限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第43回目)『陽明学を実践する前にすべきこと』

2010-02-21 12:11:26 | 日記
以前、あるセミナーで『いまこそ陽明学が必要』と言う堀義人さんの意見に対して、私が次のような考えを持っていることを言ったことがある。(2010/01/22 ブログコメント
『陽明学をうんぬんする以前に中国思想の全体の流れと、中国における儒教の位置づけ、それとそれら思想と現在中国でみられる諸問題(とりわけ、環境破壊、政治腐敗、農村問題、人権問題、少数民族)との関連を正確に理解しておく必要がある。』

この点について私の考えを述べよう

まず、中国における儒教は別に孔子が教祖ではないと私は考えている。儒教というのは、その当時(紀元前六世紀)までに中国の伝統的考えを集約したものである。それは、論語(述而篇)にある『述而不作,信而好古,竊比於我老彭』(述べてつくらず、信じて古を好む。)という孔子の言葉にも表れている。つまり、孔子は、『自分は新説を出さない。我が中国の良き伝統を次世代に伝えるのが私の任務と自覚している』と考えていたのだ。

私の考えでは、孔子が一番強調したかったのは、血族の結束、つまり先祖崇拝(孝)と血族のコミュニティ内の秩序と愛情(礼、仁)だ。一歩家族から出て社会人としては、正義感をもつ(義)と言うことと古き伝統を学ぶ(文)であった。このなかでも特に血族の結束は孔子を継いだ孟子(亜聖)の『不孝有三、無後爲大』(男の子を生まないのが最大の不幸だ)ということは既に述べておいた。

『礼記』(らいき)と言う本があるが、ここには、嫌になるほど細かい規則が書かれている。例えば弟と兄嫁(嫂)は物を直接手渡ししてはいけない。手と手が触れたら、淫らな感情が湧くから、というのがその理由らしい。孟子には、それでは、兄嫁がおぼれそうになっても手をかさないのか、と淳于こんが噛み付く場面が描かれている。このように、人の行動様式をすべてパターン(型)化するのに、大きく貢献したのが、朱子であった。そして朱子の思想が体系化されたのが、朱子学であり、明以降の中国と李氏朝鮮に多大な影響を与えた。ただ、日本だけは、朱子の理や気の形而上学的発想を当初から胡散臭いと思い、表面的には採用するふりをしながら、徳川時代を通じてだれも本気で信じた人はいない、と私には思える。つまり、朱子などが強調すればするほど、中国において礼が教科書どおりに実践されていないウソが見え見えなのである。(これが私のいう『立小便理論』

それで、明に入って、あまりにも形式主義、教条主義に囚われた朱子学では乱れた社会が改革できないと立ち上がったのが王陽明であった。それが日本に入って、朱子学の教条主義に辟易していた中江藤樹が家宝の刀と引き換えに王陽明全集を購入し、感激をもって熟読してから流行した。(出典:『翁問答』岩波文庫、P.19)その後、陽明学の有名な儒者といえば、大塩平八郎、佐藤一斎や吉田松陰がいる。
(2017/09/08 出典を『先哲叢談』から『翁問答』に訂正した。)

陽明学を一言で言ってしまえば、朱子学の中和剤である。朱子があまりにも、観念的、形而上学的な知を重視しすぎたのを正したかったのだ。結局、陽明学とは、書だけに知を求めず、実践の中から智を求めよ、ということを言っているにすぎない。もっとも、王陽明自身は若くして科挙に合格したように、書の知識では人後に落ちない。さて、『実践智』というのは、経験則ということになり、かなり主観性が強くなる。

実は、日本の中で、古典中国(漢文)にまつわる世にも不思議な現象がある。それは、学界では、清代の考証学を重要視するのに対し、ビジネス界では、明代の陽明学を重要視する。当然のことながら、この二つの派は書籍を通じて世の中に知られているにも拘らず、互いに相手の派を全く無視しているのだ!あたかも、透明人間かのように相手の存在を意識していない。

私は、両派の本を、それもかなりの量を読んでいるのだが、全く相手の派の人名が挙がっていないことに気づいて愕然とした。具体的にいうと、清代の考証学の派閥は、『京都支那学』の三羽ガラスの内藤湖南、狩野直喜、桑原隲蔵とその弟子達の青木正児、吉川幸次郎、宮崎市定などである。一方の明代の陽明学の派閥は大正・昭和にかけて、活躍し、歴代の首相の指南役とも言われた、安岡正篤(やすおか・まさひろ)である。なぜ、同じく漢学を日本に広めようと努力しているのにこの二派はいがみあっているのか?ここに、実は陽明学の限界が示されているのだ。

要は、中国においては、陽明学自体は、一時的な流行にすぎず、後継者が途絶えてしまった。つまり陽明学自体は中国の風土では成熟できなかったのである。この原因はつまるところ上に述べたように、『主観主義』にある。自分が正しいと信じ込んだことをやみくもに実践していくところに陽明学の強さとともに脆さも包含されているのだ。上に挙げた日本の代表的な陽明学者の論説を見て確認してみよう。

