限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第391回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その234)』

2019-01-27 09:37:27 | 日記
前回

【333.無異議 】P.4431、AD498年

『無異議』(異議なし)とは「反対することがない」ということ。現在でも日常的に使われているが、私にとっては学生時代にしばしばキャンパス内で聞いた学生運動家たちの声を思い出す(後述)。

「異議」の類似語に「異論」がある。当然のことながら「無異議」と同じく「無異論」もあると考えられるので、この両方の語句を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。この表から「無異議」の方がかなり多く使われていることが分かる。さらに、調べると「無異議」の前に「人」や「物」を付けて使われる場合もかなり多いことが分かる。それらも合わせて下の表に示した。



さて、資治通鑑で「無異議」が使われている場面を見てみよう。
北魏の孝文帝(拓跋宏)の病状が悪化した。

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北魏の孝文帝の病気が重くなった。何日も臣下に顔を見せなかった。看病したのは、彭城王の拓跋勰ら数人だけであった。拓跋勰は宮殿内では孝文帝の医薬の世話をしながら、宮殿の外では軍事を総括していた。だれもがその勤勉さを敬服し、異議をいう者はいなかった(人無異議)。右軍将軍で丹陽出身の徐謇は良医でもあった。当時、たまたま洛陽に居たので急に呼び出された。宮殿に到着すると、拓跋勰が徐謇の手を取って泣きながら言うには「君卿がもし帝の病気を治すことができれば莫大なご褒美がもらえるだろう、が、もし万が一、治せなかったら首が飛ぶと思ってくれ。名誉だけでなく、命がかかっている重大事だぞ。」

拓跋勰は、また秘かに汝水の岸部に祈りの祭壇をつくり、周公の故事に倣って、天地と前帝の顕祖に向かって「私の命に替えて帝の命を救って下さい」と頼んだ。暫くして、帝(魏主)の病状が少しく回復したので懸瓠を出発して、汝浜に泊り、百官を集めて、徐謇を上席に座らせてその病気を治した功績を褒めたたえて、鴻臚卿に任命し、金郷県伯の領地銭万緡を褒美として取らせた。

魏主得疾甚篤、旬日不見侍臣、左右唯彭城王勰等数人而已。勰内侍医薬、外総軍国之務、遠近粛然、人無異議。右軍将軍丹陽徐謇善医、時在洛陽、急召之。既至、勰涕泣執手謂曰:「君能已至尊之疾、当獲意外之賞;不然、有不測之誅;非但栄辱、乃繋存亡。」

勰又密為壇於汝水之浜、依周公故事、告天地及顕祖、乞以身代魏主。魏主疾有間、丙午、発懸瓠、舎于汝浜、集百官、坐徐謇于上席、称揚其功、除鴻臚卿、封金郷県伯、賜銭万緡
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徐謇は医術で有名であったので、宮殿に呼ばれ、帝の治療に当たらされた。帝の病気が治ったので、莫大な褒美をもらえたが、もし帝の病状が悪化ないしは死亡することにでもなれば、当人は少なくとも死刑は免れなかっただろう。文字通り、命懸けの究極のハイリスク・ハイリターンだ。


【出典】京都新聞

さて冒頭で、「異議な~し」という話をしたが、この文句で私が強烈に思い出すのは大学に入学した翌年(1974年、昭和49年)の初冬の教養部のストライキの時のことだ。

当時、京大の時計台にはでかでかと「竹本処分粉砕」とペンキで書かれていた。聞くところによると、夜中に電灯もつけず暗闇のなかで 20メートルちかくの文字をきっちりと書いた技術レベルの高さに本職のペンキ職人も舌を巻いたとか。大学は一度は綺麗に消したそうが、それでもすぐさま、ある朝、同じ文字が復活していたとのこと。私が見たのはその 2回目の文字でかなり長くそのまま時計台に書かれたままであった。

