限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第408回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その251)』

2019-09-29 17:39:28 | 日記
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【350.危急 】P.3824、AD430年

『危急』とは「危険が目前に迫っている」情況のことをいう。試みに英語に直訳してみると「danger urgent」となるが、まさにその通りの意味だ。

さて、「危急」と類似の単語「緊急」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。



「危急」の初出が後漢書であることから、比較的新しい句であることが分かる。またこの表で目立つのは新唐書では全く使われていないことだ。新唐書は字数としては旧唐書より 15%程度すくないが、それでも総字数は170万文字ある(史記の3.5倍)。しかるにその中に一度も「危急」が使われていない!旧唐書には14回も現れているのだから、新唐書にゼロ回というのは意図的だと分かる。その理由は、新唐書は欧陽脩を始めとする宋の文人たちが旧唐書を、前漢以前の古文体で書きなおしたためである、と考えられよう。

さて、資治通鑑で「危急」が使われている場面を見てみよう。南北朝時代、北魏の大軍が宋(劉宋)の済南の城をを攻めた。城にはわずか数百人の守備隊しか残っていなかったので、まともに戦っては勝てる道理がない。太守の蕭承之は一かバチかの危ない賭けにでた。

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北魏の軍隊が済南の城を攻めた。済南の太守で武進出身の蕭承之は兵士数百人を率いて防衛した。しかし見ると、北魏は大人数の軍隊であった。蕭承之は城内の各所に兵隊を待ち伏せさせてから、城門を開くよう命じた。城内の皆、びっくりして言うには「敵は多く、味方は少ない。それなのにどうしてこんな危険な賭けにでるのか!」蕭承之が答えていうには「今や我々はどうしようもないせっぱつまった城にいる。自体はすでに危急だ。もし、ここで弱みを見せればかならずや皆殺しにされるだろう。だったら、一か八か強がってみせて相手を脅すしかない。」北魏の将軍たちは、城内に多くの待ち伏せ兵がいるのではないかと疑い、攻撃しないで去っていった。

魏兵攻済南、済南太守武進蕭承之帥数百人拒之。魏衆大集、承之使偃兵、開城門。衆曰:「賊衆我寡、柰何軽敵之甚!」承之曰:「今懸守窮城、事已危急;若復示弱、必為所屠、唯当見強以待之耳。」魏人疑有伏兵、遂引去。
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蕭承之のこの計略は「空城計」といい、過去にも何度か実戦例がある。さらに類似の例を探すと、司馬遷の『史記』巻109の李広将軍伝に載せられている次のような話が見つかる。

李広将軍が少人数で出撃し、匈奴の大軍に囲まれた時、わざと全員を馬から降りさせ、鞍をはずさせた。つまり逃げる意図がまるでないことを示した。匈奴は、李広将軍の部隊は囮で後ろに漢の大軍がいるのではないかと危ぶんで、攻撃してこなかった。

ちなみに、この度量のすわった将軍・蕭承之は、蕭道成の父親である。蕭道成は父と同じく宋の将軍であったが後に、南斉を建国した。

続く。。。
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百論簇出:(第249回目)『日本のグローバル人材に欠けているものとは?(前編)』

2019-09-22 15:06:35 | 日記
私は、以前(2010年から2017年)通称「リベラルアーツフォーラム」を20回開催していた。構成はまず私が40分ばかり講演した後で、現在、大分にある立命館アジア太平洋大学( APU)の学長である出口治明さんに人類5000年の歴史の話を小一時間ばかりして頂き、休息のあと、数十分の質疑応答をした。講演にはだいたい100人の出席者があったが、この後の懇親会ではたいていいつも30人近い方々が出席されて、初対面の人が多いにも拘わらず、出席者同士非常に活発に議論していた。(現在はこのフォーラムは休止している。)

ところで、このフォーラムの正式な名称は『リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム』であるが、名称がずばり物語るように、狙いはグローバルで活躍できる人材をリベラルアーツ教育を通して育成していこうというものであった。もっとも、20回の開催でどれほど多くのグローバル人材が育成できたのか、と問われると残念ながら、自信を持って答えることができない。理由の一つには、何といっても回数と時間が短いことだ(1年に3回、各回3時間)。