中江藤樹の『翁問答』には、『世の中に本はいろいろあるが、儒教で定めている教科書(13経)を読むだけでよい。他の本は、史書も含め、クズだから読まないでもよろしい』という意見が堂々と述べられている。以下に原文を挙げるが、一部、漢字や新かなに変更し、分かりにくい語句については()で説明を加えた。
読までかなわぬという書物は十三経(儒教の聖典)のことなり。十三経のとりいりの梯子(はしご)になるべき名儒の書、あるいは七書(武書)などの外の書物は読みて益なし。然るを、努め読みぬるは目たるく心疲るるあだこと(無用のこと)なりと思うべし。

大塩平八郎は、天保の大飢饉に大阪の町民を救うため、蔵書五万巻を売り払って650両もの金をつくった。(私の試算では、現在価値にして1億3千万円にもなる。)そして、遂に飢饉を救おうともせず逆に私腹を肥やす大坂町奉行所や豪商を襲う計画をたて、挙兵した(大塩平八郎の乱)。しかし乱自体は、半日で決着がつき、敗れた大塩平八郎は2ヶ月ほど潜伏するも最後は見つかって自殺することになった。彼の著書、『洗心洞箚記』には、彼がいかに王陽明に心酔したかが分かる。大塩の主張を私なりに理解したところでは、『大虚に徹すべし』(私心をなくせ)というに尽きる。不思議なことに儒以外の宗派を排撃しながらも、荘子からの引用がかなり多い。

吉田松陰の講孟箚記には、『今、神州を興隆し四夷を撻伐するは仁道なり。之を礙ぐる者は不仁なり』とあり、攘夷を是としていた。徳富蘇峰が『吉田松陰』の中で総評として、『彼、吉田松陰、は如何なる人物なるか、普通の意味において、大なる人物という能わず。何となれば大なる活眼なく、大なる雄腕なく、また大なる常識を有せざるが故に。然れども、もし大なる人物と言うを許さば、許すべきはただ一あり。曰く、彼は真誠の人なり。』

このように見てくると、陽明学の特徴が、『真誠、猛進』にあることが分かるが、これは実は中国では、『青い』とけなされている性情なのだ。中国人は所謂、老獪を評価する心情を持っている。それを表すのが、『唾面自乾』と『韜晦無露圭角』という言葉だ。いずれも耐えてチャンスを伺えという趣旨である。このような国民性の中国人には陽明学の性急な行動力は逆に胡散臭く写ったといえよう。しかし、あるいはそうだからこそ、この性急な行動力が日本人の心情にフィットして、陽明学がもてはやされるのではないか、と私は思っている。

さて、清代の考証学の派閥の学者達は明の主観主義が大嫌いで、その結果、その系統を引く陽明学も汚らわしいものとして学界では完全に無視した。そして、自分達の大好きな清代の考証学の巨匠達、具体的には、銭大昕・戴震・段玉裁・趙翼、の書物に深沈した。そして、特に吉川幸次郎に顕著であるが、中国文明の素晴らしさを声を大にして吹聴した。(もっとも、『京都支那学』の創立者達、内藤湖南、狩野直喜、桑原隲蔵、はもうすこし客観的に中国のマイナスの面も見ていたように私には思える。)

しかしながら、この一派も、陽明学一派と同じく、『中国=儒=礼・仁の国』という誤った認識を持っていた。悪いことに(彼らにとっては良いことにではあるが)、彼らのもつ学界での権威、あるいは京都大学教授という地位に支えられて、中国が儒の国である、という誤った認識が、盲目的に、かつ加速度的に近代日本に広められていった。

実際の中国を旅行した人、あるいは中国でビジネスをした人達は中国人の『えげつなさ』や、犯罪率の高さ、日本では想像すら出来ない極悪の環境問題などを目の当たりにして、『儒の国、中国』などは全くの妄想だと思い込んでしまっているに違いない。

この問題、に関しては下記のブログ参照:
沂風詠録:(第11回目)『国際人のグローバル・リテラシー・英語のテスト』

この両者の極端に異なる認識は一体どちらが正しいのであろうか?

詳細を一切省略して、結論だけを言えば、実はどちらも正しいのだ。冒頭に述べたように中国人にとっては、血族、そして水滸伝にみられるような団結(幇)内のルールとそれ以外の人たちに対するルールが全く別で、かつ矛盾していない、というのが、中国人社会の謎を解く鍵であるのだ。

本論の結論として言いたいのは、陽明学に熱中するまえに、陽明学のそもそもの由来やその限界を知り、他の学派との関連、そして日本における中国社会にまつわる誤解を一つずつ正しく解きほぐすことを、まずすべきだ、ということである。
コメント (2)
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