以前(1982年~84年)にアメリカのカーネギーメロン大学に留学していた時のこと、学期末のテストが終り、アメリカ人の学生仲間数人と打ち上げをすることになった。一人のアメリカ人学生の自宅の庭でバーベキューパーティをすることになり、その家に行ったが、ドアを入った途端に腰を抜かしてしまった。入口に、なんとヨーロッパの中世の鎧兜が置いてあるではないか!またその横には、日本の本物の刀が壁に掛けられ、天井からは槍が吊るしてあった。奥へ入ると、今度は電話帳の3倍位はあろうかという巨大な革製の古書が書見棚に逆さに広げて置いてある。聞くと、その家のお母さんが骨董品店(antique shop)を持っているので、店におけないものを自宅に一時保管しているとのこと。逆さに置いてある古書は、時々、ひっくり返さないといけないとか。(記憶がさだかでないが、その古書は Gutenberg の聖書かそれに類する、とてもとても高価なものだったような。。。 )

さて、皆(5人)そろったところで、スーパーに肉を買いに出かけた。誰かが、これはどうか?と指差した肉の塊があった。見ると1ポンド(約500グラム)だった。私は、少し足りないのではないかと思ったが、足りないどころではなかった。一人が1ポンドの肉 - 縦横5センチ、長さ20センチはあろうかという塊 - を食べるというのだ。目を白黒させながら家にもどり、さっそく炭をおこし、熱くなった網に上に5つの肉の塊をそのまま、どさっと載せた。ホスト役の友人が時々ナイフを入れて焼き具合をみていたが、できた、といって私の皿に肉塊を載せてくれた。日本のように野菜などは一切なし。肉塊にかぶりつくのだが、2口目以降は、旨いとかまずいとかいう次元を通り越して、ひたすら噛みに噛むという動作を繰り返しただけだった。ようやく食べ終わったが、シマウマを腹いっぱいに食べたライオンの気分だった。当日だけでなく、翌朝目が覚めても、まったくおなかがすかない。結局丸一日、全く何も食べなかった。それまで不思議であったのだが、ライオンは腹いっぱい食べたあと、どうして何日もぐうたらしていられるのか、ようやく納得した次第であった。
ところで、欧米の人達の話を聞いていると、時たま、同じ論旨を延々と繰り返している光景に出くわす。それでも、聴衆は(内心はうんざりしているのかもしれないが)根気強く耳を傾けている。一方、日本人の話は、逆に話題があちこちと点々とし、一向に焦点が絞り切れない。この欧米人と日本人の話しの仕方(スピーチ)の差は先ほどのビーフステーキを思い出して頂ければ、次のように喩えることがぴったりだと分かるであろう。
欧米人 ― ビーフステーキ・スピーチ
日本人 ― 幕の内弁当・スピーチ
ところで、昔、ドイツ語を勉強している時に、ある参考書の後ろに次のようなコラムが載っていた。
日本人は「風が吹くと桶屋が儲かる」と、序論からすぐさま結論に至ってしまうが、ドイツでは、ロジックの一つ一つを詳細にチェックする。まず、「風が吹くと砂が舞い上がる」というが、この時、風の強さと砂の関係はどうか、どのような粒子の砂が舞い上がるか、などについて議論が延々数ページにわたっても終わらない。。。
この差は何も日本人と欧米人の間だけではない。日本人はロジックの構築が苦手だけではなく、そもそも話しが長くなると途中で相手の話しの筋を追う事から脱落してしまう傾向が一般的に見られる。これが以前のブログ
沂風詠録:(第194回目)『リベラルアーツとしての哲学(その6)』
で述べた『あっさり系の日本人』と『こってり系の中国人』の差ということだ。
現在、日本と中国、日本と韓国の間でのいろいろな歴史や領土関連の問題の解決が長引いているのは『あっさり系の日本人』の向う脛の弱点をような点を集中的に攻撃されている感がする。それに対抗するには、日本人の恥の美意識から外れてしまうことを厭わないとすれと、次のような解決法も考えられる。つまり、日本も負けず劣らず相手の弱点や嫌がることを延々と言い続ける、つまり消耗戦に持ち込むのだ。朝鮮の歴史を読むと、対外的および対内的を問わず、とにかく徹底的に消耗戦を続け、もうこれ以上口をあけるのも面倒だ、というへとへと状態になってから、ようやく歩みより(講和)が始まる。何事においても、日本のやり方が世界に通用するということはない、と覚悟しておくことだ。