しかし、本質的には別の理由があると私は考えている。つまり、グローバル人材育成には、リベラルアーツ(Liberal Arts)の単語、 Arts(技)が示すように「知識を実践する(実技)」ことが必須であるのだ。フォーラムのように座学の講義やQ&Aで学べることはグローバル人材育成に必要なピースの一つであっても、それだけでは十全ではない。ここには重要なピース、つまり「実践」が欠けている。とりわけ、江戸や明治ならいざ知らず、現在のような画一化された教育カリキュラム ― それも細切れの暗記モノ中心のカリキュラム ― が正統な教育である、と信じ込んでいる(洗脳された)大抵の日本人というのは、生身の人間力が直に問われるグローバル社会にあっては非常にひ弱く見えてしまうからだ。

その意味で、「グローバル人材に必要なものは何か?」という一般的な問いよりも「日本人のグローバル人材に欠けているものは何か?」という問いに替えて、答えを考える方が今後の日本人向けのグローバル人材教育のあり方を考えるには有益ではないだろうか。それで、本論ではもう少しポイントを絞って、「欧米のグローバル人材と比べて、日本人のグローバル人材に欠けているものは何か」について、思いつくまま順不同に箇条書きにしてみた。


【出典】LIBERAL ARTS CARTOONS AND COMICS
'Dear, we're concerned with your college curriculum.
How will you pay off your student debt with a liberal arts degree?'


●交渉力の弱さ

外交とは「机の上ではにこにこと握手しながら、机の下では足で蹴りあいする」との言葉がある。外交に限らず、交渉とは互いの腹の探り合いで、相手からどれだけ有利な条件を引き出すことができるかを競っているゲームである。しかし、日本人は得てして交渉の成果は「誠意」で決まるとの幻想を持っているため、ねちねちと欺瞞的な条件交渉を続けるのは卑怯だと考え、腹の底を見せて「誠意」ベースで決着をつけようとする。このようなやり方は、日本人の間ではうまく行くのはお互いに「誠意」を高く評価するという同質の価値観を共有しているからだ。しかし、そのような価値観を持たない(あるいは軽視している)グローバル社会においては交渉力が弱いと映ってしまう。

交渉というのは、究極の所、全人格的な戦いとなる。試されるのは、なにも知識や知力だけでない。策略、度胸、度量、機転、など、学校教育の中では全く見向きもされなかった能力、資質がフルに試される。この意味で、学歴偏重主義、つまり学校教育のカリキュラムの中で優等生であった者が偉い、という現代の風潮はグローバル人材育成の上では心理的な阻害要因であるといえよう。

●策略の弱さ

「誠意」が日本ほど通じないグローバル社会では、相手を納得させるための策略が必要だ。策略というと日本では否定的なニュアンスで見られるが、端的には一つの案がダメだったらどうするのか、という複数段の案を考えておくことを意味する。よく「そんなことはあり得ない!」といって、次善、次々善の案(二の矢、三の矢)を考えていないケースが日本人には多くみられる。(古くは、義経が梶原景時との「逆櫓」の論争で、義経は「初めから逃げることを考える逆櫓は臆病者だ」と言い放ったごとくである。)

この点を考えると、日本人の思考の根底には、熱意と誠意で押していけば、どこかで相手が理解してくれるはず、という楽観的人生観が横たわっている。そして、この得意パターン(戦術)から抜け出せないでいる人が相対的に多いように感じる。グローバル社会のような「こすからい」人間の集団に対しては、このようなワンパターンの戦術がいつもうまくいくとは限らない。脅し文句(ハッタリ)で相手を屈服させるのも一つの策略として考えないといけない。

『戦国策』という中国の書物がある。中国の戦国時代(紀元前 4、3世紀)、政治コンサルタントが各国の君主に富国強兵策を提案するのだが、大抵「上策、中策、下策」の案を提示して、君主に選択させる話が数多く載せられている。これは単に複数案を提示するというのではなく、よく読んでみると、それぞれの案を実行する時のプライオリティ(順位)やリスクが示されている。状況を網羅的に考え、将来起こるであろう色々な状況を想定してその対策を立てているのだ。これを読むと、日本人にはこういった、将来の事態を想定する能力が欠けているのではないだろうかと考えさせられる。