当時(1973年)、京大にはまだ学生運動の余韻が色濃く残っていて、学内の至るところに立看板が置かれていた。それだけでなく、ヘルメット学生によって授業が妨害されることも何度かあった。そういう騒々しい雰囲気の中、何が原因かは思い出せないが教養部のストライキを決めるための学生集会が開かれた。時計台下の法経1番(だったか?)の大講堂では夕方6時ごろから会場が始まった。私が足を踏みいれたのは夜の 8時ごろであったが、真冬(2月初旬か?)にも拘わらず相当の熱気とタバコの煙でむんむんしていた。400人位は入れる座席だけでは足りず、通路に坐っている学生もかなりいた。出席者のほとんどが赤いヘルメットをかぶっていたが、必ずしも全員が広島ファンであった訳ではない。

演壇には拡声器が数台置かれていて、檀上の弁士は両手からはみ出すほどのマイクを持って、わめいていた。それは言葉というより、ガード下の電車の騒音のようであった。しかし、出席している学生たちにはその声は確かに届いていたらしく時折「異議な~し」という声が上がっていた。私はタバコの煙に 10数分ばかり我慢して聞いていたもののあまりの煙たさに早々に退散した。

翌朝早く大学に行くと、吉田キャンパスの表門も裏門も、すべて教室の机やイスでバリケード封鎖されていた。入口には赤ヘルの学生が学内に入る人間を検問していた。学生は自由に入れるのだが、職員や教官はキャンパスには入れてもらえず、追い返された。結局その年の後期試験は実施できず、流れてしまった。その後、後期試験が実施されたのは年度が変わった5月のことであった。この時の春休みはそれまでの中で(そしてそれ以降も)一番長い春休みであった。

続く。。。
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百論簇出:(第241回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その12)』

2019-01-20 13:12:48 | 日記
前回

前回紹介したように、中国の漢文の検索システム(例:寒泉)は私が期待するような検索ができない。それでは Googleのような全文検索システムではどうだろうか?これもまた不満足だ。というのは、 Google検索では検索語が、同一文書内のどこかに存在していれば、たとえ検索語同志がどんなに離れていようと、文書がヒットしてしまう。この方式は、キーワード検索のように、ざっとしたサーチには適しているが、うろ覚えの漢文の文句を検索するには不適だ。というのは、この場合、複数の検索語が一文の中に存在して欲しいからだが、 Googleの方式ではあまりにも多くの文書がヒットしてしまうのだ。

以上述べたように、専門家用の漢文検索システムも、Googleのような汎用検索システムのどちらも漢文検索には使えないないことが分かった。それで、私は自分がユーザー兼製作者となって、独自の使いやすい漢文検索システムを作ることにした。それについては以前、下記のブログに簡略に書いたが、ここではもう少し詳しく、その後変更した部分も含めて書くことにしよう。
【参照ブログ】
 百論簇出:(第38回目)『自家製漢文検索システム』

漢文検索という特殊な用途を満たすには、いくつかのテーマを解決しないといけない。

テーマ1:正字体(旧漢字)

正字体というのは、通常日本では旧字体と呼ばれている(例:學・学、體・体)。最近、日本でも自分の名前などを正字体で書く人が増えた(渡辺・渡邊、矢沢・矢澤)ので幾つかは目にする機会があろう。この旧字体と呼ばれている漢字は、案外、数が少なく、合計で300程度しかない。しかし、部分的に同じ形をしている漢字なのに、一つは新字体になり、もう一つは旧字体を残しているものがあり、混乱する。例えば、観光の「観」は旧字体では「觀」と書く。概要の「概」は旧字体では「槪」と書く。つまり、真中の部分が「白+ヒ」で構成されている。ところが、灌漑(かんがい)は、今でも旧字体の部分を完全に残している。

このように、新字体と旧字体は現状の日本語の漢字内で混在しているが、すくなくとも新字体と旧字体は一対一対応となっているので、機械的に変換すればよい。私の漢文検索システムでは本文そのものは旧字体のまま残し、検索の入力を内部で新字体から旧字体に変換して本文を検索するようにしている。もっとも、それでは逆にヒットしないこともあるので、無変換形式(AS-IS モード)もできるようになっている。

このテーマは次の異字体とも関連している。

テーマ2:異字体(異体字)

