限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第287回目)『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ・その5』

2017-04-30 21:52:17 | 日記
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【7】庶民の食事(1-1、P.243)

現在では、フランス料理は中華料理と並んで世界の2大料理であることに誰も異論はないであろう。しかし、歴史的に見ると、フランス料理が自慢できるようになったのはつい最近、つまりフランス革命(1789年)以降のこと、である。フランス革命で王政が倒されたので宮廷の料理人たちも宮廷から街中へ放り出された。しかたなく、銘々が料理店を開店したので、フランス料理なるものが一般化したという。そもそも、フランス料理の濫觴は1533年、イタリアのカトリーヌ・ド・メディシスがアンリ2世に輿入れした時に、フランスの不味い料理など我慢できないと、フィレンツェから料理人を連れてきた時にある。フランス王室では、材料や調理法に贅と工夫をこらしてた。その結果、当時の料理本に載せられているように種々の洗練された料理が作られたがはたして一般庶民はどのような食事をしていたのであろうか?

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【要旨】ヨーロッパでは、15世紀、16世紀以前においては本格的に贅沢な食事(洗練された食事)などなかった。この点においてヨーロッパは中東や中国などより遅れていた。フランスの地方料理の500年にわたる伝統をほめる人がいるが、はたしてどれほどの人がその恩恵に浴していたのだろうか?
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ここに見るように、ブローデルの指摘は、現在みられるフランス料理の伝統は確かに否定できないものの、それは社会の極一部の上流特権階級の伝統でしかなかったということだ。ブローデルの基本理念は社会の一部にしか見られない特殊事象を麗々しく記述することではなく、社会全体を通貫している大きな流れを記述することである。それ故、フランス料理についても、この点を強調する。

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[農民は]粟かとうもろこし( le paysan se nourrit de millet ou de maïs)を食べて、小麦を売っていた。週に一回塩漬けの豚肉を食べるだけで、家禽・卵・小山羊・仔牛・仔羊……などは市へ持ってゆくのであった。… 農民の、すなわち人口中の絶対多数の食品は、特権人士向きの料理書にある食品とはなんの関わりもなかった。
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この部分を読んで思い出したことがある。以前、京都大学で留学生向けの英語の授業『日本の工芸技術と社会』(Craftsmanship in Japanese Society)のテストでオランダの女子学生が料理について次のように記述したことで、日本の料理文化との差を思い知らされた。

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例えば、今回の回答の一つにオランダの学生が料理について書いていた文章の中に『日本では、料理が一つの文化となっている。しかし、オランダでは料理が文化だ、というと皆、笑いこけてしまうに違いない。なぜならオランダでは料理というのは、単にジャガイモを腹いっぱいに食べて、栄養をとるもの、というのが伝統的な理解だ。』という趣旨の文章があった。オランダでは、ありふれた料理でも色や形の異なった皿にいれ、盛り付けを工夫して見た目を考えて出すという我々日本人なら当たり前の感覚が存在していなかったのである。
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オランダだけでなく、ゲルマン系の国々の料理に対する国際評価はラテン系に比べて高くない。私の実感として、これらの国々の料理は、掛け値なしに質素で、栄養が偏っているとの印象がある。この原因は寒冷な気候のために洗練された料理文化を構築するという条件に恵まれなかったからではないかと思う。南欧のように種々の植物が豊富に取れる条件がなく、とにかく生き延びることがやっと、のような低い生産性では、食べられるだけでも幸福だと思ったことであろう。この点からすれば、中国南部から東南アジア・インドにかけての植生の豊かさは、うらやましいほどの多彩な食文化を形成した。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第126回目)『英語講義:日本の工芸技術と社会・テスト』

続く。。。
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想溢筆翔:(第305回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その148)』

2017-04-27 21:41:54 | 日記
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【247.端緒 】P.3943、AD450年

『端緒』とは「物事のはじまり」という意味。辞源(1987年版)の説明は「頭緒」とそっけないが、辞海(1978年版)には「頭緒曰端緒、如理糸緒、必循其端也」(頭緒を端緒という。糸には端があるように、必ず物事には始まりがある)と丁寧に説明する。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で『端緒』を検索すると下の表のようになるが、これから分かるように、歴史的にはあまり使われていない単語であることが分かる。



