限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第434回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その277)』

2020-09-27 15:32:59 | 日記
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【376.軽薄 】P.4729、AD527年

『軽薄』とは「思慮があさはかで、態度や性格が軽々しく誠実さがないこと」。類似の単語に「軽佻」がある。中国の権威ある辞書、辞海(1978年版)には「敦厚之反」(敦厚の反対)と説明する。これは、単に antonym を挙げただけで、全く説明にはなっていない。もう一つの辞書、辞源(1987年版)を見ると「軽浮刻薄、不厚道」(軽浮、刻薄で道に厚からず)と説明するが、これまた、まともな説明とは言えない。このように、中国の辞書は西洋のものに比べると、字句の説明が投げやり的なものが多く見かける。この原因は、漢文では事細かく説明する語句や文体が備わっていないせいではなかろうかと愚考する。

さて、「軽薄」と「軽佻」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。全体としてみると、軽薄の方が、軽佻の4倍以上使われている。ただ、明以降の近代に限ってみると「軽佻」の方が多く使われている。つまり「軽薄」は近代の中国ではいわば死語となっていると考えてよさそうだ。



さて、資治通鑑で軽薄が使われている場面を見てみよう。

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中尉の酈道元は昔から厳格と勇猛で有名だった。司州の知事で、汝南王の元悦の嬖人(お気に入りの部下)である丘念は、汝南王の権力を笠にきて勝手ににふるまっていた。その無道な行いに腹を立てた酈道元は丘念を捕まえて投獄した。元悦は胡太后に丘念の釈放を頼んで、太后も許可しようとした。それを聞いた酈道元は先手を打って丘念を殺した上で、元悦まで弾劾した。

さて、当時すでに蕭宝寅が反乱を起こすことが知れわたっていた。そこで、元悦はこの機会を使って酈道元を始末しようと考え、酈道元を関右大使に任命するよう上申した。蕭宝寅はこれを知り、身の危険を感じて大変恐れた。長安の街にたむろする軽薄な連中が蕭宝寅に挙兵を促した。蕭宝寅は河東出身の柳楷に尋ねると柳楷は「大王は斉の明帝の子でありますので、天下はもともと大王のものです。今回の挙兵は実に人望にかなうものです。巷ではこういう唄が流行っています。『鸞が十個の卵を生んで、九個は壊れた。一個だけは壊れず、関中が治まる』。この言葉通り、大王は今、関中におられます。ためらう理由などないでしょう!」酈道元が陰盤駅に着いて宿泊していたところ、蕭宝寅から派遣された郭子恢に攻撃されて殺されてしまった。蕭宝寅は素知らぬ振りをして、酈道元の死体を収容して、盗賊にやられた、と言いふらした。

中尉酈道元、素名厳猛。司州牧汝南王悦嬖人丘念、弄権縦恣、道元収念付獄;悦請之於胡太后、太后敕赦之、道元殺之、并以劾悦。時宝寅反状已露、悦乃奏以道元為関右大使。宝寅聞之、謂為取己、甚懼、長安軽薄子弟復勧使挙兵。宝寅以問河東柳楷、楷曰:「大王、斉明帝子、天下所属、今日之挙、実允人望。且謡言『鸞生十子九子毈、一子不毈関中乱。』大王当治関中、何所疑!」道元至陰盤駅、宝寅遣其将郭子恢攻殺之、収殯其尸、表言白賊所害。
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酈道元は厳正な性格だったので、権力を笠に着て横暴を重ねる丘念を捕まえ、太后が救ける意向を無視して処刑した。お気に入りの部下である丘念を殺された汝南王の元悦は復讐に燃えた。酈道元を蕭宝寅の追討使に任命することで、己の手を汚すことなく、蕭宝寅に殺人の役目を果たさせた。

推理小説でしかお目にかかれないような奸策が中国の史書にはしばしば登場する。後世の我々には、資治通鑑の記述で事件の経緯と人間関係が時間軸にそって綺麗に整理されて提示されるので、「なるほど、そういうことだったのか!」と納得できるが、リアルタイムで事件が進行している当事者たちにとっては裏のからくりが全く見えないので、混乱していたことであろう。つくづく、当時の(そして、多分現在の)中国で無事に生き抜くのは容易ならざることであると感じる。それとの比較で、総体的にみて、鎌倉、室町、戦国の一部の時代を除き、「日本は何と陰謀の少ない国であったか!」との感を抱く。