異字体(あるいは、異体字)は、同じ発音・意味なのに書き方が異なっているものだ。例えば「崎・﨑」、「国・圀」、「高・髙」があることはよく知られている。この点は日本語では非常に頭の痛い問題点であるが、漢文に関しては割合軽微な問題である。というのは、日本は古く(室町時代)から整版印刷があったが、活字印刷が普及したのは、明治の中期以降である。(ただし、江戸初期には一部活字印刷があったが、普及しなかった。)それで、手書きで定着してしまった書き方が明治初期の戸籍作成時にそのまま戸籍などに写されてしまったので、その後、変更が難しくなった。一方、中国では、10世紀ごろ(五代末・北宋)から整版・活字印刷と共に科挙用の参考書が爆発的に普及した。その時、科挙受験には正字体で書くことが強制されたおかげで字体が統一され、異字体が淘汰された。次いで、清の康煕字典が誰もが参照できるリファレンスブックとなり、字体の統一が確定的となった。

私の漢文検索システムでは、文意が主目的であるので、字体の差異は無視する。それ故、異字体は本文を読みこんだ時に全て正字体に変換して格納することにしている。このテーマは次の中国の字体とも関連しているので、詳細は次の項で述べる。

テーマ3:中国の字体(フォント)

私の漢文システムでは漢文の本文は中国のサイトからダウンロードしている。当初(2000年ごろ)は、台湾のサイトが多かったので、殆どが BIG5 で書かれていた。ところが、最近では、Wikisourceも含めWeb上のほとんどの漢文データが UTF8 で書かれている。

ちなみに、Webを検索すると、過去10年間のから現在に至るまでの文字コードの利用率で、現在では、UTF8 が完全に de facto (デファクト)スタンダードになっていることが分かる。(下記、テーマ4参照)


 Growth of Unicode on the Web


 Percentages of websites using various character endodings. (2019/01/19)

さて、中国の字体で、日本の字体から見ると異字体のようなものがある。例えば「衆」は「眾」、「内」は「內」と表示される。日本語における異字体と同様、私にとってはこれらの文字を区別することは全く無意味なので、私の漢文検索システムでは原文をダウンロードしたのち、異字体は正字体に変換して格納する。

結局、異字体や日本と字体の異なる中国の文字は原則として日本で使われている文字(正字体)に変換することで、検索を容易にしている。

テーマ4:難字の表現

漢文で扱われている漢字にどのような問題があるのかを知るには、Unicodeというコード体系を理解しておく必要がある。現在、Web上の大抵のドキュメントは上で述べたように、UTF8で書かれているが、これは本来 Unicode のコード体系の一つの表現形態である。 Unicodeのコード体系には大きく分けて、UTF8、UTF16、UTF32の3種類がある。これらはUnicodeでそれぞれの漢字に付けられた番号をコンピュータが内部的に使う値のことで、UTF(Unicode Transformation Format)と呼ばれる。

現在、世界中のたいていの文字はUnicodeで表現できるようになっている。従って、難しい漢字でもUnicodeを知れば表示できる。例えば、論語の巻二は《八佾》(はちいつ)というタイトルであるがこの「佾」はかな漢字変換では出てこないが、Unicode(4F7E)を使えば 佾のように書けば表示できる。

異字体は上述のように、たいした問題ではないが、難字は、文字通り難しい問題である。というのは、現代の日本語で使われる漢字は、「常用漢字」で2300字程度しかなく、また日本のJIS規格(JIS X 0208 (1990))で表せる漢字は、Unicode の中の6300字程度しかない。

漢文では大体4000字程度が使われるが、これらの文字には JIS規格外の文字も多い。それだけでなく、漢文には極めて難解な字も登場することは稀ではない。とりわけ文選の巻1から巻16に載せられている賦にはそういった難字が多く見られる。(ついでに言うと、中国の国家文字規格であるGB2312やその後継の規格、GB18030では通常の Unicode、UTFでは使わないような漢字も登録されているが、今後これらの文字にも順次Unicode に包含されるようになるだろう。)

これらの文字は普段、決して見かけることはない。更には入力するのに普通のカナ漢字変換のようなやり方では不可能である。

私の漢文検索システムでは、これらの文字(具体的には Shift-JIS で表現不可の文字)は全て、#4F7E; のような内部表現で格納している。(以前は、内部表現にBIG5のコード番号を使っていたが、最近はこれをUnicode に変更した。)このようにすることで、日本語 Windows環境で、自由に漢文を検索できるシステムを作ることが可能になる。

