限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第449回目)『濁った泥水の上澄水だけを飲んで語る哲学者』

2024-05-12 13:27:30 | 日記
最近、新進の哲学者2人の対談本を読んで気にかかったことがあった。2人の学歴と職歴は立派で、Web上にもかなり情報が掲載されている、いわゆる「売れっ子学者」である。その内の一人は、哲学カフェを主宰し、市民に哲学を広める活動をしていて大学生だけでなく、社会人にも影響を与えている人だといえる。それだけに、本の内容というのではなく、その知識構成プロセスに疑問を感じたので、書いてみたい。

結論をいえば、「社会の一面だけを見て、哲学を語るなかれ」ということだ。

分かりやすい例で説明してみよう。
町の開業医を目指して修行している若者を考えてみよう。難関の医学部に入学し、医学の勉強に励んだ。ラテン語やギリシャ語由来の難しい医学用語を数多く覚ないといけなかった。とにかく、医学部では覚える項目が生半可ではない。毎日、数限りない術語と概念を記憶しないといけなかったが、若者は勤勉にそういった苦行を続けた。その甲斐あって、数年たつと、数多くの術語と概念をそらんじることができるようになった。しかし、実際の病人を診る機会は残念ながら、ほとんどなかった。(実際の医学部では、臨床実習も多いことなので、患者にも多く接していることだと思うが、今は、仮の話しとして患者に接する機会が無かったこととして話を進める。)

それで、医師免許を取って、いざ患者を診察すると、まったくとんちんかんな診察をしてしまった。術語や概念は山のように熟知しているが、実際の病気の症状との関連はまるで掴めていなかった。暫くの間は、それでも有名大学の医学部を優秀な成績で卒業したというので、人々が押しかけてきたが、その内全くのヤブ医者という悪評が広まり、とうとう誰も来なくなった。



この寓話から分かるように、いくら数多くの術語や概念を暗記していても、実際の患者を診ることなくしては、医術を身につけることはできないということだ。これと同様、世の中の理(ことわり)を論理的に究明する哲学者がまず知るべきことは、過去の哲学者の思想や概念ではなく、実物、つまり社会と人間、そのものである。社会や人間の多様性を自分自身で実体験する、あるいはそのような実体験のドキュメンタリーを数多く読むことで始めて、哲学者として思考を深めていく、スタート地点に立つことができるといっても過言ではない。

冒頭で、述べた「売れっ子学者」は、その対談本の中で、「世の中にそれほど悪い悪人はいない」かのような発言をしていた。全ての人間は、「売れっ子学者」自身からわずかに外延した範囲内に収まっていると錯覚している。つまり、全ての人間は、理性に基づいてして行動しているものと期待している。実際の世の中で発生している残酷なことをあまり注視していない。確かに、現在の日本では、残酷な行為を実際に眼にする機会はほとんどないだろう。逆にそれだからこそ、自分の経験に足りないことは、実際の出来事を記述した書物から取り出して来なければならない。

要は、哲学者だけでなく、人生を真剣に考えようとする人は、哲学書を読む前に、まずは、良質の歴史書、旅行記・滞在記などを読み、社会や人間の言動の幅広さを、極端な実例も含めて知る必要がある。結局、哲学とは、人間のさまざまな振舞い、行動を知ったあとで、統括的に考えるのが本来のあるべき姿であるはずだが、残念ながら、現在の哲学は単に、過去の哲学者の意見を論理的に理解し、解釈するだけに止まってしまっている。

私は、期せずして、若い頃に中国やギリシャ・ローマの歴史書に興味を惹かれて、社会と人間の行動に関する非常に幅広いバーチャル的な経験を積むことができた。その後、数多くの旅行記・滞在記はさらに輪をかけて幅広いバーチャル的な経験を得ることができた。リアル、バーチャルを問わず、幅広い経験はいわば泥水だ。その泥水の単なる上澄みの水だけを飲んだだけでは、泥水を飲んだとはならない。うわべの澄んだ水だけで、哲学を語ることは、全く無意味なことだと私は考える。
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