さて、資治通鑑で『端緒』が使われている場面を見てみよう。北魏の政治体制の構築に貢献した崔浩であるが、国史編纂で鮮卑族拓跋部の風俗をありのまま記述したため、太武帝の怒りをかい、親族(五族)皆殺しの極刑に処せられた。この時、崔浩と同じく国史編纂に携わっていた高允は、太武帝に「自分も崔浩と同罪だ」と言った。高允は、太子の先生であったので、太子の必死にとりなしによって、ようやくのこと死を免れた。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第263回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その106)』

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それから暫くして、太子が高允をなじって言うには「人間というのは、状況をちゃんと理解すべきではないでしょうか。私は先生が殺されずに済むように、端緒を開いたのに先生は私の言うとおりしなかったので、帝が激怒したではありませんか。あの時の事を思い出すたびに、今でも心臓がどきどきします。」高允が答えていうには「歴史というのは、人主の善悪を隠さずに記録するものですが、それは将来の人間へ訓戒を与えるためです。君主は歴史に悪くかかれる事を憚って、わがままな行いを自制するのです。崔浩が帝の聖恩を独り占めにし、我欲がありすぎたため廉潔も帳消しとなり、自分の愛憎の感情に引きずられて公平さを欠いてしまったのです。これが崔浩の罪です。朝廷で起こったことを記録し、国家の得失を論ずるのは、史官の一番の基本です。従って、崔浩がありのままを記述したのは別に咎めるべきことではありません。私は崔浩とまったく同じことをしたのですが、結果的には崔浩は汚辱にまみれて殺され、私は逆に栄誉を得て生き永らえています。本来的には2人のしたことは全く変わりません。誠に、陛下の度重なる慈愛あふれる処遇に感謝しますが、これからも史官の本分に恥じる行いはしないつもりです。」太子は、その言葉に感動し、誉め称えた。

他日、太子譲允曰:「人亦当知機。吾欲為卿脱死、既開端緒;而卿終不従、激怒帝如此。毎念之、使人心悸。」允曰:「夫史者、所以記人主善悪、為将来勧戒、故人主有所畏忌、慎其挙措。崔浩孤負聖恩、以私欲沒其廉潔、愛憎蔽其公直、此浩之責也。至於書朝廷起居、言国家得失、此為史之大体、未為多違。臣与浩実同其事、死生栄辱、義無独殊。誠荷殿下再造之慈、違心苟免、非臣所願也。」太子動容称歎。
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太武帝が崔浩が編纂した国史の記述に激怒して崔浩の親族を皆殺しするのを見ても高允は動じることなく、「自分も崔浩と同罪だ」と堂々と述べた。史実を、時の帝王の気に入るように書き換えるのは国史編纂者のすべきことではないとの強い自覚をもっていた。それ故、史書は「善以為式、悪以為戒」(善はもって式となし、悪はもって戒めとなす)と言われたのだ。

続く。。。
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百論簇出:(第204回目)『好奇心こそ知識の増進剤』

2017-04-23 18:16:55 | 日記
一昔前のことであるが、EQ(心の知能指数:Emotional Intelligence Quotient)という言葉が流行した。人の評価は従来の知能指数(IQ : Intelligence Quotient)では測れない、むしろ自分と他人の感情を的確に理解し、コントロールする能力(EQ)が重要だと力説する。現在ではこれら(IQ、 EQ)に加えて意志の力や好奇心も人を能力を示す指標だといわれている。米ジャーナリストの Thomas Friedman は人の評価において好奇心(QC:Curiosity Quotient)や情熱(Passion)はIQより重要だと述べて、次のような等式すら提唱している。


この等式の是非はさておき、意味するところは私も同感だ。このブログ『限りなき知の探訪』の最初に述べた
 『知識を与えるより、疑問を抱かせる教育』
がまさにこの趣旨である。

しかし、最近つらつら考えるに「疑問を抱かせる」から更に一歩進んで「仮説をもって考える」方がより一層重要ではないかと思い至った。ここでいう「仮説」とは、リベラルアーツの根本的精神である「健全なる懐疑心」を持って ― 世間の常識に囚われず ― 自分で考え出した仮説のことだ。当然のことながら、全ての「仮説」は検証を必要とする。それも、自分勝手な解釈や思い込みで判断するのではなく客観的な幾多の証拠に照らし合わせて検証することだ。この方法論に関しては次のブログに述べた。
【麻生川語録・16】『EBD -- Evidence Based Discussion』