しかし、日本語のWindows環境でサクサク使える漢文検索システムには解決しなければいけないテーマがまだいくつかある。

続く。。。
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想溢筆翔:(第390回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その233)』

2019-01-13 17:17:41 | 日記
前回

【332.時刻 】P.4427、AD498年

『時刻』とは「時の流れのある一点」と国語辞典には説明するが、あまり良い説明とは言えない。そもそも辞源(1987年版)によると「刻」そのものが「計時的単位」との説明があるので、「時」がなくても「刻」だけで「時刻」という意味であるということが分かる。

ついでに、辞源(1987年版)には中国の古代の「刻」の説明が次のように載っている。
 「刻」: 古代以銅漏計時、一昼夜分為一百刻、按節令、昼夜計数不同。冬至昼四十五刻、夜五十五刻、夏至昼六十五刻、夜三十五刻、春分秋分、昼五十五刻半、夜四十五刻半。至清代始用時鐘。以十五分為一刻、四刻為一小時。

この程度の文なら、漢字だけ並べられても意味がとれるだろう。一個所「按節令」は分かりにくいかもしれないが「季節に応じて100という時刻を昼と夜で按分する」という意味だと理解できる。概略は、古くは一日を100刻とし、季節によって昼と夜の配分が異なった、つまり、定時法だったということだ。(ちなみに日本の江戸時代は不定時法)

さて、「時刻」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、下の表のようになる。宋書が初出であるが、宋元以降、近代に至るにつれて一層多く用いられていることが分かる。上で述べたように元来「刻」だけで「時刻」の意味を示しながら、「時刻」という表現が多く用いられるようになったのは、「耳で発音だけを聞いて意味が分かる」ようにするための人為的なものであると私は推測する。



さて、資治通鑑で「時刻」が用いられている場面を見てみよう。南斉の明宗の治世下、王敬則が反乱を起こした。それを聞いた明帝は即刻、王敬則の親族を捕えて全員を処刑した。(上聞王敬則反、収王幼隆及其兄員外郎世雄、記室参軍季哲、其弟太子舎人少安等、皆殺之。長子黄門郎元遷将千人在徐州撃魏、敕徐州刺史徐玄慶殺之。)

毎度のことではあるが、中国では無実の人がいともたやすく殺されてしまうのは全く痛ましいことだ。これも全て中国人の根本的概念である「血族」に由来する弊習だ。

王敬則は自分が帝位に就くというのは、大義名分に欠けるので、形式的に帝室の一員である蕭子恪を明帝の代わりに帝位に就けようとした。反乱の片棒を担がされては、命が危ないと感づいた蕭子恪はすぐさま逃走した。そこから、「走れメロス」もどきのドラマが始まった。

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前の呉郡太守で南康侯の蕭子恪は蕭嶷子である(つまり、蕭子恪は、南斉の建国者・蕭道成の孫)。王敬則は起兵するに当たって蕭子恪を担ぎあげようとしたが、危険を察知した蕭子恪は急いで逃げ隠れた。

乱が勃発した当初、始安王の蕭遙光(明帝の兄)は明帝に、将来の憂いを避けるために高祖(初代皇帝・蕭道成)と武帝(二代皇帝・蕭賾)の子孫を皆殺しにするよう進言した。そこで、宗室の王や妃・子供たちを全て宮廷に呼び寄せた。…途中で逃げられないようにするため、各々の両側に人を1人ずつ付けた。あたかも戦時下のように軍法に従った処置だ。幼子は乳母と共にひっぱってきた。この晩、宮廷の医者に命じて毒薬(椒)を大釜一杯(二斛)煮させた。木工係(都水)に命じて棺桶の材料、数十人分を用意させ、真夜中になれば、全員を殺そうと手筈を整えた。

さて、逃走した蕭子恪は裸足のまま秘かに宮中に駆け付け、夜の11時ごろに建陽門にたどり着き、帝にお目通りを願った。時刻は真夜中を過ぎていたが明帝は疲れて寝ていた。中書舎人の沈徽孚は帝の寵臣の単景雋と相談して、処刑をせずにいた。