ただし、私は現在のように、中国や韓国が南京事件や慰安婦問題で、日本の悪口を世界に発信しているのは、長い目で見ると、彼らの意図に反して、逆に日本に対する利敵行為だと思っている。なぜ、彼らの理不尽な行為が日本のためになるのか、については、後日、稿を改めて述べたい。(乞う、ご期待)
【参照ブログ】
百論簇出:(第52回目)『レンガの階段論理と棒高跳び論理』

さて、皆(5人)そろったところで、スーパーに肉を買いに出かけた。誰かが、これはどうか?と指差した肉の塊があった。見ると1ポンド(約500グラム)だった。私は、少し足りないのではないかと思ったが、足りないどころではなかった。一人が1ポンドの肉 - 縦横5センチ、長さ20センチはあろうかという塊 - を食べるというのだ。目を白黒させながら家にもどり、さっそく炭をおこし、熱くなった網に上に5つの肉の塊をそのまま、どさっと載せた。ホスト役の友人が時々ナイフを入れて焼き具合をみていたが、できた、といって私の皿に肉塊を載せてくれた。日本のように野菜などは一切なし。肉塊にかぶりつくのだが、2口目以降は、旨いとかまずいとかいう次元を通り越して、ひたすら噛みに噛むという動作を繰り返しただけだった。ようやく食べ終わったが、シマウマを腹いっぱいに食べたライオンの気分だった。当日だけでなく、翌朝目が覚めても、まったくおなかがすかない。結局丸一日、全く何も食べなかった。それまで不思議であったのだが、ライオンは腹いっぱい食べたあと、どうして何日もぐうたらしていられるのか、ようやく納得した次第であった。
ところで、欧米の人達の話を聞いていると、時たま、同じ論旨を延々と繰り返している光景に出くわす。それでも、聴衆は(内心はうんざりしているのかもしれないが)根気強く耳を傾けている。一方、日本人の話は、逆に話題があちこちと点々とし、一向に焦点が絞り切れない。この欧米人と日本人の話しの仕方(スピーチ)の差は先ほどのビーフステーキを思い出して頂ければ、次のように喩えることがぴったりだと分かるであろう。
欧米人 ― ビーフステーキ・スピーチ
日本人 ― 幕の内弁当・スピーチ
ところで、昔、ドイツ語を勉強している時に、ある参考書の後ろに次のようなコラムが載っていた。
日本人は「風が吹くと桶屋が儲かる」と、序論からすぐさま結論に至ってしまうが、ドイツでは、ロジックの一つ一つを詳細にチェックする。まず、「風が吹くと砂が舞い上がる」というが、この時、風の強さと砂の関係はどうか、どのような粒子の砂が舞い上がるか、などについて議論が延々数ページにわたっても終わらない。。。
この差は何も日本人と欧米人の間だけではない。日本人はロジックの構築が苦手だけではなく、そもそも話しが長くなると途中で相手の話しの筋を追う事から脱落してしまう傾向が一般的に見られる。これが以前のブログ
沂風詠録:(第194回目)『リベラルアーツとしての哲学(その6)』
で述べた『あっさり系の日本人』と『こってり系の中国人』の差ということだ。
現在、日本と中国、日本と韓国の間でのいろいろな歴史や領土関連の問題の解決が長引いているのは『あっさり系の日本人』の向う脛の弱点をような点を集中的に攻撃されている感がする。それに対抗するには、日本人の恥の美意識から外れてしまうことを厭わないとすれと、次のような解決法も考えられる。つまり、日本も負けず劣らず相手の弱点や嫌がることを延々と言い続ける、つまり消耗戦に持ち込むのだ。朝鮮の歴史を読むと、対外的および対内的を問わず、とにかく徹底的に消耗戦を続け、もうこれ以上口をあけるのも面倒だ、というへとへと状態になってから、ようやく歩みより(講和)が始まる。何事においても、日本のやり方が世界に通用するということはない、と覚悟しておくことだ。
ただし、私は現在のように、中国や韓国が南京事件や慰安婦問題で、日本の悪口を世界に発信しているのは、長い目で見ると、彼らの意図に反して、逆に日本に対する利敵行為だと思っている。なぜ、彼らの理不尽な行為が日本のためになるのか、については、後日、稿を改めて述べたい。(乞う、ご期待)
【参照ブログ】
百論簇出:(第52回目)『レンガの階段論理と棒高跳び論理』