数年前、『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』という本を上梓したが、私が資治通鑑を読もうという気になったのは、中国の権力闘争や桁外れの汚職、言語を絶する環境汚染などを見聞きするにつけ、どうも中国文学者たちのいう「すばらしき中国文明」に大いなる疑問を感じたのが発端である。この時、一応仮説として「現代の中国に見られるこれらの悪の部分は、 1980年代からの改革開放から起こった現象ではない」を立て、歴史的に検証するため資治通鑑というドキュメンタリーを読んだのである。

その結果は『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(や、今年(2017年8月)に出版する予定の資治通鑑の続編『世にも恐ろしい中国人の戦略思考』)に書いた通り、私の仮説が正しいことが実証された。資治通鑑を読んで培われた中国社会をみる鑑識眼で戦後の中国の権力闘争や社会の動きを見ると実にその基本構造がよく見える。あたかも表面からでは分からない疾患がレントゲンやMRIの画像データで、一目瞭然と判明するようなものだ。

中国はさておき、ヨーロッパについて言うと、私は 22歳の時にドイツへ1年間留学したが、その間、半年以上はヨーロッパ各地を旅行することに費やした。(ということで、ドイツ滞在は半年に満たなかったのだが。。。)その後、改めて日本におけるヨーロッパの歴史教育について考えてみると、中世に関する情報は実に少なく、かつ、極端にキリスト教中心の歴史的事変に偏向していることに気づいた。日本人の文化人の中には、キリスト教を理解しないとヨーロッパは理解できないという人がいるが、実際にヨーロッパに暮らしてみると ― 感覚的にしか言えないが ― 彼らの言動のうちキリスト教に基づく部分はたかだか1/3程度に過ぎないと感じる。後の部分は、ギリシャ・ローマの論理や弁論術であったり、あるいは、先住民族(ケルト人)時代からの習俗(例:クリスマス、イースター)であったりする。日本に置き換えてみると、仏教一色ではなく、神道や儒教、あるいは土俗のシャーマニズムの影響が今なお見られるようなものだ。

これらのことから私は「ヨーロッパにおけるキリスト教の影響度は中世においても低かった」との仮説を立てた。そして学校教育ではほとんど触れられることのなかった中世ヨーロッパの実生活を記述している本を探してかなり読み込んだ。例えば次のような本だ:
 『中世の秋 上・下』(中公文庫)ホイジンガ(堀内孝一・訳)
 『中世ヨーロッパの生活』(白水社・文庫クセジュ)ジュヌヴィエーヴ・ドークール(大島誠・訳)
 『中世ヨーロッパの農村の生活』(講談社学術文庫)ジョセフ・ギース、フランシス・ギース(青木淑子・訳)
 『中世ヨーロッパ生活誌 1・2』(白水社)オットー・ボルスト(永野藤夫・訳)
 『フランス文化史・Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(人文選書)ジョルジュ・デュビィ(前川貞次郎・他訳)
 『中世後期のドイツ文化』(三修社)H.F.ローゼンフェルト(鎌野多美子・訳)

これらの本は確かに中世ヨーロッパの民衆の生活について貴重な Evidenceを提供している。その意味で価値のある本であるが、そもそもの私の仮説(中世におけるキリスト教の影響度)について納得のいく説明はこれらの本の中には残念ながら見つからなかった。(あるいは、私の読み方が不足なのかもしれないが。)

さて、最近アナール派の巨匠、フィルナン・ブローデルの大著「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀」を読み始めたことはブログ記事、
 沂風詠録『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ』
に書いた通りだが、この本は15世紀以降、つまり中世が終わったあとの話である。それで、アナール派の視点で中世を書いた本がないかと探したところジャック・ル・ゴフ(Jacques Le Goff)の書いた『中世西欧文明』(論創社)という本を見つけた。アマゾンの書評を読むと、かなり高い評価の本であることが分かった。ただ日本語の翻訳では原著に豊富にある写真や図版が大幅にカットされていることが分かった。

それで、原著の "La Civilisation de l'Occident medieval" を探して購入したところ、図らずもフランスのグランゼコールの一つである国立高等装飾美術学校(L'Ecole nationale superieure des arts decoratifs (ENSAD))のかつての蔵書が届いた。


それで早速、ブローデルと並行して、和訳本を見ながらフランス語の部分を読み始めた。訳者・桐村泰次氏の文章は非常にこなれていて、分かりやすいので大いに助かっている。(ただし、段落分けが原文と異なっているのがちょっとしたキズではある。また、図版がないので、後で読み返すとき、原著のページ数との照合に手間がかかるのもささやかな難点だ。)