そうしている内に、明帝が目を覚ましたので、単景雋が「蕭子恪が宮中に参上しています」と告げた。帝はおどろいて「まだか、まだか?」(処刑はしてしまったのか?)と問うと単景雋は「まだです」と言うと、帝はベッドをなでながらほっとし様子で、「あやうく、遙光のために無実の人を殺すところだったわい!」とつぶやいた。それから、招集した王族たちには食事を振る舞い、翌朝には皆を帰した。

前呉郡太守南康侯子恪、嶷之子也、敬則起兵、以奉子恪為名;子恪亡走、未知所在。

始安王遙光勧上尽誅高、武子孫、於是悉召諸王侯入宮。…敕人各従左右両人、過此依軍法;孩幼者与乳母倶入。其夜、令太医椒二斛、都水辦棺材数十具、須三更、当尽殺之。子恪徒跣自帰、二更達建陽門、刺啓。時刻已至、而上眠不起、中書舎人沈徽孚与上所親左右単景雋共謀少留其事。

須臾、上覚、景雋啓子恪已至。上驚問曰:「未邪、未邪?」景雋具以事対。上撫曰:「遙光幾誤人事!」乃賜王侯供饌、明日、悉遣還第。
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太宰治の小説に「走れメロス」というのがあるが、夕陽が沈む直前にメロスが駆け戻り、友の命を救ったが、まさに蕭子恪は必死の思いで暗闇を駆け抜け宮中の辿りついて、何十人という王族の命を救った。まさに南斉のメロスだ!

ところで、古代ギリシャに「ダモクレスの剣」という言葉がある。玉座というのは、他人から見れば羨ましいかもしれないが、実際に坐ってみると、常に命の危険にびくびくしなければならない、非常に厄介な場所である、ということをシラクサの僭主ディオニュシオス1世は玉座の上に、一本の細い馬の尻尾に剣をつるして示した。

今回の話でも蕭子恪の一族は、なまじっか帝室の一員であるために蕭子恪が反乱軍に祭り上げられたという噂(ガセネタ)だけで、明帝からはすぐさま玉座を狙う反逆者と見なされた。そのため、一族は有無をいわさず即座に処刑されそうになった。つまり、王族というのは、命が一瞬先はどうなるか分からない身分であるということだ。

韓非子は《姦劫弑臣》篇に、当時の諺として「厲憐王」(癩、王を憐む)という言葉を紹介している。癩患者(ハンセン病患者)は自分は不治の業病に侵されているが、その自分よりも王の方がずっと惨めで可哀想だという意味である。実際、『本当に残酷な中国史』(P.64)に書いたように、北朝の宋の皇子の劉子鸞は、父帝亡き後、兄の劉子業から自殺を命じられた(賜死)時、まだ十歳であったが「もう二度と王家などに生まれてきませんように」(願後身不復生王家)と切に願った。庶民から羨まれる高貴な身分は、逆に厭(いと)わしいものだということが分かる。

ちなみに、明帝の叫んだ「未邪、未邪?」(まだか、まだか?)は当年(AD498年)の流行語大賞に選ばれたとか、選ばれなかったとか。。。

続く。。。
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百論簇出:(第240回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その11)』

2019-01-06 17:11:04 | 日記
前回

さて、話は王陽明全集を読んでいる時のことに戻るが、この時に痛感したことがある。それは、陽明が引用している文章の出典を検索しようとすると多大な時間がかかるということである。論語や老子では、一編がかなり短いので、出典が示されると該当箇所は比較的スムーズに探せるが、孟子ではそうはいかない。例えば、《離婁章句》というのは、上・下に分かれているが、それぞれの編は論語の数倍の分量がある。そうなると、《離婁章句・上》にあると分かっても該当箇所を探すのに十数分かかってしまう。これでは、本来の目的である王陽明全集を通読することが阻害されてしまう。

それで、検索を容易にするための方策を考えた。当時(2003年)、すでに中国サイトにはかなり多くの中国古典の原文がアップロードされていたので、これを活用することを考えた。つまり該当の原文のファイルをダウンロードし、これをWindows パソコンで簡単に検索するシステムを構築することにした。