●レトリックが稚拙

「熱意と誠意」を信条とする日本人は得てして説得の仕方(レトリック技法)を軽視している節が見られる。あたかも、愛し合う男女は言葉を交わさなくとも、瞳を見ればその愛情の深さを確認できる、というような類だ。日本人は、表現のあいまいさを好む、いわゆるハイコンテクスト文化に育っているので、物事をきっちりと説明することは「はしたない事」とネガティブ評価する。そして「忖度」のように、相手や周りの人々の感情の襞を読み取ることが「空気を読む」ことができる人、気配りのできる人、として評価される。

こういう環境に育つと、自分自身に於いてすら物事を言語的に明確に表現できていないまま、感情的な判断に従って動いてしまう。そして、人に対しても言語化できない感情を丸ごと、そのまま理解してほしいと要求するようになる。しかし、グローバル社会では一般的に欧米流のローコンテクスト文化が基調であるので、何事も言語化しなければならない。それも単に言語化するだけでなく、相手が理解できるような枠組みで提示することが求められる。提示するだけでは足りない。例えば、相手から問題点をつっこまれたら、適切に切り返しができないといけない。日本人の多くに見られる欠点の一つは、論理が単発・単線なので、攻め込まれると、そのままずるずると押し込まれてしまうことである。

このような場面で必要なのが「ロジック(論理)だ」と声高々にいう人がいるが、それはちょっと違う。

人が話を理解するのは論理であるのは確かだが、納得させるにはレトリック(弁論術)が必要だ。そもそも日本には話し方を教えるという文化的伝統が存在しないので、レトリックが重要であると誰も考えないし、教えない。もっとも、最近ではディベートが重要だとしてディベートの訓練をする人がいる。しかし、日本人同士のディベートは単に頭の回転だけを競っているような節が見られる。相手の論理の欠陥を見つけて、相手を窮地に立たせ、コテンパンにやっつける言葉の格闘技がディベートである、と誤解している。確かに、相手の論理はそれで破綻するかもしれないが、そうだからと言って自分の話が聴衆を納得させることにはならない。ディベートと異なり、レトリックは論理や感情も含め、聴く者に自分の意見を納得させるという点に焦点がある。

歴史的に見ると、日本は異民族の侵入がなかったため、国家の危機と言えるものがほとんどなかった。そのため、日本は偉大な指導者と偉大な雄弁家を必要としてこなかった。レトリック(弁論術・雄弁術)の歴史を調べると分かるが、日本以外の先進的な文化圏ではどこでも歴史的にレトリックを重要視している。ギリシャ・ローマ、中国はいうまでもなく、ユダヤ、イスラム、インドなどそれぞれの文化圏でレトリックに長じた人はそれこそ山のようにいる。そのような文化で育った人たちに伍してグローバルに活躍したいなら、レトリックを磨く必要がある。

【参照ブログ】
 惑鴻醸危:(第36回目)『韓国歴史ドラマに学ぶ、両班のえげつない処世術』
 【座右之銘・78】『Casus adversos hominibus tribuant, secundosfortunae suae』

続く。。。
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想溢筆翔:(第407回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その250)』

2019-09-15 18:04:05 | 日記
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【349.請託 】P.4538、AD504年

『請託』とは「権力のある人に、私事を頼むこと」。主に政治家に賄賂を贈り公にすることを憚れることを金の力で成し遂げることをいう。辞海(1978年版)には「以私事、有所干求也」と説明するが、これでは「権力のある人に」というニュアンスが入っていない。辞源( 2015年版)では一層簡略に「私相嘱託」と説明する。ここに「相」(each other) という句が入っているが、私にはこの意味は分からない。

「請託」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。



漢書で2回使用例はあるものの、後漢書から急に使われだした単語であるといえる。資治通鑑を通読して分かるのは、現在でも使われて熟語の多くは、後漢の時あるいは南北朝の時に急に多く出現しだす。そして、その後の中国では使われなくなった単語でも多くは日本に残っている、という傾向が見られる。この意味で日本人の使う漢字の熟語は現在の中国人からすれば、1000年ほど前の文語文に出てくるような単語を日本人が普段、口にしている、と非常に不思議に感じているのではないかと私は勝手に想像している。