さて、今回取り上げた「軽薄」の出典で有名なのは、後漢書の馬援伝に出てくる
 「画虎不成反類狗者」(虎を描いて成らざれば、かえって狗に類す)
という言葉だ。上に出てきた酈道元にしろ、この馬援にしろ、正義感に富み清廉な人が奸人の謀略にやられてしまうケースは、多い。この傾向は、何も過去のことではなく現在の共産党政権下でも見られる。ノーベル平和賞を受賞しながら先ごろ獄死した劉暁波などもその例と言える。慣性力が日本とは比較にならない中国こそ、本物の歴史書(資治通鑑、史記、漢書、後漢書など)を読むことは教養を身につけるというより、生き抜くための知恵を得るためには必須なのだ。

【参照ブログ】
【座右之銘・97】『画虎不成反類狗』

続く。。。
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【座右之銘・125】『omnia mecum porto mea』

2020-09-20 20:38:07 | 日記
哲学という学問はギリシャを発祥とするだけあって哲学者と言われる賢人が数多くいた。有名な「七賢人」の一人、ビアス(Bias、紀元前6世紀)は故郷のプリエネが占領された時、市民のだれもが荷車に家宝や家財道具を山と積んで避難しようとしていたがビアスだけは何も持たずにすたすたと歩いていた。それを見た人が「あなたも大切なものを持ち出したほうがいいよ」とアドバイスしたが、ビアスは「私は必要なものはすべて持っている」(omnia mecum porto mea)と、さらりと答えた。(キケロ "Paradoxa Stoicorum" 8)

ビアスはギリシャ人であるので、当然のことながらギリシャ語で話したに違いないが、この言葉はキケロが訳したラテン語で有名になった。私が探した範囲では見つからなかったが、類似の意味では、ギリシャの詩人メナンドロス(Menandros)の言葉が見つかった。

(私訳:賢者は自分のもち物は身につける)


さて、ビアスから200年ほど経って、スティルポン( Stilpon、紀元前4世紀)が出た。ストア派はローマを席捲した哲学の一派であるが、その創立者ゼノン(Zenon)の師匠筋に当たるのがスティルポンである。彼の故郷、メガラがデメトリオス王に攻撃され、妻と子供が戦争の動乱に巻き込まれ死亡した。戦争が終わったあと「どうだ、何か亡くしたか?」とデメトリオス王から聞かれると、「いや、何も! 私の持ち物はすべて持っている」(omnia bona mea mecum sunt.)と平然とした顔で答えた



日本人であれば、妻子を亡くして、平然としているスティルポンは薄情な人だと考える人が大多数であろう。しかし、スティルポンの態度には古代ヨーロッパが大切にしていた「人は感情に流されず、常に理性的に振る舞うべき」という理知主義的精神が強くにじみでている。感情に流されないという姿勢はギリシャ語で απαθεια(apatheia、アパテイア)といい、「パトス( pathos)を持たない( a-)」という意味だ。類似の言葉に、エピクロスが言い出したといわれる αταραξια(ataraxia、アタラクシア)がある。この単語は「(心が感情によって)乱されない」という意味だ。古代ヨーロッパだけでなく近代にいたるまで、スティルポンが始祖ともいえるストア派が一定の人気があったことから考えると、日本人には薄情に思えるスティルポンの態度に対して、ヨーロッパでは共感する人が少なからずいたものと推測される。

さて、今年は、コロナウィルスに対し各国政府はそれぞれ独自の対応をした。この意味で、コロナ対応は、普段ならベールに覆われて隠されている各国の文化基盤を赤裸々にあぶり出した、ともいえる。アメリカのトランプやブラジルのボルソナーロ大統領の行動もユニークだが、私が最も注目したのはスウェーデンだ。感染流行の比較的早いで、すでに「ロックダウンのような過剰な感染策は行わない」との政策を打ち出して、その後もまったくぶれずに当初の方針を愚直に遂行した。このような政策を発案し遂行する点に、スティルポンが体現した理知主義的精神が垣間見られる。スウェーデンの政策が正しいかどうかは別として、理知よりも人情を重視する日本では、スウェーデンのような案を議題に挙げることすら出来ないのではないだろうか?