データファイルとしては、大陸中国の文章はたいてい簡体字で書かれていたので古典籍の文としては適切ではない。(というのは、簡体字から繁体字へは必ずしも正しく変換されないからだ。)一方、台湾のサイトでは例外なく、繁体字( BIG5)で書かれていたので、これをダウンロードすることにした。この時、網羅的にダウンロードするためにプログラム(awk, wget)を書いた。

当時はインターネット回線が遅く、とりわけ家庭からアクセスしていた無線回線は現在( 2018年)の 1/10位の速さ(遅さ!)でしかなかった。その上、インターネット(TCP/IP)の特性として、通信が混雑してくると、勝手にパケットがドロップしてしまう。そうなると、ファイルの内容が途中までしかないとか、ファイルアクセスができない、のような状態になる。

当時は現在とは異なり、昼間はビジネス用途にインターネットアクセスが多く、通信が混雑していたので、夜中にパソコンのプログラムを走らせた。朝にチェックすると数千本のデータファイルがダウンロードされていたが、ファイル内容がダメなものをプログラムでチェックして、再度ダウンロードし直した。
(このあたりの事情については、『本当に残酷な中国史』P.31参照)

このようにして、中国の古典籍といわれるものは一通り自分のパソコンにダウンロードすることができた。次は検索システムを構築することだ。

ところで、中国のサイトにはこれら中国古典の検索システムは既に存在している。たとえば「寒泉」が一番有名であり、ウェブ環境でだれでも自由に使うことができる。(正式名称:台灣師大圖書館【寒泉】古典文獻全文檢索資料庫



このサイトを一度でも使ってみると分かるが、我々日本人には非常に使いづらいことが分かる。その上、哀しいことに該当箇所が見つからないことが頻発する。資治通鑑を例にとって、具体的にこのシステムの使いづらさ(難点)を列挙すると:

1.検索すべき個所「紀」をいちいち選択しないといけない。どこにあるか分からなければ、始めの1.周紀から最後の16.後周紀までを選択しないといけない。

2.紙の本(中華書局など)を持っている人(私もそうだが)は紀ではなく、巻数やページ数で選択個所を絞りたいのだが、それはできない。

3.上記1.2.の難点は少々の手間を厭わなければ問題とは言えないレベルである。ところが問題は、これらの典籍全部の横断的検索ができないことだ。

4.Windows環境で使っていて一番面倒くさく感じるのは新漢字を旧漢字(正字体・繁体字)に変換しないといけないことだろう。さらには、通常使っていないような難しい字も正しく入れないと検索できない。例えば、史記の《五帝本紀》の最初に軒轅(黄帝)が炎帝と戦う場面で、軒轅が動物を使って炎帝を打ち破る個所があるが「教熊羆【貔貅貙】虎」という句が見える。これを検索しようとして【貔貅貙】を入力するのは極めて困難だろう。

以上の4点は面倒くさくはあるものの、回避する方策はかろうじて存在しているので、致命的とは言えないが、本当に致命的なのは、検索がヒットしないケースが多いことである。この点を説明しよう。

例えば、資治通鑑・巻136・斉紀2・AD 489年に次のような文が見える。
 「丁亥、魏主如靈泉池、遂如方山;己丑、還宮」
 丁亥(ていがい)、魏主、靈泉池に如(ゆ)き、遂に方山に如く。己丑(きちゅう)、宮に還る。


寒泉に「魏主如靈泉池」という検索語(一句)を入れると確かに8ヶ所、いづれも斉紀に見つかる。

ところが、この句を「魏主 如靈泉池」のように分割して入れると見つからなくなってしまう。

これは検索システムとしては、致命的な欠陥であると私には思える。なぜなら、日本語の本の中で、漢文の引用文があったとすると、例えば上の書き下し文で示したような表記で載っているはずだ。
 魏主、霊泉池に如き、遂に方山に如く。

この文から資治通鑑の該当箇所を見つけようとすると次のような5つの文字列で検索したいことだろう。
 「魏主 霊泉池 如 遂 方山」

寒泉はこのような文字列で検索しても全く何も出てこない。つまり寒泉が対象としているのは、原典の漢文を完全に文字通りに入力して出典を探すケースに限られるのである。

続く。。。
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