さて、資治通鑑で「請託」が使われている場面を見てみよう。

南北朝時代、北魏の宮廷内の内乱。王族の一人、元詳は傲慢で贅沢三昧にふけり、とうとう殺されてしまうがそのアップアンドダウンを見ると、日本の天皇家の皇子のような ― 少なくとも歴史的な大きな事件がないといった意味での ― 平穏な人生を歩めた人が少ないことに気付く。帝室や王室の一員は金力にものを言わせた我儘放題できるにしろ、もう一面には常に身の危険が伴っていた。

北魏の元詳は宣武帝(元恪)の叔父であったが、最後には謀叛の罪を着せられて暗殺された。

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魏太傅で、領司徒、録尚書北海王の元詳は驕奢(おごり・ぜいたく)し、声色(音楽と女色)を好み、その貪欲さは止まるところを知らなかった。大邸宅に住みながらも、まだ「狭い」といって隣人の土地を奪って家を拡張した。子分たちを使って、請託(賄賂)を集めさせたので、官僚だけでなく、世間からも大層恨まれていた。宣武帝は元詳のそういった悪事を知りながらも、叔父であるので、変わることなく礼を尽くしていた。国家の軍事には尽く関与し、決定した。帝に奏請して、却下されたことはなかった。

さて、宣武帝が成して親政を始めた時に、兵を派遣して、帝室の叔父たちの家族を宮廷に呼び寄せたことがあった。元詳は兄の咸陽王(元禧・拓跋禧)や弟の彭城王(元#52F0;・拓跋#52F0;)と一緒に車に乗って宮廷に入ったが、その時の厳格な警備に元詳の母である高太妃が「これは私たちを皆殺しにするための準備に違いない」と勘違いして、後続の車の中の大泣きした。その後宮廷での行事も終わって帰宅の途についた時に息子の元詳に「今後は富貴を願わずに、お前と一緒に長生きできることだけを願おう。それができるなら、町の掃除婦となってでもいい」と行った。しかし、暫くして元詳が権力を握って国政を動かすようになると、元詳の母の太妃は前に言った事などけろりと忘れて、自ら率先して、元詳をけしかけて貪欲な行為を繰り返させた。

魏太傅、領司徒、録尚書北海王詳、驕奢好声色、貪冒無厭、広営第舎、奪人居室、嬖昵左右、所在請託、中外嗟怨。魏主以其尊親、恩礼無替、軍国大事皆与参決、所奏請無不開允。

魏主之初親政也、以兵召諸叔、詳与咸陽、彭城王共車而入、防衞厳固、高太妃大懼、乗車随而哭之。既得免、謂詳曰:「自今不願富貴、但使母子相保、与汝掃市為生耳。」及詳再執政、太妃不復念前事、専助詳為貪虐。
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一度は、権力の座にいることの不安定さにパニックになって大泣きした元詳の母の太妃であるが、一旦、権力の味を占めたら忘れられないらしく、気持ちが落ち着くとまた貪欲に財宝を貪り始めた。しかし、そういったちょっとした貪りの心が、最終的には身の破滅を導いたのだが、それは後の話。

よく、外資系では "Up or Out" という。社内で出世できなければ、転職せよ、という意味だが、中国の王室では Out は文字通り、人生から Out することを意味した。

中国の冷酷な王室の歴史と比べると、日本の皇室の歴史は、良い意味で「何と微温的」と感じる。

以前のブログ
 想溢筆翔:(第24回目)『道長の日記、御堂関白日記(その1)』
では、三条天皇が皇后・藤原絨子の冊立を祝おうとして、大臣たちを招いたが、大臣たちは藤原道長の娘・中宮妍子の競争相手の冊立とあって、誰ひとりとして絨子の冊立を祝いに来なかったということを紹介した。あれやこれやで結果的に、三条天皇は嫌気がさして道長と血のつながりの濃い(道長の甥で道長の娘・彰子の婿)にはやばやと帝位を譲った。三条天皇は権力を失ったとはいうものの、命まで奪われることはなかった。