ところで、スティルポンは、「私の持ち物はすべて持っている」と言ったが一体、その持ち物とは何だったのだろうか?ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』によるとそれは「教養、弁論、知識」(paideia, logos, episteme)であった。


中国の古典である『礼記』には「富潤屋、徳潤身」(富は屋を潤し、徳は身を潤す)とあるが、本当に自分の身についたものは誰にもとられることはないということだ。
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想溢筆翔:(第433回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その276)』

2020-09-13 20:24:27 | 日記
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【375.唐突 】P.4707、AD525年

『唐突』とは「突然」の意味で使うが大抵は副詞の「唐突に」(abruptly)を用いる。しかし、漢文ではニュアンスが異なる。辞海( 1978年版)には「猶言衝犯」(なお犯を衝くを言うがごとし)と説明する。辞源(1987年版)には「横衝直撞」と説明する。どちらも日本語にしにくい説明だが、要は「衝く、勢いよくぶつかる」という意味だ。「唐突」は「搪揬」とも書くことができるようだが、手偏がついているだけで、音は同じだし、意味も同じだ。中国語にはこのような例は少なくはない。

「唐突」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。全体的にあまり使われていない上に、宋史以降、ほとんど使われていないこともわかる。つまり、「唐突」を "abruptly" の意味で使うのは、日本人だけだということだ。



資治通鑑で「唐突」が使われている場面を見てみよう。

南北朝時代、南北の朝廷間の争いが絶えなかったが、それだけでなく周辺の少数民族もその争いに、時には無理やりに巻き込まれたり、時には積極的に参加したりした。 AD525年には、南朝・梁の軍が荊州に進攻してきたので、近辺の蛮族がそれに呼応して北魏に対して反乱を起こした。北魏の将軍・裴衍が現地に向かった。

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裴衍たちがまだ到着していなかったが、、臨淮王・元彧の軍はすでに汝水の上流に到着した。近辺の州や郡で蛮族に寇掠された者たちは救援をもとめてやってきた。元彧は救援を求めてきた部族の地域がばらばらなので、面倒だと、無視しようとした。司空長史の辛雄がアドバイスして「今、裴衍の軍が到着していないが、我が領民たちがこれほど集まっています。蛮族たちは荒らしまわり(唐突)、都まで混乱状態に陥っています。貴卿は軍の総指揮官で、戦地にあっては独自の判断が求められます。可能であれば進撃すべきで、どうして面倒だとして止めるのですか!」元彧はここで行動を起こさなければ、後に罪を問われると考え、辛雄に軍隊を動かす符を与えるがどうだ、と打診した。辛雄は蛮族どもは、きっと魏の主将が自ら出撃してきたと聞くとびっくりして怖気づくはずだと考え、勢いに乗って破ることができると自信をみせた。それで、元彧の軍隊を命令する符を与え、蛮族に速攻をかけた。元彧の進軍を聞くと、蛮族たちは果たして散り散りに逃げ去った。

裴衍等未至、彧軍已屯汝上、州郡被蛮寇者争来請救、彧以処分道別、不欲応之。辛雄曰:「今裴衍未至、王士衆已集、蛮左唐突、撓乱近畿、王秉麾閫外、見可而進、何論別道!」彧恐後有得失之責、邀雄符下。雄以羣蛮聞魏主将自出、心必震動、可乗勢破也、遂符彧軍、令速赴撃。羣蛮聞之、果散走。
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蛮族というのはこの場合、遊牧民たちであろう。騎馬が得意で、迅速な行動で昔から漢民族は手をやいていた。史記(巻110)には、匈奴の戦闘のしかたは、「自分の方が強いと思えば鳥のように集まるが、不利だと思えば瓦が割れ、雲が散るように逃げ去る」(其見敵則逐利、如鳥之集。其困敗、則瓦解雲散矣。)と書かれている。戦争に大義名分や見栄を抱かず、機動力を活かして実利だけを見て迅速に行動するということだ。

このような遊牧民と数知れないほど戦ったきた漢民族も当然のことながら、彼らの戦術を取り入れたに違いない。翻って、日本ではそう言った戦術の師匠となるような異民族はいなかったのが、20世紀の中国大陸での戦争と世界戦争時に図らずも戦術の未熟さとして暴露された。

