限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第39回目)『細君にローストビーフをプレゼント』

2010-01-11 11:54:43 | 日記
今から数年前、2004年夏のオリンピックはその発祥の地、ギリシャで開催されました。皆さんもご存知の様に、もともとオリンピックとは紀元前776年から約1200年間近くも開催された古代ギリシャ共同体全体の民族的競技でした。ギリシャの歴史を読んでみると、それこそ毎年の如く各都市同士が戦争を繰り返していることには全く驚くばかりです。そのような敵国同士でもオリンピックの期間だけは休戦し神々に捧げる競技を一緒に楽しんだものです。

ギリシャはこのオリンピックに限らず、文化面では、ヨーロッパ文明の中核をなしています。とりわけ、哲学では近代の哲学も全部ひっくるめて、『プラトンの注釈』と称される程、ギリシャ哲学で提示された範囲から出ていません。しかし、ギリシャ哲学の魅力はなんと言ってもその自由な批判的精神の発揚にあると私は常々思っています。

紀元三世紀のディオゲネス・ラエルティオスが書いた『ギリシャ哲学者列伝』(岩波文庫)という書物には、そういった個性豊かな人たちの言動が記されています。現在で言うと週刊誌のゴシップ記事の集大成のような記事ばかりだ、と陰口のたたかれている書ですが、ともかくも活き活きとした話題満載で、私は大好きです。

中でも有名なのは樽の哲人で知られているディオゲネスでしょう。例のアレキサンダー大王に欲しいものは?と聞かれて、『日陰になるのでちょっとそこをどいて欲しい』と言った人です。金力、権力にへつらわず、自己の信ずる道を楽しむ、まさに哲人にふさわしい一言です。それを聞いたアレキサンダー大王は怒りもせず、彼の言う通りにしたばかりか『私はアレキサンダーでなければディオゲネスになりたい』とまでディオゲネスを誉めたと言います。私がギリシャ文明を評価する大きな理由がこういった溌剌とした言動にあります。

同じくこの本に載っている話ですが、アリスティポスがある時、権力者ディオニュシオスの執事で腹黒いシモスの豪奢な新築の家に招かれました。その家は自慢するに相応しく床にまで見事な大理石が敷かれていました。同行の皆が感心しながら部屋から部屋へと案内されていた時です、アリスティポスは咳払いをして、案内をしていた主人のシモスの顔に痰を吐きかけました。シモスが怒ったところ、『いやね、余りにも建物が綺麗で、他に痰を吐くにふさわしい場所がなかったもので』と澄まして答えたと言われています。

わが日本でこれに類する話と言えば、豊臣秀吉に仕えた御伽衆(英語でいうclown)の曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)の逸話が近いでしょうか。

曽呂利新左衛門があるときに秀吉に紙袋一個分の米を欲しいと願い出ました。秀吉は新左衛門にしては珍しくささやかな願い事をするものじゃ、と訝ったもののOKしました。数日して、秀吉の所に蔵役人が慌てて飛んできて、新左衛門が米蔵をばかでかい紙袋で覆って中にある米俵を続々と荷車で持ち出している、とのことでした。秀吉が現場に駆けつけてみると、確かに米蔵が超特大の紙風船で覆われていたのでした。新左衛門に一杯くわされたわい、と秀吉は呵々大笑するものの、お咎めなしだったとか。曽呂利新左衛門は運び出した米俵を堺の貧民に秀吉からの御施米(ごせまい)と言って配って歩いたので、結局秀吉の人気はさらに上がったということです。

また秀吉が四国征伐に乗り出そうとした時、噂ばかりで一向に船出しないので、『太閤が四石(しこく)(四国)の米を買いかねて、今日も五斗買い(ごとかい)(御渡海)明日も五斗買い(御渡海)』と狂歌で皮肉りました。あの強気な太閤も彼にだけは、苦笑せざるを得なかったようです。

話は飛んで、中国の後漢から晋の時代までの人物の逸話を集めた世説新語という本があります。中国は古代から人物評論が盛んですが、六朝時代の貴族社会においては特に盛んでした。その中に、郭隆(かくりゅう)の人をくったような話があります。(郭は本当は享ではなく赤)