和訳本では写真や図版がカットされたということだが、原著を見るとこれら図版にもかなり長い説明文がついているので、この部分を訳すのは確かに大変だろうなと感じる。更に、現在ですら6000円と学術書レベルの高価な本なのに、写真や図を載せると軽く2万円は超えてしまい、ますます手が届かなくなるだろうと思う。

さて、本題の私の仮説についてであるが、読み進めていくと原著の P.158(和訳ではP.181)に次のような文を発見した。
【要旨】修道院によってヨーロッパは田舎にまでキリスト教がもたらされた。しかし、中世文明にとって修道院はあたかも砂漠の中のオアシスのように「森」の中の「点」に過ぎなかった。広漠たる未開墾の田園は先史時代にルーツをもつ伝統的な農村文明があり、キリスト教はその表面を彩る釉薬に過ぎなかった。

つまり、ゴフは中世において修道院がキリスト教を広めた功績は認めるものの、それが全てだというような過大な評価を戒めているのだ。この文章によって、私の積年の仮説がようやく正しいことが分かった。学生時代にヨーロッパに行って感じた時から勘定すると、実に40年も経ってようやく一つの仮説が検証されたことになる。確かに時間はかかるものの、仮説を持って本を読むと、理解する深みが随分と違うことを改めて感じる。
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想溢筆翔:(第304回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その147)』

2017-04-20 20:25:37 | 日記
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【246.衰弱 】P.1976、AD195年

『衰弱』とは「おとろえて体力や勢力が弱る」という意味であるが、たいていの場合、主語が生物である。しかし、漢文の場合は、主語が国家や政権など、無生物の場合もかなり多い。例えば「匈奴衰弱」(漢書、後漢書)、「周室稍稍衰弱」(賈誼新書)、「中国衰弱」(新五代史)など。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のように史記には見えず、漢書以降に見えるが、戦国策にも登場する単語であるので、かなり古い単語であることが分かる。



さて、資治通鑑で『衰弱』が使われている場面を紹介しよう。

後漢末、張超が雍丘で曹操の軍勢に包囲され、今にも陥落しそうになった。以前、張超の部下で、その時は袁紹の配下にあった臧洪は、直ちに救援に駆け付けたいとして、袁紹の許可を求めたが、許されなかった。とうとう、張超の城は耐え切れず陥落し、張超は自害して果てた。このことを恨んだ臧洪は袁紹に叛旗をひるがえした。袁紹は即座に軍をおくって臧洪の城を包囲した。籠城の備えがなく、食糧が底をついたので、臧洪は自分の愛妾を殺して、兵士に食わせた。皆、感動のあまり嗚咽するばかりであった(殺其愛妾以食将士。将士咸流涕、無能仰視者)。

そういった悲壮な頑張り甲斐もなく、とうとう城が陥落し、一人、臧洪だけが生け捕りにされて袁紹の前に引き立てられた。

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袁紹は将兵たち全員を集めた前で臧洪を詰問した。「臧洪よ、お前はなんでワシに背いたのだ?敗けたのだから、降参しろ。」臧洪は地にどっかと座り眦[まなじり]をつり上げてこういった。「袁氏は代々漢の王室に仕え、四世に亘って五人も大臣を輩出している、漢の王室に大恩があるというべきだ。ところが、今や漢の王室が衰弱したにも拘らず、サポートせず、逆にこのチャンスに王室を乗っ取ろうとし、数多くの忠臣を殺して勢力を張ろうとしているではないか!ワシはお前が張邈(張陳留)を「兄」と呼んでいるのを間近に見た。それなら、張邈の弟であり、またワシの主君である張超はお前にとっては弟分に当たるではないか。本来なら一緒に力を合わせて国のために尽くすべきなのに、お前は何だ、張超の城が陥落するのを、ただただ傍観していただけではないか!ワシは力が足りず敗けてしまった。お前の胸に刃を突き立てて、復讐できないのを悔しく思うことはあっても、どうして降参など考えようか!」袁紹は以前から臧洪をかわいがっていたので、どうしても降参させて、また部下に取り立てたいと考えていた。しかし臧洪の考えが頑として変わらないことを知るや、処刑した。