続く。。。
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沂風詠録:(第318回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その23)』

2019-09-08 15:38:20 | 日記
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C-1.英語辞書

C-1-3 American Heritage Dictionary (Second College Edition)

英語に上達しようと思うなら、成るべく高校時代から易しい英英辞典から使い始めるのがよい、と私自身の経験から確信している。それを書いたのが次のブログ記事である。
 沂風詠録:(第271回目)『英語力アップは英英辞典から』



ただ、世の中には「英英辞典」というと、このような学習用のものをさすように勘違いしている人が多いせいか、 Web上では、上の図に挙げたような学習用の英英辞典の優劣を盛んに論じている記事を多く見かける。



多少(かなり?)不遜な言い方になるのを承知で、突き放した言い方をすれば、このような学習用英英辞典が有用なのはTOEIC 850点以下の英語学習者である(と私は個人的には思っている)。尤も、TOEICが公開して資料(上図)に拠ると、日本人の93%まで(下記、【注】参照)が850点以下だそうだから、「英英辞典=学習用英英辞典」という図式が成り立ち、学習用英英辞典がが持て囃されるのも無理もない話だ。
【注】「IP TEST」で測定すると、さらにこのパーセントは上がり、日本人の97%まではTOEIC 850点以下となる。

しかし、このような学習用英英辞典の優劣を喧しく[かまびしく]議論しているのは、傍目(つまり、グローバル視点)から見るとあまり気持ちのよいものではない。食べ物に喩えていえば、これはあたかも洋食を食べた経験のない人がお子様ランチを本物の洋食だと勘違いしてデパートのお子様ランチの品評会を熱心にしていているようなものだ。あたかも「Aデパートのお子様ランチのスパゲッティに掛かっているケチャップは美味しいわよ」とか「Bデパートのウィンナーはこんがりと焼け、ジューシーだわよ」とか、きゃあきゃあ騒いでいるようなものだ。デパートの食堂にしてみれば、お子様ランチだって丹精込めて作っているので、高い評価を受けてまんざら悪い気はしないとはいうものの、やはりもっと大人の料理で評価してほしいと思っているはずだ。

それと同様、私のこのブログでいう英英辞典とは学習用のものではなく本格的なレベル、つまり英米の本国人が使っている英語の辞書のことだ。中学校から習い始めた英語とはすでに50年もの付き合いになるし、その上、アメリカ留学も経験したこともあって、英英辞典に関しては数十種ほどは実際に使ったように思う。その中から自分の相性に合うものに出会うとうれしくなって、つい買い増していったので、現在では英英辞典は十種以上は持っている。



その中で、今回紹介するのは、American Heritage Dictionary(AHD)である。 College Edition というタイトルから分かるように、本格バージョンのものより多少簡略化されている。この辞書は、1982年のアメリカ留学の時に、CMU(カーネギーメロン)大学の書店で平積みされていた。私はそれまで、この辞書は全く知らなかったが、手に取ってみると、写真(白黒写真)や図が多く、言葉の定義はみやすく、それに私が非常に重要視している語源部分がしっかりしていたので、ためらわずに買った。当時、1ドル=240円で、$14.95(3500円)であった。大きさといい体裁といい、前回紹介した F&W社のものとよく似ていた。(ただフォントは多少小ぶりなので、徐々に老眼が進む現在の私には少々きつくなりつつある。)アメリカには F&W社のものは持って行かなかったので、留学中はもっぱらこれを使っていた。AHD の本格バージョンのものは買わなかったが、分厚すぎて、片手で持てないので、読書には不便だと思う。F&W社との比較のため、arrogant の語源が載っている proud の項を下に示す。



学習辞典ではないものの、英米の本国人向けに、Usage や Synonyms などの説明コラムが充実している。このような説明は、やはり日本人では難しいだろうと感じる。この辞書が爆発的な人気を博したのは、語の定義が簡潔であるだけでなく、語源も含め、語彙全体に対する気配りが効いていた為だと私には思える。

