く。ここには「死」という不吉な字が見える。宦官は機転を利かせて、わざとこの句を飛ばして、次の節の「興於詩、立於礼、成於楽」(詩に興こり、礼に立ち、楽に成る)を続けて読んだ。
***************************
馮夢龍『智嚢』【巻20 / 770 / 宗沢】(私訳・原文)
北宋の徽宗の政和時代(1110年ごろ)、宗沢が莱州の掖県の知事であった。戸部省が都の恵民和剤局に薬を作らせるため、提挙司に命じて牛黄を全国から集めさせた。あまりに急な催促なので、在庫がたりなくなり、仕方なく方々で牛を殺して牛黄を取った。牛黄を用意できない人たちは役人に賄賂を贈って供出を免れようとした。宗沢だけは提挙司に堂々と次のような文を送った。「牛というのは病気が蔓延した歳には牛黄を多く出しますが、今は長年にわたって天下泰平で病気の牛がいないので、残念ながら牛黄を取ることはできません。」牛黄を取り立てにきた役人は返す言葉がなかった。これによって掖県は牛黄の供出は免除されたので、皆大喜びであった。
宗汝霖沢政和初知莱州掖県時、戸部著提挙司科買牛黄、以供在京恵民和剤局合薬用、督責急如星火。州県百姓競屠牛以取黄。既不登所科之数、則相与斂銭以賂吏胥祈免。〔辺批:弊所必至。〕汝霖独以状申提挙司、言「牛遇歳疫則多病有黄、今太平日久、和気充塞、県境牛皆充腯、無黄可取。」使者不能詰、一県獲免、無不歓戴。
***************************
中国には昔から「上に政策あれば下に対策あり」という諺があるようだが、その恰好の実例がこの話だ。
牛黄とは牛の胆嚢にできる結石で、昔から漢方薬として、解熱作用、精神安定作用、降血圧作用、造血作用、強心作用、などがある薬として知られている。ただ、牛黄を持つ牛は千頭に一頭程度といわれているので、無駄に多くの牛を殺さないといけないことになる。そこで、宗沢は、「牛黄は牛が病気にならないと取れない」という理屈をでっちあげ、「政治がうまく行っている我が県では牛は至って健康である。よって牛黄はとれない」とさかねじを食らわせた。中国の歴史には、正義心が強く、厚顔で、自前のでっち上げ理論で堂々とお上に楯突く硬骨漢がしばしば登場する。
(続く。。。)
前回と同じく、今回も古典の教養のありなしが運命を分けたお話。
明・嘉靖帝(世宗)は性格(大阪弁では「いらち」という)であったようだが、どうやら本来の性格ではなく、不老長寿の仙薬(丹薬)を長期間、服していたための中毒症状であったように私には思える。仙薬とはあたかも、仙人になれる聖薬のようだが、実は、水銀、ヒ素など多くの重金属を含む全くの毒薬である。過去、この仙薬で暴死している皇帝は何十人といる。このような皇帝の機嫌を損なうと、まさに韓非子がいう「逆鱗に触れ」、極刑は免れがたい。世慣れた処世術が問われる。
***************************
馮夢龍『智嚢』【巻20 / 769 / 楊廷和顧鼎臣】(私訳・原文)
また別の時、嘉靖帝が宦官に科挙の試験である郷試の問題を読み上げさせていた所、《論語》の中の「仁以為己任、不亦重乎」(仁、もって己が任となす。また、重からずや)という句があった。それを聞いた帝が「この下の文は何といった?」と尋ねると、宦官は機転を利かせて「この下の文は『興於詩』(詩に興こる)云云です」、と答えた。この宦官は智恵が回るというべき人だ。
又命内侍読郷試録、題是「仁以為己任、不亦重乎」、上忽問:「下文云何?」内侍対曰:「下文是『興於詩』云云。」此内侍亦有智。
***************************
これも、論語の句を知らないと意味が分からない。
《論語》の巻4に「仁以為己任、不亦重乎」の句が見える。これは孔子の弟子の曾子が述べた言葉で、「士人(教養人)は強くなければいけない。なぜなら、重責をずっと背負っていかねばならないからだ。仁愛(人に対する愛情)を施すことを己の任務とする。至って大変なことだ。」」」( 曾子曰:「士不可以不弘毅、任重而道遠。仁以為己任、不亦重乎」)とある。
すぐ下に「死而後已、不亦遠乎」(「(仁愛は)死ぬまでつづけないといけない。」)という句が続く。ここには「死」という不吉な字が見える。宦官は機転を利かせて、わざとこの句を飛ばして、次の節の「興於詩、立於礼、成於楽」(詩に興こり、礼に立ち、楽に成る)を続けて読んだ。
***************************
馮夢龍『智嚢』【巻20 / 770 / 宗沢】(私訳・原文)
北宋の徽宗の政和時代(1110年ごろ)、宗沢が莱州の掖県の知事であった。戸部省が都の恵民和剤局に薬を作らせるため、提挙司に命じて牛黄を全国から集めさせた。あまりに急な催促なので、在庫がたりなくなり、仕方なく方々で牛を殺して牛黄を取った。牛黄を用意できない人たちは役人に賄賂を贈って供出を免れようとした。宗沢だけは提挙司に堂々と次のような文を送った。「牛というのは病気が蔓延した歳には牛黄を多く出しますが、今は長年にわたって天下泰平で病気の牛がいないので、残念ながら牛黄を取ることはできません。」牛黄を取り立てにきた役人は返す言葉がなかった。これによって掖県は牛黄の供出は免除されたので、皆大喜びであった。
宗汝霖沢政和初知莱州掖県時、戸部著提挙司科買牛黄、以供在京恵民和剤局合薬用、督責急如星火。州県百姓競屠牛以取黄。既不登所科之数、則相与斂銭以賂吏胥祈免。〔辺批:弊所必至。〕汝霖独以状申提挙司、言「牛遇歳疫則多病有黄、今太平日久、和気充塞、県境牛皆充腯、無黄可取。」使者不能詰、一県獲免、無不歓戴。
***************************
中国には昔から「上に政策あれば下に対策あり」という諺があるようだが、その恰好の実例がこの話だ。
牛黄とは牛の胆嚢にできる結石で、昔から漢方薬として、解熱作用、精神安定作用、降血圧作用、造血作用、強心作用、などがある薬として知られている。ただ、牛黄を持つ牛は千頭に一頭程度といわれているので、無駄に多くの牛を殺さないといけないことになる。そこで、宗沢は、「牛黄は牛が病気にならないと取れない」という理屈をでっちあげ、「政治がうまく行っている我が県では牛は至って健康である。よって牛黄はとれない」とさかねじを食らわせた。中国の歴史には、正義心が強く、厚顔で、自前のでっち上げ理論で堂々とお上に楯突く硬骨漢がしばしば登場する。
(続く。。。)