アメリカのハリウッド映画では、昔の西部劇に始まり 007やインディ・ジョーンズなど、常に正義の味方が最後には勝利を収めるようなストーリーが人気を博する。一方、日本人は勝ち負けを度外視して、高校野球に見られるような汗まみれの熱血的な努力に対して拍手を送る。最近では、ソチオリンピックの浅田真央選手のフリーでの演技もそうだ。確かに力のこもったプレーを見ると感激がダイレクトに伝わってくる。
しかし、一方では、人知れずこつこつ努力するというスタイルもある。しかしその努力が表面にあらわれないため一目では分からない場合がある。その一例は将棋や囲碁の棋士の場合だろう。普通の人には、棋士といえば、ただ盤の前に坐っているだけの姿しか思いつかない。彼らは一体、いつどういった努力をしているのでろうか?秘めている情熱はどこに表れるのだろうか?

将棋界の例を示そう。一度は将棋の全てのタイトルを総なめにした羽生善治の持っていた(あるいは今も持っている)情熱を示す有名なエピソードがある。羽生は若い頃、江戸時代の将棋名人が作り、難解で知られる詰将棋の『詰むや詰まざるや』(伊藤宗看の『将棋無双』と伊藤看寿の『将棋図巧』の計200題の総称)を2年かかって全題解いたと言われる。それも将棋盤を使わず、電車の中や歩いている途中、全て頭の中だけで解いたのだ。プロの棋士でもなかなか全題は解けなくて途中で挫折する人も多いという。
方や、囲碁でも江戸時代の名人碁所の井上道節が作った超難解な『囲碁発陽論』を故・藤沢秀行が全題を解いたが、なかでも一番難しい問題は1000時間も考えたと言われる。これらの詰将棋や詰碁は、今から300年以上前の江戸時代のものであるが、その完成度と難度は古今に冠絶し、とても人間が作ったものとは思えない。
羽生善治にしろ、藤沢秀行にしろ、このような超難解な問題に取り組んだが、いずれも問題を解いたその事実もさることながら、解けるまで喰らいついていった執念の方を、より高く評価するべきであろう。将棋や囲碁の場合は、素人目には努力している形跡は見えないが、その実、高校野球に劣らない位努力しているのだ。
この2つの努力のスタイルを私は『赤い炎と青い炎』と名付けた。
見た目は赤い炎の方が華々しく熱をもっていることが一目でわかる。しかし、青い炎は見た目は青白くインパクトが弱そうでも赤い炎に劣らず強烈な熱を持っている。人の真似をせず、自分の性格に合う努力の仕方を見つけ、基礎力を持続することが肝要である。
しかし、一方では、人知れずこつこつ努力するというスタイルもある。しかしその努力が表面にあらわれないため一目では分からない場合がある。その一例は将棋や囲碁の棋士の場合だろう。普通の人には、棋士といえば、ただ盤の前に坐っているだけの姿しか思いつかない。彼らは一体、いつどういった努力をしているのでろうか?秘めている情熱はどこに表れるのだろうか?

将棋界の例を示そう。一度は将棋の全てのタイトルを総なめにした羽生善治の持っていた(あるいは今も持っている)情熱を示す有名なエピソードがある。羽生は若い頃、江戸時代の将棋名人が作り、難解で知られる詰将棋の『詰むや詰まざるや』(伊藤宗看の『将棋無双』と伊藤看寿の『将棋図巧』の計200題の総称)を2年かかって全題解いたと言われる。それも将棋盤を使わず、電車の中や歩いている途中、全て頭の中だけで解いたのだ。プロの棋士でもなかなか全題は解けなくて途中で挫折する人も多いという。
方や、囲碁でも江戸時代の名人碁所の井上道節が作った超難解な『囲碁発陽論』を故・藤沢秀行が全題を解いたが、なかでも一番難しい問題は1000時間も考えたと言われる。これらの詰将棋や詰碁は、今から300年以上前の江戸時代のものであるが、その完成度と難度は古今に冠絶し、とても人間が作ったものとは思えない。
羽生善治にしろ、藤沢秀行にしろ、このような超難解な問題に取り組んだが、いずれも問題を解いたその事実もさることながら、解けるまで喰らいついていった執念の方を、より高く評価するべきであろう。将棋や囲碁の場合は、素人目には努力している形跡は見えないが、その実、高校野球に劣らない位努力しているのだ。
この2つの努力のスタイルを私は『赤い炎と青い炎』と名付けた。
見た目は赤い炎の方が華々しく熱をもっていることが一目でわかる。しかし、青い炎は見た目は青白くインパクトが弱そうでも赤い炎に劣らず強烈な熱を持っている。人の真似をせず、自分の性格に合う努力の仕方を見つけ、基礎力を持続することが肝要である。