さて、AHD はその後も何度かバージョンアップされている。(特に、写真やイラストは白黒からカラーに変わって非常に見栄えがするようになっている。)改定には多大な労力と費用が掛かっているが、残念ながら私は、この辞書に限らず、2000年以降の辞書はあまり買う必要性を感じない。それは、新しい辞書のウリは新語であるが、次々と作られ、定義も新たに追加されるので、新語はWeb上の辞書で調べるのが良い。また、用例は GoogleなどでWebを全文検索すれば、大抵は見つけることができる。

結局、私の場合は辞書は英語に限らず、最近でも買い増しすることはあっても、新しく出版された辞書を買うことは滅多にない。それで、すでに40年近く前に買ったこの辞書も今もずっと現役のままだ。

続く。。。
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想溢筆翔:(第406回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その249)』

2019-09-01 14:45:59 | 日記
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【348.格闘 】P.733、BC91年

『格闘』とは「手で組みあって戦う」と諸橋の大漢和は説明する。武器を使わず素手で戦うことが格闘という意味ということだ。受験勉強でたとえれば、本や参考書を使ってする勉強は「格闘」と言えるが、スマートフォンやPCなどの電子機器を使うのは格闘しているとは言えないということになろう。

中国の辞書の辞源(1987年版)を見ると素っ気なく「搏闘」と説明する。辞海(1978年版)では「互相闘撃也」(互いに、相い闘撃する)ともう少し字句が付け足されている。辞源の説明の「搏」は「手で打つ」ことなので、「格闘」の意味がわかるが、辞海の説明では「素手で」というニュアンスを窺うことはできない。

さて、日本では格闘と書くが、漢文では格鬬あるいは格鬥と書かれる。全て発音は同じ、通用字だ。「 格鬬(格闘)」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。

この表から格闘は大体、唐以降に本格的に使われた単語であると分かる。


さて、資治通鑑で格闘が使われている場面を見てみよう。

「巫蠱の獄」は前漢・武帝の時代に起きた最も痛ましい事件と言えよう。穏健で、孝行息子の戻太子(劉據)が江充の陰険な策略にはめられ、どうにも身動きが取れなくなり仕方なく、父帝に叛逆を企てた。しかし、軍事力の圧倒的な差で瞬く間に戻太子は追い詰められてしまった。

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戻太子は逃亡して、東方の湖という所に辿り着き、泉鳩里に隠れた。この村には貧しい男がいて、靴を売って稼いだ金で戻太子をかくまっていた。戻太子はこの湖には昔からの知人がいて、裕福な暮らしをしているということなので、人を送って呼びにやらせたところ、武帝の監視兵に見つかってしまった。

八月、武帝の兵たちが戻太子の隠れ家を取り囲んで捕まえようとした。戻太子は逃れきれないと覚悟を決め、部屋に入り、戸を閉めて首つり自殺した。山陽出身の張富昌という兵士が、扉を足蹴りにして部屋に入った。新安の村長の李寿が戻太子に駆け寄って、首に懸かっている縄をほどいた。隠れ家の主人公は格鬬のあげく殺されてしまった。戻太子の2人の孫も同時に殺されてしまった。武帝は戻太子の死を悼むと同時に、手柄をあげた李寿を邘侯に、また張富昌を題侯に任命した。

太子亡、東至湖、蔵匿泉鳩里;主人家貧、常売屨以給太子。太子有故人在湖、聞其富贍、使人呼之而発覚。

八月、辛亥。吏囲捕太子。太子自度不得脱、即入室距戸自経。山陽男子張富昌為卒、足蹋開戸、新安令史李寿趨抱解太子、主人公遂格鬬死、皇孫二人并皆遇害。上既傷太子、乃封李寿為邘侯、張富昌為題侯。
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戻太子は、たとえ江充にはめられたといっても、自分が張本人となり、乱を起こしたため、戦いやその巻き添えを食って何百人という兵士や庶民たちが死んでしまった責任を感じたのであろう、潔く自殺した。

ところで、中国では昔から庶民にも姓を持っていたことが分かる。例えば、ここで侯に封じられた李寿と張富昌というのは、名もなき兵士であったのだが、戻太子の最後の場面で活躍をしたために歴史のその名を留めることとなった。

続く。。。
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