(前回)
【333.無異議 】P.4431、AD498年
『無異議』(異議なし)とは「反対することがない」ということ。現在でも日常的に使われているが、私にとっては学生時代にしばしばキャンパス内で聞いた学生運動家たちの声を思い出す(後述)。
「異議」の類似語に「異論」がある。当然のことながら「無異議」と同じく「無異論」もあると考えられるので、この両方の語句を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。この表から「無異議」の方がかなり多く使われていることが分かる。さらに、調べると「無異議」の前に「人」や「物」を付けて使われる場合もかなり多いことが分かる。それらも合わせて下の表に示した。
さて、資治通鑑で「無異議」が使われている場面を見てみよう。
北魏の孝文帝(拓跋宏)の病状が悪化した。
+++++++++++++++++++++++++++
北魏の孝文帝の病気が重くなった。何日も臣下に顔を見せなかった。看病したのは、彭城王の拓跋勰ら数人だけであった。拓跋勰は宮殿内では孝文帝の医薬の世話をしながら、宮殿の外では軍事を総括していた。だれもがその勤勉さを敬服し、異議をいう者はいなかった(人無異議)。右軍将軍で丹陽出身の徐謇は良医でもあった。当時、たまたま洛陽に居たので急に呼び出された。宮殿に到着すると、拓跋勰が徐謇の手を取って泣きながら言うには「君卿がもし帝の病気を治すことができれば莫大なご褒美がもらえるだろう、が、もし万が一、治せなかったら首が飛ぶと思ってくれ。名誉だけでなく、命がかかっている重大事だぞ。」
拓跋勰は、また秘かに汝水の岸部に祈りの祭壇をつくり、周公の故事に倣って、天地と前帝の顕祖に向かって「私の命に替えて帝の命を救って下さい」と頼んだ。暫くして、帝(魏主)の病状が少しく回復したので懸瓠を出発して、汝浜に泊り、百官を集めて、徐謇を上席に座らせてその病気を治した功績を褒めたたえて、鴻臚卿に任命し、金郷県伯の領地銭万緡を褒美として取らせた。
魏主得疾甚篤、旬日不見侍臣、左右唯彭城王勰等数人而已。勰内侍医薬、外総軍国之務、遠近粛然、人無異議。右軍将軍丹陽徐謇善医、時在洛陽、急召之。既至、勰涕泣執手謂曰:「君能已至尊之疾、当獲意外之賞;不然、有不測之誅;非但栄辱、乃繋存亡。」
勰又密為壇於汝水之浜、依周公故事、告天地及顕祖、乞以身代魏主。魏主疾有間、丙午、発懸瓠、舎于汝浜、集百官、坐徐謇于上席、称揚其功、除鴻臚卿、封金郷県伯、賜銭万緡
+++++++++++++++++++++++++++
徐謇は医術で有名であったので、宮殿に呼ばれ、帝の治療に当たらされた。帝の病気が治ったので、莫大な褒美をもらえたが、もし帝の病状が悪化ないしは死亡することにでもなれば、当人は少なくとも死刑は免れなかっただろう。文字通り、命懸けの究極のハイリスク・ハイリターンだ。
【出典】京都新聞
さて冒頭で、「異議な~し」という話をしたが、この文句で私が強烈に思い出すのは大学に入学した翌年(1974年、昭和49年)の初冬の教養部のストライキの時のことだ。
当時、京大の時計台にはでかでかと「竹本処分粉砕」とペンキで書かれていた。聞くところによると、夜中に電灯もつけず暗闇のなかで 20メートルちかくの文字をきっちりと書いた技術レベルの高さに本職のペンキ職人も舌を巻いたとか。大学は一度は綺麗に消したそうが、それでもすぐさま、ある朝、同じ文字が復活していたとのこと。私が見たのはその 2回目の文字でかなり長くそのまま時計台に書かれたままであった。
当時(1973年)、京大にはまだ学生運動の余韻が色濃く残っていて、学内の至るところに立看板が置かれていた。それだけでなく、ヘルメット学生によって授業が妨害されることも何度かあった。そういう騒々しい雰囲気の中、何が原因かは思い出せないが教養部のストライキを決めるための学生集会が開かれた。時計台下の法経1番(だったか?)の大講堂では夕方6時ごろから会場が始まった。私が足を踏みいれたのは夜の 8時ごろであったが、真冬(2月初旬か?)にも拘わらず相当の熱気とタバコの煙でむんむんしていた。400人位は入れる座席だけでは足りず、通路に坐っている学生もかなりいた。出席者のほとんどが赤いヘルメットをかぶっていたが、必ずしも全員が広島ファンであった訳ではない。
演壇には拡声器が数台置かれていて、檀上の弁士は両手からはみ出すほどのマイクを持って、わめいていた。それは言葉というより、ガード下の電車の騒音のようであった。しかし、出席している学生たちにはその声は確かに届いていたらしく時折「異議な~し」という声が上がっていた。私はタバコの煙に 10数分ばかり我慢して聞いていたもののあまりの煙たさに早々に退散した。
翌朝早く大学に行くと、吉田キャンパスの表門も裏門も、すべて教室の机やイスでバリケード封鎖されていた。入口には赤ヘルの学生が学内に入る人間を検問していた。学生は自由に入れるのだが、職員や教官はキャンパスには入れてもらえず、追い返された。結局その年の後期試験は実施できず、流れてしまった。その後、後期試験が実施されたのは年度が変わった5月のことであった。この時の春休みはそれまでの中で(そしてそれ以降も)一番長い春休みであった。
(続く。。。)
【333.無異議 】P.4431、AD498年
