(前回)
【350.危急 】P.3824、AD430年
『危急』とは「危険が目前に迫っている」情況のことをいう。試みに英語に直訳してみると「danger urgent」となるが、まさにその通りの意味だ。
さて、「危急」と類似の単語「緊急」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。
「危急」の初出が後漢書であることから、比較的新しい句であることが分かる。またこの表で目立つのは新唐書では全く使われていないことだ。新唐書は字数としては旧唐書より 15%程度すくないが、それでも総字数は170万文字ある(史記の3.5倍)。しかるにその中に一度も「危急」が使われていない!旧唐書には14回も現れているのだから、新唐書にゼロ回というのは意図的だと分かる。その理由は、新唐書は欧陽脩を始めとする宋の文人たちが旧唐書を、前漢以前の古文体で書きなおしたためである、と考えられよう。
さて、資治通鑑で「危急」が使われている場面を見てみよう。南北朝時代、北魏の大軍が宋(劉宋)の済南の城をを攻めた。城にはわずか数百人の守備隊しか残っていなかったので、まともに戦っては勝てる道理がない。太守の蕭承之は一かバチかの危ない賭けにでた。
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北魏の軍隊が済南の城を攻めた。済南の太守で武進出身の蕭承之は兵士数百人を率いて防衛した。しかし見ると、北魏は大人数の軍隊であった。蕭承之は城内の各所に兵隊を待ち伏せさせてから、城門を開くよう命じた。城内の皆、びっくりして言うには「敵は多く、味方は少ない。それなのにどうしてこんな危険な賭けにでるのか!」蕭承之が答えていうには「今や我々はどうしようもないせっぱつまった城にいる。自体はすでに危急だ。もし、ここで弱みを見せればかならずや皆殺しにされるだろう。だったら、一か八か強がってみせて相手を脅すしかない。」北魏の将軍たちは、城内に多くの待ち伏せ兵がいるのではないかと疑い、攻撃しないで去っていった。
魏兵攻済南、済南太守武進蕭承之帥数百人拒之。魏衆大集、承之使偃兵、開城門。衆曰:「賊衆我寡、柰何軽敵之甚!」承之曰:「今懸守窮城、事已危急;若復示弱、必為所屠、唯当見強以待之耳。」魏人疑有伏兵、遂引去。
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蕭承之のこの計略は「空城計」といい、過去にも何度か実戦例がある。さらに類似の例を探すと、司馬遷の『史記』巻109の李広将軍伝に載せられている次のような話が見つかる。
李広将軍が少人数で出撃し、匈奴の大軍に囲まれた時、わざと全員を馬から降りさせ、鞍をはずさせた。つまり逃げる意図がまるでないことを示した。匈奴は、李広将軍の部隊は囮で後ろに漢の大軍がいるのではないかと危ぶんで、攻撃してこなかった。
ちなみに、この度量のすわった将軍・蕭承之は、蕭道成の父親である。蕭道成は父と同じく宋の将軍であったが後に、南斉を建国した。
(続く。。。)
【350.危急 】P.3824、AD430年
『危急』とは「危険が目前に迫っている」情況のことをいう。試みに英語に直訳してみると「danger urgent」となるが、まさにその通りの意味だ。
さて、「危急」と類似の単語「緊急」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。
「危急」の初出が後漢書であることから、比較的新しい句であることが分かる。またこの表で目立つのは新唐書では全く使われていないことだ。新唐書は字数としては旧唐書より 15%程度すくないが、それでも総字数は170万文字ある(史記の3.5倍)。しかるにその中に一度も「危急」が使われていない!旧唐書には14回も現れているのだから、新唐書にゼロ回というのは意図的だと分かる。その理由は、新唐書は欧陽脩を始めとする宋の文人たちが旧唐書を、前漢以前の古文体で書きなおしたためである、と考えられよう。
さて、資治通鑑で「危急」が使われている場面を見てみよう。南北朝時代、北魏の大軍が宋(劉宋)の済南の城をを攻めた。城にはわずか数百人の守備隊しか残っていなかったので、まともに戦っては勝てる道理がない。太守の蕭承之は一かバチかの危ない賭けにでた。
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北魏の軍隊が済南の城を攻めた。済南の太守で武進出身の蕭承之は兵士数百人を率いて防衛した。しかし見ると、北魏は大人数の軍隊であった。蕭承之は城内の各所に兵隊を待ち伏せさせてから、城門を開くよう命じた。城内の皆、びっくりして言うには「敵は多く、味方は少ない。それなのにどうしてこんな危険な賭けにでるのか!」蕭承之が答えていうには「今や我々はどうしようもないせっぱつまった城にいる。自体はすでに危急だ。もし、ここで弱みを見せればかならずや皆殺しにされるだろう。だったら、一か八か強がってみせて相手を脅すしかない。」北魏の将軍たちは、城内に多くの待ち伏せ兵がいるのではないかと疑い、攻撃しないで去っていった。
魏兵攻済南、済南太守武進蕭承之帥数百人拒之。魏衆大集、承之使偃兵、開城門。衆曰:「賊衆我寡、柰何軽敵之甚!」承之曰:「今懸守窮城、事已危急;若復示弱、必為所屠、唯当見強以待之耳。」魏人疑有伏兵、遂引去。
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蕭承之のこの計略は「空城計」といい、過去にも何度か実戦例がある。さらに類似の例を探すと、司馬遷の『史記』巻109の李広将軍伝に載せられている次のような話が見つかる。
李広将軍が少人数で出撃し、匈奴の大軍に囲まれた時、わざと全員を馬から降りさせ、鞍をはずさせた。つまり逃げる意図がまるでないことを示した。匈奴は、李広将軍の部隊は囮で後ろに漢の大軍がいるのではないかと危ぶんで、攻撃してこなかった。
ちなみに、この度量のすわった将軍・蕭承之は、蕭道成の父親である。蕭道成は父と同じく宋の将軍であったが後に、南斉を建国した。
(続く。。。)