日本は有史以来、明治になるまで、未だかつて一度も異民族による統治や、逆に異民族を統治した経験がなかった。明治になり、急拵えで、台湾、朝鮮と異民族を統治したが、全く異民族統治のツボが全くわかっていなかった、と私には思える。つまり、日本の価値観がそのまま(face value)彼らに通じると勘違いして統治した。現在、韓国の反発はその結果であると言える。台湾の場合は、日本に対する感謝の念が強いというが、かなりの部分が、戦後、中国大陸から逃れてきた国民党の残虐な支配との落差から日本の統治が実質以上に評価されたせいではないかと私には思える。

いづれにせよ、他文化の価値観を正しく認識することは、これからのグローバル社会においては一層重要な点であることは間違いない。

【参照ブログ】
通鑑聚銘:(第39回目)『義を掲げて高句麗王を懐柔する』

続く。。。
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沂風詠録:(第328回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その33)』

2020-09-06 16:57:26 | 日記
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D-1.ドイツ語辞書

D-1-1 Wahrig Deutsches Wörterbuch

英語の辞書はひとまず終わり、これからはドイツ語の辞書について説明しよう。

現在、大学では第二外国語が必修でない所が多い。第二外国語をしても実用的には意味がないということであるが、私はそのような意見には反対だ。第二外国語を取る、50人のクラスがあったとしよう。その中で、生涯にわたり第二外国語が何らかの形でその人の人生にプラスになるのは、せいぜい1人か2人で、あとの 40数人には無駄となることだろう。しかし、生物学的にみてそのような無駄はその種族の繁栄には織り込み済みのロスだ。逆に、考えるとその1人、2人は第二外国語が必修でなければ生まれなかったとも考えられるからだ。

何を隠そう、第二外国語が必修であったおかげで、その後の人生で大きな大きな恩恵をうけた1人が私であるからだ。どういういきさつがあったのか、昔話に少しだけ付き合って頂こう。

私がドイツ語を習い始めたのは、1973年に京都大学に入った年だった。当時、工学部の学生は第二外国語が必修で、ドイツ語、フランス語、ロシア語から選ばないといけなかった。機械工学は現在もそうだがドイツが強く、それで機械学科120人の内、8割から9割はドイツ語を選択していた。フランス語は1割程度で、残りの1人か2人(の変わり者?)はロシア語を選択していた。入学当時、私はとりたてて英語以外の語学に強い興味を持っていたわけではなかったので、無難な選択でドイツ語を選んだ。ところが、この何気ない選択が私のその後の人生に極めて重大な意味をもってくるのであるが、この時はそういう予感は微塵もなかった。

ドイツ語の初歩は、冠詞の変化形を覚えることだ。男性名詞の定冠詞の「デア、デス、デム、デン」だけでなく、女性名詞、中性名詞、単数、複数、と似たような変化が延々と続く(と当時は感じた)。第二外国語をする意義を感じなかった当時の私は、ドイツ語の予習、復習など全くしなかった。それが祟り、ある授業の時に当てられた(ein rotes Haus = a red house)の変化形が全く言えず、『鬼の高木』(本名:高木久雄先生)にこっぴどく叱られた。(ところで、後で知ったのだが、高木先生は京都大学を定年退官された後は、京都外国語大学の学長も務められた。)いずれにせよ、これを反省して、1年生の夏休みにすぐさま文法を完全にマスターした。それからは、ドイツ語は逆に、2年間の教養部時代に一番の得意科目となった。全く、怪我の功名だが、怒鳴ってくれて高木先生には感謝しきれないほどの大恩を感じている。

さて、3年生になって専門学部に進学した後、ふとしたきっかけで出席したドイツ語会話のクラスで、突如としてむくむくと「ドイツに留学したい!」という熱望が芽生えた。そのために、もっと徹底的にドイツ語を習得しないといけない、と考え、当時、時計台の下にあった生協の本屋に行った。奥の洋書売り場にはドイツ語の辞書として超有名なDudenが置いてあった。手にとり、ぱらぱら見ても全く味気ない辞書だった。その隣に、「Wahrig Deutsches Wörterbuch」という研究社の「大英和辞典」に匹敵する分厚い辞書が置いてあった。始めてみる名前の辞書だなと思ったが、中をみると、字がしっかりと詰まっていて、いかにも丁寧なつくりで、学術的香りも高そうな辞書だった。私は辞書に限らず、何でも世間の評判だけで買うことはない。自分に合うかどうかを基準に決めている。この時も、有名度から言えば、Dudenで、(私にとって)無名の Wahrigは選択の余地がないのだが、実際に見比べて Wahrig を選択した。