紹大会諸将見洪、謂曰:「臧洪、何相負若此!今日服未?」洪拠地瞋目曰:「諸袁事漢、四世五公、可謂受恩。今王室衰弱、無扶翼之意、欲因際会、希冀非望、多殺忠良以立姦威。洪親見呼張陳留為兄、則洪府君亦宜為弟、同共戮力、為国除害、柰何擁衆観人屠滅!洪惜力劣、不能推刃為天下報仇、何謂服乎!」紹本愛洪、意欲令屈服、原之;見洪辞切、知終不為己用、乃殺之。
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臧洪と共に城に立てこもったのは兵士だけでなく、一般人も一万人近くいた。籠城で食糧難になっても、誰一人裏切らなかったという。人としての真贋はこういった危機の時に判明するということだ。

続く。。。
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沂風詠録:(第286回目)『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ・その4』

2017-04-16 22:09:55 | 日記
前回

【6】ハンカチ(1-1、P.237)

以前、ドイツへ留学した時に、"Im Bus soll man nicht Trumpet blasen." (バスの中でトランペットを吹くべからず)という(ような)句を聞かされたことがあった。「トランペットを吹く」とは文字通りの意味ではなく、鼻をかむことである。日本人と違って鼻が高い(大きい)人が多いドイツ人の中にはトランペットのような豪快な音をたてて鼻をかむ人がいる。それで、エチケットとしてバス(や公共機関)の中では鼻をかまないようにという忠告なのである。

ドイツでは当時(1977年)も(多分、今でも)鼻をかむ時は鼻かみではなく、ハンカチを使う。それも、一回つづ取り換えるのではなく、何回もかむ。そうして、かんだ後はポケットに突っ込んでおくと、体温(と乾燥している)おかげで、その内に乾いてくるので何度も使える。初めは、下品でバッチイと思っていたが、そのうち私自身もドイツ式にハンカチを使うようになった。

ハンカチで鼻をかむのは、日本人の清潔感からすると納得できないが、ヨーロッパではかなり上品だと考えられていたと、ルネッサンス期の文人・エラスムスの言を引用しながら、ブローデルは次のように述べる。

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ハンカチも贅沢品であった。エラスムスはその著作『礼儀作法集』のなかでこう説明している。―「帽子や袖を使って鼻をかむことは田舎者のすることである。腕や肘で鼻をかむのは菓子屋のすることである。また手鼻をかんで、ひょっとして同時に自分の服にその手を持っていったりしたら、不作法な点では五十歩百歩である。しかし、貴人からやや顔をそむけながら、ハンカチで鼻の排泄物を受けとめるのは礼儀にかなったことである。」
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このように、ハンカチで鼻をかむのは至って上品なマナーであるというが、 17世紀の初め、慶長遣欧使節でヨーロッパに行った支倉常長の一行が懐紙で鼻をかんだことに当時のヨーロッパ人は非常に驚いたようである。紙が安価に出回っていた日本と異なり、ヨーロッパではハンカチ以外の手段がなかったのであろう。もっとも、片方の鼻の穴を抑えて、もう一つの穴から空気を思い切り吹出すことでハンカチどころか手も汚すことなく手際よく鼻水を取り去る方法もある。当然のことながら、ハンカチ業界や鼻紙業界からは、営業妨害と指弾されている方法ではあろうが。。。



これらの記述を通して、ブローデルは、ヨーロッパが先進的になったのは、たかだかここ300年の、極めて最近の現象にすぎないことを述べようとしたのだと私は考える。逆の観点からいうと、現代の世界において、文明的と考えられているさまざまな思想は物質的には至って粗末な状況のヨーロッパにおいて育まれたのだということを知っておく必要がある。

日本では「和魂洋才」という言葉があらわすように、ヨーロッパの物質文明に対して、日本の精神文明があると誇る。幕末の学者・佐久間象山はもっと端的に「東洋道徳、西洋芸術」と述べた。この点においては、中国や朝鮮も同じように考えていたことは、「中体西用」(中国)、「東道西器」(朝鮮)という単語からでも分かる。しかし、ブローデルの指摘からもわかるように、歴史的にみれば、ヨーロッパが物質文明の恩恵に浴したのは、最近(300年前)だったことを思い至ると、東西文明の本質的な差は物質文明のある/なしではないことが分かる。表層的ではなく、物事に対する観点・考え方の根本的な差をつかむには、膨大なバックグラウンドの知識を必要とする。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第13回目)『下駄履きのシンデレラ』

続く。。。
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