『無異議』(異議なし)とは「反対することがない」ということ。現在でも日常的に使われているが、私にとっては学生時代にしばしばキャンパス内で聞いた学生運動家たちの声を思い出す(後述)。
「異議」の類似語に「異論」がある。当然のことながら「無異議」と同じく「無異論」もあると考えられるので、この両方の語句を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。この表から「無異議」の方がかなり多く使われていることが分かる。さらに、調べると「無異議」の前に「人」や「物」を付けて使われる場合もかなり多いことが分かる。それらも合わせて下の表に示した。
さて、資治通鑑で「無異議」が使われている場面を見てみよう。
北魏の孝文帝(拓跋宏)の病状が悪化した。
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北魏の孝文帝の病気が重くなった。何日も臣下に顔を見せなかった。看病したのは、彭城王の拓跋勰ら数人だけであった。拓跋勰は宮殿内では孝文帝の医薬の世話をしながら、宮殿の外では軍事を総括していた。だれもがその勤勉さを敬服し、異議をいう者はいなかった(人無異議)。右軍将軍で丹陽出身の徐謇は良医でもあった。当時、たまたま洛陽に居たので急に呼び出された。宮殿に到着すると、拓跋勰が徐謇の手を取って泣きながら言うには「君卿がもし帝の病気を治すことができれば莫大なご褒美がもらえるだろう、が、もし万が一、治せなかったら首が飛ぶと思ってくれ。名誉だけでなく、命がかかっている重大事だぞ。」
拓跋勰は、また秘かに汝水の岸部に祈りの祭壇をつくり、周公の故事に倣って、天地と前帝の顕祖に向かって「私の命に替えて帝の命を救って下さい」と頼んだ。暫くして、帝(魏主)の病状が少しく回復したので懸瓠を出発して、汝浜に泊り、百官を集めて、徐謇を上席に座らせてその病気を治した功績を褒めたたえて、鴻臚卿に任命し、金郷県伯の領地銭万緡を褒美として取らせた。
魏主得疾甚篤、旬日不見侍臣、左右唯彭城王勰等数人而已。勰内侍医薬、外総軍国之務、遠近粛然、人無異議。右軍将軍丹陽徐謇善医、時在洛陽、急召之。既至、勰涕泣執手謂曰:「君能已至尊之疾、当獲意外之賞;不然、有不測之誅;非但栄辱、乃繋存亡。」
勰又密為壇於汝水之浜、依周公故事、告天地及顕祖、乞以身代魏主。魏主疾有間、丙午、発懸瓠、舎于汝浜、集百官、坐徐謇于上席、称揚其功、除鴻臚卿、封金郷県伯、賜銭万緡
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徐謇は医術で有名であったので、宮殿に呼ばれ、帝の治療に当たらされた。帝の病気が治ったので、莫大な褒美をもらえたが、もし帝の病状が悪化ないしは死亡することにでもなれば、当人は少なくとも死刑は免れなかっただろう。文字通り、命懸けの究極のハイリスク・ハイリターンだ。
【出典】京都新聞
さて冒頭で、「異議な~し」という話をしたが、この文句で私が強烈に思い出すのは大学に入学した翌年(1974年、昭和49年)の初冬の教養部のストライキの時のことだ。
当時、京大の時計台にはでかでかと「竹本処分粉砕」とペンキで書かれていた。聞くところによると、夜中に電灯もつけず暗闇のなかで 20メートルちかくの文字をきっちりと書いた技術レベルの高さに本職のペンキ職人も舌を巻いたとか。大学は一度は綺麗に消したそうが、それでもすぐさま、ある朝、同じ文字が復活していたとのこと。私が見たのはその 2回目の文字でかなり長くそのまま時計台に書かれたままであった。
当時(1973年)、京大にはまだ学生運動の余韻が色濃く残っていて、学内の至るところに立看板が置かれていた。それだけでなく、ヘルメット学生によって授業が妨害されることも何度かあった。そういう騒々しい雰囲気の中、何が原因かは思い出せないが教養部のストライキを決めるための学生集会が開かれた。時計台下の法経1番(だったか?)の大講堂では夕方6時ごろから会場が始まった。私が足を踏みいれたのは夜の 8時ごろであったが、真冬(2月初旬か?)にも拘わらず相当の熱気とタバコの煙でむんむんしていた。400人位は入れる座席だけでは足りず、通路に坐っている学生もかなりいた。出席者のほとんどが赤いヘルメットをかぶっていたが、必ずしも全員が広島ファンであった訳ではない。
演壇には拡声器が数台置かれていて、檀上の弁士は両手からはみ出すほどのマイクを持って、わめいていた。それは言葉というより、ガード下の電車の騒音のようであった。しかし、出席している学生たちにはその声は確かに届いていたらしく時折「異議な~し」という声が上がっていた。私はタバコの煙に 10数分ばかり我慢して聞いていたもののあまりの煙たさに早々に退散した。
翌朝早く大学に行くと、吉田キャンパスの表門も裏門も、すべて教室の机やイスでバリケード封鎖されていた。入口には赤ヘルの学生が学内に入る人間を検問していた。学生は自由に入れるのだが、職員や教官はキャンパスには入れてもらえず、追い返された。結局その年の後期試験は実施できず、流れてしまった。その後、後期試験が実施されたのは年度が変わった5月のことであった。この時の春休みはそれまでの中で(そしてそれ以降も)一番長い春休みであった。
(続く。。。)