郭隆は七月七日に大の字になって日向ぼっこしていました。何をしているかと尋ねられたので、『こうして腹の中の書物を虫干ししているのだ』と答えたそうです。(郭隆、七月七日、出日中仰臥。人問其故。答曰:「我晒書」)

当時、七月七日には衣服や書物を虫干しする習慣があったのですが、かく隆は貧乏で家には虫干しするような衣服や書物がなかったので負け惜しみにとった行動です。当時の人たち、および後世の中国人にとっては、彼のウィット溢れる言動がプラス評価されていたことが分かります。

このような逸話は時代を遡ってみますと、前漢の武帝の時の文人・東方朔に多く見られます。彼は武帝に自己推薦状を書きますが、自らの博学ぶりを『44万言を暗記している』と豪語しています。ここでこの44万語と言う語数を考えてみましょう。古代ギリシャ人の必須暗記文であった、ホメロスのイリアスとオデッセーは合計で2.8万行あります。その一行あたり大体八単語ありますので、合計で22万単語あることになります。ギリシャ語一単語が漢字二文字分相当と考えると、ほぼ同分量が東西問わず古代の教養人の記憶容量であったことが分かります。ちなみに史記は52万6500字です。(50万文字、これはわずか1メガバイト、フロッピー一枚分です!)



さて、この東方朔の上申文は3000行(竹簡3000枚)にも及び、受け取った武帝は通読するのになんと二ヵ月もかかったとか。流石に文武両面にわたり漢の最盛期を築いた武帝だけあって、現在の元首達より遥かに文に熱意があり、洗練されていたと感心させられます。

このような経歴を見ると、東方朔は一見くそ真面目な学者のように思えますが、実は機知にあふれた才人でした。彼の言った一言が、二千年後の今日でも日常的に使われています。武帝がある時、真夏の節季(伏日)に宮中の役人を集め焼肉を賜うパーティを催しました。ところが、勝手気ままな武帝のこと、予定の時刻を過ぎても肉が下賜されません。待ちくたびれた東方朔は、お先に失礼、と言ってテーブルの上に置いてあったローストビーフを一切れだけ切り割き、そのまま袂に入れて、さっさと家に帰ったのでした。

このことを聞いた武帝は、無礼なやつだとは思ったものの、東方朔のことだから何らか事情があるはずと考え翌日問い質しました。東方朔は反省の振りをしながら、武帝の遅刻を暗になじりつつ『細君にローストビーフをお土産に持って帰ったのはなんと妻思いではないか』と締めくくりました。(この言葉から妻のことを細君と言うようになったとか。)

東方朔は武帝の言動を直接咎めだてせず、なぞかけのように諌言したのです。中国の古典を読んでみると、このスタイル、諷諫は上古からあったことが分かります。その上この論法が高く評価されていたが分かります。説宛には、君主を諌める方法には五つあり、孔子が『吾はそれ諷諫に従わん』と高く評価していたと伝えられています。孔子から数百年後の後漢書にも『論に曰く、礼に五諫あり、諷を上となす』と書かれています。

このような諷諫の例は、東方朔以外でも韓非子・戦国策などには中国の書物には頻出します。まさに、ウィットの効いた言い方でなければ説得にあらず、とさえ言っても過言ではないぐらい多用されていて、それらの中には時代を超えた名文句が数多くあります。

さて、この諷諫が効果を発揮するためには、聞く人の度量が問題となります。つまり、説明がストレートではないので、その言葉の裏に潜む真意を探る知恵とそれが本来的に持っている批判的な意見を受け入れるだけの冷静さと度量が必要となります。日本人は皮肉、当てこすりを極端に嫌う国民性、裏がえしていえば素直を過大評価する国民性、があるため歴史的にはこの諷諫という遠回しに諫めるスタイルは受け入れられなかったように思います。しかし、国際的に見た場合、私達のこの国民的狭量さは少し改める必要がある、と私は考えています。
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