実際に使ってみて感じた、この辞書の特徴は、次の3点である。
1.説明の並びが意味別ではなく、品詞別。
2.例文が多い。
3.語源欄が充実している。





以下、もう少し詳しく説明しよう。

1.説明の並びが意味別ではなく、品詞別。

どの辞書でも、大抵、意味別に説明しているが、この辞書は、まず全ての意味を最初の項目として、ずらずらと列挙する。次に、活用の応じて項目を分け、説明する。例えば、上に挙げた例では Grund(土地)と一緒に使われる名詞が2.で説明され、3.では動詞、4.では形容詞、5.では前置詞、というようになっている。

当初は戸惑ったが、この辞書に慣れるに従って、この表示様式が非常に使いやすいことが分かった。とりわけ、名詞の場合、どのような動詞や前置詞と使われるのかを知るには便利である。というのは、本国人の語感にあった単語の組み合わせがそのまま理解できるからである。

ところで、私も長年数多くの辞書を使っているが、この方式を他の辞書でも使って欲しいと思うのだが、他では見かけないのは、特許の関係であろうか?

2.例文が多い。

この辞書の物理的サイズの割には収録語数はそれほど多くない。大型辞典のサイズで、ページ数は1400ページもありながら 10万語程度の語数しかない。しかしながらその反面、例文がかなり多く収容されている。それで、私たちのような外国人にとって、それぞれの単語の使い方がよくわかる。この意味で、ドイツ語をしっかりと勉強しようとしていた時にこの辞書に巡りあえたのは幸運であったと言える。この意味で、これは「調べる」というより「読む」辞書と言える。

3.語源欄が充実している。

この辞書によって目を開かされたのが語源の重要性であった。それまで、英語の辞書にも語源欄はあったのだが、たいていは、説明も2,3行で、単語の綴りの遷移も素っ気なく、簡単なものであった。ところが、この辞書の語源欄は上の図の最後の [ ] 部で示されているように、古代語(ahd = althochdeutch)や関連する印欧語(インド・ヨーロッパ語、idg=indogermanisch)まで、つまり語根(上の例では gher- )まで及ぶ。さらにそのような縦方向だけではなく、横方向(verwandt mit)の関連語(Sippe um ...)まで及ぶ。つまり、「一つの単語の語源は〇〇だ」というような、通常の辞書にあるような該当単語だけをぽつんと説明するのではなく、その単語に関連したいわば「関連単語の集積」を示してくれているのだ。

私は Wahrig のこの語源欄によってはじめて語源探究の重要度を知ったと言って過言ではない。つまり、ドイツ語や英語の一つ一つの単語の意味を単に理解するだけでなく、印欧語(インド・ヨーロッパ語)全体における各単語の位置づけに興味を持ったのだ。当然のことならが、この辞書はドイツ語の辞書であるので、語源はゲルマン語(古代ドイツ語)に関連するう説明は多いが、しばしばラテン語ギリシャ語まで言及されていたことで、「いづれ、この2つのヨーロッパ古典語は学ばないといけないなあ」との予感がした。

結局、ドイツ留学を目指してドイツ語の習得に励んでいた20歳の時にこの辞書のようなよき伴侶を得て、非常に幸運だった。これ以外にも数多くのドイツ語の辞書は見たことはあるものの、これが無かったら果たしてドイツ語への意欲を持続できたかどうか分からない。この意味で、外国語上達の秘訣の一つは、信頼できるよい辞書(それも「〇和辞典」ではなく、本国で印刷されたもの)を見つけることだ。どういった辞書が各人に一番フィットするかは分からない。それ故、各人がしっかりした「辞書に対する鑑識眼」を持って、自分に合った辞書を根気よく選ぶ必要がある。

私の経験から言えるのは(Rule of Thumb):
「よい辞書を見つけたら、語学習得は半分成就したも同然だ」

【参照ブログ】
想溢筆翔:(第49回目)『不可能を可能に!英語の短期習得術』
沂風詠録:(第72回目)『私の語学学習(その6)』

続く。。。
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